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NHK「こころの時代〜宗教・人生〜」の文字起こしです

2022/5/15 歎異抄にであう シリーズ 無宗教からの扉(2) 「念仏とは何か」

阿満利麿:宗教学者 明治学院大学名誉教授
ききて(ディレクター):鎌倉英也、池座雅之 

 

ナレーター(以下「ナ」という):「歎異抄」は700年以上前の鎌倉時代に書かれた仏教の古典です。
 そこに貫かれているのは、阿弥陀仏が仏になる前人々を救うために立てたもともとの願い「本願」に基づく、念仏を称えるだけで全ての人が救われるという「本願念仏」の思想。法然によって始められたその教えは、親鸞らによって受け継がれました。
 「歎異抄」はその親鸞の言葉を、門弟となった唯円という人物が正しく伝えようと書き留めた書です。
 宗教学者、阿満利麿さんは「歎異抄」の核心ともいえる「念仏を称える」という教えが、なぜ、そのようにして成立したのか研究してきました。その教えには私達の日々の生活では推し量ることのできない常識を乗り越えた大きな物語の裏付があります。

阿満(以下「阿」という):仏教は論理というものを極めて大事にしている宗教ですね。一つ一つ納得して次へ進むという道筋をたどるのが仏教であって、「わけの分からんことを信じ込め」ということは仏教では一切ありません。
 「阿弥陀仏の本願」が何だか分からなくてもいいと、阿弥陀仏というありがたい存在があるんだからそれを頭から信じ込めば自分は救われるんだと、こういうふうな思い込みに走ることが多い、決してそんなことはない。そんなことを言うとしたらそれは仏教ではない。

ナ:「阿弥陀仏の本願」とは何か、念仏を称えるという教えはどのような論理から生み出されてきたのか、シリーズ「歎異抄にであう 無宗教からの扉」、第2回の今日は「念仏とはなにか」探ってゆきます。

阿:今日はこの番組の第2回目の「念仏とはなにか」というテーマですけれども、世間ではお念仏といってもお葬式の時に死者に向かって称えたり、あるいは墓参をした時に念仏を称えるっていうふうに何か死者に手向ける言葉のようなイメージがありますけれども、この「歎異抄」で取り扱う念仏は阿弥陀仏の本願に基づく念仏である。自分で答えが出せないような問題を前に苦しんでいる人間、自分の考えが中心で自分の考えから離れた世界についてはそれを信じることはできないというそういう心の持ち主に対して、その阿弥陀仏の誓いというのは大きな救いの手を差し伸べているんだと。
 我々日頃そういう苦しみとか不安があってもですね、適当にあしらって生きているわけです。しかし、あしらいきれなかった時にですね初めて苦しみや不安というものと向き合うわけでありますけれども、苦しみとか不安の原因をたずねても我々の手では究明しきれないと。
 例えば、「私はどこから生まれてきてどこへ死んでいくんですか」とそういう質問を仮に持ったとしたらそれに対する答えはないわけですね。こういう人生の苦しみとか不安の多くっていうのは、その原因を明らかにする智慧がないというところから生まれていると。
 ですから仏教というのは、そうした人間の根本的な不安とか苦しみを解決するための智慧を与える宗教なんですね。特にその智慧の中でもですね、仏教が強調するのは因果の関係なんですね。原因と結果、因果の関係ですね。特に仏教がおもしろいと思うのは、直接的な原因と思われることとその直接的な原因を動かす間接的な原因ということを分けて考えているということですね。
 直接的な原因は「因」という原因の「因」ですね。それに対して間接的な原因を「縁」と言うと。つまり「因縁」という言葉ですね。原因の中にははっきりと分かる原因もあるけれども原因を動かしている間接的な原因というのはたくさんあると。仏教はそういう間接的な原因、つまり「縁」というものに注目しているんですね。
 何か自分に不幸が生じたりあるいは不安が生じた時にその原因をたずねてもですね、せいぜい1つか2つ思い当たるだけで更にその奥、ましてやそういう原因を動かしてる間接的な原因っていうようなことになるとですね、ほとんどお手上げ状態になってしまうと。
 ですから「歎異抄」が問題にしているのはそういう「因」・「縁」・「果」の連鎖を知る、この智慧というものから遠い人間の苦しみとか、その苦しみからどういうふうにしたら脱却できるのかといったことを背景に置いてる古典だと。生きてるうえでのよりどころになるような仏教の智慧というのは何かということを教えるための1つの手がかりを与えている書物だというふうに言っていいと思うんですね。

ナ:人間を苦しみの連鎖から救う阿弥陀仏の「本願念仏」とは何か。「歎異抄」の最初の条文、第一条を唯円は次のような親鸞の言葉から書き始めています。


阿弥陀仏の誓いによって浄土に生まれることができると信じて阿弥陀仏の指示どおりにその名を称えようと思い立つ、その決断の時、阿弥陀仏はただちに感応しその人を迎えとって下さり、全ての人々を仏とする働きに参加させておいでなのです。』
阿弥陀仏の本願は老人か若者か善人であるか悪人であるかをお選びになることはありません。ただ信心を要とするとよくよく知らねばならないのです』
『そのわけは深く根を張った罪悪と激しい煩悩を抱えた衆生を助けるための本願だからです』

阿:「歎異抄」の第一条、ここに「誓願不思議」という言葉があります。「誓願」というのは阿弥陀仏の名前を称するものはどんな人間であっても必ずわが浄土に迎えとって仏とするという、そういう誓いの文章であります。
 その「誓願」に不思議という言葉がくっついている。わざわざ「不思議」という言葉がついているというのは、これは常識では考えられないということを確認しているわけですね、我々の常識を超えていると。
 この念仏を称えようと思い立ったその瞬間に既に「摂取不捨」にあるんだと。摂取の「摂」というのは1つの枠を設定するという意味ですね。そういう、つまり具体的に言うと、阿弥陀が設定している枠、その設定している枠の中に、つまり浄土の枠の中に取り込んで、「不捨」捨てないと。
 そして次の「あづけしめたまふ」ですね。私はこの「あづけ」という言葉にですね、ちょっとこだわっておりまして、「あづく」という言葉は参加させるという意味があるんですね。ですから「あづけしめたまふ」ということは主語は阿弥陀仏です。阿弥陀仏が念仏をする我々をその阿弥陀仏の事業に参加おさせになるんだと、こういう積極的な意味合いがこの文章の中にあると思うんですね。
 そしてその後はですね「弥陀の本願には老少善悪のひとをえらばれずただ信心を要とすとしるべし」と。ここで面白いのは、ただ念仏を要とすとしるべしと言わずにですね、「信心」をとこう述べているところがですね少し面白いと思いますね。
 「歎異抄」の念仏というのは、そういう阿弥陀仏の本願に裏付けられているという、それを確認するということはとても大事なことで、この道理に納得しなかったらですね念仏というのはどんどん呪術化していくんですね。何か困ったことがあった時にちょっとお念仏してその急場をしのぎたいと思って念仏をぐちゃぐちゃっと称えるというのはそれは呪術であって自分が自分の苦境を何とか脱するための手段になっている言葉ですね。単に個人的な欲望の実現を図る手段になっているだけだと。
 この第一条だけでもですね「信じる」という言葉が3回出てくるんです。ですから信ずるという言葉を非常に大事にしている。この信じるという言葉はですね、世間では今の私共は大体あまりいい意味では使わない。この諺を使って言えば「鰯の頭も信心から」という言葉がありますけれども、鰯の頭みたいな訳の分からんものでも信ずればありがたくなるというわけですね。
 そういうことじゃないんです。そういうことではなくて「本願念仏」における信心という言葉はいくつかの契機があってですね、阿弥陀仏の本願というものを正面に立ててそれを決断して選ぶという働きがあって初めて「信心」ということが成り立つ。念仏を称えようと思い立ったその瞬間という、こういうぎりぎりと我々の心の動きを追い詰めているという、こういう表現の仕方ですね。ここがその「歎異抄」の大きな特徴。
 そこで大事なことは思い立つという称えようと思い立つというその決断が不可欠である。この場合の信心はいろいろな誤解がありますから私は「納得する」という言葉に置き換えたらいいと思っているんです。決断して選んでその時分で心の底から納得すると、それが信心という意味だろうと思いますね。この納得するということはず~っとこれから「歎異抄」を読んでいく場合に大事なことなんです。

ナ:阿弥陀仏はいつどのようにして生まれてきたのか。その原点は仏教の開祖ゴータマ・シッダールタがこの世を去っておよそ5~6世紀後のこと、インドで成立し中国に伝わった経典に遡ります。
 それによればこの世は様々な穢れと悪にまみれた「五濁悪世」、戦争や飢饉が頻発し邪悪な思想もはびこり人々が欲望のまま生きる煩悩に支配された世界。そのような苦しみの真っただ中に登場してくるのが阿弥陀仏です。
 阿弥陀仏の来歴を記した「無量寿経」によれば、阿弥陀仏はもとは「法蔵」という名の人間でした。彼はこの世の苦しみを背負う全ての人を救おうと48の悲願を立てます。そして「五劫」という長い年月をかけて、悲願が実現するまでは仏にならないと誓い苦行を重ねました。
 仏教で言う「一劫」とは7キロ四方の巨大な立方体を小さなけしの実で埋め尽くし、100年に一度だけ僅か1粒ずつ取り出して空になるまでの時間、一説には43億2000万年とも言われます。
 法蔵はその5倍にもなる時間をかけておよそ実現不可能な、しかし人間だれしもが心の奥底に持つ悲願を全て引き受けて阿弥陀仏となったのです。

阿:この「阿弥陀仏の物語」の大きな特徴はですね、我々は「五濁悪世」の真っただ中に生きているんだということを強調するんですね。五濁悪世という時代を背景にして阿弥陀仏が生まれてくると。
 「五濁」というのはですね具体的に言えば、
---(録画データが破損しているため1つ目から4つ目は精選版 日本国語大辞典より記載)----
五濁の1つ目:劫濁(天災、地変の起こること)
   2つ目:見濁(衆生が悪い見解を起こすこと)
   3つ目:煩悩濁(衆生の煩悩が盛んなこと)
   4つ目:衆生濁(衆生の果報が衰えること)
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それから5つ目に人間の寿命が短くなる。
 だから阿弥陀仏が五濁悪世を説明する時に単に経典の中の話として受け止めるんじゃなくて、今の話が説かれているんだと思わざるをえない。
 つまり「阿弥陀仏の物語」の本質は、そういう五濁の世界を生き抜く智慧というものを教えるというところにこの「阿弥陀仏の物語」の最も大事な点があるわけですね。
 「阿弥陀仏の物語」で私興味を持つのはですね、阿弥陀仏の前身は法蔵という名前の人間であったという設定になっていることですね。面白いことにその「無量寿経」はですね、人間であったというけどどういう人間であったかという説明は1つを除いて全く何もないんですね。
 どういう説明をしてるかというと「法蔵は元国王であった」と書かれているだけなんですね。それは一体何を物語っているか、国王だったら何の経済的にも不安も不満もない暮らしでしょう。なぜ人はそういう最高の幸福な暮らしを捨ててまでも求めるものがなぜあるのかというそういう問題ですね。
 それは恐らく幸福という価値よりも真実の生き方が大事だというそういうメッセージがそこに込められているんだと思いますね。私は人間にとって真実とは何かということを考えるうえでですね、「悲願」というものはとても大事だというふうに思うんですね。つまり悲しい願いというのはその願いが実現できないから悲しいとこういうわけでありますけれども、その「悲願」というのはどういうことか。
 例えばすぐに思い起こすようなことをちょっと申し上げますと、例えば私の命がこうして日々維持されてるためにはどれだけの命をですね犠牲にしているか、自分は確かに他のものの命を奪って生きている、しかし、できたらお互いに命を全うできるような在り方があってほしいという願いがどこかにあることに気が付くと思うんですね。それが「悲願」の1つの姿ですね。
 あるいは、もうちょっと身近な例で言うと、我々肉親の間で色んな憎しみが生じてきたりですね、お互いに無視し合ったりしてぎくしゃくするっていうことは少なくないと思います。この短い人生でですね、どうして互いに仲良く暮らすことができないのか、それもなかなか実現しないから「悲願」の1つだと言っていいと思いますね。
 そういう悲しみの中で、なおかつ人間として生きていくという時の苦しみですね。もうどれだけ今までたくさんの人間がいろいろいろいろ苦労してきても一向に戦争はなくならないと、人間の心の中に起こってくる他者よりも優越したいとか、そのためにはこの暴力を使っても辞さないとかいう気持ちが完全になくなるということはありえないと。
 それを前提にしたうえで、「阿弥陀仏の物語」というのは単なるおとぎ話ではなくて、その苦しみに耐えながら、しかもその戦争という悪に立ち向かうことができるようなこの最終的な拠り所として阿弥陀仏のこの「本願念仏」というのが提唱されてきている。そういう悲願を積み重ねてみると、何か真実というものの具体的な姿が見えてくると思うんですね。
 私はかつて旅人における北極星みたいなもんだというふうに例えて考えることがあったんですけども、旅人にとって北極星はですね、自分は行けないですよ。行けないけれどもその北極星があるおかげで自分の位置がわかるわけですね。
 同じように悲願というものがあることによって気付いてくるような一面が生まれてくる。何かの折に自分の中にはこういう悲願があるんだというふうに思うと適当に生きていっていいという気持ちとはちょっと離れるようになる。
 ですから「阿弥陀仏の物語」の中で大事なことは、法蔵の目から見るとですね、人は一人で生きているのではないと。人は巨大な、いわば網の中の1つの結び目であってですね、互いにいろいろな命の関わりの中で今の自分というのがあるんだと。
 私共一人一人だけではなくて、あらゆる存在がお互いに侵し合うことなく生きていくことができるであろう世界をつくるというそのことを実現するためにものすごい時間をかけているわけですね。そのためにこれは大きな物語ですから、我々が驚くような中々ついていけないような話が展開するわけです。
 それは我々の日常生活を紡いでくれている様々な小さな物語と根本的に違うのは、今申したように時間軸と空間軸がもうめちゃくちゃに巨大なわけですね。そういう巨大な時間軸、空間軸の中に人間を置いてみると、我々が普段考えているような人間の問題も違った色合いを帯びて見えてくると。神話的時間と神話的空間の中に人間を置いて人間の生き方とか人間の価値というものを論ずるというそういう仕組みになっている物語ですね。
 
鎌倉(以下「鎌」という):その大きな物語っていうことのご説明の中にですね、今我々コロナの時代もありますし、世界ではいろんな厳しい問題もありますし、個人の問題としても非常に大きな悩みとか苦しみを抱えている中で、そういった大きな物語っていうのが果たしてこれは何なんだと、何で大きな物語なんだという反応っていうのがあるかと思うんですけれども。
 「五劫」とかですね、我々の想像を絶するいわゆる非常識な世界っていうのが展開されるわけですけれども、その中には1つ宗教っていう問題が抱えている中にある種の神秘体験であったりですね、あるいは紙や仏と自分がつながったというようなそういったものが大きな物語を裏支えするような発想っていうのがあると思うんですが、、、

阿:宗教は神秘的体験だと、、、をすることだというふうに思っておられる方も結構いらっしゃると思うんですね。
 しかし、法蔵という人間がなぜ仏になろうとしたのか、それは人間の悲惨とか愚かさとかいうことを何とかしたいというそういう動機があるわけですね。その動機が分かるためには神秘的体験は必要ないですね。
 法蔵がそういうとてつもない時間をかけて修行して阿弥陀仏になったということは何を言ってるかというと、我々の修行ではこの問題は解決しないということを教えてるわけですね。そのことに納得するために途方もない例えを出して教えてるわけです。だからその途方もない例えそのものよりもその例えで経典が我々に伝えようとしているメッセージは何なのかを読み取るっていうことはとても大事なことなんですね。
 そうして見ると我々のこの能力では答えようがないというそういう問題を抱えている。つまり「人間存在というのは未完成だ」ということに気付かせるためにある意味では「阿弥陀仏の物語」があると。

ナ:「阿弥陀仏の物語」の中で最も重要なのが、専ら念仏を称えることであると解釈し論証したのが法然でした。
 その根拠を記した「選択本願念仏集」、法然阿弥陀仏となる前、法蔵が立てた48の誓願の18番目に出てくる「乃至十念」という言葉に注目しています。法然は中国の善導の解釈を引きながら「念」とは単に阿弥陀仏を念じ思うだけでなく、「声」のことであり、口に出してその名を称える「称名念仏」、誰もが容易に称えることのできる念仏こそが阿弥陀仏の本願だとしたのです。
 
 『だから、はっきりと分かる。念仏は実践が容易であるために一切の人々に通用する。諸々の行は実践が困難なため全ての人々に通用することができない。
 だからこそ、一切の衆生を平等に往生させるために難しい行を捨てて念仏を称えるという容易な行を採用して本願とされたのであろう。
 もし、仏像を作り、塔を建てることをもって本願とされたならば、貧しく困窮している者は往生への望みを絶つことになってしまう。しかも、世には富貴の者は少なく貧賤の者は極めて多いではないか。
 だから、阿弥陀如来は法蔵であった昔、平等の慈悲の心を催されて遍く一切の衆生を救うために、仏像を作り、塔を建てるなどの行いを掲げるようなことを往生の本願とはなされなかったのである。
 ただ1つの念仏を称えるという行のみをもってその本願となされたのである』

阿:法蔵という人間が全ての人間を救うために立てた誓い、その1点に注目して中国で「浄土仏教」というのは生まれるんですね。その中国の「浄土仏教」が日本にやって来て、そして法然に至ってですね、無条件で『阿弥陀仏の名前を呼ぶ者は必ず浄土に呼ばれて仏になるんだ」というそういう教えを発見するに至るわけですね。
 念仏を称えることが一番大事な教えなんだということを主張した、それが法然の革命的な役割であるし、「念仏集」というのが生まれるゆえんなわけですね。
 仏教は慈悲の宗教だと言われるけれど、法然にとって慈悲というのは全ての人が救われて初めて慈悲になるのであって一部の人だけが救われてたくさんの人が置き去りになるようなそういう教えはそれは慈悲とはいえないという思いがあったんですね。ですから彼は、その人達が仏になることもできる、そういう道を自分は提示したいと思って、その結果が念仏をするという一番簡単な方法として実を結ぶわけですけど。
 だから法然が一番大事にした人は「室津の遊女」という例があるように、そういう遊女という生き方でしか生きていくことができない、そういう人とかそしてその大泥棒ですね、まともな暮らしでは生きていけないような人達、そういう人達が念仏してくれることを一番喜んだんですね。
 全ての人が救われないことには自分は本当に救われるということにはならないだろうと。ですから、「因」と「縁」と「果」というそういう網の中で我々は暮らしているとしたら、そういう「因」・「縁」・「果」の網の1つの結び目として自分が生きているとしたら、例えばその網が海の中に沈んでいるとしたら1つの目だけが海から浮かんでというようなことはあるかもしれない。しかし、それは次の大波が来たらすぐそれは沈んでしまうと。つまり、網全体がやはり救われるというそういう道が確保されない限り自分が救われることはないだろうと。
 だから、法然さんは己の救いを求めるよりは、その網全体がどうしたら救われるのかというそういう論理というか道筋を探すためにすごい苦労したんだと思いますね。

ナ:「歎異抄」の第十条、そこには、念仏とはどういうものか、親鸞法然から聞き、更に唯円親鸞から伝えられた言葉が記されています。

『「念仏においては、はからいを捨てることが道理にかなっているのです。そのわけは、念仏は私達が量ることもできず、説明もできず、思いをめぐらすこともできないものだからです」と法然上人はおっしゃいました』

鎌:その「無義をもて義とす」という時に「はからいを捨てる」というお話があったんですけども、その「本願念仏」について考えていくということについて阿満先生どういう、、、

阿:「無義をもて義とす」と、「義」というのはこの義理の「義」ですね。この「無義」である、「義」という漢字は日本語でいえば「はからい」と、人間がいろいろはからうということでしょう。何の「はからい」かというと、仏になるための、仏になるための「はからい」です。この仏教の教えを聞いて私がいろいろ工夫する、お教えのとおり修行をすると、そういうことははからいですね。
 しかし、念仏においてははからいを捨ててですね、はからいを捨てることがその念仏の道理にかなっているんだと、こういう意味合いですね。念仏というのは阿弥陀仏が工夫して人間に与えたものであると。人間が工夫した行ではないということがそこで一番大事なことなんですね。
 したがって、念仏は人間があれこれ考えずにただ称えればいいだけのことである、ただ念仏すればよろしい、というのが法然の教えなんですね。

鎌:人間の努力を、、、

阿:ええ、仏になるための努力ですね、それを否定しているんです。そういう人間が努力して仏になることはできないということを教えてるわけですね。ややもしたらやはり自分が努力をすれば真理は手に入るもんだと、もし真理が手に入らないとすれば自分の努力が足りないんだと、こういうふうに思いがちです。
 しかし、それは法然の仏教では人間は努力をして真理に近づくことはできないという前提に立ってるわけです。そういう人間がもし真理に近づく道があるとすれば、それは阿弥陀仏の本願というものに乗じるしかないと。
 だから、この「無義をもて義とす」という言葉はそういう意味では、あの法然の仏教の本質を伝えていると言っていいと思うんです。大事なことは、法然上人の仏教は人間にですね、人間変革を迫らないということですよ。つまり、「あなた変わらなきゃ駄目よ」ということはひと言も言わないですよ。変われないということを前提にしてる仏教なんですね。
 ところが僕達はややもすると、宗教というのは何か難しい修行なり努力をして自分が少しでもよい人間になるということを期待するわけですね。それが宗教だというふうに思い込んでる節がある。
 ですから念仏をしてもですね、必ずどこか自分が変わるはずだというふうな思い込みがあるんでしょうね。でもそういうことは法然上人の仏教においては全く意味がないんですね。我々は変わりようのない存在だと、その完全な智慧を目指しながら完全な智慧というものが身につけることはできない、そういう悲しい存在だというのが法然さんの基本的な立場ですね。

池座(以下「池」という):そうしますとあなた自身は自分の力では変わることができない、あなた自身の努力ではなかなかそれは突破できないんだという、人間というのはこういうものなんだということの否定といいますか、まあ否定とまで言うとあれですけれども、そういった何か厳しさみたいなものを感じるんですがそこはいかがでしょう。

阿:それはあの、仏になるという目標のための話だであってね、「因」と「縁」と「果」の全ての流れを知る智慧が身についているとそういう存在になるということのうえで私は無力なんだと、そういう意味では非常に厳しいですよ。何か科学的な真理を発見するために人間の努力は無駄だと言ってるわけじゃないんですね。
 だから我々は世間的に日常的な生活を営むために他力的であるなんていうことはありえないですね。それは自力を尽くしていかざるをえない。しかし、無力なままでは我々は生き切れない。その無力な人間のために浄土仏教というのは生まれてきたわけですね。

ナ:比叡山で厳しい修行を積んでもなお従来の仏教に納得できず苦しんだ親鸞は、法然の説く念仏の教えに深く心を打たれ、それを受け継ぎ発展させていきました。
 親鸞が20年間暮らし布教を続けた関東地方。そこには唯円はじめ数多くの信者が生まれました。
 しかし、やがて親鸞が京都へ帰ったあと、誰にでもできる念仏の行に対して疑問を持つ信徒も増え始め中には京都まで親鸞を訪ねて問いただす者も現れました。その時の親鸞の答えを、唯円は「歎異抄」第二条にこう書き留めています。

『皆様方は常陸から十余りの国境を越えて身命を顧みずに私を訪ねてきてくださったのですが、そのお心はひとえに「往生極楽の道」を問い、また聞くところにおありなのでしょう。
 しかしながら、親鸞が念仏の他に往生に効果のある特別の方法やまた一種の呪文や難しい経典の言葉を知っているのではないかと、皆様方が気にかけていらっしゃるとしましたらそれは大きな誤りと言わねばなりません。
 もしそういう期待がおありならば、奈良や比叡山の大寺院には立派な学僧達がいらっしゃることですからその人々をお訪ねになり、「往生の要」をよくよくお聞きになるのがよろしいのではございませんか。
 私親鸞におきましては、「ひたすら念仏して阿弥陀仏に助けられてゆくのがよい」という「よき人」法然上人の教えを受けてそれを信じる他に特別の理由はないのです。
 念仏以外の修行を試みて仏になることができるはずであったのに、わざわざ念仏をしたがゆえに地獄に堕ちたということならば法然上人にだまされたという後悔も生まれるでしょう。しかし私は、念仏以外のいかなる修行にも堪えることができない人間です。とうてい地獄を免れることはできない人間なのです』

