eraoftheheart

NHK「こころの時代〜宗教・人生〜」の文字起こしです

2022/11/27 悲しみを分かちあう-ミャンマー人と歩んだ30年- (再放送、初回放送:2021/12/5)

馬島浄圭:僧侶

ナレーター(以下「ナ」という):名古屋の住宅街の一角に異国情緒あふれる建物が建っています。パゴダと呼ばれるミャンマーの仏教の塔です。
 釈迦の住む家とされる神聖な場所。6年前に建てられて以来、ミャンマー人たちが祈りを捧げる聖地になっています。この日、パゴダの隣の集会所にミャンマー人が集まりました。
 持ち寄ったのは遠く離れた祖国で最近亡くなった家族や友人の写真、彼らの魂を鎮める慰霊祭が開かれます。お経を唱えるのは地元の僧侶、馬島浄圭さん、これまで30年以上ミャンマー人の支援を続けてきました。この慰霊祭を呼びかけたのも馬島さんです。
 ミャンマーは、インドシナ半島の西部に位置する国です。かつてはビルマと呼ばれていました。今年(2021年)2月ミャンマーで突如起きた軍によるクーデター、民主政権を率いるアウン・サン・スーチー氏を拘束し、軍が国を統治することを宣言しました。これに対して国民は抗議の声を上げます。しかし、軍は武力で鎮圧、これまでに命を落とした人は、1,000人以上に上ります。
 突然の死別で、傷ついた人々の心を癒したい、1人1人に祈りを捧げます。

馬島(以下「馬」という):穏やかな気持ちになれたと思います。これで明日からまたね、元気を出して、前へ進みましょう。

ナ:クーデターによって祖国に帰れなくなったミャンマー人にとって、パゴダはかけがえのない慰めの場になっています。 
 パゴダと同じ町内に、日蓮宗の妙本寺があります。馬島さんが住職を務める尼寺です。江戸時代に、近隣の大きな寺の末地として建てられました。明治時代から尼寺となり、代々養女として寺で育てられた女性によって受け継がれてきました。
 馬島さんは5代目の住職です、現在この寺を1人で守っています。日蓮宗の信徒の家を回り、月命日のお経を挙げるのが日課になっています。

ナ:こちらのお宅は代々の信徒です。若い頃から毎月馬島さんの訪問を受けてきました。

『信徒の方:浄圭さんが今までのずっと生い立ちからずっと考えてね、今ある姿を見てるとね、本当に頭が下がります。ここまで苦労して、苦労して、周りから見てると本当に立派な庵主さんになられたなと思ってます。本当に涙が出てきます』

ナ:馬島さんは、昭和28年名古屋市に生まれました。養女として寺に引き取られたのは、1歳の時です。

馬:一応、師匠から聞いてるのは、師匠がお月参りに伺ってました家庭、そこのお家で赤ん坊がいつも泣いてると。色々家庭事情を聞くと、その子供の赤ん坊の父親がもう再婚した方がいいと、するっていうような話も出てて、この孫の赤ちゃんがいると、再婚話が話が中々ね、進められないんじゃないかっていうことも、ちらっと話が出たりして、で、何回か伺ううちに、じゃあ、うちのお寺へもらえないかっていうことで、それでそしたら、2つ返事でいいということになって、当時は1歳と1ヶ月ぐらいで、寒い時期だったんじゃないかと思いますけど、後見人みたいな人を立てて、それで、妙本寺へ連れてきたというか、養女にするために、こちらに来たんだっていうことは聞いてますね。だから、お前はいらん子だったんだっていうことを言ってました師匠は、困ってたんだよってお前のお守りを。
 実家とはもう縁が切れてますね。なんていうのかな、ここへ来てからもうほとんど会ったことないし、だからここで居座るしかないみたいな。普通に庵主さんたち、2人の庵主さんが可愛がってくれた。ただ、若い師匠の方は手厳しかったですけど。隠居さんの方はすごい甘くって、、一緒に寝てたぐらいですから。
 だから、そういう愛情を手塩にかけて育ててはくれたんだと思います。だから、気持ちの中に何かひがんだりそういうことがなかったみたいですね。 
 小学校時代は結構おてんばで、元の俗名は圭子だもんで、お寺の圭子ちゃんで通ってましてね。なんか男の子と遊んでて、砂利の山があったんですね、そこからみんなが飛び降りてるんですよ。で、私も真似して飛び降りて、膝に傷を作ったっていう思い出も。だから、お前はもう傷をもう、本当に傷が絶えない子だって言って、そのぐらいおてんばだった。

