2022/12/25 シリーズ「問われる宗教と“カルト”」 VOL.3
島薗進:宗教学者
小原克博:牧師、宗教学者
若松英輔:批評家、随筆家
川島堅二:牧師、宗教学者
岡田真水:僧侶、宗教学者
櫻井義秀:宗教学者
原敬子:カトリック修道者、神学者
釈徹宗:僧侶、宗教学者
八木久美子:イスラーム研究者
ナレーター(以下「ナ」という):2022年は、旧統一教会問題に揺れ、宗教の在り方が問われる年となりした。「こころの時代」では10月2回にわたる緊急特集で、カルトとは何かを検証し、宗教の本質について討論しました。
『小原(以下「小」という):実際その統一協会、旧統一教会がしてきたことというのは、
単に社会というより、社会一般というよりかはですね、政治体制、既存の政治体制の中に深くこう食い込んできたっていうことが今や問題になっていす。
川島(以下「川」という):やはり、今本当に宗教が変わらなければならない。カルト化しないために大きく変わる時期が来ていると思っていて。
若松(以下「若」という):救いは決してお金で買えないっていうことを、宗教は本当に強く語るべきなんですよ。救いは絶対にお金では買えない、なぜなら、神はお金はいらないんですよ』
ナ:放送後、視聴者の皆さんからたくさんの手紙やメールが届きした。とりわけ多かったのは続編を望む声、それを受け「こころの時代」では今後もこの問題をシリーズ化して考えていきます。
続編の最初となる今回は宗教における家庭や性差別、宗教二世を含む子供がテーマ。女性や子供への抑圧の問題を取りやめてほしいという視聴者からの要望に答え、仏教やキリスト教、イスラームも視野に入れて徹底討論します。
島薗(以下「島」という):そもそも旧統一協会はですね、世界平和統一家庭連合という名前がついておりして、家庭ということに力点がある。た、最も重要な儀式に祝福と言って、合同結婚式ですね、こういうことがあって、家族に特別な意味を込めているということがございます。
他方で大変苦しんだ、辛い目に、辛い経験をした子供たち という人たちが、発言をするようになりして、宗教二世という言葉は今広く使われるようになっておりす。家族とか家庭、姓というのは宗教において重要な論題でもあり、た、現代社会の中にその問題にどう適応していくかということで、宗教が悩んでいるという、そういう面もあるう問題かと思います。これは日本の宗教だけではなくて、世界的にもそういう問題が、広くはそういう問題も含めて、今回宗教と家庭。姓・子どもとカルト問題を手掛かりにしながら、そこで広げて考えてもらいたいということで、どうぞよろしくお願いいたします。
順番に自己紹介をしながら、最初の一言をいただきたいと思います。
岡田(以下「岡」という):私は立ち位置としては、女性僧侶ということになるのでしょうか。5年ほど前、ホテルで朝食を取っておりしたら、年配の女性が「失礼ですが、瀬戸内さんですか?」と、当時、90代の寂聴さんと間違えられたわけです。そういえば瀬戸内寂聴先生は去年亡くなられしたが、日本で一番有名な女性僧侶であったかなと思います。
私はそんな方に間違われるような、そんな立派な布教活動もしておりせんし、寺の外でも内でも、いつも着たきりすずめのこの格好で住職の指導の下お檀家のお世話をしたり、宗門のその教学振興のお手伝いをしたりしている、田舎の1僧侶でございます。今日はそのような立場から素朴な話をしてほしいというご依頼を受けましてここにやっていりした。
櫻井(以下「櫻」という):私は宗教社会学というそういう学問的な立場からお話をさせていただきたいという風に思ってるんですけども、家族とか地域の自治体とか、あるいはその世界全体に対してですね、統一業界がどういう働きかけをしてるのか。そこに私たちはどういう風に対応していくのかっていう、こういう観点からもですね統一教会の問題ってのは議論していかないといけないんじゃないのか。
なぜかというと、統一教会が宗教法人でなくなったとしてもですね、依然として数十年にわたって統一教会の信者の方ってのは日本にずっと居住されるわけなんですよね、その方々とどういう風に付き合っていくのかっていうことを考えた際に、やっぱりその統一教会のことをですねその宗教として、理解しておかなきゃいけないんじゃないのかっていう風に思います。
原:上智大学で神学部の教鞭を取っております。私自身、家の宗教が仏壇があって神棚があるという、いわゆる日本の習合宗教の家から出て、キリスト者になったわけなんですけども、洗礼を受けてカトリックの信徒となっております。
その後色々な経験があって、修道生活に入って今に至ってるっていうことを考えると、自分自身、宗教プロパーな人生を送っていると言えると思います。
そのような立場からして、今年統一教会をめぐる様々な事件について、もう目をつむることはできないというか、自分自身に問いかける意味で様々な考えが巡っております。
釈:宗教思想、宗教文化を研究しております。専門がそちらですので、今日は旧統一協会問題を軸に話を広げていくのが役割かなという風に思っております。
宗教っていうのは、一般に考えられてるほどスタティックなものじゃなくって、生きた宗教っていうのはもう少しもっと動的なものだ。我々つい、なんとか教はこうでしょとか、なになに宗はこうですよねっていう風に固定して捉えがちですが、ずっと動き続けてる面があるという風に、これまた信仰者もそうでない人も見ていった方がいい、そんなお話ができれば考えておりますよろしくお願いいたします。
