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NHK「こころの時代〜宗教・人生〜」の文字起こしです

2022/6/19 歎異抄にであう シリーズ 無宗教からの扉(3) 「歎異抄に出会う」

阿満利麿:宗教学者 明治学院大学名誉教授
ききて(ディレクター):鎌倉英也、池座雅之 

ナレーター(以下「ナ」という):「歎異抄」は700年前の鎌倉時代に書かれた仏教の古典です。そこに貫かれているのは「本願念仏」の思想。阿弥陀仏が仏になる前、人々を救うために立てた願い、「本願」に基づく念仏を称えるだけで全ての人が救われるというものです。
 法然によって称えられたその教えは、親鸞らによって受け継がれました。「歎異抄」はその親鸞の言葉を門弟となった唯円という人物が、正しく伝えようと書き留めた書です。
 その第三条には、「歎異抄」で最も知られた一節があります。

『善人なをもて往生をとぐ、いはんや悪人をや』

 「善人ですら往生をとげるのですから、ましてや悪人が往生を果たすことは言うまでもありません」
 高校の教科書にも乗っているこの一節、皆さんどのように理解しているでしょうか。

『街頭での一般の方①:いや~正直、ちょっとあんまり納得はできない。「地獄に行け」ってわけではないんですけど、悪人はやっぱり悪いことをした人とか犯罪を犯してしまった人のことを悪人というのかなとは思ってるんですけど。
②:みんな最後は極楽浄土に行けるっていう意味ですよね。その方が安心、ほっとします。差別なく見捨てることなく、そういう教えがあるってことは。
③:善人とか悪人とか関係なし、みんな行けちゃう?となると悪人が増えちゃうって漢字ですか。でも100%善人かと言われたらそうじゃないときもあるかもしれないので、なんかすごい、自分はダメなんだって気を落とさなくていいのかなって。
④:時代が変わりますと私達の縛られている善人悪人を区別するものは時代を超えていつも一緒だと限らない。自分で絶えず問い返していくしかない。
⑤:ほんとに善人の人なんかいないじゃないですか。やっぱりなんか心にね、悪いことしたなって思ったりするようなこともみんなあるから。そういう人をみんな悪人としたらほとんどの人は悪人でしょ、そんな仏さんみたいな人いないんだから』

 シリーズ「歎異抄にであう 無宗教からの扉」、第3回の今日は、悪人とはどのような人のことか、そしてなぜ悪人が救われるのかひもといてゆきます。

阿満(以下「阿」という):今日は歎異抄の中でも最も有名な、第三条というものを取り上げます。『善人なをもて往生をとぐ、いはんや悪人をや』という有名な言葉のある章でありますけれども、問題はですね、この時の「善人」とか「悪人」という言葉の意味が私達の常識の意味とは全く異なるんですね。
 我々の常識で言いますと、救われる人はあるとしたらそれはよい人なんですね。しかし、この「歎異抄」では、まず救われるのは「悪人」だと言うんですよね。「善人」は二の次みたいなもんですよ。これはどうしてなのか。
 これは「善人」と「悪人」の考え方を決めている基準がですね、我々の常識と異なっているということなので、そこをちゃんと理解するということは大事だと思いますね。
 『善人なをもて往生をとぐ、いはんや悪人をや』と。「善人ですら往生をとげる、つまり、阿弥陀仏の国に生まれるんだと。ましてや悪人が生まれないわけがないだろう」と、こういう言葉ですね。
 『しかるを世のひとつねにいはく』と、世間では「悪人なを往生す、いかにいはんや善人をやと」、悪人が救われるんだからもう善人が救われるのは当たり前のことだと、こういうふうに世間では言うと。
 『この条、一旦そのいはれあるににたれども』それはもっともなように聞こえるけれども、『本願他力の意趣にそむけり』と。阿弥陀仏の本願、そういう他力の仏教の考え方から言うとですね、その趣旨に反すると。こういうふうに始まるわけですね。

法然上人は、「善人でさえも往生を果たすのです。ましてや悪人が往生を果たすことは言うまでもありません」とおっしゃいました。
 しかしながら世間では、「悪人が往生するのだからましてや善人が往生するのは当たり前のことではないか」というのです。
 このことは一応は理屈が通っているように見えますが、阿弥陀仏の本願の趣旨に背くことにほかなりません。
 そのわけは、自らの努力によって善を積み行う人は阿弥陀仏の本願をたのむことがなく、したがって、阿弥陀仏の本願の対象になる人ではないからです。しかし、このような人々も自らの努力によって仏になることが不可能だと自覚してひとえに阿弥陀仏の本願をたのむようになると往生を果たすことができるのです』