阿:これは研究者によると親鸞88歳の時で、親鸞は90で亡くなるわけですけど88歳で、これを記録した唯円は39歳。まあ死をもう近くに親鸞がですね、この念仏するということに絶対的な価値があると。念仏、念仏は何かの手段ではなくて、念仏をするということに意味があるんだということを自分の体験から切々と語るというのがこの第二条の醍醐味なわけですね。
 はるばる関東からこの上京してきた門弟達がですね、親鸞に詰め寄らんばかりに、「果たしてこんな簡単な念仏だけで往生できるんですか」と「きっと親鸞聖人は何か隠してらっしゃるんじゃないですか」と、こう詰め寄るわけですね。「ただ念仏するだけではあまりにも簡単すぎてちょっとおかしいんじゃないかと」という気持ちがこの質問者のバックにあるわけですね。
 親鸞が面白いのは、そういうことが分かったうえでですね、何か隠してるんじゃないかということに直接答えずにですね、「よき人」法然上人に自分はどういうことを教えられたのかということを話すんですね。ただ念仏すれば浄土に生まれることができるという、そういう簡単な教えを自分が信じるに至ったのかという心をまあ熱く語るわけですね。
 そして、「自分はもしもその法然の教えを受けなかったらいずれの行も及び難き身であるからもう地獄しかないんだ」とこういうふうに語りかけて、その関東から来た人達がそれぞれに自分を振り返ってみてですね何が大切かと。その念仏せよということの背景にどういう切羽詰まった問題があるのかということに気が付いてほしいと。念仏をすることによって、自分がどういう存在なのかという問いが出てくるわけですね。結局自分ってこんな程度かとかいうようなこともまあ見えてくるということがある。
 それは仏教というのは「覚」の宗教だという言葉があります、自覚の「覚」ですね。「覚」というのは普通の自分のありようをもっと違う角度から見ることができるという、それが「覚」ということでしょう。だからその念仏はやっぱりそういう「覚」の働きをしているということだと思いますね、もうそれで十分なんです。
 ところが我々は欲が深くて、「それじゃこんないけない問題のある自分が、この念仏によって変わることができるんではないか」というそういうその思いに囚われてしまうんですね。でも、先程言ったように私共は変われないんですね。
 世間ではですね、易しいことはあまり価値がないと思うわけですね、難しいことほど値打ちがあると思っている。ところが阿弥陀仏の物語では、易しいことが最高の価値を持っている。確かに「南無阿弥陀仏」はたやすいですよ、他の修行は全部難しいです。だからその念仏に対する不信を拭う唯一の方法は、自分がどういう存在であるのかという自己吟味ですね。自分がどれだけの仏教の修行に耐えられる存在なのかというそういう自己吟味がもう絶対必要だと。
 ですから自分は努力すれば変わることができると思ってる人には、浄土仏教は遠いものになるでしょう。それは何か、敗者の宗教みたいに負けた、負け犬が言う宗教ではないかと。でも、努力してみると自分がいかに努力できない存在であるかが見えてくるわけですね。その見えてきた時にそういう人間のための仏教というのがあって、それが阿弥陀仏の仏教だということになるんだと思います。

ナ:親鸞は生涯をかけて、「教行信証」という書の執筆と推敲を重ねました。そこからは、親鸞が自らのありようを厳しく見つめ問い続けた姿が浮かんできます。

『本願と出遭うことによってはじめてわかった、悲しいことに私愚禿親鸞は愛欲の広い海に沈んだまま世間がいう名声や利益に心を奪われて歩むべき道を失っているのだ。
 煩悩のままでも念仏すれば必ず浄土に生まれ、仏になることが定まっているにもかかわらずそのことを喜ばないのだ。なんと恥ずかしいことであろうか、なんと傷ましいことであろうか』

阿:これはあの親鸞がですね、自分の「本願念仏」に至るまでの思想的遍歴っていいますか、そういうものに応じて、その生まれる浄土にも少しずつ少しずつ変化があるということを言ったあとで、自分の本質というのはこういうものだとして、この「愛欲の広海に沈没する」と。「愛欲」やこの「名利」というものの中でまあいわば、泥まみれである方がうれしいというふうな気持ちがどっかにあると。
 ですから、悟りなんていうことを言ってもですね、そういうものに近づくというような気持ちもあんまり起こってこないと。だから、実に恥ずかしい、傷むべしと。
 阿弥陀仏の本願と出遭わなかったらこういう表現はしてないと思いますね。普通の修行者であれば、これほど自分のありよう、自分の内面のこの愚かさを世間に明らかにするというそういうことはしなかったと思いますね。本願に裏付けられているからこそこういう言い方ができるので。ですから、本願の裏付けのある人間は、自分の中のその醜い点というものに恐れをなすこと、それを認めてなおかつ、それを超えて生きていくことができると。そういう力を示してるんじゃないでしょうかね。

池:ここで1つ言葉として「愚禿鸞」という言葉が出てますね、この「愚禿」というのはどのような意味でしょう。

阿:これはやはりこの「愚禿」の「愚」というのは、これはあの「本願念仏」の信者の本質をついている言葉ですね。自分は凡夫として自己中心の世界に生きていて、その仏教の真理というものを頭では分かってもそれを体得するということはできない。そういう存在というものを「愚か」とこういうふうに表現しているわけですね。
 そして次の「禿」というのは、法然上人のお弟子になったということと、それから流罪にあって俗人にされてしまうわけですね。出家者から俗人にされてしまう。そこで「禿」というこういう中途半端な毛の生え具合ですね。だから、在家でもなし、さりとてもはや出家でもないと。そういう中途半端な在り方を「禿」という字で表現しているんだと思いますね。
 ですから、「愚禿」という姓名姓自体が彼の生涯を表していると。自分の本質が無明という愚かさから一歩も出ることのできない存在だという意味の愚かさですね。そういうものがこの言葉の中に「愚禿」という言葉の中に示されているんだと思いますけど。

池:そうしますと、親鸞ほどの人がその自分のことを「恥ずかしい、傷ましい」って言ってるということに関しますと、これを受け取る弟子達っていいますかその周りの人間は絶望的だなというふうに考えるというのがあると思うんですが、それはいかがでしょうか。

阿:あの~、あるんでしょう。あるんでしょうが、念仏を続けることによって、つまり、念仏をするたんびにそういう心の在り方を考えるというふうな自分の在り方に疑いを持つようになるでしょうね。つまり、いつも清らかで落ち着いた気持ちで念仏をすなんてことはありえないということは分かる。念仏することによって自分の在り方がこんなに自分というのは、頼りのないものかというこちが分かってきますから。
 そういうことがあってですね法然上人は、「ただひたすら念仏せよ」としか言われなかった。それを親鸞はいろいろ法然上人の教えはこれだけ仏教の本道そのものにあるんだということを仏教学の膨大な知識を動員していろいろ検証して皆に教えると。ですから、ああいう「教行信証」という極めて難しい本をお書きになるということにもなっていったわけですね。

ナ:「本願念仏」の教えを体系化し検証した親鸞の「教行信証」。そこには、親鸞が「念仏とは何か」その核心についてつづった文章があります。

阿弥陀仏は「名」をもって人々と交わる。だから、その「名」を耳に聞き、あるいは口に出して称えると阿弥陀仏尊い功徳が私達の心の奥底にまとまって入って来る。そして、久しく仏になる種となり、知られざるはるかな過去から積み重ねてきた重罪がすみやかに除かれ悟りを得ることができる』

阿:この文章は、中国の12世紀の僧侶元照という人が書き残した文章ですけど、親鸞はその文章を引用することで恐らくその念仏の価値というものを確信したんだと思いますね。
 念仏するということは仏道、つまり仏教の教えの本道そのものであるということを元照という人は明らかにしていて、それに私は接した時にですね、なぜその阿弥陀仏の名前を呼ぶというこういう単純極まりない方法がですね、我々をその真理の世界に導くとこういうふうに言うことができるのか、それがまあはっきりしたと思うんですね。
 それは、どういうことを言ってるかというと、その阿弥陀仏という仏は名前をもって自分の名前をもって人と交わる、そういう仏であると。声に出して称える、そうすると阿弥陀仏の心が全部私の心の奥底に届いてですね、そしてそれがいわば種になってその名前を読んでいる人に働く。その働きは称名する人を仏たらしめる道を歩ませてくれると。
 そこでその阿弥陀仏というのは、どこに存在してるのかということは気になると思うんですね。どこか宇治の平等院でも存在、あそこで阿弥陀さんがいらっしゃいますから、ああいう仏像の形で存在してるのかと、どこに行けば会えるのかこれ皆、どこかで疑問に思ってるでしょう。
 しかし、阿弥陀仏の場合はですね、非常にはっきりしてるんです。阿弥陀仏がですねどこか西方極楽浄土にいらっしゃるというのは、それは物語の中の話であって、実は阿弥陀仏という仏はですね、「南無阿弥陀仏」という名前になっているんですね。「名号」と言いますけれども「南無阿弥陀仏」という名前になっている。ですから、その人が「南無阿弥陀仏」と称える時にだけその人に存在すると。もしもその人が「南無阿弥陀仏」と称えずにですね、阿弥陀仏はどこにいるのかと言ってもそれは答えがないんですね。阿弥陀仏というのはその名前を称える人にだけ、あるいは称えた時にだけその人に存在すると、これが阿弥陀仏の正体なんですね。
 ですから、阿弥陀仏はどこかに存在してるんではなくて、働きですね、あえて言えば働きである。私が「名号」を「南無阿弥陀仏」という名を称える時に私の中で働く。その働きは私を真実の存在たらしめる道に導くためであると。

鎌:その阿弥陀仏というのがどこかに存在したり、仏像ではなくてその称えた時にその働きとして、その人の中に働くんだっていうことをおっしゃったと思うんですけども、つまりその、阿弥陀仏という何か対象物があってそのものをこう信じたり、そのことに願をかけるということではないということなんですよね。

阿:向こうの方が入ってくる、もう私の中に入ってきてくれるんですね。だから阿弥陀仏の名を称えるということは、阿弥陀仏の価値観と私とが一体になってるわけですね。だから祈る必要はないわけです。もう全部向こう側が用意して私の中に入ってくると。ですからただその名前を称えるだけでよろしいということになるんでしょうね。
 つまり、もし自分の外に阿弥陀仏がいたら、「阿弥陀さん、私の方に目を向けて下さいね」と、「こんなに私は困っていますから助けて下さいね」というそういうことになっちゃうでしょう。しかし、阿弥陀仏が私の中に念仏と共に入ってきてしまうんだから、今更阿弥陀仏にお願いする必要もなにもないんですね。
 だから、いわゆるその「祈願」ということと「名号を称える」ということとには、大きなやっぱり違いがありますね。「教行信証」の中にある言葉でですね、阿弥陀仏の心が我々の心の中に「攬入(らんにゅう)」するという難しい言葉を使ってるんですね。「攬入」の「攬」というのは、まとまって形、本質を変えずに流れ入ってくるという意味なんですね。つまり、阿弥陀仏があなたの、あなたのところに伝わってくる時には少し手加減をして、「あなたはこういう人だから、あなたにふさわしいように私の教えというものを伝えましょう」というんではなくて、阿弥陀仏の全ての力をねどんな人間に対しても、いささかもこの変えることなく入ってくるというんですね。
 ですから私がですね、その念仏をしたからといって特別に何かが変わるんではなくて、大事なことはそういう私の中に阿弥陀仏の全部が私の無意識の奥底に沈んでくれているという、そういうある意味での自信といいますかね、そういうものが何か時には落ち着きをものたらしてくれたりとか、コンプレックスのままでもいいんだとかいうふうな自己肯定ですね

 その阿弥陀仏の名を称えるというそういう行為を繰り返していくことにおいて1つの道筋ができているということが大事なんだと。その道筋があって初めて私達は生きてる間にこの道をたどっていけば、自分が真実なる存在への道にこれがつながっているという、そういう思いが生まれてくるということが大事なんじゃないでしょうか。

ナ:親鸞による念仏の教えが広がった関東地方。埼玉県蓮田市には、法然親鸞が生きた鎌倉時代に建てられた遺構が1つ残されています。法然の没後およそ100年、唯円と同じく親鸞に学んだ真仏法師を追悼して作られた名号の碑です。

阿(碑の前で):「本願念仏」の精髄というものを、力というものを示すものはないかということでずっといろいろ見てきたんですけど、その時にこれに出遭ったんですね。この板碑を中心にして当時の念仏者達がそれこそ他力とは何かとかね、阿弥陀仏誓願とは何かとかそういう議論をいろいろしてたような気がしますね。
 一つ一つこうゴツゴツしてるでしょ、一字一字もう実にものすごい力を込めて書いてるんですよ。ここからね、感得するというか感じるということが大事であって、ここからエネルギーをもらうんだぞと。ここに「本願念仏」の精髄が伝わってきてるんだからここからもらわないと、それ以外からもらうと、どうもその理解が難しくなるぞという思いがあるんです。

歎異抄 (ちくま学芸文庫)

歎異抄 (岩波文庫)

NHK「100分de名著」ブックス 歎異抄 仏にわが身をゆだねよ

2022/9/4 「今互いに抱き合うこと-コロナ禍に読む聖書」(再放送、初回放送:2020/7/12)

奥田知志:東八幡キリスト教会牧師、NPO法人抱樸理事長

ナレーター(以下「ナ」という):日本列島を襲った新型コロナウイルス。感染の危険は人々の生活や経済、そして心の内にも大きな影を落としています。
 北九州市にある東八幡キリスト教会。廊下に張り出した大きな軒が特徴のこの建物には、さまざまな困難を抱えた人が集い、共に生きる場所であるようにとの願いが込められています。毎週日曜日に行われる礼拝は、感染対策を徹底しながら続けられてきました。自宅にいても礼拝に参加できるインターネットでの配信も行ってきました。
 今、コロナ禍に不安を覚える人にとって、教会で語られる聖書の言葉がこれまで以上に重い意味をもって受け取られています。
 この教会の牧師奥田智史さんは、牧師を務める一方、困窮者の支援を続けてきました今、厳しい現実を生きる手がかりを求めて改めて聖書に向き合っています。
 
『奥田(以下「奥」という)(礼拝にて):マスクと手洗いを徹底していくということは、我々日常においては最低限のことかもしれません。でも少々ね、もう手洗いもノイローゼになってきてますよね。なんとなくどこまで洗えばいいんでしょうか、みたいなね。トイレへ行くでしょう。用を足すでしょう。蛇口ひねって手を洗うでしょう。それで手を洗った最後に、あ、これで綺麗になったと思って蛇口を閉めるでしょう。ふっと気が付くんですね。この蛇口綺麗やろうかと思いますよね。そうして、もう一回蛇口をひねって、水出して、石鹸で洗って、先に蛇口を洗って閉めますわな。トイレからそのまま出てきた日が懐かしい日々でございますよ、本当に。
 コロナも恐いけども、こういうなんというかな、心が病みだしている、私たちの中の。大丈夫か俺たち。コロナにうつらないということも大事だし、うつったとしてもそれを何とか乗り越える医療の力も大事だし、でも一方で、コロナウイルスにうつってなくても、私たちはもう半分病人になっているんじゃないか。どっかで何か恐れながら、どっかで他人を疑いながら、どっかでマスクしていない人を非常識だ。あいつが犯人かもしれないという。現代は手を洗うということである意味関係を断ち切るというメンタリティに今繋がろうとしてしまっている、分断の社会になろうとしている。実はですね聖書を見てるとイエスの時代もそういう分断があったわけです。』

ナ:奥田さんが引用したのは、聖書の福音書に記された奇跡の物語です。イエスが五つのパンと二匹の魚で五千人以上の人々を満たしたという奇跡。しかし、それを聞きつけた律法学者たちはイエスの行為を批難します。
 
奥:こう書いていますね。
 パリサイ人と、ある律法学者達とが、エルサレムからきて、イエスのもとに集まった。
そして弟子達のうちに不浄な手、すなわち洗わない手でパンを食べている者があるのを見た。もともと、パリサイ人をはじめユダヤ人はみな昔の人の言い伝えをかたく守って念入りに手を洗ってからでないと食事をしない。
 そこで、パリサイ人と律法学者達とは、イエスに尋ねた、「なぜ、あなたの弟子たちは、昔の人の言い伝えに従って歩まないで、不浄な手でパンを食べるのですか」。
それから、イエスは再び群衆を呼び寄せて言われた、「あなたがたはみんな、わたしの言うことを聞いて悟るがよい。すべて外から人の中にはいって人をけがしうるものはない。かえって、人の中から出てくるものが人をけがすのである」
 
 当時の手洗いは衛生上の問題ではなくて、汚れた者たちとレッテルを貼られた社会的排除された人たちとの縁切りというものを示していた。これに対して、イエスは、あるいはイエスの弟子たちは拒否したんだと思うんです。そんな手洗いやったら俺たちは絶対せん。そんな手洗いやったら俺達は絶対せん。そんな人を分断し、人を自分とは違う、あいつらはダメな人間だ。あいつらは汚れた人間だ。あいつらは罪人だ。そんなふうにやっていくための手洗いだったら、そんな手洗いだったら俺は絶対せんと。
 お前ら外から汚れが入ってくると思ってるやろう。コロナウイルスは外から入ってきて、お前達の体を蝕む。それはそうなんだ。でもね本当に恐いのは内側から出てくるものがお前達を汚すんだと、イエスは言い返すんですよね。そう読めば、私達がウィルスで病んでいるんじゃなくて、ウィルスじゃないもともと持っているもので、私達がいま病み始めてる。病気になろうとしているということは、このイエスの文脈でよくわかると思うんです。ちょっと気をつけたほうがいいんじゃないか。
 
ナ:コロナ禍の今、改めて聖書の言葉に向き合う中で、奥田さんは、人間とはどのような存在なのか。その根本を問い直してきました。
 
奥:私は今回の出来事に関しては、病気そのものの問題とか病気から来る不安ですよね。感染するんじゃないか、もしくは感染させてしまうんじゃないか。やっぱり同時に今までの暮らしぶりとか、生活の仕方が、この頃の言い方でいうと「新しい生活様式」とか「ニューノーマル」という言葉が出てきていますけども、新しいものに行かざるを得ないという状況になったけども、私は今回はですねちょっと立ち止まって、じゃ今まで何だったのか、ということをやっぱり考える機会にもなったと思うんですね。
 例えば、最初の頃にトイレットペーパーがなくなって皆大騒ぎになったわけですよ。なんか我先にというと、なんか懐かしいですよね。七十年代頭ぐらいにオイルショックでみんながトイレットペーパー買い占めていったのと同じ風景が、なんともう50年後ぐらいにまたなったわけでしょう。あれは一体なんだったのかと。結局自分しかいない世界ですよね。ともかく自分さえよければいいという。
 あれはね世の中からトイレットペーパーが消えたんじゃなくて、私たちの中に本来ある助ける人の関係、つまり「他者性」というものが失われた。他者という存在がないと本来生きていけないのに、自分のトイレットペーパーだけを確保するという。他者性の欠落というものがトイレットペーパー騒動。けど、これってね結局非人間化していくんですね、どんどんと。人間でなくなっていくわけですよ。人間とは何かというと、一人で生きていけないということだ。これはね『創世記』においても、人類の誕生は最後なんでしょう。
 
ナ:奥田さんが示したのは、旧約聖書の冒頭『創世記』に描かれている人間の姿です。
 
奥:最初に「光あれ」から始まって、光ができたり、大地ができたり、太陽と月ができたり、あるいは草が生え、実のなる木ができ、そして海には魚が登場し、獣が登場し、あらゆるものが整った最後に人間が生まれ、そして人間にすべてを従わせよう。「支配せよ」ということを神がいうんだけども、あれは何を意味したかというと、それだけ前にいろんなものが作られて、やっとこさ人間は生きていける相対的なもんなんだと。前に造られたものが全部揃ってないと、人間なんてポンと一人最初に「光あれ」と同時に、「はい、人間あれ」と言われたら、何食べるの、というとこから始まって、どこに住むのから始まって、何もできない。その人間が最後にしか生まれなかった、最後にしか登場できなかったのは、あらゆるものが人間を守っているという。
 なんかいかにも最後に支配者が登場して、神の全権委任がされて「従わせよ」とか「支配せよ」という。そういう言葉に見えるんだけども、僕は違うと思うんですね。今回のコロナの状況を見てると、人間って全然そんな存在じゃないということがはっきりしたわけですよ。
 つまり例えばですね、ステイホームといくら言っても、そんなの世界中の人が本気でステイホームしたら生きていけないですよ誰も。だってステイホームできる人は、ステイホームする、できる人はステイホームすることでうつさないしうつらないということが確保できるけども、その間も、例えばアウトホームで医療従事者たちはみんな働いてくれてたわけでしょう。あるいはいくらスーパーには週2日にしましょうとか、3日にしましょう。毎日買い物に行くのは止めましょう、と言ってもですね、スーパーやってる人は毎日働いてたわけでしょう。そして家でずっと過ごしたら、いつもよりたくさんゴミが出るわけですよね。その生活ゴミなんかを毎日収集に来てくれてる人たちがいたわけでしょう。これらすべての人はステイホームができなかった。アウトホームで働いてた人たちがいるが故に、ステイホームの人たちが守られていたという、そういう関係に過ぎない。
 人間というのは、そういう相対的な関係に過ぎない。これはまさにステイホームだけでもダメなんだという現実、つまり私がステイホームしたら、じゃ私の命が守られるかと言ったら、そうではなかったという現実を示しているわけですよ。お前一人で生きてる気持ちになるなよ、と。お前一人で生きていないんだよって。みんながいてお前がいるんだ。魚がいて、鳥がいて、獣がいて、木があって、果物があって、そういうものが全部揃って君の存在が守られているんだ、ということですよね。
 
ナ:6月上旬、自粛要請が長期化する中で、奥田さんが説いたのは、やり場のない気持ちを吐き出せる存在があることの大切さでした。
 
『奥(礼拝にて):多くの人たちが愚痴も言えず弱音も吐けず、みんなどっかで我慢してる。人には吐き出す時が私は必要なんだと思う。特に現在のような思い掛けず、しかも「なぜ私が」という問いに答えのないまま、苦難が突如として訪れた。こういうコロナ禍の時代においては多くの人がムカムカしながら、そわそわしながら、びくびくしてる。それをどうするのか。イエスはこういった、「あなた方が祈るときは、自分の部屋に入り、戸に鍵をかけて、戸を閉じて隠れたところにお出でになるあなたの父に祈りなさい。すると隠れたことを見ておられるあなたの父は報いて下さいであろう」。
 これは「偽善者のように、人前で格好良く祈るな、謙虚で祈れ」ということをいっているだけではないと思います。それはね、みんなの前では祈れないような本当の気持ち。すなわち心の中にあるムカムカをそのまま祈ったらいいんだ。怒りややるせなさ、恨みや愚痴、それを正直に祈ったらいいんだ。その日はね、大通りで祈らなくてもいい。この世界は弱さを受容しない、弱さを共有しない、弱さを否定する。「あの人愚痴ばっかり言っている」、そんなふうに言われちゃう。だから戸に鍵を閉めてね、こう祈りなさい。「神様、くそったれ!何してくれてんねぇ!なんで俺がこんな目に遭わないかんねぇ!神様、くそったれ!あんた神だろう、俺を救え!」』
 
奥:今日、コロナ禍状況において、本当にやり場のない、なぜこんなことになったんだろうかと。たった3、4ヶ月前までは、まさかこんなことになるとは思ってなかった店が次々に倒産して行っているわけですよ。その状況の中でやはりみんなむかついているんじゃないか。やっぱりその吐き出し口ですよね、その吐き出し口に教会がなってるか。教会に来るにはちょっと襟を正して「神様感謝します」と言わないと入れないという教会もあっていいですよ。うちは違うんですね、吐きに来たみたいなね。なんかあっちこっちに何か路地裏みたいにゲーゲー吐いた跡が残ってるような教会になりたいと思うし、牧師自身もどっか吐いている。それはお酒飲んで吐いているだけじゃなくって、本当くそったれ!と思うわけですよね。
 教会というところは何か牧師さんが答えを与えないかんというふうにみんな思ってるかもしれないし、そういう牧師に対する期待があるだろうし、多くの牧師がそれにちゃんと答えていらっしゃると思うんだけど、僕、無理なんで。一緒に悩むことしか出来ないし、「大変やったね」しか言わないし、「どうするかは一緒に考えましょう」しか言わないし、「ここに来たらもう安心です」にはならないし、もっというとここに来ていろんな人に出会うと新たな問いが生まれたりするし。だけども、やっぱり一緒に悩んでいくとか、一緒に吐いたものをちゃんと引き受けていくとか、そういうことの方が答えを与えるということよりかはよっぽど僕は大事なんじゃないかな。宗教ってそれでいいんじゃないかなという気がしますよね。だからキリスト教の今までの、例えば「救いの概念・救済の観念」と言ったら、大体2つだったんですよね。
 1つは、何かというと、「直接的な救済」ですね。例えば食べれない人にイエスが奇跡を起こして、パンを配ったとかね。そういう病気を治したとか、問題解決―ストレートな問題解決ですね―のイメージが1つ。
 もう1つは、「贖罪論」と言って、人間の犯した罪を神が贖ったという。イエスの十字架が贖いの死だったんだと。私の代わりにイエス罰を受けた。それが十字架だったんだ。これは贖罪論ですね、罪を贖うキリスト。この2つが来たんですよ。
 これどっちも僕から見たら問題解決型なんですよ。罪という問題を解決するか。例えば食べれないとか、貧しいとか、病気だとかという問題を解決。どっちも問題解決型なんですね。
 でも長いことかかって、キリスト教はもう1つの救いのイメージを忘れたんですね、忘れてきちゃった。それは何の救いかというと、「インマヌエル」という言葉に象徴される救いなんですね。「インマヌエル」というのはどういう言葉かというと、「神様が一緒にいる」というだけの言葉なんですね。「神われらと共にいます」と訳されていますけども。神様が一緒にいるよ、という。これはね問題解決型の概念じゃなくって、「関係の概念」なんですね。病気が治ろうが治るまいが、あるいは罪が赦されるとか赦されないとかじゃなくって、とにもかくにも、「くそったれ!」と言って、あなたが神をも恨んでたとしても、「なんでお前は俺を助けへんのや」と、筋違いの文句を神に訴えている。その場面においても神様は共にいる。これがね、実は聖書の順番からいうと、1番最初に出てくる救いのイメージなんですね。『マタイ』の一章に出てくる。神が共にいてくださる。救いのイメージなんですね。『マタイ』の一章に出てくる、「神が共にいてくださる」という。
 この救いのイメージを、私はキリスト教会も長く忘れてきたんじゃないかと。だから「インマヌエル」というイメージを、今日教会はこういう苦難の時代の中にあって、どこまでそれをこう体現できるか。そういうことを考えると、感染リスクは一方でありつつも、どうつながるかとか、どう出会うかということが、やっぱり教会にとって非常に大事。孤立させない、孤立がやっぱり罪なんです、そういう意味でいうたらね。