八木(以下「八」という)::東京外国語大学の八木と申します。専門はイスラムでして、 近代以降のアラブ世界を中心とした、特に一般の信徒と言いますか、思想家とかウラマーの人たちのイスラム観ではなくて、いわゆる普通の人たちにとって、宗教っていうものがどう見えるのかっていうなところをやっております。
で、私はイスラム教徒ではないので、研究者としてイスラムを見ているわけですけれども、ちょっとここでカミングアウトしておきますと、私はカトリックの信者でして、エジプトで、専門はエジプトを中心にやってるんですけれども、私にとってはイスラムっていうのは研究し始めた最初のきっかけは1番わかりにくい、これがわかったら、何かこう宗教が見えてくるんじゃないかという感じで勉強し始めたんですけれども、だんだんイスラムがわかってくるにつれて、何がわかっていないことに気づいたかというと、日本のことがわかっていないということに気づきまして、今日は本当に場違いなところに私が来ているような気がするんですけれども、少なくとも全く違う、前提条件を持っているイスラムっていうものも同じ宗教だと考えると、日本の現在の状況がどういう風に見て取れるのかっていうところはお手伝いができるのかなと思っております、よろしくお願いいたします。
島:最初の話題としてですね、「カルト問題における家族」ということで、統一教会問題から見えてくる宗教と家族ということについて。まず岡田さんからお話をいただいて、皆さん、ご意見を頂いていくということにしたいと思います。どうぞよろしくお願いします。
岡:1954年、何の年でしょうか。それは私が生まれた年です。そして統一協会ができた年でもあります。
大学でインド哲学、仏教学を学んでた時に、中学の同級生の〇〇ちゃんが、その合同結婚式に参加したのよということを別の友人から聞きました。で、その〇〇ちゃんは、友達のところを回って折伏(しゃくふく)してるのよって。当時京都では折伏という言葉が流行っておりまして、布教していると。その私の統一協会に入った友達というのは、とてもその優しい人で、真面目で、頭のいい人でした。で、幼い時にお父様を亡くして、お母様を助けて、頑張り屋さんでした。ともかく、なんで?っていう感じで。で、私のとこにも早く折伏(しゃくふく)に来ないかな、来てくれたら、そのお釈迦様やら、イエス様のお話をするのにと思って待ってたんですけど、私のとこにはついに来てくれせんでした。
そのうちですね、その1992年、桜田淳子氏がその合同結婚式に出たっていうのが大々的に取り上げられ、その後パタっとですね、元統一教会系のニュースを見なくなったような気がいたします。ちょうどそれから30年ですね、その合同結婚式から。で、その空白の30年にもですね、女性やら子供さんたちがですね、たくさん苦しみを感じて、 統一教会がですねイブを虐げるような教義を信者に教え込んだり、日本をイブの国と呼んで、献金をするのが当たり前だというようなそういう指導をしていたということも全く私は知らずにきした。
教義的に女性を蔑視している、そういう教えを元統一教会が、強く示しつつたくさんの女性や子供を苦しめてきた、その事実を知らずに、20年、30年暮らしてきたという。そのことについて少しお話をいたしました。
櫻:今岡田さんがですね、女性が虐げられているという、統一教会に関してですね、これをご指摘されたんですけども、一般的に統一教会の被害者っていう風に言われてすけども、男性と女性の比率で言えばですね、圧倒的に女性が被害者になってるという言えると思うんですね。
霊感商法あるいはその献金被害、そこでやはり献金していくっていうのは、やっぱり女性なんですね。で、その献金の動機、霊感商品を買ってしまったその動機っていうのが、要するに、家族を救いたい、先祖を救いたい、で、そのお金を生み出すために自己犠牲も辞さないっていうこういうタイプのですね、言わば統一教会のやり方に入ってくる、そういう部分があると思うんですね。
で、もう1つはですね、これはその青年信者で祝福を受けた方々なんですけども、韓国に日本人の女性信者約7,000人渡ってるという風に言われてまして、現在も6,000人近くの方が過ごされてるわけなんですね。で、岡田さんが指摘されたお友達の件なんですけども、1988年統一協会は6,500組、92年には30,000組、そういう多数のですね合同結婚というのをやりました。その際男性はですね韓国の場合は、信者でなくてもよろしいと、なぜならば、メシアが生まれた韓国の男性は霊的に高いので、信者でなくてもよろしいんだと。ところが、このメシアが生まれた国を虐げた、要するに、植民地支配した日本はですね、霊的に低いので、日本人女性信者は自らを犠牲にしてって言い方は、適切じゃないにしてもですね、韓国に行って、いろんな苦難、生活にですね耐えながら、日本の罪を贖罪しなきゃいけないんだ、こういう教説があるわけなんですね。
なぜその男性に対して、女性が自己犠牲をしなきゃいけないのかってことに関しても、教説のレベルでですね、「失楽園」の物語があるわけなんですけども、女性エバがですね、サタンと不倫をしたであるとか、あるいはアダムを篭絡してですね、善悪を知る木の実を食べさせたであるとか、いわば、その女性に問題があってこういう原罪が人類にですね、血統として流れてるという、こういう非常に女性差別的なですね教義、国家感関係、あるいはその実践を生み出してるっていうところがありして。その意味ではですね、なぜ統一協会がいろんな社会問題を生み出すのかっていうところの根にですね、こういう、そのジェンダー差別的な内容っていうのが入ってるんじゃないかなっていう風に思っております。