阿:我々の常識では「善人」と「悪人」があればですね、「善人」がよいに決まってるんですね。で、その基準は何かというと大体、法律か道徳かを基準にしている。法律に反した人は「悪人」である。あるいは道徳的に悪いことをした人。
 しかし、ここで言われている「善人」というのは、仏教の土俵の中での「善人」、「悪人」の問題であって、仏教でいう普通の「善人」というのは、戒律を守る、あるいは、瞑想、座禅なんかもちゃんと立派にできる、そして、お勉強をしてですね、智慧を磨くこともできると、こういう人が「善人」なんですね。
 それに対して「悪人」というのは、まるで修行ができない、戒律を守るといっても何一つ守れない。そういう自分の力で仏教の教えを実践できない人ですね。そういう人間を「悪人」とこう言っている。
 ですから、世間で言うそういう「善人」、「悪人」が基準ではなくて、自分がその悟りの世界、自分が仏になるというそういうその目標の前で無力感を感じてしまう。つまり自分が、仏になる手だてがないというふうに思ってしまう人間のことを「悪人」と。
 そういうその「悪人」のために阿弥陀仏の本願というのが生まれたんだということが言いたいわけですね。

池座(以下「池」という):これあの「善人なをもて往生をとぐ、いはんや悪人をや」
というのは、私なんかも受験の時とかなどに歴史で学んだような記憶があるんですけども、その時にいわゆる「煩悩の深い悪人こそが救われるんだ」と、「煩悩の深い悪人」と言われた時には、道徳的な意味での「悪人」かなっていうふうに理解してきたんですけども。

阿:今、とてもいい言葉を使われた。煩悩の深い人間ってそう解説してあったわけですよね。そのね、煩悩が深いっていうのは実は第3章の中でもですね、
『煩悩具足のわれらはいづれの行にても生死をはなるることをあるべからざるをあはれみたまひて願ををこしたまふ』
 その「煩悩具足のわれら」という言葉をそこで使ってる。つまり「悪人」という言葉を理解する時にそのままでは理解が難しいから「煩悩具足のわれら」という言葉に一度換えてみたらどうかという工夫がなされてるんですね。

ナ:「煩悩具足のわれら」、「悪人」とはどのような存在なのか知る上でカギとなるこの言葉は「歎異抄」第三条の後半に出てきます。
『煩悩に縛られた私達はどのような修行を実践しても迷いの世界から離れて自由になることができないのですが、その私達を憐れんで阿弥陀仏誓願を起こされたのです。つまり、阿弥陀仏の根本の願いは、私共悪人を成仏させる点にあるのですから他力をたのむ悪人こそが、正真正銘浄土に生まれて必ず仏となる種の持ち主なのです。
 それゆえに法然上人は、「善人でさえ往生するのです、ましてや悪人が往生することは言うまでもありません」とおっしゃったのです』

阿:この「煩悩具足のわれら」という時の「煩悩」というのは「煩」という字は「身を苦しめる」とこう言われています。「悩」という字は「心を悩ます」。
 つまり体と心と両方を悩ます、苦しめる。それは具足してるということは、それはもう体にピタッとついていてですねそれをそれから逃れることはできない、という意味合いが具足ということでしょう。
 ですから身を苦しめ心を悩ます、そういう精神のはたらきなしに我々は暮らすことはできないと。我々の暮らしはいつでも身を苦しめる一面、心を悩ます一面を絶えず伴っていると。
 もう少し突っ込んで言うとですね、その煩悩というのは世間では普通よく欲望というふうに誤解されます、誤解されるというかそういうふうに理解されています。除夜の鐘というのがあって、お正月が近づくと煩悩百八つあると、除夜の鐘は百八つ突くというふうなことを言って、煩悩は一つ一つ勘定ができるかのようにこうイメージされますけれども、私が見るところ煩悩というのは自分中心に欲望が行使されるというか欲望が使われるような状況を煩悩と言っている。
 つまり自分がその欲望を使って自分のためになるように絶えず計らってるようなこの精神状態のことを煩悩とこう言ってるんだと思いますね。で、煩悩が働くと困るのは他の人なんですよ。つまり、みんなお互いに煩悩をはたらかしてこう接触するわけですから、そこで人を傷つけたり、それから自分も傷つけられたり苦しみが生まれるというふうなことで煩悩的状態っていうのはどちらかというと苦しみを生む土壌だというふうに考えていいと思うんですね。
 ですから、他者との摩擦が生じてもですね、その摩擦の原因が自分の中にある欲望の使い方にあると、あるいは、自分の自己主張の中にあるというふうにはなかなか考えが至らない。私達は自分のエゴのはたらきということについて、なかなか如実にそれを見るっていうことはないですね。つまり、自分で自分の顔は見ることはできないというのと同じでいつも見るのは他人の顔ばっかりですよ、自分で自分の顔は見えないと。自分がどういう人間であるかっていうのは大体見えにくいですね。人間の目は外へ向かって付いていて内に向いてないんですよね。
 私共の自我というのは満腹をしていても次の食材を手にしておきたいというようなことも起こるし、それから他者との関係においても何か優劣を定めないことには落ち着かないと。自分の存在を何か誇示できるような場がないとですね、なかなか暮らしの中で安定が得られないという、そういう性格がどうしてもあるものですから他者との関係では優劣というようなことを競う。それは己を安定させるためだというようなこともあると思いますね。
 だからエゴというのは人間にとっては不可欠だけれどもエゴは予想以上にエゴを主張したがると、そこが一番苦しいとこでしょう。その予想以上にエゴが働くことに、それはちょっとおかしいぞといってストップをかける力が我々にあればいいんだけど、それがないんですよ残念だけど。

