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NHK「こころの時代〜宗教・人生〜」の文字起こしです

2023/1/8 小さきものの声を聞く〜思想史家・渡辺京二の遺言〜

渡辺京二:思想史家

ナレーター(以下「ナ」という):熊本で暮らしながら庶民の目線で時代を描いてきました。思想史家、渡辺京二さん12月25日に亡くなりました。享年92、その目に現代はどう映っていたのか。

渡辺:もう若い人の言うことがよくわからないんですよ。「人を殺してみたかった」、「殺したい」はわかるよ世の中いっぱいあるからね、「殺したい」はわかる「みたい」ってのは何事?「みたい」ってのは「なになにしてみたい」っていうのは実験してみたいってことでしょう。でも、そんなこと実験しなくたってわかってるじゃないですか、刃物で人を刺したらしたら死ぬに決まってるじゃないですか、実験する必要ないじゃないですか、という風になるわけですよ、僕から言わせると。「人を殺してみたかった」なんて言われると、僕はそう言いたくなる。だけど、そういうことを言ってる本人はただ言い方を知らないだけなんでしょ、言葉での。自分の気持ちの言い方を知らないだけなんでしょ、だから言葉がね、言葉でちゃんと表現できなくなってるんですね。

ナ:渡辺さんは30を超える著作で時代を映してきました。代表作、「逝きし世の面影」では、日本を訪れた外国人の記録から、江戸時代の庶民の暮らしの豊かさを描き、近代化によって何が失われたのかを明らかにしました。
 その奥底には、日本が近代化し高度経済成長を遂げていく中で起こった公害、水俣病があります。化学工場が流した排水によって犠牲となったのは、漁民など自然と共に暮らす人々でした。
 渡辺さんは、水俣病患者の支援活動に取り組みます。連綿と続いてきた暮らしを奪われた人々の訴えは、前近代から近代への異議申し立てだと言います。

渡辺:だから、村の付き合いの中でのあの人達の日常倫理ですね、常識と言ってもいい。 それがちょっと通ってほしいってだけ、そんな難しいことは1つもないんですよ、もう簡単に言っちゃえばね、土から離れないってことですよ、土から離れない、土から離れない
人間の生活というものをねやっぱりみんな持っていてほしいですね。じゃないと人間じゃなくなりますから。

ナ:敗戦を中国大陸で迎え、引き揚げ、その後結核で死の淵をさまよいました。名もなき、庶民、小さき者たちの声を聞き、近代とは何かを問い続けてきた渡辺京二さん、渡辺さんが生前に残した言葉です。
 渡辺京二さんは亡くなるまで地元の新聞に毎週連載記事を書いていました。タイトルは「小さきものの近代」、幕末から明治にかけて、明治国家を作った為政者の大きな視点ではなく、名もなき庶民がどう生きたのかという視点で書いています。

『渡辺:この次はね、西南の役で「明治10年戦争」にします、タイトルは。「明治10年戦争」という言い方の方が好きなんだ、知ってる歌?

編集者:いや知らない

渡辺:「はるか彼方を眺むれば」知らん?

編集者:知らない
渡辺:手まり、お手玉だよ。「はるか彼方を眺むれば、17、8の小娘が片手に花持ち、線香持ち」って知らない?

編集者:知らないです。

渡辺:「明治10年戦争に討ち死になされしお父様、最後の娘でございます」知らない?

編集者:すみません

渡辺:これはね、僕が小学校に上がる前ね、姉たちが歌って、だから一緒に遊びよったもんだけん、覚えとったい。

編集者:そうですか、聞いたことがないですね。

渡辺:変な戦争だよ、明治10年戦争っていうのはな、どうして鹿児島の若者たちがな、最初1万3000出たんだもんな、で後から2万ぐらい出てるだろ、鹿児島から若者がね、不思議だね、あの気持ちはね』

ナ:渡辺さんは、日本の歴史を独自の視点で見つめてきました。
渡辺京二さんの代表作、「逝きし世の面影」、幕末から明治にかけて日本を訪れた外国人の日記や記録などから、江戸時代の人々がいかに心豊かに暮らしていたかを描きました。失った文明を明らかにすることで近代とは何かを問うたのです。それは近代以降の日本で教えられてきた固定観念を覆すものでした。

