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NHK「こころの時代〜宗教・人生〜」の文字起こしです

2023/1/15 瞑想でたどる仏教~心と体を観察する~ 第4回 中国文化との融合(再放送、初回放送:2021/7/18)

蓑輪顕量:東京大学大学院教授
為末大:元プロ陸上選手
ききて:中條誠子

ナレーター(以下「ナ」という):群馬県渋川市の山間にある佛光山法水寺、台湾に総本山のある臨済宗の寺院です。ここでは、中国で育まれた仏教の様式に触れることができます。僧たちは仏の名を繰り返しています。中国仏教では、木魚やかねに合わせて歌うように念じます。念仏の調子を緩やかに変化させながら心を静めていく中国仏教の瞑想です。
 ブッダを悟りに導いた瞑想は、中国に伝わり、多様な文化と交じり合うことで大きく展開します。それは、やがて日本に伝来し「日本仏教」の原型を築きました。今回は、中国の人々の心をとらえ広まった仏教瞑想の歩みを辿ります。

中條(以下「中」という):心の時代では毎月1回「瞑想でたどる仏教~心と体を観察する~」と題しまして、 仏教瞑想の世界をご紹介しています。教えてくださいますのは、仏教学がご専門の蓑輪顕量先生ですよろしくお願いいたします

蓑輪(以下「蓑」という):よろしくお願いいたします。仏教と聞くと、お2方はどのようなものを考えられますか。

為末(以下「為」という):お葬式とか、あとは念仏っていうか、南無阿弥陀仏というとこですかね。

中:大仏とかです。

蓑:今私たちが仏教という言葉を聞いて、連想するものというのが実は大体中国仏教から継承してるものだと思います。

為:じゃあ、それより前はなかったんですね、

蓑:全部がなかったというわけではないんですけども、やはり、中国に入ってきますと、中国の文化、歴史、そういうものに影響されて、仏教もその存在の形態を少しずつ変えていったのではないかと思います。

ナ:2,500年前、インドで生まれた仏教は1世紀半ば頃、中国へもたらされます。仏教の瞑想は、インドとは異なる文化を持つ中国で大きく変容します。
 元々、仏教の瞑想は、ブッダが生きる上での悩みや苦しみから逃れる道を探してたどり着いたものでした。
 ブッダの瞑想は、初期の仏典では「念処」という言葉で表されています。「念処」とは、 ある対象に注意を振り向け、しっかりと把握すること。例えば、呼吸する時の体の動きや
五感に刺激を受けた時の心の働きなどに気づき観察します。
 自らの認識の仕組みを把握し、心が勝手に苦しみを生み出したり、増幅させたりしないようにするのが仏教の瞑想です。仏教がインドで起こった初期には、瞑想は静かな場所で一人で集中して行うものでした。それが中国に入って、どのように変わったかというと、、、

中:なんかこう歌うようですね。

蓑:そうですね、経典の文章を歌うように読むというのが中国で始まってきます。これは最初期にですね、やはり教えの中身そのものを理解するのは大変だったみたいでして、それで、経典を歌うように読むというのが行われていたという風に推測されていますので、それが現在にまでま部分的に継承されてるんだと思います。

為:読みやすいようにってことですね。

蓑:そうですね、 あと、歌うような感じで、やはり心の働きをなんか1つのものにこう結びつけていくっていうような意味もあるんだと思います。

為:これも、瞑想の1部分と言ってもいいんですか。このみんなで一緒に歌うってことは。

蓑:はい、実際にやってることは1つのことに専心していますので、瞑想のうちの1つと考えていいと思います。

中:だいぶ華やかになりましたねね。

蓑:基本的には、シルクロードを通じてインドに成立した仏教が中国に入ってきます。この仏教が、中国の社会の中に根付いていって、大きな影響を与えていきます。 
 実際にですね、中国で大きなお寺さんが作られていきます。今、私たちはお寺っていう言葉を使っていますけれども、この言葉自体も、中国でできたと考えられていまして、一説なんですけれども、後漢の時代に外交を司る役所が鴻臚寺(こうろじ)という名前で呼ばれるんです。そこに外国からいらっしゃったお坊さんが留め置かれたと、そこからお坊さんのいるところが寺と呼ばれるようになったという一説なんですけど、そういうのがあります。

ナ:「苦しみから逃れる道」である仏教の瞑想が中国に入り姿を変えたのはなぜなのか、 仏教を最初に中国に伝えたのは、インドや西域で出家した僧たちです。彼らの布教活動は一筋縄では行きませんでした。