ナ:高校卒業後、馬島さんは東京の立正大学に進学。翌年、育ててくれた師匠の意に沿って得度します。しかし、剃髪はしませんでした。

馬:師匠を手伝わないと、やっぱし自分をここまでしてくれたし、大変だってことはわかってたからね。
 ただ、普通の尼僧さんになることには、少しね抵抗がありましたね。私が入ったのは「補教」と言って、剃髪しなくていいコース、当時はそういうこともできたんですね。 だから、そこでいいから入ればいい。だから、私がその抵抗しないコースをちゃんと用意して入ったんですよね。 だから、その辺まではまだね、そんなこう自分でこの道しかないんだっていう思いで入ったわけじゃないですね。
 その当時、剃髪の尼僧さんはこの名古屋にはすごく多かったんですよ。で、私は1番若い。で、「どうして剃らないの?」ってみんなに言われました。 男のお坊さんからも言われました。「あなたは庵主さんのお寺のお弟子でしょう。どうして剃らないの?」ってことは、もうしょっちゅう言われました。だから次第に反発心が出てきましたね。なんか剃ってて頭丸めればお坊さんなのかっていう。なんか、そういう1つのね、なんて言うのかな、ものはありましたね。
 確かに仏教の中に形式から入るっていう宗派もあるんだけど、私の中にはなんかね、
なんか昔頭丸めると全てね、懺悔できるみたいな、なんか認められるみたいなものがあって、それの方がもっと安直じゃないかみたいなね、もうちょっと自分自身をこう極め、自分を試したい、試してみたいみたいな欲があったのかな。頭を丸めちゃうと、尼僧さんの場合は、行動範囲がすごく狭まるんですよ。社会に出ても、男性の場合は割とね、丸めてても背広着てあっち行ったり、こっち行ったりやっておられるんだけど、 尼僧さんの場合は、もうすごく行動半径は狭がりますよね。で、私はもうちょっと世の中見てみたいみたいなね、そういう欲がありましたね。

ナ:世の中との接点を持たないまま、仏の道に入ることに迷いがあった馬島さん。寺の務めを果たしながらも、自分らしく生きる道を探します。
 20代の頃は華道や茶道を習い、免状を取って寺で教室を開きました。

馬:まだ、その頃は見えてなかったと思いますね、本当に何がしたいとかね。ただ、いろんなことをやってみたいっていう。だけど、それがじゃあ自分の歩むべき本当の道かなっていうものは、どっかにあったかもしれませんね。

ナ:自分の歩むべき道は何か、馬島さんは広く社会に目を向けます。 
 30代になると、環境や人権などの問題に取り組む研究会に参加するようになりました。やがて、その仲間たちに誘われ、海外に飛び出す機会が訪れます。
 1990年馬島さんは、タイに渡りました。 世界の仏教者たちが集い、様々な問題について話し合う会議に参加したのです。その会議で、馬島さんはその後の人生を決定づける体験をします。
 
馬:そこで出会ったのが、ミャンマー人の弾圧を逃れて、 タイ国境を目指して逃げてきた学生やら、医者やら、お坊さんと出会ったんですね。その中で彼らがミャンマービルマの現状を訴えてた。その彼らのその姿勢っていうか、姿はすごく印象深かったですね。自分の
心の奥に届いたっていう感じでしたね。
 まずね、その目がすごい悲しみに満ちてた目がね、印象的でしたね。深い悲しみをたたえた、本当誰しもそうでしたね。その来てる、本当に大変な思いを背負って来てるなっていうのが実感できたんですね。言葉が通じるわけじゃないからね、ミャンマービルマ語ができるわけじゃ、コミュニケーションを取れるわけじゃないんだけど、ただ、通訳を通して色々聞く。彼らの言ってることに対しては、心に響いてきましたね。