『当時の欧米人の著述のうちで、私たちが最も驚かされるのは、民衆の生活の豊かさについての証言である。
 幕藩体制下の民衆生活について悲惨極まりないイメージを長年叩き込まれてきた私たちは 両者間に存する、あまりの落差にしばし茫然たらざるを得ない。
 日本に着任したハリスは下田近郊を訪れ、次のような印象をもった。
「人々は楽しく暮らしており、食べたいだけ食べ、着物にも困ってはいない。それに家屋は清潔で、日当たりもよくて、気持ちが良い」
 ウエストンも次のように書いている。
 「明日の日本が外面的な物質的進歩と革新の分野において、今日の日本より遥るかに富むか、おそらくある点ではより良い国になるのは確かなことだ。しかし、昨日の日本がそうであったように、昔のように素朴で絵のように美しい国になることは決してあるまい」』

渡辺:要するに江戸時代はね、暗黒であったかのようにね、ずっと言ってきたんですよね。だけどね、江戸時代はねまあ西洋人が書いているんだけど、世界中でこの国ほどね、気楽に安心して暮らせる国はないって言ってんの、安心して暮らせるって。一つ一つの藩があって、さらに幕府があるわけだけど、もちろん民衆を支配してんだけどね、その支配はね、
根っこまで届いてないんですよ。年貢を納めりゃそれでいいんですよ、年貢は納めなさいって、納めりゃそれでいいんです。で、その他いろんなキリシタンは厳禁であるとかさ、お金を盗んだらいかんとか、人は殺したらいかんとかそういうことはあるからさ、そういうことはちゃんと守んなさい、それ以外は干渉しないんですよ。
 だから、村っていうのはそういうね1つのコミューンとして強いまとまりを持っててね
、その村の中でね、自分の思わしい生涯っていうものが実現されてたんですよ。もちろん、村の中にはね、金持ちもあれば貧乏人もいてね、いろんな階層はありますけどね。それでもどんな貧乏人でも村の一員なんです。
 例えば、年貢を納められない貧乏百姓がいたら、村が代わって年貢を納めるんです。だから、百姓は百姓だけの世界を持つことができたんです。

ナ:渡辺京二さんは、1930年、京都で生まれました。父、次郎さんは、無声映画活動弁士。しかし、やがて映画がトーキーの時代になると職を失います。
 1932年、中国大陸に渡り映画館の支配人となります。その後、京二さんたち家族も呼び寄せられ、大連で暮らします。そして1941年、小学校5年の時に太平洋戦争が始まりました。渡辺さんは、皇国史観を教え込まれて学校生活を送りました。

渡辺:だから、子供心にね日本ほどいい国はないと思ってたんだよ。そりゃ、僕1人じゃないと思うみんなね、日本に生まれてよかったなと思うわけ。特に植民地生活をしてるとね、日本の祖国というものがさ、やっぱり桜の咲く日本っていうわけよ、大連は桜は咲かないからね。だから、美しい日本、ふるさとの日本という、そういうイメージがあるでしょう。だから日本、しかも当時の戦争はさ、英米帝国主義からアジアを解放するって言ってたわけだからね、子供だからまともに信じるからね。解放戦争やってんだっていうことでしょ、とにかく日本っていうのは清らかな国であると、非常に正直で清らかな国だと、アメリカとかイギリスというとこは、ヨーロッパは要するにお金次第の世界であってね。

ナ:一方で、渡辺さんは小学校に入る前から少年雑誌などを読み始め、大連でも本ばかり読んでいたと言います。こうした本との出会いによって、世界の見え方が次第に変わっていきました。

渡辺:だけど、文学っていう観念はなかったのよ。それをね、世の中に文学があると認識したのはね、中学2年になってね、ちょうど今でも思い出すけど11月1日だから紀元節がね、その時にね、蘆花のね「不如帰」を読んでね涙を流した。そりゃあ、お涙頂戴としてはようできてるわけよ。それを読んで涙を流して、そん時に初めてね世の中には文学ってあるばいって気づいたわけよ。それが文学芸への目覚めでね、それから読み始めてね、そして、蘆花はすぐ卒業、幼稚だっていうんですぐ卒業。後はヘッセも甘い、すぐ卒業。そしてトルストイドストエフスキーアンドレジードってなるわけよ。だから、終戦の時はもう立派な文学青年だったの。
 もう学校の授業は馬鹿らしい、だから学校の成績はどんどん下がっていった。もう学校の授業は聞いてない、文庫本持っていくの。そして、教科書を衝立にして、文庫本読みよった。だから、毎日1冊ずつくらい読みよった学校で。そうするとね、やっぱりなんかその時のね、文学によって与えられた覚醒っていうのはね、つまり、目がぱっちり開くんですよ。つまり、距離が取れる全部、親に対しても距離が取れる、教員に対しても距離が取れる、友人に対しても距離が取れる、つまり、自分ってものが初めて自分で掴める、目があいたって感じ。もう生まれて初めての経験でしたね。文学のね感動っていうのはね。