為:仏教が入ってくる前は中国には宗教はなかったんですか。

蓑:実際には中国にすでに色々な思想が存在していました

為:宗教ではなくて思想ですか

蓑:宗教と言ってもいいと思いますが、紀元前にですね、もう皆さん、「諸子百家」という言葉を聞いたことあると思いますけども、様々なことを主張される方が存在していました。 その中で、儒教が1つ大きな流れを作っていくと、儒教の中に伝わっている資料ですけれども、「四書五経」というのを聞いたことあると思うんですが、そのうちの「詩経」と言われるものの中に出てくるお話にですね、「山にはにれの木がある、沢には栗の木がある、 家の中には鐘や太鼓が置いてある。それを使って楽しまなければ死んでしまったら人のものになってしまう」っていうようなですね、言い方が出てきまして、それはもうまさに生きてるうちに楽しみましょうというですね、そういう感覚が結構強かったんではないかなと推定されています。

為:とっても現世的っていうか、生きてる間が人生華だよみたいな、そんな感じだったんですか

蓑:現実の世界を大事にして、過度な享楽は戒めるけれども、今を楽しむことを大事にしようという考え方だったのではないかと言われています。

為:なんかでもあれですね、苦しみを解決するために生まれた宗教ですって持ってったら、 楽しく生きるのが大事だよって言ってる人に、これ説明するの難しいですね。苦しみなんてないからって言われると。

蓑:はいですから、これは南北町時代の資料なんですけれども、「理惑論」っていう名前で呼ばれてる資料の中に、異国の地の仏教者、お坊さんたちはですね、衣1枚の着物をまとって、そうして、日に1回だけ食事をしていると、それで戒律を守ってですね禁欲的な生活をしているけれども、それが一体何になるんだというですね、非常に厳しい批判がですね中国側から出されていますので、おそらく受け入れられるまでには大変な苦労があったと思います。

為:なおさらでも興味は来ますね、どうやって。

蓑:実際にその仏教は異国の宗教として、最初は まあ非常に小さな集団として始まっていくのではないかなと思います。そこからですね、現在では中国の三大宗教の1つという言い方がされるようなところまで展開してきますので。なぜそこまで仏教が大きくなったのかっていうのをこれからですね見ていければという風に思っております。

中:異国で仏教がどのように広まっていったのか、その謎を解くために、今回は中国でこの瞑想を広めていった3人のキーパーソンをご紹介したいと思います。こちらです。

為:なんか特徴的ですね、こちらのシルエットの方だけね。

中:蓑輪先生、この3人はとても大事なんですね。

蓑:この人たちがいなければ仏教は今中国でここまで広まっていないと思います。それぐらい大切な人物という風に考えていいと思います。

中:では、早速見ていきたいと思います、1人目はこちらです。安世高、2世紀頃の方なんですね。

蓑:この方は、中国の後漢の時代に入ってきた、安息国、今のいうところのパルティアと考えられているんですけども、そちらからいらっしゃった方です。 
 この方は安息国の王位継承権を持たれた太子であったと考えられているんですけども、お父さんの王様が亡くなられた後、その位をですねおじさんに譲られて出家してしまうと。

為:じゃあ外国人だったんですか、中国に伝えた方は。

蓑:そうですね、仏教をですね中国に伝えた方たちというのは、中央アジアとかこの安息国のようなですね、ちょっとインドから離れた所からの方たちが多かったと考えられています。

中:この安世高さんは、一体何をした人なんですか。

蓑:大変に、語学に達者だったと見えまして、そのインドに伝わった仏教の教えを 、中国語に翻訳された最初期の方です。 
 瞑想に関するものを安世高さんはかなり訳していらっしゃいます。瞑想資料に関係する経典を後漢の、仏教が伝わってきた初期の段階で翻訳されているという点で、安世高さんはとても重要な人物だと思います。

中:具体的には何を翻訳したんですか。

蓑:安世高さんの翻訳した資料の中では、「安般守意経」という資料があるんですけれども、「安般守意経」という風に出てくるんですけども、「安般」はその入る息、出る息を翻訳したと考えられています。で、おそらくその次の「守意」というのがですね、これは、念処という風に他のところでは訳されていますけれども、 心を対象に振り向けて、そうしてしっかりと把握していくというですねそれも翻訳語だと考えられます。
 この「守意」という言葉が、実は大変に興味深いところでありまして、「老荘思想」と言われるんですけども、老子荘子の考え方というのが存在してたといいます。老荘の言葉の中に、実は「守一(しゅいつ)」という言葉が出てまいります。「守意」というのがですね、その「守一」というですね言葉を連想させるものではないかと思います。こういうことをしたというのはですね、おそらく仏教を当時の人たちに受け入れやすくする、ある意味で、ハードルを下げたという風に言うことができるのではないかと思います。