ボランティア(炊き出しで):今ね、今日はちょっと雨なんでテントを立てますのでちょっと時間かかっています、ごめんなさいね。濡れないところで待っていてください。
 
ナ:奥田さんたちが30年以上続けている炊き出しです。新型コロナウィルスによる影響は、人々の暮らしを直撃。仕事や住まいを失う人、孤立を余儀なくされる人も増えています。今、炊き出しでは感染対策のため予め用意したお弁当を手渡すことしかできません。それでもお弁当一つ一つに手書きのメッセージを添えて、一人ではないという気持ちを伝えています。
 奥田さんの脳裏に浮かぶのは、リーマンショックの後、困窮し助けを求められないまま自ら命を絶っていった人々の姿です。その悲劇を繰り返すわけにはいかないというのが、この活動を続けている原点です。
 
奥:今はコロナのことがあるんで、お弁当配るだけですね。いつもは一緒にここで食べて、その後星空カフェと言って、みんなでお茶飲んだりとか、まぁうちの炊き出しは基本的にはお弁当配る炊き出し者と一緒にいる炊き出しなんで、それが今できない状況になっているので苦しいですよね。
 
ナ:人は一人では生きられない。これまで以上に分断や孤立が深まろうとする今だからこそ支え合う場が必要だと、奥田さんは考えています。
 30年前、野宿をする一人一人と向き合うことから始まった奥田さんたちの活動。これまで3,000人以上が路上生活を抜け出しました。その活動は地域で暮らす子供やお年寄りの支援、更には亡くなった後の葬儀にまで広がっています。その中心にあるのは「抱樸(ほうぼく)」という理念です。
 
奥:「抱樸」というのはですね、「樸(ぼく)を抱く」という。その「樸」というのは、木偏の「樸」なんですね。これは原木とか、新木という山から切り出された原木を、もう条件付けないで、そのまま抱き留めようという。
 人間って弱っていくと、とても苦しいとこに行くと、「助けて」ってなかなか言えないんですよね。「なんであんた、もっと早く相談に来なかったの」って、言いたいこといっぱいあるけども、相談に来ない人がいちばん困ってるんですね。そうなると、夜のああいうパトロールとか、炊き出しのように我々が出かけていって、そこで出会って、もう四の五の条件つけない、そのまま抱き留める。
 さらに「抱樸」というのは、原木とか、新木ですから、それをそのままこう、例えば肌で受け止めるというのは、やっぱりささくれ立っていたり、いろんなトゲがあったりとか、多少傷つけますよ、と。でも抱きしめた時に傷つくし、相手方もですねやっぱりその時にさまざまな違和感持ったりするんだけども、でも人と人との出会いというのは、やっぱりそういう傷を含むんだという。その中でも特に印象深かったのは何人かいて、松井さんというね、もう亡くなりましたけども、松井建史さんという。これはプロフェッショナルにも出てきた人ですけどね。
 
ナ:奥田さんが20年近く前に出会い、亡くなるまで関わり続けた松井建史さんです。
 
奥:彼はもう6、7年、ここらで野宿をしてて、あんまり人と群れるタイプじゃなくって、私たちがここらに現れると、どこからともなく出てくるという。そこでお弁当渡して、「まっちゃん、元気?」という話をするんですけどね。この人は本当に皆から愛された人ですし、弱さも持ってた人ですね。やっとのことで自立するんですけども、その自立の時に、「もうそろそろ路上卒業して、一人暮らし始めたらどうなんですか」という話をしたらね、「俺はまだ大丈夫だ。もういよいよになったらね、ヨボヨボになったら助けてくれ」とおっしゃるんで、「まっちゃん、それでは遅い」と。「ヨボヨボになって、いよいよになって助けてたら遅い。それはあなたにとって遅いんじゃなくって、周りの人にとって遅い」と。
 つまり「あなたが元気のうちに自立することで、あなたは誰かのお世話ができる。誰かを支える側に回れる。だから元気のうちに自立して他の人を支えないと手遅れになる」という話をしたら、「俺でも役に立つかな」って、後日ね、松井さんがやってきて「俺でも誰かの役に立つかな」という話をして、そして自立に向かうんですね。
 現に松井さんはその後ですね、今うちのスタッフになって、とっても頑張っている青年がいるんですけどね。その青年が、彼はやっぱり高校時代から悩み多き男で、家に来てからもいろんな悩みを抱えていたんですね。けどね、なんか「あいついないな」と思ったら、まっちゃん家で昼寝してるんですね。よくそんな場面に出くわしました。決して掃除が整っている部屋でも何でもないんだけども、彼が若い、まだあの頃二20歳ぐらいかな、彼がまっちゃんとこへ訪ねて行ってお世話するつもりでいくのかもしれないけども、結果的にはそのまっちゃんちで昼寝して帰ってくるんですね。
 あの2人の関係というのは、見ているとどっちが助けてるんだか、どっちが助けられてるんだか、もうわかんない。しかもまっちゃんみたいな人が、彼に生きづらさを抱えていた、当時生きづらさを抱えていた彼の居場所になってるというのを見た時に、あ、すごいなって。神様というのは、この世の価値観からいうと、松井さんというのは何年も野宿をして、特にお酒の問題を抱えてたから。大体会っているときはいつもへべれけ状態で。だけど、ちゃんとまっちゃんが役割を果たしていくんですよね。そういうのを見ていると、本当に素敵だなと。
 
ナ:長い歳月の中では、お酒の問題から、松井さんが周囲とトラブルを起こしたことがありました。器物損壊で逮捕・起訴された際には、奥田さんは裁判に証人として出廷、服役中も手紙を送るなど関わり続けました。
 

(手紙の内容):ずいぶんと寒い日が続きます。お体のほう大丈夫ですか。私はまっちゃんと一緒に生きていこうと思います、どうぞ覚悟をお決め下さい。奥田知志
 
奥:裁判はね、情状証人で私が出て、「私としては釈放された後は、お酒の治療をやっぱりやってほしいというふうに思っているんです」と言ったらね、裁判長も「わかりました」と。「お酒の治療を受けるという条件で、つまりお酒をやめるという条件で奥田さんが引き受けると。そういう記録を残していいですか」とおっしゃるので、僕はちょっと考えてね、「いや、裁判長違います」と。「私が言っているのは、そんなことではありません」と言ったら、「引き受けないんですか」というから、「いや、引き受けますよ」と言って。「我々が、抱樸が言いたいのは、まっちゃんを引き受けるよ。だから飲まないでね、と言っているだけで、飲まなかったら引き受けると言っているんじゃないんです。引き受けるから、だからまっちゃん飲まないでね、と言っているんです。これは全然違うんだ」という話をしたら、裁判長が聞いていて、「あっ、、、」って、こう一瞬「そうか」と。「今の言葉を記録して下さい」と言ってくれたんですよ。
 終わってからその日釈放にならないから、終わってから、チームの連中がね、「あのやり取りが抱樸とは何かということを一言で表していた。つまり飲まないという条件をクリアしたら、引き受けるんじゃなくって、引き受けるから飲まないでねと。これが抱樸だ、ということを、あの場面で言い表していた」ということを言ってくれて。
 本気で人を愛そうと思ったら、本気でその人のことに関わろうと思ったら、多少リスクは伴うし、傷つくんですよね。だからそれが嫌で今の社会は、「それは自己責任だ」とか、「あなたが頑張らなかったからだ」と言って、結果的には身捨てるんですよね。我々はそう言わない。それ自己責任もあるかもしれないし、たまたま歩んできた道がすごく過酷な人生の出会いを繰り返された方かもしれないし、まあそれはさておき、まずは出会うと。そのまま引き受けるというのが抱樸という。
 松井さんは、その後地域で10年ぐらい暮らされて、最期には抱樸館に入った。お酒はその後、私との約束で「1年間は断酒しなさい」と。見事に守ったんです、この人。僕意地悪だからね、出張に行くと行き先でお酒買ってはまっちゃんのとこに届けに行くんですよ。だからその1年間、まっちゃんのテレビの上には、酒瓶が並んでいて、行くたびに僕は蓋が開いていないかどうかをチェックするわけ。 開いていないな、飲んでいないなと。1年経った後に、「解禁」と言って飲み始めて、それからは彼は大きく酒で逮捕されるような事態にはならないで、最後まで行くんですね。

字幕:松井さんは2年前、突然の交通事故に遭い亡くなった。
 
奥:やっぱこの生身の関係というのは、出会った責任というのはやっぱりあるんですよね。抱樸はそういうことは大事にしてきたし、うちの活動を一言で言えば何かというと、「一人にしない」という支援。これは亡くなった後も徹底して、我々はやってきた。だから1年に1回、この会堂で今まで出会って亡くなった人の全体の追悼会というのをやるんですよ。名前が白い幕に墨の字で名前を書いて、垂れ幕のように垂らすんだけども、一面では収まらないぐらい両横に広がるぐらい名前が連なってますね。そこで縁の人がみんな来て、そうですね、 100人、150人ぐらい集まるかな、そこでみんなが写真を見ながら思い出話したりという。そこまで、、、だからもう…何か困窮者支援団体じゃないのね、抱樸というのは。なんか共同体というか、大きな家族。
 
ナ:教会の向かいにある自立支援住宅「抱樸館」。ここは路上生活を経験した人の自立を手助けしたり、高齢で一人暮らしが難しくなった人を支える施設です。心身を回復し、つながりを取り戻すための場所となっています。

『奥(松田さんとの食事の場面で):「第一声のさ、私は生きててよかった」って、あの一言でみんなもう…後ろの先生みんな泣いてた、あの一言で。生きていていいのかなと思っている人ばっかりなんよ。学校の先生の中にもそんなこと考えてる人いるんよ。それが別府さんがさ、野宿を乗り越えて「私は生きていて良かった」と一言いったら、それ本物の言葉。あれには、僕、正直勝てん。』
  
ナ:ホームレスなど、厳しい状況を経験した人には、その人にしか見えない世界がある。奥田さんはその言葉や経験を分かち合うことが社会を豊かにすると考えてきました。
 
奥:地域社会というのは、まぁ一定温かいんです。みんなで助け合おうとしているし、それは全くないことではないんですね。「あの人困ってるね。じゃみんなで助けようね」、そこまでは行くんですけども、それが一定の度合いを超えると「あの人困っている人ですね」から「あの人、困った人だよね」と言い出すと排除に変わるんですね。「困ってる人」と「困った人」は全然違うんですね。
 「あの人困った人だよね」と言ったら、「出ていってもらいましょう」になる。そういうふうなことでホームレスの排除とか、あるいはそれの支援施設を住民反対、住民反対運動で作らせないとか、全国でも救護施設が建たないとか、そういう排除が非常に進んでた時代だったんですね。ですから私はこの事件(2016年7月26日、相模原障害者施設殺傷事件のこと)起こったときに、なんかそういういろんなところで起こっているものの、ある意味究極の行き着く先の事件として、これが起こったんではないか、というふうに思っているんです。
 
ナ:4年前、障害者を「生きる意味のない命」だとして殺傷した事件。この事件には、私たちの社会が持つ価値観が隠れているのではないか。奥田さんは、犯行を行った青年と接見しました。

奥:彼が拘置所に入れられてるんで、手紙を出して、ある方の仲介でですね、会いたいということで言ったら、向こうもOKだということだったんで会いに行ったんです。
 実は会ってみたら、面会室に入って来る彼は、もう非常に礼儀正しくって、私が九州から来ているということも知ってましたから、「今日は遠いところから申し訳ございません」とおっしゃってましたね。そして接見が始まったんですが、彼はやっぱり同じようなことを言ってるんですね、その場でも。「障害者は意味のない命だ」という話とかね、「障害者は不幸を生み出すことしか出来ない」、「周りの人を不幸にしている」とかですね。あるいはこんなことも言ってましたね、「移動と排泄と食事が出来なくなったら、もはや人間ではないと。周りに迷惑をかけているに過ぎない存在だ。それは生きる意味がないんだと。だから役に立たない人間は死ね」と。まあ、そういうことなのか?というふうに改めて聞くとですね、「全くそうだ」というふうにおっしゃる。
 僕は最後に、「じゃ最後の質問なんだけども、君はあの事件の直前、意味のある命だったのか。あるいは役に立つ人間だったのか?」という、そのことを聞いたら、彼はふっとちょっと考えて、「僕はあまり役に立たない人間だった」ということを最後にいうんですね。私はその言葉を聞いて、「あ、そうか」と。この事件というのは、彼が何かジャッジメントになっていて、彼が判決を下して、こっちは意味ある人、こっちは意味のない人、こっちは役に立つ人、役に立たない人。それは何か神様のようにね、彼がそれを裁き、意味のない、役に立たない側にいた人たちを次々に殺したという。「お前は神にでもなったつもりか」というふうに取られがちなんだけども、そうでなくって、それだけじゃなくって、彼自身が実は分断線ですね、役に立つ、立たないの分断線というのは、彼が勝手に引いたって、みんながいうんだけども、僕はね、この世の中にはすでにあったんじゃないかなと、その分断線は。ここからこっちは生きていい命。ここからこっちは生きてはいけない命。これからこっちは役に立っている人。こっちは迷惑をかけている人。この分断ラインというのがあって、彼はその分断ラインの上を生きていたんじゃないか。
 彼が言った「生きる意味のある命」とか、「意味のない命」という、あの言葉は、私は時代の言葉そのものなんじゃないかと。この時代や社会がこの間20年、30年語ってきたその言葉そのものを、実は彼が語ったんじゃないか。もっというと、その価値観の中で自分自身の存在に脅えながら、存在意義、あるかないか。そのことに脅えながら生きてる。彼も時代の子なんじゃないか。こういうことをいうことによって、彼自身がやったことの責任を曖昧にするということを言いたいわけじゃない。彼がやったことは、彼が責任を取るべきだし、でも彼の発想とか、思いとか、自分は役に立つか立たないかというところで揺れてる人間の現実というのは、僕は彼だけの問題か?という。
 あの事件があった後にですね、うちの教会に80代半ば、今もう半ばになりましたけどね、お母さんがいて、もうおばあちゃんですけどね、ある時事件の何ヶ月後かな、訪ねてこられたんですよ。「奥田先生、ちょっと話聞いて」って言って。「それでどうしたの」と言ったら、実は彼女が、今から40年ぐらい前に、当時20歳、24歳だったかな、私がここの教会に赴任する前の話なんで、そのお嬢さんがピアノの先生でね、バイクに乗ってピアノ教室に通う、ピアノ教師ですから、行く時に、無免許無保険の車にはねられて、もう大事故になっちゃったんですね。なんとか生き延びるんだけども、残念ながら脳に大きな損傷が残って、もうほとんどものを記憶する力とか、考える力というのは、脳のその障害の中で失われていくんです。
 そのお母さんが、その事件の後来られて、「あの事件は私は許せないと。あの犯人は、言っていることは全く間違っていると。つまり障害者は不幸を作り出すことしか出来ない。障害者は家族を不幸にしてる。彼はそう言って、だから障害者を殺すというんだけども、あれは嘘だ。私はず〜っと娘の介護をしながら生きてきたけども、この娘が私を不幸にしたなんてこと一度も思ったことがない。私は娘によって不幸にされたとは思ってない。事故に遭ったことは不幸だったけども、でも娘が私を不幸にしているなんて思ってない。あの犯人は嘘をついている」と言って、わぁーっと泣いたんですよ。僕も一緒になって泣きながらね、「本当にそうだな」って。「あいつ嘘ばっかりだな」と言って、「お母さんも言ってやれや、あの人に」というような話をしたんですよ。 いっときね母親がわぁっと泣いて、泣き止んで、一呼吸ついて、次こうおっしゃったんですね。「でもね、奥田先生」って言ってね、「私ね不幸じゃなかったけど、この30数年間、とっても大変だったの」と言い出したんですよ。「とっても大変だった。あの娘と一緒に生きていく。もう何もできなくなってしまったような娘と一緒に生きていくというのはとっても大変だった。でも不幸じゃないの」と、また繰り返したんですよ。
 植松君がね、一番間違ったのは、意味のある命と意味のない命。その根拠にした人に迷惑をかけているとかかけていないという、言い方だけども、彼はそれを「不幸を作り出している」と言ったんですね。「障害者は不幸を作り出してる」。でもこのお母さんは、「大変と不幸は違う」というわけですよ。人が絆を結ぶと、大変ですよ、正直。私もまっちゃんも含めてね。私のこの30何年、私だけじゃないですよ。私の連れ合いもそうだし、周りのうちのスタッフも教会の人もそれは大変ですよ。でもね、不幸じゃない。面白かったですね。  まっちゃんと出会って楽しかったし、まっちゃんと出会って大変だったけども、掛けがえのない体験ですね。植松君、残念ながら「大変なことは不幸だ」と言い切ってしまった。そこが最も彼の間違ったとこで、「違うで植松君、大変やけど面白いってことあるで。大変やけど、生きていてよかったと言える日があるよ。大変だけどあなたと出会って、僕は本当に幸せだったと言える。僕はお葬式の度に、この会堂で牧師さんとしてそれを宣言するわけですよ。このおじさん本当に大変だったけども、この人と出会って僕幸せでした」とみんないうわけですよ。大変と不幸は全然違うのに。
 僕はね大変な社会を作るべきだと思いますよ。もっと大変した方がいい、みんなで。もっと大変な社会を作って、もっと絆を結んで、もっといろんな人のためにみんながお互いに傷ついて、大変な大変な社会に共生する社会、共に生きる社会というのは、すごく大変なんだけども、滅茶苦茶独りぼっち籠ってるよりか、独りぼっちステイホームしているよりか、よっぽど楽しくって面白くってエキサイティングで、明日はどんな事件が起こるかなと思いながら、明日を迎えるみたいなね。でもね、僕はやっぱりもう一度改めていうと、それって不幸じゃなありませんから。それって不幸とは言いませんから。植松君、そこ間違ったんだ。あなた、わかってないんだ。不幸ってそんなもんじゃない。大変だけど、幸福だと言える人生は山のようにある。
 
ナ:奥田さんが長く考え続けてきたのが、「みんなにとって自分の居場所、ホームとは何か?」という問いです。
 
『奥(礼拝にて):さぁ皆さん、ステイホームをしてきた私たちだけども、それって「ステイハウス」だったんじゃないですか。家という建物の中に閉じこもって、私たちは感染を恐れてなんとか生き延びようとした。それはそれで正しい。人にもうつさないし、自分にもうつらない、ということをやった。けど、それって正確にいうと「ステイハウス」なんじゃないんですか。本当にそこがホームになっていたか。人と人とのつながりの場所。人を心配し、人から心配される場所。そこに私たちはちゃんと籠もっていたのか。あるいは物理的にステイハウスで済ましてきたのか。今日はそんなお話です。
 さて私はそれでライフワークとしてユダの話を取り上げたいんですね。ユダは皆さんご存知の通り、イエスを裏切った張本人なんです。先ほど聖書を読んでいただきました。銀貨30枚でイエスを売るんですね。それがきっかけになってイエスは死刑になっていく。それが十字架の処刑だったわけです。裏切り者、罪人、許されざる者、それがキリスト教に限らず、ユダの印象であります。』
 
ナ:イエスの弟子の一人、イスカリオテのユダ。銀貨30枚と引き換えにイエスを裏切り、その後自ら命を絶ったとされる人物です。
 
奥:残念ながら聖書では、ユダは自殺して死んでおしまいなんですよ。その後どうなったかというのがないので、まぁ非常にそれこそ恣意的な勝手なことなんですけども、ユダのその後というのを、私は聖書的な創造というか、創作ですね、奥田による福音書というたら本当に怒られちゃうんだけども、そういうのを敢えていうんですね、説教の中で。
 死の直前にですね、ユダは自分を、いわば裏切りに引っ張り込んだ祭司や律法学者のところに行って、まあ銀貨を渡した人たちですよね、イエスを裏切る対価を出した人たちのところに行って、「私は罪のない人の血を流すようなことをして罪を犯した」と言うんですよ。「私は罪のない人の血を流す」、イエス・キリストのことを言っているんですね。「罪のない人の血を流すようなことをして罪を犯した」ということを悔い改めるんですよね、反省するわけですよ。そうしたら、祭司や律法学者達が、「それは我々の知ったことか」と。「自分で始末するがよい」。新共同訳聖書は、「それはお前の問題だ」というんですね、自己責任なんです。「それはお前の問題だ、自業自得だ、知らん」。周りの人は言った。「それはお前の問題だ、自分でなんとかしろ」って。これを言われたときに、人間は死んでいくんですね。キリスト教は多くこの長い歴史の中で、いわばユダを反面教師にして、「ユダみたいにはならないでおきましょう。ユダみたいな人間にはならないとおきましょう」というふうに、多分みんな教えてきたと思うんですね。
 それは困るんですよ。僕はいつユダになってもおかしくない人間だと、どっかで思っているからですね。
 
取材者:奥田さん自身が?
 
奥:はい。私もそんな完璧な人間でもなんでもない。いつも揺れ動いている中で生きてきたわけですよね。ユダと自分の違いなんていうものは、はっきり証明できない。ユダにならないという保証は何もない。ユダが死んで地獄に下っていくわけですよね、黄泉の国に下がっていく。そうしてイエスが地上では十字架にかけられてる。槍で刺され、釘で打たれ、ボロボロになったイエスが見えているわけですよ。ユダは、私が裏切った結果イエスがあんな目に遭っていると。「イエス様ごめんなさい」と言いながら、黄泉の国へと下っていくわけですよ。もう地上からは、イエスを釘打つ音がカーンカーンと全地に響いているわけ。そしてイエスがそのたんびに「ウッ!」と呻いている、その声がユダにも届くわけですよ。たまんない、自分のせいでそんなことになっているんだから。「イエス様、ごめんなさい!」とユダは言いながら下っていくんだけども、そのときにね、『ルカによる福音書』の中に書かれている、イエスの最後の十字架の言葉がユダに届く、「父よ、彼らを赦したまえ。彼らは何をしているのか分からずにいるのです」。「父よ、彼らを赦したまえ。彼らは何をしているのか分からずにいるのです」という言葉を、殺されながらのイエスが、殺している人たちのことを祈るんですね。その言葉が黄泉に下っていくユダにも届いただろうと、僕は想像するわけです。その時にユダは気が付くわけですよ。「そうか、俺の最大のミスは、イエスを裏切って失敗したと思ったその日に、イエスを殺した人達のところに行って、反省の弁を述べたんですけども、もし自分を殺している人のことさえ祈っている。『彼らは何をしているのか分からない。彼らを赦してください』と、祈ってくれるところに、もし自分が戻ってたら俺は多分死んでなかった。俺は多分生きることができただろう」というふうに、ユダはその時、気がついただろうと。
 人間ってやっぱ気を付けていないと、すぐに分断していくわけですね。だからユダだけ「しょうがないよね。あいつはイエスを裏切ったんだから、地獄でどんな苦しみを受けてもそれは自業自得でしょう、我々の知ったことかと、自分で始末するがよい、それはお前の問題だ」と、みんな言い切るかもしれないけども、イエスは絶対言わない、そんなことは。イエスは、「それはお前の問題だ、と言いながらも、でも俺がお前の問題の結果、すなわちその裁きは俺が受けるから、絶対お前を一人にしないから。ユダよ一緒に帰ろうと言って、帰っていく」。抱樸ですよ。まさにイエスは抱樸なんです。イエスは僕がどんだけとげとげしくっても、どんだけ私がささくれ立ってても、イエスはユダを抱えたように、今日も私のことを抱きかかえてる。そして私の結果、彼は傷ついてるんですね。
 イエスに抱かれて、こっちも傷つく、と言ったら変だけど、イエスに抱かれると、それはきついですよ。今まで気にしてなかったようなことが気になり出したりとか、自分が問われたりとか、お前それでいいのか?とか、やっぱりこれはイエスと出会った結果ですよね。だから人間は辛くて苦しいというのは、まさにその通りで、でもそうでないとやっぱりダメなんじゃないですかね。イエスと出会ったことで「他者のために苦しむ」という意味がわかったり、イエスと出会ったことで「自分の不完全さがより見えたりする」わけだから、それってしんどいですね、自分の不完全さを見つめるというのは。だけどそれは大事なんじゃないかなと思いますね。
 
ナ:新型コロナによる経済危機を前に、奥田さんが緊急で立ち上げたプロジェクトがあります。仕事や住まいを失った人に安心して再出発するための住まいを提供しようというものです。
 
『奥(オンライン会議にて)):全国で100カ所、150箇所のアパート、これが実はこの写真は北九州ですでに今回のクラウドファンディングの中でですね設定したワンルームマンションです。22㎡ほどある。
 
ナ:NPOが空き家を借り上げて整備。支援者をつけて提供しようという試みです。
 
奥:これは家財道具入っている。まぁベッドとか、テレビなんかの設置も終わっています。
 
ナ:全国のNPOと連携してのプロジェクト。背景には各地に広がる深刻な実態があります。
 
千葉のNPO:新規相談者というのは大体市川市の場合、40件程度であったものが、ひと月に400件という数字を記録しております。徐々にですね、不安定な居住といいましょうかね、ネットカフェとか、会社の寮の人から自分名義で契約をしているアパートに入っている人もこのコロナの影響で生活ができなくなってきつつあるというのが見ております。
 
北海道のNPO:今まではどちらかというと本州に働きに行っていた。今、行けない。どちらかというと受け入れがないというところで、本州にも行けずに北海道の田舎でいうと、なかなか仕事もなく、逆に田舎ゆえに地域のつながりが強すぎて、そこで相談しづらくて孤立する。
 
ナ:クラウドファンデングで7月末までに1億円を集めようという計画。多くの人に少しずつ関わってもらうことで、共に次の社会を作っていきたいとの思いが込められています。
 
