eraoftheheart

NHK「こころの時代〜宗教・人生〜」の文字起こしです

2023/1/29 生き延びるための物語

小松原織香:哲学研究者

これると嬉しいです。

ナレーター(以下「ナ」という):哲学研究者小松原織香さん。戦争や犯罪被害を受けた「その後」、人はどう生きるのか、考えている。
 ベルギーの大学で2年間、環境破壊後のコミュニティ再生などの研究を行ってきた。

『取材者:元々英語って大学の頃から普通に?
小松原:いいえ、全くできませんでした私。英語を使うようになるとはもう全然思ってなかったし、子供の時から全然興味がなかったんですけど。
 もうなんか普通にしようと思うんですけど、あまりにも非日常的で、どうしていいか分からない』

ナ:「当事者は嘘をつく」、小松原さんは去年、自らの経験を元に1冊のエッセイを書いた。
『私の研究の背景には長い長い物語がある。私の研究の情熱の源は、自分自身の経験にあった。私は回復した被害者ではなかった。痛む古傷を抱えながら生きているサバイバーだった』

ナ:19歳の時、知人男性から遭った性暴力の被害、そして研究者となる半生を綴った。
 この1冊の本をめぐるドキュメントが始まる。
 これまで公の場で自分のことを語ってこなかった。今回、3回のインタビューに応じた。
苦難に遭った後、人はどう生きるのか。

小松原:なんかあんまりチープな物語を作らない方がいいと思ってるんですよ。だから、本を出しました。それで自分のカムアウトとして、アイデンティティーが変わりました。当事者として、お話できるようになったから、今度は国際学会でそのことについて話しましたっていうのはチープだと思うんですよね、私すごく。
 結局その何か、災害であれ犯罪であれ暴力であれ、何か起きた後に人がみんな集まってくるけど、でも、本当の当事者の人生ってのはそこがスタート地点で、そこからもずっと生きてかなきゃいけないんだけど、なんか、どっかで肯定したいというか、自分のその起きてしまったこと、性暴力が起きたことを、なんか、その性暴力自体は別に肯定したいわけじゃないけど、そういう人生がなんか「自分の人生最悪ではないぞ」って思う気持ちがあって。

ナ:本の「まえがき」にはこう綴られている。
『この物語は真実だが、私は常に「嘘をついている」と思いながら語っている。あなたが、私の言葉を疑う以上に、私は自分の言葉を疑っている。だからこそ、私はあなたに最後まで聞いてほしい。真実を明らかにするためにではなく、私の生きている世界を共有するために』

 これまで女性は繰り返し声を上げてきた。世界中で#Metoo運動が起こり、「性暴力を告発する」動きが広がった。
 一方、小松原さんは「なぜ私が暴力を振るわれたのか?」、「生き延びる中で自分が何を見たのか?」、哲学の問いにした。
 被害者支援を長年続けている信田さよ子さんは、こう言葉を寄せた。
『性被害ほど定型的に語られてきたものはない。本書には、当事者と研究者、嘘か本当かをめぐって、幾層にも考え抜き、苦しみ、格闘したプロセスが描かれている』

 小松原さんは被害のその後をどう生き、どんな思いで本を書いたのか。1週間ほどベルギーに滞在、3回にわたってインタビューを行った。

取材者:よろしくお願いします。
小松原:よろしくお願いします。

取材者:まずなんですけど、私は本を「当事者は嘘をつく」を読んで、お話をもうほんとに伺いたいという思いで来ました。

小松原:そうですね、私もう 20年経ってるので、今更なんか色んな人がいるから、別にどのタイミングで言いたくなるかは全然人によるんですけど、でも、私はもうなんか言いたいっていう気持ちはあんまりなかったんですよ。だから、別に知ってほしいとも思わないし自分のその経験を、社会を変えるために自分が立ち上がるっていう気持ちも実はもう全然なくなっていて。

ナ:およそ20年間、被害を公にしてこなかった小松原さん、自らのことを本に書いたきっかけは、ある編集者からの依頼だったという。

小松原:文学フリマって、同人誌即売会なので、なんかみんな自分の本を売ってるんですよ。そこに私は、自分が刷った報告書集を配ってる時に柴山さんがいらっしゃって、私はその時、なんか営業だと思ったわけですよ。だから、名刺いただいて「あ、分かりました、ありがとうございます」って言って、多分これはなんかみんなに配ってんだなと思って、そのまましまったんですよ名刺を。そしたらすぐにメールが来て、「本を作りたいと思ってるし、1回お話したい」って言われて、私はもうそれこそなんか、「え、どうしよう」って思っちゃって、「え、マジ?マジで本作るの?、私本とか作ったことないけど大丈夫?」みたいな感じで、なんかすごいおろおろするというより、「いや~、大丈夫かね、こんなん、、、」みたいな感じで。

ナ:声をかけた編集者の柴山ひろきさん。性暴力に関連する本をはじめ、 数々の話題作を担当してきた。小松原さんが、ニュースや本などについて書いたブログに注目していた。

柴山:そうですね。それこそ#Metooの話とかいくつもね書かれてましたけど、なんだろうな、ただやっぱり何かしら、そのフェミニズムに関するトピックが、twitter中心にちょっとこう盛り上がった時に、小松原さんだったらどういうだろう?みたいな感じですよね。なんていうか、こう自分の考えというよりは、小松原さんどう思ってるんだろうって知りたいっていう感じで、なんかやっぱり、なんていうんですかね、なんか起きた時にいろんな人の意見って聞きたいじゃないですか。それに多分近くて、小松原さんだったらどういうのかなっていうので見てましたね。まあ、言っちゃえば面白いものを書いてほしいっていう風にお願いをしていて、あとはまあ、自分の関心がその被害と加害みたいなものにあるっていうのも最初のメールでお伝えして、何かしらそこにタッチするものっていう依頼ですかね。その時は、そのサバイバーだとかそういうのは全く知らないまま。

ナ:一方、小松原さんは何度も原稿を書き直す中で、自身の経験を物語にすれば形にできるのではないかと思ったという。
小松原:包み隠さずというより、そういうお話をしようと思ったんですよ。だから、私の苦しかった経験を誰かに聞いてほしいわけじゃなくて、なんかこれをお話として、若い女の子が成長して研究者になりましたっていう体で書こうと思って、でも実際に自分の人生はそうじゃないんですよ。
 だからすごいギャップがあるから嘘な、「嘘」っていうのはもうこの本のテーマでもあるけど、やっぱりそんな物語にはならないんですよ私の実人生は。
 でも、書けるなと思ったんですよ。しかもそれは、それこそその作り話じゃない形で、構成さえ考えればそういう話に持っていけると思ったので、それは面白いんじゃないかなと思って。それは多分読み物になると思ったし、私は、でも本当に真剣にこれはエンタメ小説として書いたつもりがあって、だからもう、なんか気軽に読んで、後でワクワクした冒険譚として楽しんでほしいっていう。

柴山:そうですね、うーん、なんか勇気がいったって感じですかね、やっぱり。なんか勇気がいった本っていうか、そんななんかこう「いい原稿来た!出そう!」とかじゃなくて、原稿はいいし、ちゃんと作ればちゃんと届くはずだって思ってたんですけど、本当にどうやって本の形にまとめればいいかっていうのが、一時期ずっと悩んでたと思います。その原稿を読みながら。
 なんか、テーマっていうんですかね、やっぱ論争的っていうか、挑発的でもあるっちゃあるので、なんかそういう意味では変な話、そんな行儀がいいわけじゃないっていうんですかね。

『いつもより落ち着いた様子の私に、医師は「何かあったのではないか」と問いただした。私は暴力について話すつもりはなかったので拒もうとしたが、彼は「ちゃんと話さないと治らない」といった。
 私は「そういうものか」と思い、性暴力の経験と彼と電話で話したことを正直に話した。医師は途中で私の話を遮り、笑いながらこう言った。「ああ、そんなことはどうでもいいですよ。よくあることだから」、その時の医師の顔もまた私の記憶に焼きついている。彼は続けて「早く忘れてしまいなさい」と言った。当時の私が一番に考えたことは、「話すべきではなかった」だった。

柴山:こういう書き方でしか、できないことも多分あるなっていう風に思って。やっぱりその自分の話を一種物語化して書かないと書けないぐらい、やっぱりその被害の経験ってのが、 なんていうかトラウマとして残ってるみたいなこともなんとなくわかるし。

ナ:本は広く読まれ、様々な反響を呼んだ。


『【嘘をつく=物語る】ことを自分の武器にしていく過程が描かれているのかな(SNS上の感想)』
『私たちは誰かのレールの上に乗った回復をしなければならないわけではない(SNS上の感想)』

 小松原さんはある哲学者との出会いを本に綴っている。フランスの哲学者ジャック・デリダの「赦し」についての論考。 
『赦してやろうと考えられるものを赦すことは、もはや「赦し」ではないという。赦すことができないとしか思えないものを赦すことこそが<赦し>』と論じた。
 加害男性の記憶に縛られ苦しんでいた小松原さんは、「そんなことは机上の空論だ」と憤り、本を投げつけた。しかし、もう一度手に取った。
『壊れやすさ、私はそれを自ら要求しましょう。赦しの壊れやすさは、赦しの経験の大事な要素ですから。私は、もし赦しがあるならば、それは人知れず、留保された、ありそうもないはずのものであって、従って壊れやすいものに違いない、というところまで考えを推し進めようとしました。被害者たちの脆弱さ、その脆弱さに結びつけられる傷つきやすさは言うまでもありません。私はこのような壊れやすさを考えようとしているわけです』
 「これは私の話だ」と思った、小松原さんは記している。
 加害男性の激しい怒りで相手を殺す夢まで見る中、赦さなければ自分が壊れてしまいそうだった。そして加害男性に自ら電話する。「あなたのやったことは暴力だと思っている」と必死の思いで訴えると、男性は「悪かったと思っている」と答えた。そこで「全て赦す」と伝えた。

『彼は私の赦すという言葉に対して、「うん、わかった」と答え、続けてこう言った。「ところでお前さあ」、私の真剣な<赦し>に対し、彼はやすやすと話題を変え、久しぶりに会った懐かしい友人に語りかけるように話を続けた。私の<赦し>は形だけのもので、あまりうまくいかなかった。
 本にはその後、ある活動に参加した体験が書かれている。同じように性被害に遭った経験のある当事者同士の繋がり、「自助グループ」だ。そこでは、立場も事情も違う人たちが、それぞれの経験を「言いっぱなし、聞きっぱなし」で語り合った。


『私の経験から考えると、自助グループの活動は、「自分の経験を語ることで自己を形作る」というよりは、「他者の語りを自己の経験に重ねていく」ことに近い。
 「私はそれを知っている」、その強烈な感覚が自分を揺さぶり、「あの人は仲間だ」という思いが体の奥から突き上げてくる。
 私は自助グループでは積極的に共振し、同一化していく中で、孤独だった自己から解放されていった。トラウマに苦しんでいる渦中の私が、喉から手が出るほど欲しかったのは、このような 「回復の物語」である』

そして、トラウマの第一人者、精神科医ジュディス・ハーマンと出会う。「回復の主体は性暴力の被害者にある」というハーマンに圧倒された。一方で、ハーマンの赦しについての認識には疑問が深まった。

『当事者は加害者を赦す必要はなく、トラウマが癒されていくと「加害者が全く興味のない存在になってしまう」と述べていたからだ』

『しかしながら、回復するだけがサバイバーの人生だろうか。私たちは「心の傷が癒されるべき存在」として矮小化されていないだろうか。
 赦すに値しない加害者の前で<赦し>を与えるしかなかった日、あれはなんだったのか。一瞬垣間見た<赦し>の影を追って、私は研究者になる道を進んでいく』

 本の中では、研究を進める上でハーマンは最大の仮想敵だったと綴られている。

小松原:ハーマンは立派な人なので、、それは戦うに値すると思ったので書いたんですけど、仮想敵って書いたらなんか本で、なんかすごい重く捉えられちゃって、いや、研究者は仮想敵を作って、自分の論を鍛えていかないといけないんですよ。常に批判者が必要で、照らし合わせながら、この人とは私は違うという形で、自分の考えを研ぎ澄ましていくところがあるんで、そういう意味で、やっぱりその仮想敵にしたっていうところは ありますね。

ナ:小松原さんが選んだ研究テーマは「修復的司法」、従来の司法では加害者を罰して問題解決をしようとしてきたが、修復的な司法では被害者と加害者の対話を中心に置く。
 小松原さんは性暴力の問題を修復的司法で捉え、 被害者の視点で加害者と対話できるかを研究した。

取材者:修復的司法の出会いというか、それを知ってショックというか、どんな気持ちに、最初、、、

小松原:いや、私が考えてることは、おかしくなかったって感じですね。元々その自助グループの中で、加害者に会いたいって思ってる人がいるし、それはサポートすべきじゃないかと思ってたけど、まあ、当時の支援の現場では、もうそんなことは絶対許されないし、それはそういう風に思うこと自体がまだトラウマにとらわれてるっていう考え方だったから、
それに対してすごい、うーん反論することができなかったですよね。やっぱり自分自身がそうなんじゃないかと思ったし、自分自身がおかしいんだっていう風に思ってたし、まあ、危ないからやめておこうみたいなふうにしか他人にも言えなかったんだけど、誰もやらないんだったら私がやろうと思ったので、驚きとかよりも、なんか誰もやってないことへの怒りの方が大きかったです。なんで誰もやらないのって。
 やっぱり私は2000年代にすごく「当事者」という言葉が日本で使われた時期に学生だったし、すごく身近な言葉ですけど、その時に当事者って言葉がなぜ必要だったかっていうと、研究者から言葉を取り戻すためだったんですね。研究者がインタビューに来る、それを分析する、その人たちの業績になる。でも、当事者は自分たちの声がそのまま拾われたと思ってないし、なんならシンポジウムに呼ばれて話はするけれども、結局それって自分たちが利用されてるんじゃないかって思いを常に抱えていたので。

ナ:小松原さんはそう話した上で、自らの「当事者」の言葉と研究者の言葉は違うと説明した。

小松原:ただ、 やっぱりこうやって実際に当事者として話し始めると、当事者として話すことと研究者として話すことはちょっと違うので、そこがやっぱり難しいというか、だから今日とかすごい難しいんですよ。やっぱり当事者としての質問と研究者としての質問があるので、どっちで答えたらいいのかっていうのは結構自分の中で分けないといけなくて。やっぱり研究者としてコメントを求められると間違ってはいけないので。
 でも、当事者としての自分はそうじゃないので、生の生を生きてるので、そうすると、やっぱり矛盾もあるし、他の人との葛藤もあるし、それは全然別の言葉が出てくるので、で、それは私は混ぜない方がいいと本当に今も思ってますけど。
 なんか、あんまりチープな物語を作らない方がいいと思ってるんですよ。だから、本を出しました。それで、自分のカムアウトとして、アイデンティティーが変わりました。当事者としてお話できるようになったから、今度は国際学会でそのことについて話しましたっていうのは、チープだと思うんですよね、私すごく。
 みんなそれで納得するかもしれない、で、私がその物語をその商品として売る時に、そういうストーリーラインを自分で作ったし、成長譚として書くのは全然。それは自分の書く面白さとして見出しましたけど、やっぱり話し言葉は違うので、私はそのままの人なので、なんかそういう物語は語れないんですよ、それは諦めた方がいいと思います。

取材者:言葉で説明させようとするんじゃなくて?