ナ:安世高が最初期に翻訳した「安般守意経」、「安般」は入る息と出る息、「守意」は
注意を振り向け、しっかりと把握する念処を示しています。つまり、安般守意経とは、呼吸などをしっかりと把握する瞑想の経典という意味になり、まずはブッダの瞑想を伝えようとしていたことがわかります。
 さらに、注目すべきは、仏教に欠かせない念処を「守意」と訳したことです。この「守意」、中国の人々には「守一」という老荘思想の言葉を連想させました。中国伝統の老荘思想、その根幹には「道」と呼ばれる理念があります。道は世界が始まる前の状態、姿形はなく、絶対的で普遍的なものとされます。道から世界が生まれる時、最初に生じるのが「一」万物の礎です。「一」を守ること、すなわち「守一」を中国の人々は重んじていました。
 安世高は、仏教に欠かせない瞑想を伝える際、この尊い言葉「守一」を音や見た目で連想させる「守意」を使いました。最初に用いた訳語が、人々に敬意や親しみを持って受け入れられたことが、後に中国で仏教が広まっていく確かな足がりとなりました。

為:これ、老荘思想を選んだのはなんでなんですか。そこに、なんか儒教とかそういうのも
あったと思うんですけど。

蓑:それは、儒教思想の方が現実の世界のですね、人間関係を大事にする教えとして、展開してきますので、処世術ですね、政治思想だと言ってもいいと思います。でも、その政治の思想というのは、時と場合によっては争いが起きて、例えば敵に攻められてきて、町全体が焼かれてしまえば、もう何も残まらなくなってしまうと、そういう考え方に対して変わらない何かを求めようっていう、思想運動が起きてくるんだと思うんです。これが実は老荘思想なんです、老荘思想の中には根源的な何かみたいなものが、私たちの見ている世界のその向こう側に存在しているという風に考えて、それを「道」という言葉で表現したと考えられます。
 ですから、真実を求めていくっていうようなところが仏教がですね、求めているものも真実を求めていくっていうところがありますので、共通するものと考えられて、老荘思想の方に、仏教の言葉を翻訳する時にですね、そこから借りたんだと思います。

中:それにしましても、このどうして瞑想を訳そうと安世高さん思ったんでしょうか。

蓑:おそらく、安世高さんの出自みたいなものも、王様の家に生まれて、でも若くして王様もなくなってしまって、そこで感じたものがあるんだと思うんです。そういうその悩みや苦しみを越えていくための道というのを故郷にいる時にすでに学んでいたんだと思います。 
 おそらくそれは地域を超えて、時代を超えて共通するものではないかと思いますので、それをやっぱり中国の世界に伝えようということを考えたのではないかなと思います。
 ですので、仏教にとって重要な瞑想のですね、具体的なノウハウを最初に伝え、中国の人たちにとって身近なものとしてですね、受け止めてもらえるようにしたということではないかと思います。

中:でも、いくら自分の悩みや苦しみが深くても、この異国でですね、この苦労は並々らぬものかと思うんですけども、

蓑:それはやはりブッダに対する「信」みたいなものと、悩みを越えていく道としてですねこれしかないっていうような意識でいらっしゃったのかもしれないですね。皆さん、当時インドから中国へという距離を考えますと、大変なところを、ましてや、今のように電車があるわけでもありませんので、徒歩で大体皆さんいらっしゃってるんですね。ですから、本当に命懸けで何か伝えようという気持ちでいらっしゃってるんだと思いますので、そう思わせるものが、仏教の中にはあったと言っていいのではないかと思います。

為:そもそも仏教自体がこう苦しみに向いてるわけじゃない。苦しくないなら、それが1番いいけども、でも、生きてるって苦しいことが起きるから、そのある意味カウンターっていうか、その世の中の救いのためにできた仏教だと思うんですけど、 なんかお話伺ってると儒教っていうのが、現実的に出世の道だとしたら、やっぱそれだけじゃこう人の苦しみが受け止めきれないところに、目に見えてるもんじゃない、また別のこうなんていうかな、真実があるんだっていうことで、救いを提供してた老荘思想があって、仏教がこうくっついて、それがなんか融合していくみたいなところがすごい面白いなっていうのを伺ってて思ってるとこですね。

