eraoftheheart

NHK「こころの時代〜宗教・人生〜」の文字起こしです

2022/10/16 シリーズ 「問われる宗教と"カルト"」後編 宗教といかに向き合うか

島薗進宗教学者

小原克博:牧師、宗教学者

櫻井義秀:宗教学者

若松英輔:批評家、随筆家

川島堅二:牧師、宗教学者

釈徹宗:僧侶、宗教学者

 

島薗(以下「島」という):皆さんこんにちは。「こころの時代」2回のシリーズで「問われる宗教とカルト」ということで話し合いを行っております。
 この第2回目後半になるわけですが「どう宗教と向き合うべきか」という、そもそも宗教は何かという、これ前半でもそういう発言が度々ありましたけどもよりそこに焦点を合わせる、それから、また日本において日本人と宗教という点からどういうことを考えなきゃならないのか。また更に、現代人にとっての宗教というようなね、これは宗教の未来ということにもつながりますけれども、この辺りに焦点を当てて話をしていきたいと思っております。

 現代というのは宗教離れの時代ではないか、日本人といえば日本人は無宗教だと、そういうふうに思っている方も多いと思うんですが、それ実際はどうなのと、今後はどうなるの、ほんとに宗教離れということがこれからも進んでいくんでしょうか。
 と同時にそういう状況の中で宗教集団というのはですね、マスコミで報道される時は困った存在、被害を及ぼす存在、何か問題を起こすものとして現れてくるわけですけれども、これは実際あるのかどうなのか。今ある宗教は何か宗教集団劣化しているんじゃないかと、そういうふうにも見えるかと思います。その辺りについてまず釈さんの方からお話を頂ければと思います。

 

釈:「宗教離れと宗教集団の劣化」というお題を頂いたんですが、カルト宗教について我々議論を進めてきましたが、一方で伝統宗教というものについても考えてみようということだと思います。
 伝統教団の方に目を向けますと、例えば神社神道にしても伝統仏教教団にしても、やはり求心力が落ちてるのは間違いないと思いますし、形成している母集団だってどんどん脆弱になっている。そういう意味で宗教離れと宗教集団の劣化ということだと思いますし、キリスト教教団にしても大変な高齢化が進んでいるという状況です。
 また新宗教を考えても、近代化や高度成長で大変教勢を拡大した教団ですね、例えば、天理教とか立正佼成会にしても段々と縮小傾向にあるようですし、高度成長の申し子というべき創価学会だって、宗教教団としては縮小傾向にあると言えるかと思います。
 いずれもこの社会の形態、あるいは、就業形態の変化、地域コミュニティーの解体、家族形態の変化というものが大きく影響していると思います。伝統教団に至ってはもう旧来の地域コミュニティーや家族形態の上に乗っかってず~っとやってきたので、ベースが形が変わればもう好むと好まざるとに関わらず転換期を迎えるという。
 そもそも伝統教団って図体がでかいのでフットワーク鈍いんですよね。やっぱり新しい教団というのはすごく人々の思いにビビッドに沿うことができるっていう面もあると思います。
 現場の宗教者の意見で言わせて頂くと、やはりこの宗教の住んでいる時間は、社会の時間とちょっとずれるといいますか、かなりゆっくりと流れているところがあって、だからそういう意味では社会の次々と起こる変化に対していちいち対応するっていうふうにはなってないと思います。逆に言えば、変わらないから安心できるとか、変わらないところが大切っていう面も実感する時はあります。ありますが、先細りにどんどんなっていってるのはもう間違いないというふうに思うんですね。

 

島:後半と言いますか、2回目は島薗が進行役みたいになってますので1回目小原さんが進行して下さって自分が言いたいことがあまり言えなかったんじゃないかなと思うのでいかがでしょうか。

 

小原(以下「小」という):はいそうですね、日本社会に限定して考えると、今もう釈さんが言われたとおりだと思うんですね。私達は日本社会が無宗教的だというふうに言われても、まっそうですよねというふうに納得できるような現実を持っています。
 しかし日本社会のフィルターで世界もそうなってるんだというふうに見てしまうとこれ多分間違えだと思うんですよ。日本社会と非常に似たような状況になっている地域とか国もたくさんあります。
 例えば1つはヨーロッパだと思うんですよね。かつてもうキリスト教世界の中心を担ったところで、今も立派な教会たくさんあります。ところが立派な教会もう200人も300人も入れるような教会に日曜日行くと、前の方に本当にご高齢の方が20人か30人だけ座ってるみたいなこと全然珍しくはないです。
 これをですね、よく学問の世界では「世俗化」というふうに言ったりしますが、ヨーロッパはやっぱり世俗化が進んで、キリスト教の力がほんとに落ちていってると、そういうふうに一方で言うこともできます。
 ヨーロッパでは今少し停滞気味なんですけども、その宗教の成長点というのはですねどんどんやっぱり移動してると思うんですよ。実際のかつてのキリスト教というのは、西洋の宗教というふうによく言われました。日本でもそのように信じられてきたんですが、人口比だけでいうと今のキリスト教人口全体でですね世界人口のだいたい3分の1強あるんですが、その3分の1強あるキリスト教徒の半分以上はですねもうはや西洋に住んでいないんです。ですから人口の点だけでいうと、もはやキリスト教は西洋の宗教ではないんですよね。中心点、成長点が移動してきてるからです。じゃあどこで成長してるのかというと、アジアとかアフリカなんですよ。

 ですから、ヨーロッパでは何かこう残骸のように教会が見えるぐらいですね、本当にこの世俗化しているかもしれませんけれども、しかし、アジアとかアフリカ、更に言うと最近のラテンアメリカではですね、形を変えながらやっぱり急成長をしている部分もありますので、見る場所を変えると、確かにその一方では衰えてるように見えるけれども、他方まだまだ伸びてるところがあると。
 そして、成長してるところではなぜ成長しているのか、多分ね理由があると思うんですよ。これ実際キリスト教の場合にも地域社会のニーズにしっかりと応えて、そこでですねグーッとやっぱり根を張っていく。それによって新しい教会が生まれたり、それから、かつてはカトリックであったラテンアメリカプロテスタントの教会がどんどん増えていったりみたいなですね、カトリックからするとあまり聞きたくないような状況なんですけど、それが実際起こってるんですよね。
 ですから決して固定的ではないと。特に現在はですね、カルトも含めその宗教活動というのはグローバル化してるわけですよ。ですからもう国境を簡単に超えてですね、いろんなとこで活動してますので国内の問題であったとしても、国内問題だけに目を奪われるのではなくて、今世界で何が起こっているのかということにですね、我々やっぱり関心を持ち続ける必要があるだろうというふうに思いますね。