小松原:そうそう。だから、多分その結論は私は最後まで言わないと思います。でも、繋いだら繋がると思います。そう、それは編集でっていう感じで。
 そんなに緊張しないでっていう感じ。そんなに私を恐れないでって感じで。私、なんかすごい、そう、そんな感じです。
ナ:小松原さんの人生にとって研究とは一体なんなのか。2回目のインタビューは郊外の自宅で行われた。
 2年間、修復的司法の研究で知られるベルギーの大学の客員研究員となっていた。

取材者:どんな道のりで今っていうのは、やっぱり私達はイメージわかないので

小松原:えー、でもなんか難しいな。なんか道のりってなんか難しくないですか。私がなんかこう難しく考えすぎなのかなってすごいさっきから思ってるんですけど、でもね、まず私は自己紹介が苦手なんですよ。その時点で大体お察しじゃないですか。自分の人生をまとめるのが下手なんですよ。だから、大体、研究の全体像を話すのが苦手なんですよ。だから、いつもお前は何がやりたいのかわからんけど、最終的にはどうなるのって言われて、それはちょっともう先の話ですかねみたいな。

ナ:被害者と加害者の対話を中心に置いて問題解決を目指す修復的司法。そこには大切なものがあると小松原さんは言う。

小松原:修復的司法っていうのはプロセス思考と呼ばれてるんですけど、修復的司法って、基本的に暴力とか犯罪の被害者と加害者が対話するんですけど、どっちもがやっぱり準備ができてることって少なくて。例えば、被害者の方がすごくトラウマが深くて、なんか会うつもりだったけど、こう話してるうちにだんだん辛くなって、やっぱりもう会わない方がいい、会わないことを選びたいって言ったら、それはそれでオッケーだし、加害した人が、 やっぱりまだ自分と向き合えなかったりとか、自分のしたことの重さにちょっと耐えられなかったりとか、いろんな理由で ずっと会える状態じゃないってこともたくさんあって、で、そういう時は途中で止めるんですよ。でも、それは失敗とは修復的司法では見なさなくて、それまでにその人たちが考えたことってのはすごく大事で。で、もうそれだけでやっぱりこう尊敬に値することだし、そこを大事にする実践なんですね。で、 何かこう、結果で和解したとか、2人がその後こういい関係になりましたみたいなのっていうのは、対話の結果としてなんか求められがちなんだけど、そうじゃなくて、その話してる時にその人たちが感じたこととか発見したことっていうことの方が大事で、だから1人1人の経験のプロセスを見ていくんですね。

ナ:7年前から研究テーマとしている場所がある。大規模な公害に見舞われた水俣。きっかけは、知人が「修復的正義」の視点から水俣について考えていると聞いたことだった。
 本には事前の調査である映像を見たエピソードが綴られている。化学工場の排水によって被害を受けた住民が企業と相対した場面だ。

『私はこの10数年間の苦しみを、また父母の全て水俣病患者に対しての恨みをここで社長に対面し、、、
 社長江頭豊でございます。
 水俣病患者に発言をさせてほしい!
 わかるかこれが!親が欲しい子供に、また親、その親、子供、自分が身だけじゃなかったぞ、ようわかったか!出月の浜元じゃ、浜元!わかるかおるが心、おるが心、わかるか!』

『浜元さんは白装束に身を包み、両手に両親の位牌を持ち、それを社長の胸に突きつけて 「私の心がわかるか!」と怒鳴っていた。
 私はその場面を見ながら、両目から涙が噴き出してきて、まともに画面を見ることもできなかった。
 それは被害の内容は違えども、加害者と対話を求め、加害者に自らの痛みを分からせたいという被害者の声だったからだろう』

 しかし、小松原さんは自分が関心のある声だけを聞こうとしているのではないかとも考えるようになった。

小松原:やっぱり、うーん、すごく危険で、自分の持っている枠組みで相手を見てしまうっていうのは、研究者がすごくやりがちなことで、私は自分がそれをやるんじゃないかってちょっと不安で、例えば、確かに水俣は、長く公害運動を展開していて、その中で、例えばコミュニティ再生の取り組みであったりとか、被害者が赦しについて語ったりして、修復的司法に出てきそうなお話がたくさんあるのは最初からわかってたんですけど、 でも、その人たちは別に修復的司法をやりたかったわけじゃないので。だからそれを自分がこう、これは修復的司法ですって外から来て、そういう枠組みに入れるっていうのは、やりたくなかったから、できれば修的司法の研究をやらないでおこうと。ただ、1回行くとそこで繋がりができたので、もう、やめれなかったというか、ズルズル行き続けたっていうのが正直なところで。

ナ:現地では「水俣病」ではなく「水俣」を教えてくれる出会いもあった。

小松原:水俣って言うと、水俣病のイメージが本当に強いので、みんな海に行くんですけど、でも、水俣のほとんどの地域は山なんですね。だから、山に連れていくって言われて、山に連れてっていただいて。
 その途中に、ある農家さんに寄った時に、クレソンが今育ってるから、これをもらって、こうって言って、ちょっと抜いてこいと言われて、クレソンを自分でとってたんですけど、なんかその写真を撮ってくださったんで、なんか、すげえ、なんか嬉しそうに笑ってる写真が。
 結局、その何か、災害であれ犯罪であれ暴力であれ、何か起きた後に人がみんな集まってくるけど、でも、本当の当事者の人生ってのはそこがスタート地点で、そこからもずっと生きてかなきゃいけないんだけど、でも、その直後はみんな注目するけれども、なかなかそれを継続して終える人ってのはいないし、みんな自分の生活あります、どんどん新しいことが起きるからそれはしょうがないんだけど、でもその後の人生っていうのは、やっぱり当事者は生きてるので、 私はそっちの方が興味があるので、どっちかというとその渦中のことよりは、その後の方が関心がありますね。

ナ:小松原さんは水俣に何度も通い、手記などの膨大な記録にあたって1人1人の声に触れようとした。

小松原:その運動の中でも、なんかみんながこう被害者と一緒に怒って、抗議の声をあげてる時に、うっかりそこで自分が声が出せなかった人の手記とかすごい好きなんですよ。そこで自分はなんでダメなんだと一緒になって声を上げたいけど、うまく体が動かないし、みんながこう本気でやってることなのに、なんで自分はこんなになんかダメなんだみたいな。でもそれは この被害者と向き合うんじゃなくて、自分自身を見つめないとダメで、自分のその足元がやっぱり見えてないから、人の問題にも入っていけないんじゃないかっていうのを 書いてる。「しまった反対できない」っていう人をすぐ気にしちゃうんです。なぜなら自分がそうなりがちだから。で、やっぱりみんなに乗れなかったっていう、なんか、なんて言ったらいいんだろう、なんかね、嫌とか悲しいとか、怒りとかじゃなくて、「しまった」って感じなんですよ、「え、みんなそう思ったか、しまった」っていう感じ。
ナ:水俣に通い続ける中で、小松原さんは当事者ではない立場から研究する意味について考えを深めていったという。

小松原:私は、自分の研究は最初に自分のことをやってしまって、だからすごく辛かったし、しんどい思いもめっちゃしましたけど、でも私には必要だったと思ってるので、全然後悔はしてないですけど。
 そうじゃなくて、他人の問題を研究する方が、ずっと 研究者としてのスキルアップであったりとか、まあもちろん倫理的なものもあって、自分のことじゃなく他人のことを知るっていうのは非常に難しいことで、分かったような気にならないとか、相手をそれで傷つけてしまうとか、そういうこともたくさんある中で、研究していくのはすごい大事なことなので、それは全然それでいいと思いますね。でも、 どっちも別に悪くないっていうのはすごく思っていて。

ナ:苦難と小松原さんはどう生き延びてきたのか。最後のインタビューとなったこの日。
 当事者として考えてきたことを教えてほしい、そう伝えると、小松原さんは取材ではなく、当事者として話をしようと言った。

取材者:小松原さんが本当に思ってるかを聞きたいだけなのになと思うと、、、

小松原:なんか自分がその研究者に対して、本当に恨みみたいなのをずっと持ってて、
なんかいっつも私たちは、ああいう人たちが自分に対して向ける目も嫌だし、自分がカムアウトした時に、「あ、この人、性暴力被害者なんだ」って思われたら、もうそれで私のなんか私自身ではないものを見られてる感じがして、すごい、なんだろう嫌なんだけど、それをこう、なんて言うんだろう、すごくアンビバレンスな気持ちがありました。
 じゃあ、自分のその普段の生活の中で、私が性暴力被害者だとか被害者じゃないっていうのは、もちろん、直後はすごく大きな問題だったけど、今はそうじゃないし、なんか、日常の生活の方がすごく大きいから、わざわざ言う必要はないっていう気持ちをずっと持ってきたんだけど、でもそうすると、こう社会の中で、たくさんあるなんかこう、声を上げてほしいみたいな、性暴力被害者が、その声を上げることによって社会を変えれるし、性暴力を防げるんだみたいな、そういう話があると、自分が言わないことが、なんか悪いことというか逃げてたりとか、なんか、本当は言えばもっと変えられるのにやってないとか、あと、他の人に背負わせてしまったとか、そういうことをずっと考えることになって、だから、自分の中である、なんかそのカミングアウトの問題とか名乗り出ることっていうのは、なんか直線じゃないんですよ。だからすごく難しいんだけど、でもそれをこう伝えるのはすごく難しいから、もう黙っておくか言うかしかないんだけど。
 まあそれで、そういういろんなすごい複雑な思いを抱えて水俣に行くわけですよ。でも、水俣に言ったら、本当はそういう風に生きてる人たちだけど、自分はやっぱりそれは水俣病の被害を受けた人として、なんかこうデータを取ろうとする部分もあるし、もちろんそれが必要な部分もあって、そうでないと、なんでこの人がこういう、こう調査に協力してもらったのかとか、なぜこの人の声を聞いた方がいいのかっていう説明がなかなかできないから、この方はそういう水俣病の被害を受けられたとか、ご家族を亡くされたみたいな、そういう肩書きでこうご紹介する。
 でも、 なんかそういうのじゃない、本当にその人自身が私は関心があって、興味があって話を聞きに行っている部分があるから、すごく難しいし、そのインタビューをまとめようと思う時に、その人の1番自分がいいと思うところを抜くわけですよ。でも、その抜き方っていうのはこれでいいのかなみたいなのがずっとあるし、何より自分がその調査者としてそういう水俣病を対象にして入っていくこと自体の矛盾みたいなのがすごいあって、やっぱそれはなんかわかんない。自分がすごい変わったかって言われると、、、
ナ:何が本当なのかを突き詰めて考えると生じる「自分は嘘をついているのでは」という不安、どう考えてきたのか

取材者:あまりにももう1個大事にしていることが本当に思ってることだから、やっぱ言いたくないなとか、だって思ってないものみたいなことは今覚えています。

小松原:そうですね。でも、それってなんか何が違いなんでしょうね。その本当のことを 言うことにこだわる人。私がそうですけど、別に誰も困らないんだけどなみたいな、別にそこで私が、いやこうで、ストーリーを作って話しても、別に悪いことじゃないじゃないですか。で、そうする人もいるけど、でも、なんか自分はそうじゃないよなっていうのは、めっちゃ、だからね、あんな本書いちゃうんですけど。私はこう、「当事者は嘘をつく」っていうタイトルもやっぱりそれは、自分がすごい本当のことを言うことにめちゃくちゃこだわりがあるからだと思うんですね。その、そこまで気にしなくても、あれはどう考えたって嘘をつく人の本じゃないわけですよ、どう読んでも、でも私はそれにすごい気にする。
 やっぱり同じように、自分も本当のことを言ってないんじゃないかっていう不安があったっていう人からの反響ってのは結構あって。そう思うとやっぱりそれなりにいる、私だけではない、私がすごい特殊じゃなくて、それなりになんかこう、自分の過去を語る時に、何が本当なのかっていうことをすごい不安になる自分っていう人はいるし、なんか自分に対する、なんだろう、なんか変な、ちょっと脅迫的なぐらいに誠実さを求めてしまう人っていうのは結構いるんだなっていうのは発見ではありましたよね。本を出した後に、なんか逆に、
なんかそういう思いを抱えてるけど、誰にも言えないって思ってた人にとって、いや本当のことを言いたいけど、それを伝えるのは難しいけど、でも信じてほしいみたいな部分っていうのをすごい書けたのはよかったなと思いました。

ナ:「当事者は嘘をつく」はこう結ばれている。

『この本が公刊されることは、新しい語りの型を次に生き延びる人のために提供することでもある。それは、もっと自由で流動的な誰かの事故を狭いかにはめてしまうことかもしれない。
 でも、その窮屈な型を破って、新しい型を生み出すサバイバーがきっと出てくる。私の語りの型は、誰かの生き延びるための道具となり、破壊され、新しい型の想像の糧になる日を待っている』

小松原:私はもうこの研究をやめたらもっと回復できるって思ったんですよね。自分で自分の状態を悪くしてるというか、むしろトラウマをえぐって自傷行為なんじゃないかとか、 なんか回復することから逃げてるんじゃないかとか、本当に色々自分に対して、なんか負い目というか、間違ってるんじゃないかっていうことを何度も思ったし、まあ、本とかでは結構さらっと書いてるけど、実際は、もう本当に、夜寝てて、なんか不安になって、目が覚めて、やっぱり、やめれば楽になる、もうこんな研究をやめて、どっか別のところで別のことをやれば、こんなに辛いことはないし、自分も元気になれると思った時に、本当に声が出て、「やめたくない」って、すごい 1人で、なんかね、夜中に1人で「やめたくない」って言うわけですよ。嫌だ、辞めたくないみたいなことを言って、すごいもういっぱいいっぱいですよね、もう限界まで来てたので、

取材者:寝てて「やめたくない」って、聞くだけで想像しちゃうような、勝手に。なんか、
なんでそこまでやっぱ踏ん張れるのって

小松原:何だったんでしょうね、わからない。

 なんでそんなに自分がやめたくなかったのかもすごく不思議で。1つは、やっぱり加害者の存在は大きかったとは思います。私は加害者からお前はそんな、すごく落としめるようなことを言われていて、言ってみれば馬鹿だみたいなことを、もっとひどい言葉で色々言われてたので、やっぱり真に受ける部分も、ていうか、もうね、抵抗できないんですよ。あまりにも浴びせられていると、だんだん自分がそうかもしれないと思うようになっちゃって。だからなんかね、自分に自信がないというよりは、根拠なく自分は馬鹿だと心から思い込む精神状態だったんですね。
 でも、理性的に違うと思うわけですよ。バカって人に言ったらあかんやろみたいな、その、すごいそういう風に人を見下すものじゃないっていう、すごいストレートな自分の気持ちもあったので。だからそれに対抗するじゃないけど、いや、そんなことはない、私はできるみたいな、なんかこう、加害者との心の中の戦いが、ずっと自分をこうプッシュし続けたっていうのはあって、 やっぱり負けたくなかったんですよね、心の中の加害者に、で、もうその時点では何年も会ってなかったし、もうそれっきり会ってないんですけど、でも、 なんかシャドーボクシングですよね。