ナ:西域からシルクロードを通じて、中国へと伝代したのは「大乗仏教」です。紀元前1世紀頃インドで起こった大乗仏教では、ブッダが至った悟りの教地は、全ての人に開かれていると教えます。
 大乗の教えを広く伝えようとした僧たちは、多様な文化が行き交うシルクロードで、数多くの仏像を作りました。インドと中央アジアを結ぶ交通の要所、ギルギットの断崖に掘られた仏の立ち姿、仏の姿が言葉や文字だけでなく、彫刻や絵で表現されたことで、仏教を人々にとって親しみやすいものになりました。
 仏像など、目に見える仏の姿は、瞑想の対象でした。天井を埋め尽くすのは仏たち、仏画や仏像を元に僧たちは仏の姿を脳裏に焼き付け、それが目の前に立ち現れる様を観察します。「観想念仏」と呼ばれる瞑想です。
 シルクロードのオアシス都市「敦煌」、西域からの文物はこの街を通って中国に入りました。敦煌郊外の断崖には、仏教の僧たちが寝起きし、修行した切窟が残されています。内部を彩るのは、極彩色で描かれた「悟り」の世界、僧たちが瞑想の対象とした仏の造形は、中国に至ってより写実的で色鮮やかなものとなります。華麗に視覚化された仏の世界は言語や文化の違いを超えて、人々を仏教へと引きつけました。
 長い旅路を経て、仏教は新たな瞑想や美術を生み出し、異なる他者にも受け入れられる形へとしなやかに変容していきました。

中:2人目のキーパーソンをご紹介しますこの方です、智顗(ちぎ)さん。

蓑:天台宗の祖とされています方です、天台山というですね山を拠り所と言いますか、拠点にしますので、のちに、「天台大師 智顗」という名前で呼ばれるようになる方なんです。 智顗さんはですね、仏教の瞑想が東アジア世界に伝わってきて、そして、色々なパターンが、やはり実践されるようになっていくんだと思うんですけど、そういうのをこう整理するような形で、新しいものを打ち立てていくんです。インドから伝わってきたものに対して、整理の仕方をですね、少し変えまして、誰にでも分かりやすい形にいたします。で、それがまあ1つ理由なんだろうと思うんですけども、多くの人たちにとって実践しやすいものとして、 受け止められていくのではないかと思います。

為:編集者って思うといいですかね、教科書を作った仏教の編集者みたいなイメージですかね。

蓑:そうですね、そういう側面もあると思います。1番流布したのはですね、「天台小止観」という名前で呼ばれるんですけれども、この「天台小止観」は伝承では在家の信者さんのリクエストに答えて、一般向けに仏教の瞑想を解説したものだって言われていまして、とてもわかりやすいんです。言わばエッセンス版を作ったのではないかって言われているんですけども、実際にその後、色々な宗の人たちに、 瞑想修行のための指南書として使われていくものになっています。

ナ:智顗が活躍したのは6世紀、インドから多種多様な瞑想の手法が中国に流入していた時期でした。そこで力を入れたのは、様々な瞑想を整理し、一般の人々にも実践しやすいものとして伝えることでした。「天台小止観」はいわば、初心者向けの瞑想のガイドブック、そもそも瞑想とは何か、どんな順序で進めれば効果的かなどをわかりやすく解説しました。
 中でも革新的だったのが、ブッタの時代には4つに分けられていた「念処」の観察対象を中国の人々のものの見方に合わせて捉え直したことでした。

蓑:為末さんこれ、第1回目の時に「四念処」というお話をしたんですけれども覚えていらっしゃいますでしょうか。

為:言葉は覚えてるんですけど、4つなんかでしたよね

蓑:「四念処」というのはですね。初期仏教のところで、ブッダの観察の対象に、応じて分けたものなんです。

中:身・受・心・法でしたね

ナ:観察対象に注意を振り向けしっかりと把握する念処、4つの分類がどんなものだったかというと。
 例えば、何か聞こえてきたとして、音自体やそれを知覚する体の部位を意識するのが「身念処」。その音が心地良いか不快かなど、刺激を受けて最初に生ずる感覚を観察するのが「受念処」。さらにそこから心に生まれた喜怒哀楽などの感情を把握するのが「心念処」。
そして瞑想をしていて、そわそわしたり、眠気や疑念に苛まれたりする心の働きなどを観察するのが「法念処」です。
 でも、この4つちょっと複雑でわかりにくいような。

蓑:これ、今の私たちの感覚で言いますと、受も心も法も全部心の働きなんですよね、そう考えると、なぜ受、心、法という風にですね分けなければならなかったのかっていうのが、あまり納得がいかないような気がします。で、これをですね天台大師智顗さんは新たな分類法を発案いたしまして、それがとてもわかりやすいんです。
 智顗さんはですね、歴縁と対境という言葉を用いるんですけれども、私たちの身体による動きですね、これを縁という言葉で表現するんだと思うんですけども、それを通してというのを歴縁という風にですね表現いたしました。

為:なんか、呼吸みたいなものは歴縁?

