eraoftheheart

NHK「こころの時代〜宗教・人生〜」の文字起こしです

2022/11/6  “ごちゃまぜ”で生きていく

雄谷良成:僧侶、社会福祉法人理事長

ナレーター(以下「ナ」という):石川県白山市にある行善寺、お寺と同じ敷地に 全国でもあまり例を見ないユニークな福祉施設があります。B’s行善寺、「誰もがみんな仏の子」を意味する、佛子園という社会福祉法人が運営しています。
 ここに集まるのは障害のある人ばかりではありません。福祉サービスを利用する人もそうでない人も、 様々な人に訪れてほしいと、7年前に開かれました。
 子供たちが集まる駄菓子コーナーがあったり、地域の人が集う天然温泉があったり、野菜の直売所があったり、まるで娯楽施設のようです。 
 障害のある人の生活支援や高齢者のデイサービス、学童保育まで、まだまだあります。外に出てみると、ハンバーガー屋さんにキッチンスタジオ。園庭には、子供たちが駆け回って遊べる遊具。他にもフィットネスクラブにクリニック、花屋、カラオケ、リラクゼーションサロンまであるんです。
 様々な場所を作ったら、子供も高齢者も、障害のある人もない人も、色々な人が集まってくるようになりました。

ナ:この施設を作ったのは雄谷良成さん。施設と同じ場所にあるお寺、行善寺の住職です。
 ここでは障害のある人もない人もスタッフとして力を合わせて働いています。
とりわけ、いろんな人がやってくる人気のフィットネスクラブ。健康づくりにダイエット、 リハビリ、おしゃべリを楽しみに来る人など、その目的も様々。
 生活介護サービスを利用する。市川雅之さんです。「みんなでシンクロ」という水泳教室で立ち上げたチームのメンバーです。プールで沈まないように体を絞っているんだそう。
 この日、市川さんが一緒にやろうとフィットネスに誘ったのは、雄谷さん。雄谷さんは時間ができるとここに来て皆と交わります。
 どんな人にも居場所があり、笑顔になれるところ、雄谷さんはここを「ごちゃまぜの場所」と呼びます。

雄谷(以下「雄」という):こういうごちゃ混ぜの場所の場合は、いろんな障害のある人や、あるいは遊びに来る、ちょっと様子を見に来るとか、そういう人とか、子供が走ってきて「何やってるの?」とか聞いたりとかする中で、いろんな人がこのウェルネスにいると。そうすると、脳梗塞で、例えば、半身に麻痺が出ているような人ももっとあのいろんな人がいて、頑張ってるな。 だったら自分ももっと頑張ろうと思って、まあ、励まされるというか、そういう中でどんどんどんどんこう元気になっていく。 
 僕達は、やっぱり社会福祉法人として、障害のある子供達を受け入れるところから始まったんですけど、従来の福祉なり医療は縦割りで、障害のある人は障害者だけと。あるいは高齢者の人だけって。それはやっぱりなんとかみんなでそのサポートしようという中で、必然的に生まれてきたことですけど。でも、そういった人がごちゃまぜになって、いると、その人達ばかりではなくて、実を言うと、いろんな人、福祉のサービスからは漏れるような人。例えば、あの引きこもりの人であるとか、あるいはちょっと、伴侶をなくして、1人住まいになって寂しいなと思ってきた人が例えばやってきて。でも、病気の状態では障害のあるような状態ではないですけど、いろんな人がいるのを見て、また元気になってくるっていうことはたくさんあると思います。
 市川くんにしてもそうですかね、彼この間見てたら、毎日お昼腹筋やってるんですよ。腹筋ねこれでびっくりしたのが数えたら、100回超えてるんですよ。 最初はもう、こうやって右左とかってやってたら、あ、50回ぐらい簡単にやっちゃったんですよ。で、そもそもそこもすごいんですけど、そこから今度はこういう風にしてみようかって言ったら、はいって言って50回ぐらいやって100回、もうあっという間に100回になったの。そしたら、だんだんね、ウェルネスの中のジムの雰囲気が変わってくんですよ。 明らかにオーバーワークなんだけど、周りに期待されてるっていうのもあって、で頑張る。
そうすると「ほら、後じゃ10回」とかって言ったら、もう最後、ギリギリの力取り絞ってやってハーッて、で、周りも全然バイク乗ってる人とかも握手して、それで、ちょっとドヤ顔にはなるんですけど、すっと離れて、隣の鏡のある部屋に行ったら、本当に疲れた顔してる。 「この人が喜んでくれたらなあ」とかなんか期待されたら、期待に答えて、ああ喜んでくれるなあとかっていうことが、彼を突き動かしてる。 
 皆さんそれぞれ、ウェルネスの中で、それぞれのトレーニングをしてるわけで、その拍手が起こるなんてことはおおよそないんですけどね、自分のことを一生懸命やってる世界だから、でも、この巻き込み力とか、そこら辺がすごくて。
 ある時は、支えているし、ある時は支えられていて、それで関わってるっていうことなんだろうと思うんです。