ナ:被害の記憶を抱えながら、どうすれば自らの道を歩く力を得られるのか。

小松原:私の性暴力のトラウマからの回復で1番辛かったのは、「回復していいことあんの?」っていうのがずっと思ってたんですよ。だから回復して、自分がその性暴力の被害体験から逃れられました。でも、加害者は別に何の責任も取らず、 私は苦労して日常生活を手に入れて、なんか「すごい損じゃんこの努力」って思ったんですよね。「マイナスになってそれを0に戻すための努力っていうのをなんで私がしないといけないの?」って、「それ加害者のせいでしょ、なんで?」っていう。しかもそれは、しなければ私が回復から逃げてるって言われる状況っていうのは、「え、なんかおかしくない?私が悪いの?」ってすごい思ってたんですね。
 性暴力の被害がなければ研究者になれたと思うんですけど、でも今みたいなものは書けなかったので、やっぱりそれはすごく否定的なものが働いて、それを跳ね返したいっていう戦いの中で生まれたものなので。ただ、そうすると、まるで被害があったことが良かったみたいになっちゃうから、そういう意味ではないので、なんかね、あの時のあれがあったからこそみたいな風には言えないんですけど、ない方がいいから。でも、なんかそれは抗いがたいというか。 
 で、それは自分に対しても思っていて、なんかトラウマがある、苦しい、ネガティブな怒りとか憎しみがある。で、それをなんか別の方向に向けたら、まあいいことがありそうと思うわけですよね。でも、そのいいことに向けるための、このなんかこう転轍機(てんてつき)って言うんですか、そういうものが欲しい欲しいと思って、ずっと研究してた部分はあって、それが研究だろうと私は直感的に思って、結構正解でよかったんですけど。
 それで、なんかウジウジとずっと研究というところにとどまって、これをなんか、でもね、やっぱりいい方向に生かしたいっていう気持ちはあったんじゃないですかね。なんかこう、創造的なものに持っていきたいみたいのは今もありますけどね、今もやっぱり、

取材者:「ただじゃ起き上がらないぞ」っていうのを聞きながら思ってたのと、なんか、最初に急いで聞こうとしたことがすごく納得しました。

小松原:そうですか。もう2度と性暴力は起きてほしくないんだけど、 なんかその時にセットで言われる性暴力被害を受けたらもう人生台無しみたいな言葉に、なんか若干やっぱり傷つくんですよね。「台無しになったんだよ、台無しになったけど、そう言ってほしくないとこもあるんやで」っていうのはちょっと思っていて。かといって、なんか性暴力の被害を受けたって生きていきますみたいなことが安易に言えないっていうのもわかってるから、なんかまあ、自分の中でちょっとモヤっとしちゃうんだけど、でも難しいです。性暴力の被害がなかったらなって今も思うし、本当にそれが切実に迫ってくる夜とかもあって、なんかもう、こんなの、「自分の人生、性暴力の被害さえなければ、こんなんじゃなかった」って、すごい思う日は今でもあるんですよ。だから、すごい矛盾してるんですけど、でもね、なんか、被害があったって、私の人生、まあまあ帳尻合わせたらプラスの方が多いわなって思うこともあるし、なんかそれはすごい矛盾で、日によって違うけど、でもまあね、あんましこう、1つにならないんですけど答えが。

取材者:すごくなんか聞きたかったことを今日たくさん聞かせてもらったなと思います。

ナ:哲学研究者小松原織香さん、答えのない人生を今日も歩んでいる。

当事者は嘘をつく (単行本)

性暴力と修復的司法 (RJ叢書10)

2023/1/22 アーカイブ 言葉の力、生きる力

松居直:児童文学者

松居:言葉って目に見えないものです。活字になってるから見えるように錯覚するだけなんですが、言葉は目に見えない。
 ところが 言葉を聞いていると、目に見える世界ができるわけです。昔話はそうです、昔話は冊子はなかったんです、語られただけです、でも聞いてると、桃太郎の世界が見えてくるわけですね。言葉ってのは目に見えないのに、ちゃんと見える世界を作っていくわけです。
 そして、言葉が見える世界を作らなければ、子どもたちは入っていけないんです。だから、目に見えるように書くっていうのは、これは児童文学の鉄則なんですよ。しかも、人間にとって大切なものってのは大体目に見えないんですよね。幸せも見えませんし、心も見えませんし、愛も見えませんし、と星の王子様が言ってますけど。肝心なものは目に見えないっていう、大切なものは見えないって、星の王子様は言ってます。本当にその通りだと思います。
 ところが目に見えるように、サン・テグジュペリは書いてるから、星の王子様は僕に見えるんですよ、目に見えるように書いてますよあれは、見事ですよ。

ナレーター(以下「ナ」という):戦後の日本に創作絵本を根付かせた松居直さん、福音館書店の編集者として、絵本の世界を切り開く仕事を手掛けてきました。今も読み継がれる「スーホの白い馬」や「ぐりとぐら」などの作品は45年前、松居さんが創刊した月刊絵本「こどものとも」から生まれました。
 当時はまだ珍しかった創作物語の絵本を毎月出版するという画期的な試み、バラエティに富んだ作家と画家の組み合わせで生まれる絵本は、現在546号を数えています。絵と言葉が一体となって作り出す生き生きとした世界を松居さんの絵本は目指してきました。

松居:私は絵本っていうのは、子どもに読んである本だっていうことを子どもに読ませる本ではなくて、大人が子どもに読んでやる本だということを主張してきましたし、それが編集方針ですから、そうしますと、子どもが目で絵を読んでいて、耳で言葉を、読んでもらう言葉を聞いて、そして、それが子どもの中でどういう風に1つになって、どんな世界ができるか、どんな物語の世界ができるかってことをかなり強く意識して仕事をしてきました。

取材者:子どもが絵を読んで、そして、大人がそれを文字を

松居:テキストを読みますね。それが子どもの中で1つになるんです、子どもは絵を見るわけですけれども、絵は全部言葉ですからね。おじいさんが描いてあれば、おじいさんっていうことですから。クマが描いてあれば、クマさんってことで。それを子どもは自分で絵を読みますね、そして、耳で読んでもらった物語を聞きます。そうすると、その耳から聞いた言葉が、絵を動かしてくれるんですよ。絵本の絵は、静止画で動きませんけれども、子どもが見てる絵の世界ってのは動いてるんです。おじいさんがカブを引っ張ったりするのがちゃんと見えてるわけですね。それは、言葉がどんどん絵を動かしていく、それを子どもは無意識のうちに1つにして、物語の世界を描いていくわけですね、それが絵本体験なんです。

取材者:それはあれですか、松居さんご自身の絵本体験っていうなものに基づいてるところもあるんですか?

松居:そうですね、私は絵本というのは、子どもに読んでやる本だ、大人が子どもに読んでやる本だという風にかなりはっきり意識したのは、やっぱり自分の幼児体験って言いますか、絵本体験が幼稚園の頃ですけれども、母が読んでくれたわけですから、忙しい人でしたけれど、商家の女将さんでね。それでも、1週間に2日ぐらいは寝かせるために読むわけですよね。母親と一緒にいる時間なんか滅多にないですから、そして、 読んでもらうってことはものすごく嬉しいことです。で、私の母は僕が読んでってとこ読むんですよ、何度でも読んでくれる、要するに早く寝りゃいいんですから、子どもが喜ぶことやってやれば早く寝ると思ってる。ところが、こっちは1番読んでもらいたいとところを読んでくれって言ってますから、そう用意には寝ませんよね。大体読み手の方が寝ます、で、また起こして読んでもらってということがありましたから。
 読んでもらいますと、最初は見ているわけですね、それがこう生き生きと、なんか、なんていうのかな、本当に迫ってくるんですよ、そして、その世界へ入っていけるんですよね。

ナ:松居さんが母に読んでもらったという思い出の本は現在、大阪国際児童文学館に収蔵されています。特別に見せていただきました。
 「コドモノクニ」は、大正11年に創刊され、昭和19年まで続いた子ども向けの絵雑誌でした。大正デモクラシーの高揚の中、欧米の新しい文化や教育の思想を基に作られた画期的なものでした。
 厚手の紙に5色刷りで作られた絵雑誌は、当時の子ども向けの本の常識を破る立派なものでした。
 「コドモノクニ」には北原白秋西条八十などの詩人が童謡を発表し、武井武雄、清水良雄など、当時一線で活躍したモダニズムの画家が絵を描いていました。子どもにこそ、本物の文学と芸術をという志に貫かれたものでした。

松居:読んでもらった記憶がふっとよみあがってくると聞こえてくるような気がするんです、母の声が。これはね、歌ってくれたかもしれません、このメロディーがあったんですよ 。これは台湾の話ですよね。「ペタコ」っていう言葉が面白かった、そんな鳥がいるっていうんですよね。これが「ペタコ」、しょっちゅうこれを読んでもらったんですよ。

ナ:本物の芸術として描かれた絵と母の声で聞いた美しい言葉、それが一体となった時、 吸い込まれるように絵本の世界に入っていった記憶、それが、生涯松居さんの絵本作りの信念を支えることになりました。

松居:これはもう絵本っていうのは読んでもらうに限る。ですから、字が読めても、子どもたちに読んでやらないといけない。学校、小学校の子どもたちでも中学生でも高校生でもいいんですよ、大学生でも喜ぶんですから。
 しかし、子どもでも、字が読める子どもでも自分で読みますと文章を読んで絵を読むか、あるいは絵を先読んどいて文章を読むか、どうしてもその2つの世界が隙間ができてくる。それを自分の中で1つにするってのは、これは相当な熟練を要する作業です。

取材者:そうすると、耳で聞いて、それでこうある雰囲気というか、世界があり、なおかつ絵でまた世界ができて、なんていうか、その子どもの中で立体的に形、世界が、

松居:物語世界ができるのは、その2つを同時に体験しないと、絵の言葉と、それから文章の言葉とそれを全く同時に体験しますと、本当に生き生きしたこの本の何倍も生き生きした世界ができるんですよ。ですから、 絵本は読んでもらわな限る。

取材者:それはその絵本体験っていう言葉で、

松居:私はそう言ってるんですね。絵本を体験、絵本の物語を体験する。

取材者:つまり読んだっていうこと、見たっていうのではなくて、その子どもの中にあるこう変ですけど、実感する世界として、確かにイメージの世界なんだけど、何かこう体験するものとして入っていく世界。

松居:面白い世界があって、それがまあ大人からすれば空想の世界ですけれども、そこにぱって入ってしまうと、動物と自由に口がきけるし、 それから誰か不思議な人がいるわけですよね。
 私でも子どもの時、例えば「ドリトル先生」なんか読んでると、もうそっちにぱっと入ってしまって、動物の言葉なんでもわかるお医者さんってのは、もうこれはすごいですよ。

取材者:そういう世界を持ってると何かとてもこう子どもも楽しくっていうか、自分の世界っていうか、充実した世界というか、それを自らこう体験してる感じになるんでしょうか。

松居:その非日常の世界に入って、いろんな体験をすると、逆に戻ってきますよね、戻ってきた時に、日常の世界が見える。日常の世界で、いろんな出来事がある、そのことのなんか本質って言いますかね、真実みたいなものが見えるという風に私は感じるんです。

ナ:松居さん5歳の時に満州事変が勃発。19歳になるまで日本は戦争の時代を突き進みました。2人の兄は戦死、もう1人の兄も、勤労動員の時に患った結核で命を落としました。 
 母に読んでもらっていた子ども向けの絵雑誌も、戦争の激化とともに次々と廃刊に追い込まれていきました。

松居:小学校へ入ってから学校教育を受けますから、日本のこれは国家主義的な学校教育っていうのは、体制がしっかりできてましたから、そん中でいろんな言葉を体験するんですけれども。でも、幼稚園の頃に聞いたその生き生きした言葉の世界ってのは、あんまり国語の教科書でもなかったですよね。
 まず、「サイタサイタ、サクラガサイタ」ってのは1年生の時に習ったわけですけども、サクラと読本の1番最初に使った世代ですから、それでも違うんですよね。その言葉、教科書の中の言葉の力と子どもの時に聞いた言葉の本当に生き生きした喜びというのと、言葉って喜びですからね。でも、学校ではそんな喜びの言葉なんかってあんまり出てこなくて、あるいはステレオタイプな言葉が出てくるわけですよ。

取材者:でも、正にそのスローガン的な言葉で氾濫していた。

松居:ちょうど小学校、中学校、5歳の時か満州事件ですから、15年戦争がそれからずっと続くんで、ほとんど戦争の間に育ったわけです。そして、いろんなそうですね、スローガン的な言葉が 溢れておりましたしね、そん中でそういう言葉を聞いて、そして、学校で教えられることは、国のために死ぬっていうことですよね。
 なんのために死ぬのかってことを本当に納得したかった。それは学校でおっしゃられることは、国のために死ぬとか、天皇のために死ぬとかってことをおっしゃられますけれども、 それは理屈としてはわかりますけどね、実感として命をなくすわけですから、本当に何の意味があるのかってことを知りたかった。それで私は当時のかなりの少年がそうだったと思いますけれども、日本の国としてのイデオロギー国粋主義とか、 そういったことの意味ってのを本当に知ろうと思って、一生懸命自分で勉強しました。
 日本の国学の本なんかは、本居宣長とか、平田篤実とか、会沢安とか、藤田東湖とか、そういう人の本はかなり読みました。そして、国粋主義的な歴史家としても、代表的だった秋山謙蔵の本はほとんど読みました。

取材者:で、その意味を、、、

松居:納得できませんでした。納得はできるんだけれども、なんかこう、共感ていうかな、そこまでいかないんですよ。まあ、理屈はそうでしょうねってことはわかるんですよ。しかし、それでことっと自分の気持ちが落ち着くとかね、琴線に触れるっていうな言葉はなかなかなかったですね。
 戦争中本当に天皇制の本を読みました。でも、やっぱり理屈はそうだろうねっていう、だけど、実感としてわかんないんですよね。

取材者:そうすると、その敗戦ということが起きて、まさにそういうこと一生懸命考えておられて、 その価値観みたいなものがこう崩れるというか、何かその

松居:まず、戦争が終わったってのはその放送で聞きました。その時にあんまり感慨なかったです私は。ああそうって感じだったんですよね。ところが何日間かしてね、戦争が終わったということは死ななくても良くなったってことですよね。もう死ななくてもいいんですよ、それもちっとも喜びではなかったんです。
 1番まいったのはね、死ななくてもいいってことは、生きていかなきゃいけないと。生きるってことは教えたことないですから18年間。死ぬってことは教えられましたけど、生きるってことは死ぬために生きるってことでしたから、ところが、死ななくても良くなったってことは生きるんですよ、生きるってことはどういうこと、それが私にとっては新しいな難問になりました。誰も教えてくれませんしそんなことは。
 たまたま。8月15日の3日か、4日後にいつも行ってる古本屋さん行きましたら、戦争中に並んでなかった本があったんですよ、たくさん並んでたんです。こんな本出てなかったよねと思ったその中に「大トルストイ全集24巻」があったんです。私は戦争中に徳富蘆花を読んでたもんですから、トルストイという名前は知ってた、徳富蘆花に非常に惹かれたんです。で、蘆花はトルストイを本当になんて言いますか、尊敬してましたでしょう。で、蘆花が尊敬してるトルストイってどういう人だろうと、そしたら、その全集があったんですよ。戦争中は隠されていたのかもしれないけど、私はすぐ家へ飛んで帰って、父親にあれ欲しいって言ったんですよ。親父は割合本の好きな人だったから、次の日に一緒についてきてくれました。
 そして、それを24巻を買って、風呂敷に積んで、2人で積んで帰りました。その晩から私は「戦争と平和」を読みました。昨日まで戦争で、今日は平和だ、平和なんか聞いたことありませんしね、平和っての言葉は口に出せませんから、戦争中は。でも、「戦争と平和」って小説があるわけですから、それを読み始めたんですよ、毎日毎日読んでました。買い出しの汽車の満員列車のデッキに座って読んでました。並んで切符を買う、その行列の立ったまま「戦争と平和」を読んでました。
 言葉の力を知りましたね。トルストイを読んでいて、本当にこう虚ろな言葉じゃなくて、スローガンじゃなくて、ステレオタイプの言葉ではなくて、本当にこう語りかけてくる言葉。もちろん、その中に思想があり、哲学があり、宗教、信仰があるわけですけれども、そういうものがこう言葉によって伝わってくるんだ。僕、読書っていうことの本質をその時に知ったのかもしれない。その本を書いた人の世界へこっちは入っていくわけですから。そうすると、本当に生かしてくれる言葉、命を与えてくれるような言葉ってのは、その中にあるように思いました。感じとしてですね。
ナ:1951年大学を卒業した松居さんは、金沢の書店福音館に就職しました。出版業を始めるため、編集社にと請われたのです。会社は、学習参考書の出版が成功して、東京に進出しました。ちょうど敗戦の混乱を抜け、子どもの教育や家庭生活に目が向き始めた時代でした。
 松居さんも、この頃初めて父親になりました。その年、1953年に新たな企画の雑誌を創刊しました。月刊「母の友」は、新しい時代の子どもの育て方を考える雑誌でした。児童心理学や医学の記事を掲載する一方、中心に据えたのは子どもたちに話して聞かせるお話を1日1話、1ヶ月分提供する企画でした。