蓑:そちらも入ってきますね。
 で、対境というのはですね、これ心の働きなんですけども、これ実は、私たちが感覚器官を通じて受け止めているものが対境という名前で表現されました。

中:2つに分けられたんですね。

為:まあ、でもとってもわかりやすくなった感じですね。

蓑:はい、そう思います。やはり、今の私たちにとっては、例えばもうこの西洋の考え方の影響もあるのかもしれませんけれども、 精神と肉体とかっていう分け方が馴染みになってると思いますので、おそらくわかりやすいんだろうなと思います。

為:そうか、心身だからに2元論というか心と体っていういう風に。

蓑:はい、新たに整理し直したというところが、大変に優れていたのではないかと思います。

為:本質がわかってないと、こんな風に分けられないなと思って、理屈だけでわかってもわからない。実際にやってみて、これはこことここの境目が1番、2つに分けてわかりやすいんじゃないか、そういうことですよね、

蓑:それはご自身がですねよく知っていなければ、そういうことできないと思いますので、 非常によく何を伝えるべきなのかというのをやはりきちんと認識していて、そのために、どの部分を省いていくのかというのをしっかりと把握することができていたと考えていいと思います。

為:正確であるっていうことは、複雑であるっていうことなんですよね。だから、陸上理論も本当に正確に語ると複雑に膨大になっていって、だって、手の指の関節だって無数にありますから、それをどう動かすと早く走れるかってのはもう説明するとたくさんあるんだけど、やっぱりいいコーチってのは、選手の様子を見て、なんかいろんな動きはあるんだけど、ハードルの上にまるで、サーカスの火の輪っかがあるように、くぐってごらんっていうと綺麗に動くっていう、そういうなんかある1点とかあるすごいシンプルにした表現をすると、人の体が動き出すっていうのを見つけるのがいいコーチなんですけど、なんかそれを伺いながら、正確なんでしょうけどね上の方が、でも、私たちが実践するには、とっても腑に落ちるっていうか、やりやすい分け方をされたのかなと思って今聞いてました。

中:智顗はもう1つ瞑想に大きな変化をもたらしたそうですね。

蓑:はい、とても中国的だなと思っているんですけども、伝統的な「気」というですね考え方と言いますか、それを瞑想の中に取り込んでいきます。

為:気は中国の人でも言いますよね、

蓑:元々は医学的な考え方のところで見つけられたと考えられていまして、気はイメージではない、実際に存在するものですと、そういう風にちゃんと捉えてるんですね。私たちの身体の内部も私たちの外側も、流れのようにして存在している何かであって、それは訓練をしていけば、きちんとつかまえられるようになると。
 呼吸と連動して確認していくものだっていう風に説明されているんですけども、実際に 仏教が持っている呼吸の観察、これ入る息と出る息を見るっていうのが1番基本だと思うんですけども、気の練習の時には、その呼吸をする時にですね、足元から何かが上がってくるのを感じながら、そうして上の方までこう上げていくと。そして、今度は息を吐いていく 時に、上の方に上がった何かを下の方にこう下げていって、こういう呼吸の仕方をするんだそうです。心は1つの対象に、おそらく気の流れに結びついてますので、心の働き、落ち着いていく感じがします。

中:これも、中国の人にとってはこう受け入れやすくなっていった1つの方法だった?

蓑:と考えていいと思います。どのようなことを入れることによって、中国の人たちによく受け止められていくのかっていうなことをですね、おそらくは、考えていらっしゃったのではないかなと。

為:どうしてそこまでしたんでしょうかね。

蓑:智顗の活躍した時代というのも、南北朝の時代が終わりかけて、隋が統一していく時ですので、やはり大きな戦乱が続いていた時期だと思うんです。身近な人が亡くなっていくとかですね色々とやっぱり悩み、苦しみを目の当たりにしていた時代ではないかと思います。そこで苦しんでる人たちをいかに救っていくのかっていうことを考えていらっしゃったのではないかなという風に思います。

為:いろんな方が苦しまれてる時代だったと思うんですけど、その人たちに伝えやすくするために行った工夫っていうのが、このわかりやすさだったっていうことでいいんですかね。

蓑:おそらくそうなのではないかと思います。そのわかりやすさは、実は今の私たちにとっても同じようなものなのではないかなと思います。
 特に「天台小止観」のようなですね、エッセンスを分かりやすく説いてくださったものというのが、私たちが読んでも納得もしやすいものではないかなと思います。
 そのエッセンスは、天台の伝統を継承した人たちだけではなくて、禅宗とかですね、他の宗の人たちの間でも、この「天台小止観」っていうのは大事なものとして使われていきます。