インタビュアー(以下「イ」という):こちら、施設の名前がちょっと変わっているな
と思ったんですけど。

雄:B’sっていうのは、佛子園というのは、私達社会福祉法人の佛子園なので、「佛子園の」っていう「の」という意味はありますけど、B’sっていうのは、「数珠」っていう意味でもあって。やっぱ人がこう繋がっている、関係し合っているってことを表していて、もう一つは存在ですよねbe同詞のbe。やっぱり1人1人が存在していて、その人達を敬う、お互い障害があってもなくても、認知症があっても、あるいは日本人であってもなくても、いろんな人がやっぱりこう、それぞれをお互いに敬いながら、いる存在しているという意味で、beで、その3つをB’s行善寺、

ナ:B’s行善寺のルーツは同じ敷地にあるお寺、行善寺にあります。そこにはかつて、障害のある子どもが暮らす施設がありました。
 今年8月16日行善寺で行われたお盆の法要。かつて、この場所にあった障害児の施設で育った人や、家族達が集まりました。お経をあげるのは、行善寺の住職、雄谷さんです。
 雄谷さんにとってここは、自分の生き方を決める原点となった場所です。幼い頃、雄谷さんはここで障害のある人達と一緒に家族のようにして育ったのです。
 戦後間もなくこの場所に施設を開いたのは、祖父の本英さんでした。本英さんは幼くして両親を亡くした孤児で、寺に預けられて育ちました。大人になると、戦災孤児や障害のある子供達を寺に引き取り、施設を作って一緒に暮らしました。
 父の助成さんはその意思を引き継ぎ、施設の運営資金に苦労しながらも、 障害のある子供達が楽しく暮らせるよう工夫を凝らし奔走しました。雄谷さんは、代々受け継がれたその施設の中で育てられました。

雄:ちっちゃい時は、本当に生まれたての時は、そん時はまだまだお寺の一画を間仕切って、そこにみんな暮らしてましたので、途中からやっぱりどんどんまた人が増えてきたので、あの時実は言うと鶏小屋があったんです。 自給自足に近いですよね。やっぱり当時はみんな畑一緒に作ってたりとか、鶏も育てて卵とったりとか、そういうことを、みんな施設としてはしてた。で、それも一緒にこう、朝茄子採りに行ったりとか、 お味噌も造ったりとか、ずっとそういう生活でしたよね。
 ですから、まあ生活がもうそこに全部あるという。寝るのも一緒ですし、うん、8人とか多い時は12人ぐらいの部屋に一緒に寝てましたので。
 その中にはやっぱり喋れない方もいますし、おっきな声を出す人もいますし、障害のある状態に対して、やっぱりいろんなことができない人だなとかって思うっていうのは、小さい時あったと思いますよね。 でも、一緒に暮らしていく中で、やっぱ家族ってそんなもんじゃないですか。で、色々できる人もいれば、できない人もいて、怒るお父さんもいれば、優しいお母さんもいたり、反対の例があったりとかして。でも、それでやっぱ家族に成り立ってると。
 でも、なんか学校に行くと、やっぱり、こういう施設にいる ことに対して、学校の先生が「悪いことしたら、雄谷のとこ入れるぞ」みたいな話があって、なんかカチンとくるんです。なんでそんなこと言われなきゃいけないのかなみたいな。そこら辺が、やっぱり周りとのギャップみたいなものをすごく感じて。で、そこらへんはすごい。やっぱり自分が悩んだというか、疑問に思ったところですよね。
 一緒に住んでたので、誰かにいじめられたら助けに来てくれるお兄ちゃんもいたし、その人は、いつも一緒におやつ分けたりとか、卓球したりとか、そういう人で、僕が本当にちっちゃい時に、墓石にみんなで登って競争して、途中で折れたんですね。折れた時にバーンって大腿骨、その時、あばらともう腕と、それから大腿、大量出血して。で、そこでほったらかされたら、多分アウトだったんですけど、当時の保母さん、保育士さん呼んでくれて、そのまま病院に連れて行ってもらって九死に一生を得ると。
 その彼がそんなにいつもはそんなにこう誰かを呼んでくるっていうことが、うまくできるかっていうと、そうではないような気もするので。 だから、よくその時に呼んできてくれたねっていうのがあるんですね。