松居:子どものことには興味を持ってました。それから、私が育った時代の子どもの育ち方と戦後、民主主義で平和で文化国家を作ろうと、何にもないところから、もう1度日本を皆もう1度作ろうと思ったわけです。 
 で、そん中で子どもの育て方っていうのも、戦前のはもうお手本にならないわけですよ。
で、アメリカからどんどんどんどん新しい心理学のことだとか、教育学のこととか、そういったことが入ってきますね。子どものその育ちのプロセスみたいなことも、ちょっと新しく 考えていかなければなりません。そんなところで、子どもに聞かせる1日1話というのを売り物にしながら、心理学のことだとか、子どもの健康の問題とか、そういうものを少しつけて、「母の友」という月間雑誌を作ったんです。
 意外にそれが受けたんですよ。みんなが迷っている、何か手がかりが欲しいと思ってるとこでしたから。で、それが割合に急激にずっと部数を増やした、増えていったところを、よその出版社さんが、なんか「母の友」というのが売りてるらしいってことを感づかれたらしくって、保育絵本とか、そういうものに、付録に非常に似たものお付けになったんです。もうそっくりだと思うものも、「お母さんの友」っていうのもありましたね。それには、さすがに僕はコチンてきましたけれども、そういうものをお作りになったもんですから、もうパタっと売り上げが止まってしまった。
 その時冗談半分ですけど、よそが絵本の付録に「母の友」をつけるんだったら、「母の友」の付録に絵本をつけようというなことを言ってたんですよ。で、「瓢箪から駒」みたいに、じゃあ、絵本やろうってことになったんです。

ナ:1956年創刊の「こどものとも」、創作物語の絵本を月刊で出すのは、世界でも例のない試みでした。
 30歳になったばかりの松居さんは、文学や美術の世界で活躍を始めていた新進の芸術家を訪ね、共に新しい絵本を作り出していきました。

取材者:これが創刊号ですよね。確かにこの絵もすごく綺麗、綺麗というか、こうイメージが広がる絵というか、いわゆる説明的な絵というのではない。

松居:いわゆる童画と言われている、絵本向けの絵とは違う。私は可愛らしい絵はいらないと思ってたんですよ。大人の方が見て可愛いなと思われるのは、本当に可愛いの?子どもから見てリアリティがあるのかどうか。子どもから見て、本当に美しいと思うのかどうかっていう疑問はまだ今でも持ってます。僕は、可愛い絵はあんまり好きじゃないんです。

取材者:可愛いじゃないと、なんという

松居:美しいのと、本当に何か本当のものが感じられるという、そういう本を作りたかった。子どもがそこに世界があって、そこへ入っていけるという、そういう本物の絵本と言いますか、それが作りたかったんです。

取材者:これ、毎月それで出ていくわけですね、これが。
松居:これは宮沢賢治をぜひやりたいと思って。で、宮沢賢治を書いてくださるんだったら茂田井武(もたいたけし)先生以外にはないと、もうこれも決めていましたので、茂田井先生に「セロ弾きのゴーシュ」をお願いをいたしました。これ茂田井先生の最後の作品です。これを書きになって、間もなく亡くなってしまいました。これ、病床でこれは描いてらっしゃったんですね。

取材者:毎号毎号こうなんか雰囲気が違うというか、

松居:全部絵描きさんを変えて、いろんな絵の良さを子どもたちに伝えたいと思いました。これはシートンですよね、動物物語を出したいと思って。これは、寺村輝夫さんの「王様シリーズ」の1番最初ですが、山中春雄さんは全く初めての絵本です。
 これは南極観測が始まる頃でしたから、どうしても社会性のある絵本を作りたいと、その頃あまり社会性のある絵本なかったですし、でも、子どもたちは現代に生きてるわけですから、今の問題を大切な問題を子どもたちにも伝えたいと思って南極へアザラシを主人公にしたお話を瀬田貞二さんに作っていただいて、「なんきょくへいった しろ」というのができたんです。西堀榮三郎先生に、色々アドバイスをいただきましたし、動物を主人公にすれば、やっぱり子どもに親しみが持たれるだろうということで、アザラシを主人公にしました。
 これは、日本の昔話の絵本っていうのは、それほど線後出ませんでしたので。ぜひ、昔話は子どもたちに伝えたいと思って、「てんぐのかくれみの」というのを選びまして、朝倉摂さんにお願いをしたんです。ちょうどこのスクリーントーンという画財が発売されたところでしたから、それを使っていますけれども。
 絵本ですから、文章が物語を語るって、これは当たり前のことです。ですが、絵が物語を語るってこと、絵で物語を語れる人ということになりますと、別に漫画家でもいいし、デザイナーでもいいし、日本画家でも油絵画家でも彫刻家でもいいわけです。この物語にこの人の絵をつけると、1番物語がよく表現されて、語れるかなっていう、そういったことを考えながら選んでいたんですね。
 当時の日本の絵本の世界っていいますのは、名作物語のダイジェスト版、いわゆる名作絵本って言われていたもの。それと、幼稚園、保育園でお使いになってる保育教材的な保育絵本だったんですね。本格的な物語絵本っていうのはちょうど出たばかりだったんです実は。それが「岩波の子どもの本」だったんです。「岩波の子どもの本」っていうのは、絵本というよりも、むしろ低学年向けの読み物としてお出しになったんじゃないかと思いますけれども、しかし、それは絵本を翻訳して日本で出されたわけですね。それを見た時にびっくりしたんです私は、私もそういう絵本見たことないんです。オリジナルなっていうか、創作の物語に非常に素晴らしい絵がつけてある、これが絵本かっていう風に、「岩波の子どもの本」を手にした時に思いました。

取材者:これをそのお子さんに読んで差し上げていてどう

松居:1番最初は7ヶ月ぐらいから、子どもが1人で本を見ていましたんでね、絵本がたまたまありましたから、こんな小さな子どもが本を見るのかって、私はびっくりしたんです。で、7、8、9、10ぐらいの時からそんなに絵本興味があるんだったら読んでやろうかと思って、膝に抱いて読んでやりました。わかってんのかわからないのか、それはまだ新米な父親にはわかりませんけども、でも、最後まで聞くんですよね、そうすると、やっぱりわかってるのかなと思います。こんなのが、こんな小さな子どもわかるのかしらと、それで、私は自分の児童文学のに対する考え方ってのは、何にもわかってないんじゃなという風に思ったんです。
 つまり、子どもの児童文学ってのは子どもの文学ですね、ところが日本の伝統をよく見てみますと、大人が子どもに言いたいことを童話という形で表現してるんですよ。つまり、大人の感覚で書いてるんです。ところが、岩波の子どもの本をお出しになったのを見ますと、子どもの世界を本当によくわかっていて、子どもの気持ちがわかっていて、そして、こういう物語を子どもにしてやれば、本当に喜ぶだろうといったようなことがわかって、創作をしてらっしゃる
ということを感じました。

ナ:子どもの本とは何かがまだ手探りの時代、松居さんは創刊したばかりの「こどものとも」を持って、全国の幼稚園や保育園を歩きました。直接読者と話し合う経験が、その後の松居さんの財産となりました。

取材者:まだ、当時はそういう意味では、こういう絵本も草創期でしょうし、周りの理解はなかなか得られないとか

松居:得られません。売れなかったですよ、もうはっきりこれ商品ですから、売れないというところで出てまいりますでしょう。1番最初2万冊、創刊号は作ったんかな。売れたのは5,000冊で、後もう全部見本でさし上げました。幼稚園、保育園、こういう本を作りましたからという。2号ももうすでに作ってましたから。やっぱり売れなかったんで、残ったのは全部差し上げたりして。たった5,000部しか売れませんでした。
 1年ぐらい経った時にね、もう売れないからやめようという声が社内に出てたんです。で、私ももうこれだけ一生懸命やってれないんだったら、これやりようがないじゃないのと思って、僕はちょうど家でふて寝をしてましたサボって。もうどうしようもないという。そしたら、電話がかかってきたんです。会社から産経児童出版文化賞っていうのを、この「こどものとも」にくれる っていう話だけどっていうこと。その賞のことも知りませんでした。で、調べてみたら大変立派な賞なんですよね、そんな賞をくださるんだったらいただきましょうと、ところがいただいた以上は続けなければやめるわけにいかないねってことになって、それで、まず最初の難関をちょっとクリアして、で赤字でもいいから続けようと、 
みんな評価してくださるんだから。
 1番最初にわかってくださったのは、保育者の方何人かです。本当に素晴らしい保育者がいらして、こういうものを求めていたんだとおっしゃった方もあります。で、そういう方が子どもに読んでみると喜びますよっておっしゃるんです、実は、子どもが1番よくわかってくれたと思うんですね、そういうところから、これ、お母さんにもっと薦めましょうという風に言ってくださったりして、だんだん広がっていくわけですけれども。
 縦版の「こどものとも」だったのを、これが初めて横長にした本、最初の本なんです。横長にしますと、 絵がどんどん動くんですよ。

取材者:長くこう続いていく感じですね。

松居:どんどん絵が動くんです、連続性ってのは本当によく出る。

取材者:絵が動いていくんですね。お話も動いていくし。

松居:そのために、トラックを主人公にした本を作ったんですけど。車だったら動くだろうと。
 そして、やってみたら大成功だったんです、子どもが喜ぶんですよね。で、横長ですから、こう文章を縦に入れますと、非常に絵と合わなくなってくるんで、どうしても横に横書きにしてしまったんですね、絵本を横書きにして最初叱られましたよ私は。小学校の1年生の国語の教育書が縦書きなのに、どうして絵本を横書きにすんのかと、学校の先生からはよく言われました。でも、横にしないとこれ絵が動かないんです。今は絵本はほとんど横書きになってます。私はしてやったりと思ってますが。
 私は京都で育ちましたんで、たまたま本物の絵巻を見る機会が多くありました。戦争中、最大の絵巻物展っていうのを京都の国立の博物館でやってましたし、私自身中学生の時に絵巻に興味を持って、物語を絵で表現するっていうことが、本当に日本は豊かに伝統があるってことを知ったんですね。
 例えば、「鳥獣戯画」というのを見ますね。あれ色ついてないですよね、白黒なんです。それでも見事に物語を語ってる。ですから、私はアメリカの白黒の絵本を見た時に、これはこれでいけるよと、色がなくたって、子どもはちょっと物語を読めるんです。
 そういう絵巻物をかなりたくさん本物を見てましたので、日本の物語への伝統っていうのは、どれほど豊かかってことは薄々感じていたんです。その絵巻の連続性ってのは、とっても見事なもんだっていうことで、横にした時に、それを活かしたかったんです。これは、絵巻と同じだと、絵巻の手法をうまく取り入れれば良い本ができるだろうという風に思いました。 
 特にこれはそれを意識しました。日本の昔話ですから、それで絵のスタイルも大和絵風になってるんです。これは、もう明らかにこういう風になっていて、特に橋がこういうところはもう絵巻の画面にそっくり。赤羽先生、赤羽末吉先生が絵を描いてくださったんですが、この本を作る時は、絵巻のことを2人で一生懸命話し合いました。かなり長時間絵巻の特色、「信貴山縁起絵巻」がどういう風になってるかとか、あるいは「鳥獣戯画」がどうだとか、そういった日本の絵巻のこう表現方法ですね、それを話し合って生かそう。この中に生かそうということになりました。たまたまテキスト私は書きましたけれども、

取材者:「鳥獣戯画」風の白黒のところもそうですね。

松居:これは舞台裏を申し上げてしまうと制作費を節約するためなんです。もうその頃だってまだ楽ではありませんから、なるべく安く作ろうと思いました。そして、この色のついた場面と、白黒の画面が交互に出てくる時には、子どもたちは夢中になって、これをこの世界に入ってきますとね、全部色がついてるんです、子どもの世界の中には。今でも時々大人になった方に言われます。大人になって見たらこれ白黒の絵があった、子どもの時には全部絵がついてましたよって言われたことがある。そういうの何冊かあります。どうしてあの絵を変えたんですかと。その方の中ではもう全部色がついてるんです。それは私はよくわかる、そのことも考えに入れて作ってましたから。

取材者:これ、松居さんが文章をお書きになってらっしゃるわけですけど、これ文章をお書きになる時、、、

松居:こういう日本の昔話の再話をする時でも創作は少しありますけども、私は必ずテープに吹き込んでみます自分の書いた原稿を、そして聞いてみるんです耳で、で文章を直していきます。子どもたちには読んでやるわけですから。だから、目で読んだ時と耳で聞いた時ととっても違うんです。
 ですから、自分の文章でも1度テープに吹き込んで、そして聞いてみますと、ここのところリズムが悪いとか、ここのところでイメージが切れてしまうとか、 自分では全部つながって書いたつもりなんです。ところが耳で聞くと、そうここは見えないねとかという、
そういうことに気がつきました。
 言葉というのは、目に見えないんだけれども、見える世界を作りますよね。そして、そこからいろんなものが生まれてくるわけです。絵だって、基本言葉があるだろうと私は思うんですね、言葉ってのは人類の歴史でもそうです。まず、誰かが語った、で、それを聞く人がいて、その次にそれを文字を発明して書いて読むという、書くということをやったわけですから、言葉の体験で1番大切なのは語り聞くっていうことです。声の言葉なんですよ。その声の言葉の耳から聞いて、言葉の世界へもうどんどんどんどん入っていく、昔話をお聞きになればお分かりになると思いますけど、昔話の語り手はただ語るだけですから、ところがちゃんと世界が見えてきますよね。そういう耳で聞いて、言葉の世界へ自由自在に出たり入ったり出たり入ったりする体験を持っていますと、文字というものを読んで、言葉を読んで、言葉の世界へ入っていくことができるんです。

取材者:それは松居さんはその絵本を作り始めた最初からそういう風に考えてやってらした?