池:私なんかがこう仏教というのをイメージした時に、まず何かこう煩悩っていう欲望みたいなものがあって、何かこうそれをなくしていけるような道というかそういうものを修行していくのが仏教なのかなというなんか1つイメージのようなものがあったんですけれども、そういうあり方とは全く違うっていうことで、、、

阿:仏教というのは煩悩をなくすために修行すると、修行して自分の煩悩をコントロールするんだとそういうイメージを持っておられる方結構いらっしゃると思うんですね。実はこの法然上人の出現の意味というのはそこにあるんです。

ナ:「歎異抄」は親鸞が門弟唯円に語った言葉を書き留めた書です。その中には親鸞が師と仰ぐ法然上人から聞いた言葉をそのまま唯円に伝えている文章があります。それは「仰せ候ひき」、親鸞が「法然上人はこのようにおっしゃいました」と伝えている部分です。
 法然は当時仏教の最高学府だった比叡山で長年修行しました。しかし、どれだけ修行を重ねても人間の煩悩を消し去ることはできないと思い至り、「本願念仏」の思想にたどり着きます。

阿:どんなに修行しても煩悩をコントロールすることはできないと、ましてや煩悩をなくすなんてことはできないと、そのことに法然は気付いてですね、それでそういう煩悩をコントロールできない、そういう人間が救われる仏教はないのかと、あるいは煩悩のままでこの救われていく仏教がないのかと、それを自分はここに新たに提示するんだと。
 普通の人が抱いてる仏教のイメージを法然は全部捨ててるわけですね。その理由は、我々は煩悩をコントロールもましてや煩悩を捨てるなんてことはできないというそういう断念というか見定めがあったということですね。
 「歎異抄」の中にはね、第一条を思い出して頂きたいんですが、第一条にはですね、阿弥陀仏の本願の前には、「老少善悪の人をえらばれず」と書いてあるんですよ、「善人」、「悪人」ですね。そういうことは一切問わないとこう書いてあるわけですね。なぜ善悪にこだわらずに阿弥陀仏の本願がはたらくというそういう阿弥陀仏の本願という救済原理の普遍性をですね冒頭で打ち出しておきながら、この第三条にくると「善人」と「悪人」を区別して「悪人」が大事で「善人」は二の次だとこういう善悪にこだわった議論がなされてますね。
 これはどういうことかというね、この法然上人という方はその人その人に応じた弾力的な説法をなさった方でありますけれども、普通の人にその本願念仏を説く時にはですね、念仏が大事だということをお説きになると同時にですね、できるだけよいことをしたほうがいいですよというふうな説き方をしてる。できるだけよいことをして阿弥陀様にも喜んでもうらおうではないかと、こういうふうな趣旨のことを説いておられたというんですね。
 それはちょっとおかしいんじゃないかと。念仏だけ説けばいいのにですね、なんでそういうちょっとした善、よいことをするようにというふうなことをあえておっしゃていたのか。そこにはそれなりの意味があってですね、念仏を実践しながらよいことをしようと努力してるような人がですね、いずれよいことをしようとしても、よいことをしきれない自分に気が付くということを前提にしておられるんですね。
 この小さな罪も犯さないようにとこういうふうに教えられて、そして自分も実際小さな罪を犯さないように努力してもですね、我々はそういう小さな罪ですら犯さずには生きておれないわけですよね。そういう人は簡単に善を実現することができないといういわば大きな壁ですね、壁というもににぶつかることを法然上人は期待しておられたということなんですね。
 で、私はね、この法然上人がそういう念仏とともに善悪のことをおっしゃったということの背景には、当時13世紀の人々の中でですね「悪人」という言葉を聞くだけでもうすぐピーンと自分のことだと分かる人がたくさんいたということですよ。これはね今の我々と全然違うんですね。ということは、武士っていうのがいたわけです、武士の仕事は人を殺すわけでしょう。そしてまた、一般の民衆の中にも生き物を殺して、つまり漁師とか猟ですね。そういう生き物を殺してそれを売って生活をするという人達もいたし、そして女性の場合には身を売るという非常に悲しいことで生活をする遊女という人達もいた。ですから法然上人のお弟子には遊女はいますよ。それから大泥棒がいますよ、武士と大泥棒と遊女、これは法然上人の一番、その法然上人を慕った人達ですね。
 そういう意味で「悪人」という言葉が13世紀ではすぐに分かる、そういう暮らしがあったということですね。それに比べるとどうも現代は「悪人」というのはあいつのことであって自分のことではないという風潮は圧倒的に強いですから、こういう説明回りくどしい、ちょっと説明せざるをえないということだと思いますけれども。