ナ:兄弟のようだった障害者に対する偏見や差別に感じた憤り。雄谷さんは福祉の道を踏み出します。障害のある人のことをもっと知りたいと地元の金沢大学に進学、障害者心理を学びました。

雄:やっぱり理解したかったってあると思いますね。なんでああいうことになったのかなとか、知りたい、分かりたいっていうとシンプルですけど、障害という分野、障害福祉という分野を学ぶっていうところがなかなかなかったんですね。私学とかありましたけど、うちの環境というか、経済状況もあって、国立の大学の中には、障害関係っていうのは1か所、金沢大学ではそこだったんですね。で、養護学校教員、で、もっとやっぱり今の障害のある人達と環境とか、それから考え方とか、障害って何っていうこととか、きちんとやりたいなと思ったので選んでいったんですけど、実際にはやっぱり学校というところと、やっぱりその暮らしというものは、やっぱりカリキュラム的には随分違っていて、もっと泥臭いっていうか、生活に密着したような部分をやりたいなっていう風に思っていたので。

ナ:転機になったのは、青年海外協力隊員として渡った中米、ドミニカ共和国での体験でした。 
 思いがけない出来事が続く中、自らが幼い頃、障害のある人と暮らしてきたことの意味を教えられるようになったのです。

雄:障害福祉の指導者の育成に来てくださいと、スーパーバイズするという立場で行ったんですけど、行ったら、 みんな隊員として訓練終わったら行くんですけど、貰われていくんですよね。要請先が来て、例えば、農業だとか灌漑だとかってみんな連れて行かれるんですけど、何日たっても迎えに来ないんですよ。誰も迎えに来ないの。それでその要請があったところに行ったら、呼んでない。
 首都にいたんですけど、とりあえず首都よりももっと田舎の第2都市があるんですけど、そっちにやっぱり、そういう教えられるようなスペースがあるっていうことで、 そっちに行ったら、もう電気も水もなくて、お金もないなって、で、じゃあどうすっかってなって、えっと、 当時、養鶏の隊員と一緒になって、鶏を育てて、今度はその出た鶏糞で畑をして、野菜を取って、それを売って、今度はそれで木材を買って、障害のある人と一緒に家具作りとかして、それで学校とか、それから働いた人の工賃とかを出すようにして、それで初めて、今度は 学校で先生宛てに、障害とは何とか順番に1つずつ教えていくような関係を作った。