松居:だんだんわかってきたんです。でも、耳で聞くってことがないと、字を読んでも、その文字になっている言葉が生きてこないと、本当に実感として感じられないってことは薄薄感じていました。

取材者:何かこう、大きな特別なご体験みたいな、

松居:はっきりそれを感じたのは、昔話を聞くようになってからです。日本に語り手が何人もいらっしゃいます。私は遠野の鈴木サツさんという方の語りを長いこと聞かせていただきました。200話語りですからね。そういう方の話を聞いていますと、僕の中に生き生きと物語の世界が見えてきますよね。で、言葉ってものの、本当に力ってすごいっていう風に思うようになりました。
 その遠野の鈴木サツさんという語り手がおっしゃったんですけれども、サツさんは、お父さんから小学校の5年生まで、昔話は大体聞いてるんです。それ以後はもうほとんど聞いてないんです。サチさんがある時に語っている父の中には、絵が見えていたと思いますとおっしゃった。それが、自分の方に言葉と一緒に伝わってきて、自分の中に世界が見えるようになった。ですから、表情だとか、声の調子とか、そういうものを全部トータルして、お父さんの中に見えていた絵がサツさんにわかったんですね。
 だから、サツさん語る時に、言葉で語るんではないというようなニュアンスのことをおっしゃったんです。自分に見えている世界を言葉にするんだって。ですから、200話語れるんですよ。

取材者:文字として覚えてるんではないってことですね。

松居:言葉を覚えてるんじゃないんです。その物語を自分の体験として持ってるから、今度は「一寸法師」の話をしようかと思うと、一寸法師の世界が見えてくる、それを言葉にしてる。時々話し方が違うわよねと思うことがあります。

取材者:そうすると、それを文字にすると単なる文字になってしまう。

松居:まあ文字にうちでしましたけれども189話は。でも、それを読んだ人が本当に豊かな言葉の体験と昔話を聞いた体験なんかがあれば、サツさんの世界をもう一度想像することができるんですね。

取材者:それがないと

松居:ないと、まあ、そういう話かということで、おしまいになってしまう。
 聞くっていうのは、その自分の中にイメージを働かせるということが聞くということですから、ただ、言葉を聞いてるだけじゃなくって、そういうことが多いですけれど、その語ってる人の気持ちだとか、語ってる人のどういう風なイメージを描いて語ってるのかってことは、それがちゃんと聞ければ、これは聞けるということだと、聞くということだと。
 文字を発明したのはせいぜいで4,000年、言葉は何万年前からだと思いますから、長い間話、聞くという言葉しかなかった。そこへ文字という声の言葉、文化だったのが、文字の文化になってしまう、そして、ものすごく豊かになった面と、貧しくなった面があるんです。豊かになった面はそれでいいんです。 ただ、貧しくなった面を補っていかないと、子どもの育ちに関わってくる。それが、とても気になってるんです。
 字は読めても本が読めないです。字を読んで、本を読んで、その言葉の世界にどれほど深く入り込んでいくかってことが読書です。だから今の子どもたちも同じことです。

取材者:聞いた言葉で自分の中にイメージを作るようなことが持ってないと、その今おっしゃってる、例えば、大人になっても本が読めないような、、、

松居:読めないです、字を読むというのは技術ですから。字を読むという技術を駆使して、言葉の世界へ入るということが読書ですから。字を読むってことは、みんな技術は持ってるんです。ところが、言葉の世界へ入って、もうどんどん入っていくという体験を持ってないもんですから、そこで立ち止まってしまう。それが今、子どもの体験の中に決定的にかけてるんじゃないでしょうか。早くから字を教えて読むということを主にしますでしょう。聞くことの方がはるかに大切。
 怖いことだとか、悲しいことだとか、心が痛むということだとか、それから憎むということだとか、あるいはまた、妬むということだとか、そういう人間の感情がありますでしょう、人間のそういう悪だとかですね、痛みだとか、恐れだとか、悲しみだとか。一方で勇気だとか、愛だとか、そういうことは素晴らしいことはありますけど、その人間の両面っていうのは物語にほとんど語られてます。1番昔話によく語られています。
 昔話の中には残酷なのいっぱい出てきます。怖いのもいっぱいあります、面白いのもありますけれども、そういうものを物語として体験していれば、それを聞いてる子どもたちは、怖いと思ったり、時にはこれはかわいそうじゃないのと思ったりしますでしょう。そうすると、反発をしたり、憤りを感じたりという心の動かし方が、動かしますよね心を、その時に、本当に豊かに子どもたちの内面が育っていくんだろうと思うんですよ、それが物語体験。 例えば「3びきのこぶた」っていう話の1番最後は仲良くしたりしますよね、狼と仲良くしたりします。そんなことしたらダメですよ。狼と仲良くしても、狼はまたやってきますよ、だって、狼は豚が食べたいんですから。でも本当はイギリスで語られていた「3びきのこぶた」っていうのは、 1番最後の、1番目の豚さんと2番目の豚さんが食べられて、3番目の豚タさんはレンガの家に住んでいて食べられなくって、狼が家の中に入ってくると、その狼を沸騰しているお鍋の中に落として、蓋をして、ことこと煮て、晩御飯に食べてしまいましたっていうこれがイギリスの昔話です。びっくりしますけど子どもは最初、でも本当に面白そうに笑います。してやったりっていうことですよ。怖い狼はもう絶対出てこないんですから、めでたしめでたしです。

取材者:それをなんか、そんな残酷に鍋に入れちゃいけないとかっていうのは、それは大人が勝手に思う、、、

松居:大人がそう考えるんです。
 ですから、子どもは残酷なことも悪いこともな知らないんです。悪っていうことを知らないんじゃないですかね、悪を知らなければ善だとか、そんなことはわかりません。両面ですから、必ず両面ですから。

取材者:大人たちは私も含めてですけど、例えばすごい残酷なこととか、そういうその例え物語の世界でも、それがその現実と混同してしまうんじゃないかと逆に思ったりして、その残酷なところをかえってカットしてしまったり。
松居:昔話はちゃんと1番最初に「むかしむかしあるところに」って語るんです。これは昔話の鉄則です。これは話だよってことをちゃんと現実のニュースとは違うんです、これはお話よってことで、「むかしむかしあるところに」っていうふうに語り出すんです。これ、世界的にそうですよね、つまり、子どもをものすごく信頼してるんです昔の人は、これはお話だよってことをちゃんと最初に言っといて、最後に結末の言葉をつけますよね。これでお話はおしまいなのよっていうことで、子どもたちはこれはお話だなってことで聞くんです。
 そこのその現実と物語とフィクションと現実のけじめってのは、子どもはちゃんとできるんです。どうして大人はそれを信頼できないのかな、子どもを信頼してない、子どもって信頼されると、ちゃんと応えるんですよ。
 どんな怖い話でもですね、お母さんが語ったら子どもは安心して聞いてますよ、 お母さんいるんですから。怖い話を怖いと思いながら、済んだらちゃんとお母さん横にいるわけですから。あーよかったと思いますよね。そういう体験が大切で、だから、絵本読んでやるのも1番いいのは、お母さんとお父さんです。怖い話だって、お父さんいれば絶対大丈夫ですからね、子どもは安心して怖がってますよね、 安心して悲しがってます。
 それから、喜びの言葉ってのは残るんですよね。その言葉を聞いたり読んだりして、本当に共感したり、感動したり、まず喜びを自分の心も本当に動いて喜びを感じるような言葉の世界というのはいつまでも残るんです。ですから、今でもその母親が読んでくれた絵本の言葉の世界を覚えてるわけですよね。
 言葉を本当に豊かに持つってことは、生きていく力だと私は思います。それを子どもたちに、子どもの時代にちゃんと体験してほしいですよ。言葉ってのはこんな不思議な力を持ってる、こんな楽しいものって、こんな面白いものだと、そういう言葉を豊かに体験していれば、子どもはやっぱり新しいものを作っていくだろうと思うし、そして、生きるってことも作ることと同じですから、生きていく力を持つだろうと思うんですよね。そのために、子どもの本っていうのを 作りたい。

ナ:松居さんは今、新しい絵本作りに取り組んでいます。1,600年前、陶淵明が書いた「桃花源記」を題材にした作品です。
 編集者は唐亜明(たんあみん)さん、松居さんは文章を担当しています。絵は中国の女流画家、蔡皋(さいこう)さんが描きました。国際的な絵本の原画展にも入賞した実力の持ち主です。
 物語は川を遡って山奥に入った漁師が、桃の林の奥にある隠れ里、桃源郷に迷い込むというお話です。
 5年前、松居さんは物語の舞台とも言われる中国湖南省を訪ねました。唐さん、蔡皋さんと共に、人々が平和に暮らすという理想郷の面影を求めて山道を歩きました。 
 松居さんにとって、桃源郷は幼い頃の思い出にまつわる心にかかる場所でした。

『松居:子どもの時に、「武陵桃源」という掛け物、水墨画を見ていて、なんか小さな人間がその桃の林を越えて向こうの方へ山の中入っていくような絵があったんですよ私の家、春になるとその絵を親父が掛けたんです。
 僕はなんとなくファンタジーを感じたんです。その向こうに世界があるんだっていう風に思ってたんです、小学校の低学年の頃だけれども、これはなんという絵だって親父に聞いたら、「「武陵桃源」という絵だ」と言ったんですよ、意味もわかりませんけどね。 それは、意味を知ったのが、中学の3年生の時に漢文を習っていたら、陶淵明の「桃花源記」というのがあって、それを読んだ時に「この話か」ということで初めて知ったんです。それ以来、やっぱり陶淵明の「桃花源記」は、とっても好きな物語。
 私のもう1つの世界というのがあるということを感じた、非常に大きな体験だった。いつか、そういうのも絵本にしたいなとは思ってましたけど』
松居:少年時代に読んだ漢詩の思い出、壮大な風景を描いた水墨画、松居さんにとって、中国は常に好奇心を書き立てられる豊かな文化な国です。今、松居さんは絵本を通して、中国との交流を続けています。

『松居:やっぱり、中国と日本との間の戦争のいろんなこと歴史を考えますとね、中国の出版界が遅れてしまったという原因は戦争ですからね。十五年戦争、日中の。その侵略戦争のために中国の出版界はもう本当に遅れてしまうわけなんです。出版人として、やっぱりものすごくそのことを僕は感じました。もし、1920年代のままいってれば、おそらくアジアの出版の中心は上海か北京だったかもしれません。本当にいい仕事をしてらっしゃったんです。
 特に「小朋友」という雑誌は見事な雑誌ですけれどね。魯迅も関わりを持ってたような雑誌で大変レベルの高いものです。それはそういうこと考えるとほっとけませんよ、お隣の人、お隣の人のために働かないと、聖書にそう書いてありますから』

 

私のことば体験 (福音館の単行本)

桃源郷ものがたり (世界傑作絵本シリーズ)

絵本・ことばのよろこび

松居直講演録 こども・えほん・おとな (「絵本で子育て」叢書)

言葉の力 人間の力

2023/1/15 瞑想でたどる仏教~心と体を観察する~ 第4回 中国文化との融合(再放送、初回放送:2021/7/18)

蓑輪顕量:東京大学大学院教授
為末大:元プロ陸上選手
ききて:中條誠子

ナレーター(以下「ナ」という):群馬県渋川市の山間にある佛光山法水寺、台湾に総本山のある臨済宗の寺院です。ここでは、中国で育まれた仏教の様式に触れることができます。僧たちは仏の名を繰り返しています。中国仏教では、木魚やかねに合わせて歌うように念じます。念仏の調子を緩やかに変化させながら心を静めていく中国仏教の瞑想です。
 ブッダを悟りに導いた瞑想は、中国に伝わり、多様な文化と交じり合うことで大きく展開します。それは、やがて日本に伝来し「日本仏教」の原型を築きました。今回は、中国の人々の心をとらえ広まった仏教瞑想の歩みを辿ります。

中條(以下「中」という):心の時代では毎月1回「瞑想でたどる仏教~心と体を観察する~」と題しまして、 仏教瞑想の世界をご紹介しています。教えてくださいますのは、仏教学がご専門の蓑輪顕量先生ですよろしくお願いいたします

蓑輪(以下「蓑」という):よろしくお願いいたします。仏教と聞くと、お2方はどのようなものを考えられますか。

為末(以下「為」という):お葬式とか、あとは念仏っていうか、南無阿弥陀仏というとこですかね。

中:大仏とかです。

蓑:今私たちが仏教という言葉を聞いて、連想するものというのが実は大体中国仏教から継承してるものだと思います。

為:じゃあ、それより前はなかったんですね、

蓑:全部がなかったというわけではないんですけども、やはり、中国に入ってきますと、中国の文化、歴史、そういうものに影響されて、仏教もその存在の形態を少しずつ変えていったのではないかと思います。

ナ:2,500年前、インドで生まれた仏教は1世紀半ば頃、中国へもたらされます。仏教の瞑想は、インドとは異なる文化を持つ中国で大きく変容します。
 元々、仏教の瞑想は、ブッダが生きる上での悩みや苦しみから逃れる道を探してたどり着いたものでした。
 ブッダの瞑想は、初期の仏典では「念処」という言葉で表されています。「念処」とは、 ある対象に注意を振り向け、しっかりと把握すること。例えば、呼吸する時の体の動きや
五感に刺激を受けた時の心の働きなどに気づき観察します。
 自らの認識の仕組みを把握し、心が勝手に苦しみを生み出したり、増幅させたりしないようにするのが仏教の瞑想です。仏教がインドで起こった初期には、瞑想は静かな場所で一人で集中して行うものでした。それが中国に入って、どのように変わったかというと、、、

中:なんかこう歌うようですね。

蓑:そうですね、経典の文章を歌うように読むというのが中国で始まってきます。これは最初期にですね、やはり教えの中身そのものを理解するのは大変だったみたいでして、それで、経典を歌うように読むというのが行われていたという風に推測されていますので、それが現在にまでま部分的に継承されてるんだと思います。

為:読みやすいようにってことですね。

蓑:そうですね、 あと、歌うような感じで、やはり心の働きをなんか1つのものにこう結びつけていくっていうような意味もあるんだと思います。

為:これも、瞑想の1部分と言ってもいいんですか。このみんなで一緒に歌うってことは。

蓑:はい、実際にやってることは1つのことに専心していますので、瞑想のうちの1つと考えていいと思います。

中:だいぶ華やかになりましたねね。

蓑:基本的には、シルクロードを通じてインドに成立した仏教が中国に入ってきます。この仏教が、中国の社会の中に根付いていって、大きな影響を与えていきます。 
 実際にですね、中国で大きなお寺さんが作られていきます。今、私たちはお寺っていう言葉を使っていますけれども、この言葉自体も、中国でできたと考えられていまして、一説なんですけれども、後漢の時代に外交を司る役所が鴻臚寺(こうろじ)という名前で呼ばれるんです。そこに外国からいらっしゃったお坊さんが留め置かれたと、そこからお坊さんのいるところが寺と呼ばれるようになったという一説なんですけど、そういうのがあります。

ナ:「苦しみから逃れる道」である仏教の瞑想が中国に入り姿を変えたのはなぜなのか、 仏教を最初に中国に伝えたのは、インドや西域で出家した僧たちです。彼らの布教活動は一筋縄では行きませんでした。

為:仏教が入ってくる前は中国には宗教はなかったんですか。

蓑:実際には中国にすでに色々な思想が存在していました

為:宗教ではなくて思想ですか

蓑:宗教と言ってもいいと思いますが、紀元前にですね、もう皆さん、「諸子百家」という言葉を聞いたことあると思いますけども、様々なことを主張される方が存在していました。 その中で、儒教が1つ大きな流れを作っていくと、儒教の中に伝わっている資料ですけれども、「四書五経」というのを聞いたことあると思うんですが、そのうちの「詩経」と言われるものの中に出てくるお話にですね、「山にはにれの木がある、沢には栗の木がある、 家の中には鐘や太鼓が置いてある。それを使って楽しまなければ死んでしまったら人のものになってしまう」っていうようなですね、言い方が出てきまして、それはもうまさに生きてるうちに楽しみましょうというですね、そういう感覚が結構強かったんではないかなと推定されています。