奥:これはコロナ緊急対策でやっているんですが、私はやっぱりコロナの後の社会をどう作るのかということを考える時が来ていると思うんですね。今コロナで噴出したさまざまなものに絆創膏を貼っていくということも大事なんだけども、例えば臨時給付金とか、そういうのも大事なんだけども、じゃあ結局喉元過ぎればで同じ構造がまた残っていくと。また結局寮付きの就労に入っていく。そうすると、また景気の変動とともに、家も仕事も全部失う。そういうふうに次のポストコロナ社会をどう創造するのかというのと、家にジッとしているだけじゃ人の命は助からないから、やっぱり家からできることを考えましょうということ。この二つのことを今呼びかけているとこですね。
 けど、たくさんの方が、もうすでに応募、応えてくださったんで、このクラウドファンデング立ち上げた直後にですね、まだ特別給付金が配られる前ですよ、国会で特別給付金10万円配りますということが、やっと決まった頃の話ですね。今から1ヶ月ぐらい前の話。このことをネットで皆さんに呼び掛け、クラウドファンデングが始まったんですね。そうしたらですね、うちの事務所に、事務所というか、教会なんですが、教会に白い封筒を持った男性が、60代の男性、60代くらいですね、現れましてね、ニュースを見ていたら、全国民に10万円配ると国が決めたと。自分は今家もあるし、年金もあるし、暮らしには困ってない。コロナになったからといって、なんか急に収入がなくなったわけではないと。だからいずれ来る10万円なんだけども、早いほうがいいだろうからと言って、奥田さんにこれ託すからと言ってね、もう10万円持ってきた人がいるんですね、この場に。私はそういう人間の姿を見て、やっぱり「貧すれば鈍する」というけども、必ずしもそうではなくって、こういう困窮というか、貧する、あるいは苦しみ、苦難の時代は人は考えるし、貧すれば出会う。貧すれば考える。この苦難の中で人間は出会い始めるし、そして動き始めるというのを、現に今見てて、まだまだこの日本の社会というのは捨てたもんじゃない。
 聖書の『ヨハネによる福音書』というところに、“光はやみの中に輝いている、そしてやみはこれに勝たなかった”(ヨハネによる福音書一章五節)という言葉があるんですね。普通皆さん、「絶望」と「希望」の関係というのは、絶望のトンネルを抜けたら、希望が広がる。あるいは明けない夜はない。夜が明けたら朝が来る、という。「絶望の先に希望がある」と、普通考えるじゃないですか。でも聖書はそう言っていないんですね。「光は闇の中に輝いている」つまり闇が通り過ぎたら、光がいつか来るから、まぁ冬来たらば春遠からじ、なんですよね。そういう感覚でみんな過ごしているんだけども、そうじゃないと。実は、冬の真っ只中に、もうすでに春は始まっている、ということを聖書は言いたいわけですよね。つまり闇の中に光が輝いている。だから闇が通り過ぎたら、光が来るんじゃなくて、もう既に光は始まってる。希望は始まっているということを、聖書は、『ヨハネによる福音書』に書いた。しかも最終的に「闇は光には勝てない」と宣言しているわけですね。
 私はこれだけ不安が大きくなった時代で、コロナのことでみんなが、来年どうなるだろう、とか、今年の冬どうなるだろう、という、非常に不安の中に、あるいは絶望の中にいて、いつまで我慢したら夜明けがくるんだろう、というふうにみんな考えているけども、もう少しちょっと心を研ぎ澄まして、もう少し落ち着いて、今、周りを見たら、希望のかけらみたいなものがもう始まっているんじゃないか。
 あれだけ孤立が進んでいた社会なのに、いざステイホームと言われたら、やっぱりみんな寂しくなって、インターネットでなんか何とか繋がろうとか、家で踊ろうとか言い出した。そういう中で人恋しいという思いが出始めたとか、私はなんかいろんなことがいま始まりつつあるというふうに思うんです。だからこの「闇の中に光がすでにある」と、聖書は言っていますよ、と。私たちは今もうそれを探そう。この闇の中に光を探そうという気持ちで日々を過ごした方がいいと。我慢する時期じゃなくって、なんか宝探しをするような気持ちを持とうという、一方で。そんなふうな感じが、私はしていますね。

 

ユダよ、帰れ

「助けて」と言える国へ――人と社会をつなぐ (集英社新書)

伴走型支援: 新しい支援と社会のカタチ

すべては神様が創られた

「逃げおくれた」伴走者 分断された社会で人とつながる

2022/8/28 生きる根をみつめて

小松由佳:フォトグラファー

亀川芳樹ディレクター:ききて

 

ナレーター(以下「ナ」という):成田空港出発ロビー、大きな荷物を背負い子供を連れた女性、フォトグラファーの小松由佳さんです。2013年から内戦で難民となったシリアの人々を撮り続けています。
 この日、トルコ南部へ取材に向かいました。小松さんの夫はシリア人のラドワンさん、ラドワンさんもまた内戦で国を離れた1人です。旅に連れて行くのは2人の間に生まれた息子達。
 小松さんが撮り続けているのは、戦乱によってそれまで暮らしてきた土地を離れざるをえなかった人達。彼らが新たな土地に根を下ろし、懸命に暮らしを取り戻そうとする姿です。その姿を通して小松さんは人間が生きていく根っこにあるものは何なのか見つめ続けてきました。
 そんな小松さんはかつてヒマラヤやカラコルム山脈など数々の山に挑んだクライマー、日本人女性として初めてパキスタンのK2に登頂という偉業も成し遂げました。ですが、ある出来事を境に山を下り、麓に暮らす人々の暮らしを見つめる旅を始めます。草原や砂漠など過酷な土地で生きる人々の姿を写真に写しました。
 小松さんは山で何を体験したのか?なぜ人々の生きる姿を記録し続けるのか?小松由佳さんの歩みを辿ります。

 

亀川(以下「亀」という):どうですか今日は、サーメル君とサラーム君は。

小松(以下「小」という):はい保育園に行きました。

 

亀:そうですか。

 山ね、色んな山に上って今八王子でシリア人の夫と暮らして。

 

小:はい。

 

亀:子供を抱えて写真を撮っておられるわけじゃないですか。
 まず、小松さんのその幼い頃のお話聞きたいんですけど、どういう環境でお育ちになったんでしょう。

 

小:生まれは秋田県秋田市で周囲には田んぼがずっと広がっている農村で、祖父母は米農家だったんです。これが私の原風景で田んぼの畦道に私が座って向こうで祖父母が田んぼに立ってる。その向こうに山が青く見えてたっていうのが私の1番最初の記憶なんですよ。
 で、やっぱりそのころから山がとにかく美しいっていうのは思っていて、すごく山に憧れがあったんですけどあの山の向こう側を見てみたいという気持ちだったんですよね。山の頂に立ったら何が見えるんだろう。その向こうにある世界を見たいなと思って、それが山登りをしたいという最初の気持ちでしたね。

 

亀:やっぱりそのころはその自分の暮らしている世界が、やっぱ世界の全てだったってどういう感じですかね。

 

小:そうですね、まあすごく狭い世界には生きていて、だから小さい頃から田んぼで家族が働いてる姿を見て育った。田んぼがやっぱり子供のころの私にとっては世界の全てのような、はい、記憶ですね。
 祖父がやっぱり田んぼの仕事に生きた人だったので田んぼで働く姿を通して生きることを教えてくれたように思うんですよ。ご飯を食べる時も米粒は百姓の涙だと、1粒も残すなって教えられて育ったし、田んぼの畦道でよくソフトおにぎりを食べた記憶があるんですけど、おにぎりをコロンって田んぼに落としてしまったんですよね。ベシャーンって水の中に落ちるわけですよ。それをこう、祖父はそれを絞っておにぎり食べたりして、やっぱりその米を作るっていうことの厳しさとか、誇りとか喜びっていうのをすごく教えてくれた祖父がいたんですよね。
 そういう中でやっぱり人間が風土に生きるっていうことを小さい頃から感じ取ったように思いますよね。

 

ナ:山への憧れから高校で山岳部に入った小松さん、大学は東海大学に進学しました。4年生の時には山岳部主将としてヒマラヤ初登頂を果たします。

 

小:私は東海大学に入学したいというよりも東海大学山岳部に入部したくて大学に入ったんですよね。
 ところが山岳部の門をたたくとなんと女人禁制で、女子部員は入部禁止だったんですよね。やる気があるのでやっぱりトレーニングもしっかりしてきたし、これからもしたいし入部させて下さいというふうに言い張って、ただやっぱり上の先輩達からはこうやめろって言われたんですよね。で、もう私はこう態度で示すしかないと思い、男性の1.5倍はトレーニングをして、はい時間をかけて態度で示すしかないと思いましたね。
 標高6,300メートルの山であれが初めてのヒマラヤでしたね。砂漠を歩いてラクダやロバに荷物を載せて山の上に行くと氷河があって、そしてこう山があって。1番記憶に残っているのは山頂に立った時に山々しか見えなかったんですよ。地球上にはこんなに山があるんだと、それに純粋に驚きましたし、で、ほとんどが未踏峰だって聞いたんですね。で、こんなに人が登ってない山がある。地球ってまだまだ私達の知らない領域がこんなにあるんだと感動しましたね。
 大学時代にも本当に山にこう熱中して、まさにこう、日々の生活を山に懸けてたんです。多い時は年間260日ぐらい山に入っていて、その当時はですね、登る過程でも山頂に立つことでもなくて山に行くとそこにいることが喜びだったんですよ。生きてると感じられる実感がどこよりもある世界が山だったんです。やっぱりこう自分が1番時間をかけられる時に、経験を積んでいる時はとにかく山に向かいたいと思ってたんですよね。
 だから就職をしては今までのその自分が山に費やしてきたその経験がもったいないと思いまして。いや全く就職の2文字は頭になかったですね。やっぱり山に登り続けなければと思ってました。もうとにかくやりたいことをやろうと、私はもうヒマラヤを20代はもう登ろうと決めてましたね。

 

亀:それ不安はなかったんですか、将来に対する不安は。

 

小:全くないですね。あの、というよりも、なぜ皆卒業したらすぐ就職するんだろうと思ってたんですよ。その時やりたいことややれることがあればそこに向かっていっていいんじゃないかと思ってました。

 

ナ:2005年、小松さんは世界最高峰エベレストへの遠征隊に参加します。目の当たりにしたのは山の頂に立つことを競う様々な登山者の姿でした。

 

小:エベレストの時は正直初めての8,000m峰なので山頂に登れたらラッキーだと。でもとにかく経験を積みたい。よりこう高い標高まで経験を積みたいと思ってました。

 ところがそこで見えてきたのは、チームとしていかに登るかというよりも、ものすごく個人主義の世界だったんですよ。自分が上に登りたいっていう。
 やっぱりエベレストというのはこう世界最高峰ゆえに色んな登山家が登りに来るんですよね。色んな目的を持った人達。中にはやはりその名誉のために登る人達もいたし。色んな目的のもとに人が集まっていて、そこでやっぱりその人間の俗的な部分もものすごく目にすることがあったんですよね。
 登山ってやっぱりものすごく人間のエゴが出るし、でもエゴっていうのは裏返すと生存する力そのものでもあるんです。むしろやっぱりそういう強い感情がなければああいうヒマラヤの世界は登れないと思うんですけども。やっぱりものすごくドロドロした世界もあるわけですよね。人間同士のあのエゴのこうむき出しの世界とか。

 エベレストで見たのはやっぱりその人間の欲望みたいなもので、私はちょっとそこに違和感を正直感じてしまったんですよね。

 

ナ:小松さんは高度に順応できず頂上アタック隊には選ばれなかった。

 

小:エベレストのアタック隊から外された時に1人でベースキャンプまで戻らなければいけなかったシーンがあって、吹雪の中を1人下らされたんですよ。その時にあまりに吹雪が強くなってきてベースキャンプに戻れず、途中のキャンプで1泊しなければいけなかったんですね。その時にチベットの村の方から来たヤク飼いのおじいさんのテントで1泊させてもらったんです。
 そのテントは本当に小さいテントで穴がいっぱい開いていて風邪や雪が吹き込んでくるんですが、そこの中央でおじいさんが焚火をたいて暖めているわけですよね。言葉も全然通じないんですけれども何時間も一緒に座って。
 で、おじいさんはお茶を作って出してくれたり、その時のおじいさんの顔の皺がすごく美しかったことを覚えているんですよね。で私はやっぱりそのエベレストの山頂、こう華々しいああいう世界ではなくて、やっぱり人間のこういう営みが私にとって胸を打つものなんだな、ということをその時気づいたんですよね。

 

ナ:翌年、小松さんは「世界一危険な山」と呼ばれるカラコルム山脈、K2に挑戦。そこで人生を変える経験をしました。相棒は大学山岳部の後輩、青木達哉さん。小松さんは日本人女性として初めて、青木さんは史上最年少での登頂を果たします。
 しかし、その下山時2人は深刻な危機に見舞われます。すっかり日が暮れてしまった8,200m地点。酸素ボンベも尽き、進退窮まった2人は点とも張らず絶壁にロープで体を結び朝が来るのを待ちました。

 

小:これは今考えるとやっぱり生と死の境の1つの大きな決断でしたよね。どっちにしてもリスクは高いわけです。下り続けたとしてももうかなり判断力が限界に来てるので体力も限界なのでもしかしたらこう滑り落ちて滑落するかもしれない。一方でビバークをしても疲労凍死する可能性もあるわけです。ビバーク地点を作って座った時にパートナーの青木が「もしかしてこれで死にませんよね」って言ったんです。で、私もチラッと実は不安に思ってたんですが、その時私はリーダーだったので不安を絶対に後輩に見せてはいけないなと思ったんです。だから、そんなことはもう絶対ないと、絶対に生きて帰れるんだから大丈夫だと。自分自身にもその言葉を向けて、もうとにかく信じることしかできないんですよね。すぐにうつらうつらし2人とも寝てしまいました。
 よく寒い所で寝たら死ぬぞってビンタするような映像ありますけど、人は寝るんですね。ただ、標高が高くて酸素が薄いし、吸ってた酸素ボンベも全部ないので息苦しいんです。ビバークした8,200mは酸素量が地上の3分の1しかない場所で、とにかく息苦しくて目が覚めるんですよね。ハアハアハアなってるのに気付いて目が覚めて苦しくて。で、隣の青木を見ると、青木が生きてるかというのを確認するわけですよね、肩を叩いて。
 どれだけ時間が経ったかものすごく顔が熱くなったんですよね、ある段階で。何だろうと思って目を開けたらまだ辺りが真っ暗なのに紫色の雲海が下に広がっていてそこから正に太陽が昇ってくるところだったんです。その太陽の光が自分達の方に差し込んでいて、その光が顔にものすごく熱く感じたわけです。それを感じた時に、もしかして死んでしまったんじゃないかと一瞬思ったんです。それぐらい荘厳な光の感覚だったんですよね。正に夜ぢゅう暗い中で寒い中で生と死の境に立った夜があって、そして朝の太陽の光に自分達の存在また感じ取った、そうした瞬間でしたね。
 段々と自分達が生きてるんだということを感じると涙がどんどん溢れてきて、この世界に生きて帰りたいとそれを強く思いましたね。
 そうした中で生きて帰ってきた時に、実はただ生きてるということがものすごく特別なことを感じたんです。何か人間は特別なことをしたり何か記録を残さなくても、実はただここに存在してるっていうことがそれだけでものすごく特別なんだと。色んな巡り合わせの中で生かされてるということなんだということをものすごく体で感じたんですよね、K2から帰ってきた時に。
 それ以来、厳しい登山をすることで生きる実感を感じたりしなくても、既に自分の周りに開けてる世界の中で同じものを感じ取れるようになっていったということがありました。
 そして、自分が山を登ることで求めていた、つまりその生きている実感や生きることそのものは、実はその山の麓の人々の暮らしの中にあったんだということに気付かされるようになって段々と視点が山の上ではなくて麓に移っていったんですよね。



ナ:山の頂にではなく人々の暮らしの中に生きることの本質を見つめたいと思うようになった小松さん。モンゴル、イラン、イラク、イエメンなど草原や砂漠といった過酷な環境で生きる人々の大地を旅し始めました。

小:その、人はなぜ便利ではない土地に住み続けるのか。言葉を替えると、人間は厳しさの中にどんな豊かさを見出して生きようとするのか、それをずっと知りたかったように思うんです。
 そしてそれは、私の祖父母がきっとそういう暮らしをしてたんですよね。米農家ってやっぱりものすごく厳しい仕事で、夏の暑さや冬の寒い時は出稼ぎに出たりとかして。そして雪解け水の冷たい中で田植えをしたりずっと田んぼに立ち続けて、そして得られる収入は僅かじゃないですか。そういう暮らしの中で私も生まれ育って、そうした暮らしに生きる人の豊かさをもっと私は知りたく思ったんですよね。
 厳しい自然の中で人間がどう生きてる生きてるかを知りたかったので、私にとっての過酷な自然を目指したんですね。その自然が私にとっては草原と砂漠だったんです。

 

亀:旅した時っていうのは、それは、もうカメラは持ってたんですか。

 

小:はい。
 最初はまずは自分がそうした世界を知りたくて感じたくて行きました。カメラは記録する目的だけです。
 ただそうした世界に触れる上で、こういう世界があるんだということを表現していきたくなって、段々とフォトグラファーを目指すようになりました。
 自分が出会った世界の豊かさや営みをやっぱり共有したいなと思ったんですね。結局自分が出会って感じて終わるだけじゃなくて、それを1つの価値として残したいなと思いました。

亀:今、「共有したい」と仰ったんですけど、「記録する」と「共有する」ってちょっと違うじゃないですか。共有したいっていうのはなぜ?
 共有って要するに発表するっていうか人に見せるということですよね。そのお気持ちはなぜそれを人に伝えたいと思ったんですか。

 

小:根源的な問いですね。やっぱり人間が生きているそういう姿、生きるということの本質を私なりに理解したことを伝えたい。で、生きているということの何か温かい側面をたくさんの人に共感してもらいたいようなそんな思いがありますね。

 

ナ:旅を始めて半年、行き着いたのが中東のシリアでした。

 

小:特に砂漠は私にとっては荒野のイメージがあり、なぜそんな厳しい大地にわざわざ住んでるんだろう、それを知りたかったんです。
 シリアというのは8割が砂漠の国なんです。ただ特にシリア中部のパルミラという町が砂漠のオアシスとして有名で、その周辺にはたくさんの遊牧民がいるということで知られてたんですよね。
 それでパルミラに行ってパルミラの絨毯屋さんなどで郊外に住んでいる遊牧民を知りませんかって訪ね歩いたりなどして、そしたら町からちょっと出ればテントがいろいろ見えるから、すぐ近くにいるよって教えてもらってそれで自分で歩きながら探したんです。
 その時に、ラクダの群れを連れている男性を見かけて声をかけたんです。

 

ナ:小松さんが出会ったのはアブドュルラティーフという遊牧民。3世代が一緒に暮らす総勢60人程の大家族でした。

 

小:アブドュルラティーフ一家の生活は、まずラクダの放牧が彼らの暮らしの生業で、朝早く起きて砂漠に行ってラクダの放牧を1日かけてするんですね。
 シリアでは1人が1つの仕事をしているというケースは珍しくて、家族でたくさんの仕事を受け持ちながら、それを季節ごとに回しているというスタイルが一般的だったんです。
 私は砂漠というのが不毛な大地だと思ってたんです。荒野だと思っていて、そこにはほとんど命も存在しないし指揮もないと思ってたんです。
 ただ、彼らと一緒に砂漠を歩いてラクダの放牧を見せてもらったら実は全く逆で、ものすごく命が実はあふれていて、夜になると色んな穴からハリネズミとかちっちゃいネズミとか虫がいっぱい出てくるんですよ。
 そして四季も豊かで、冬になると一気に雨が降り、1日2日で大地が緑色に変わったりするんです。草が一気に2~3センチ伸びたりしてそうした変化があって。やっぱりその砂漠という土地が知れば知るほどものすごく豊かな大地なんだということがわかったんですよね。
 それ以上に実は感動したのが地図上には砂漠としか書かれてない土地ですけど、アブドュルラティーフ一家は、砂漠に代々名前を付けて識別してきていたことなんです。砂粒の色や大きさや形、そこに生える草の種類などで砂漠を見分けてそれを伝えてきていた。
 本当に砂漠という大地に生きる知恵なんだなと思いました。そして彼らにとって砂漠というのが、閉ざされた世界ではなくてむしろ彼らを違う世界につなげてくれる、違うオアシスに自分達を誘ってくれる開かれた道なんだ、こうした話を聞きました。
 そうした暮らしをしている彼らの、1番の豊かな時間とされているものが「ラーハ」という時間なんです。これは直訳すると「ゆとり」とか「休息」と呼ばれる時間なんですけど、友達と集っておしゃべりをしたり家族と団欒をしたり、また昼寝をしたりこういう時間なんですよね、要はのんびりする時間。この時間をどれだけ持てるかどうかが豊かな人生かどうかって言われるんです。まさにアブドュルラティーフ一家の生活もラーハの時間がものすごく大事にされていて、とにかくゆったり皆生きていました。
 ある時コーヒーに招かれたことがあったんです。それでまあ1時間ぐらいあれば飲んでかえってこれるかなと思い向かったわけなんですけど。テントに着いて1時間ほど経っても全然コーヒーが出てこないんですよ。私は日本でやっぱり分刻みの生活をしていたので、しびれを切らしてしまって、「あの、いつコーヒーは出てくるんですか」と聞いてしまったんですね。そしたらその時点で「ああ、そうだった」と、「じゃ買ってくる」と言って、その時点で砂漠のテントからバイクに乗って町に豆を買いに行ったわけです。で帰ってきたと思って見たら、今度その豆がまだ青いんですよ。豆を煎るために焚火をたかなきゃいけないわけですよね。その焚火をたくための薪を今度みんなで集めに行って、集めて火をたき、それから豆を煎って、砕いて、お湯を沸かして入れて、最後にコーヒーが出てくるまで結局3時間くらいかかったんですよね。
 その経験から私は感じたことがあって、つまりは彼らはコーヒーを飲みに来なさいと言うけれど、コーヒーを飲む、そのことが目的じゃないんですよね。大事なのは過程なんですよね。コーヒーを飲むまでのその時間を共に共有すること、ゆったりとした時間の流れに身を置くということが大事なんです。大事な家族や友人達と共に今を生きているということを共に味わうこと、これがラーハの豊かな時間なんですね。

 

ナ:今聞いてて思ったのはですね、なんかこう今僕日本に生きててですよ、なんか生きてるって感じるのは何かを成し遂げた時とかね、達成した時とかにだけ感じるわけですよ、それと大違いだなと思って。

 

小:そうなんです、人生の価値が違うんです。
 日本だと何か目標を立ててそこに向かっていく過程だったり、何かを達成したりすることが人生の価値とされますよね、努力をし続けなければいけない。でもシリアの社会ではむしろこう既にあるものを味わい尽くすというか、それが生きている豊かさなんですよね。

 

ナ:この時砂漠を案内し、砂漠の暮らしの豊かさを教えてくれたのが、一家の12男後に夫となるラドワンさんでした。
 砂漠に生きる人々に惹かれた小松さんは、それから毎年シリアを訪れるようになりました。
 そんなシリアが激動に見舞われます。2010年から始まったアラブ世界の民主化運動、シリアでも反政府運動が起きやがて内戦に突入。砂漠の暮らしを撮るために首都ダマスカスに滞在していた小松さんの目の前でも爆弾テロが起きました。
 アブドュルラティーフ一家も混乱に巻き込まれていきます。6男のサーメルがある日突然警察に逮捕されたのです。反政府デモに参加していたという容疑でした。
 この写真は兄の逮捕聞いた瞬間のラドワンさんを小松さんが撮った1枚です。

 

小:これはちょうど、こう、その友人と会っていた時にある電話があって、パルミラで兄のサーメルが今逮捕されたという知らせを受けたんですね。その瞬間を撮った1枚なんです。その時、あまりのショックでもう寝転んで天井をず~っと見て数時間言葉を発することができなかったんです。
 シリアでは一度逮捕されるともう戻ってこない可能性の方が高いんですね。拷問を受けて生死がもう分からなくなってしまう。この時、2012年の5月に逮捕されたサーメルも今10年が経ちますが全く行方が知れない状態なんです。
 その時の苦悩、この瞬間を私は写真に撮りました。で、これを撮った時に私の中に初めて、内戦状態となっていくそのシリアが迫ってきたんですね。そしてこの写真を撮ったことで私はこう、人々がどのようにかつての生活を失って難民となっていくのか、これをテーマとして撮っていこうと決めましたね。私にとっても忘れられない1枚ですね。

 

亀:それはもう反射的に撮ったんですか。

 

小:いえ、少し撮るのを悩んだんですよね。こういう状態の時に撮るべきかなと思ったんです。でも撮らなければいけない瞬間なんじゃないかと思ったんです。こうやってこう、人に出会ってお話を聞かせてもらって、そして激動の中にある時代をやっぱり切り取りたいと思った時に、これは自分にとってもすごく大事な瞬間だと思ったんです。

 

ナ:この時兵役についていたラドワンさんは、政府軍の兵士として市民に銃を向けなければならない立場にありました。

 

小:シリアで民主化運動が始まるわけです。その民主化運動を政府が弾圧をして多くの死者が生まれると、市民が銃を持って対抗するようになり、シリア全土で武力衝突が起きていきます。そして市民を弾圧したのが政府軍なんです。つまり、ラドワンは上官の命令次第で市民を弾圧しなければいけない立場に置かれていったんです。
 彼としてはただ義務で行かなければいけなかった兵役だったんですが、内戦が始まっていく中で彼は加害者になっていかざるをえなかったんですね。それにラドワンはものすごく思い悩むようになります。
 そこでシリアで何を経験したかというのを彼は今でも語らないんですよ。語れない経験をしたんですよね。彼は一生話さない話さないんじゃないですかね。ものすごく心に傷を負ったように感じます。
 結局夜中に大声を出したり、パニック状態になっちゃったりした時期があったんですよ。彼はやっぱり人に語れない経験をしたんだなっていうことだと思うんです。それは語れないということを時間をかけて見つめていきたいなと思うんですね。

 

ナ:危機の中、絆を深めていった2人は2013年結婚します。しかし当初、ラドワンさんの父、ガーセムさんは結婚に反対していたといいます。

 