イ:そこでもいろんな出会いがあったんじゃないかなと思うんですけど。

雄:すごいなと思ったのは、僕が教える学校に車椅子の方も来てたんですよね。 で、その時にすごいやっぱり長い道を通ってくるんですよ。で、向こうですから、福祉車両とかないので、車椅子押してこないとダメなんですね。だから、学校があると、彼の家はここなんですよ、でも車椅子を押してくれる人がいるんですね。その子も先生なんですけど。で、彼はいっぺん学校まで1時間近い、弱かかるので、それ通りすぎて、この車椅子の方のうちに迎えに行って、連れてくるんですよ、だから、全部でまあ3時間ぐらい。で、帰りもまた3時間かけて、彼を送って、自分が自分の家に戻ってくるんですよ。で、それをやっぱり人のために使うことができるっていう。
 ある時教えてたドミニカのいろんなそういう障害のある指導者の発表会開いたの。僕が教えたメインスピーカーが来なかった、穴開けたんですよ。終わった頃にやっぱ来たんですよ、「どうした?今日メインスピーカーだったよね」って言ったら、隣のなんか、奥さんが風邪ひいて寝込んだ。 「で出こなかったの?」って、「うん、来なかった」。病気になったら、みんなで看病するし、でもお金がないから、社会保障はしっかりしてないってことがあるので。でも、そこにはみんな寄ってたかってこう心配して、こう関わって、なんとかしようとしている人達って反対に教えられちゃって。よくどっかでこの感じあったなっていうのは、施設で育ってる時だった。これってなんかよく似てるなって。やっぱり人と人は関わるっていう、いろんな役割持ってるんだなっていうのは、そこでじわっと気づき出すって感じかなと思うんですけど。

ナ:自分のことよりも人を思う。それは少年時代、自分を助けてくれた障害者の姿と重なりました。 
 雄谷さんは1990年に帰国。自分の少年時代、墓石から落ちた時に命を救ってくれた人が、 施設から社会に出た後、激しい差別にさらされていたことを知ります。それは、兄のように慕っていた人でした。

雄:うちの法人ってのは、児童施設しかなかったので、必ず卒園していくと、まあ社会に出る、あるいは他の施設に行くっていうことがあったんですけど、墓石の下敷きになった、あれを助けてくれた人が虐待に遭ってたんですね。で、まあちょっと叩かれたりとかして、ちょっと耳が聞こえなくなってたりとかっていう。やっぱり、今だったらもう完璧に捕まるような案件ですけど、当時はなかなかそういうのが立証できないというのがあって、 「お給料ももらってないですよね」、「いや、渡してた」って話とか。でも園から出たままのずっと服を着てたりとかってのがあって、 だから、結構ひどい状態になっていたので。
 なんか悩みがあっても、聞いてもらえるような。そういうソーシャルワークのシステムがなかったりとか。例えば、働いていてもなかなか長い間、何十年も働いてても正社員になれないとか、なかなか障害があるから、でも働けるだけいいよねっていう時代、そん時もう怒ってましたね、怒りでしたね。なんかちょっとした敵討ちみたいな感じかもしれないですけど。

ナ:雄谷さんは、児童施設から社会に出ても障害者が生活し、働ける場所を作ろうと考えました。 まずは、大人になっても、皆で暮らせる入所施設を開きました。
 大切にしたのは、自分が施設で育った時の経験から、そこで暮らす人たちのプライバシーを守るということ、当時では珍しかった個室も作りました。建物には鍵をかけず、日中は自分で選んだサークル活動に参加できるなど、好きな場所で思い思いに過ごせます。

雄:やっぱりプライバシーを守るってことは、すごい大切だなっていうことは感じられたんですけど。そこはやっぱり経験したらわかる、楽しいと思う時もあるし、やっぱり1人でいたいなっていう時もあるし。

ナ:次に取り組んだのが、障害のある人が生きる糧を得られる場所、働ける環境を整えることでした。 1998年に開いた、自家製ビールを堪能できるレストランです。 飲食店で働いてみたいという皆の願いを形にしました。
 福祉施設としては、日本初のビールの醸造。それぞれの特技やそれぞれのペースに合わせて、様々な人が力を合わせます。ここで作られるビールは、日本全国の地ビールが競う品評会で、数々の受賞歴を誇ります。

雄:障害のある人達は、いわゆる税金を使う側だ、じゃなくて、ビールを売ったら、酒税が街に落ちるんですよね。ですから、ビールをみんなで売ったら、使うばっかりじゃなくて、きちんと還元する力がある。

ナ:ここができてから、20年以上働く東外志秋(ひがし としあき)さんは、配達にも出かけます。

『イ:仕事は楽しいですか。
東さん:楽しいです。お母さんにお金を1万円札でお金をあげます、あげます。
イ:お母さんは喜んでますか。
東さん:喜んでいます』

雄:ごく普通の生活を送れるように、何か特別な暮らしではなくて、ごく普通の生活ができるように、みんなでこれを守っていくっていうことができるんだっていうことを、やってみたかったんだね。