原:今、櫻井先生がその教義をお話しくださったんですけれども、その話を聞くだけでもう違和感というか、もうちょっと耐えられないという気持ちになりますよね。私も今回ここに来るまでに少しカトリック協会内の中世に至る様々な誹謗中傷、女性に対する蔑視のこともちょっと調べていくつか見てみたんですけれども、もう調べれば調べるほど、もう自分自身だと辛い、そしてもう気持ちが悪いという状況になるわけです。
だけれども、自分自身も今教会共同体に所属していますので、当然その共同体の中にいたら蔑視、女性蔑視的なこととか、差別、ジェンダー差別があったとしても、それを空気のように吸っている。だから、それがあまり違和感を感じない。ですので、その時間を置いて客観的に見る、あるいは、それが他の人とその共同体以外の人と話した時に正しいことなのか、間違ってることなのかっていうことをちょっと自由に話し合うとかですね、そういう、動きというか、何かできないのかなっていう風に思うんですね。
釈:そうですね、伝統宗教で言いますと原さんおっしゃった面があると思います。伝統的な教団っていうのは、 従来の家族や地域をモデルとしてずっとこう組み立ててきたようなところがあるので、社会はどんどん家族や地域は変化しているのに、従来型のモデルを基盤としてものを考えるっていう傾向がありますので、ただ、宗教という領域はそもそも急ハンドルがそぐわない領域なんです。基本的には前例踏襲を大切にしますし、そもそも流れてる時間もすごくゆっくりしてますし、何よりも宗教っていうのは、死者や心霊といった要素があるので、今ここにいる人間だけで変更、簡単にしちゃいけないっていう、ある種特殊な事情があるので、少しずつ少しずつ。
とはいえ、社会の要請に精神誠意向き合って真剣に変わっていかねばならないという、こういう関係にあるはずなんですが、どれほど伝統的な習慣とか理念、理想、各宗教が持つ理想であっても、あまりにも非人道的な習慣や伝統、あるいは女性子供、マイノリティーを抑圧するっていうのは、やっぱりそれは社会から改善が求められる、宗教に対して求められるわけで、宗教はそれにちゃんと向き合うことによって、宗教自身を鍛錬していくっていう
ところがあります。いわば、コアの宗教性はできるだけは保持しつつ、 変化させていく部分を変えていくっていうところですよね。カルト集団、カルト教団なんていうのはそういうところがもうほとんど見られないというところがですね、1つ大きな問題としてあるかなと思います。
島:八木さんいかがでしょうかね。
八:さっき、アダムとイブの話があって、コーランの中身というのはいろんな内容があるんですけれども、聖書と似てるところもたくさんありまして、楽園追報の話はあるんですね。 けど、面白いところはイブがそそのかしたんじゃないですよ、2人とも一挙に、なので、女性がそそのかしたっていうところもないし、あと、アダムは楽園追放されて、神と和解してるんです。反省して許してもらって、なので、予言者になってるっていうところで、罪から始ってないっていうところが、その女性がもっと罪深いので、で、男性の下に行くっていう構造は生まれないはず。
その他の内容を見ても、コーランを読むと女性蔑視の内容がずらずらと並んでいるのかと思いきや、そうではない言葉もたくさん入っていて、やはり私がいつも思うのは、聖典に何が書いてあるかとか、予言者が何を言い残したかっていう以上に、その後解釈をしてきたのが誰かっていうところで、男性だけが解釈を行ってきたっていうところが蔑視という結論に 繋がっているのではないかなっていうのが私はとても強く感じています。
櫻:先ほどその釈先生が宗教とそのカルトの相違についておっしゃったんですけども、統一教会がなぜこういう反社会的な性格を今もって強く持ってるのかってことなんですけど、 教団設立当初のですね地上天国を実現するっていうことを今もって考えてやろうとしてるということなんですよね。
つまり、その社会に適応するって形で、一般の信徒の方が家庭生活を余裕を持って営めるようにとか 地域社会に溶け込めるようにとか、隣の人と仲良くできるようにというこういう配慮も全くない。言わば、その教義をそのままに実践して、社会全体を変えていくっていう、こういう思想を今もいまだに持ってるんですね。そのために非常に急進的で過激で、こういう活動をやっていて、そこにある種自己犠牲的に関わることによって、それが信仰のモチベーションになってくっていう、こういうところがあると思うんですね。
ただ、ここにも少し展開が来まして、第1世代はそれでやれたんですけど、第2世代、宗教2世の話題に繋がるかと思うんですけど、ここはもう耐えきれないと、こういう声を上げているんで、ひょっとしたら、これからその2世代目、3世代目になると社会にその適用するですね、パターンになるかもしれないんですが、現在その日本社会とかなりもう敵対的な関係になってるので、どういう風になってくのかっていうのは、なかなかその先を見通せないっていう、こういうところがあるかなと思います。
島:ちょうど宗教2世という話も出したので、2番目の話題に移っていきたいと思うんですけれども、 「宗教は女性と子供を抑圧するか?」っていう、そういう問いをですね、掲げてみております。
そういう風な、そもそも宗教にそういう側面があると考えなければならないのかどうかという、あるいはどうしてそういう風なイメージができてきているのかという風なその辺のことについて、 まずは原さんからちょっと問題提供をしていただく。