中:中国に仏教を伝えた3人のキーパーソン3人目、シルエットは大変気になりますね、その名も、菩提達磨

為:さすがにこの方の名前は聞いたことはありますね。禅宗を作られた方なんですね。

蓑:禅宗の祖という風に言われます。先ほど、菩提達磨さんが隠れてた時のシルエットがありますが、形はなんだかわかりましたでしょうか。

為:達磨の、、、

蓑:はい、菩提達磨さんは。洛陽の郊外の嵩山少林寺っていうところに入られて、9年間
壁に向かって座禅をしてらっしゃったという風に言われる方なんです。 
 で、そのあまりにもずっと座禅をしていてですね、手と足がなくなっちゃったっていうようなですね、そういうお話ができてきまして、今のようなだるまさんが出来上がるんです。そういう意味で、非常に馴染みの深い方ではないかと思います。

ナ:「禅」はサンスクリット語の「ディヤーナ」から来た言葉で、心が静まった状態を指します。
 インド出身とされる菩提達磨は、禅を中国で発展させ、座禅などを重視する新たな集団 「禅宗」を打ち立てます。
 禅宗の最大の特徴は、瞑想を実践する際、中国の文化を積極的に取り入れたことでした。

蓑:1番最初に、中国の人たちの中に現実を大事にする、そういう傾向が見て取れるのではないかっていう話をいたしましたけども、まさに現実を肯定的に捉えていくっていうようなですね発想が初期の禅宗の文献から感じられるところがあります。

為:その感覚を取り入れていったってことですか

蓑:そうですね。その現世肯定の1つの表れだと思うんですけども、達磨さんを祖と仰ぐ集団の中に、唐の時代からなんですけども、「見性成仏」というですねオリジナルな考え方が出てきます。「見性成仏」というのはですね、これは最初に人間、私たち自身もですね本性を、はっきりと見てとることが大事、その後で修行をしていくっていうようなことをですね考えていたのではないか、これは、時代によってちょっとこう解釈変わったりもするんですけれども。

中:「本性を見て取る」、どういうことですか。

蓑:本性というのはですね、私たち自身が実は仏に他ならないということに気がつくことだと、本性というのは、実は私たち己自身が仏に他ならないということだという風に言われています。

為:見性成仏ですね、「性」っていうのがそのままで「見」っていうのがあらわす、で、「成仏」っていうのが、

蓑:仏になる。

為:だから、そのままが仏としてあらわれるってそんな感じですか。
蓑:そうですね、私たち日常生活の中では自分自身が仏であるなんてことは考えもしませんし、でも、自分自身をですね、きちんと肯定的に捉えていく。まず最初に、自己自身が仏に他ならない、否定すべき対象ではないんだよっていうのを、きちんとつかまえた上で修行をしていくというようなことを意識してるのではないかと思いますね。
 「もともと仏である」という考え方から出発してきますので、自分自身がもうそのままで仏でいいんだよっていうですね、そこのところをきちんと踏まえた上で、修行もしていきましょうと、実際に修行をしながら、それに気がつくっていうことも考えてはいるんですけど、まずその「見性」をして、それが大事なことだよっていう風に、禅宗門の中では主張していく。

ナ:元々インドでは僧たちは瞑想し、コツコツと修行を積み重ねながら、先が見えない悟りへの道も手探りで進んでいました。一方、「見性成仏」を解く禅宗では、この過程がガラリと変わります。
 初めに、「自分は必ず悟りを得られる、なぜならば、仏たる性質が備わっているから」と、自らを肯定します。瞑想は悟りを得られることを自覚した上で、その道筋を確認するように実践していくものと捉えられたのです。

中:厳しい修行を経て、色々な俗世の雑念を捨てて仏になるっていうイメージがあるんですけれども、もう仏なんですか。

蓑:はい、それが多分中国的な発想と重なってる部分なのではないかと思うんです。先ほど老荘の話を少しいたしましたけれども、世界の根源になるものが存在している、それが「道」であるというような表現をいたしましたけれども、「道」が展開してこの世界に出来上がっている、その世界の中に実は私たちも含まれてるわけです。
 ですから、私たちもある意味で「道」が変化した存在であるという風に考えていきますと 、自己自身というのはその否定をするべき対象ではなくて、まず肯定的に捉えていくものに変わると思います。本来的に私たちは仏なんだということに気がつくというのは、現実を肯定的に考えていくっていう、中国の人たちにとってすごくマッチするものなのではないかと思います。
 