鎌倉(以下「鎌」という):法然上人のですね、主に武士を相手にしたような、例えばその、自分にとっての悪の意識が強い人間達、その時に多分彼らの感情としては仏教的な悪っていうことを最初から理解してるんではなくて、なんか自己基準の中での悪、つまり道徳的あるいは法的かもしれませんが、そういった悪っていう感情から入口として入っていくっていうことになると思うんですけれども。それはあれですかね、その悪っていう段階を経て、その仏教的な悪、いわゆる煩悩に支配された人間達というレベルに入っていくっていうことになるわけでしょうか。

阿:そうですね。例えば熊谷次郎直実のね、この発心の様子を見てみますとね、熊谷次郎直実は人を殺してきたから自分は「悪人」であるとこう思ってるわけです。

ナ:鎌倉武士の一人、熊谷次郎直実。一の谷の合戦で平家の若武者平敦盛を討ち取るなど坂東一の武者としてその名を轟かせました。
 しかし、自分の息子ほどの若者の命を奪ったことや領地争いに敗れたことで世の無常を感じ、出家。法然上人のもとを訪れ本願念仏の教えと出遭ってからは「蓮生法師」と名乗り熱心に念仏を称えるようになります。

熊谷寺の住職:蓮生さんが自分で彫られた仏像です。お顔が幾分出家されてすぐに彫られた自刻像よりは柔和な柔らかなお顔になっております』

 右手に持った蓮のつぼみは自分のみならず周囲の人々と共に極楽への往生を願った象徴と伝えられています。

阿:熊谷次郎直実、法然上人に会って教えを聞く時に熊谷次郎直実はどう間違ったか腰の小刀を出してですね、ゴシゴシ研ぎだしたというんですよ。周囲の人が慌てたわけですね。これひょっとしたら熊谷次郎は何をするかわからん人間だから法然上人をこれで刺すんじゃないかと。
 ところがですね法然上人は、お前がどのような悪を犯していたにせよ阿弥陀仏の本願はお前を救われるんだと、称名さえすればいいんだということも教えたんですね。それを聞いて熊谷次郎はさめざめと泣いてですね、それで改めてこの小刀を出して、実は法然上人からはですね、お前は相当悪いことをしてきたと、人を殺してきたんだから、だからお前が救われるためには手や足の一本ぐらい切ってここへ差し出せとそう言われると思ってたというんですね。だから痛くないように自分はこう研いでいたというんですね。
 ところが、手足を切るなんてことは一切問わない、そんなことする必要もない。お前がいかなる悪業を犯してきたかも問わないと。ただあなたが阿弥陀仏の本願を信じて念仏さえすればあなたは浄土に生まれるんだと、こういう話を聞かされてですね、もう、その予想してしていたのとまるっきり違う世界に入って熊谷次郎直実はさめざめと泣いたと、こういう伝承があるんですね。
 ですから、最初は「悪人」だと聞いても大体その道徳的悪、あるいは、宗教的に人を殺した人間は地獄に行くとかですね、そういうふうに聞いているそういう悪の自覚なんでしょうね。そういう善悪の基準とはまるで違うところに阿弥陀仏の本願があるということで熊谷次郎は感激したと。
 ですから、先程の法然上人が善悪を人に教えたというのは、その善悪を乗り越える次の段階があるということを示すためであったということだと思いますね。

鎌:法然さんも親鸞さんもですね、また「歎異抄」全体もそうですが、自分が「凡夫」であり煩悩にとらわれているわれらであるという、その自覚を非常に強く促しているという、それと同時にですね、自覚がない「悪人」、自覚のない「凡夫」、これもその救いの対象になるというふうに考えてよろしいんでしょうか。

阿:その通りです。実はね、阿弥陀仏の救済原理というのは「無量寿経」という経典の中の第十八願という18番目に書かれてるんですね。阿弥陀仏の名を呼ぶものはどんな人間であっても必ず浄土に迎えて仏にすると。こういうふうに書いてあるんですけど、ただし書きがあるんですね。ただし、その五逆とか十悪とかというそういう大罪を犯した人間は除くと書いてあるんです。
 ところがですね法然さん、驚くべきことは法然さんは、それ無視するんですよ。「十悪、五逆を除く」という除外規定を無視するんです。それは阿弥陀仏の対象、救済の対象には五逆も十悪も含まれてるに決まってるじゃないですかと。
 ですから、どんな「悪人」であっても、また逆に仏教とは何の縁も持ってない関係のないような人でも救われるということなんですね。