ナ:福祉施設での活動を始めた雄谷さんは、一方で実家の寺を継ぐため得度し、僧侶となりました。 
 子供の頃から触れてきた読経やお寺の仕事。しかし、仏教と福祉の世界とが雄谷さんの中ではうまく結びついていませんでした。
 34歳の時、日蓮宗の道場で修行。その時、福祉の考え方に目を開かれる仏教の言葉に出会います。

雄:ずっと前から疑問に思っていたことがあって、お経をあげられない、僕が一緒に育った子供達、言葉がない人とか、そういった人達はじゃあどうなるんだろう。僕はこうやって修行に来て、お経を学んで、内容もこういうこと言ってるんだよって理解して、僧侶として、、教師としてやってくんだなっていうことはわかると。じゃあ、本当に障害があって、お経すらよく読めない、唱えることができないっていう人は救われないんですかというのが、僕の基本的な問題だったので、じゃあ、この僕の家族同様育った人はどうなるんだろうって、聞いたんですよ、

イ:どなたに聞かれたんですか。
雄:そこの先生がいて、答えてもらったんですね。そしたら、「うん、雄谷君はそういう関係で育ったんだね」って言われて。そして、「三草二木(さんそうにもく)」の話が出てくるるんです。「三草二木」という、その「薬草喩品(やくそうゆほん)」という「法華経」の中の5番目のお経に書かれてるわけですけど。ある時、順番に読み進んでったら、最初1回目は全部やり過ごしてわかんなかったんだと思う。2回目か3回目ぐらいに読んでって、あ、ここだっていうのを見つけて、あ、このことだったのか、そこは大きかったですね。

ナ:およそ2,000年前に編纂された仏教の教典、「法華経」。生きとし生きるもの全てが持つ命のかけがえのなさ、それを尊重する行いの大切さなどが様々な比喩を使って説かれています。
 例えば、
『三千大千世界の山や川、渓谷や地上には草や木、草むらや林が生い茂り、さまざまな薬草が幾種類もあって、その名前や形というのは異なっています。
 その大地の上の空に幾重もの厚い雲がみちわたり、三千大千世界をくまなくおおい尽くし、同時に雨が降りそそぐのです。 その雨は広く、草木や叢林、あるいは種々の薬草に対して降りそそぎ、小さな薬草の根、中くらいの薬草の根、茎、葉、さらには大きな薬草の根、茎、葉などを潤すのです。
 さらにまた、種々の樹木の 大樹や小樹の二木があって、それぞれの性質に応じて平等に降りそそぐ雨を受けとるのです。
 同じ雲から降りそそぐ雨であっても大地に入る草木は性質に応じて、それを受け、 成長し、花を咲かせ、それぞれの実を結ぶのです』

雄:世の中には大きい大木もあれば小木もあるし、いろんな草もあるし、でも、これにはみんな分け隔てなく、太陽も雨も降り注いでるんだって。だから、唱えられないとしても、 必ずそういった平等に機会を与えられていることがあって。
小根、小茎、小枝、小葉、中根、中茎、中枝、中葉、大根、大茎、大枝、大葉、もろもろ。 施設で育った自分にとっては、 やっぱりいろんな人がいるなということが、浮かびますね。ああここにあったのかと。それまでに読んではいるんですけどね、読んではいるんですけど、気がつかなかったって、そこまで智慧が及んでいなかったていうことだと思いますけど。なんかこういうことかっていう腑に落ちるというか、ストンと自分の中にこう、こういう風に、喜びっていうんですかね、何千年も前の人のお考えになったことが今、自分にとっても当てはまるということがやっぱり嬉しかった、心が落ちつくというんですかね。

ナ:様々な人がそれぞれに生きている。雄谷さんは仏教の教えに背中を押されるように、福祉の世界で新たな挑戦に踏み出します。
 「三草二木」と名付けたこの福祉施設、地元の人から、住職がいなくなり荒れ果てた寺をなんとかしてほしいという依頼が舞い込み、力を合わせてみんなの居場所にしていきました。 
 試みたのは、子供も大人も分け隔てなく、地域に住むみんなが来られる場所。ここでも障害のあるなしに関わらず、支え合うスタッフ達、お揃いの紺のTシャツも作りました。