原:今ずっと出ています、アダムとイブの話で、「創世記」の女性の創像ということになりますと、当然そのアダムのアバラ骨からそのイブが作られた、結局そこでもうすでに男女がもう平等ではないというか、従属している状態にあるわけですよね。その話は、「新約聖書」の中にも、特にパウロの手紙などで、 妻はその家にいなさいとか、女性、妻は夫に従っておくべきだとか、そういった話が出てきます。
そのような社会の中でイエスは、女性と積極的に出会って話もして、一緒に宣教をした 記述が出ておりますので、どちらかと言えば、イエスはフェミニストだったのではないかという話もございます。
しかし、イエスが死んだ後教会が成立していくんですけれども、結果できた教会は、男性社会の男性中心主義的な制度によって作られていったっていうことになります。
それから教義という話になりますけれども、先ほど少し申し上げました、中世で使われていた色々なテキスト、今回ちょっとその「魔女の鉄槌」をちょっと見てきたんですけれども、魔女裁判のために、女性がどうして魔女裁判にかけられなければならないか、ものすごいテキストがあって、本当に凄まじい誹謗中傷と女性蔑視で、こういうものが実際に使用されて扱われていたっていうことを思いますと、やはりこう女性の位置ってのが、今私が想像する以上の女性が本当に虐げられていたんだな、私自身の愛する教会でさえも、そういう状況になっていたんだなっていうことを感じます。本当に女性に対する悪口でしかないような言い方をしております。
問題点としては、やはりその男性が聖職者集団あるいは宗教の指導者集団を構成する時に、男性の権威がそこに集中してしまい、その権威に対する従属性というか、その従属性が依存になっていく、で、その女性がその権威をもう逆に共依存的な形ができてしまう時に、 その女性がその男性に与えられた権威を自分のものとして、逆にその権威をこう横行して使ってしまう。
ですから、もちろんその男性社会というその組織そのものも変更しなければならないと同時に、その女性側もその経緯をそこに依存して、その自分自身が従属することによって、自分自身を存在させる、それは大きな問題になってくるのではないかと、こういう風なことを感じました。
島:その辺り、八木さんいかがでしょうかね、イスラムの世界にも、そういうことがありそうな気もするとは思うんですね。
八:イスラムというとこう、女性を差別する宗教だというイメージがあると思うんですけれども、実際にイスラム教徒の方と親しくされた方っていうのは、女性が虐げられて、なんて言うんでしょうね。自由に発言もできないっていう状態にあるのかっていうと、アフガニスタンとかイランの特殊な例は除いてそんな感じを全く受けないという。
確かに、婚姻関係とかには依然としてイスラム法、古典的なイスラム法そのままと言ってもいいほど残ってるですけれども、そこが非常になんて言うんですかね面白くて、確かに男性と女性が同じ権利と同じ義務を持つというのが平等であるとすれば全くそうではない。
男性と女性、妻と夫の義務と権利が全然違うんですね。で、経済的にその養うっていう義務は、男性100パーセント、養われる権利は女性100パーセントあるので、仕事をする権利は女性もあるんですよ、だから女性の収入は全部自分の全部自分の小遣い、なので男性は厳しいんですよ。なので、夫が養おうとしなければ、女性は自分の権利として要求できると、性役割って、男性が得ばかりしてるってのは必ずしもそうは言えない。
しかし、女性は養われるっていう権利を主張することで、自分の権利を拡大していくんだけれども、そこがやはり養われるものとして発言をするっていうところは、やはりちょっとおかしいんじゃないかっていうことで、庇護されるもの、庇護される権利を主張するっていうところにこう完全な自由というか、人間として同じレベルで男性と女性語られるっていうところには、やはりなっていないんではないかなって。
原:だから、対等な関係ではなっていないっていうことなんですね。
八:なので、女性として見れば逆手に使っているっていう感じですね、差別というか区別を。
島:その一方で、宗教2世は統一教会問題が起こって、初めて言われたことではないんですが、この10年くらいですね宗教2世の集まりがウェブ上などで、できてきたというのはこの10年ぐらいかと思うんですけど。
釈:この宗教2世問題ですが、おそらく宗教2世問題が世に大きな注目を集めたのは、1985年の輸血拒否事件、川崎市で起こったものですよね。あの時に、輸血拒否することによって10歳の男の子が命を落とすんですが、自分自身の信仰によって輸血を拒否し、命を落とすというのはまだ理解できたとしても、子供までそれは適用されるものなのかっていうようなことがあったと思います。
その後、本当に近年になって宗教2世、当事者たちが声を上げ出したんですよね。もう本当に近年のことでこれSNSの発達で声を上げると、意外に多くの共感を呼んで、その人たちが宗教を超えて繋がり出して、ただ、この「宗教2世」っていう呼び名、再考必要なんじゃないかなとは思ってるんですよ。これは、もちろん伝統宗教にだって、2世、3世の問題があるという意味で、そういう使い方をしてるようなんですが、今問題になってるのは、やはりカルト教団と言いますか、いや、教団だけじゃないですよね、カルトって宗教だけじゃありせんので、教育カルトも政治カルトもあるので、カルト問題に関する2世、3世、熱狂的な信仰っていう意味での2世、3世、その親を持った子供たちっていうようなことであれば、カルト2世っていう方がより適切かなと思うんですけどいかがですかね?