ナ:「歎異抄」が説く「悪人」とは誰か、それを読み説くキーワードが第十三条にあります。「宿業」という言葉です。
 人間が考える善悪という行為はどのように引き起こされるのでしょうか。

『善心が生まれるのも、また悪事が思われたり行われるのも共に「宿業」がはたらくためなのです。
 親鸞聖人は常に、「卯(うさぎ)の毛、羊の毛のさきにあるちりほどの微細な罪も宿業でないものはないと知らなくてはならない」とおおせせでした』

阿:「宿」というのは昔のという意味ですね、で、「業」は行為、昔の行為。つまり私達は、今ある私達は昔の私の様々な行為の結果の積み重ねとしてこの私があるわけですね。こういう今の私というもののあり方を考える時に、昔の行為から今の自分を照らしてみると。こういう見方が仏教にはあって、それをこの「業」という行為ですね、行為の連鎖の中で人間を見るというそういう考え方でありますけれども。
 この第十三条で大事なことはですね、私共は、今の私っていうのはですね、無数の過去の行為の結果として存在してるわけですね。その、しかし残念ながら、その過去の行為の全てを私は知る智慧がないわけです。自分がどういうことを過去にして今の自分があるのか、言葉としては過去の私が今の自分をつくってるんだろうけれども、その過去がどういうふうにして今の私につながってるかということを見通す智慧がですね、ないわけですね。
 仏教はですね、この物事の原因には2つあるという立場です。それは直接的な原因、これが因の、原因の因ですね、直接的な原因。それに対して直接的な原因がはたらく、そういうきっかけを与えるもの、間接的原因ですね、それを縁というんですね。縁があって初めてその因がはたらいて結果を生むと。
 そういう意味ではこの我々は因と縁とその結果ですね。結果というものの膨大な組み合わせの中で、まあ私の人生があると。いつも私はそういう「因・縁・果の大海」の中に大きな海の中に浮かんでいるのが私だとこういうふうに言うんですけれども。
 しかし、この「因・縁・果の大海」の中に浮かんでるがゆえに私共にはどうしても自分の力で解決のできない苦しみとか不安というものが生まれてくる。だって因果関係が自分の都合のいいところだけは分かるけれども、それ以外見えないわけですから。まあいわば、自分中心という色眼鏡ですね。色眼鏡で世界のあり方、人生のあり方を見てるから、他のものは見えないということなんでしょうね。私共はそういう色眼鏡なしには生きていられないですよ。私達が生きてるということは色眼鏡を掛けて生きるということですね。色眼鏡は外せないですよ。
 「煩悩具足のわれら」というのは、具足という言葉が示してるように外せない。ですから、我々はそれぞれいろんな色眼鏡を掛けて生きてるんだけど、そのいろいろな色眼鏡があるということが分かるということが大事なことなんですね。外せないけどもお互いがそういう眼鏡を掛け合って暮らしてるんだという、そういう理解が大事だということをまずは認めようということが出発点だと思いますね。

鎌:「宿業」という言葉っていうのは世間一般では、例えば、あの人は業が深いからこうなったとかですね、それからあるいは何といいますか、前世の報い的な酷い言葉では「業病」なんて言葉もありますが。

阿:この「宿業論」で大事なことは、他者のことをあげつらうために「宿業論」を使うのは、仏教ではあまりいいとは言えませんね。つまり「宿業論」は何のためにあるかと、己を知るためなんですよ。自分がどういう人間であるかということを理解する時に自分の過去を振り返ってみると。
 そこで「宿業」を感じるということはとても大事なことで、「宿業」を感じて自分の「宿業」の感じ方が、いかに自己中心的であるかということが分かった時に、その自己中心的な存在を新しい展開ができるためには何が必要かということを知るための、このいわば基盤の役割を果たしていると。だから、他者を糾弾するための言葉ではないわけですね。
 ですから、「業病」なんて言葉は自分に対して使うのならいざ知らずですよ、しかし、それでもおかしなことだと思います。ですから「宿業」という言葉が非常に誤解されやすいのは、己の存在が何であるかということを知るための道具だということを棚に上げているということだと思うんですね。

鎌:つまりそうしますと、他者に対して「業病」という概念をこちら側の色眼から見て当てはめるということは基本的に違うということで。

阿:違う、間違いですね。間違いだと思います。
 ですから、「煩悩具足」と言うけれども、その煩悩を滅ぼすことができないっていうのは、この「宿業」という言葉から言うと、「因・縁・果」の全てを知る智慧が見出すことができないという意味でもあるわけですね。
 そしてもう一つは、その膨大な「因・縁・果」の流れの中で、自分の分かるところだけを切り取って理解する。この近代以降のことになりますけど、私を私たらしめてるそういう「因・縁・果」の流れのですね全部を知ることは、一部しか知ることはできないという我々のあり方について特に深い関心を持った作家の1人に夏目漱石というのがいますよ。夏目漱石の仕事はほとんどその一点に絞られていると思いますね。