 

釈:日本でも南米のキリスト教教会ってたくさん今随所にできてて、月曜日から土曜日まで一生懸命日本社会で働いている南米からやって来た人達が日曜日になると教会に集まる。そこに行けば母国の言葉でお説教が聞けて、母国の言葉で歌を歌って、母国の食事をしてつながりを実感して、で月曜日からまた一生懸命働くっていう。ああ人間の暮らしにはこういう宗教的な場必要なんだなっていうのを実感させてくれるようなところがたくさんできています。

 

小:今の例はですね日本社会の今後を考えるうえでも、非常に大事だと思うんですけども。コロナが明けてですね、移民、移民と言いませんけども外国人労働者の受け入れがですねこれからこうもっともっと増えてくると、その人達が日本社会でどういう居場所を見つけるかってすごく大事な課題なんですよね。
 そこでやっぱり1つまずデータとしてあるのは、日本人のカトリック信徒の数というのはやっぱり減ってきているんですよ。ところが総数としては一定しているんです。何が補っているかというと外国人のカトリック信者が日本でやっぱり増えているので一定になっているんですよね。
 実際カトリック教会、大きい教会はもう1日に数回ミサをしますが、外国人だけのミサもあります。例えばフィリピン人だけのミサとかブラジル人だけというですね。そこに行くともうすごい中々日常では考えられないぐらいの熱気で、フィリピンの方だったら歌って踊って、場合によっては太鼓を叩いてみたいなですね。そしてそこでは礼拝を、ミサを共にするというだけじゃなくて情報交換の場になってるんですよ。生きるのに必要なまさにハブになっている、教会が。
 そういうですね役割を日本社会で果たしているとするならば、もともと住んでいた日本人にとってだけではなくて新しく来ているその外国人の方々にとってですね、やっぱり教会が非常に重要な役割を果たしているということをですね私やっぱり感じることがあるんですよね。

 

釈:そこはほんとにカトリックの優れたところというか、世界統一規格的なところがあって、どこで暮らしてもカトリック教会に行けばいいという、大変うらやましいものを持っておられるんですが。でも、日本のカトリックの教会で神父さんにお話を聞いたりすると、日本のカトリックの人達はだんだん高齢化して、やっぱりどっちかというとアッパークラスというか、教養人的な人達のクラスが多い。
 ところが、やって来ているカトリックの人達は労働者階級の人が多くて、それが中々うまくこう受け入れてもらえないっていう齟齬が、この溝をどう埋めるかって大変苦労しているというお話を聞いたりもします。

 

若松(以下「若」という):まあカトリック教会もそうなんですけどね、今の問題で僕もう1つちょっと別の角度から考えてみたいなと思うのは、その宗教が力を持つっていう時にその拡張ですよね、拡張の規模によってその勢力を図ると。もちろん1つの視座としてあると思うんですけれども、やはりその宗教がほんとの意味で深くなっていく、だから宗教が普通の社会的現象と同じではないのは、拡張そのものがその価値の深化とは必ずしも一致しない。
 だから、その拡張することによってその宗教が実は終わりの始まりを告げてきたというのはいくらも事例があるんだと思うんですよ。私達は今宗教というのがこう縮小していくように見える。縮小していくように見えるんだけれども、今我々がここで深化、深まる方向に舵を切れるかどうかということが、やっぱりとても重要なんだと思うんですね。
 ですので、世界でいろんな拡張の現象、エクスパンションの現象があるんですけども、それが本当に何でしょうか、意味深く持続的なものかどうかというのはやはりもう1回考えてみなくてはならなくて。
 今我々が一見縮小してるように見えるんだけども、我々がこう縮小することによって初めて見えてくる、自分達のある意味での至らなさ、拙さ、あるいはもう一つ、ちょっとこれテレビで見てる人にあれですけど、傲慢というのも見えてくるんだと思うんです。自分達やはりそのある傲慢さを持ってたんじゃないか。自分達の価値観というものがもうやっぱり唯一のもので、それに合う人達に向けてだけ言葉を出してきたんじゃないかということもやっぱり考えていくことができる。
 もし僕は劣化という言葉がどういう意味合いかちょっとあれですけども、劣化という罠から我々がこおう脱していくためには、やっぱりそういう自分達をもう少し深いところから捉え直すということが、どうしても不可欠だなというふうに思うんですよね。

 

島:櫻井さんアジアの他の地域もいろいろ見ておられるので、ちょっと西洋と日本という観点にどうしても我々は引きずられるところがあるんですが、櫻井さんの観点からはいかがでしょうかね。

 

櫻:東アジアにしても東南アジアにしてもですね、宗教団体あるいはその宗教文化の活動というのは非常に活発ですね。
 一番顕著な例というのは中国だと思うんですよね。中国はその宗教団体に関しては宗教事務条例という形で行政的にもうガチガチにその管理してるわけですよ。しかしその中でですね、キリスト教会の伸長率というのは目覚ましいものがあって、恐らくアジアの中でのキリスト教人口というのは、韓国を抜いて中国が一番多くなるんじゃないかというこういう予想もあるわけですよね。
 ですから、その宗教というのは非常にその信教の自由を享受できるような日本社会だと弱くなり、すごくその統制下にあるようなところだと強くなる。これチベット仏教もそうですよね。ダライ・ラマ14世がその亡命してですね、世界中をまあ経巡るしかなくなった状況の中で一民族宗教世界宗教化しているという現象があるので。
 ですから、そういう意味で宗教運動というか宗教文化というのは、地域とかあるいはもうちょっと歴史的なスパンで見ていくとですね、面白い要素があるんじゃないかなというふうに思っております。