ナ:この会議の2年前、ミャンマーでは歴史的な大事件が起きていました。
 当時の国名はビルマ、長らく独裁政権が続いていましたが、この年初めて国民による大規模な民主化運動が起こります。この時、アウン・サン・スーチー氏が初めて運動に加わり、民主化を象徴する人物になりました。
 ところが軍が武力で鎮圧、数千人の国民が殺されたと推定されています。翌年、軍政府は国名をミャンマーと変更しました。馬島さんが会議で出会ったミャンマー人たちも、こうした弾圧を受け、祖国から逃れてきた人々でした。 
 理不尽な状況に苦しむミャンマーの人たちにできることはないか、そんな中少数民族のパラウン族に出会いました。彼らは国境を越え、ミャンマーからタイの山岳地帯に逃げた人々です。山あいの土地で、貧しい暮らしを余儀なくされていました。
 馬島さんは、パラウン族が現金収入を得る手助けをしようと考えます。

『馬:これは、ミャンマー少数民族の1つのパラウン族の衣装ですね。こちらの方はもうちょっと日本人がちょっと着てくれそうな、全部ね』

ナ:そこで、現地の女性たちが織った布を日本に送ってもらい、寺で販売しました。日本人が気に入るように、バッグやマフラーのデザインを工夫してもらうと評判を呼びます。

『馬:顔写真がここにあります、この柄のはこの人が織りましたよ』

ナ:売り上げは全て布を織った女性たちに送りました。
 こうした支援を通して、彼らが置かれている状況が日本人と無関係ではないことに馬島さんは気づきます。

馬:まるっきり遠い存在みたいに見えるけれど、日本の発展の影で私たちが繁栄してる影で、その人たちの生活を犠牲にして、私たちが豊かになってるって側面があるんですね。で、それを知らしてくれたのが彼らですね。今少数民族が住んでる場所っていうのは、ダム開発だったり、それから、中国と、本当に中国からの大きな道路を引いたりとか、それから森林開発、森林の伐採がすごく盛んで、そういうこととかで本当にある意味、今の我々の先進国が資源とかを安く手に入れてるその背景にある問題ですよね。今の森林の伐採でも、チークとか、あるいは、ダム開発でも日本の電源会社がいってやってるし、だから、全くその無関係の問題じゃないんですね。で、そういうのを教えてくれましたね彼らは。だから、それをやはり知った以上、これは不平等ですよね、あまりにも仏教的な感じからいけばね。やっぱし、フェアになるためにはお返ししなくちゃいけない、こちらのね、せめてお金だけでもね、それで生活を豊かにしてほしいという、そういう思いも ありましたね。

ナ:コツコツとパラウン族の支援を続けていた馬島さんに大きな出会いが訪れます。当時、 軍の監視下に置かれ、同棲が知られていなかったアウン・サン・スーチー氏との面会に成功したのです。

馬:とにかく、スーチーさんがホームパーティーをする、で、世界のいろんなところから女性たちが訪問して、そのパーティーには参加するから、馬島さんも尼さんとして、参加してみませんか、みたいな声がかかったんですね、 本当にいろんな国から女性たちが参加して、交流会みたいなことするんだな、ぐらいしか思ってなかったです。
 行ってみて、ヤンゴンについてから、ちょっとこれは様子が違うと、行ってそのホテルで、あとノルウェー人の女性と、それからタイ人の学生さんと4人が合流できて、その2人が情報収集してたんですね、どういうタイミングで訪れるといいかっていうことをね、今は、なんかすごい監視が見張りが厳しくて、なかなかその合間を縫っていくのは本当に厳しいみたいで、でもなんとかして、あえ会いに行くんだみたいなことだったんですけど、もし、これ軍の方の見張りの人に捕まると大変だからっていうことで、なんか持ってた知人の名刺を全部ビリビリ破いて、トイレに捨ててたんですね。私は、そんなまだあんまりも持ってない身1つて行っていたから、そんなに大変なのかっていう感じで、それで当日を迎えたんです、今日行きますって。

取材者:行かれた時、スーチーさんはどんなご様子でいらっしゃいましたか?