ナ:日本近代を代表する作家、夏目漱石。小説「こころ」の中に「悪人」について書かれた一節があります。登場人物の先生が主人公の青年に語った言葉です。
『それから君は今、君の親戚なぞの中にこれといって悪い人間はいないようだといいましたね。しかし、悪い人間という一種の人間が世の中にあると君は思っているんですか、そんな鋳型に入れたような悪人は世の中にあるはずがありませんよ。平生はみんな善人なんです、少なくともみんな普通の人間なんです。それがいざという間際に急に悪人に変るんだから恐ろしいのです』

阿:世の中には「善人」という人が、突然「悪人」に変わるということがあるから恐ろしいんだと。その、なぜ「善人」が突然「悪人」に変わるかというと、善悪をそれぞれの色眼鏡で決めてるわけですから色眼鏡それ自体が限界があるわけです。
 つまり、「宿業」がどういうふうにはたらくかということは、あらかじめ予想もできない。そういうことがその自分の色眼鏡が正しいという立場に立つから、いつでもそういう「善人」が「悪人」に変わるというそういう現実を見て驚かざるをえないということになるわけですし。
 で、私は漱石の言葉で面白いのは、どんな人間もですね自分の心の中に二辺平行している三角形を持ってると。そういうこともってるんですね。二辺が平行してたら三角形になるわけがないでしょう。しかし、本人は三角形だと思ってると。こういうわけですね。
 つまり、そういう矛盾したこの心のあり方が我々の心の意識の底にはずっと誰にでもあるというわけですね。それはこの「因・縁・果」のその流れの一部しか知らないということを現代風の言葉で無意識の、我々には無意識、自分でもその正体は分からない、無意識を背負ってるとそういう言い方で表してるんだと思いますね。
 ですから、近代になってからこの精神分析とかいうふうな学問が発達したりして人間の通常の意識の底にですね、我々が自分でも知らない自分を持っているんだ、という言い方をするようになりましたが、それはこの「宿業」ということの心理学的な表現といいますか、だと思っていいと思うんですね。

ナ:人間は自分では認識できない「宿業」の中で生きている。そのことを象徴的に伝える親鸞唯円の問答が第十三条の中にあります。

『またある時、「唯円よ、あなたは私の言うことを信じるか」と親鸞聖人がお尋ねになったので、私は「確かに」とお答えしましたところ、聖人は重ねて「では、これから私が言うことも間違いなくそのとおりにするだろうね」とおっしゃるので、「謹んで承知しました」と申し上げました。すると聖人は「たとえばのことだが、人を千人殺してもらいたい。そうすればあなたの往生は定まることになるのだが」とおっしゃいました。「私は聖人の仰せではありますが我が身の器量を思いますに、一人の人間でさえ殺すこともできません」と答えました。すると聖人は「では、どうして先程は私の言うことに背かないと言ったのですか」とおっしゃいました。
 「唯円よこれで分かるであろう。何事も自分の意志で決めることができると言うのであれば、大事な往生のために千人を殺せと言うのだから、すぐさま殺人に取りかかることもできるはずだ。しかし、あなたはできないと言う。それはあなたには、一人の人さえも殺す「業縁」がないからなのです。自分の心がよくて人を殺さないのではありません。反対に人を害しないでおこうと決めていても「業縁」がはたらけば、百人でも千人でも殺すことになるのです」とおっしゃたのは、私たちがややもすれば、救済はあくまでも阿弥陀仏の本願の力による、ということを忘れて自分たちの心がよければ往生のためになり、悪いことは往生のためにならないと思いがちであることを指摘されるためだったのです』

阿:大事なことは次の言葉ですね、「わが心の善くて殺さぬにはあらず」、あなたの心が立派だから人を殺さないということではないんだぞと。
 また、ですから、「また害せじと思うとも」、その人を殺したりしようとは思わないと思っていても、「百人千人を殺すこともあるべし」と。思いもかけず百人千人を殺すこともあるんだぞと。
 「と仰せの候いしは」、そういうふうに親鸞がおっしゃたのは、我々放っておくとですね、自分の心がよいのは、自分の心がよいから、よい人間だからとこう思っていると。悪いことは自分の心の中に悪いことをする心があるからだと。こういうふうにつまり、善悪は自分が使い分けることができるんだと、こういうふうに思ってるという、その考えにとらわれているのであって、ですから、この我々は自分の中に自由意志っていうか自分で物事を決めることができる力があるんだとこういうふうに普通考えています。また実際、それがなかったら我々の暮らしは成り立たんわけですから。
 しかし、この根本的には、我々は過去の自分の行為、それから自分の行為に関わったあらゆる人々の行為の影響の中で暮らしてるという事実があるわけですね。その事実を片方で認識しながらその人間に許されているその主体性っていうかいうものをどういうふうに開発していくかということを考えるべきであって、最初からその人にはもう1から100までの自由があるんだと、その人の心次第だというふうなことはやっぱりちょっとおかしなことですね。
 で、そういう業に縛られた中で我々はどういうふうに自分が主体的な生き方を貫いていくかということ、それが人間の問題なんですね。それが実はこの三条に、あるいはこの十三条にそういうことをヒントとしてあるわけですね。
 で、「歎異抄」は面白い本でね、妙な対応関係があるんです。「歎異抄」はこの親鸞の言葉を唯円がとどめたという前半と、その親鸞から聞いた言葉とは異なる、まあ唯円からすれば間違った考え方が後半に説かれているわけですね、紹介されている。そこにね、妙な対応関係があるんですね。
 第一条をよく理解するためには、第十一条を見てみると、一条の裏が記されてる。同じようにこの第三条の、この悪人こそ救われるという問題を考える時には十三条から見てみると、その悪人こそ救われるということの意味が一段とはっきりするというそういう構造があるんですね。