雄:色々な人達が共に過ごす中で、時には元気を与えたり、それを受け取ったり、この施設の中で、雄谷さんは様々な人と人との関係が生み出す予想もしなかった力を目の当たりにしていきます。

雄:初期の頃にびっくりしたんですよね、ここまでのことが起こるとは思わなかった。やっぱり、重度心身障害の方が知的障害を持ちながら、首から下が麻痺であるというその人と認知症のおばあちゃんが関わったら、おばあちゃんが毎回もらったゼリーを彼に食べさせようとする、最初はうまくいかない。でも、だんだんこうやってるうちに、彼もだんだんこう麻痺してる首を動かせるようになってくる。 そうすると、僕らが2年ぐらいリハビリでうまくなかなか可動域を増やせなかったのが、あっという間にみるみるうちに動くようになっていくとか。 
 あと、おばあちゃんがやっぱり今まで深夜にいろんなところにお出かけになる。家族は、それに対してもう疲弊しているっていう状況があったのはなくなってはいないですけど、月に1回とかに激変していく。認知症が改善されているかどうかということは別にして、でも、 私が西圓寺に行かないと、あの子が死んでしまう。そこら辺の認識はおかしいんですけど、でも、そこに彼との関わりを通して西圓寺に行くんだという目的が生まれたから、 深夜にはしっかり寝て、それで朝起きて西圓寺に行って、彼に自分がもらったゼリーなりプリンなりをプレゼントするっていうところに生き甲斐を感じてる。
 人は、やっぱりいろんな人と関わることで、元気になっていくんだ。決して、そのクローズドの福祉の決められた人間関係の中では、足りないものがあるんだっていうことを、やっぱり理解するには十分でしたよね。面白かった、うわ、何が起こってるんだろう。

ナ:障害があっても、認知症であっても、人と人が関わることで引き出される秘められた力。その力を生かそうとかつて、自分が育った施設を引き継ぎ、立ち上げたのがB’s行善寺でした。 これまでの試行錯誤や学びを生かし、ごちゃ混ぜの力を発揮できる場所を目指したのです。
 B’s行善寺のフィットネスクラブで働く山本千咲さんです。知的障害がある山本さんも、就労支援を受け、ここでスタッフとして働いています。
 明るい性格の山本さんにも苦手なものがあります、それは大きな音。数日前、自分の上司が注意を呼びかけるため、スタッフの間で交わした大きな声にも反応しました。

『山本さん:野竹さんと彩先生がケンカしてた。
野竹さん:本当に?
山本さん:かわいそうだよ。
野竹さん:かわいそうだった?
山本さん:かわいそう、かわいそう。
野竹さん:ケンカしてた?すみませんでした。
山本さん:約束してたのになんで彩先生に怒りだすの?
彩先生:お話してただけだよ。
野竹さん:すみません、気を付けます。
山本さん:彩先生のせいじゃない。
野竹さん:約束したもんね。
彩先生:もう大丈夫。
山本さん:私音怖いから、何でも苦手なものは、、、』

ナ:そんな山本さんですが、こんな一面も。
 この日やってきたのは利用者の村井さん。村井さんは自分の意思を言葉で伝えることが苦手です。大きな声を出すときもありますが、それは自分の思いを懸命に伝えようとする気持ちからです。
 大きな音が苦手な山本さんですが、村井さんを避けることなく、寄り添い続けます。言葉で表現するのが苦手な人が利用する文字盤を使って、丁寧にコミュニケーションを取ります。

『彩先生:千咲ってさ、村井くんの大きい声は平気なの。
 山本さん:うん。
彩先生:あ、そうなんだ、なんでだろうね。
山本さん:それが訳わからないんだよ私も』

雄:共感するっていうか、おっきな声を出すっていうのは苦手で、でも、自分がサポートしようとする人の大きな声に関しては、全然問題がないとか。野竹君も上司に当たるわけですけど、「約束したのにね、ごめんね」みたいなという会話はなかなか一般的な、関係性ではできない。彼女はそこをスパッといく力がある。勉強になりますよね。こういう風に入ってくるって。
 毎日毎日、試されるっていうか、その自分のあり方をきちんとこう、問われるというか、そういう場所なんだなと。