ナ:1945年15歳の時に、敗戦、大連にはソ連軍が進駐、多くの日本人が取り残されました。これまで信じていた国の姿が、渡辺さんの中で徐々に崩れていきました。

渡辺:4年生になってから秋ね、引き揚げが始まって、引揚対策協議会ってのができたんですよ。で、大連はソ連軍の占領下でね、ソ連軍が占領当時はすごかったんですよ、強姦、略奪、大変だったんですよ。それで、その引揚対策協議会に友達から誘われてね、もう学校もつまらんて言ったってね、引揚対策協議会で働こうよって友達がすすめるから5人で入ったんですよ。
 そして、僕は親を早く帰したの。ていうのは、もう親がねもう2人ともねもう弱り切ってましたから、もう40代でしたからね。もう、父はもう50近かかったし。
 ところが、僕らが住んでいた地域の引き揚げの順番がまだ来ないんですよ。それで僕と姉がね、ずっと最後まで引揚対策協議会で働くならば、代わりに両親をね早い地区の引揚船に乗せて帰してやるって言いなはるから、それじゃあそうしましょうと。
 そして、最後の引揚船でね引き揚げたの。結局僕は1番大きいのは難民。もう大連から帰ってきた時に難民として帰ってきたからね、もう要するに船に乗ったのはお客さんで乗ったんじゃないのよ。自分で荷物さげて乗ったんだよ、布団包みも自分で船に積み込んだのよ。だからね、僕はずっとその意識が抜けなくて大体流浪の民
 要するに、人間の本質というのは流浪の民がね本質なんだ。いろんな災害とかね、まあ、戦争もあってね、そういうのに追い立てられてね、流浪するような、そういうのが人間の
基本的なあり方だっていう感覚がひっついたね。

ナ:敗戦から2年後の1947年、渡辺さんはようやく引き上げることができました。両親の故郷、熊本。親戚を頼り、母方の菩提寺、西流寺に身を寄せます。寺の6畳一間に、両親と姉、祖母や親戚と7人で暮らしたと言います。
 翌年、熊本の旧制第五高等学校に入学しました。しかし、入学して1年目、思わぬ試練に直面します。

渡辺:五高に入ってね、1学期しか授業受けてないけどね、夏休みに大喀血(だいかっけつ)したの突如、洗面器いっぱい血吐いた。つまり戦後ずっと大連で無理な生活して栄養失調になってた。喀血して、そして、後はもう自宅療養。翌年の初めだったと思うね、大喀血したんだ、また2度目の。この時も洗面器1杯ぐらい吐いた。喀血する時はね止めようとしたら駄目なの。止めようとしたらね窒息するの、固まって。だから、思いっきり吐かなきゃいけない。それでね、俺はやっぱりこう天井見てさ18で死ぬのかなと思ってた。

ナ:1949年、国立療養所「再春荘」に入所します。当時、不治の病とされた結核でした。生死をさまよう手術を受けた後、隣の病室で誰にも看取られずに見知らぬ親子が亡くなりました。人知れず黙って死んでいく、「小さきもの」たちの理不尽な死でした。

『人は、このようにして、死なねばならぬことがある。小さきものは、常にこのような残酷を甘受せねばならぬ運命に晒されている。バラ色の歴史法則が何ら彼らが陥らねばならん残酷の運命を救うものでない以上、彼らにもし救いがあるのなら、それはただ、彼らの主体における自覚の内になければならぬ』

渡辺:再春荘で手術をして個室にいた頃ね、なんか泣く声が聞こえてくるのよ女の。で、翌朝看護婦に聞いたら、隣の病棟のね、親子が母親と娘が入院しててね、そして、父親が天草の百姓なんだよ。天草の百姓で再春荘に入れてね、その日すぐに帰っちゃった。その母親と娘は、入れられた日か、翌日か知らないけど、両方死んじゃった。ということは、娘がお母さんが死んでいる姿を見てるわけだろ。あるいは、お母さんが娘を死んでいく姿を見てるわけだろ、そん時の泣き声だったんだよ。
 だから、俺が思ったのはその非常に救いのない死だね、非常に救いがない死。そういう救いがない死っていうのはこう世界史上ね、いくつ起こってるかわかんない、救いのない死はね。庶民のそういう救いのない死ね、いつ出会うかもしれん。だけど、その時にでもね、これは「自分の死だ」、人から強いられて、惨めに死んでるんじゃないという風に思いたいなってっていうことを書いてるのよ。