中:私たちはですねコツコツ努力した暁に達成したいものがあると思いがちだとは思うんですけども、最初っからオリンピックでメダル取れるよって言われてるような。

為:伺ってて、「何々になる」って話と「何々である」っていう、後者の方の立場を取るっていう話だと思うんですね。僕らの世界ではよく、コーチが言うことがあって、それは、
「馬に生まれたのに、木に登ろうとするな」という言葉があるんですけど、それは要するに、全ての人は自分の特性を持っていて、その特性ってのはやっぱり努力では変えられないから、その特性が最大限に生きる戦い方をしなさいっていうんですね。で、今のお話を伺っていくと、 努力っていうのが何かの克服っていうイメージで、選手もスタートするんですけど、でもやっぱり高いレベルにいってくると、克服ではちょっと通用しないので、むしろ本来持ってる力を伸ばすっていう風に発想は変わっていくんですけど、それは、「私はそもそも何々であった」っていうそのその存在を認めてからなる。だけど、この時にややこしいのはですね、自分が憧れる姿と、本来、自分が何々であるがずれてることがあるんです。そうすると、ここに葛藤が生まれて、自分はあなりたい、だけど、自分は本来こういう生き物であると、こっちを受け入れるっていうプロセスが出てくるんですけど、すごくそのことに話を聞きながら似ていて、だから、ある意味の、誰が抵抗してるってのは、実は自分の頭の中にある「こう生きなきゃいけない」っていう、なんか思い込みみたいなのをどう克服するか、 ちなみにそのコーチも中国人のコーチだったんですけど、多分にこの中国っていうか、アジア文化の考え方なのかもしれない。

蓑:「見性成仏」を実際にどのようにして、体得していくのかっていうところですけれども、そのために、禅宗の人たちは座禅とかをですね、よくなさってますけど、よく臨済宗さんで、使われているのは「公案」と言われる、論理的にはですね意味をなさないような、文章をですね修業者の方に出してですね、それに参究しなさいと。有名なのがですね「仏とは何か」っていう質問に関して、「麻三斤(まさんきん)」っていうのがあるんです。麻三斤っていうのは、麻、三斤っていうのは、重さの単位ですので、大体2kgって言われます。ですので、仏とは何かと聞かれて麻三斤という風に答える。これもですね、気がつく内容は、自分自身が仏なんだっていう風に気づくことがどんなに論理関係があるのかっていうのはですね、おそらく、唐の時代ぐらいまでは、お坊さんたちがですね。出家する時には、衣を自分で作らなければいけなかったんだそうです。で、その衣を作るための布の量が大体3kgですから、質問に対して仏とは何かって言われて、麻布2kgっていう風に答える文章、なんでだろうと考えてるうちに、麻布2kgは出家をした時に作る衣を作るために必要な量
だと、そうすると、これはその麻三斤で作られた衣を着てる人が仏なのか、私もその衣を着ている、なんだ自分自身のことじゃないかと思います、こういう風に気づいてもらうために、作られた工夫の問題だったんじゃないかって言われるんです。
 唐の時代に作られたその公案と言われるですね、この問題は、「自分自身が仏に他ならない」っていうことを気づかせるために作られた工夫だと言われているんです。これ、実際には答えを探して、一生懸命こう考えていくわけですから、1つのものにやっぱり集中してくんです、そういう点では修行の1つにもなってるんです。
 1つのものをこう考え続けていくっていうところで、その心の働きを静めていき、かつ、他のものが起きないというんですね。で、そういう状況に入ってるんだと思うんです。ですからとても面白い工夫だと思います。

ナ:自分自身を肯定した上で、悟りへと向かう見性成仏の理念は、 中国の人々を禅宗へと引き寄せ、仏教の急拡大をもたらしました。
 信者や寺院が増える中、瞑想の実践に欠かせない戒律も、 中国の文化を積極的に取り込んだものとなっていきます。

蓑:仏教者も集団で維持していくっていうのが原則になりますので、基本的なものはインド伝来の戒律を用いるんですけども、禅宗の方たちはですね、その戒律に新たなものをですね付け加えるようになっていきまして、それを「清規」という名前で呼んでいます。で、清規の中でも、実は儀礼的なものをですね結構規定しています。この儀礼というのは、東アジア世界の特徴でして、先ほど儒教が主流だって申しましたけども、儒教がですね、ある一定の行動様式を皆さんに要請するんです。例えば、作務と言ったりするんですけども、日常のですねお掃除だとか、これが仏道修行の1つとして位置付けられるようになって、もう私たちの身近なところでは食事をするときに話をしてはいけない、そういう細かいところまでですね、規定されていくようなものができるんです。実際にその儀礼的なものがですね、行われるようになっていきますと、様々な行事がだいぶ華やかなものになっていくっていうのがありまして。たくさんのお坊さんたちが一緒になって、礼拝をしているっていうのを見たと思うんですけども、あのようなこともですね。実は中国の儀礼を大事にするっていうところから来てるものではないかと思います。 
 これが今、私たちが日本で仏教に接する時にですね様々な行事、お正月の修正会(しゅしょうえ)から修二会(しゅにえ)とかですね。あるいは、お盆だとか、お葬式とか、いろんなものがかなり儀礼的に行われてるのを見ることがあると思いますけど、これはやっぱり中国で出来上がった仏教の影響なんだと思います。
為:本当に、すごく仏教が私が知ってる仏教に近くなってきてるなって印象がありますけど。