櫻:この問題、その宗教2世っていう言い方でよろしいのかっていう、これは、私もそういうに思ってまして。正確に言うんであれば、その統一教会2世、エホバの証人2世って言うべき。ただ、この言い方自体、当事者は好ないんですね、宗教2世っていう形で言いたいっていう、こういうことなんだと思います。これは1つ生きづらさの告発なんだと思うんですけども、結局その親にですね自分の生き方とか、信仰を決めてもらいたくないっていう、こういう意向なんですね。
いわば、その家族単位で、その信仰を持つというこの考え方自体にですね、もう反発してる人がその新宗教、あるいはその教団宗教含めて多いんじゃないかなっていうことだと思います。
で、これは大きな流れで言うと、やはり世俗化、あるいは個人化っていうところで信仰っていうのはその文化じゃなくて、ある種その選択なんだ、信じる自由、信じない自由、 日本では、この信じない自由っていう強制されない自由って非常に強調するんですけども、これも日本社会のですねその世俗化状況とか、個人化状況っていうのを反映してると思うんですよね。で、その選択をですね、各個人がしなきゃいけないっていうのも ある意味で、これは自由なんですけども、負荷が非常にかかってきてですね、いろんな形でその迷う人も出てくる、そういった中でまたいろんな宗教の勧誘、布教に出会ってですね、言わば、その自分の家はこの宗教であるから、そちらに行きせんっていう、 こういう拒絶の仕方もしにくくなってくると思うんですね。
ですから、個人化っていうのは、その個人の自由を非常に高めるんですけども、 逆にですね、家族とか地域とかある種、その文化圏に守られていたバリアがなくなってしまって、むき出しの個人がですね、もう、教団宗教に直面しなきゃいけない、カルト宗教に直面しなきゃいけないという、大変な時代でもあるんじゃないかなっていう風に思いますね。
島:岡田さんは比較的厳しい、しつけのあるご家庭に育ったので、宗教2世という言葉に、どういうような思いを持たれるか、ちょっと伺いたいです。
岡:そうですね、いわゆるところの堅法華というやつで、私のひい爺さんは政府に反対して、そのなんで反対したかっていうと、神仏分離に反対して、100日御所に通うというようなことをして、寺にいられなくなって、一般在家の家に入り婿に入って、その家族で自分の信仰を守っていこうとしたんですよね。ですから、私も座れるようになったら、赤ちゃんの時から勤行に出てですね、ご飯の前におあずけお経を聞いて育ったわけです。
それで、私はすごくそれが自分に強制されてるような気がある時したんですね、なぜかっていうと、色々わからないことがあるから親に尋ねるんですが1つも教えてくれない。それで訳のわからないもの、なぜ私はしなくてはならないのかということですね。ですから、 私は小学校の時から高校でずっと隠れキリシタンで、聖書を読みですね、しまいに教会にこっそり通ったりとかもしたんですけれど、偶然にもインド哲学に出会い、また、仏教に帰ってきたけど今でも聖書を時々読むというような、そういう信仰生活です、という話をこの前したんですねこのNHKの方に、そうしたら、「岡田さんは自由だったんですね」って言われたんですね、で、その自由っていうのはすごいびっくりしして、私は不自由に育ったと思ってたんですが、そうやって自分で選んで、例えば、その赤ちゃんからちょっと大きくなった時に、おじいちゃんの後ろに座って、それを聞いてたところから、自分でキリスト教に目覚めて、それで自分でその仏教の世界に戻ってきた、そのお寺の嫁になっているというのを、みんな自分で選んできたじゃありせんか。
だから、精神的にも圧迫を受けてなかったっていうことなんですね意外に、それで、自由だったという言葉を聞いた途端に、私は本当に自由な気持ちがしました。ですから、やっぱり選択だったわけです私にとって信仰は。
それで、「ボーン〇〇」って呼ばれる、ボーン創価学会とか、ボーンクリスチャンの方々もある時、自分で選ばれるそういう瞬間があれば、とても幸せだと思います。
釈:私もお寺の子供として生まれたので、そういう意味では2世3世、もう結構代々続いてるので宗教19世みたいなことになっちゃうんですけど、でも少なくとも、私は他の道で生きていけるっていう自信というか思いはずっとありましたので、扉は閉まってなかったっていう感じはします。自分の居場所はここにあるとしても、全方向に扉は開いててそっちの方向に進むことは十分可能でした。
ところが、これを囲い込んでしまって、もう一方方向へと誘導するっていうことになると2世問題が起こることだと思います。
島:今のお話の非常に重要なところは、一般にこうイメージとしてですね、宗教が個人の自由を奪うというところが目立つのですが、逆に宗教的なものによって育つことによって、自分自身で責任を持って選ぶという風なそういうメンタリティーも養われるとそういう場合もある。そういうことから言うと、人権という言葉で言うとすると、宗教と人権が対立するんじゃなくて、宗教こそが人権の元になるものを養っているという、そういう面もあるんだと、この辺りはここに宗教者の方が多いので、私もそういう風に考えておりますのでここで確認してもいいことかなと思います。