ナ:渡辺さんは、小さきものたちの死に接する一方で、患者として入所していた多くの元兵士たちと出会います。
渡辺:結核療養所の患者ってのはね、もう当時は兵隊ばかり。元々傷痍軍人療養所だから 各県にできたんですよ。ということは、いかに兵隊が結核にかかったかってことですよ。それで僕が入所した時は、 一部屋8人のうち、6人が兵隊、兵隊じゃないのは僕ともう1人ぐらい、そんな感じだったね。
 それで彼らはね、もう朝から晩まで冗談言うとんだよ。もう明るい、明るい。それで、なかなか良くなっても帰ろうとしないの。つまり、兵隊に行ってる間、自分の帰り場所を失ってるんですよ。みんな村の出身だから、優しゅうしてくれましたよ、あの兵隊さんたち。  特に兵隊あがりの人たちは、兵隊というのは、やっぱり生死を経験してるからね、これは。やはり、自分の命をやっぱり屁とも思わないようなね、笑い飛ばしてしまうような、
そういう風に思ってましたね。つまり、日本の戦前社会っていうのは、そのようななんか悲惨さっていうのはね、やはり至るところにあった話でしょうから、農村共同体というのは、そういうものを含みながらね、そういうものを笑いのうちに乗り越えてしまうようなね、そういうたくましさがないと生きていけない世界ですからね。
 初めてわかったね、なんか民衆っていうものがね。初めて経験したし、だから、ゴーリキー風に言うなら、「私の大学」でね。

取材者:大学、何を一番こう、、、

渡辺:だから民衆ってことを知ったことですね。日本の民衆が何かってことを知ったことですね。日本の民衆ってのがね、どういうものかってことを肌で知ったことね。これ本当に肌で知ったからね。だから、彼らに対して自分がどういう存在かってこともね、よくわかったしね。

取材者:それはどういう存在?彼らに対して、、、

渡辺:何もわかってない存在です。

取材者:自分が?

渡辺:はい。本を読んでるばっかり、なんもわかってない存在です。

ナ:再春荘を退所した後、渡辺さんは法政大学に入り上京します。日本が高度経済成長していく時代でした。卒業する時31歳になっていました。なかなか就職先が見つかりませんでしたが、書評誌「日本読書新聞」に入ることができました。編集者として文芸欄を担当します。
 この頃出会ったのが詩人で思想家の吉本隆明さんです。吉本さんは常に民衆の側に身を置いて、時代を見つめる在野の思想家でした。渡辺さんは、吉本さんを師と慕うようになりました。

渡辺:記憶に残ってるのはね、一緒に国電に乗った。国電に乗ってね、そしたら吉本さんはね座席に座ってね、あの人大きい人だからね体、大きい人がね身を縮めるようにしてね、何かもう本当にもう体を小さくするようにしてね、座ってなさるの、その姿見た時に「生きててすいません」っていう風な感じなの。「生きててすいません」っていのね、で、「わあ、この人はやっぱり違う」、やっぱも普通の物書きとは、 やっぱりこの人は違うってことを強く感じたね、
 それからね、もう吉本さんとかにずっと遊びに行くようになってね、というのが、やっぱりなんか吉本さんっていう人に、やっぱ魅せられたわけよ、私はあの人にね。もちろん書いてるものもすごいしね。まあ、1つ吉本さんっていうのは、僕にとっての思想的な導き手でもあるしね。また、自分が書きたいと思ってるような思想的、あるいは、文学的な評論というもののお手本でもあるしね。

『「最後の親鸞」(吉本隆明著):「知識」にとって、最後の課題は頂きを極め、その頂きに人々を誘って蒙を開くことではない。頂きを極め、そのまま寂かに「非知」に向かって着地することができればというのがおおよそどんな種類の「知」にとっても、最後の課題である』