為:とっても現世的っていうか、生きてる間が人生華だよみたいな、そんな感じだったんですか

蓑:現実の世界を大事にして、過度な享楽は戒めるけれども、今を楽しむことを大事にしようという考え方だったのではないかと言われています。

為:なんかでもあれですね、苦しみを解決するために生まれた宗教ですって持ってったら、 楽しく生きるのが大事だよって言ってる人に、これ説明するの難しいですね。苦しみなんてないからって言われると。

蓑:はいですから、これは南北町時代の資料なんですけれども、「理惑論」っていう名前で呼ばれてる資料の中に、異国の地の仏教者、お坊さんたちはですね、衣1枚の着物をまとって、そうして、日に1回だけ食事をしていると、それで戒律を守ってですね禁欲的な生活をしているけれども、それが一体何になるんだというですね、非常に厳しい批判がですね中国側から出されていますので、おそらく受け入れられるまでには大変な苦労があったと思います。

為:なおさらでも興味は来ますね、どうやって。

蓑:実際にその仏教は異国の宗教として、最初は まあ非常に小さな集団として始まっていくのではないかなと思います。そこからですね、現在では中国の三大宗教の1つという言い方がされるようなところまで展開してきますので。なぜそこまで仏教が大きくなったのかっていうのをこれからですね見ていければという風に思っております。

中:異国で仏教がどのように広まっていったのか、その謎を解くために、今回は中国でこの瞑想を広めていった3人のキーパーソンをご紹介したいと思います。こちらです。

為:なんか特徴的ですね、こちらのシルエットの方だけね。

中:蓑輪先生、この3人はとても大事なんですね。

蓑:この人たちがいなければ仏教は今中国でここまで広まっていないと思います。それぐらい大切な人物という風に考えていいと思います。

中:では、早速見ていきたいと思います、1人目はこちらです。安世高、2世紀頃の方なんですね。

蓑:この方は、中国の後漢の時代に入ってきた、安息国、今のいうところのパルティアと考えられているんですけども、そちらからいらっしゃった方です。 
 この方は安息国の王位継承権を持たれた太子であったと考えられているんですけども、お父さんの王様が亡くなられた後、その位をですねおじさんに譲られて出家してしまうと。

為:じゃあ外国人だったんですか、中国に伝えた方は。

蓑:そうですね、仏教をですね中国に伝えた方たちというのは、中央アジアとかこの安息国のようなですね、ちょっとインドから離れた所からの方たちが多かったと考えられています。

中:この安世高さんは、一体何をした人なんですか。

蓑:大変に、語学に達者だったと見えまして、そのインドに伝わった仏教の教えを 、中国語に翻訳された最初期の方です。 
 瞑想に関するものを安世高さんはかなり訳していらっしゃいます。瞑想資料に関係する経典を後漢の、仏教が伝わってきた初期の段階で翻訳されているという点で、安世高さんはとても重要な人物だと思います。

中:具体的には何を翻訳したんですか。

蓑:安世高さんの翻訳した資料の中では、「安般守意経」という資料があるんですけれども、「安般守意経」という風に出てくるんですけども、「安般」はその入る息、出る息を翻訳したと考えられています。で、おそらくその次の「守意」というのがですね、これは、念処という風に他のところでは訳されていますけれども、 心を対象に振り向けて、そうしてしっかりと把握していくというですねそれも翻訳語だと考えられます。
 この「守意」という言葉が、実は大変に興味深いところでありまして、「老荘思想」と言われるんですけども、老子荘子の考え方というのが存在してたといいます。老荘の言葉の中に、実は「守一(しゅいつ)」という言葉が出てまいります。「守意」というのがですね、その「守一」というですね言葉を連想させるものではないかと思います。こういうことをしたというのはですね、おそらく仏教を当時の人たちに受け入れやすくする、ある意味で、ハードルを下げたという風に言うことができるのではないかと思います。

ナ:安世高が最初期に翻訳した「安般守意経」、「安般」は入る息と出る息、「守意」は
注意を振り向け、しっかりと把握する念処を示しています。つまり、安般守意経とは、呼吸などをしっかりと把握する瞑想の経典という意味になり、まずはブッダの瞑想を伝えようとしていたことがわかります。
 さらに、注目すべきは、仏教に欠かせない念処を「守意」と訳したことです。この「守意」、中国の人々には「守一」という老荘思想の言葉を連想させました。中国伝統の老荘思想、その根幹には「道」と呼ばれる理念があります。道は世界が始まる前の状態、姿形はなく、絶対的で普遍的なものとされます。道から世界が生まれる時、最初に生じるのが「一」万物の礎です。「一」を守ること、すなわち「守一」を中国の人々は重んじていました。
 安世高は、仏教に欠かせない瞑想を伝える際、この尊い言葉「守一」を音や見た目で連想させる「守意」を使いました。最初に用いた訳語が、人々に敬意や親しみを持って受け入れられたことが、後に中国で仏教が広まっていく確かな足がりとなりました。

為:これ、老荘思想を選んだのはなんでなんですか。そこに、なんか儒教とかそういうのも
あったと思うんですけど。

蓑:それは、儒教思想の方が現実の世界のですね、人間関係を大事にする教えとして、展開してきますので、処世術ですね、政治思想だと言ってもいいと思います。でも、その政治の思想というのは、時と場合によっては争いが起きて、例えば敵に攻められてきて、町全体が焼かれてしまえば、もう何も残まらなくなってしまうと、そういう考え方に対して変わらない何かを求めようっていう、思想運動が起きてくるんだと思うんです。これが実は老荘思想なんです、老荘思想の中には根源的な何かみたいなものが、私たちの見ている世界のその向こう側に存在しているという風に考えて、それを「道」という言葉で表現したと考えられます。
 ですから、真実を求めていくっていうようなところが仏教がですね、求めているものも真実を求めていくっていうところがありますので、共通するものと考えられて、老荘思想の方に、仏教の言葉を翻訳する時にですね、そこから借りたんだと思います。

中:それにしましても、このどうして瞑想を訳そうと安世高さん思ったんでしょうか。

蓑:おそらく、安世高さんの出自みたいなものも、王様の家に生まれて、でも若くして王様もなくなってしまって、そこで感じたものがあるんだと思うんです。そういうその悩みや苦しみを越えていくための道というのを故郷にいる時にすでに学んでいたんだと思います。 
 おそらくそれは地域を超えて、時代を超えて共通するものではないかと思いますので、それをやっぱり中国の世界に伝えようということを考えたのではないかなと思います。
 ですので、仏教にとって重要な瞑想のですね、具体的なノウハウを最初に伝え、中国の人たちにとって身近なものとしてですね、受け止めてもらえるようにしたということではないかと思います。

中:でも、いくら自分の悩みや苦しみが深くても、この異国でですね、この苦労は並々らぬものかと思うんですけども、

蓑:それはやはりブッダに対する「信」みたいなものと、悩みを越えていく道としてですねこれしかないっていうような意識でいらっしゃったのかもしれないですね。皆さん、当時インドから中国へという距離を考えますと、大変なところを、ましてや、今のように電車があるわけでもありませんので、徒歩で大体皆さんいらっしゃってるんですね。ですから、本当に命懸けで何か伝えようという気持ちでいらっしゃってるんだと思いますので、そう思わせるものが、仏教の中にはあったと言っていいのではないかと思います。

為:そもそも仏教自体がこう苦しみに向いてるわけじゃない。苦しくないなら、それが1番いいけども、でも、生きてるって苦しいことが起きるから、そのある意味カウンターっていうか、その世の中の救いのためにできた仏教だと思うんですけど、 なんかお話伺ってると儒教っていうのが、現実的に出世の道だとしたら、やっぱそれだけじゃこう人の苦しみが受け止めきれないところに、目に見えてるもんじゃない、また別のこうなんていうかな、真実があるんだっていうことで、救いを提供してた老荘思想があって、仏教がこうくっついて、それがなんか融合していくみたいなところがすごい面白いなっていうのを伺ってて思ってるとこですね。

ナ:西域からシルクロードを通じて、中国へと伝代したのは「大乗仏教」です。紀元前1世紀頃インドで起こった大乗仏教では、ブッダが至った悟りの教地は、全ての人に開かれていると教えます。
 大乗の教えを広く伝えようとした僧たちは、多様な文化が行き交うシルクロードで、数多くの仏像を作りました。インドと中央アジアを結ぶ交通の要所、ギルギットの断崖に掘られた仏の立ち姿、仏の姿が言葉や文字だけでなく、彫刻や絵で表現されたことで、仏教を人々にとって親しみやすいものになりました。
 仏像など、目に見える仏の姿は、瞑想の対象でした。天井を埋め尽くすのは仏たち、仏画や仏像を元に僧たちは仏の姿を脳裏に焼き付け、それが目の前に立ち現れる様を観察します。「観想念仏」と呼ばれる瞑想です。
 シルクロードのオアシス都市「敦煌」、西域からの文物はこの街を通って中国に入りました。敦煌郊外の断崖には、仏教の僧たちが寝起きし、修行した切窟が残されています。内部を彩るのは、極彩色で描かれた「悟り」の世界、僧たちが瞑想の対象とした仏の造形は、中国に至ってより写実的で色鮮やかなものとなります。華麗に視覚化された仏の世界は言語や文化の違いを超えて、人々を仏教へと引きつけました。
 長い旅路を経て、仏教は新たな瞑想や美術を生み出し、異なる他者にも受け入れられる形へとしなやかに変容していきました。

中:2人目のキーパーソンをご紹介しますこの方です、智顗(ちぎ)さん。

蓑:天台宗の祖とされています方です、天台山というですね山を拠り所と言いますか、拠点にしますので、のちに、「天台大師 智顗」という名前で呼ばれるようになる方なんです。 智顗さんはですね、仏教の瞑想が東アジア世界に伝わってきて、そして、色々なパターンが、やはり実践されるようになっていくんだと思うんですけど、そういうのをこう整理するような形で、新しいものを打ち立てていくんです。インドから伝わってきたものに対して、整理の仕方をですね、少し変えまして、誰にでも分かりやすい形にいたします。で、それがまあ1つ理由なんだろうと思うんですけども、多くの人たちにとって実践しやすいものとして、 受け止められていくのではないかと思います。

為:編集者って思うといいですかね、教科書を作った仏教の編集者みたいなイメージですかね。

蓑:そうですね、そういう側面もあると思います。1番流布したのはですね、「天台小止観」という名前で呼ばれるんですけれども、この「天台小止観」は伝承では在家の信者さんのリクエストに答えて、一般向けに仏教の瞑想を解説したものだって言われていまして、とてもわかりやすいんです。言わばエッセンス版を作ったのではないかって言われているんですけども、実際にその後、色々な宗の人たちに、 瞑想修行のための指南書として使われていくものになっています。

ナ:智顗が活躍したのは6世紀、インドから多種多様な瞑想の手法が中国に流入していた時期でした。そこで力を入れたのは、様々な瞑想を整理し、一般の人々にも実践しやすいものとして伝えることでした。「天台小止観」はいわば、初心者向けの瞑想のガイドブック、そもそも瞑想とは何か、どんな順序で進めれば効果的かなどをわかりやすく解説しました。
 中でも革新的だったのが、ブッタの時代には4つに分けられていた「念処」の観察対象を中国の人々のものの見方に合わせて捉え直したことでした。

蓑:為末さんこれ、第1回目の時に「四念処」というお話をしたんですけれども覚えていらっしゃいますでしょうか。

為:言葉は覚えてるんですけど、4つなんかでしたよね

蓑:「四念処」というのはですね。初期仏教のところで、ブッダの観察の対象に、応じて分けたものなんです。

中:身・受・心・法でしたね

ナ:観察対象に注意を振り向けしっかりと把握する念処、4つの分類がどんなものだったかというと。
 例えば、何か聞こえてきたとして、音自体やそれを知覚する体の部位を意識するのが「身念処」。その音が心地良いか不快かなど、刺激を受けて最初に生ずる感覚を観察するのが「受念処」。さらにそこから心に生まれた喜怒哀楽などの感情を把握するのが「心念処」。
そして瞑想をしていて、そわそわしたり、眠気や疑念に苛まれたりする心の働きなどを観察するのが「法念処」です。
 でも、この4つちょっと複雑でわかりにくいような。

蓑:これ、今の私たちの感覚で言いますと、受も心も法も全部心の働きなんですよね、そう考えると、なぜ受、心、法という風にですね分けなければならなかったのかっていうのが、あまり納得がいかないような気がします。で、これをですね天台大師智顗さんは新たな分類法を発案いたしまして、それがとてもわかりやすいんです。
 智顗さんはですね、歴縁と対境という言葉を用いるんですけれども、私たちの身体による動きですね、これを縁という言葉で表現するんだと思うんですけども、それを通してというのを歴縁という風にですね表現いたしました。

為:なんか、呼吸みたいなものは歴縁?

蓑:そちらも入ってきますね。
 で、対境というのはですね、これ心の働きなんですけども、これ実は、私たちが感覚器官を通じて受け止めているものが対境という名前で表現されました。

中:2つに分けられたんですね。

為:まあ、でもとってもわかりやすくなった感じですね。

蓑:はい、そう思います。やはり、今の私たちにとっては、例えばもうこの西洋の考え方の影響もあるのかもしれませんけれども、 精神と肉体とかっていう分け方が馴染みになってると思いますので、おそらくわかりやすいんだろうなと思います。

為:そうか、心身だからに2元論というか心と体っていういう風に。

蓑:はい、新たに整理し直したというところが、大変に優れていたのではないかと思います。

為:本質がわかってないと、こんな風に分けられないなと思って、理屈だけでわかってもわからない。実際にやってみて、これはこことここの境目が1番、2つに分けてわかりやすいんじゃないか、そういうことですよね、

蓑:それはご自身がですねよく知っていなければ、そういうことできないと思いますので、 非常によく何を伝えるべきなのかというのをやはりきちんと認識していて、そのために、どの部分を省いていくのかというのをしっかりと把握することができていたと考えていいと思います。

為:正確であるっていうことは、複雑であるっていうことなんですよね。だから、陸上理論も本当に正確に語ると複雑に膨大になっていって、だって、手の指の関節だって無数にありますから、それをどう動かすと早く走れるかってのはもう説明するとたくさんあるんだけど、やっぱりいいコーチってのは、選手の様子を見て、なんかいろんな動きはあるんだけど、ハードルの上にまるで、サーカスの火の輪っかがあるように、くぐってごらんっていうと綺麗に動くっていう、そういうなんかある1点とかあるすごいシンプルにした表現をすると、人の体が動き出すっていうのを見つけるのがいいコーチなんですけど、なんかそれを伺いながら、正確なんでしょうけどね上の方が、でも、私たちが実践するには、とっても腑に落ちるっていうか、やりやすい分け方をされたのかなと思って今聞いてました。

中:智顗はもう1つ瞑想に大きな変化をもたらしたそうですね。

蓑:はい、とても中国的だなと思っているんですけども、伝統的な「気」というですね考え方と言いますか、それを瞑想の中に取り込んでいきます。

為:気は中国の人でも言いますよね、

蓑:元々は医学的な考え方のところで見つけられたと考えられていまして、気はイメージではない、実際に存在するものですと、そういう風にちゃんと捉えてるんですね。私たちの身体の内部も私たちの外側も、流れのようにして存在している何かであって、それは訓練をしていけば、きちんとつかまえられるようになると。
 呼吸と連動して確認していくものだっていう風に説明されているんですけども、実際に 仏教が持っている呼吸の観察、これ入る息と出る息を見るっていうのが1番基本だと思うんですけども、気の練習の時には、その呼吸をする時にですね、足元から何かが上がってくるのを感じながら、そうして上の方までこう上げていくと。そして、今度は息を吐いていく 時に、上の方に上がった何かを下の方にこう下げていって、こういう呼吸の仕方をするんだそうです。心は1つの対象に、おそらく気の流れに結びついてますので、心の働き、落ち着いていく感じがします。

中:これも、中国の人にとってはこう受け入れやすくなっていった1つの方法だった?