 

島:私がですね今年の3月で辞めたんですが、9年間上智大学グリーフケア研究所というところで所長してたんですがね、そこには毎年数十人、100人にはいかないけれどもそのぐらいの人が社会人なんですね、平均年齢は40代後半から50代という感じなんですが、そういう方が学びに来る。
 グリーフケアというのは何かというと喪失、大事なものを失った辛さから何かを学んでいくということなので、そこにはスピリチュアリティという宗教に通じる何かが必ず関わってくるわけなんですね。そしてケアの仕事に就いている方が多い、看護師とかですね人の世話をするそういう方にとっては、そのスピリチュアリティ、宗教に通じる何かは非常に身近だというそういうことがあるように思うんですね。ということは、宗教教団というところには宗教性が見にくくなっていて、そういうそうでないところにかえって宗教的なものを求める、そういう傾向もあるんじゃないかと思うんですが、その辺りはいかがでしょうか。

 

釈:例えばですね、NHK放送文化研究所が5年に一度、日本人の意識構造というデータ結果を発表していて、45年間ず~っと定点観測しているんです。日本人の宗教意識調査を見ると実はそんなに変わってないですよね。これ年代別にもあるいは性別にもず~っと分けてデータ解析しているんですが、この45年間それほど日本人の宗教心というのは大きな差がない。
 二度ほど大きな変化があったのは70年代の精神世界ブームの時に新宗教の人がバーっと上がって、90年代のカルト事件続発の時にバーっと離れたという2回凸凹があるだけで45年ほとんど変わってないんですね。むしろ若年層の占いとか生まれ変わりとかこちらの方は上がってるんです。
 でも一方で、今島薗さんがおっしゃったように教団離れ、宗派離れというのは一気に進んでまして、45年でずっと急速に減っているのは経典とか聖典に関する親しみ、あるいは、各宗教の教えに対する親しみというのは、どんどん減ってるというそういう状況あると思います。

 

川:多分関連があると思うので少し話してみたいんですが、先程宗教の劣化とかそうすると数が減っていく、衰弱していく、だけど若松さんが、いや数の問題、拡張、その劣化の反対は拡張ではなくて深化というふうに言われました。その深化はじゃあ具体的にどういう形があるんだろうかっていうところにちょっとつなげた話なんですけれども。
 もう何年か前に私ある仏教系の新宗教に講師で招かれたその幹部達に、実はこれから我が教団は外国に、すごいキリスト教世界に打って出たいんだと、ついてはキリスト教について学びたいと。なので5回キリスト教とは何ぞやという話をしてほしいというので、招かれたんです。ほんと驚いたんです。
 逆の立場に立ってみて、これから仏教の国へキリスト教を宣教するから、じゃあ仏教のそういう専門家を招いて、仏教の僧侶を招いて仏教を学ぶだけの元気が日本基督教団にあるかといった場合に、いや全くそういう機運ないなと思ったんですよね。
 ですから、そこまで実際足運んでみてその教団に、本当にいい意味で怖いって本当思いました、宗教が生きているって。これから今大体70万人、80万人くらいの信徒なんだけれども、恐らく更に伸びるだろうなという勢いを感じましたね。
 ですからそういう、やはり劣化していない逆の場合には、外に学ぶっていうそういうことができるんですよ。余裕、いい意味での余裕ですよね。そういう謙虚さと言ってもいいかもしれません。同じ教団の中で他宗教に詳しい専門家を招くというのではなくて、もろ、その人を呼んで、学ぼうというところ、それが一点ですね。
 もう1つは、その後調べて分かったんだけれども、その教団に入るためには、その依然に持ってた宗教を捨てる必要がない。これはキリスト教では多分ありえないことで、洗礼を受けるからには依然の団体とは縁を切って下さいねっていう、仏教からキリスト教へとか改心、改宗っていう儀式って結構厳格に今でもあると思うんだけれども、いやいやそのままでいいですよと、だからこっちもやって下さいっていうそういう在り方と、それから脱会の規定がはっきりしてる。脱会というのかな、やめる規定がはっきりしてるんですね。我が教団を振り返ってみると、一回洗礼を受けたらこれもう一生もので、まあカトリックもそうだとは思うんですが、取り消しがきかないんですよね、サクラメントというもの。だけれどもやめる場合にはどうするという規定がはっきりしていると。
 だからまあその辺りにこれからの何か新しい宗教の在り方の、つまり他に学ぶ謙虚さ、それからあれかこれかではない二者択一を迫らない在り方、そしてやめたい場合にはやめる手続が明示されているっていう、すごく中々伝統教団でやるのはもう長い神学の歴史がありますから難しいんだけれども、何かちょっとヒントになるものを感じましたね。

 

島:今回の統一教会の問題は、その宗教集団が異様な行動をとるということ、そちらの問題と共に政治家がですね、これでいいのかと。前回も宗教を利用する政治ということが話題になりましたけれども、そういうことが政治家にとっては何ら恥じることではないと、当然のことでしょうと。選挙の時に協力してもらうのは当たり前のことでしょうと、こういうふうな捉え方をしている人が多い。それについて有効な反論というのもすぐに出てこない、これはどういうことなんだろうかと。
 その辺のことについてですね、小原さん、宗教と政治の関係が相当歪になっているということがあらわになったんじゃないか、その辺りについてどういうふうに考えているでしょうかね。

 