馬:まず、なんかすごい薄暗かったんですねその部屋が、だから、どこにいらっしゃるかなって感じだったんだけど、とにかく、党員たち、NLD党員の若者とか女性たちがいて、まず拍手で出迎えてくれ で、その奥の方にスー・チーさんが立ってらっしゃったって感じですね。で、ニコやかに迎えていただいたと。
 行って、待てど暮らせど、4人しかいないわけです、訪問者は。ああ我々が訪問すること自体が今日の1つの目的だったんだっていうのに、そこで気付くんですね。だから、情報を託すっていうかね、今どんなことになってるかとかね、ただ私がしっかり分かったのは、その今の海外からの色んな投資、こういう軍政下で人々のところに潤っていかない海外投資っていうのは、全く意味をなさないから、そういう投資をもう一度考え直すように、日本に帰ったら、企業にそれを伝えてほしいっていうようなことをおっしゃった。
 それで、私がお会いしてきたんだから、スー・チーさんの気持ちを、やはり伝えないといけないっていう思いに駆られて、それで中日新聞に投書して会ってきたさまをちょっと書いたんですね、で、おっしゃってたこととかをね。そしたら、中日新聞が取り上げてくれて、1面で取り上げてくれましたね、トップ記事でね。

ナ:帰国後間もなく、馬島さんの記事と写真は新聞の紙面を飾りました。すると思いがけないことが起こります、馬島さんの元へ、名古屋で暮らすミャンマー人たちから、次々と連絡が入ったのです。

馬:ミンニョンさんっていう、その当時名大に留学してた方ですね。それで、日本では1番最初に名古屋で難民認定された方なんですけど、この方から電話がかかってきて、実はミャンマー人たちっていうのが、今民主化を促すために、様々な抗議活動でデモしたりっていう活動に取り組んでいると、名古屋でもそういうメンバーがいると、で、そういう人たちが、ビザが切れてると、みんなね88年から90年のかけての弾圧を避けて、日本へま逃げてきた、逃れてきた、多くの人は、そういう経緯を持ってると。ほとんどなんていうのかな。一般的に言うと、オーバーステイなのに動いてたんですね、いつ捕まって強制送還されても、不思議ではないみたいなね。 だから、まず、難民申請を手伝ってほしいってことでしたね。

ナ:難民認定とは、本国に帰ると、迫害を受ける恐れがある外国人に対して、 日本での永住許可を与える制度です、しかし、審査は非常に厳しいものでした。 
 1999年には、日本全体で260人の申請に対して認定された人はわずか16人でした。それでも、日本に逃げてくるミャンマー人が年々増えていました。馬島さんは彼らのために難民認定の申請の手伝いを始めます。その中でも、最も心に残っているのが、キン・マウン・ラさんだと言います。
 今では在留を許可され、放置自転車を安く買い取って、アジアの貧しい国に送る仕事をしています。

『キン・マウン・ラ:日本ではもうゴミだけど、やっぱり貧しい国行けば、これがすごく宝物ですね。貧しい人でも手が届く道具なんですよ。自転車1台あれば、子供って学校遠くても、 2時間3時間歩くところがもう30分で行けれちゃうんです』

ナ:キン・マウン・ラさんは、ミャンマー少数民族ロヒンギャの出身です。ミャンマーでは数少ないイスラム教徒の民族で、軍からの迫害はもちろん、仏教徒からも激しい差別を受けてきました。

『キン・マウン・ラ:少なくとも私のふるさとでは、軍と一緒に仏教の人でも、こういうもう普通に軍と同じやり方を、殺したり、レイプしたり、もうすごい言葉ではちょっと言いづらいぐらい、こういうひどいことをもう生まれつき経験してきたっていうことですね。 
 1988年にこの民主活動の時にいろんな活動やってで、それで、こう逮捕されて拷問を受けて、袋かぶされて、殴ったり蹴ったり、膝下に石を入れて、そこに膝だけを乗せて、これはねもうナイフで刺すよりも 痛いんですよ、最後にもうすごい怪我で入院したんですよ。
 で、そこの入院先からもうお金の力で、もうパスポートも作って、もう空港でもお金払って、そのままバンコクへ逃げたんですね。最初ヨーロッパとか行くと思っとったんですけど、たまたま日本に来る、こういう説明をしたブローカーがおって、日本にもちろん偽造パスポートで写真を入れ替えて、全部偽造パスポートで日本に来たんですね』

ナ:キン・マウン・ラさんは1992年に来日しました。以来、孤立無縁のまま、名古屋の町工場で働き続けました。しかし、2001年に不法滞在で捕まります。

『キン・マウン・ラ:入国管理局のところで、「もう国に帰りなさい」、でも、私は帰るところがないから、私は帰ることはできないんですけれども、でもその時でも難民申請することは僕はわからないんですよ。 そこで初めてこう馬島さんたちが加わって、この人ミャンマーに書いたら命が危ないから、この人は難民だよと、そこからがもう始まりですね、馬島さんとの出会いっていう』