渡辺:要するにものを読書する人間というのはだから、世界普遍性に向かってだね、上昇していくっていうのはね、自然過程なんだって、これは当たり前の自然過程だっていうわけだ。問題はそういう風にして、世界の最高思想までね、上昇していこうというとこから上昇していったところから反転してだね。何にも物は知らない小学校しか出とらん、それで一生ただ要するに結婚して、子供を作って、働いて、そして年取ってから子供に背かれてという風な極平凡な普通の人間の一生、これが価値があるんであってね。だから、世界思想の頂点までずっと登り詰めたらね、そこから反転してね、そういう庶民の庶民というか、大衆だね、大衆の在り方に着地しないといけないって、書いとるわけだ。「最後の親鸞」で。
 僕にとっては、やっぱりその言葉が 座右の銘というかね。もう自分の勉強も含めて文章を書くことも含めて、自分の思想的な営みというものの、根本的なあり方をね、規定してる言葉でね。だから、そういった意味では、吉本さんというのは 2人といないね、私の先生なの。

ナ:「日本読書新聞」に入社して2年目、皇室をめぐる記事に右翼団体が抗議し、会社が謝罪するという出来事がありました。渡辺さんは、これに納得できず会社を辞め、熊本に帰ってきました。そして創刊したのが雑誌「熊本風土記」です。

『渡辺:これは僕が飯食おうと思って出したわけです。まあ、地方文化誌でね。これで飯食を食おうと思って、月間でちょうど12冊出してね。雑誌作りってのはね、やると楽しいんですよね。つまり、雑誌ってのはね、全体の傾向というのはもちろんあるんですけどね、あの1冊、1冊がやっぱり1つのアンサンブルっていうかね、巻頭論文に何を持ってって、最後で何を締めて、中間にこういうものを配してっていうのね。僕は常にやっぱりそういうアンサンブルってのを考えてね、作ってきましたけどね。
 そしてもう1つはやっぱり雑誌をやると人が集まるってことね、集まるっていうか、集めなくちゃ出せないわけだよね。だから、常にやっぱりライターを発見していくというね、
喜びがありますからね』

ナ:渡辺さんが向かったのは、水俣です。不知火海の自然と共にあった豊かな暮らし、しかし、日本が高度経済成長していくその影として、海の異変が始まっていました。
 渡辺さんが原稿を依頼したのは、石牟礼道子(いしむれみちこ)さんです。石牟礼さんは当時、水俣で暮らす主婦でした。水俣病によって村の共同体が壊れていくのを目の当たりにしていました。
 石牟礼さんは、「海と空の間に」というタイトルで、熊本風土に連載します。それが後に「苦海浄土」として出版されると社会に大きな衝撃を与えます。水俣病によって奪われたものは何なのか、これまで連綿と続いてきた人と自然が共にあった暮らし、そして、自然と共に生きてきた人たちの人間の尊厳を描き出しました。

『「苦海浄土」:彼は、実に立派な漁師顔をしていた。しかし、彼の両の腕と足はまるで 激浪に削り取られて年輪の中の芯だけになって、丘に打ち上げられた流木のような具合になっていた。それでも骨だけになった彼の腕と両足を潮風に焼けた皮膚がぴったりとくるんでいた。顔の皮膚の色にも、汐の香がまだ失せてはいなかった。彼の死が急激に彼の意に反してやってきつつあるのは、彼の浅黒い引き締まった皮膚の色が完全にまだあせきっていないことを一目見てもわかることである。
 水俣湾内においてある種の有機水銀に汚染された魚介類を摂取することによって起きる 中枢神経系統の疾患という大量中毒事件。彼のみに絞って砕いて言えば、 生まれてこの方聞いたこともなかった水俣病というものになぜ自分がなったのであるか。いや、自分が今、水俣病というものにかかり、死につつあるなどということが果たして理解されていたのであろうか。
 私は自分が人間であることの嫌悪感に耐え難かった。この人の悲しげなヤギのような魚のような瞳と流木じみた姿態と決して往生できない魂魄は、この日から全部私の中に移り住んだ』

ナ:石牟礼さんとの出会いから、渡辺さんは水俣病の支援活動に深く関わっていきます。熊本で水俣病を告発する会を結成。デモ行進するなどして患者支援を呼び掛けました。さらに、機関紙「告発」を発行、多い時には1万9,000部に及び、 全国に水俣の現状を伝えました。告発する会は、東京など各地でも結成され、支援活動は全国に広がっていきました。
 1970年石宗さんや渡辺さんたちは、厚生省で抗議行動を行いました。補償の交渉を一任した「一任派」の患者たちが、低い金額の補償金で解決とされるのを止めようとしたのです。渡辺さんは、仲間とともに厚生省の会議室を占拠しようと乗り込みました。言葉で伝えるだけではなく、直接自らの身を投げ出して訴えようとしました。水俣病患者たち、「小さきもの」の思いに突き動かされたのです。