3番目のテーマなんですけども、「世界と日本の諸宗教における女性の力」という題で、少し話をしていきたいと思います。女性が宗教によって抑圧されていると、そういう面があることは否定できない、しかし、それは宗教本来のものでないという面もあるし、あるいは誤解されて誇張されてるという面もあるという、そういう風なお話が出てまいりしたが、八木さんにそこら辺をもう少し詳しく紹介していただければと思います。
八:先ほどもちょっとお話した通り、イスラム宗教の名前を聞くとやはり女性のステータスっていうことが真っ先に頭に浮かぶと思うんですけども、そのこと自体が実はイスラムという宗教の持ってる特性とこう考えた時に極めて異常なことで、なぜかというと、イスラムっていうのは、一般に包括的な性格の宗教、政治も経済も芸術も全て人間の営みに関しては、全てその行為の意味を問うような宗教であるので、家族のことであるとか、女性のステータスについてだけ言ってる宗教では全くないはずなんですね。
ところが、なぜそのようなイメージになっているかというと、それはイスラム教徒の世界というか社会の側の事情があって、その近代化の過程で、要するにイスラム世界の外と付き合わなければならない、交渉しなければならない。あるいは、西洋諸国をモデルとする近代化を行わなければならないという時に、政治や経済はイスラムの論理で動かすことができなくなっていた。で、唯一残ったのがいわゆる身分法って呼ばれている結婚とか離婚とか遺産相続とか、そこのところだけ最後の取として、イスラムの古典的な法律、イスラム法を法律の形として残したんですよね。そうするとそこが残っているっていうことで、そうした性格を持つ身分法を持っている国っていうのはイスラムの国であるということになる。
で、そういう法律を大切にしている政府は統治の正当性を持つ承認されるっていう構想があって、 なので、本来イスラムというのは女性のステータスについてやかましく言う宗教だということはやはり全く違う、歴史的な経緯が生んだ1つの特殊な側面であるっていうことと、女性のステータスと男性のステータスがはっきり決っている身分法を大切にすることっていうのも、イスラム教徒として生きることというように、意味が帯びてしまうっていうその辺りがやはり私たちが女性について厳しいことをイスラムの方は決めてるっていう時に、元々そういう宗教だって捉えるのではなく、どういう歴史的経緯があって、どういう経験をイスラム世界の外としてきたかっていうことを踏まえて、彼らが見出したその決りの意味っていうのを考えていかないと、いけないかなって思いました。
ただこのことを日本に振り返った時に、括弧式の「美しい国日本」みたいなところを、その家族のあり方とかっていうところに、こうなんて言うんでしょうね、象徴させるっていう考え方と、やっぱ同じようなものがあるんですよね。本来、イスラムってそういう教えじゃないのに、あたかもそれがイスラムの本質であり、そこだけは譲れない部分であるかのように位置づけられてしっているっていうところがあるので、その辺りは、別性はいけないとかそういう話、日本の話が持つ意味っていうのをもう1回イスラムの例を写し鏡にして考えてみるのもいいかなって思いました。
島:統一教会は各地でですね、地方の議員たちに働きかけたり首長に働きかけたりしながら、性教育を制限したり、家庭教育支援法という風なものを作ろうというね、これはどういうことなのかあれですが、要するに家族の絆を強めるということを掲げると、それにある種の政治勢力が共鳴する。
また、さっき「美しい国」と言いしまたが、「美しい国柄」は安倍元首相がよく使った言葉で、日本には独自の国家体制があると、日本の古来からあるそういう美しい国柄と家族の秩序が重なってるんだという風な、そういうことに共鳴する人たちがいて、その人たちと統一教会が、関係したと、結びついたと、そういう風なところがあったかと思います。
櫻:八木さんが言われたですね、イスラムが世界と交渉する、近代西欧と交渉する中で、 言わばその政治と経済ここはもう西欧式のやり方でやるしかない。しかし、その家族的な領域、文化の領域、ここはその最後の取としてここを守ったがためにここだけ注目されるってことをおっしゃりました。で、ここはですね、実は日本の場合も当てはまるんじゃないのかなっていうに思うんですよね。失われた30年っていうに言われてますけども、 この間やはりそのグローバル経済の中で日本経済がその沈行してきた。それは科学技術の問題も色々あるでしょうけども、もう1つはやっぱり少子化ですね。出生率の低下、これ結局止められないという、こういう非常にここの根本的な問題をですね、なんとかしなきゃいけないにも関わらず、ここをやらずにですね、疑似的な争点を作ってきたんじゃないのかと。要するに、その日本の家族がですね、あまりにもその個人化してきたと、あまりにもその自由になってきた、ここがですね問題じゃないかっていう、こういうその疑似的な争点を作って、そこにその対応することでですね、ある意味、その政治家がそのパフォーマンスをいろんな形で発揮してるんじゃないのかなっていう風に思うんですね。