小:政治と宗教の関係をまずここでは日本社会に即して多分考えていくことになると思います。
 日本はですね、日本の中でいわゆる信教の自由というものがですね議論され始めたのは明治期、明示以降になってからなんですけれども、明治の最初に岩倉使節団などがこうず~っとヨーロッパ諸国を回ってアメリカも含めて回っていくんですよね、そこで今後の日本の国づくりにどこの国がモデルになるんだろうかということで、ず~っと模索していく中で最終的にたどり着いたのはドイツなんですよ。ですから大日本帝国憲法などもドイツをモデルにしています。
 ドイツを見ると、皇帝がいて、それでその皇帝をですね、ドイツですからルター派教会がガチっとですね下から支えてくれている。そういうようなですねいわばその政治体制と宗教界がですねこう一体となっている、あっこれは使えるんではないかということを岩倉使節団は感じ取ったわけです。
 ですからドイツにおけるいわゆる政治神学というようなものを日本にこう移植したのがですね、まあ移植だけじゃないんですけど、天皇を中心とした国家づくりのためにですね1つのモデルとなったのがやっぱりドイツなんですよね。そして、ちょっと私達がここで考えるべきことの1つは、国とは何なのか、特に近代国家は何なのかっていうことを考える時に宗教という要素は絶対抜けないんですよ。
 近代国家になってまず整備されたのは徴兵制です、常備軍をですね、作る。そして戦争があったらですねたくさんの若者が死にます。その若者を弔う国立墓地もですねやっぱりできてくるんですよ。そして墓地を作るだけじゃなくって追悼の儀礼をします、国家が追悼の儀礼をする。そういう中で国葬ということも頻繁に行われるようになりました。国家のために命をなげうった英雄に対して盛大なる儀式を行うことによって国威高揚っていうことをですねしてきたんですよね。
 ですからかつてであれば弔うっていうですねこれは極めて宗教的な儀礼です、これは教会が担っていたんですよ。しかしそれを国家が担うようになって、まさにそれが近代国家の形成の中に組み込まれていったんですよね。で、その形態っていうのは、日本にも引き継がれてきますで、戦後どうなったかってことです。 再生とか政教地的な日本のですね、政教関係ってものが一旦戦争によって終止符を打たれ、そして日本国憲法で、二十条で政教分離っていうことがうたわれました。
 ですから、我々はかつての政教一致から政教分離へとですね、一夜に移行したみたいな感じで、戦前戦後の断絶っていうものが非常に大きい変化がですね、非常に大きいという風に感じがちなんですけども、 私自身ですね、ちょっと今こう色々考えていくと、そのそれほどですね断絶は大きくなくて、むしろ連続性の方が残ってるんじゃないかと。戦前、日本が持っていったものが今もですね日本社会に引き継がれてきてるんじゃないかっていうことを我々、やっぱ考えるべきではないかっていうことをですね思います。 

 今ですね、今っていうか、これから自民党憲法改正ということをですね。だんだんと声を上げていくと思いますが、 かなり前にもうすでに憲法改正草案を作っています。二十条を改正してるんですよ。
 国家がですね、宗教的な行事やってはいけないっていう風に確かにうたってるんですが、そこに正し書きがついていて、ただし、この習俗とかですね。それに関わるものは、その限りではないという形で、例外事項を設けているんですよね。 

 つまり、そういったとこから透けて見えるのは宗教と政治っていうのは、結構あのなんていうんかな、うまく、その通じ合うような関係を残しておきたいっていうようなことです。 

で、そういったものがですね、今に至ってるんじゃないかなっていう気はしますので、はい、そこをやはりあの我々は考えるべきではないかなと思いますね。

 

島:統一教会問題で政治が宗教を利用するっていうことの、非常に醜い歪んだものが見えてきたんだけど、今のお話を聞くと、実は近代国家の中にもそれが宿っていて、日本の場合も、そういう目で近代史を見なくちゃならないのかな、というふうなことですが。


櫻:宗教と政治の関係、切り離せないってのは全くその通りですし。小原さんのお話を受けて端的にですね、その宗教団体が政治に、戦後どういう風に介入してくるのかっていうことは、私、あの3つほど累型があると思います。
  昭和20年代であればですね伝統仏教教団とか、その新宗教教団が直接的にですね、宗教的な指導者を政界に送り込むってやってたわけですよね。 

しかし、あまりにその少数なんで会派を結成できないし、質問時間等々割り当てられないってことでですね、今度は、その自分達の意を組んでくれる政治家をその支援する、後援するってやり方に切り替えたんですね、これ、第1の累型に今も続いております。

 第2の累計が、直接教団が拡大していけばですね、政治家を送り込めるだけのですね、そのパワーを持つという、これはあの創価学会、その公明党の例です。
 で、統一協会はですねこの2つの類型とは全く違っていて、 それほど教団はもう拡張できない、これはまあ、非常に特異な教説とですね。あの、宣教戦略を持ってるから、それは分かってるわけですね。

 しかし、その政治家の懐に飛び込みながらですね、ある種その隠された形で権力行為を行うという、こういうことをやってきたんですね、で、ここはその国民の目にですねなかなか触れなかったっていうところがあって、 あの長らくですね、その政治と宗教の問題を考える際に、この第3の累計については私達ですね十分考慮してこなかったんじゃないかな、という風に思っております。

 

島:今伺った話は、どれもあんまり明るくないなという感じがするんですけど、つまり、宗教と政治の関係というのは、結局政治に従属するしか道がないのかというと、おそらく皆さんはそうではないと考えていらっしゃると思うので。

 

若:いいんですか。やっぱりその政治ができることと、宗教ができることっていうものを我々やっぱりもう一度ちゃんと考え直す必要があるんだと思うんですよね。 

 やはり、私達がその宗教が政治化していくということの恐ろしさっていうのは、我々何度か経験した。
 で、あるいはですね、政治が宗教化していく、この恐ろしさってのは、もう我々はもうとてつもない形で経験してる。で、やっぱりそのある緊張関係を持つってことが、やっぱりその政治と宗教の間になくなってしまうと、私達はとても悲劇的な出来事を経験することになるんだろうと思うんですよ。

 で、そのやっぱり政治の独特な、本当に政治に託されていること、そして宗教に託されてるということを、政治家はやはり考えてほしいし、宗教者は考えてほしいんですよね。宗教とは本当にやらなきゃいけないことはなんなのか。
 例えば、私達はもう東日本大震災というとっても大きな危機をやっぱり我々経験した。例えば政治家はですね、物資を送ることができる。ですけども、私達が誰か本当に苦しんでる人に心に寄り添うのが、行政の仕事かというとそれはないんですよ。 やっぱり宗教者は、我々は本当に苦しいものを心に折り添わなきゃいけなかったのに、もしかしたらですよ、我々宗教者もまた物資を送ったのかもしれない。
 そういうなんか、もうちょっと我々は日常的なところから、宗教者独自の役割というものをやっぱり考えないと。やっぱ緊張関係を保つことができない。