池:あの、今おっしゃっていた、善悪は自分が決められると信じているっていうことというのが、非常にちょっと心に響くというものがありまして本当に人間のあり方っていうことを考えさせられるなというふうに思ったんですけれども。

阿:私はね、「歎異抄」の第三条では「悪人」とか「煩悩具足」のわれらとか「宿業」とかこういう言葉で盛んに我々のこの存在の根本的な製薬ということを教えるんですけど、私は現在の言葉でそれ言えると思うんですね。それ何かというと、私の言葉で言うと「思い込み」だと思うんですよ。私どもはね、あらゆる局面で思い込みで暮らしているように思うんですね。で、この人は思い込みの中で生きているというそういう事実を知るということ。
 ですから、自分がどういう人間であってどうしても私の言葉で言えば、大きな物語というものがないと生きてはいけないということに気付く、その気付きのためには自分がどういう人間であるかというそういう認識が不可欠だと思いますね。
 ですから、この「歎異抄」の第三条の悪人の問題というのは、ある意味では、極論を私達に突きつけてですね、「お前はいかなる人間か」ということを示そうとしている、教えようとしているということだと思うんですね。
 で、私の好きな作家にその武田泰淳というのがいますけど、武田泰淳にこの「ひかりごけ」という小説がありましてね。この「ひかりごけ」という小説も、極論を我々に突きつけているんだと思いますね。これは武田泰淳が北海道を旅行した時に知った、実際にあった自見を、まあ使っている小説だと言われていますけど。

ナ:武田泰淳の小説「ひかりごけ」。戦時中、物資の輸送船が北海道沖で遭難し、船長以下7人の乗組員が無人島に漂着します。次々と餓死していく船員達。生き残った者はその肉を食べて命をつなぎ、最後は船長一人が生き延びます。
 小説では、「人肉を食べた人間の首の後ろには、ひかりごけに似た光の輪が現れる」という言い伝えが象徴的に描かれます。

鎌:あの、最後の本当にクライマックスのシーンなんですが、人の肉を食った者がひかりごけが光るようにですね、光の輪が後ろに出てくるんだと。それであの、船長は自分の後ろにそういった光が、光の輪があるということは自分で言うわけですけれども、集まった人間達ですねそこに、つまり、裁判で裁く側になった人間達が、全てその光の輪を背景に背負っていたっていうのが、武田泰淳の最後の文章になっています。
 それぞれ気付かないうちに人を食い、あるいは、人の痛みみたいなものをですね、知らず知らずに人を傷つけたりですね、そういったことを誰しもがやってるじゃないかっていうことの暗喩ではないかというふうに僕は思ったんですが、それはいかがでしょうか?

阿:そのとおりだと思いますね。全員の首の後ろに光の輪がついているということは、全員人肉を食ったっていうことですね。
 私が面白いと思うのは、「ひかりごけ」で武田が言おうとしたことはですね、人肉を食らうということはこれは極論ですよ、我々普通の暮らしではありえないことですね。あえてしかし、そういうことを全面に立てて、あの船長は人肉を、しかも仲間の肉を食って生き延びたんだと。こういうおぞましいそういうことを素材にしてるという。それは何を言おうとしているのかというと、私は船長の行為、土壇場で人の、仲間の肉を食わざるをえなかったっていう彼の行為はですね、人間のむごさとか、恥ずかしさとか、あるいは悲しさっていいますかね、そういうもののシンボルだと思うんですね。
 で、この人は生きるには、しかし、そういうむごいこと、恥ずかしいこと、悲しいことをね、互いにやらざる、やらずして生きていくことはできませんよ。つまり、その人肉を、人間の肉を食うということは、考えられないけれども、しかし、武田の言わんとしていることは人肉を食らうという極論によってですね、人は誰でも、むごいこと、恥ずかしいこと、悲しいことなしには生きていけない存在なんだと。そういうことを我々に伝えようとしているんですね。