渡辺:告発する会として1つの転機がね、厚生省を占拠したのが転機だったのよ。 この厚生省を占拠したのはね、厚生省の一室で、「一任派」と処理委員会が会って、手打ち式がある。その会場を占拠しようって、占拠したって反除されるだけの話したけどさ、一時的にもね、ストップしてやらなっちゅうんだよね、厚生省のその会場をね、占挙するっていう案を私が出したのよ。で、要するに厚生省のその発表する部屋を下見して、当日そこを占拠したわけよ。
 まあ占拠してねと新聞記者が来る、こっちは声明文を読み上げる、もうすぐ機動隊が来て、排除されて丸の内署に連れてかれたけどね。10何人かね捕まったよね。
 とにかくね、厚生省の職員には1大ショックだったんだよ。つまり、僕らが部屋に占拠して機動隊が入って、捕まえられて出ていく一部始終を厚生省の職員見てるでしょう。だから、その中から、厚生省の職員の中から「告発する会」ができたんだよ。

ナ:当時、告発する会で渡辺さんと行動を共にしていた人がいます。福元満治さん、現在、福岡市で出版社を経営しています。
 当時、熊本大学の学生だった福元さんは、友人に誘われて「告発する会」に参加しました。 渡辺さんと一緒に厚生省にも乗り込みました。

『福元:あの、東京行動というものの会議がありまして、要するに、そういう補償処理委員会の斡旋案をですね実力で阻止すると、「全存在をかけて阻止する」というですね、そういう非常に白熱した議論が行われてた会議にですねたまたま出席をしまして、その話を聞いてて、非常にあの生意気だったんですけれども、「いや、全存在をかけるなんてできませんよ」なんてことをちょっと言ってしまったんですよね、そうしましたら、 いきなりですね、「小賢しいことを言うな、これは浪花節だ」という風なですね、一喝されたんですね。 
で、その方がその時私どなたか知らなか知らなかったんですけれども、このおじさんはなんだろうかと思ったわけですよ。それで、後でその人が渡辺京二さんだっていうことがわかりまして、それは本当になんていうか、日本刀で斬りつけられるというそういう感じでした。 水俣病のあの時の闘争って言いますか、市民運動とやはりちょっと違うところは、あの石牟礼さんの存在がなければ、私は水俣病事件というものはですね、要するに、裁判闘争、
損害賠償請求事件にとどまったんじゃないかと思うんですよね。そうではなくて、石牟礼さんの、「苦海浄土」の世界にありますように、知識人の持ってる世界とは違う豊かさって言いますか、漁民の持ってる豊かさって言いますか、知恵というか、生活というか、いろんなあの習俗とかですね。その世界の持ってる秩序であるとか、そういうものがいわば、チッソによって破壊されたんだと、むしろ近代によって破壊されたと。渡辺さんは、その石牟礼さんが描かれた世界にですね、そこに触発されたって言いますか、多分、そこで渡辺さんがずっと考えてらした世界とものすごくこう、なんて言うんすかね、そこでこう融合すると言いますかそういうものが、やはり水俣病の運動をある意味で、従来の市民運動とは異質なものにしたんではないか。

ナ:渡辺さん自身も、石牟礼さんに触発されるようにして執筆活動を始めます。近代によって失われたものとは何だったのか、庶民が残した記録や資料から「小さきもの」の歴史を書いていきました。
 1973年に、水俣病第1次訴訟の判決が出た後、渡辺さんが通うようになった場所がありました。熊本市にある浄土真宗の寺、真宗寺です。経済や効率が優先される時代、真宗寺には時代に取り残され、生き方に悩む若者たちが集まってきていました。
 住職の佐藤秀人さんは、「非行少年・少女」と言われる若者たちを受け入れます。寺に住み込んで、生活を共にする人も10数人いました。佐藤さんは、若者たちに対して対等な立場で向き合いました。自分をさらけ出し、時には本気で喧嘩することもあったといいます。