 政治のパワーっていうものと、やっぱその宗教の力ってものは全然違うんだと思うんですよ。 英語で、そのパワーとフォースとストレングスって何かね、英語ではちゃんと使い分けてるんですけども、政治のパワーにいろんなものが飲み込まれてるってのが、今僕、日本の現状なんだと思うんです。 

で、パワーに抗うことができるのが、本当は宗教なんじゃないか、違う力で、で、そこがなんか今、現代の宗教に逆に見失われているっていう感じが、僕はとても強くするんですよね。

島:まさに今おっしゃったようなそれと、宗教利用、政治の宗教利用が重なって起こってるんじゃないかと。



釈:うん、そうですよね、そう思います。
 今回あの、先程島薗さんがおっしゃったように応援してくれるなら、 当然応援してもらうよっていう、その程度の見識で宗教を見てたのかっていうふうに、 ちょっと驚きますよね。政治家の宗教へのこの認識の緩さと言いますか。甘さっていうようなものですね。もう、真面目な旧統一協会の 信者の皆さんもね、見てたらいいと思いますね。あの人達全く共感もなければ、自分達のこと認識もせずに利用してたわけです。また旧統一協会の方だって、利用しようとしてたわけですよね。もう、保身のために近づいてるとしか思えないんですよね。また、 公明党を応援してる創価学会の信仰を持ってる方も、 自民に投票する際に、あんなふうに宗教考えてたんだっていう、どう思ってるのかなっていう風に思うぐらいですよね。

 前にもお話しましたけど、やっぱり宗教っていうのは、大変取り扱いの注意案件です。ですから、 宗教に対して利用するとね、やっぱりどこかに歪みが生まれ、痛い目に合い、こう。問題が起こるっていう

 

島:利益追求、政治家は投票でたくさんの票をもらい、選挙活動を有効に行う。 そのために、宗教団体に近づくと、宗教団体の方はそういう風にして政治家の良い覚えを得ればですね、それが、あのいろんな形で自分たちが守られる、新党を増やすのにもいい効果があると。

 

釈:両方とも本当にね、宗教をなめてるというか、甘く見てる。宗教がね、本当に大きな時計仕掛けの機械みたいなもんで、一旦動き出したらね止まらないんです。そういう危険性というか危なさ、危うさみたいなものに対して、あまりにも無自覚じゃないかっていう風に思うんです。

 

島:ところがですね、あ、どうぞどうぞ

 

川:簡単にいいですか。若松さんが言われた2つのベクトルですね。宗教の政治家と政治の宗教化。それで、政治の宗教化の部分は非常にあってはならないと言いますか、そのバツであるっていうことは、もう全くその通りなんだけれども、宗教の政治化っていう表現で言えるのかどうかあれなんですが、宗教が政治に関わる、参与する 切な仕方っていうのは、やはりあると思うんですね。で、今回のことで、何かそこの部分が全て まあダメであるかのように、ちょっとそういう風にこう言ってしまうと、また違うのかな。
 つまり、宗教っていうのは、それなりの世界観と倫理とか、社会改革とかいろんなあの理想持ってるわけですよね。それは実際に実現しようと思えば、やはり政治 に関わらざるを得ないですし、その中で自分達の理想を1番実現してくれる議員を応援しようとか、ま、それは適切な仕方であれば、 あの認められるべきだし、当然だと思うんです。
 だから、今回なんか色々な議論聞いてると、いや、この機会に創価学会もちょっと問わなきゃとかいろんな何か声があのキリスト教の内部からも出ているのがちょっと危惧を持ってるところでございます。

 

若:今あの、とても大事なご指摘だと思うので、ちょっと言葉を整理すると、僕はやっぱりその政局化ってことと、政治化ということを、じゃあ、もうちょっと分けた方がいいのかもしれないと思うんですけど。今、現段階で宗教が不用意に政治に触れると政局化してくんだと思うんですね。 

政局に直接的に参与をすることで、何か自分達が実現、自分達でやりたいことを実現できるかのような空想の中に飲み込まれていくんだと思うんです。で、政治ってものは別に政治だけじゃなくて、もっと市民、もっと我々は本当に根深く、日常と深く繋がり合うこともできるはずだ。 

 だけども、現代においては、その政局化することに何かメリットを感じてるっていうところがあったんじゃないだろうか。あるいは、

 

川:政局って言葉はちょっとあんまり、、、

 

若:政局っていうのはですね、政治のパワーです、政治のパワーの戦いの中に入ってっちゃう。
 政治ってのは、権力を奪取するとか、そういうこととは限らないわけですよね。 もっと我々の日常世界の中でいろんなことを是正していったり、変革させていったりというのが政治なはずなのに、権力を取っていくっていうことがあたかも政治であるかのように、それは政局にほかならない。
 だから、我々はなんか政治と政局ってものをやっぱりちゃんと感じ分けて、やっぱり宗教が政局と結びつく、あるいは政局的な動きと結びつく時に、我々の本来大事にしてたものが、自分の手からこぼれ落ちていくっていうことは、やっぱり考えなきゃいけないなっていう風に思うんですよね。

 

島:それから、その先程震災、東日本大震災の時に、 宗教者がどういう働きをしたかということなんですが、決してそれは利益追求にはならない。しかし、被災者の痛み、心の痛み にあの寄り添って、その力になるという風な形。私は、宗教者災害支援連絡会といううのでですね、そういう活動をつぶさに、たくさんそういう活動があるんだということを聞いてきました。そういう面からすると決して、悲観的にだけは見なくてもいいのかなと。

 

若:いいですか。僕、1つだけちょっと今の島薗先生のお話を受けて、何か思い出した話があって。
 あのマザーテレサいるじゃないですか、で、マザーテレサが亡くなりそうな人の手を握りながら、いろんな活動をすると。で、それを見たある人がいや、あなた達はもっと行政に働きかけるべきだ、行政に働きかければもっと大きく広がって、いろんなことが是正されるんじゃないかって言った時のマザーテレサの返答ってのが、僕はとっても印象深くて、 私達は行政サービスの代行をしてるのではありませんと、行政が決して与えることができない、愛とは何かってことが私たちの問題なんですって、マザーテレサ言ってるんですよ。僕本当にそうだと思う。