ナ:キン・マウン・ラさんの難民認定は不許可となりました。それでも、彼がなんとか日本で暮らせるようにと、 馬島さんは裁判に訴える方法を選びます。

馬:頼ってくる以上、それに応えたいっていうかね、それはありましたね。必死でとにかく帰れないんだからっていう形でね、言ってくるか、来る人が目の前にいればね、そこは、ちゃんと受け止めないとっていう思いはありましたね。
ナ:裁判では、キン・マウン・ラさんが国に帰ると、命の危険があることを証明しなければなりませんでした。
 馬島さんは、毎日夜遅くまでキン・マウン・ラさんの話を聞き取り、書類にまとめて何度も裁判所に提出しました。4年に及ぶ裁判の末、キン・マウン・ラさんの主張が認められ、日本での在留が許可されました。
 キン・マウン・ラさんは、見ず知らずの自分を信用し、尽くしてくれる馬島さんに驚きを感じたと言います。

『キン・マウン・ラあの人の前には、全然、人、宗教、肌の色、民族とか、あの人の前には何もないんです。あの人の頭の中には真っ白なんですよ、あの人は、馬島さんは。
 あの人の心の中には、こう区別っていうのが、差別っていうのがないんですよ。本当に 僕仏教の人たちから色んな差別を受けて、仏教嫌いだったんですよ昔。でも馬島さんっていう仏教のお坊さんと出会って、やっぱりこれ宗教とか関係ないっていうことは馬島さんから僕勉強したんですね。
 自分の人生にもいろんな国に行って、いろんなところ、いろんな人と出会ってるんだけど、やっぱり馬島さんみたいな心の豊かな人間って、僕は会ったことないですね。

馬:少数民族難民の現場を何度もこの目で確認したりして、そういう本当に大変な生死をさまよっている状態の人たちを見てきてて、で、その1つの日本で難民申請した人たちは代弁者だと、その問題をやはりなんていうの、伝える大きな代弁者なんですね。申請者が増えて、認定者が増えれば、ビルマの問題っていうのは、結構一般の人にはわかりやすくなるだろうっていう思いが1つと、それから、やはり目の前にそうやって本当に苦しんでいる人がいるっていうことに対してね、自分にできることがあれば、関わっていこうという思いはありましたね。
 その苦を見る時は、こちらの私見を挟まないでその苦をきちっと認識するっていうことが必要ですよね。だから、自分の心を、自分の感想とか感情を入れないで、まず受け止めるっていう受け入れるってことからしないと、相手も心開いてくれないし、「同苦」って日蓮上人はおっしゃってるね。「苦を同じくする」っていうかね、自分もその立場に置くというかね、「同苦」の認識というかね、そこから始めたんですね。
 だから、それはどういうことかっていうと、苦しんでる人の立場に立つとか、その原因を取り除くことも、仏教の1つの教えですから。で、そういうのはたとえ政治であれ、宗教であれ、民族であれ、あるいは、差別の問題であれ、それを全部こう含んでるわけですよね。
 で、私がミャンマーの問題に出会ったのはそこだったんですね。 仏教の教えっていうのが試されるというかね、そういう現場に行けば、日蓮上人がおっしゃるその、「法華経を読め」と言うけれど、声に出して読めばいいのかっていうんじゃなくて、自分が苦しみを抱えてる人と関わって関係性を持って、その中で自分が何ができるか、どうその働きかけができるかっていうことを試行錯誤しながら関わっていく、その中から「法華経」が自分を通して 実現されていくっていう思いを持ってたんですね。

ナ:ミャンマー人と共に苦を分かち合う、それは仏教の心に通じていました。そうした姿勢は、1歳で寺の養女となった馬島さん自身の生い立ちと深く関わっています。

馬:小さい頃から、そういう感性は少し芽はあったかもしれませんね。人1倍そういうことに敏感な自分がいたかもしれませんね。 
 悲しんでる人や、苦しんでる人に対するその憐憫の情というか、そういう気持ちは多少
あったのかもしれません。自分の心の中に何か満たされないものがそこに、この人もこういうもの持ってるなっていう思いとこう共感したのかもしれませんね。そういう1つの琴線っていうかね、それが響くものがあったんでしょうね。おそらく、その根っこはそういう幼なくして、肉親の情に薄かった身が、それを特に感受性を持ってたかもしれませんね。本当に皆さん家族から離れてね、他国のところである意味、それぞれいろんな苦を抱えてたわけですからね。