ジェンダーフリーっていう言葉、これは、男女共同参画社会基本法が制定されまして、それに基づいて、各自治体がですね様々な条例っていうのを作ってきました。で、その中で2003年にですね、都城市が「性別又は性的指向にかかわらず、すべての人々の人権が尊重される」っていう、こういう条例を作ったんですね。ところがその3年後、その市長が変わる中でですね、ここには統一教会の関連団体である世界日報がですね、ものすごい批判的なキャンペーンを打ちましていわば、その同性愛者が集まるとかですね、こういう極端な主張を展開しながら、都城市にある種混乱、惑乱を起こしてですね、そして、都城市として、この「すべての人々」から始める、「性別、又は性的思考にかかわらず」という文言を削除してるんですね。で、こういう形での地域自治体にできたその条例に対する反対運動、これフェミニズムに対するバックラッシュっていう形で注目されてすけども、これが2000年代に生じてます。
これに対して、統一教会の関連団体、そういったところが関わってくるんですね。で、これってのは私、本当にその疑似的な問題だと思っていて、政治がやるべきはですね、やはり、その地域のその経済産業をどうするのかってことと、本当にその家族が求めてるですね、社会保障的な支援をどうすべきかっていうこういうことなんですね、教育するこれは必要ないんですよ、にも関わらず、こういう争点をですね作り出すことによって、地方の政治家、あるいはその国会議員がですね、あたかもその政治的な活動をやって、日本のためにやってるっていうですね、なんかこういう保守政治を演じてる、ここがですね私は日本にとって非常に、残念なことじゃないかなというに今思っております。
原:家族はこうあるべきだっていう固定観念、そのイデオロギー、こういう風にこの家族はこれでやるんだっていう強い意志をですね家の中の誰かがその権威を持って、それをどんどん推し進めていく、あるいは、宗教的なものがその背後にあるとするならば、もう本当にそこに家族といえども、もうがんじがらめになってくるわけですよね。
で、カトリック教会なんですけれども、カトリック教会の信徒ですって、私一言簡単に言いますけれども、世界の中で13億人いるっていう風に言われていますと、もう、同じ宗教なのかっていうか、これは1つの宗教と言えるのかっていうぐらい多様なわけですよね。ですから、そうなってくると、保守的な考え方の人もいますし社会派の人もいると、宗教は やはりこう神と人とのこの縦軸というか個人とその自分を超越した大いなる何者かとの関係性というのを 、本当にこう深めて深化して、その歴史の中に刻んでいくっていうことは、もう宗教がその自分自身も アイデンティティとして生かされていくと同時に、その恩恵というか恵みは当然その社会にこの横軸ですよね、横軸の中でこう実りとして分かち合って、 この縦軸と横軸のバランスというのが非常にこう重要ですし、その両方を客観性を持って
探求していくっていうことが求められているんだろうなっていう風に思います。
釈:いずれにしても、原理主義的に宗教言説を振り回す人って宗教の伝統への理解が
シンプルすぎるんですよね。宗教の伝統って先ほど八木さんのお話もあったように、本当に時代によっても変わってきたし、自ら枠組みも変更してきた中でごく近視眼的に自分の見える範囲が伝統のように勘違いして振り回すっていうようなところがあるんだな、そんな風に思いした。
イスラムの女性問題に関しても、おそらく地域や文科圏や国、民族の問題もきっとあるんだろうっていう風に思います。アラブの人たちの感覚と、アジアのムスリムの感覚違うようですし、アラブの元々の伝統習慣とイスラムの教えと混同する場合だってあるでしょうし、実際にお話聞くと結構イスラムって、本当に個人個人でスタイルを決めるっていうのが強くて驚くような 時もありす。私は神様とこのように約束したので、こういう風に暮らしていきますっていうような面があったりするので、本当にひとくくりに浅くシンプルに捉えてはいけないっていうことだという風に思うんですが、先ほども、少しお尋ねしようと思ったところですが、LGBTQに関して内部の意見というか、ムスリムの中での議論みたいなものが、 あれも教えていただきたいんですよ。私の友人の当事者なんか、やっぱりイスラムちょっと怖いみたいなこう印象を持ってるもんですから、その辺り教えていただけると思うんですけど。
八:LGBTQに関しては残念な状態ですね。本当にもう許容する言説ってのは聞いたことがないと言っている、いるんですよもちろん、でも、それが公にこう理解しようというような声は、私は1度も聞いたことがないというぐらいない。