 行政サービスができることは、もちろん、行政サービスができる。だけども、宗教者あるいは宗教が本来担う役割ってのがあるんだと。 そこが見えにくくなってんだと思うんですね。で、そこはやっぱり我々がもう少し繊細に表現し直さなければならないし、自分達のやってることを明確に語っていく、あるいは語るという体現していくってことがとても大事なように思うんですけども。

 

釈:宗教の持つ聖なる領域も、少し前にもお話したように、 社会は日常から離れてポコっとあるわけじゃないわけですよね。だからこそ、宗教は独自の価値体験を持ちながらも、社会に着席せねばならないっていうその態度は、やはり、社会問題に対して関わるっていうのは、かなり大きな領域としてあると思いますね。
 貧困や差別などの問題に、やっぱり宗教として社会に着席する際の課題として、 取り組み方、宗教なりのアプローチはあるんでしょうけども、この点に関しては、社会と共に動くっていうのが、 あるいは、場合によっては政治と共に動くっていうのはありうると思いますね。

 

若:何か、宗教者が、宗教者でなくては見えない視座というのがあると思うんですよ。 

何かその宗教者の方からじゃないと見えにくい現代の苦しみでも闇でもいいんですけども。何かそういうことを何か宗教者をもう少し今この時代にですね。語り直さなきゃいけなくて、世の中の人には見えないかもしれないけども、進仰の目を持ってみると、こういう問題が我々の根底にあるんですということを、 もっと宗教者が今語る。じゃないといいろんなものがやっぱ社会化していく社会化するってことと、宗教的であるってことは、やっぱり決して同じではない、 とても深く繋がってるんだけども、同じではないってのは、まあ釈さんお話しくださったことだと思うんですけども、それをなんか我々もう少し表現することにおいても、エネルギーを使っていいのかなって感じはいたしますね。

 

島:これがですね、実は最後の話題に今、正に繋がってきているんですけど、宗教の社会性、公共性と それはまた宗教リテラシーという何度か話題に出てることとも関わってます。まあ、自分は宗教関係ないやと思ってる人がたくさんいる、そういう人にとって、この統一協会の問題は、実はあなた自身の問題でもありますよと。

 そして、宗教についてあなたも共に考えてほしいですねと、そういうメッセージをこの番組を通してですね伝えていけたらいいと思うんですが、これについて、櫻井さんの方から問題提起お願いしたいと思います。

 

櫻:私その統一協会関連のですね、いろんな問題に関して、そのカルト問題の研究者という形で紹介されてるんですけども、私はその宗教とウェルビーイングの研究っていうのをですねこの数年やってまして、ウェルビーイングっていうのは、その幸せなんですよね。 幸せっていうのは、その主観的なその人なりの幸福感とその幸福感を成立させる、その社会的なその条件ですよね、これがどういうバランスで成立してるのかっていうことを、 私はその社会式調査を通してですね、まあ、あの実証的に研究をこの数年間やっていて、国際調査なんかもですねやろうとしているんです。
 やはりその宗教はですね、その個人としてのその幸福感、これを支えると同時にですね、

あの、その人が幸福になるためにはその周囲の人も幸福でなきゃいけないんだっていう当たり前のことをですね、その社会性っていうことで教えていると思うんですよね。このことはその宗教団体が結局その個人の覚醒とかですね解脱にとどまらず、その社会全体を救済していくというこういう目的をもって、いろんな活動をしてるってことに繋がっていきます。 

  その意味ではその宗教団体がですね、公共的な領域に関わる教育であるとか、医療であるとか福祉であるとか、そういったその社会保障的なところが十分でない時代、地域においては、宗教団体の果たした役割ってのは非常にあったと思うんですね。

 で、これがその発達してくると、いわばその宗教がですね社会福祉の後景に隠れてしまって、 あまり表には出さなくなってくんですけども、今のようにですねその社会保障、あるいは福祉の財源の問題とか、難しくなってくる時代にはですね、私はその宗教の団体って言いますかねその力っていうのは、その福祉的な資源、多数ある資源の1つとしてですね、表に現れる べき時代に来てるんじゃないのかなっていう風にも思ってます。 

 そして、その宗教団体のですね、その公共性を一体誰が担保してくのかっていうことに関しては、もちろんその宗教界、あるいはその団体自身がですね、いろんな意味で自己批判的にですね、内省してくってことが大事です。 それができない場合には、やはりその宗教研究のアカデミズムであるとか、あるいはそのメディア報道であるとか、あるいはその宗教問題がトラブルを起こした時に、その司法においてですね、裁判官が適切に判断するっていう、そういうその第三者の視点が私は必要じゃないかと思うんですね。 

 で、その第三者の視点と、あと宗教者が適切に提供するですね、 分かりやすい語りによって、私はあの宗教リテラシーというものが構築されてくるのではないかと。これがですねある程度普及していけばですね、私は、そのカルト問題っていうのは、その縮小していくんじゃないかなっていう風に楽観視はしてるんですね。
 こういう風に考えていかないと、私自身その30数年ずっとやってきてですね、死ぬ時まで何の問題も解決しなかったっていうんじゃ、ちょっと私がですねちょっと哀れになっちゃうんだということであります、以上です。

 

小:今の櫻井さんの議論にですね関係づけて、ちょっとヨーロッパの事例で宗教リテラシの視点からちょっと整理し直してみたいんですよ。 

 フランスはヨーロッパの中でもカルトの犠牲者の数がすごく多かったんです。だから、反セクト法を作らざるを得ないぐらいまで追い込まれたんですよね。

 で他方ですね、ドイツはそれほどではなかったんですよ、どこに差があるかなんです。 

フランスの場合には、厳格な政協分離まあライシテと言いますけど、その元にですね、公教育からも宗教教育を徹底して排除してきます、これ戦後日本と非常に似た状況です。で、ま言わば、もう宗教に対するもうアンテナが全然働かないんですよね。 