蓑:と考えていいと思います。どのようなことを入れることによって、中国の人たちによく受け止められていくのかっていうなことをですね、おそらくは、考えていらっしゃったのではないかなと。

為:どうしてそこまでしたんでしょうかね。

蓑:智顗の活躍した時代というのも、南北朝の時代が終わりかけて、隋が統一していく時ですので、やはり大きな戦乱が続いていた時期だと思うんです。身近な人が亡くなっていくとかですね色々とやっぱり悩み、苦しみを目の当たりにしていた時代ではないかと思います。そこで苦しんでる人たちをいかに救っていくのかっていうことを考えていらっしゃったのではないかなという風に思います。

為:いろんな方が苦しまれてる時代だったと思うんですけど、その人たちに伝えやすくするために行った工夫っていうのが、このわかりやすさだったっていうことでいいんですかね。

蓑:おそらくそうなのではないかと思います。そのわかりやすさは、実は今の私たちにとっても同じようなものなのではないかなと思います。
 特に「天台小止観」のようなですね、エッセンスを分かりやすく説いてくださったものというのが、私たちが読んでも納得もしやすいものではないかなと思います。
 そのエッセンスは、天台の伝統を継承した人たちだけではなくて、禅宗とかですね、他の宗の人たちの間でも、この「天台小止観」っていうのは大事なものとして使われていきます。

中:中国に仏教を伝えた3人のキーパーソン3人目、シルエットは大変気になりますね、その名も、菩提達磨

為:さすがにこの方の名前は聞いたことはありますね。禅宗を作られた方なんですね。

蓑:禅宗の祖という風に言われます。先ほど、菩提達磨さんが隠れてた時のシルエットがありますが、形はなんだかわかりましたでしょうか。

為:達磨の、、、

蓑:はい、菩提達磨さんは。洛陽の郊外の嵩山少林寺っていうところに入られて、9年間
壁に向かって座禅をしてらっしゃったという風に言われる方なんです。 
 で、そのあまりにもずっと座禅をしていてですね、手と足がなくなっちゃったっていうようなですね、そういうお話ができてきまして、今のようなだるまさんが出来上がるんです。そういう意味で、非常に馴染みの深い方ではないかと思います。

ナ:「禅」はサンスクリット語の「ディヤーナ」から来た言葉で、心が静まった状態を指します。
 インド出身とされる菩提達磨は、禅を中国で発展させ、座禅などを重視する新たな集団 「禅宗」を打ち立てます。
 禅宗の最大の特徴は、瞑想を実践する際、中国の文化を積極的に取り入れたことでした。

蓑:1番最初に、中国の人たちの中に現実を大事にする、そういう傾向が見て取れるのではないかっていう話をいたしましたけども、まさに現実を肯定的に捉えていくっていうようなですね発想が初期の禅宗の文献から感じられるところがあります。

為:その感覚を取り入れていったってことですか

蓑:そうですね。その現世肯定の1つの表れだと思うんですけども、達磨さんを祖と仰ぐ集団の中に、唐の時代からなんですけども、「見性成仏」というですねオリジナルな考え方が出てきます。「見性成仏」というのはですね、これは最初に人間、私たち自身もですね本性を、はっきりと見てとることが大事、その後で修行をしていくっていうようなことをですね考えていたのではないか、これは、時代によってちょっとこう解釈変わったりもするんですけれども。

中:「本性を見て取る」、どういうことですか。

蓑:本性というのはですね、私たち自身が実は仏に他ならないということに気がつくことだと、本性というのは、実は私たち己自身が仏に他ならないということだという風に言われています。

為:見性成仏ですね、「性」っていうのがそのままで「見」っていうのがあらわす、で、「成仏」っていうのが、

蓑:仏になる。

為:だから、そのままが仏としてあらわれるってそんな感じですか。
蓑:そうですね、私たち日常生活の中では自分自身が仏であるなんてことは考えもしませんし、でも、自分自身をですね、きちんと肯定的に捉えていく。まず最初に、自己自身が仏に他ならない、否定すべき対象ではないんだよっていうのを、きちんとつかまえた上で修行をしていくというようなことを意識してるのではないかと思いますね。
 「もともと仏である」という考え方から出発してきますので、自分自身がもうそのままで仏でいいんだよっていうですね、そこのところをきちんと踏まえた上で、修行もしていきましょうと、実際に修行をしながら、それに気がつくっていうことも考えてはいるんですけど、まずその「見性」をして、それが大事なことだよっていう風に、禅宗門の中では主張していく。

ナ:元々インドでは僧たちは瞑想し、コツコツと修行を積み重ねながら、先が見えない悟りへの道も手探りで進んでいました。一方、「見性成仏」を解く禅宗では、この過程がガラリと変わります。
 初めに、「自分は必ず悟りを得られる、なぜならば、仏たる性質が備わっているから」と、自らを肯定します。瞑想は悟りを得られることを自覚した上で、その道筋を確認するように実践していくものと捉えられたのです。

中:厳しい修行を経て、色々な俗世の雑念を捨てて仏になるっていうイメージがあるんですけれども、もう仏なんですか。

蓑:はい、それが多分中国的な発想と重なってる部分なのではないかと思うんです。先ほど老荘の話を少しいたしましたけれども、世界の根源になるものが存在している、それが「道」であるというような表現をいたしましたけれども、「道」が展開してこの世界に出来上がっている、その世界の中に実は私たちも含まれてるわけです。
 ですから、私たちもある意味で「道」が変化した存在であるという風に考えていきますと 、自己自身というのはその否定をするべき対象ではなくて、まず肯定的に捉えていくものに変わると思います。本来的に私たちは仏なんだということに気がつくというのは、現実を肯定的に考えていくっていう、中国の人たちにとってすごくマッチするものなのではないかと思います。
 
中:私たちはですねコツコツ努力した暁に達成したいものがあると思いがちだとは思うんですけども、最初っからオリンピックでメダル取れるよって言われてるような。

為:伺ってて、「何々になる」って話と「何々である」っていう、後者の方の立場を取るっていう話だと思うんですね。僕らの世界ではよく、コーチが言うことがあって、それは、
「馬に生まれたのに、木に登ろうとするな」という言葉があるんですけど、それは要するに、全ての人は自分の特性を持っていて、その特性ってのはやっぱり努力では変えられないから、その特性が最大限に生きる戦い方をしなさいっていうんですね。で、今のお話を伺っていくと、 努力っていうのが何かの克服っていうイメージで、選手もスタートするんですけど、でもやっぱり高いレベルにいってくると、克服ではちょっと通用しないので、むしろ本来持ってる力を伸ばすっていう風に発想は変わっていくんですけど、それは、「私はそもそも何々であった」っていうそのその存在を認めてからなる。だけど、この時にややこしいのはですね、自分が憧れる姿と、本来、自分が何々であるがずれてることがあるんです。そうすると、ここに葛藤が生まれて、自分はあなりたい、だけど、自分は本来こういう生き物であると、こっちを受け入れるっていうプロセスが出てくるんですけど、すごくそのことに話を聞きながら似ていて、だから、ある意味の、誰が抵抗してるってのは、実は自分の頭の中にある「こう生きなきゃいけない」っていう、なんか思い込みみたいなのをどう克服するか、 ちなみにそのコーチも中国人のコーチだったんですけど、多分にこの中国っていうか、アジア文化の考え方なのかもしれない。

蓑:「見性成仏」を実際にどのようにして、体得していくのかっていうところですけれども、そのために、禅宗の人たちは座禅とかをですね、よくなさってますけど、よく臨済宗さんで、使われているのは「公案」と言われる、論理的にはですね意味をなさないような、文章をですね修業者の方に出してですね、それに参究しなさいと。有名なのがですね「仏とは何か」っていう質問に関して、「麻三斤(まさんきん)」っていうのがあるんです。麻三斤っていうのは、麻、三斤っていうのは、重さの単位ですので、大体2kgって言われます。ですので、仏とは何かと聞かれて麻三斤という風に答える。これもですね、気がつく内容は、自分自身が仏なんだっていう風に気づくことがどんなに論理関係があるのかっていうのはですね、おそらく、唐の時代ぐらいまでは、お坊さんたちがですね。出家する時には、衣を自分で作らなければいけなかったんだそうです。で、その衣を作るための布の量が大体3kgですから、質問に対して仏とは何かって言われて、麻布2kgっていう風に答える文章、なんでだろうと考えてるうちに、麻布2kgは出家をした時に作る衣を作るために必要な量
だと、そうすると、これはその麻三斤で作られた衣を着てる人が仏なのか、私もその衣を着ている、なんだ自分自身のことじゃないかと思います、こういう風に気づいてもらうために、作られた工夫の問題だったんじゃないかって言われるんです。
 唐の時代に作られたその公案と言われるですね、この問題は、「自分自身が仏に他ならない」っていうことを気づかせるために作られた工夫だと言われているんです。これ、実際には答えを探して、一生懸命こう考えていくわけですから、1つのものにやっぱり集中してくんです、そういう点では修行の1つにもなってるんです。
 1つのものをこう考え続けていくっていうところで、その心の働きを静めていき、かつ、他のものが起きないというんですね。で、そういう状況に入ってるんだと思うんです。ですからとても面白い工夫だと思います。

ナ:自分自身を肯定した上で、悟りへと向かう見性成仏の理念は、 中国の人々を禅宗へと引き寄せ、仏教の急拡大をもたらしました。
 信者や寺院が増える中、瞑想の実践に欠かせない戒律も、 中国の文化を積極的に取り込んだものとなっていきます。

蓑:仏教者も集団で維持していくっていうのが原則になりますので、基本的なものはインド伝来の戒律を用いるんですけども、禅宗の方たちはですね、その戒律に新たなものをですね付け加えるようになっていきまして、それを「清規」という名前で呼んでいます。で、清規の中でも、実は儀礼的なものをですね結構規定しています。この儀礼というのは、東アジア世界の特徴でして、先ほど儒教が主流だって申しましたけども、儒教がですね、ある一定の行動様式を皆さんに要請するんです。例えば、作務と言ったりするんですけども、日常のですねお掃除だとか、これが仏道修行の1つとして位置付けられるようになって、もう私たちの身近なところでは食事をするときに話をしてはいけない、そういう細かいところまでですね、規定されていくようなものができるんです。実際にその儀礼的なものがですね、行われるようになっていきますと、様々な行事がだいぶ華やかなものになっていくっていうのがありまして。たくさんのお坊さんたちが一緒になって、礼拝をしているっていうのを見たと思うんですけども、あのようなこともですね。実は中国の儀礼を大事にするっていうところから来てるものではないかと思います。 
 これが今、私たちが日本で仏教に接する時にですね様々な行事、お正月の修正会(しゅしょうえ)から修二会(しゅにえ)とかですね。あるいは、お盆だとか、お葬式とか、いろんなものがかなり儀礼的に行われてるのを見ることがあると思いますけど、これはやっぱり中国で出来上がった仏教の影響なんだと思います。
為:本当に、すごく仏教が私が知ってる仏教に近くなってきてるなって印象がありますけど。

蓑:これは現在の、東アジア世界の仏教を見てみましても、確かにその通りでありまして。 
多くの人たちが関心を持って実践しているのは、念仏と禅だという風に言われるんです。
 圧倒的多数の方は、禅宗のお坊さんとして今存在しています。本当に社会の中に浸透させることができたのは、 やっぱり菩提達磨さんの流れが、現在生き延びているという風に言うことができると思います。
 基本的な社会を支える理念として、仏教がですね位置づけられて、大変に栄えたという風に考えられています。

中:為末さんここまで中国に根づく仏教ってことで見てきましたけど、いかがでしたか。

為:今日3人の方を紹介していただいて、仏教を紹介した人、仏教をまとめた人、仏教を浸透させた人っていう。なんかそういう印象で、ぐっと中国世界というか、アジアの世界に 仏教が染み込んでいったっていうのが、今日伺った印象です。

蓑:そうですね、中国の人たちが持っていた伝統的な考え方を、仏教が受け止めて、自分たちが変容して、そうして中国の社会に、土着化していく道を作ったということではないかと思います。
 ただそれでも、基本的に本質の部分というのは変わってないんだと思います。私たちが人間である以上、この世界を生きていく時に、必ず悩みや苦しみというのを持つんだと思うんですけども、それに対する解決策というのを仏教は確かに提供していました。
 それで東アジア世界でも形は変わりましたけれども、本質部分を変えずに残ったのではないかと思います。

為:本質は変わらずにって、今簡単におっしゃいましたけど、本質をどこにするかっていうのが多分いろんな議論があって、これを変えたら仏教じゃなくなるんじゃないか、でも、 本当にこれまでの、ずっとプロセスを見ていくと、より明らかに苦しみと向き合うのが仏教だと、瞑想でそれを解決するんだってところがどんどんどんどん浮き出てきてる感じがして、そこが仏教の本質なのかなってのは、すごく逆にわかりやすかったなっていう感じはします。

蓑:仏教の大事なところは何なのかっていうのを、しっかりと突き詰めざるを得なくなったというのが、中国にというか東アジア世界に入ってきて仏教がですね、直面したことではなかったかなと思います。
 中国という、全く文化の違うところに伝わることによって、自らも変質する部分っていうのもあったんだと思うんです。それはおそらく柔軟性みたいなものを身につけたのではないかなという気がいたします。 
 これが残っていれば、仏教だっていうのは、それ以外の部分はは変えても良いという風に考えることができますので、非常に柔軟な姿勢というのをですね仏教は身につけることができたのではないかと思います。
 
ナ:中国の仏教を今に伝える佛光山法水寺、禅宗の寺として 日々自分を見つめる瞑想を行っています。

臨済宗日本佛光山総住職:「現在、今を生きる」これはもう禅の教えです。1人1人自分がきちんとわかれば、じゃあ自分はこれからどうすべきか、自分が責任を持って、これは1番大事なことですよね。
 どんな人であっても将来性がある、絶対可能性がある。だから、仏教の教えでは、やっぱり仏性、仏になれるの、そういう性分を持ってるから、皆さんは将来的に悟られるんです』

ナ:インドで生まれた仏教は、シルクロードを経て、目に見える仏の姿を瞑想の対象とし、 中国では伝統文化と融合しながら、人々の暮らしに根を張っていきました。苦しみから逃れる道を示し続けてきた仏教がたどり着いた姿です。

臨済宗日本佛光山総住職:皆さん苦しんでいるから、人間関係で苦しんでる。まあ、もうテストとか生活とか、今はコロナとか、時代によって苦しんでることは違うんですけど、苦境から救って楽にさせるのは仏教徒の役割と使命感ですね。
 仏教の1番の醍醐味は、やっぱり包容力、皆さんのいいところ、どうやって皆さん一緒に生きていくか、そういうような考え方がもとについている。
 だから、もう完全に伝統を守りじゃなくて、やっぱり現代、今の人は何が必要か、そう考えて対応していく。これは仏教の醍醐味』

NHKこころの時代~宗教・人生~ 瞑想でたどる仏教: 心と身体を観察する (NHKシリーズ NHKこころの時代)

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2023/1/8 小さきものの声を聞く〜思想史家・渡辺京二の遺言〜