渡辺:まあ、お寺にいっぱい集めてる非行少年の中にはね、もちろん素直なやつばっかりじゃないからね、とにかくそういう青年とね、もう殴り合って喧嘩するのよ。これはみっともないでしょ、そういうなんというかね、隠しもなんもしない。
 この人にはやっぱりあの僕が学んだのは「己をかばうな」ってことだね、まあ「己をかばうな」ってたって、そこは限度があるけどね。とにかく、人から嫌われたり、愛したりすることを恐れるなと、自分の評判を良くしようと思うなってことですよ。つまり、救われないような存在だって人間は、それをよく見せかけることをするなっていうわけ、でもそんなこと言ったって人間はやっぱり多少は修養せにゃならんからね。だけど、それをあえてさ、自分の我がまな姿をね、ありのままには出していこうっていう風になさったんだからね。
 でも、結局はやっぱりそういうことで、本当の人間と人間のつながりをその中で見出していこうとなさったんだろうからね。とにかくやっぱりあれだけの、非行少年・少女を引き受けて、そしてみんなやっぱりその非行少年・少女たちが懐いたわけだからね。だから、そこんとこでね、佐藤先生のことを思い出してね、「己をかばうな」って言ってたよなあの人はって。やっぱり最後までそれを貫いて強烈な一生ではあったので、僕はあんな風にはできないけどね、またしようとも思わないけど、本当に好きになれた人だね僕は。

ナ:真宗寺との出会いから、渡辺さんは浄土信州を開いた親鸞の思想にたどり着きます。
親鸞阿弥陀仏によって選ばれた人だけでなく、全ての人が等しく救われると説きました。

渡辺:世の中の人間が全部救われない限り、自分も救われないっていうこの願いね。つまり、衆生を全部救いたい、こう阿弥陀さんは願いなはったから、お前たちはそのまま全部助かってんのよって、親鸞さんは理屈を言ってるわけだ。
 そうすると、この世に阿弥陀さんというのがおるのか、阿弥陀さんが願いなはったから、 俺たちは救われるのかってことになっちゃってね、じゃあ、親鸞さんの前に出てきた阿弥陀さんって、どんな顔しとったのか、どんな姿しとったのかと思うとさ、結局この世の実在世界の形をとっとったんじゃないかね。つまり、言ってみりゃ山河というか、山あり川ありね、花が咲いてるし、虫もおるわけたい、風も流れとるわけたい。そういう実在世界、これが阿弥陀さんなんじゃないかね。
 だから、この実在世界の中の1人の存在として、お前はそれで肯定されてんだよということになるんじゃないかと思うんですね。例えば、夕焼けの雲だってそうですよ、これの実在世界ってのがね、一方では、弱肉強食のそういう世界でありながら、実になんていうか、美しい調和の取れた世界で、生命ということをとるならば、これはもう人間からあらゆる動物からあらゆる植物から、さらに岩や石や、もうそういうものを全部含めて、全部これは1つの生命体だと言っていいんですよね。
 だから、救いっていうのは、そういう実在世界の中でほんのちょっとの間ね、滞在を許される。その滞在っていうのは、これはずっと先祖があり、子孫があるようにね、ずっと繋がっていくんだけれど、そういう無数の生命の繋がりがひしめいているわけね。で、その中の自分は存在だってことで、それが本当に見えてきてね、本当に見えてきて「いいじゃないかそれで」、そういういいなと思う時に、阿弥陀さんが出現するわけでしょ、じゃないかって僕は思うけどね。そういう形で親鸞さんに阿弥陀さんが出現したんじゃないかと思うけどね。
 
『「幻のえにし」:つまり、自分は一人である。自分は自分の考えで生きている、国からも支配されない、いわゆる世論からも妄想からも支配されないというあり方ができるのは、 自分がある土地に仲間と共に結びついていると感じるからなんだ。
 自分がこの世の中で自分でありたい、妄想に支配されたくないという同じ思いの仲間がいる、それが小さな国である。自分が自分でありたいという自分と、同じく、自分が自分でありたい人たちで作った仲間が小さな国になっていく、そういうものをしっかり作るということが 僕の思う革命なのさ』

 

ナ:自分は、そして人々はその時代をどう生きていくのか、渡辺京二さん、庶民の視点から歴史と時代に向き合い続けた92年の生涯でした。

逝きし世の面影 (平凡社ライブラリー 552)

小さきものの近代 〔第1巻〕

幻のえにし 渡辺京二発言集