 ですから、すっと何かこう入り込んできても、それが怪しいものだっていうことに気づくことができない、簡単に騙されるんですよ。

 ドイツの場合には、その基本法によって宗教教育が命じられていて、かつてはですね、カトリックプロテスタントかちゃんと勉強しなさいと、その後どちらも嫌だという人にはですね倫理という授業を教えて、最近ではですねイスラムの授業もあります、そういうことをきちんと学ぶことによって、やはりその伝統宗教の基本がまさにリテラシーとして身につくことが、そのカルト的なものに対する防波堤になってるんですよ。 

 ですから、もちろんカルト対策を考えてですね、ドイツはやったわけじゃないですけども、結果としてフランスとドイツの犠牲者の数の差として表れてきてるってことを考えれば、櫻井さんが望んだように、宗教リテラシーというものをある程度広げていくことによって、カルト問題は解決するんではないかということの1つのですね事例として見ることができます。

 

釈:今回大変痛ましい、悲しい事件がきっかけではあったんですが、久しぶりに宗教を学ぼうという気運があるんじゃないかなと思います。思い返してみますと、90年代のカルト宗教問題続発、その後の9.11のテロ事件以来かなというふうに思うんですね。で、中央教育審議会でも、公教育でも宗教をちゃんと教育してくださいっていう答申は3度ぐらい出てました。
 理由は3つほどあるんですが。1つはやっぱりグローバル化。我々あまり馴染みのないような進行を持った人たちと一緒に、これから社会を運営していかねばならない。だから、宗教についての知識は当然必要。
 2つ目がカルト、宗教問題。宗教への知識がなく、免疫がない。マインドコントロールや勧誘の手法について、全然知識がないっていうのはやっぱり危ない。
 3つ目が宗教っていうのは、人類の知恵の結晶という面があるのでそれを学ぼう、あるいは我々の社会とはまた別の価値体験を学ぼうという。まあ、3つぐらいの理由があるんですよね。
 で結局何かスキャンダラスな取り上げ方ばっかりして、今回も終わらないように、これを機にその宗教を学ぶっていう態度と、そして、教育についての議論へとぜひ繋がってほしいという風に念願をします。 

 今まで戦後の教育から徹底して、宗教的要素をアレルギー的に排除するという。まあ、態度から少し宗教について学ばなければいけないっていう、そういうものへとですね。転換期を迎えたんじゃないか、これを機にそっちの方向に進むのはどうかという風に思います。

川:私は20年以上大学におけるカルト対策を通してカルト教団のリーダーとか信者とか、また、自分自身宗教者として教団なりに身を置いてきたので、やっぱりリテラシーが本当に必要、切実に感じるのは内的な方なんですね。
 で、先ほど自己反省的内省が必要だということもその通りなんだけれども、それは具体的にどうすることなのかっていうことを、私は3つぐらいあるんですが、1つはこれ先ほど前のターンで言ったことなんですけど、宗教はやめられるんだっていうことを外の人はもう普通にそのやめちゃうわって、だけど、内部にいる人が、特に宗教指導者がもうこの教会にはいたくないって言った時に後追いしないで、 すっぱり1つの手続きを踏んで脱会、そういうプロセスを示せるかどうか。
 それと極めて強くリンクしてるんだけれども、自分の宗教と他の宗教の関係をどう考えるかっていうことなんですね。今1番宗教者の間で、取られてる立場は包括主義的な立場、ジョンヒックという20世紀後半の宗教哲学者が他の宗教に対してどういうあり方があるかと、3類型示して、 排他主義、包括主義、多元主義と。
 排他主義というのは、自分達だけが正しい心理だという立場ですね。包括主義というのは、 他の宗教も心理の断片は持っているけれども自分達の宗教こそが究極の心理を持っているていう。それに対して多元主義というのは、 対等に全てを等しく認めていくと。
 ここがダメならこっちでもいいよっていうことを、宗教者自身が言えるだけの寛容さというか、 そういう神学を持てるかどうかっていうことですね。
 3番目は宗教者ではなくて、やはり宗教研究者の宗教リテラシーの問題があると思います。 結局オウムの時もそうだし、今度の場合はどうかまたあれだけれど、宗教学者が本当に批判的に宗教見れるために、その宗教がどういう時に問題なのかっていうあたりを、やはり学問として方法論として持っていく。 やっぱり宗教っていうのは時に病む、それをやはりアカデミックに突き詰めていく方法論というものを確立することが、宗教のアカデミー、宗教研究における1つのリテラシーとして求められてるのかなと思っております。

 

 若:僕はその宗教が今あの人々に向かって語るべきことってのが2つあると思っていて、1つはですね、やっぱりその尊さ、人間の存在というものはもう限りなく尊い、それはあなただけではなくて横にいる人も、あなたがその自分に敵対すると思ってる人の中にも尊さがあるいうのを、僕は宗教もう一度語り直すべきだ。

 今のなんか、私達が今日ずっと考えてきた問題の根底にあるのは、私にだけ尊さがあるみたいな、あなたにだけ尊さがあるっていうような、言説がある時に、自分だけにある、何か特別なものを発見したいということになってくると、我々はとっても大きな迷いの中に入っていく。

 ですんで、その尊さっていうのが万人に与えられていて、たとえ、あなたと意見を異にする人の中にも、その尊さがあるんだっていうことをやっぱり照らし出していくのが、宗教だっていう風に思うんですよね。
 あともう1つは、等しさって問題なんですけど、私達はその世の中で優れていくってことがなんか求められてるんだと思うんです。学校なんかでは成績優秀なのは素晴らしいことで、何か業績をもたらすことは素晴らしいことだ。で、それはそれでいいんです、社会的にはそれでいい。だけど、宗教の現場っていうのは、いかにして、等しさってことを探求していくのかどこまでも。人々というのは、その秀でる秀でないよりも、自分をもっと根底において、等しいとこに立ちうるんだっていうことを、やっぱり宗教が語り続けていく必要があるんだろうと思うんですよね。
 で、その尊さと等しさっていうことが、 何か現代ではちょっと見つけづらくなっていると思いますし。僕明るさっていう問題はですね、何か作り出していくっていうよりも、元々あるものを発見していくということに繋がってくるんだと思うんですよ。 