ナ:今、雄谷さんが大切にしている言葉があります。それは、 「法華経」の教えを自らの人生で全うしようとした宮沢賢二の言葉です。しばしば開くのは、賢二が残した手帳の復刻版です。


雄:そのまま賢二が書いた、これ曼荼羅なんですよ。南無妙法蓮華経って書いて、四菩薩が入ってる。曼荼羅を書いてるんですね。

ナ:宮沢賢治は、「風の又三郎」、「注文の多い料理店」、「銀河鉄道の夜」などの童話や 数々の詩を残しました。それらには、みんなの幸せを願い、日々他者を思いながら生きることの尊さが刻まれています。
『本当にみんなの幸せのためならば、僕の体なんか百ぺん灼いても構わない』
 雄谷さんがとりわけ、賢二の思想が凝縮されているとして大切にしているのは、手帳に書かれた「雨ニモマケズ」の一節です。

雄:「南に死にそうな人あれば、行って恐がらなくてもいいとい、ケンカや諍いがあれば、 つまらないからやめろといい、デクノボーと呼ばれ、褒められもせず、苦にもされず、そういうものに私はない」、で、ここにやっぱり曼荼羅が書いてあるんですよね。
 これなんかやっぱり「行ッテ」という言葉が赤で書かれている。そこに行くっていう言葉ではなくて、やっぱそこに行って、自分が行動を起こしていくっていうことに、やっぱり すごい共感する。

ナ:自ら行って行動するデクノボー、このデクノボーのモデルとされる菩薩が「法華経」の中に登場します。常不軽菩薩、お経を読まなくても、やがて悟りを得て、みんなから敬われた菩薩です。 どんな暴力や迫害を受けても、常に相手を敬い、軽んじることがありませんでした。

雄:常不軽菩薩というのは、実は言うと、お経とか読んでないと。行いを持って、それが僧侶となる、あるいは成仏するっていうことなんだっていうことを書かれていて、そうか、じゃあ、あの時僕が「お経を唱えられない人はどうなるんですかね」って言った言葉は、みんな平等なんだってその後ろにある唱えるばっかりじゃなくて、実を言うと、人を思いやったりするっていうことがイコールそういうことなんだよっていうことが書かれてるのが、今度は人を思いやる、決して軽んじないで尊く対応していくっていうことが実を言うと、今度はここにきたと思って。
 常不軽菩薩という人は、皆さんは人を慈しんで敬っていくと、必ず成仏できるんだっていうことを言っていくわけですけど、お前は何を言ってるんだと、周りからそんなお前偉そうにと言って、やっぱりこう疎まれる、軽んじられる。でも、それでも一生懸命そう唱えながら言っていく、最後はそれが人に伝わっていく。 私は決して皆さんのことを絡んじない
ということをずっと言い続けてやっていくっていうことが、実を言うと、これは、障害のある人達と関わってきた僕が行く道とリンクしてるんじゃないかなって思ったんですね。

ナ:B’s行善寺の中には、常に人を大切にして行動した常不軽菩薩の精神が生きている。雄谷さんはそんな思いを抱いてきました。この場所で、障害のある子供達と一緒に、雄谷さんを育てた父の助成さん。B’s行善寺では、皆が集まってくる蕎麦屋のカウンターにいつも座っていました。
 助成さんが癌で病床につくと、蕎麦屋の常連や施設の仲間達が入れ替わり立ち替わり訪れました。