ナ:名古屋のミャンマー人の心のより所になっているパゴダ。実は、馬島さんとミャンマー人が力を合わせて作り上げたものです。ミャンマーの言葉で、「ミッタディカパゴダ」、「慈しみの仏塔」と名付けられています。
 パゴダ建設の話が持ち上がったのは2012年、難民認定の支援を始めてから、10年ほど後のことでした。
 その頃、ミャンマーの軍事政権は、民主化へとかじを切っていました。新しい憲法選挙制度が整えられ、アウン・サン・スーチー氏が自宅軟禁から解放されます。
 2012年には国会議員に当選、ミャンマーに民主主義がもたらされることを多くの国民が信じ始めていました。
 
馬:2010年から12年にかけて、その民主化の方にかじが切られていく。アウン・サン・スーチーさんも解放されて、政治の表舞台に姿を現されるようになって、少しずつ民主化 の道が開けていくという状況になったんですね。それで、私も今までの活動に少しちょっとこうなんて言うのかな、ちょっと間を置きたいという時期があった。
 で、何かこう、自分でも自分のメモリアルのものが欲しいなということで、まずミャンマーからお釈迦様をお釈迦様の尊像を手に入れて、私共の妙本寺の本堂に1年半近く、畳の上に台を引いて置いてたんですね、そこにお祀りしてたんです。
 だけども、大理石でできてる真っ白のお釈迦様の尊像、坐像ですから、やっぱし重い、だんだん畳の方が沈むような感じもあったし、どう見てもやっぱしここのお寺では合わないなっていうものがあって、で、気づくと、今パゴダのある土地に私どもの土地があったということで、で、そこにじゃあこのお釈迦様をお祀りする、ちょっとしたお堂を作ろうかということで、 そんな思いでいたら、ミャンマー人の懇意にしてた女性が、じゃあミャンマーのパゴダ、それもマンダレーにあるクドードォパゴダの姿にしたお堂にしてほしい、したら?っていう提案をしてくれて、じゃあパゴダにしましょう、そういうパゴダを作りましょうって。

ナ:民主化が進むとともに留学生や技能実習生の若者が増え、日本で暮らすミャンマー人は 1万人近くになっていました。馬島さんは、彼らのためにもパゴダを作りたいと考えます。
 まず、建設資金を捻出するために、ミャンマー人に声を掛けて寄付を募り、 現地から大理石でできた壁や彫刻の部品を送ってもらいました。
 さらに、寺の信徒の建築士に工事を依頼、3年の歳月をかけてパゴダが完成しました。
以来、ミャンマー人の祈りの場として大切にされています。
 パゴダの建設とともに、隣にはゲストハウスが建てられました。一緒に食事をしたり、顔を突き合わせて相談をしたり、様々な世代のミャンマー人が集い、交流する場所として活用されています。
 この日は毎日忙しく働いている若者のために、懐かしい郷土料理が振る舞われました。

馬:自分たちのアイデンティティを確認する場にはなってると思いますね。パゴダを通じてね、仏教徒であり、 ミャンマー人であるっていうね、そういうルーツというかね、それを確認する場にはなってると思いますね。
 全てのことをこうなんていうの、日本でのいろんなことをね、もうこう無にして、ひたすら祈れる場所にはなってると思いますね。様々な、日本で生活するには、障害とか問題を抱えてますからね彼らは、それは日本人でもそれはありますけど、だから、そういう人たちがパゴダでこうお参りしてる。その時だけはそんなことを全部こう空にして、素の自分に変えて、子供みたいな気持ちで参ってるっていう、そういうことですね。そういう自分を、そこでは確認しているっていうようなことも聞きましたね。 何も考えないで、ここでひたすらお祈りする、それで、心が現れたようなね、気持ちになるんだって。

ナ:ところが今、またミャンマーに危機が訪れています。今年(2021年)2月軍がクーデターを決行、抗議する国民を武力で鎮圧しました。
 日本で暮らすミャンマー人たちも繰り返しデモ行進を行い、日本人に民主派への協力を呼び掛けています。
 馬島さんはミャンマーに帰っている知り合いの身を案じ、連絡を取り合っています。