だから、何かないものを作り出すなんてことではなくて、人間の尊さってのは、我々の中に元々あるし、人間の等しさってことは元々あるんだっていうのが、さっき申し上げたその宗教者だけが語り得る地平なんだと思うんです。 

 ですんで、そこをなんかもう少し力を込めてですね。様々な形で表現できていくといいかなと思ったりはしています。

 

釈:いずれにしても、あの、これから我々の社会は外国の方を大幅に受け入れるという、そういう方針が進められるのはどうも間違いありませんので、 あまり馴染みのない信仰が身近になってくる、その人達と一緒に社会を運営していかなきゃいけないと考えますと、宗教について学んだり考えたりするっていうの、もう本当に喫緊の課題というか避けて通れない問題ですよね。

 

若:あと、今の宗教リテラシーの問題なんですけどね。リテラシーってのがもしかしたら、テレビご覧の方少し捉えづらいんじゃないかなと思うんですけど、こと宗教リテラシーっていう時においては、なんかやっぱり我々はその非言語的文脈みたいなものをやっぱり組み取っていく必要があるというのは、 今の釈さんのお話で言うと、異なる文化の人達が明言し得ない形で重んじているものを我々が理解しなくても、重んじるってことが大事なんなと思うんですよ。 理解しないと重んじられないんじゃなくて、理解する前に重んじるってことがやっぱ宗教リテラシーってのはとっても大事だ。 

 だから、そのなんか、理解を前提に重んじていく以前に重んじることをやっぱりですね、真ん中に置いた宗教リティラシーってのがあるといいなと思ったりするんですよね、

 

小:ちょっとその関係でいいですか。今の点がですね、おそらく日本のまさに未来に繋がっていくべきだと思うんですよ。つまり、私たちはその理解したから、もちろん尊ぶっていうこともね、できるかもしれませんけども。 宗教リテラシーのやっぱ勘どころというのね、全ての宗教の知識をマスターするってことではなくって、その人が尊んでるものを自分自身も尊ぶことができますと。わからないけれども、私は尊びますよっていうところまで到達できれば、とりあえずそういう目的を果たしてると思うんですよ。 

 ですから、学者が研究するようにね、宗教の経典とかですね、あの歴史や細部にわたって勉強することが必要ではなくて、やはりその今自分の隣にいる人、その人は遠い外国から来たかもしれないけども、今一緒に住んでいる、生きている隣にいる人の尊んでるものを、私も尊ぶことができますよっていうですね、境地に達することができるような宗教利リテラシーということを、きちんと底上げすることができれば、これは日本のまさにその民主主義いのですね、やはり、その豊かさに繋がっていくと思うんですね。

釈:おっしゃるように、知識があれば尊重できるものではなくて、知識があるからこそできる虐待だってたくさん あるわけですよね。どこまで敬意を表し受け入れて、どこで折り合いをつけるか、全てをお互いに受け入れることはできない。先ほど話があったように、理解できない領域ってのは必ず、共感できない領域だって生まれる。どうやってこう社会を一緒に運営するか、押したり引いたりするかっていうのは、ある意味センスの問題というか、 成熟した宗教性みたいなものによって公式ないわけですから、ここまではOKみたいな法則はないので、 こう宗教についてのこう感性みたいな成熟っていうのは、きっと課題になってくるんじゃないか。

 

若:哲学者の井筒俊彦が興味深いこと言っていて、20世紀ってのは確かに宗教の対話の時代だったと。だけども我々は対話の彼方に果たして何かを見出だしてこれたのかってことを真剣に問い直さなきゃならないとこに立ってると。宗教という問題はもしかしたら、対話の彼方というよりも、彼方での対話なんじゃないかって言うんですよ。彼方での対話っていうと抽象的に聞こえるかもしれないけど、それはやはり沈黙ってことを1回考えてみることなんだ。その語られざる何かっていうことを真剣に捉え直してみることを我々は言葉の中で忘れたんじゃないかってことを彼が言ってんですけど、 それはね、ちょっと痛いとこ突かれたなって感じがしますよね。

 

釈:何しろ、あの対話っていうの本当にむなしいと言いますか。誰もができるものでありながら成果が生まれないっていうような宗教間対話ってそういうものなんですよ、すごくむなしいことですね、でも、 それでもそれしか道がないっていうそういう性質のものですよね。

 

島:これから3時間ぐらいやりたいですけれども、そろそろ時間も来るのでちょっと私なりのまとめを言いたいと思うんですけどね。 

 先ほど、人の尊さとか、人の等しさということを、まず学ぶべきじゃないかということを若松さんおっしゃったんですね。これを日本人に聞いたら、学校でどこで学んでますかと言ったら、道徳倫理だと言うと。じゃあ、なんで日本は道徳と倫理の教育をしてるんですかと、そこに宗教も入ってるけども、 その基本は道徳・倫理だと思ってるということなんですよね。これは、戦前の修身から来てるんですねというのが私の理解です。
 ということは、じゃあ、なぜ修身が人の生き方に関わる科目になったかというと、これは日本の宗教史と深く関わってるわけですね。だから、日本人が無宗教という場合は、 いつの間にかそういう文明の自己理解が入っていたりするというようなこともあるわけですよね。

 ということは、あの、そういう今見てきたような、あの歴史的な私達の自己理解、宗教という他者理解も非常に大事なんだけれども、 自己理解を深めるこれがやはりかなり重要じゃないかと思うんですね。 

 非常に重い問題をこの2回にわたって議論してきましたけれども、視聴者の皆さんにもですね。この問いを共有していただいて、さらに様々な場所でまた深めていくことができればなという風に思います。どうも皆様ありがとうございました。

 

新宗教を問う ──近代日本人と救いの信仰 (ちくま新書)

宗教は現代人を救えるか (平凡社新書)

カルト問題と公共性: 裁判・メディア・宗教研究はどう論じたか (現代宗教文化研究叢書 2)

別冊NHK100分de名著 読書の学校 若松英輔 特別授業『自分の感受性くらい』

大学のカルト対策 (カルト問題のフロンティア 1)

なりきる すてる ととのえる (PHP文庫)