小:夫のお父さんから言われたんですけど、シリアで結婚っていうのは1対1の関係性じゃないんだと、結婚は私とあなたの関係じゃなくて背後に家族や社会があると。人間は年を取れば必ず自分の文化に立ち返ることがある、その時に違うルーツの人同士が結婚するとお互いに難しいよっていう話をしてくれたことがあったんです。
 そもそも個人の幸福のために一人一人は生きてるんじゃなくて、みんな家族の幸福のために存在して生きてるんだと。結婚というのも同じで、私とあなたが幸せになるために結婚があるんじゃなくて、家族の絆を深めて家族を大きくしていくための結婚なんだと。
 だから、私と夫の結婚は難しいし反対だよとすごく言われたんです。

 

ナ:その後シリアでは内戦が激化、死者は40万人を超え、国民の2人に1人が家を失い難民となりました。「今世紀最悪の人道危機」と言われています。
 小松さんは難民として異国で生きるシリアの人々の姿を撮り始めました。向かったのはヨルダン北部にあるザータリ難民キャンプでした。

 

小:当時10万人くらいのシリア難民が逃れていたこのキャンプに行ったんですね。そこで逃れてきたばかりのいろんな難民の家族を取材したんですけれども、ある家族がテントに暮らすフセイン一家という家族ですね。この家族との出会いがものすごく難民とは何なのかということを考えさせられる出会いでしたね。
 この家族は逃れてきて3ヶ月程経っていたところだったでしょうかね。結局難民キャンプというのは、難民が逃れてきて避難できるように色んな物資が整っているわけですね。電気やガス、水道があって、また食料が配布される。安全で生きるための最低限のものがある。ただ、そうした中でもこの家族のお父さんがシリアに帰るという決断をして帰ったということがあったんです。彼らだけではなくて、多くの難民達が難民キャンプの生活を続けられない、ここにはもういられないということで、戦地のシリアに帰っていくという決断をしていたんです。
 彼らが語るのは、ここには生活がないんだと言うんですね。私にとっては空爆の可能性もないし、銃弾も飛び交わない、安全があって食べ物も配布されるそうした生活だと思ってたんですが、彼らに出会って感じたのは、やっぱり人間の生活というのはどんなに安全であってもやっぱり生きるための自由がない。それはやっぱり生活とは呼べないんだということだったんですね。
 具体的に聞いたのは、シリアにいた頃は家の隣に小さな畑があって僅かな食べ物を育てて自分が好きな時間に庭に出て野菜を収穫したり水をあげたり、ひなたぼっこをしたり昼寝をしたり、そうした自分の行動を自分で判断する自由があったと。でも、難民キャンプのテントの生活ではそうした生活の自由がないんだと。ただテントに毎日座り続けておしゃべりをするだけの生活。結局こう何を食べるのか何をするのか、どこに住むのかどこに移動するのか、そうした日々の選択ができること、そうした選択の積み重ねで自分の人生が成り立っている。この実感が命の意義、人間の命の尊厳なのではないかなと。彼らの話を聞いて思いました。

 

ナ:砂漠の豊かさを教えてくれた夫の家族、アブドュルラティーフ一家もトルコ南部の都市へ難民として逃れることになりました。

小:アブドュルラティーフ一家は、シリアでは砂漠で100頭のラクダを飼って放牧をしてましたが、今トルコ南部のオスマニエという高原の町で羊と山羊と牛を飼って生活しています。やっぱりシリアのパルミラで彼らがそうやって生きてきたように放牧業で根を生やしていきたいというふうに考えてるんですね。

 

亀:それはご一家がトルコに行って、どれぐらい経ってからそういうことを始められたんですか。

 

小:2016年にアブドュルラティーフ一家のほとんどがトルコに入ってきて、羊、山羊、牛を飼い始めたのが大体2018年頃からですね。それまではもう転々としましたね。
 トルコとシリアの国境の町にいて雇われる工場の仕事をしたりトルコ人の会社で働いてみたり、色んな小さな商店を経営したりとか。ただ結局、いろいろ上手くいかなくて、最後に落ち着いたのがやはり放牧業でしたね。放牧業だったら知識がまずあると、そしてシリアから家畜を買うことができるんです。
 やっぱり人間ってこう、自分が今までやってきた持ち得てるものの中からつなげて、それをこう先の日々にこうつなげていきたいと思うんですかね。

 

亀:トルコに移ったアブドュルラティーフご一家も小松さん撮っておられるじゃないですか。撮っていく中でやっぱり表情というのは変わっていきましたか。

 

小:はい、変わってきてますね。あの、2つの側面があると思うんです。それは少しずつトルコに根を生やしてきたんだという安堵感とそしてもう1つは、やっぱり常に余裕なく働き続けなければいけない疲れ、両方を感じ取ってますね。
 やっぱりガーセムを取材して、彼は私にあまり言葉として語ることがなかったんですけれども、ある時こう言ってくれたことがあったんです。「この年になって」彼86歳だったんですけども、「この年になって、60年以上かけて築いてきたものの全てを失ってしまった」と。それは今考えると、もう自分の手で短期間では生みなせないものばかりだった、すごくそれが悲しいと。
 ガーセムはやっぱり多くを語ろうとしなかったんですけども、語らなかったということが彼の言葉だったんだなと思うんです。ガーセムはトルコに来てからはずっと家の屋上で焚火をたいて、焚火の火を見ながらシリアの砂漠でラクダの放牧をしたり焚火をしたそういう思い出をずっと懐かしんでたらしいんですよね。やはりこう、体は難民としてトルコに来ても、心は故郷のパルミラを離れることがなかったんです。
 ただ、こうも言ってたんです、「故郷に帰りたいですか」と聞いたら、「もう故郷はなくなってしまったよ」って言ってたんです。彼らの故郷、パルミラ空爆を受けて市街地のほとんどが破壊されてもう住民がほとんどいないんです。そうなるとそこは本当の故郷じゃなくなったという感覚なんですよね。
 結局彼らにとっての故郷は、土地そのものじゃないんだと感じたんです。彼らにとっての故郷っていうのは、人のコミュニティなんですよね。シリア人にとっての故郷は、土地じゃなくて人なんだと感じるエピソードでしたね。

 

ナ:小松さんが心掛けているのは、難民となった人々が新たな環境で根を張り生きていく姿を長い時間をかけて記録すること。

 

小:私は2015年からトルコのシリア難民を取材してるんですが、毎年同じ家族を取材しています。いくつかの家族がいて彼らの生活を毎年記録することで、生活がどう変わっていってるのか、彼らの心情がどう変化してるのかというのが、すごくよくわかるんですね。
 そうした毎年の取材をする一家の1つがカーセムアウラージの家族なんです。この一家をなぜ取材してるかというと、たくさんの難民の家族と会うんです。その中でもやっぱり、難民として生きるっていうことがどういうことかということをすごく見せてくれる家族がいるんですね。
 このカーセムアウラージは、シリアのイドリブ県の出身なんですが、2016年に空爆を受けて家が倒壊して、で、お母さんは片足を失って、当時5歳だった息子も爆弾の破片が当たって亡くなって。で、お父さんも手に障害を負ってトルコに来た家族なんですよね。
 で、当時の父親の仕事は路上を早朝や深夜に歩いてビンや缶、段ボールなどを集めてそれを売るという仕事をしていてものすごく過酷なんですよね。過酷なんだけれども一家の生活を見つめると厳しいだけではない、人間のしなやかさとか優しさとか、やっぱり今日を信じる力みたいなものがすごくあって、私自身がやっぱりすごくそこにいろんなものを学んでるんですよね。
 私が難民を撮ってるのは彼らが難民だからではないです。彼らが厳しい状態にあるとか、そういうことで撮ってるんではなくて、彼らがこの先どこに向かうのか。もっと先を言うと、内戦前に満たされた生活を送っていた、シリアの人々の姿を知っているからこそ、再び彼らがそこに帰っていくまでを見つめて記録したいと思うんです。そうしたものをカーセムアウラージの家族というのを感じさせてくれるものがあるんですよね。

 2021年の4月に取材に行った時撮ったんですけども、ちょうどコロナ禍で、トルコもコロナの流行がものすごくてロックダウンが行われてたんですね。で、ちょうど土日はロックダウンで人の家に行くことができない、そうしたその人が来たりしない期間を利用して、壁塗りを家族がしてたんです。で、やっぱりこれこそがこう何ていうか、家族の絆の中で生活をこう家族として深めていく、そういう時間であるように思われたんですよね。一家総出で片足をなくしてしまったお母さんも義足をつけて、またお父さんのカーセムも動かない左手をかばいながら、手が届かない所は息子がこう塗ってくれたり。また、当時生まれたばかりの赤ちゃんを長女のアイーシャちゃんがあやしたりしながら、家族がそれぞれの役割を持ち寄って、快適な暮らしのために壁塗りをしてたんです。
 そうした姿、ほんとにささやかな光景ではあるんだけど、やっぱり彼らがこう前に向かって生きようとしてる、そういう姿であるように感じられたんですよね。

 

ナ:八王子の小松さんの家を訪ねました。シリアで暮らすことができなくなったラドワンさんは、2013年、結婚を機に日本にやって来ました。彼もまた新たな土地で生きることを選んだのです。
 9年の間に2人には家族ができました。長男のサーメルくん、次男のサラームくん。
 この日は、近所で暮らす親戚のムハンマドさんが遊びに来ていました。彼もシリアを離れざるをえなかった1人です。
 ラドワンさんにとって、縁もゆかりもない日本で暮らすのは、苦労の連続だったといいます。

 

小:夫は日本に来て2年ほどは引きこもりになり、ノイローゼ状態が続きましたね。やはりシリアと日本の人生の価値の違い。それから孤独感ですね、シリアでは大家族で暮らして、毎日友人とも顔を合わせていた、深いコミュニティの絆に生きていた。そうしたものが全くない状態で、やっぱり孤独感にかなり苦しんだようですね。
 仕事は働けるようになってからは日本の会社を転々としまして、結局20社ぐらいやってほとんどもう続かずすぐやめていった形でしたね。で、ある時は品川の方まで毎朝始発に乗って通って、内装工の仕事をやった時期もあったんですけど、結局始発で行って終電で帰ってくるような生活で、それを続けているうちにもうすっかり元気がなくなってしまって。「内戦下のシリアで政府軍にいた頃の方がまだよかった」と「この日本の生活は戦争そのものだ」とそうした話をしてました。
 当初はいかに日本人的な暮らしができるか、日本社会に馴染んで、日本の会社で働けるかというのを私も彼も意識してたんですが、段々とどうやらそれは無理らしいということが分かってきたんですね。
 そして、じゃあどうすればいいのかと考えた時に出会ったのが、今私達が住んでる東京都八王子市のモスクのコミュニティだったんです。モスクはイスラムの祈りの場であり、イスラムコミュニティの核となる施設で、そこに行けば同じルーツを持った人々がいて、そしてみんな同じような経験をしてきてたんですよね。夫と同じように日本に来て苦労していた、そうした人達と出会ったことで彼は段々精神的に安定していったんですよね。
 結局、いかに日本社会に慣れるかよりも同じルーツの人達といかに出会って、いかにその自分が感じる苦しみを共有できるか、それが大きかったようなんですよね。
 よく結婚当初は喧嘩しまして、「あなた何もしてないじゃない」って私も言ってたんですけど、子供が生まれてからは家事育児もノータッチだし、収入をたくさん稼ぐわけでもないので、かなり衝突もして夫にいろんなことを私も求めようとしたんですけど、でも気が付けば、それは日本人的な価値観なんだということも思ったんですよね。
 やっぱり彼はシリアというルーツで生まれて育って、日本に来たとしても彼のルーツというのを書き換えることはやっぱりできないと思うんですよね。彼にとって大切なのはやっぱりその、経済的価値とかキャリアじゃなくて、いかに時間と心の余裕を大切に生きるかなんですよ。ラーハを実行しているんだなということが分かってきたんですよね。それがやっぱり彼らしい在り方なんだということを段々私も理解しましたね。
 彼が大切にしてるものを私もリスペクトしたうえで一緒にいられたらいいなと思います。ですので彼には家事育児を負担してもらうとかたくさん収入を得るとかそういったことではなくて、彼がシリア人としてできることをできる範囲で一緒にできたらいいなと、私もゆったり考えてます。

 

亀:ラドワンさんとの間に生まれたお子さんをサーメルと名付けましたよね、それはなぜですか?

 

小:2012年に民主化運動に参加して夫のお兄さんのサーメルが逮捕されて、その後行方不明になりました。夫の家族はみんなサーメルが生きていて、いつか帰ってくるというのを信じてるんですが、その思いを込めて長男が生まれる時に、夫がサーメルと付けたいということでサーメルと名付けました。
 サーメルというのはアラビア語で「夜の中の光」という意味なんです。シリアがいつか平和になりますようにという祈り、そして兄のサーメルがきっと生きてますようにという希望、それを込めて名付けた名前です。
 次男の名前はサラームです。サラームは「平和」という意味なんです、シリアの平和を祈って名付けた名前です。
 サーメルもサラームも2人の名前の由来は平和なんです。いつか子供達が成長して大きくなった時にシリアの状況が今よりもずっと安定して、そしてこう、かつてのシリアがそうだったように人々の笑顔が絶えない、そうした土地であればいいなと思います。
 今年の5月で世界の難民数が1億人を超えて、今地球上の80人に1人が難民になってますよね。そういう時代だからこそ、難民となった人々がどういった苦労の中で生きて、何を求めてるのか、そうしたその難民の抱えているものを理解することでこの時代についても考えていけるのかなと。そうしたきっかけを私は写真活動によって作っていけたらいいなって思います。

 

ナ:難民となった人々の生きる姿を見つめたい。小松さんは毎年のように現地に通い、撮影を続けています。
 旅には必ず2人の子供を連れていきます。

 

小:なぜ子供を連れて行くのかというと、母親として子供を見なければいけないという理由もあるんですけども、やはり子供達はシリアというルーツを受け継いでる子供達なので、今シリアという国に帰れない分、シリア難民との交流を通して自分達のルーツを感じ取ってほしい、そういう思いがあるんです。
 やがてやっぱり子供も大きくなって、私の取材についてこなくなる時が来ると思うんですが、そうした時はやはりこう思い返してほしいなと思いますね。彼らの財産になっていけばいいなと思います。
 私はシリアの人々がやっぱり内戦前にすごく豊かで、満たされた暮らしをしてきたっていうのを見てきたから、またいつか時間を超えてそこに戻っていくんだろうなっていうのを願ってるし、そう信じてるんですね。その過程をやっぱり見つめたいし、それを撮って表現したいなと思うんです。

 

人間の土地へ

オリーブの丘へ続くシリアの小道で: ふるさとを失った難民たちの日々

2022/4/17 歎異抄にであう シリーズ 無宗教からの扉(1) 「”無宗教”から開く”大きな物語”」

阿満利麿:宗教学者 明治学院大学名誉教授

ききて(ディレクター):鎌倉英也、池座雅之

 

ナレーター(以下「ナ」という):自然豊かな山懐に抱かれた京都、鹿ケ谷。法然院鎌倉時代の僧侶法然が草庵を結んだというこの地にあります。法然院では宗教や宗派を問わず仏教を学ぼうとする人々が定期的に集まり学習会を開いています。
 宗教学者阿満利麿さん。京都大学で哲学を学んだ後、法然親鸞の仏教思想や日本人が持つ独特の宗教観について研究を重ねてきました。

 『阿満(学習会):”問い”があって”答え”がない”問い”だけが我々を苦しめるというそういう中で我々は生きて新でいかなくちゃいけない。
 我々は賢いようだけれど愚か、未完成な存在、己が完全な存在だと思っている人は宗教は関係ない。「大きな物語」が人間に必要なのは人間が未完成だから、そういう人間のために非常に優れた先輩方がその道を突破する道を「大きな物語」として残してくれた。それが「阿弥陀仏の物語」、「大きな物語」の1つですね。』

 
 この日阿満さんが取り上げた仏教書は、鎌倉時代に書かれたといわれる「歎異抄」。そこには「南無阿弥陀仏」という念仏を称えるだけで全ての人が救われるという「専修念仏」の教えが息づいています。それは法然から親鸞へと受け継がれ、更に親鸞の門弟となった唯円が師の言葉を記録することで「専修念仏」の思想の真髄を伝えようとしました。

 「歎異抄」には特定の宗教を持たないいわゆる「無宗教」の人達が抱く宗教への疑問に答えるヒントがちりばめられている。阿満さんは「歎異抄」が無宗教からの扉になると考えてきました。

 

鎌倉(以下「鎌」という):きょうから半年にわたって毎月1回合計で6回になりますけれども「歎異抄」という書物をひもといていきたいと思うんですけれども、よろしくお願いいたします。

 

阿満(以下「阿」という):「歎異抄」は13世紀の書物ですね。何よりも「歎異抄」の魅力というのは、法然の説いたその「専修念仏」の教えの最も大事な点は何かということを端的に示しているということですね。やっぱり法然の「専修念仏」の教えというものを受け継いできた、その受け継いできた者として唯円という人が親鸞から聞いた耳底に留まる言葉を大事にして生きていきたいというそういうふうな思いで満ちてる本でありますけど。
 親鸞法然さんより40歳若いんですね、で更に親鸞唯円との間はですね50歳も違うわけです、ということはこの「歎異抄」の中の話というのは、その法然という人が「専修念仏」を宣言してからほぼ100年後の書物だということですね。

 

鎌:今、「専修念仏」というお話がありましたけれども「専修念仏」という言葉に関してはですね、どのように理解したらよろしいでしょうか。

 

阿:「専修」というのは「専ら」「修める」と書きますね、それは何を専ら修めるかっていったら念仏だけを専ら修めるんですね。この仏教というのは非常に多面的な修行がありまして、そういう修行を一つ一つこなしながら段階を踏んでこの悟りへの道を歩むと、その修行をするためには出家という形をとらないといけない。そうすると出家できない人は捨てられていくという、見捨てられていくということに大いに疑問を感じられてですね、つまり一般大衆が置き去りにされるという問題ですね。で、法然さんという人は、仏教というのは全ての命ある人々にその恩恵をもたらすことができる宗教であるはずだという思いがあって、その結果、彼が見出したのは阿弥陀仏の名前を称える、つまり「南無阿弥陀仏」と称えるだけでその称えた人は将来必ずその悟りに到達することができるとそういう道を発見するわけですね。

 今までの仏教というのは色々なその修行をしなくちゃならなかったけれども、自分が発見したその本願念仏というのは念仏だけでいいわけですね。
 私は幸か不幸か西本願寺の末寺の長男に生まれておりまして、「将来お前はこの寺の跡をとるんだ」ということを言われて大きくなってきたものですから、「歎異抄」をひっくり返し色々読んできました。その中でやっぱり私が引っ掛かったのはですね、この火宅無常の世界、「火宅無常の世界はよろづのことみな空言戯言まことあることなきにただ念仏のみぞまことにておはします」とこういう文章があるんですね。世の中の一切はこれはまことあることがない、「空言」「戯言」であると、ただ念仏だけは「真実」だと、これは気になりましたね。
 特に高校生の頃というのは色気づいてくるじゃないですか、そうしてある人を好きになったり、その気持ちがねこれ「戯言」かと思うような経験をし始めるじゃないですか。そうするとますますね「ただ念仏のみぞまことにておはします」っていうのはこれただならぬ言葉ですね。これがず~っと私はその後念仏とは何かを問うていくその始まりですね。ずっとその後の私のテーマになりました。
 それからもう1つ、ある時、檀家の婦人が見えましてね、文句を言いに来られたんですね。大事な命日の日にですね、「住職が檀家参りに来てくれなかった」と、「来てもらわないと私は気色悪くて気色悪くて」って言ったんですよ。それがねまた私にはショックでね、自分が住職になるとしたら、檀家の方の気色を悪くしないようにするのが私の仕事なのかと。気色が悪いということとね、「ただ念仏のみぞまことにておはします」というのとこれどういう関係があるのかと。
 結局それで私は片方では民俗学的なつまり非仏教的な日本人の宗教心ですね宗教心のあり方に関心を持ち、片方では浄土仏教のこの教えというのはどういう構造になっているのかということ。この2つの方向に目配りしながら生きてこざるをえなかったという、そういうきっかけにもなっているわけですね。

 

ナ:阿満さんは歎異抄が伝える法然親鸞の仏教を研究する傍ら多くの日本人が抱く宗教についての考え方にも目を向けてきました。
 宗教を信じるか聞いた最新の日本人の意識調査によれば、74%の人が「信じていない、関心がない」と答え自らを無宗教だとしています。しかし一方で、「宗教的な心は大切か」問うと半数以上にあたる57%の人が「大切だ」と答えています。

『街頭での一般の方①:宗教的には無宗教だからね、自分であまり宗教というのは信用しないし信じてはいないけど、でもね仏さんを拝むね、それこそ先祖をね。知らず知らずのうちにそういう土壌が自分の中で出来上がっているんだと思う。
②:結婚式は教会で挙げて亡くなる時はお寺さんでとかね、なんかそういうところに今生きてますもんね。キリスト教の方とかすごい信心深い方もいらっしゃるしそれは尊敬するかな。
③:代々親から継いでくるもんじゃない、だから僕の場合は親父が浄土真宗だったから。辛い人生が40代後半ね、多かったよね。自分に打ち勝つためにね、そういう感じで自分に称えてた。
④:宗教、お葬式とかそういった時にしか意識しないですね、現状は。オウム真理教とかやっぱり知っているのでそういうのが過激なものっていう認識があるので怖いなっていうイメージがやっぱりそこからどうしても来ちゃうから。自分のスキルアップができる宗教があったら興味を持てそうだなとは思いますけどね。
無宗教って言っても、誰の言葉か忘れましたけど、「人は神的存在、信じるものがないと生きられない」と言ってる人がいる言葉は聞いたことがあります、本当そうだなと。生きていたら色んなことがある、自分の目の前に起きる出来事をしっかり受け入れてどういう意味があるのかを自分なりに意味を理解して解釈できる人ではいたいなと。意味がわからないから皆悩んでいると思うんですよ。神様がいるとしたら常に何が起きても「これはこういう意味があったからなんだよ」と理解できる人間でいさせてほしい。』

 阿満さんは人々の無宗教的なあり方を変えようと迫るのではなく、一人では解決できない大きな問題に突き当たった時、手を差し伸べようとするのが「歎異抄」のメッセージだと考えています。

阿:なぜですね歎異抄無宗教という立場から読もうとしてるのかというと、宗教は今の自分のあり方を全面的に入れ替えないといけないのではないかとかそういう予断がどうも一人歩きしてるんですね。しかし「歎異抄」に手に取って下さるとですね、少なくとも無宗教である自分の立場を帰る必要はないと無宗教のままでしかも次のステップアップへ進む道があるんだとそういうことが分かる。
 日本の多くの方は無宗教だと言いながら宗教心は大事だと、この「宗教」という言葉をもっと厳密に定義してみたらどうかと。で、宗教学の方で宗教を2つに分ける。1つは「創唱宗教」ですね、「創唱宗教」。もう1つを「自然宗教」というと。
 「自然宗教」というのはね、これは自然を崇拝するとかそういう意味ではなくて自然に成立したという意味ですね。小さい時から普通に暮らしていて年中行事とかしきたりとかを繰り返す中でいつの間にか身についてきたような宗教心ですね。生まれた時にはお宮さんにお宮参りに子供を連れていくし結婚をする時だけはどういうわけかキリスト教の教会でやると。死ぬとですねやっぱりお寺がいいというので仏式でやると。これは一体どういうことなのか、深い考えはないですね。こういうことが日本人の宗教心の大きな流れを作っているわけですね、それが「自然宗教」というものです。
 「創唱宗教」というのは、文字通り創造の「創」と「唱える」と書きますから、新しい教えを説いた教祖がいるわけですね。そしてその教祖の教えが教義として明らかになっていて、その教義を信奉する信者達が教団というものを作ると。そういうその教祖と教義と教団という3つが揃っている宗教のことを宗教学では「創唱宗教」というわけです。
 「自然宗教」という立場、つまり年中行事とかしきたりで十分安心が得られるというそういう立場から言うとですね、なんかわざわざ難しい教えを聞いてその信者になるというふうなことが何か不自然な感じがするんでしょうね。なんか宗教には近づかない方がいいというそういう雰囲気が大変強い。しかし、それはですね実は日本社会独特の理由があるということを是非知ってほしいですね。
 我々が「創唱宗教」に対して非常に距離感を持つというか「創唱宗教」に対して非常にこう用心をするのはなぜなのかという。それはですね、日本が明治維新以降日本が近代国家で出発しようとする時にどのような政治体制を作ろうとしたのか、ということに深い関係があるんですね。
 それは天皇を日本国家の中心にすると。そういう国家を作ろうとした人達が色々工夫をする。その中で私から言わせると「天皇教」と言ったらいい「創唱宗教」を作ろうとしたと言っていいと思うんですね。つまり「天皇教」というのはこれは国家の「掟」であって、他の「創唱宗教」、仏教にしろキリスト教にしろそういう「創唱宗教」はその「国家の掟の中で存在が許される」のであって、「天皇教」という国家宗教と作った井上毅という人は、キリスト教の存在は許してもいわゆる不況というものに関係するところは全部否定をしてですね、「内想」だけ許すと。内で思うことは許すけれども「外顕」外に現れてくる姿は禁じると。「内想は許すが外顕は禁じる」ということを非常に強く主張しまして、具体的には「聖書」を印刷するということは禁止する。それから信者達が集まる集会は禁止する。こういうようなことを言われるんですね。それで憲法を作る時に「安寧秩序を妨げない限り」とか「臣民の義務に違反しない限りでの信教の自由」なんだと、こういうような信教の自由の定義をしてですね、近代国家だから信教の自由は立てるけれどもそれはこういう制限付きだということを明治憲法で打ち立てるわけですね。
 だから近代日本の宗教政策の結果ですね、この「創唱宗教」をまともに評価するというそういう土俵が無くなったと。したがって宗教についての偏見というか近づかない方がいいという、そういうふうになっていったという歴史があると思いますね。

池座(以下「池」という):阿満さんがおっしゃるような無宗教的な、私自身まさにそういう宗教意識かなということを思ったんですけども。それがその自然にあるわけではなくて、明治期に国家によって作られたものとしてあったんだというところが非常に新鮮に感じたんですけれども。