ナ:悪人であることから逃れられない私達は、どのようい生きていけばよいのでしょうか。その手がかりとなる言葉が、第十三条の後半に登場します。

『善心が生まれるのも、また、悪事が思われたり行われるのも共に「宿業」がはたらくためなのです。ですから、よいことも悪いことも業の結果に任せてひとえに阿弥陀仏の本願をたのむことが他力ということでありましょう』

阿:「よきこともあしきことも業報」、業の報い、自分の行った行為が招く結果ですね。「業報にさしまかせて」、さしまかす、さしというのは強調する言葉ですね。まかせる、「業報」にまかせる。自分の行為が生み出してきた結果に、この、従ってですね、「ひへに本願をたのみまいらす」、自分は本願をたのむと。「業報」に揺り動かされないと。
 私はこの「業報にさしまかす」というそういう生き方がとても大事なヒントだと思いますね。つまり、第三条で「悪人」とは何かということを説明したと、十三条も使って「悪人」というものを説明した。そういう「悪人」である人間が「悪人」に要は押し潰されずにね、生きていくにはどうしたらいいかという。普通だったら「悪人」はもう阿弥陀仏の本願をたのむしかなくてですね、何かこのくらい人生を送るかのようなイメージになってしまうけれども、しかし、「業報にさしまかす」ということはあるぞということをこう言うわけですね。
 で、なぜ「業報にさしまかす」というふうな生き方に明るさがあるのかというと、それはですね、念仏を彼がするからですよ。念仏をするということは私が仏になる道、つまり完全なる智慧というものが身に付くような世界に向かって、歩んでいるということなんですね。
 ですから、「業報」、その私が過去に犯した行為によって今私がどのような状態になるか、そのいかんに関らず私は仏になる道を歩んでいるという確信があるがためにですね、その悪業に負けずに生きていくことができると。
 その「煩悩具足」とか「宿業」とかそういうマイナスのイメージの強い言葉の中でですね、そういうものに確かに束縛される一面はあるけれども、しかし、それはそれとして、つまり、それは「業報にさしまかせて」ということですね。「業報にさしまかせて」、しかし、その仏、称名という行為によって仏道を歩んでいるというそういう確信がその人に解放感をもたらすと、そこが大事な点なんですね。
 で、私はそのことをもっと端的に述べている言葉があってですね、この近代の最初の日本の宗教哲学者という清沢満之の言葉にですね、世間では「人事を尽くして天命を待つ」とこういうふうに言うと、「人事を尽くして天命を待つ」と。しかし、私は本願念仏に出会ったことによってですね、「天命に安んじて人事を尽くす」とこういう生き方をとるんだと。「天命に安んじて人事を尽くす」と、これは先程言った「業報にさしまかせる」という言葉を新しい言葉で言い直したことだと思いますね。
 ですから、これだけの人事を尽くしたんだからあとは天命を待つ、というよりはですね、その人事がいいかげんであっても、最初からもう天命に任してあるんだからどんな人事であったってね、それはそれでまあ納得できるわけですね。
 まあ私はこういうことでですね、「悪人」という言葉を煩悩具足のわれらとか、あるいは宿業的存在、業縁に縛られた存在、更に私の言葉で言えば、思い込み。そういうその言葉によって、つまり悪人的なあり方ということが、人間の事実だということを教えてるということですね。もうこれは、我々が見ることがなかっただけの話で、これは否定のしようがない人間の事実である。その事実にどんなふうに向き合うのかというところに、まあ大きな物語の役割があって、この「歎異抄」に即して言えば、そこに阿弥陀仏の本願というもののこの役割があるんだと思うんですね。
 で、それぞれの人間がどういう「業報」を抱えて生きているか、それはもうほんと千差万別でしょうね。で、私自身もそういう自分の中で生涯振り返って見た時に自分の人生はなんであったのか思うような連続ですよ。しかし、念仏とであえたということだけは確かですね。
 で、そのことは、そういう自分の道徳的破綻とか、いろいろな問題ということに耐えるっていうか、つまりそのことを以前よりは客観的に見ることができる、そういう余裕が生まれてくるということだと思いますね。

『煩悩に縛られた私たちはどのような修行を実践しても、迷いの世界から離れて自由になることができないのですが、その私たちを憐れんで阿弥陀仏誓願を起こされたのです。
 つまり、阿弥陀仏の根本の願いは、私ども悪人を成仏させる点にあるのですから他力をたのむ悪人こそが、正真正銘浄土に生まれて必ず仏になる種の持ち主なのです。
 それゆえに法然上人は、「善人でさえ往生するのです。ましてや悪人が往生することは言うまでもありません」とおっしゃったのです』

歎異抄 (ちくま学芸文庫)

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