雄:お弁当、配食サービスのお弁当を一生懸命作ってる、山本さんという人がいて、その人がお見舞いに来た。で、僕はたまたまその目の前にいて、オールを片手に、お酒ですよね、酒持ってきて、ウィスキー持ってきて、パッて「寝てる場合じゃないだろ」って言ったんです。そしたら、モルヒネ打って朦朧として、ちょっと意識がはっきりしてないような時にワッと起きるのね、「ああ、ありがとう」っつって。で、もう急に元気になってきたのね。まあ、他の仲間も一緒に来たら、親父がまた急に元気になって、「お前らが急に来るってことは、俺ももうそろそろ死ぬってことか」って言ったら、もう恐縮しちゃって。で、強烈なやっぱり麻酔薬も入れてるんですけど、そこでフワって元気になる。まあやっぱり2週間後には亡くなるわけですけど。
 亡くなった後に、そのさっき言った差し入れした山本さんが、やっぱりうちの親父が座ってた場所にこう献杯のグラスを置いて、ここはしばらくは他の人間座っちゃダメだぞって地域の人に言ってるわけですよ。それで、自分が献杯して飲んでる。その山本さんも4ヶ月後に亡くなって、今度そこにまた2人いつも一緒に気配を感じて飲んでた人間がいなくなって、寂しいなっていうところに、今度はまた障害の重い人がまたそこに入ってきて、それでこれが連綿と続いていくという、そういうことにやっぱりね、励まされている。

ナ:雄谷さんの人生を支えてきたごちゃ混ぜという言葉、それは同志だった人と交わした会話から生まれたものでした。
 B’s行善寺の建築を手掛け、去年亡くなった西川英司治さん。様々な人が一緒の空間で過ごすことなど難しいと言われた頃から、雄谷さんの思いを受け止め、建築家として、「ごちゃまぜ」の器を実現してくれました。

雄:こうやって僕がここに座って見上げる、そこには子供がいる。そうすると「天井の素材
ですか」って僕が言うと、「さすがわかってますね」って言うんで、「僕は木張りにした方がいいんじゃないかなと思うんですけど、どうですか?」って、「うん、その代わり、水分にはそんなに強いっていう風には言えない、でも、気持ちよく泳いでもらう」
 西川さんは、やっぱり、信じてくれていたという。そこは大きかったですね、やっぱこうやって、みんな一緒に住むっていうことに対してそうとはいえという、無理あるでしょう、って人は山のようにいたので。今ね、亡くなられて、非常に自分達もね、こう一緒にごちゃまぜの空間を一緒に作ってきた盟友というか、そういう方だったので、非常に残念ですけど。 でもまあ、そういった西川さんの考えてることは、僕らの拠点の中では生きてるので。
 障害があるとかないとか、そのそういったこと関係なしに、なんか居心地がいい、居心地がいいというんですかね、人の状態に限らず、ああなんか居心地がいいなっていう、そういう言葉なのかなと思うんです。なんか、行動があるとか、そういうことではなくて、なんか居心地がいいなっていう感じを皆さん感じ取られてるんじゃないかなと思うんですね。
 まあ、例えば障害のある人がちょっと思いを伝えられなくて、大きな声を上げたりとか、あるいはちょっと、なかなか理解できないような、認知症の方の動きがあったりとかしても、最初はびっくりする、でも、それをこうだんだんこうその人を見ていると、どうも、言いたいことがあるんじゃないのかな、とか、お互いのことをだんだんあの分かっていく。そういった意味では、一緒にいる、で、その人達の気配を感じているっていうだけで、だんだん理解が進んでいく。
 こういうごちゃまぜの場所っていうのは、そういった向き合うこともありますけど、実を言うと向き合ってなくて、同じ方向向いてたりとかすると、まあただいるだけなんですけど、そのことって実を言うと、それが心地いいというかいう風に繋がっていくという部分もあると思います。

ナ:ごちゃまぜの裾野は、今、B’s行善寺から全国へと広がりを見せています。
 鳥取県南部町ここにもまた1つのごちゃまぜの場が生まれました。今年6月にオープンした法勝寺温泉。建物は、西川さん亡き後、彼が育てた建築士が手がけました。雄谷さんも、その開所式に駆けつけました。

『雄(開所式にて):ごちゃまぜというキーワードはいろんなところから学んだわけですけれども、子供も若者も、あるいは、お年寄りも障害のある人もない人も、認知症の人も、日本人もそうでない人も、みんながバラバラではなくて、関わりながら、一緒に気配を感じながら暮らす場所ができたらどれだけ素晴らしいことだろうかと』

 

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