 

阿:日本社会は、まあ近代社会というのは一般に宗教的なものの考え方を排除して成立していくと科学技術を中心にして社会を作っていくという、しかし、人間の持っている抱えている根本問題というのは解決できないんですよね。「人間は何のために生きているんですか」とコンピューターに入れても答えはないですよ。一人一人違うんですよね、人間は何のために生きてるか、つまり実験によって証明されるような真理だけでは人間は生きていけないんですよ。
 で、そこに「宗教」というものの役割があるんだけど、「宗教」って言葉が色々日本では手垢にまみれているので私はこの番組では使わずに「大きな物語」っていう言葉にしたいと思うんでありますけど。この「大きな物語」っていうものと出会うということは大事なんですが、この機会が中々日本社会にはないんですよね。
 例えばこういう話があるんです、私はある男性に会ってその人から聞かされたんですけど。彼はある時まあ幸せに暮らしていたんだけど、ある時子供がですね7歳くらいで亡くなったというんですね。その子供さんが亡くなったのを悲しんで、そのおばあさんが、つまり自分の母親がですねその日の内に亡くなっちゃったと。その男性から見ると自分の子供と自分の母親と同時に2つの棺を出すというそういう経験が生じたと。小さな棺と大きな棺を出すと。その時、初めて彼は本当に頼りになるものは何なのかと、そういう問いを持つようになった。
 その問いに対する答えは「自然宗教」の中では見出すのは難しいんですね。日常は私達は「小さな物語」をつなぎ合わせて暮らしているわけです。その都度役に立つような「小さな物語」をつなぎ合わせて暮らしているんですけど、「2つの棺をなぜ自分は出さざるをえなかったか」っていうのは、そこには答えはないですよ。
 「大きな物語」っていうのはですね、こういう人生で容易に解決できないそういう危機に面した私のあり方というものをいわばリセットして、私に新しい意味付けをしてくれる、そういう役割があるんですね。その「大きな物語」の特徴はですね、常識を超えたような時間とか空間軸から人間と世界のあり方を説明すると。
 これは妙な例えですけど、セミが夏鳴きますが、そのセミは夏の間しか知らないですね。で、私達はたまたま指揮を知っているからそのセミは短い期間だけしか知らないんだなとこういう評価をするんだけど、そういう我々もこの一生で人生が終わると思ってるのは、それはセミがですね夏しか生きていない、生きられないのと似たようなことですね。同じように人間の一生はもっと大きい目から見たらまた別の意味があるということも可能なわけですね。
 このように時間とか空間を拡大するとですね見えなかった問題が見えてくると、そこで「大きな物語」ですよ。宗教についての思い込みとか不信を解消するために「歎異抄」は有力な手がかりを与えるということの1つの例証として九条「歎異抄」九条のお話をちょっとしたいと思います。

ナ:「歎異抄」を貫く「大きな物語」、それは、阿弥陀仏が名号「南無阿弥陀仏」という自らの名前を称えた者を苦しみから解放された浄土の世界を導くという物語です。厳しい修行をおさめた僧侶や権力者、寄進ができる金持ちなど選ばれた者だけでなく、貧しい者や文字が読めない者、社会で虐げられた人々も遍く平等に名号を称えることだけで救われるとしたのです。
 阿弥陀仏はもともと法蔵という名の人間でした。彼は1人残らず全ての人々を救えるまでは仏にならないと誓い「本願」という厳しい願いを立てます。想像を絶する膨大な時間、悩み苦しんだ末に誰もが実行できる念仏への道を開きました。
 「歎異抄」の第九条にはそのような「大きな物語」が容易には納得できず、無宗教の人々が念仏について抱くような疑問が記されています。「歎異抄」の著者唯円がおよそ50歳年上の師、親鸞に悩みを打ち明ける場面です。

 『わたくしには念仏を申しましても躍り上がるような喜びの心はなかなか生まれませんし、また、急いで憧れの浄土へまいりたいという気持ちもないのです。いったいこれはどうしたことなのでしょうか』このように親鸞聖人に申し上げましたところ、親鸞聖人は次のように答えられました。『私も同じような疑いを抱いて今に至っています。あなたも同じだったのですね』
 親鸞は念仏を称え続けて高齢となった自分も唯円と同じ疑いから逃れられないと打ち明け、それは自分もまた煩悩を断ち切ることができない同じ愚かな者「凡夫」であるからだと言います。その上で念仏はそういう煩悩にとらわれた「凡夫」のためにこそあるのだと語りかけていきます。
 『急いで浄土へ生きたいというような心のないものを阿弥陀仏は特に憐れんでくださいます。それを思えばいよいよ阿弥陀仏の慈悲と誓願は頼もしく、私共の往生は決まっているとお考えください』。『天にも躍り上がり地にも跳び上がる喜びがあり、急いで浄土へ行きたいということではかえって煩悩がないのではないかと不審に思われるのではないでしょうか』

阿:これは普通は何か宗教的な行というか宗教的に良いことをしたらですね、何か喜びの心が生まれるはずだと思いますよ。しかし、一向にそういう気持ちは起こらんと、念仏をしたから直ちに喜びの心が生じるそんなことは起こらない。ましてや浄土に行きたいなんていうことは起こらない。それは親鸞によれば我々が「煩悩」に支配されているからだと。この「煩悩」についてはいろんな考え方がありますよ。貪(むさぼり)の心とか瞋(いかり)の心とか物事の正しい道理を知らないその癡(おろかさ)とかそういうものが「煩悩」というものだと。
 しかし、まあ私はですね、自分の考え方中心から免れることはできない、いろいろ聞いても結局は自分の考え方を中心に物事を見たり実行していくとそういうあり方から逃れられない、そういう状態を「煩悩」に縛られているということだと私は思います。特別に苦しみを持っていたり場闇を持ってる人だけが「煩悩」の虜になっているんじゃなくてごく普通の一般の人間もまた「煩悩」の虜なんだということが大事な点なんですね。
 だから、早く浄土に行きたいと思うよりはですね現実の暮らしの中でいかに楽をするかとかいうことに関心が集中しますよ、そういうその気持ちに支配されていると。一直線に純粋に浄土に向かって歩むなんてことはそれは思い込みであって、我々の人間の実情を見ればですねそんな簡単なものではないとそういうことだと思うんですね。だから浄土へ行く道の確信とその道を歩んでいく中で生じる不安とか揺れ動きとかというものをふたつながら認めていくということが法然の浄土仏教の特徴だと思うんですね。
 従来の仏教は「煩悩」は努力をして修行をすればそれはコントロールできるというふうに思っていたわけですね。それがいかに不可能であるかということに気づいて法然の仏教は生まれてくるわけですね。だから法然親鸞も自分の煩悩を克服できるなんてことはこっから先も考えていません。ですからこれは「徒然草」に引用されている法然上人の言葉として有名なものですけど、あるお弟子が法然上人に聞いたというんです。「自分は眠くてしょうがない」と、「お念仏をしていても眠くてしょうがなくてお念仏が途切れ途切れになってしまう」と、「どうしたらいいですか?」と法然上人に聞いたと。そうしたら法然上人は「眠ったらいいじゃないですか」と「眠たさがとれたら、また目が覚めたら念仏を続けなさい」と。
 また、こんなふうなことを言っていますよ、「疑いの気持ち、色々念仏を疑う気持ちがいっぱいあって、このお念仏をしていてもほんとに自分は浄土に行けるのかどうか不安だ」と。そうしたら「疑いながらも念仏をしたら浄土に行けますよ」と、「疑いはそのままに疑いのままに疑えばいいんです」と。

 

鎌:その「徒然草」の例でいいますと、法然の「一百四十五箇条問答」というのがございますね。それも非常にこう宗教というものが清く正しいものでなければならないという方々の問いに答えたものだというふうにお聞きしていますけれども。

阿:そうですね。当時は色々な仕事をする人の中に穢れの仕事というふうに言われている言われている仕事もたくさんあったわけですね。
 例えば、モノの命を取るというふうな仕事をせざるを得ないような人達に対してそれは穢れているというふうな言い方をして差別していたわけですね。そういうことに対してこういう穢れ、不浄とかそういうものは法然の仏教では一切問わないんだと。
 もっとその穢れでいえば女性の場合、「月のはばかりのある時にお経を読む、そういうことをしてもよろしいか?」とこういうことを女性が聞いているわけですね。そうすると法然上人は「そんなことは何のはばかりがありますか」と。「そういうことは問題にありません」と。
 そういうようなのは他にもまだたくさんありますけど何か安心するんですよ。法然の浄土仏教というのは、本願念仏というのは何か特別の身構えをして受け止めないといけないのかと思う必要はないんですね。「自分のありのままでそのままでよろしい」と。自分を改めなくちゃいけない、なんていうことになるとしんどくなるから遠ざかってしまいますけれども。そこが大事な点ですね。
 しかし変なことを言いますが、自分をあらた改めるようなそういう努力を要請するような宗教でないと自分は信じられません、という人もいるんですよ。努力をして自分を改めると自分はちょっと改まったなとそう思う、それを根拠に自分は救われていくんだと思いたい人もいるわけですね。しかし、それは人間の「煩悩」をちょっと軽く見すぎている。人間が自分の考えだけで真実に到達できるんだったら、こんなに人類始まって以来これだけの苦しみを何度も同じことを繰り返す戦争や飢饉や疫病の苦しみから逃れられないということをずっと続けて続けて今に至っている。こういうことはとっくの昔に克服できてるはずではないかと。
 ですから、自分の考えを入れ替えたら助かるというんではなくて、やっぱり真実の世界に到達するためには道というのが必要であって、その道として浄土仏教は阿弥陀仏の名を称えるという道を教えたわけですね。

 

ナ:念仏の教えを開いた法然から親鸞へ、そして親鸞の言葉を「歎異抄」に書き留めた唯円まで、その教えはどのように伝わっていったのでしょうか。
 法然法然の教えを受け継いだ親鸞ももとは当時の仏教の最高学府である比叡山で学問を修め厳しい修行を重ねた僧侶でした。
 9歳で比叡山に入った親鸞は20年間の修行を積んでも学んだことに心から納得することはできませんでした。比叡山から毎晩100日間にわたって京の都に通い六角堂にこもった親鸞は、やがて「法然のもとを訪ねよ」夢のお告げをうけます。親鸞はおよそ25年前に既に山を下り、京都の草庵で念仏の教えを説いていた法然に出会い、自らが歩むべき道を見出します。親鸞29歳、法然69歳のときでした。
 しかしその6年後、親鸞は越後へ、法然は土佐へそれぞれ流刑になります。時の権力者が戦乱や疫病に苦しむ人々の間で広がり始めた、身分や富に差別のない新しい仏教を警戒し弾圧したのです。
 都を追放された親鸞は流刑の地にも草庵を構え自らを「僧侶でもなく俗人でもない」として妻を娶り2人の子供をもうけるとともに、人々に念仏の教えを説いて回りました。
 4年後39歳で流刑を解かれた親鸞は都には戻らず新天地を関東に求めます。以後およそ20年間、還暦の頃に京都へ帰るまで常陸の国、現在の茨城県に根を下ろし、布教に努めました。
 親鸞がいかに人々の暮らしの中に息づく念仏を大切にしたか。それを物語る逸話も各地に残されています。

『農家の方:年だから、92にもなるんだ。親鸞聖人がそこへ松を植えたんだけど松は枯れちゃったんだよね。松があったんだ前は。昔のことだからね、来たんだと思うよ。』
 親鸞は農民と共に田んぼに入り稲を植え、阿弥陀仏の自人願いの言葉を織り込んだ田植え歌を作ってはみなに伝えたと言われます。「歎異抄」の著者と言われる唯円はこの地に暮らすそうした人々の1人でした。親鸞が流刑となり都を離れたことが巡り巡って唯円との出会いをもたらし、「歎異抄」を生むことになったのです。

 

阿:親鸞流罪で越後に流されますけれどもやっぱり法然の専修念仏というのが当時の支配者層にとって都合が悪いということがあったんでしょうね。
 なぜかというと法然が「浄土宗」というのを名乗るのはですね、国家の承認を受けずに名乗るんですね。で、そこは当時の諸宗教は天皇の勅許を得て成立しているというのに天皇の勅許を得るというのを全く無視して法然の浄土宗というのは成立すると。で、その理由は日本社会の最下層の人々を救おうと。それが法然の狙いだったと思いますね。
 で、そういう法然の専修念仏というのは歴史的に大変な弾圧を受けたわけですね。現代風に言えば、法然の専修念仏の反対側の極にあるのは政治、政治だということですね。政治と向き合うという現実の秩序を作っている政治的権力の在り様とは真正面からぶつかるというそういう宿命を持っている。
 それで「歎異抄」で大事な要素は、法然親鸞、それから主だった弟子が死刑ないし流罪に処せられたというそういう記録をですね「歎異抄」というのは後ろにくっつけているんですね。「流罪の記録」を持っているということはとても大事だと思うんですね。なぜ流罪ということが生じたのかということをそこで考えさせられるからだと思います。

 

鎌:そういった意味で現代の我々もその「歎異抄」っていうのが1つの重要なテキストになり得るっていうふうに考えてよろしいんでしょうか。

 

阿:そうだと思います。

 

池:今のお話の中でもう1つ「歎異抄」を書いた唯円の人物像について、それについてはいかがですか?

 

阿:実は唯円の人物像はほとんど分からないと言っていいと思います。
 報沸寺っていうお寺が茨城県水戸市にあるんですけれども、そこに伝わっているお話っていうのは、もともと唯円というのは相当な悪党だったそうです。その悪党であったけれども妻はですね、親鸞の信者であったというんですね。
 で、その親鸞の草庵に奥さんは通ってると。で、それを唯円はなんか嫉妬してですね、ある時怒りに任せて妻を殺してしまったというんですね。そして竹藪に埋めたというんです。ところが家に帰ってみるとその妻がいるじゃないですか。で、驚いて「じゃあ竹藪は、、、」と思って竹藪を掘り起こしたら、妻が親鸞から授かった「南無阿弥陀仏」と書いた名号の紙があったということで自らの悪行を悔いてですね親鸞に帰依したと。
 それはあくまでも伝承でしょう。しかし、私はこの「歎異抄」を見ますと、相当な求道心の持ち主だったと思いますね。

 

ナ:唯円はどのようにして「歎異抄」を綴るまでになったのでしょうか。水戸市にある報沸寺は唯円が開いた寺と言われます。そこには唯円親鸞に帰依するきっかけになったといわれる名号の札が伝えられていました。妻の身代わりになって唯円に切られたという名号です。

『報沸寺の住職:「帰命尽十万無碍光如来」、南無阿弥陀仏と同じ意味でございます。ちょっとよくわかりませんけど、傷が見えますけど「帰命」のこの「命」の下ですね。ここが袈裟懸けに切られた場所だと伝えられております。不思議ですね、今までこのようなものがずっとこう残ってるというのはね、ありがたいと思います』 

 

ナ:自らの愚かさと不明を恥じた唯円は、自分のようなものでも救われる道があることに衝撃を受け、親鸞のもとに日参し教えを請うようになりました。
 やがて唯円親鸞の高弟の1人となり、自らも草庵の道場を開いて人々に念仏の教えを広めようと努めました。
 報沸寺の近くに唯円の道場の跡が残されています。

『報沸寺の住職:ここに親鸞聖人がいらっしゃって、お話をなされたと地元の方々は伝えておりますね。お寺のもっと前に念仏道場が建てられたと、農民の方も多かったでしょうけども武士の方、商売なさる方とかね、皆様が集まりやすい道場を選んだんではなかろうかと』
 しかし、親鸞が京都に去った後、その教えを誤って伝える人達が出てきました。
『報沸寺の住職:親鸞聖人が(京都に)帰られてこちらで念仏の乱れが起こった時に、親鸞聖人の教えを正しく伝えようとした。「歎異抄」に出てくる動機によって念仏道場が作られたとも考えられる』

ナ:唯円親鸞の死後、かつて師と問答を重ねた日々を回想し、「歎異抄」に自らの記憶に残る親鸞の言葉を書き残そうとしました。その冒頭「序文」で唯円は執筆の動機を明らかにしています。

『私1人の思いですが、親鸞聖人から直にお聞きした真実の教えと異なる了解があるのを歎かざるを得ません。教えを正しく受け継いでゆくにあたって生まれている数々の障害を思うのです。
 幸いなことに縁あって優れた指導者に出遭うということがなければどうして本願念仏に帰依することができましょうか。全て自分の一人合点だけを頼りとして本願念仏の本旨を思い誤ってはならないのです。
 したがいまして、かつて親鸞聖人がお話くださいました御物語の要旨の今もって私の耳の底に留まりますところを記すのです。ひとえに心を同じくする人々の疑問を晴らすためなのです』

 

阿:「歎異抄」というのは、異なるを嘆く、という意味ですね。何が異なるかっていうと耳底に留まっている親鸞の教えとは遠い考え方が広まってしまったということを嘆くと。
 この唯円の基本的な立場というのは「自分は親鸞からこういうふうに教えを聞いてきた」と、で、「今仲間達が言っていることはこういうことなんだけど、それは親鸞から聞いたことと違いますね」と、「なぜこういう違いが生まれてきたんだろうか」ということを唯円自身も自分で尋ねてるわけですね。「それはお前は間違った道だからそれはけしからん、改めよ」というそういうふうにして説得にかかるというそういうふうな姿勢はあまり感じられませんね。他者を屈服させてまで信じさせよというふうなそういう姿勢とは基本的に違うんだと思います。
 ですからまず自分が親鸞から聞いた本願念仏の1番要になると思われているような、そういうふうに自分が聞き取ってきた内容を、この十条を最初に並べて、それとの対比で同じその専修念仏の信者だと言ってる人達の異なった考え方についての批判、八か条と。その合計十八条に「序文」があって十八条があって「結分」があって、そして最後に法然親鸞の「流罪の記録」をくっつけておくと。
 この「序文」の中で唯円が強調してるのは、「他力」というものを理解するためにはよき指導者あるいは先輩というのは不可欠だということを強調しているということですね。それは彼のこの「序文」の言葉でいうと『自見の覚悟を以て他力の宗旨を乱ることなかれ』という言葉に出ていますね。「自見の覚悟」というのはまあ独り善がりですよ。自分1人だけの考えで誤解すると言っていいでしょう。そういうことをしてはいけないと。
 なぜその先輩というかよき指導者が必要かというと、何せ「歎異抄」は「大きな物語」ですよ。「大きな物語」というのは常識を超えてつくられていますね。常識だけを基準にしていては絶対理解できませんよ、どうしても誤解が生じてくる。そこで何度も何度もその「大きな物語」を自分のものにしている先輩に質問をしてそこで議論をして、自分の常識的な考えが無力だということに気が付くということは大事なプロセスだと思いますね。

 

池:やっぱりこおうお互いに「凡夫」だという立場で理解していく時に、繰り返しやっぱりその親鸞法然に問うて納得をしていき、その唯円親鸞に問答を続けていって、そこを納得していくプロセスみたいなところがあるというのがひとつ「歎異抄」の特徴のように思ったんですけれども。

 

阿:それはとても大事な指摘で、それは現代の私達にも当てはまる問題なんです。
 人間が持っているそれぞれが感じている真実のイメージっていうのはありますから、そのイメージは皆それぞれ違うわけだけどぶつかり合うことで「ああこういうことが真実なんだ」ということを確認し合っていくという。だから最初から違う考えの人だというふうに決めてかかれば説得するとか説教するになってしまいますね。そうじゃなくて道筋が少々違うということを前提にして、しかしクロスする点があるとしたらそれは何なのかというふうな立場で議論をしていくことが大事で。だから「歎異抄」というのは歎くことはあっても相手を弾劾するということはないですね。
 異なった考えを持った人と対話をしながら対話をする中でその法然親鸞の教えの正統っていうか1番正しいことがはっきりしてくるし、そういうはっきろした教えに立つとまた間違いも見えてくるというふうになっていくでしょうから。1対1でやっぱり議論をしていくというプロセスが宗教の場合には不可欠ですね。

 

鎌:阿満先生あの「他力」のお話のところでいきますと、「他力本願」っていいますと私達にとっては「まあ誰かが救ってくれるんだから自分が努力しなくてもいい、自分は研鑽を積まなくてもいい」と解釈するっていう向きもあると思うんですが、ある種の「人任せ」というか「他の力任せ」っていうことの意味とはまた違うというふうに考えてよろしいんでしょうか?

 

阿:「他力」という言葉はなにか「他力本願」とかいう言葉で普通はあまりいい意味で使われませんね。自分が努力せずになにか適当にうまい汁を吸うような、そういうやり方を「他力本願」というふうな言い方をしますけどそれは相当な転用ですね。間違った転用というか本来の意味とは違うと。「阿弥陀仏の本願」という言葉に限定した「他力」ですね。
 ですから「自力」、「他力」の「他力」という言葉は法然親鸞の場合は非常にはっきりしているように「自力」が自分には似つかわしくないという、そういうその、まあ要は「実験」があったわけですね。自分の力で真実の世界をつくり上げていくという、そういうことに対する絶望が前提としてあるわけですね。
 しかし、私達は「自力を尽くす」ということをしきっているかというとそういうことをしていないわけですね。で、そういう人間に「自力」よりも「他力」だと言えば「他力」は安直な道っていうふうにしか受け止められない。自分で実際やってみてどうだったのかと、そういう「実験」をする期間があったかどうかですね。
 もっと言えばやっぱり私共が「自力」というものに絶望するという機会を何らかの形で経験しないとだめですね。ですからこの「歎異抄」というのは最終的には「念仏とは何か」ということを教えていて、その念仏を誤解する、その念仏を法然の教えの通りに理解するために妨げになるのはどういうことかということを色々教えていくというそういう構想になってるわけですね。
 この法然の専修念仏というのは教えとしては極めて簡単ですね。つまり「阿弥陀物の名を称えなさい」とそれだけなんですよ。その阿弥陀物は称名を通してその人の中にある真実になる願いを燃え立たせて、最終的に真実の世界に連れていくと。これがその法然の本願念仏のエキスですね。
 最初から分かる人は恐らくいないでしょう。それは人間の持っている不条理とかそういうものに対する疑いがまず生じてくる必要がある。疑いが生じてきてもそういうものを乗り越えるための工夫というのがね、人類は色んな形でそれは作ってきてますよ。「娯楽」っていうのはそういうものの最たるものですね。その忘却の中で段々と痛みも忘れていくというふうにして、そして生涯を終わっていくという生き方もあるわけですね。
 しかし、「小さな物語」では解決のしようのないようなことが起こった時にですね自分の持ってる根本的な問題というものから目を離すことができないという人も中にはいるわけです。
 1番最初に申し上げたように2つの棺を出さざるをえなかった方が「今まで自分とは関係がないと思ってきたけれども、この本願念仏の教えというものがグーッと近くなってきた」と言うんですね。ということは、私共は直接その「物語」に近づくか近づかないかは別にしてどこかでそういう「大きな物語」と接触できるチャンネルはあった方がいいと。
 私達は何か空虚だという思いがどこかにあるんですね。真実から遠いという意識は持つことができるんです。真実は何かということは中々分からんのですね、遠いという感覚だけはある。これがその「阿弥陀仏の物語」が我々に問いかけてくる問題じゃないでしょうかね。
 で、その「念仏」は無宗教の人間にとっても大きな真理への道の手がかりになるだろうということをお話したけれども、じゃあ具体的に「念仏を称える」ということはどういうふうにして真実の満ちにつながっていくのかということはこれから1つずつ押さえていく必要があって、「阿弥陀仏の物語」を、、、とは全く無縁にですね、「何か困った時に使う言葉くらいだ」というふうにして「念仏」を理解しているとその「念仏」は「呪術」になると。自分を棚上げにして自分の願望をこういう手段で実現しようという、そういう立場は呪術になるんですね。
 1番大きな違いは「自分を問うか、問わんか」なんです。自分を問う行為は「宗教」である。だから念仏をする中で自分が問われているかどうか。後の開設にはそういうことも考慮していきたいと思っています。


ナ:あなたはあなたのありのままでよい、疑いがあれば疑うまま念仏すればよい、誰にとっても生きることはたやすいことではない、そう説き続けた法然の仏教。
 この日の「歎異抄」学習会の最後は集まった人達による話し合いでした。

『参加者:私、法然院に通うようになって「南無阿弥陀仏」って言って、それで気持ちが落ち着くときもあるけれどもものすごく乱れることもあって、特にうちの母の介護やらウクライナの問題やら、コロナで学校は急行になるわ休園になるわで、孫をみたりなんだで本当にもうぐちゃぐちゃな状態で心穏やかに接しなきゃいけないと思うんですが結構きつく母に言ってしまったり、言った後にまた「なんで私ってこんなにあれなんやろ」ってすごく苦しいんですよね。
 でも今日聞いてほんとに良かったんです。「そんなに苦しまなくていいよ、今のあなたでお念仏称えたらいいんだよ」って法然さんの姿が浮かんだような気がしたんですよ、今日。 法然さんが、ほんまにいてくれたっていうか私にとっては必要なんです。』
 
 6回シリーズ、「歎異抄にであう、無宗教からの扉」、次回は「歎異抄」の核心とも言うべき念仏の教えがどのような論理によって誕生したのか。そこにはどんな仏教の思想が流れているのかを辿り、念仏とは何か考えてゆきます。

 

歎異抄 (岩波文庫)

無宗教からの『歎異抄』読解 (ちくま新書)

『歎異抄』講義 (ちくま学芸文庫)

歎異抄 (ちくま学芸文庫)

NHK「100分de名著」ブックス 歎異抄: 仏にわが身をゆだねよ;ホトケニミヲユダネヨ

2022/7/31 こころの時代~宗教・人生~ 「私のガリラヤを生きる」

長澤正隆:カトリックさいたま教区 終身助祭

取材協力:北関東医療相談
     カトリックさいたま教区 常総教会
     反貧困ネットワークぐんま

 