蓑:これは現在の、東アジア世界の仏教を見てみましても、確かにその通りでありまして。 
多くの人たちが関心を持って実践しているのは、念仏と禅だという風に言われるんです。
 圧倒的多数の方は、禅宗のお坊さんとして今存在しています。本当に社会の中に浸透させることができたのは、 やっぱり菩提達磨さんの流れが、現在生き延びているという風に言うことができると思います。
 基本的な社会を支える理念として、仏教がですね位置づけられて、大変に栄えたという風に考えられています。

中:為末さんここまで中国に根づく仏教ってことで見てきましたけど、いかがでしたか。

為:今日3人の方を紹介していただいて、仏教を紹介した人、仏教をまとめた人、仏教を浸透させた人っていう。なんかそういう印象で、ぐっと中国世界というか、アジアの世界に 仏教が染み込んでいったっていうのが、今日伺った印象です。

蓑:そうですね、中国の人たちが持っていた伝統的な考え方を、仏教が受け止めて、自分たちが変容して、そうして中国の社会に、土着化していく道を作ったということではないかと思います。
 ただそれでも、基本的に本質の部分というのは変わってないんだと思います。私たちが人間である以上、この世界を生きていく時に、必ず悩みや苦しみというのを持つんだと思うんですけども、それに対する解決策というのを仏教は確かに提供していました。
 それで東アジア世界でも形は変わりましたけれども、本質部分を変えずに残ったのではないかと思います。

為:本質は変わらずにって、今簡単におっしゃいましたけど、本質をどこにするかっていうのが多分いろんな議論があって、これを変えたら仏教じゃなくなるんじゃないか、でも、 本当にこれまでの、ずっとプロセスを見ていくと、より明らかに苦しみと向き合うのが仏教だと、瞑想でそれを解決するんだってところがどんどんどんどん浮き出てきてる感じがして、そこが仏教の本質なのかなってのは、すごく逆にわかりやすかったなっていう感じはします。

蓑:仏教の大事なところは何なのかっていうのを、しっかりと突き詰めざるを得なくなったというのが、中国にというか東アジア世界に入ってきて仏教がですね、直面したことではなかったかなと思います。
 中国という、全く文化の違うところに伝わることによって、自らも変質する部分っていうのもあったんだと思うんです。それはおそらく柔軟性みたいなものを身につけたのではないかなという気がいたします。 
 これが残っていれば、仏教だっていうのは、それ以外の部分はは変えても良いという風に考えることができますので、非常に柔軟な姿勢というのをですね仏教は身につけることができたのではないかと思います。
 
ナ:中国の仏教を今に伝える佛光山法水寺、禅宗の寺として 日々自分を見つめる瞑想を行っています。

臨済宗日本佛光山総住職:「現在、今を生きる」これはもう禅の教えです。1人1人自分がきちんとわかれば、じゃあ自分はこれからどうすべきか、自分が責任を持って、これは1番大事なことですよね。
 どんな人であっても将来性がある、絶対可能性がある。だから、仏教の教えでは、やっぱり仏性、仏になれるの、そういう性分を持ってるから、皆さんは将来的に悟られるんです』

ナ:インドで生まれた仏教は、シルクロードを経て、目に見える仏の姿を瞑想の対象とし、 中国では伝統文化と融合しながら、人々の暮らしに根を張っていきました。苦しみから逃れる道を示し続けてきた仏教がたどり着いた姿です。

臨済宗日本佛光山総住職:皆さん苦しんでいるから、人間関係で苦しんでる。まあ、もうテストとか生活とか、今はコロナとか、時代によって苦しんでることは違うんですけど、苦境から救って楽にさせるのは仏教徒の役割と使命感ですね。
 仏教の1番の醍醐味は、やっぱり包容力、皆さんのいいところ、どうやって皆さん一緒に生きていくか、そういうような考え方がもとについている。
 だから、もう完全に伝統を守りじゃなくて、やっぱり現代、今の人は何が必要か、そう考えて対応していく。これは仏教の醍醐味』

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