釈:考えてみたら、我々の生物的な性のメカニズムから考えて、男性、女性って綺麗に2つに分かれること自体が不思議ですよね。性ってもっとグラデーションがある、 そういう意味では、一時期あったような女性が男性を告発するような敵対するような、もう2項対立の
戦略もあんり有効じゃないっていう風に思うんですよ。で、男性の中の女性性もあれば、女性の中の男性性もありますし、 我々の中のユニセックスな面とかいうのがあって、で、それを育てるってのは生きていくってすごく大事なことじゃないですか。
島:日本の宗教会というのを見渡すと、やはり男性が目立つ。特に仏教会にそういう傾向があるわけですが、 その辺りは岡田さんはどのようにお考えですかね。
岡:そうですね。元々うちの宗派は本当に女性と男性を分けるっていう、そういう風な条項が全くないところですので、今では女性がそのどういうんですかね、出家になりたいと、数が少なかったのでっていう、それぐらいしか理由が見当たらない。かと言って、ものすごく増えてきてるかっていうと、台湾とかのようには増えてはいないんですが。もし、そういう勢力が生まれてきた時に、教団はそれを抑えにかかるかっていうと、それはないという自信は私はあります。
それより、むしろ女性の声にもっと耳を傾けたいと考えている、この教団の人たちの方が
多いと思いますね。だって、世の中の信者の半分は女性なわけですから、それは、もう今は相当変わったと思います。
八:そうですねカトリック教会は今は全面的にですね、去年2021年からそのシノドスという1つの動きをしてるんですけれども。フランシスコ教皇はこの大きなムーブメントを4年かけてやっていくわけなんですけれども、その中心にあるのは、もう互いに自由に分かち合うと、で、合意形成をですね、その決定権が今ではその権威、男性中心としたその権威に集中していたんですけれども、それを一緒に、一緒に分かち合って、一緒に話し合って、一緒に決めていくという部分を促進しています。
で、 やはり世界中で、そういった機運が来てるわけなんですけれども、その場合女性はある種決められた中で自由に発言できるっていう、その安全だっていうこの場は、自分が何を話しても安全なんだと、何も自分は傷つくことがない、何も虐げられることはない、はねにされることはないしという、そういうこう全体的な環境っていうものがすごく重要だなと
と。
櫻:ジェンダー平等ですね、各教団、宗派、教派で急がなきゃいけないと全く私そういう認識を持っていて、それをやらないでいるとですね、そもそも、宗教家、お坊さんであるとか、牧師さん、神父さん含めてですね、もう、日本人のなり手がいなくなってくんじゃないのかっていうことなんですよね。
ですから、私はその宗教界はこの宗教2世問題含めてですね宗教に対してその魅力をもっとその感じるようにしていかないとですね、その若い世代、宗教家への成り手も少なくなるし、信者も減ってくしですね。ますますこの世俗化してくんじゃないか。で、この世俗化の中でですね、いわばこのカルト問題ってのはですね、深刻化してくんじゃないのか。
島:私はですね、ちょっと無宗教ということなんですが、宗教2世ではない。私の場合「科学2世」みたいなとこがあるんですけれども、「科学2世」のような人は、また自分の中にちょっとこの空虚を抱くっていうか、それでよかったのかという風な、そういう場合もありすね、なので宗教に頑張ってほしいなと。
で、自分は、宗教の中に入っていかないけれども、やっぱり宗教あってこそのこの世界だという風な考え方の人も結構いると思います。そして、今スピリチュアリティという言葉が重んじられていて、 宗教は信仰しない、特定宗教は信仰しないけれども、自分なりのスピリチュアリティを養いたいという人も多数いるんですかね。そういう方は、その社会に宗教なしでいいと思っているかというとそうではない。まさに宗教があってこそ、宗教の外で養われるスピリチュアリティも豊かなものになるという風に私などは思っております。そういう風なところで最後にですね、釈さんからまとめをいただけたらと思っておりす。
釈:そもそも、広い意味での宗教っていうのは、人間の営みの中に必ずあるものですから、やはり機を選んで、しっかり考えていかなければならない。ただ、毎日宗教の現場にいるものの実感から言うと、宗教言説っていうのは、あんまり振り回してはいけない。どちらかというと、もう本当にその道を恐る恐る歩き続けるっていうので、ちょうどぐらいっていう感じがあります。というのは、1歩踏み外すと差別や排除や暴力を生みだす、反対側に踏み外すと、今度は単なる中毒に陥るっていうような、そういう剣が峰を歩くようなところが宗教にはある、そんな風に思います。
ただ、宗教は、制度化されてきた宗教は各宗教教団もこれまで枠からこぼれる人やマイノリティのために、何度も何度も立てつけを組み、立て直してきたわけです。その経緯などを自己点検しっかりして、ぜひとも家族やジェンダーっていう問題に対して真面目に取り組む対話の場を設けるというようなことをしていただきたい、そう思います。
島:どうもありがとうございました。