長澤(以下「長」という):聖書の中のイエスガリラヤを巡る旅、あれによく似ている。イエスも生活困窮した人達の間をずっと回って病気を癒していた。私にとってみればガリラヤっていうのは、貧しく苦しんでいる人のところがガリラヤだ。

 

ナレーター(以下「ナ」という):茨城県常総市にあるカトリック教会、ミサに集うのは日本に暮らす外国人たちです。ここに毎週やってくる日本人がいます。長澤正隆さん、外国からやってきた人たちのために設立された教会で司祭を補佐する助祭を務めています。
『長(ミサの説教):教会は2,000年前から多文化共生、多様性の時代を常に過ぎてきています。ですから、教会には貧しい人もお金のある人も共にここに来てイエスを賛美します。見てください、この多様性、アメリカの人がいて、フィリピンの人がいて、日本人の人がいて、スリランカの人がいて、これこそが教会の持っている良さです。』
 集まる人の国籍はフィリピンやベトナム、南米など様々、その多くは茨城、栃木、群馬などで製造業や農業に携わっています。
 もともとサラリーマンだった長澤さんは、聖職者になる以前から生活に困窮する外国人の支援を40年に渡って続けてきました。
『長(ミサの説教):栃木市に住んでいるフィリピン人の女性、3階から落ちて肺に怪我をしていると伺っています。どうか1日も早く治り、私達と出会い、早く治るように導いてください。』
 長澤さんは、聖書に登場するガリラヤという名の地で虐げられた人達のために生きたイエスの姿を道標にしています。

 

長:私は北関東といわれているところに住み始めてもう40年近くなるんですけれども、ガリラヤって巡礼に行くような地域ですけれどもガリラヤっていうのはむしろここじゃないかって思い始めたわけです。
 私がよく使うガリラヤというのはイスラエルの一地方を指していて、首都エルサレムから離れた昔は辺境の地で、いろんな国の人達がそこに入り込んでいる移住者の世界ですね。そこに生活困窮したような人達がたくさん住んでいた。貧困と病気と悩ましい色んな問題を抱えた人達が聖書には多かったと言われている。そういった人達の中にイエスは回ってあげて病気を癒してあげたり、食料を分けてあげたり、そういうことをやるわけですね。外国人の困った人達がたくさんいるこの北関東全域がガリラヤに見えてきますよね。私達はその地域の中で困ってる人達を支えている、それを私達は行って、一年中、あっち行ってこっち行って、健康診断やって、病気の人を癒す、もしくは治す、そういう作業をしている。これが1つのイエスのやっていたやり方に近いのかなと思います。

 

ナ:戦後の日本が、高度経済成長を遂げると共に工業地帯が広がった北関東、大企業の下請工場などが集まり多くの外国人が労働者としてやってきました。この地域を中心に長澤さんが四半世紀に渡り続けてきた外国人のための医療相談会があります。長澤さんはNPO北関東医療相談会の事務局長を務めています。ボランティアの通訳や医師、看護師、弁護士達の力を借り、毎年3,4回程のペースで開催しています。
 この日、群馬県太田市の会場には関東一円からおよそ70人の外国人が訪れました。多くは在留資格のない非正規滞在者と呼ばれる人達、国民健康保険に入れないため病気や怪我の時でも病院を受診することが困難です。働くことや病院にかかることができない人達のために長澤さん達が奔走して集めた寄付や助成金から生活費と交通費の支給が行われました。
 相談会には直ちに治療が必要な症状を訴える人もやってきます。長澤さん達は治療費を肩代わりしたり、無料で診察してくれる病院を探して同行したりする活動を続けています。

 

長:どこに行っても生活困窮している外国の人達に出会うし、健康保険もない、何もない外国人の人達だということです。見捨てられたような人達に出会う。しかも皆判で押したように全くひどい生活、これじゃどんなことがあっても行かなきゃならない。
 病気の他に経済的にもままならない、お金もないのに、おまけに住むところもままならない、いわゆる人生の中の三重苦みたいな状態になる人の痛み、何か1つだけでも、きちっと取ってあげることができればいいなと思った時に、一番重要なのは健康じゃないかと。改めて思ってこだわるのは、病気で命を無くすのは気の毒だと、保険が無ければ自分達が担保して命を長らえさせる、というのが1つの使命という風に思っています。

 

ナ:長澤さんは日頃埼玉を拠点に支援活動を続けています。関東全域にアクセスしやすいこの場所に事務所を構えました。団体の名称は「友達」を意味する「AMIGOS(アミーゴス)」、同じ地で共に生きる仲間という思いを込めました。
 長澤さん達は医療だけでなく食料の支援も行っています。食費や交通費もままらない困窮者およそ100世帯に月に1回食料や生活必需品を発送しています。発送の指揮を執るのは妻の和子さん、看護師として働きながら、長澤さんの活動を支えてきました。
 『和子さん:私なんて定年退職をした後はもう少し何か気が楽かなんて思いもあったんですけど、何かきちんと働いていた常勤で生活をしていた時とは遥かにブラック企業みたいな(笑)。でもやっぱり生活困窮されている人というのは、休みなく貧しいわけですからね、余裕ができたから少しのんびりしようとか、そんなことにはならない、なれないという思いがありますね。』

 長澤さん達が休みなく働かざるを得ない背景には、外国人が置かれている日本社会の厳しさがあります。この日、相談に訪れたのはイラン出身のサファリさん。重いうつ病を患ったため弁護士を通じて長澤さんの下へやってきました。サファリさんは53歳、30年前イランを離れ日本にやって来ました。母国での自由を奪われる辛い体験がその理由だったと語ります。サファリさんは1991年に観光ビザで来日。当時の日本は労働力が不足し多くの外国人が押し寄せていました。サファリさんもまた、建設現場で働きました。空前のバブル景気に沸いた1980年代後半、日本では労働力を確保しようと就業資格のない外国人を雇う現場もありました。ビザが切れた後もサファリさんは働き続けました。
 しかし、1990年代に入りバブル経済が崩壊。非正規滞在者の雇用を厳罰化する入管法の改定を受け、不法就労に対する取り締まりが厳しくなります。来日してから19年間、建設現場で働いていたサファリさんは2010年に逮捕されました。そして東京品川にある入管、出入国在留管理局の施設に収容、母国に帰れないとして帰国を拒むと茨城県牛久市の週洋書に移されるなど収容期間は延べ4年半に渡りました。収容中に重いうつ病を患ったサファリさんは、仮放免という制度によって一時的に拘束を解かれました。しかし、仮放免で外に出られたとしても就労は禁止されているため収入は得られません。更に、健康保険に入れないため医療費は10割負担になります。母国に帰れば、命の危険があるとして難民申請をしています。しかし、日本の難民認定率は1%未満、申請が10年を過ぎてもなお、認められていません。いつ入管に再収容されるかわからない仮放免の状態が続き、先が見えない不安を抱えています。
 日本人以外の永住資格のある外国人に準用される生活保護は、サファリさんのような外国人は対象外とされています。このような制度のあり方によって苦しむ外国人の相談が後を絶ちません。

 

長:働いてはいけない。働くな、国民健康保険もあげないよ、果たして生きていけんのかなと、こっちが逆に疑問になるような人もたくさんいます。こういった人達が結局相談に来るわけです。今ある生活を守れなくしていってどんどん「小さく」されていく。貧しい人達が作られていく、どんどん構造的に小さくされていく。国の政策で小さいところに押し込められて病気になっている人を作っている。そういうのはやっぱり私はおかしいと思う。一人一人を共に生きるものとして助ける、私が癒してあげようではなくて、共に生きるものとして生きていこうと励ますということになると思います、それが北関東医療相談会の今までやってきたことです。

 

ナ:長澤さんが外国人を支援するようになったのは28歳の時でした、社会の隅に追いやられる小さき人々と関わり続ける人生、その原点となったのは少年時代でした。
 長澤さんは1954年、炭鉱産業で賑わった北海道美唄に生まれました。

 

長:美唄の炭鉱の待ちは北海道でも有数の古い炭鉱で父親は炭鉱に勤めているわけではなくて市場に勤めていた。母と子供達4人が生活していました。

 

ナ:炭鉱の町でささやかに暮らす家族を支えたのはキリスト教の信仰でした。父親のルーツは山形県。明治時代に北海道に移り住みました。しかし、事業に失敗、貧しさに喘いでいたとき、農場の仕事を紹介し救ってくれたのがカトリックの修道士でした。一家はキリスト教を信仰するようになります。長澤さんは敬虔なクリスチャンだった両親の下で育ちました。

 

長:私はそんなに出来がよくなくて勉強もそんなにできるわけじゃない。教会に行って1人で何かやっている方が好きだったみたいですね。1人で歩いて教会まで片道10kmくらいの道を行ったり来たりしていた、そういう少年です、ちょっと変わっているかなと思います。

 炭住街の中には炭鉱労働者の住む長屋と職員さんと言われている労働者じゃない事務職の方達が生活する場所とはっきり区分けされている、そういうところなんです。炭住街の子供と職員さんが住むところの親は一緒の学校行くのを嫌だと言ったり、そういう階層の元々のしっかりとした構造的な差別があったと思います。ただ子供にとっては分け隔てなく遊ばせてもらった記憶があります。ただ、ある日、5月の連休の日に遊びに行ったら「今日はお前とは一緒に遊べないんだよ」と言われて、子供ながらに「なんで」という話で、「いや、今日はメーデーだからね労働者のお祭りなんだよ、だから町の子とは遊んじゃいけない」と同級生に言われて、石を投げられて子供ながらに千を引かれて傷ついていくわけです。それってなんなんだろうとすごいショックだった。これが私のこういう問題の意識づけの最初なのかなと思ったりもしました。

 

ナ:長澤さんが少年時代を過ごした美唄の町に変化が訪れたのは1960年代のことでした。国は石炭から石油にエネルギー政策を転換、炭鉱が次々と閉山されていきます。炭鉱での仕事を無くし、生活の糧を失った人々は困窮していきました。

 

長:自分の父親は最後、新聞屋(販売店)をやっていたので、私が大学2年か3年の頃かな、集金に行くわけですよ。段々斜陽産業になっていって、新聞代すら払うことができない家とかありますね、もう半年以上払っていないとか。おばあさんと中学2年か3年の子がいる家でテレビ1台しかなくて他に何もない、外国人労働者の今の家によく似ている。行って「すいません、お金ください」と言っても「今、お金ない」、「わかりました、また来ます」と帰って、「こうだった、ああだった」と話をすると、「いいんだよ、そういう家は追い詰めちゃだめ、新聞で困らせることがないようにしないといけない」と、でもそうこうしている内に中学生の子が、おばあさんの首を絞めて捕まっちゃった、貧しさのあまりなのかなんなのかわからないけれど自分のおばあさんの首を絞めて捕まって少年院に行かされて、だから父も「追い詰めちゃだめ」って言ったのは、そういう関係、環境にある人を、その程度のことで請求して問題を起こさせてはいけないという配慮だったのかと思います。決して困っている人達に対して冷たくはなかった。だから私達もそういう感覚は育ったのだという風に思います。

 

ナ:子供達の学費のために働き詰めだった父親のもと、地元北海道の酪農学園大学へ進んだ長澤さん。卒業後は埼玉県にある食肉加工会社に就職しました。

 

長:食肉加工は、日本の産業の中で低賃金で有名なところです。食肉加工はそうでもないんだけど食肉の方はかなり色んな階層の人達が働いているっていうのはよく分かります。それなりに地域では、非差別のような人がいたという風に思えます。

 

ナ:長澤さんは会社で労働組合を組織し、労働条件の改善やサラ金に追われている人の支援に取り組むようになりました。一方、幼い頃からクリスチャンとして育った長澤さんは近くの教会にも通い続けていました。25歳の時、同じ協会で知り合った看護師の和子さんと結婚。それを機に、教会のあった群馬県に移り住みます。
 長澤さんは教会で多くの外国人と出会うようになります。製造業が盛んだった群馬県に出稼ぎでやって来た人達でした。彼らと触れ合う中で、外国人が労働現場で強いられている過酷な現実を知ります。

 

長:イラン人の屋根から落っこちて足の骨が砕けちゃっているけど放置されてしまった人の話も、インド人火傷もそうだし、インド人の方は廃材解体業に勤めていて重油の入っていたドラム缶が爆発して全身に燃えた油を被って大火傷を負った。75%くらい皮膚が爛れてしまって、もう即死に近いだろうと言われていた。

 

ナ:長澤さんは教会で出会う外国人の労災や賃金未払などの相談に乗るようになりました。そんなある日、本格的に支援活動を目指すきっかけとなった出来事が起こりました。貧しさに喘ぐ祖国の家族に仕送りするため、フィリピンから出稼ぎに来ていた40代の男性の死でした。

 

長:フィリピン人の方が病院に入院したと癌のようだと。手術の日だと言われてそれから3日経ったのでもう顔くらい見られるかなと思って行ってみたら、「先ほど亡くなりました」と、もう開けたときはだめだったみたい、だからもう何もしないで縫い合わせて荼毘に付してこのまま帰すと、ショックというよりもどうしてここまでほっとくのかなということの方がショックでしたね。1人で死んでいく、誰にも看取られることもなく、誰も関らないで亡くなっていくというのはあの時は私にはショックでしたね。家族のために日本に来て仕送りしていたと聞いていたので、最期くらい家族と会ってから旅立ちたかっただろうなと、そもそも命はそんなに無造作にするもんじゃないだろうになと思っていて。だからその前に帰してあげることが、病院に連れて行ってあげるという作業ができなかったものか、ということが沸々と湧くんですよね。それが私にとっては本当に、そこのところが辛いですね。

 

ナ:フィリピン人男性の死から2年後、長澤さんは資金集めに奔走し仲間と共に外国人の命を守るための「医療相談会」を始めることを決意しました。当時、自らを問うようにして繰り返し読んだ聖書の1節があります。イエスが苦難の中にある人とどう関るべきかを説いた「善いサマリア人」のたとえ。旅の途中強盗に襲われ瀕死の重傷を負ったユダヤ人を同じユダヤ人の祭司や神殿に使える者達が見て見ぬふりをして通り過ぎる中、ユダヤ人に差別されていたサマリア人だけが介抱して救った、という話です。その最後はサマリア人を差別し嫌っていたユダヤ人である律法の専門家に向かってイエスが語った言葉で閉じられます、
”行ってあなたも同じようにしなさい”。

 

長:自分が嫌いな相手、その嫌いな相手が倒れていたら病院に行って治療してあげる。今考えてみると「そんなことできないんじゃない?」って思うんだけども、それをイエス様は「やりなさい」と。痛い所をつかれるな思うんだけども、それは私達のいつの間にか理念になっていって、単純に善きサマリア人である必要があると思ったのはこの事業をやっていて何人も出会うわけですね。重要なのは薬代をどうするか、治療費をどうするか、そのお金は誰が出すんだ、この課題にぶつかった時に私達の力だけではもう無理だと、私達はともすると疲れちゃうとやめちゃうんですね、あの同じですね。しかし、ずっと続けることの大切さっていうのは信仰にも似ていて、宗教者の中でもこう続けて祈り続ける、祈り続けるという言葉に代表されるように、こういう貧しい人達と対峙する時にはどうしても疲れちゃうし、時々諦めちゃう時もある。だけど諦めてもいいから関わり続ける。それが丁度重なっていくんですね信仰の問題と、自分が何をやろうとしているのか少しずつ気づかされていく、変化していくわけですね。

 

ナ:長澤さんは次から次へと際限なく続く外国人支援に取り組みながら、クリスチャンとしての信仰の深い意味を探ろうとしました。医療相談会を進めて9年、教区の司教から聖職者になる道を誘われます。49歳でサラリーマンを退職し3年後助祭になりました。しかし、その使命感から徐々に自身を追い込んでいきました。日中教会関係の仕事を終えると夜は外国人の支援、それが終わった深夜には聖書の勉強に取り組みました。睡眠が2,3時間という生活が続き、3年後うつ病を発症しました。

 

長:自殺願望が出るんですよ、1日1回夕方日の暮れた頃に、3時半頃から5時くらいまで1時間ちょっと、あれが一番つらいですね。その時は家の中に閉じこもって電気を消して時が過ぎるのを待つ。私は電車に飛び込みたくなっちゃう、だから電車の近くに行かなかった。それが1ヶ月半くらい、40日続いたんですかね。

ナ:暗闇に閉ざされた日々が続いたある夜、夢の中で長澤さんは自分に向かってこう語りかけるイエスと出会いました、”私についてくることがどういうことかおまえに教えてやろう”

 

長:「私についてくることがどういうことかおまえに教えてやろう」、それぐらい大変なことなんだということをもしかすると言っているのかなと、もしかするとそういう風に仰っているのかもしれない。私はうつになったとき、自分が病気になって大変だったわけですよね。で自分の病気のことで苦しむ。それは小さくされていく自分も感じているわけですよ、だから私は自分が痛い思いをして初めて人の痛みに近づいたということを教えられたような気がするんですね。

 

ナ:イエスの教えを実践していくことの厳しさと共に、長澤さんの心に湧き上がってきたのは、どんな困難があってもイエスが傍らにいるという実感でした。

 

長:やっぱり人間弱いからね、何でもすぐ躓いちゃうから。躓いても何してももう一回やっていくということがことが大切だっていう。なぜって聞いたら、私の隣には私達の神がいる。だから安心して一緒に歩きなさいって、ということだと

 

ナ:1人のフィリピン人男性の死から始まった医療相談会。群馬の相談会場には次第に他県からも相談者がやって来るようになりました。それに導かれるように会場を栃木、埼玉、東京、茨城、千葉へと広げ、「動く病院」として走り続けてきました。相談会を重ねること63回、それは公的な支援を受けられず、日本社会が目を閉ざしてきた人達から「命の尊さ」を学ぶ歩みでした。

 

長:フィリピンの男性の方が亡くなって、医療相談会スタートして2年くらい経った時に、こういう人がいたら次は亡くなる前に帰そう。すい臓がんの女性がいて、一生懸命やってフィリピンに帰したんです。この人も結局フィリピンに帰ってから2週間後で亡くなったのかな。家族のコメントがフィリピン領事館通じて来たんですよ。帰って2週間の間、娘とも会って、家族とも十分時間とって、感謝します」と言われて、私はとっても嬉しかった、本当に。ああ良かったなって、生きてる内にね家族に会って、20年娘に会ってなくてせいちょうした娘に会って、お互いに別れを告げて天に行ったんだと思うと、これが私の幸せだと思いましたね。ああ、こういうことをやることも命を守ることなんだって、今になって改めて実感としてこう思います。だから、命を粗末にするような今の制度についてはやっぱり声を出して守っていかなくちゃいけない。どんなに小さくされていって制度を削られてって、もう機械的に削られていく、日本の行政によって削られていくことによって命が削られていく、それに対して宗教をしているものとしてはね、人間の理屈だけじゃないんですよね。神から貰った命をそんなに削らなくたっていいじゃないか、何の権利があって削るんだ、って言いたいですよね。それが私のやっていることだと思う。

 

ナ:日本国憲法によれば、”すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利”を保証されています。一方、命を守るセーフティーネットとしての生活保護は在留外国人の場合、永住者などにしか準用されません。そこから零れ落ちる人は120万人を超えています。 母国に帰れない人の高齢化や経済状況の悪化によって外国人の健康は増々脅かされ深刻になっていると長澤さんは感じています。入管の前に在留資格を求めて延々と続く外国人の列、長澤さんは1人のベトナム人青年に付き添っていました。6年前、技能実習生として来日したクインさん、技能実習ビザからコロナ禍で国が特例として出した短期滞在90日のビザに切り替えた後に、命に関る腎臓の病気が発覚しました。健康保険が使えないため、クインさんは既に300万円近くを借金し、治療に関る費用を支払い続けてきました。
 長澤さんはこの日、健康保険が適用される在留資格を執ることができないか入管に掛け合いました。4時間に及んだ交渉、しかし、健康保険が適用される在留資格を得る見込みは立ちませんでした。長澤さんは助成金の申請や市民からの寄付を募り、治療費を可能な限り受け持つことにしました。

 

長:(医療相談会を始めて)まるまる25年過ぎたところですよね、変わってないですね、ますます深刻になる人達が集まってきている。本人は自助、自分では何もできない、自助はできません、公助になると在留資格がないから何も手助けできません。あるのは共助だけ、こういう状態を私達はそれこそ見逃してはならない。国が困ってる人を見て見ぬふりをしていた時に、やはり声をかけていかないといけない、訴えていかなくちゃいけない。声に出せない人の代わりに声を出す、訴える、こういう作業がやっぱり必要ではないかと思います。

 

ナ:人々の罪を背負い十字架にかけられたイエス。その死後、イエスが葬られたところを訪ねた人達は、そこに座っている白い衣をまとった天使に出会います。天使は言いました「あの方は復活なさってここにはおられない。あの方はあなた方より先にガリラヤへ行かれる。かねて言われた通りそこでお目にかかれる」

『長(ミサの説教):今日であったスリランカ人の家族、仮放免の4人家族の生活が破綻しないよう導いてください。』

 

長:復活されたイエスは一番最初にどこに行ったかというと、エルサレムのような都会ではない、王様になったわけでもない。貧しい人達のところに行って共に生きようとした、そこが大切なことではないか。
 私にとってみればガリラヤで貧しい人達のために支援ができるのは、大変な人達だけども関っていることですごい安心なんですね。
 私、時折イメージが出てきて、自分が土地を耕している毎日コツコツと、でも振り向いたらたくさん耕されているように見える。自分の心を作っていく、作り上げていくことができている。もちろん足りないところがいっぱいあるし、いくつになっても変わらないところもいっぱいあるし、だけどもそこことだけではなくて、貧しい人達と共にこう生きている、その人と共に生きていくことで私自身の心が耕されていくんではないかと。自分が関わってる人と共に生きていて喜んでいる、私が喜んでいる、彼も喜んでいる。まあ今風に言えば「Win-Win」って言うんですかね。まあ、私も喜んで、彼も喜んで、私も泣いて、彼も泣く。そういう関係が私が続いていける関係なのかな。
 今はできないけども、明日何かできることがあるかもしれない、という考え方でずっと関ってる。明日がだめだったら明後日にかけてみよう。ずっとこの連続でした、だからそれで私の神に頼む心も耕されて出来上がっていってるような気がするんですね。時折、説教、こんなこと言っていいのかな、よく分かんないけど、説教台で説教するでしょ、そうするとね、この辺にねイエスが出てきてね、ポンと出てきてね、2人で話すんですね。それは他の人には見えない、それがほんとに楽しみ。突然、「うん?」って、共にいるイエスと共に貧しい人のところに行って、イエスだって今日できなかったことを私の責任にはしないし、「俺が悪かった」とも言わない。だから明日また2人で頑張りましょうね、という結論かな。

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2022/8/14 こころの時代~宗教・人生~ 私の戦後70年「今、あの日々を思う」(再放送、初回放送:2015/10/11)

堀文子:日本画家(2019年逝去)
浅井靖子:ききて

ナレーター(以下「ナ」という):  日本画家堀文子さん。今年97歳を迎えました。
堀: これね、私の大好きな草なんです。ミシマというんです。
ナ: 今年の春、神戸の美術館で堀さんの展覧会が開かれました。描いてきたのは、いのちの世界。「一所不住・旅」と題された展覧会には、5万人を越える人々が訪れました。「一所不住」は、堀さんが作った言葉です。
 画家としておよそ80年。住まいを変えながら、また世界を旅しながら、その時々の自分に安住せず、絶えず新たな美を追究した歩みを表しています。およそ130点の作品が、時代を追って紹介されました。
 旅の始まりは、1939年。美術学校の学生だった時に描いた自画像です。日中戦争が始まり、国家総動員法が制定された時代の作品です。自由は命懸けのこと。戦中から戦後にかけて、堀さんは師弟関係に縛られた伝統的な日本画壇とは一線を画し、革新的な日本画を模索していました。
 時流をよそに、脱俗を夢見て、私は一処不住の旅を続けてきた。創造とは、自分の血肉の中から湧き出るもの。西洋を放浪し、その国々の美を見て平面の中にその奥にあるものまで含めて描く東洋の表現に気付いた。
 絶えることなく、一木一草に流れるいのちの響きは、私に生き物の掟を教えた。大地を見つめる顔は敗北ではなく、その痩せた姿にも解脱の風格があった。その顔いっぱいの種は次のいのちを宿し充実していた。
 展覧会の会場に飾られた最新作は、去年描いた冬枯れの萩の姿。95歳の堀さんが、自宅の庭の枯れた萩の枝に命の痕跡を見つめた作品です。戦後70年の夏、堀さんを神奈川県大磯の自宅にお訪ねしました。
 
浅井(以下「浅」という):あの先生は、「一処不住」って、一つのところには長くは住まない。
堀:住まない、そうですね。やっぱり私は、感覚、目の職人なもんですからね、ものが慣れてくると、ものを見なくなるんです、知っていると、だからなるべく知らない方がいいのでなるべく家も変えた方がいいんです。 やっぱりキツネでも、野生動物は巣を知られると危険なので、絶えず巣を変えますからね。私も野生動物のようなもので巣を変えるんです。 
浅: 今はこの一間(ひとま)を中心にお過ごしでいらっしゃいますね。
堀:そうでございますね。でもやっぱり庭の自然は自力で生きていますからね。どんな雑草でもね自分の力で死ぬまで生きていますのでね、それを見ることが私の今の刺激です。
 今日はね、もうドクダミが終わりましてね、それでカンゾウが昨日咲きましたけど、もう蕾でございますから。自然は誰の力を借りずにね、自分の出番を間違えずにちゃんと咲きます。私はね、今寝るだけでございましてね、夜中にいろんな夢を見ます。ですからね、今までの百年近い人生の夢を見る中で、一番多く出てくるのが幼い日の夢ですね。ですから如何に子供がこの世に初めて生まれた時に、この世を見て驚いた時の印象が如何に強かったかがわかりますね。何の概念もなしに、この世を見たんですからね。その印象の強さが今死にかかっている私の夢枕に立ちますね。不思議ですね。