『取材者:今の方は、馬島さんとどういう、もともとお知り合いっていいますか、、、
馬:長い付き合いがある子ですね、それで、ずっとこう一緒に支援活動してますね。自分の身の危険を、本当にいつもいつもそのリスクと隣り合わせでね。だから、ちょっとあんまり詳しいことが言えませんね。
取材者:もともと名古屋にいらっしゃって、
馬:そういう情報もあまり、もう何もこれ以上は
取材者:わかりました、ありがとうございます』

ナ:10月31日パゴダ建設以来、毎年行われてきた最大の行事、灯明祭の日がやってきました。
 祖国で大勢の人が亡くなっているのに、祭りを行うのは不謹慎ではないかとの意見もありました。しかし、そういう今だからこそ、祖国へ祈りを捧げたいと開催が決まりました。
ミャンマーの言い伝えでは、10月の満月の夜にお釈迦様が、この世に帰ってくると言います。 灯明祭では、精一杯のご馳走でお釈迦様をもてなすのが習わしです。 例年は、みんなで食事を共にしていました。しかし、今年はお祈りを主とし、料理は持ち帰ることにしました。
 パゴダに続々とミャンマー人が集まります、県外で暮らす若者たちもこの日ばかりは、誘い合わせてやってきました。日が暮れる頃には100人余りのミャンマー人が集まりました。祖国への思いを込めて、みんなで祈りを捧げます。
 ミャンマー人と共に歩んできた長い歳月、それが僧侶としての馬島さんを磨き上げました。

馬:ミャンマーの問題に関わると共に色々縛りが解けましたね。理想としてのこうなんか、 立場とか、日本の僧侶としての立場とか、そういうものを全部1つ1つほどけてって、本来の自分の心のままに動けるようになってきましたね。それは、いろんな人との出会いで揉まれ、鍛えられてきたんだと思いますね。
 私なりに、本当にそれが修行だったと思います。ミャンマー少数民族の難民キャンプだったり、あるいは避難民の姿だったり、あるいは弾圧を逃れてミャンマーから来てる人たちのそういう問題意識っていうかね、そういうものに学ばせてもらうというか、それを共感したり、そういう自分で鍛えてもらったっていう思いもありますね。
 しかも、ミャンマーの場合は、やはり本当にそういう人々が苦しんでることに対して、僧侶として、何ができるかっていうことで、行政にものを申したり、抗議したりっていうお坊さんも多数見えました。で、そういうお坊さんの考え方にも刺激されましたね。
 それは別に政治だから関わっちゃいけないとか、なんていうのかな、外国人の問題だから、関わっちゃいけないとかって、そういう線引きがあるわけじゃないんですね。お坊さんだったり、全部全部やっぱし抱え込まないといけないと思うんですね。それが苦の現実ですからね、その現実を避けることはできない、見つめ続けることによってしか本当は悟りは得られないんですよね実際は。
 そういう現場をやっぱし経験させていただいたのはありがたかったと思いますね。多分、 それが私にとってのお曼荼羅の世界だったと思います。そこに、本仏はおられたと思います。

ナ:祭りの最後には、馬島さんへミャンマー人からの感謝を伝えるセレモニーが行われました。
 在日ミャンマー人の2世として、日本で生まれ育った子供たちがお礼の言葉を述べます。

『子供①:こんにちは馬島さん、馬島さんは、僕が生まれる前から僕の父や母、困っているミャンマー人たちを世話してくれていました。 
 名古屋に馬島さんがいてくれたので、日本のことが何もわからない多くのミャンマー人たちが助けられました。今、こうして僕たちが集まっているのも、馬島さんのおかげです。
子供②:ミッタディカパゴダが名古屋にあることがどれだけミャンマー人にとって、心強いことか感謝してもしきれません、これからも私たちを見守っていてください。
馬:なんかびっくりして言葉が出ません。なんか、こんなにたくさんの私の大事な大事な子供や孫がいっぱいいるって感じです。
 日本のお母さん、おばあさんとして、これからもよろしくお願いいたします。役に立てれば長生きしたいと思います。
 今は本当にミャンマー国内が大変な状況です。少しでも良くなるように、私も陰ながら 皆さんの力になりたいと思います。なんでも言ってきてください』

NHK「100分de名著」ブックス 法華経: 誰でもブッダになれる