ナ:堀さんが生まれたのは1918年。第一次世界大戦終結した年でした。生家は、皇居や政治の中心にほど近い東京麹町平河町(こうじまちひらかわちよう)。旗本屋敷の名残が残る街に育ちました。姉2人が続いた後に、一家待望の長男が誕生。堀さんはその次ぎに生まれた三女でした。母は明治生まれには珍しい高等女学校で学んだ人でした。父は、中央大学西洋史を教える歴史学者、子供には黙って本物を見せるという人でした。中秋の名月を見るためにわざわざ江ノ島まで行こうと言い出す父に、姉妹たちは逃げだし、一人お供をしたのが堀さんだったと言います。

堀:三宅坂というところがございますね。外堀がありますでしょう。あそこの近くで遊んでいたんです。あそこへ下りてはいけないと厳しく躾けられておりました。お堀に落っこっちゃうから。
浅:あの界隈ですと、政治の中心でもあった場所で。
堀:私、国会議事堂ができる時に、ちょうど私の近くにね、石を積まれて、工作の人が入っていましたから、「あそこへ行っちゃいけない」って厳しく言われて、10年ぐらいかかりましたね。だから議事堂が建つのを知っているんです。なんという江戸人ですね、百年近く前の思い出です。
 私、小さい時にね、自分がどこにいるかということが気になったんですね、ここと同じでね。そうすると、「麹町平河町というところだ」というのね。だから麹町平河町というところの場所なんだなと思っていると、「東京」ということをいうから、「東京ってどこ?」というと、「何言っているの。ここが東京なんですよ」という。そうすると、何だか神奈川県とかというのと、また何だかおかしくなってきて、それである時、私の叔父がドイツに行ったんです。そうしたら、ドイツという国もあるらしいというので、だんだん空間が広がっていったことの驚きは克明に覚えておりますね。ああやってわかっていくんですね。猫の子が自分の居場所がわかるようにぐるぐる回って見ているのと同じでね、ほんとですね。「日本というものがある」ということをそこで知るわけなんです。で、「外国というものもあるらしい」という。だからだんだん空間が広がっていくのをビックリしたのを、もの凄い驚きを思い出しますね。変な子でした。
浅:ここにいらっしゃるのが堀さんでいらっしゃいますね?
堀:これ私ですね。私の兄ですね。だから私の姉ですけどね、私の弟を抱いているんです。サルスベリの木にね、縄を掛けて、そこでブランコしたりしていました。父親が庭風に庭を造るのが嫌いでね。自然と同じようにしておいたもんですから鬱蒼としておりました。それから草花を植えると叱られるの。昔の庭園はね、そんな花物なんて植えてないんです。大木で、できるだけ花の咲かない木を植えていましたね。松だとか桧だとか、泰山木の木が一本だけございましたね。真っ白い花ですから許したんでしょうね。

ナ:大正から昭和へ、堀さんは日本を揺るがした数々の出来事を体験しています。変わっていく日本の姿を見つめていました。1923年9月の関東大震災は、平河町の自宅で経験しています。

堀: 私はね、満5歳の時に、関東大震災がそこの家で起こったんです。そしてその時に、私はその頃まだ日本国中が着物の時代でね、子供でも男の子でもみんな着物で、草履を履いておりました。下駄を履いて、喧嘩をするにも。それなのに私は、舶来品の家から洋服を買って貰ってね、その日の朝から洋服を着ていたんです。それに靴を履いているところに大地震が起きたんです。それからね、庭中があの小さな池がございましたけどね、池が何だか火山のように立ち上がって、水がビュッ!と立ち上がって、金魚や鯉が庭に投げ出されてばんばん大変な騒ぎになった。そこへもってきて、姉とか大人たちが裸足で転げ回っているの、立てないから、地震で揺れているから。それで私は靴を履いているから、「いいや」と思ってね。威張って、後からゆっくり出て行くの、覚えています。母は台所にいました。お昼時分でね、私は、「お母様!」と言ってね、飛んで行ったの。母が虚ろな目をして、私の方なんか見てないの。何だか私を、「あぁ、おまえさん」と言わないの。いつもの母に頼もしくないの。ですからその時に私は、母と雖もこれはただ事でないんだなというのがわかったのを覚えている。それで誰にも頼れないんだなというのがわかったのを覚えています。
 今でも鮮明にね、夢にも現れてきますけどね。泰山木の木に大きな太い幹を、枝の所を雌のカマキリのお腹の大きいカマキリが、こういうふうにしながらジッとこっちを三角の顔で見ながらゆっくりと上がって行くの。あんなのが目に焼き付いていますね。人間はこんなに狼狽えているのに、何でカマキリは偉いだろうと思った強い印象が忘れられないですね。ですから子供は観察しているんですよ。侮っちゃいけませんね、五歳までの子供を。カマキリの顔まで覚えています。お腹の大きい緑色のカマキリがね、こうしながらゆっくりゆっくりと木を上って行くの。何でそんなこと思い出すんでしょう。人間がこんなに狼狽えているのを、カマキリは平気なんだなという印象が強かったんだと思います。
 父は歴史学者でしたから、インテリの最たる人でね。私はあれほどインテリというものの厳しい姿勢を見たことのないような人でした。その人が、「日本は危ないぞ」と言って、私たちを躾けていたんです。ということは、「どうも陸軍の動きが危ないと、怪しいと。陸軍は世界のことを知らないからね、調子に乗っていて、今に何をするかわからない、非常に危険だよ、日本の未来は」って。「学校で教わる歴史はみんな間違ったことを教えている」というんです。家で躾の通りにしていると価値観が、3つ4つに分かれるわけ。やっぱり歴史の本を書き替えられに行きましたから。
浅:と言いますと?
堀:例えば、南朝とか北朝とか言ってね。「北朝が悪くて、南朝が良いとかね。そうじゃなくて、後醍醐天皇も悪い、バカだったんだ」なんて言うんですよ、父がね。「楠木正成なんかがどのくらい困ったかね。この本を見てみろ」なんて、群書類従なんて出すの。ですから私は、もう天性矛盾の中から生まれているんです。その通りにやっぱり国家がだんだんに戦争に傾いていきました。それでそれまでは麹町の平河町ですから永田町小学校というところへ通っているんです、庶民の学校ですね。隣が宮家なんです。閑院宮、それから下の方に伏見宮とか、宮邸があって、毎日天皇がまさに皇子でいらっしゃった時に、東宮御所から宮城へお通いになる時、永田町小学校の前をお通りになるんです。それでね、それまではお辞儀をしていたんですけど、朝来たら警察が「小学校の1階から外を覗いちゃいけない」という御触れが出るの。どんどんどんどん警察が絞めてきましたね。
浅:見ちゃいけないというのはどういう意味ですか?
堀: つまりそういう親しんじゃいけないわけです宮廷と、神なんだから。周辺には大使館が並んでいるんです。その頃世界を牛耳っていたのは英国でしたから、英国大使館に勤めている人の息子なんて、学校中が英雄のように騒いでね。中国の公使館の人なんか奴隷の如くに扱っていましたからね、いけませんね。中国は大使館でなく、公使館なんです。それで中国の人をバカにして、みんなが「チャンコロ」とかなんとか言って、酷いことしているんです。ですからそれに対して、私は一心に日本の罪を背負ったような気になっている子供でした。関東大震災の時なんか、「朝鮮の人が井戸に毒を投げた」とか言ってね。町内の連中が見つけ次第殺したりしたんです、朝鮮の人々を。酷いことをしたんですよ、日本人は。ですから国際紛争なんて、そういうところから起きていくんですね。

ナ:1931年、堀さんが、府立第五高等女学校に入学した年、満州事変が起きます。関東軍は自ら起こした鉄道の爆破事件を口実に、武力で旧満州中国東北部への進出を強めます。翌年には満州国が建国。その頃不況が長期化する中、農村の疲弊が深刻さを増していました。国は、農民たちを開拓団の一員として続々と満州に送り込んでいきました。
 堀さん、17歳の時、二二六事件が起こります。自宅のすぐ側を兵士たちが取り囲みました。同じ年、ドイツで開催されたベルリン・オリンピックに、日本はそれまでで最多の選手団を送り込みます。人々は選手たちの活躍に熱狂していました。

堀:  それで私を育てたのは、乱世だと思っています。ものを見る目がちゃんとするようになったのは。1つの世論に動かされない人間になりましたね。世論に刃向かうということは不可能に近いです、興奮状態になると。その時にやっぱり好きなのはスポーツと、それからつまりふしだらな女とか男のスキャンダルが大好きになりますね。ちょっと似ているじゃないですか、今。熱狂的でしょう、スポーツに。オリンピックなんていうと、何十兆もかけても平気だなんて言い始めちゃうでしょう。恐いですね。
浅:日本が戦争への道をこう大きく舵を取っていった一つのきっかけになったのが、二二六事件という。
堀:  二二六事件も経験しております。私の家から半径500メートルの中で起きたんですから。やっぱりただ事でないぞと、これはね。新聞にも載っていないし。だからどうも歴史の変わり目なんかの大事件かも知れないから、この目で私は確かめなければと思ったんですね。やっぱりそういう癖がありますね、私には。
 私が朝ね、平河町の家からね、私の学校は新宿にございまして、三宅坂から電車に乗って新宿へ行くんですけどね、三宅坂へ行こうと思っても、街がバリケードでね、軍が、兵隊が全部角口に立っていましてね、バリケードで道が開けてないんです。それで私ね、学校へ行ってから、「今朝おかしくなかった」というと、「全然おかしくない」と言うの。みんなお住まいが郊外なんですよ。中野とか、東中野とか。ですから帰って来ましたら、四谷見附からこっちは通れないの。軍が支配していて。私は反軍思想でね、怒っていたもんですから、「何故そう用もない人を止めるんですか」って言ってやろうなんて思っていた。そうしたら「どこへ行く!」と銃剣をここ(首)まで突き付けられたらね、わなわな震えて。私は、武器とかね突き付けられたら、人間は何にも抵抗できないというのをあの時覚えましたね。こんな子供によ、銃剣で「どこへ行く!」って言われた時に震えちゃって返事もできない。「家、家、家」なんて。ですからやっぱり武器を持ったらそれに抵抗はできないですね。武器を突き付けられたら。その時わかりましたね。
浅:その二二六事件の最後までをつぶさにご覧になったわけですね。
堀:見ました。父と私と姉妹が一人ぐらい居たかしら。前の日なんか軍がいよいよ明日から戦闘を始めるから畳という畳を永田町の方面の窓の下に積んで、「そこに潜め」と言われましたよ。もう逃げることもできなかったんです。ですから命を避けてね、やっぱり自分を死ぬか生きるかという思いをするのは、あの時が一番ですね。
ナ:2ヶ月後、堀さんは女子美術専門学校日本画部に入学します。当時西洋の絵は印刷物でしか目にすることができないものでした。本物を直に見て学びたい。それが堀さんが日本画を選んだ理由でした。翌年日中戦争が始まり、政府は国家のために奉仕する国民精神総動員運動を推進。帝国憲法に反するとの声もある中で、国家総動員法を制定して、労働や物資、言論などを統制できる体制を作っていきました。

堀:軍が支配して、学校という学校を軍が支配していくんですけどね。女子美術なんていうのは、誰も支配しないの。それが最後には支配されました。教頭が一人ひとり呼んで、「あなたは何のために絵を描くのか」と言うの。「何のため」ってね、「誰のために」というか、「私のために描く」、「違う。それは危険思想だ」という、「天皇陛下のために描くんだと言え!」と言うの。そんなのあなたはバカって思うでしょう、それほどね支配したんです。恐いですね。ですから「天皇陛下万歳!」みたいにね。国中のものを天皇のために命を惜しまないというふうにさせていくわけ。冗談じゃないですよ。「私、天皇陛下のために描くんじゃなくて、冗談じゃないよ」なんて言うものなら大変な騒ぎです。そんなことになるんですよ、道を間違うと、今だってまたなりますよ。
浅:堀さんが、絵の道を選ばれたのは?
堀:私は戦争に関係したくなかったので美に近づいたんです。美だけは利用のしようがないでしょう、衣食住なんの役にも立たないものなんだから。役に立たないものだから選んだんです。何をやったって上手ければ戦争に利用されます。
浅:その時代は?
堀:その時代は、そうなんです。人殺しの片棒を担がなければならない。ですけどね、美だけは人殺しに関係ないから、ないでしょう、美なんて役に立たないんだから。役に立たないものなんかね、本当に蛇蝎のごとく嫌われて、誰も世話してくれないですから。

ナ:1940年、女子美術専門学校を卒業した堀さんは、家を出て経済的に自力する道を求めます。しかし当時は未曾有の就職難。美術学校を出た人は、教師になる以外働き口はありませんでした。年若い人たちに指図をする仕事は自分を堕落させると考えた堀さんは、東京帝国大学農学部で作物の記録係の職を見つけました。

堀:その前に、私ね、芋虫の幼虫の絵を描かされていたの。だから私が世の中で一番嫌いなのは、芋虫と毛虫なのね。そいつの細かい絵を描かされ、あれは標本にならないんです、柔らかいから、乾かないから。それでこんな嫌なもの描いてね。だけど私これに耐えられないような人間ならろくなものになれないだろうと思ってね、泣きながらやりました。やっぱりこのくらいのことに耐えなくて、どうして一生が送れるだろうと思って。ですから芋虫の絵を描いていた時もあります。でも農学部の方が作物教室だからいいと思って喜んで行ったんです。何という教授でいらっしゃったかしらね、胃の悪い先生でいらっしゃって、「堀さん堀さん」なんて言ってね、「そば屋へ行ってください」とか言って。私は恥ずかしいのね、学生の中を歩くのが。女が男の中にいるというのは恥ずかしかったんですよね。そんなのにお蕎麦なんか持ってね、本郷の道路を渡るあの恥ずかしかったこと。女は大学へ入れなかったんです。ですから私は科学者になりたかったけど、やっぱり不利だから止めたんです。だから一番不利な絵描きになったんです。ですから麦だとか、いろんなお蕎麦とか、そういうものの作物の絵を描けばいいんですから、発芽とかね。
浅:それは面白いもので?
堀:ええ。それが私が自然を見る目を養う基礎になりましたね。とにかくできたものじゃなくて、種からどういうことになって生命が生まれるのかというのを克明に見たことは良かったと思いますね。

ナ:堀さんは、作物の記録画を描く一方、新美術人協会の公募展への出品を続けます。会を結成した福田豊四郎たちは、師匠と弟子という関係がものをいう画壇のあり方を批判。自立した一人一人が、自分自身の絵を描くことを志していました。絵の素材や構図も、伝統的な日本画にとらわれない実験的で斬新な表現を模索、熱気に溢れていました。しかし戦局が厳しさを増す中で、若い男性たちは次々と出征。作品を発表する展覧会や画材の流通は統制され、時局に適う題材が求められるようになっていきました。

堀:どこから探してきたの。あらぁ嫌だ嫌だ。へぇ、こんなの描いているんですね。やっぱり題材として面白いでしょう。女だし、働いている女だし、それから、へぇ驚きました。

ナ:堀さんは、同じ新美術人協会に所属する画家柴田安子さんと共に落下傘工場を取材。工場を題材にした3枚の絵を描いています。

堀:男はみんな軍に使われました。私だってね、やっぱりあんまり反抗していたらね、絵の具も買えなかったんですから、紙も。そうなんです。画家という範疇から剥奪されちゃう。絵の具も買えないの。そういうふうになるんですよ。一朝ことあると。恐ろしいことですね。画家でないとね、軍の色んな機具を作る女工さんにさせられるので、やっぱり少しは協力したようにしなければならないので、私は落下傘は女の人で絵になるなと思ったから落下傘工場を選んだんです。確かに面白いでした。だって題材がね、戦場じゃないんですから。布と紐と女工さんですからね。女工さんの群像が描けるじゃないですか。だからそれは一生懸命に描きました。
浅:働いている女が絵になるというのはどういうお気持ちでいらっしゃったんですか?
堀:やっぱり群像が描きたかったから、人間の。だけど落下傘を作っているんだから、あんまり罪深くないじゃないですか、罪深くないですね。やっぱり飛行機だとか、あの弾丸を作っている工場なんか行かないですよ。
 私は戦争反対者でしたから危なかったですから。ただ治安維持法というのが作られましてね、犯罪者になるんです。すぐ投獄されたんです。そこで死んでしまうわけです。私も最後まで、集まる人は戦争反対していました。その中の誰となし一人一人いなくなりましたね。だから満州かなんかへやられた、飛ばされたと思いますね。それから密告者がいるなということも感じました。何だか用もない奴がいつもいるの。にやにやしたようなのがね。そういう人がやっぱり軍からいろんな集団に配置されていますね。「隣組」なんて密告集団ですよ。そういうふうに思いました。
浅:そういうことを経験されているからこそ、今、この時代に積極的に発言なさりたいという。
堀:非常に危ない危険な今状態で、今なら国民が競って反対すればいいんですから。しかし女とマスコミがしっかりしていれば防げると思ったけど、今両方が危なくなっているの。女が綺麗になりたい。美味しいものが食いたい。それから若返りたいとか、子供っぽく声を張り上げて、アナウンサーまでヒーヒー声で聞こえないです。成熟した大人の声じゃないですか。敬語がなくなるし。ですから日本が非常に危険な瀬戸際にいるように思えてしょうがないです。
 国家なり権力に反抗するには、相当の勇気と知恵が要りますね。やっぱり下手すれば牢獄に繋がれるんですから、何するかわからないですよ国家が野心を持つと。私だって赤いシャツを着ているだけでね、捕まりそうになりましたもの。反戦の奴がいるということになる。
浅:赤いシャツがですか?
堀:私は赤いものが好きだったりしてね。そういうことを自分の好きなことをやっていましたから。そういう軍国主義に反対するようなカーキ色かなんかでないといけないんです。ただそれでさえも拒否して軍に捕まるのだけは御免被ると思っていたから。軍に捕まらないための知恵は働いていました。
浅:堀さんが、自由が狭められていく時代によく山に行かれて。
堀:山歩きをしておりましたね。自然があったから。やっぱり山の中で何日も過ごすのが大好きでしたね。ただ私は天性考えてみると、母親が信州の人でしたからね、山国にいたんですね、何百年か。それが私のDNAが私の中に騒ぐんじゃないでしょうか。関東は山が見えないからね、飢えていたんです。ですから私の初期の絵には全部猫の絵でも何でも山が描いてあるの、一番後ろに山があるの。そうすると落ち着くんですね。だから人間には先祖からの血の中にDNAで好きな風景やなんか残っているんじゃないでしょうか。やっぱり自然が救ったと思うんですけどね。
 私八ヶ岳に狂いましたね、一時ね。大好きでしたね。だからあそこで蜂蜜屋になろうかなんて思っていたことがあるくらい。だってね、戦争になってきましたからね。生き抜くことは。文化を伝えるのは女だなと思ったから。男は全部殺されちゃうしね。ですから女が蜂蜜屋かなんかになってここで生き残るべきだなんて決心していた時があります。

ナ:堀さん、27歳の時、日本が敗戦。一家が暮らしていた平河町の家は空襲で跡形もなく焼かれました。父からの教えで戦争に批判的だった兄は中国で戦死。堀さんのもっとも良き理解者だった弟も学徒出陣、満足な治療を受けられぬまま病気で亡くなりました。共に美を追究した仲間も志半ばのまま戻っては来ませんでした。堀さんは東京青山にバラックを建て、生活を始めます。男手を失った一家の家計は、堀さんが本の装丁や挿絵の仕事をしながら支えることになりました。特に子供のための絵本を描く仕事に、堀さんは力を注ぎます。食べていくための仕事の一方で、戦後新しく始まった公募展への出品に取り組みました。
 泥水をかきまわし、その混沌のなかから顔を出すようにして、いつも私の絵は生まれてきた。人は必ずその絵の意図や説明を聞きたがるが、私の作品には主張も意図もない。「こうなってしまった」と答えるしかない。

堀:私、もう死ななくていい日がきたというあの喜びはないですね。天皇の「忍び難きを忍び」という、あれでどれだけ喜んだかわかりません。もう毎日死ぬかも知れないという毎日でしたから。侵略なんですから、平和な人民を殺して歩いたんですよ。私の兄もそこへいって戦死しました。可哀想にどこで戦死してどんな思いで死んで逝ったのか、もう今思えてしょうがないです、辛くて。もう兄に申し訳なくて。だけど戦争が終わってみると、みんな「反対した」って言うんですよ。その時黙っていた癖に。
浅:この頃先生、どんなお気持ちで描いていらっしゃったか覚えていらっしゃいますか?
堀: 私は絵が売れるなんて思っていないし、私のそういう態度でそんな売る絵なんか描けると思っていないから、印刷物がここまで発達した時代に大衆と結び付くのは印刷物だと思って、いろんな雑誌やなんかに印刷物でカットやなんか描かして貰って、命を繋いでいました。でもよく描けましたね、花だの鳥だのなんてカットを描いて新聞に使って貰ったりしていた。大衆の中で生きるためには印刷物しかないじゃないですか、やっぱり絵を売るなんていうことは、画商さんが大体逃げますから、私を。誰かの有名な人の弟子でもない絵描きなんか相手にされない。そんなもの描いていたってしょうがないじゃない。だから金持ちのお慰めになるだけじゃない。そして金持ちだってね、私の絵がほんとに好きじゃなくってお蔵にしまっちゃうんでしょう、大衆と結び付かないじゃない、そんなの堕落するに決まっているから。私ね、印刷物として生きていこうと思って稼ぎまくったんです。
浅:堀さんは、子供向けの絵本だといっても、
堀:子供におもねるようなことはしません。ランドセル下げてね、四月の入学のあれなんて、ああいう子供を堕落させるようなことは加担しませんでした。子供は最高のものを見せなければいけないと思っているから、一心不乱に描きましたね。
浅:絵本っていうのは子供が初めて出会う絵ですね。
堀:その時にね、やっぱり最高の美を見せないとダメになるんです、その子は。最初に見たものによって堕落していきますからね。
浅:戦後子供のための絵を描きながら、朝鮮学校の教科書の挿絵を、先生お描きになっていたという。
堀:ええ。私、朝鮮の人を酷いことしたなんて申し訳なくて。朝鮮の人と大変親友になってね、そこの教科書を描くました。そうでしたそうでした。その朝鮮の方を大事にしていたのは確かです。だけどそれで私の絵を教科書で使うとかというお話のあったのを覚えていますけど、何を書いたか覚えていないです。

ナ:教科書は終戦後日本に残らざるを得なかった朝鮮半島出身の人たちが、子供のために自分たちの学校を作ろうとする運動の中で生まれたものでした。堀さんはその教科書の挿絵を引き受けていました。
 堀さんが1958年に描いた作品「連峰」。今年の夏この絵の下からこれまで知られていなかった作品が見つかりました。人々が海辺で集うこの絵。切り紙細工のような手法で、様々な人間の姿が描かれています。「わたくしたちの憲法」は、1947年に施行された新しい憲法を、子供たちにもわかるよう噛み砕いた言葉で表したものでした。堀さんはこの文の挿絵を担当。国民が主権者となって二度と戦争の悲劇を繰り返さないという憲法の精神を、同じ切り紙細工の手法で描いています。

堀:憲法が制定された平和憲法で、戦争しないという宣言をしたということには感動しましたね。それでそれをね、有斐閣かな、どこかから私に絵本を作ると言って、私に挿絵を担当しろと言ってきたの、私感動したんですね。だけど憲法は人間の問題ですから、人間をどう表現するかというのに、ああいう形をとったんじゃないかしら。人間のリアリズムの人間なんて描いたってダメじゃないですか。ですからましていわんや男が背広を着ている絵なんて描いたってなんの意味もないでしょ。だからやっぱり切り紙で作る。基本的な一筆書きみたいな人間の形を作ったのは覚えています。私は多分興奮状態だったと思いますね。ああ、素晴らしいことになったんだと。

ナ:1961年、堀さん、43歳の時、初めて海外へ3年間の旅をします。エジプトからギリシャ、イタリア、フランス、アメリカ、メキシコと、文明の跡を辿りながらその土地と人間とを見つめる日々を過ごしました。「昔の絵はもう描けない。私はいつも己と一騎打ちをしています。」
 「大磯の高麓山の麓で始めた山暮らしは、長年の都市生活者の自分を脱皮させ、自然の中に生かされている本来の人間に変貌させてくれた。」
 「山に住み、草木と呼吸を合わせながら日々を送っていると、万物流転の定めが、素直に我が身にしみるのである。」
 「収穫量など頓着なしに赤い罌粟を好きなだけ咲かせている村人の心の豊かさ。風景は思想だという思いが体の底から突き上げてきたあの日の衝撃。」
 「標高5,000メートルのガレ場を好むこの花の毅然とした生き方。寄り掛からず、媚びず、たった一人で己を律する姿勢に、私は共感した。」
 戦後70年夏、堀さんは、大磯の自宅で大きな選択を迫られた日本を見つめていました。

堀:物事が崩れ始めると、ガラガラガラガラと崩れちゃいますよ。ですから崩れない前に騒がないとダメですね、今騒がないとね。日本、また何するかわからないです。というような気がしてしかたがないです。
浅:それは堀さんご自身のご体験の中から、かつてご覧になって?
堀:そうですね。やっぱりね、あんなバカな無謀の戦争を日本人がするはずがなかったのに、やっぱり日露戦争でちょっと勝ったのが、あれではしゃいだんじゃないでしょうか。あれから日本が間違い始めたような気がするんです。まあそれは私は学者じゃないからわかりませんけど、私の感覚ではね。そうすると今戦争の地獄を忘れちゃって、なんとなしに今の政府がもう一度勢いのある日本を取り戻したいと思っているような気がしてね。いちいちいちいち「自衛隊を派遣したい」とか言い始めているじゃありませんか、憲法を変えようとかね。非常に危険だと思っております。あの憲法を守り通して戦争を放棄した国として生きるべきだと思いますね。どんなに軽蔑されてもいいから人の命で戦っちゃいけませんね。
 
ナ:堀さんが、この夏描いた作品が完成しました。

 

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