渡辺京二:思想史家

ナレーター(以下「ナ」という):熊本で暮らしながら庶民の目線で時代を描いてきました。思想史家、渡辺京二さん12月25日に亡くなりました。享年92、その目に現代はどう映っていたのか。

渡辺:もう若い人の言うことがよくわからないんですよ。「人を殺してみたかった」、「殺したい」はわかるよ世の中いっぱいあるからね、「殺したい」はわかる「みたい」ってのは何事?「みたい」ってのは「なになにしてみたい」っていうのは実験してみたいってことでしょう。でも、そんなこと実験しなくたってわかってるじゃないですか、刃物で人を刺したらしたら死ぬに決まってるじゃないですか、実験する必要ないじゃないですか、という風になるわけですよ、僕から言わせると。「人を殺してみたかった」なんて言われると、僕はそう言いたくなる。だけど、そういうことを言ってる本人はただ言い方を知らないだけなんでしょ、言葉での。自分の気持ちの言い方を知らないだけなんでしょ、だから言葉がね、言葉でちゃんと表現できなくなってるんですね。

ナ:渡辺さんは30を超える著作で時代を映してきました。代表作、「逝きし世の面影」では、日本を訪れた外国人の記録から、江戸時代の庶民の暮らしの豊かさを描き、近代化によって何が失われたのかを明らかにしました。
 その奥底には、日本が近代化し高度経済成長を遂げていく中で起こった公害、水俣病があります。化学工場が流した排水によって犠牲となったのは、漁民など自然と共に暮らす人々でした。
 渡辺さんは、水俣病患者の支援活動に取り組みます。連綿と続いてきた暮らしを奪われた人々の訴えは、前近代から近代への異議申し立てだと言います。

渡辺:だから、村の付き合いの中でのあの人達の日常倫理ですね、常識と言ってもいい。 それがちょっと通ってほしいってだけ、そんな難しいことは1つもないんですよ、もう簡単に言っちゃえばね、土から離れないってことですよ、土から離れない、土から離れない
人間の生活というものをねやっぱりみんな持っていてほしいですね。じゃないと人間じゃなくなりますから。

ナ:敗戦を中国大陸で迎え、引き揚げ、その後結核で死の淵をさまよいました。名もなき、庶民、小さき者たちの声を聞き、近代とは何かを問い続けてきた渡辺京二さん、渡辺さんが生前に残した言葉です。
 渡辺京二さんは亡くなるまで地元の新聞に毎週連載記事を書いていました。タイトルは「小さきものの近代」、幕末から明治にかけて、明治国家を作った為政者の大きな視点ではなく、名もなき庶民がどう生きたのかという視点で書いています。

『渡辺:この次はね、西南の役で「明治10年戦争」にします、タイトルは。「明治10年戦争」という言い方の方が好きなんだ、知ってる歌?

編集者:いや知らない

渡辺:「はるか彼方を眺むれば」知らん?

編集者:知らない
渡辺:手まり、お手玉だよ。「はるか彼方を眺むれば、17、8の小娘が片手に花持ち、線香持ち」って知らない?

編集者:知らないです。

渡辺:「明治10年戦争に討ち死になされしお父様、最後の娘でございます」知らない?

編集者:すみません

渡辺:これはね、僕が小学校に上がる前ね、姉たちが歌って、だから一緒に遊びよったもんだけん、覚えとったい。

編集者:そうですか、聞いたことがないですね。

渡辺:変な戦争だよ、明治10年戦争っていうのはな、どうして鹿児島の若者たちがな、最初1万3000出たんだもんな、で後から2万ぐらい出てるだろ、鹿児島から若者がね、不思議だね、あの気持ちはね』

ナ:渡辺さんは、日本の歴史を独自の視点で見つめてきました。
渡辺京二さんの代表作、「逝きし世の面影」、幕末から明治にかけて日本を訪れた外国人の日記や記録などから、江戸時代の人々がいかに心豊かに暮らしていたかを描きました。失った文明を明らかにすることで近代とは何かを問うたのです。それは近代以降の日本で教えられてきた固定観念を覆すものでした。

『当時の欧米人の著述のうちで、私たちが最も驚かされるのは、民衆の生活の豊かさについての証言である。
 幕藩体制下の民衆生活について悲惨極まりないイメージを長年叩き込まれてきた私たちは 両者間に存する、あまりの落差にしばし茫然たらざるを得ない。
 日本に着任したハリスは下田近郊を訪れ、次のような印象をもった。
「人々は楽しく暮らしており、食べたいだけ食べ、着物にも困ってはいない。それに家屋は清潔で、日当たりもよくて、気持ちが良い」
 ウエストンも次のように書いている。
 「明日の日本が外面的な物質的進歩と革新の分野において、今日の日本より遥るかに富むか、おそらくある点ではより良い国になるのは確かなことだ。しかし、昨日の日本がそうであったように、昔のように素朴で絵のように美しい国になることは決してあるまい」』

渡辺:要するに江戸時代はね、暗黒であったかのようにね、ずっと言ってきたんですよね。だけどね、江戸時代はねまあ西洋人が書いているんだけど、世界中でこの国ほどね、気楽に安心して暮らせる国はないって言ってんの、安心して暮らせるって。一つ一つの藩があって、さらに幕府があるわけだけど、もちろん民衆を支配してんだけどね、その支配はね、
根っこまで届いてないんですよ。年貢を納めりゃそれでいいんですよ、年貢は納めなさいって、納めりゃそれでいいんです。で、その他いろんなキリシタンは厳禁であるとかさ、お金を盗んだらいかんとか、人は殺したらいかんとかそういうことはあるからさ、そういうことはちゃんと守んなさい、それ以外は干渉しないんですよ。
 だから、村っていうのはそういうね1つのコミューンとして強いまとまりを持っててね
、その村の中でね、自分の思わしい生涯っていうものが実現されてたんですよ。もちろん、村の中にはね、金持ちもあれば貧乏人もいてね、いろんな階層はありますけどね。それでもどんな貧乏人でも村の一員なんです。
 例えば、年貢を納められない貧乏百姓がいたら、村が代わって年貢を納めるんです。だから、百姓は百姓だけの世界を持つことができたんです。

ナ:渡辺京二さんは、1930年、京都で生まれました。父、次郎さんは、無声映画活動弁士。しかし、やがて映画がトーキーの時代になると職を失います。
 1932年、中国大陸に渡り映画館の支配人となります。その後、京二さんたち家族も呼び寄せられ、大連で暮らします。そして1941年、小学校5年の時に太平洋戦争が始まりました。渡辺さんは、皇国史観を教え込まれて学校生活を送りました。

渡辺:だから、子供心にね日本ほどいい国はないと思ってたんだよ。そりゃ、僕1人じゃないと思うみんなね、日本に生まれてよかったなと思うわけ。特に植民地生活をしてるとね、日本の祖国というものがさ、やっぱり桜の咲く日本っていうわけよ、大連は桜は咲かないからね。だから、美しい日本、ふるさとの日本という、そういうイメージがあるでしょう。だから日本、しかも当時の戦争はさ、英米帝国主義からアジアを解放するって言ってたわけだからね、子供だからまともに信じるからね。解放戦争やってんだっていうことでしょ、とにかく日本っていうのは清らかな国であると、非常に正直で清らかな国だと、アメリカとかイギリスというとこは、ヨーロッパは要するにお金次第の世界であってね。

ナ:一方で、渡辺さんは小学校に入る前から少年雑誌などを読み始め、大連でも本ばかり読んでいたと言います。こうした本との出会いによって、世界の見え方が次第に変わっていきました。

渡辺:だけど、文学っていう観念はなかったのよ。それをね、世の中に文学があると認識したのはね、中学2年になってね、ちょうど今でも思い出すけど11月1日だから紀元節がね、その時にね、蘆花のね「不如帰」を読んでね涙を流した。そりゃあ、お涙頂戴としてはようできてるわけよ。それを読んで涙を流して、そん時に初めてね世の中には文学ってあるばいって気づいたわけよ。それが文学芸への目覚めでね、それから読み始めてね、そして、蘆花はすぐ卒業、幼稚だっていうんですぐ卒業。後はヘッセも甘い、すぐ卒業。そしてトルストイドストエフスキーアンドレジードってなるわけよ。だから、終戦の時はもう立派な文学青年だったの。
 もう学校の授業は馬鹿らしい、だから学校の成績はどんどん下がっていった。もう学校の授業は聞いてない、文庫本持っていくの。そして、教科書を衝立にして、文庫本読みよった。だから、毎日1冊ずつくらい読みよった学校で。そうするとね、やっぱりなんかその時のね、文学によって与えられた覚醒っていうのはね、つまり、目がぱっちり開くんですよ。つまり、距離が取れる全部、親に対しても距離が取れる、教員に対しても距離が取れる、友人に対しても距離が取れる、つまり、自分ってものが初めて自分で掴める、目があいたって感じ。もう生まれて初めての経験でしたね。文学のね感動っていうのはね。

ナ:1945年15歳の時に、敗戦、大連にはソ連軍が進駐、多くの日本人が取り残されました。これまで信じていた国の姿が、渡辺さんの中で徐々に崩れていきました。

渡辺:4年生になってから秋ね、引き揚げが始まって、引揚対策協議会ってのができたんですよ。で、大連はソ連軍の占領下でね、ソ連軍が占領当時はすごかったんですよ、強姦、略奪、大変だったんですよ。それで、その引揚対策協議会に友達から誘われてね、もう学校もつまらんて言ったってね、引揚対策協議会で働こうよって友達がすすめるから5人で入ったんですよ。
 そして、僕は親を早く帰したの。ていうのは、もう親がねもう2人ともねもう弱り切ってましたから、もう40代でしたからね。もう、父はもう50近かかったし。
 ところが、僕らが住んでいた地域の引き揚げの順番がまだ来ないんですよ。それで僕と姉がね、ずっと最後まで引揚対策協議会で働くならば、代わりに両親をね早い地区の引揚船に乗せて帰してやるって言いなはるから、それじゃあそうしましょうと。
 そして、最後の引揚船でね引き揚げたの。結局僕は1番大きいのは難民。もう大連から帰ってきた時に難民として帰ってきたからね、もう要するに船に乗ったのはお客さんで乗ったんじゃないのよ。自分で荷物さげて乗ったんだよ、布団包みも自分で船に積み込んだのよ。だからね、僕はずっとその意識が抜けなくて大体流浪の民
 要するに、人間の本質というのは流浪の民がね本質なんだ。いろんな災害とかね、まあ、戦争もあってね、そういうのに追い立てられてね、流浪するような、そういうのが人間の
基本的なあり方だっていう感覚がひっついたね。

ナ:敗戦から2年後の1947年、渡辺さんはようやく引き上げることができました。両親の故郷、熊本。親戚を頼り、母方の菩提寺、西流寺に身を寄せます。寺の6畳一間に、両親と姉、祖母や親戚と7人で暮らしたと言います。
 翌年、熊本の旧制第五高等学校に入学しました。しかし、入学して1年目、思わぬ試練に直面します。

渡辺:五高に入ってね、1学期しか授業受けてないけどね、夏休みに大喀血(だいかっけつ)したの突如、洗面器いっぱい血吐いた。つまり戦後ずっと大連で無理な生活して栄養失調になってた。喀血して、そして、後はもう自宅療養。翌年の初めだったと思うね、大喀血したんだ、また2度目の。この時も洗面器1杯ぐらい吐いた。喀血する時はね止めようとしたら駄目なの。止めようとしたらね窒息するの、固まって。だから、思いっきり吐かなきゃいけない。それでね、俺はやっぱりこう天井見てさ18で死ぬのかなと思ってた。

ナ:1949年、国立療養所「再春荘」に入所します。当時、不治の病とされた結核でした。生死をさまよう手術を受けた後、隣の病室で誰にも看取られずに見知らぬ親子が亡くなりました。人知れず黙って死んでいく、「小さきもの」たちの理不尽な死でした。

『人は、このようにして、死なねばならぬことがある。小さきものは、常にこのような残酷を甘受せねばならぬ運命に晒されている。バラ色の歴史法則が何ら彼らが陥らねばならん残酷の運命を救うものでない以上、彼らにもし救いがあるのなら、それはただ、彼らの主体における自覚の内になければならぬ』

渡辺:再春荘で手術をして個室にいた頃ね、なんか泣く声が聞こえてくるのよ女の。で、翌朝看護婦に聞いたら、隣の病棟のね、親子が母親と娘が入院しててね、そして、父親が天草の百姓なんだよ。天草の百姓で再春荘に入れてね、その日すぐに帰っちゃった。その母親と娘は、入れられた日か、翌日か知らないけど、両方死んじゃった。ということは、娘がお母さんが死んでいる姿を見てるわけだろ。あるいは、お母さんが娘を死んでいく姿を見てるわけだろ、そん時の泣き声だったんだよ。
 だから、俺が思ったのはその非常に救いのない死だね、非常に救いがない死。そういう救いがない死っていうのはこう世界史上ね、いくつ起こってるかわかんない、救いのない死はね。庶民のそういう救いのない死ね、いつ出会うかもしれん。だけど、その時にでもね、これは「自分の死だ」、人から強いられて、惨めに死んでるんじゃないという風に思いたいなってっていうことを書いてるのよ。

ナ:渡辺さんは、小さきものたちの死に接する一方で、患者として入所していた多くの元兵士たちと出会います。
渡辺:結核療養所の患者ってのはね、もう当時は兵隊ばかり。元々傷痍軍人療養所だから 各県にできたんですよ。ということは、いかに兵隊が結核にかかったかってことですよ。それで僕が入所した時は、 一部屋8人のうち、6人が兵隊、兵隊じゃないのは僕ともう1人ぐらい、そんな感じだったね。
 それで彼らはね、もう朝から晩まで冗談言うとんだよ。もう明るい、明るい。それで、なかなか良くなっても帰ろうとしないの。つまり、兵隊に行ってる間、自分の帰り場所を失ってるんですよ。みんな村の出身だから、優しゅうしてくれましたよ、あの兵隊さんたち。  特に兵隊あがりの人たちは、兵隊というのは、やっぱり生死を経験してるからね、これは。やはり、自分の命をやっぱり屁とも思わないようなね、笑い飛ばしてしまうような、
そういう風に思ってましたね。つまり、日本の戦前社会っていうのは、そのようななんか悲惨さっていうのはね、やはり至るところにあった話でしょうから、農村共同体というのは、そういうものを含みながらね、そういうものを笑いのうちに乗り越えてしまうようなね、そういうたくましさがないと生きていけない世界ですからね。
 初めてわかったね、なんか民衆っていうものがね。初めて経験したし、だから、ゴーリキー風に言うなら、「私の大学」でね。

取材者:大学、何を一番こう、、、

渡辺:だから民衆ってことを知ったことですね。日本の民衆が何かってことを知ったことですね。日本の民衆ってのがね、どういうものかってことを肌で知ったことね。これ本当に肌で知ったからね。だから、彼らに対して自分がどういう存在かってこともね、よくわかったしね。

取材者:それはどういう存在?彼らに対して、、、

渡辺:何もわかってない存在です。

取材者:自分が?

渡辺:はい。本を読んでるばっかり、なんもわかってない存在です。

ナ:再春荘を退所した後、渡辺さんは法政大学に入り上京します。日本が高度経済成長していく時代でした。卒業する時31歳になっていました。なかなか就職先が見つかりませんでしたが、書評誌「日本読書新聞」に入ることができました。編集者として文芸欄を担当します。
 この頃出会ったのが詩人で思想家の吉本隆明さんです。吉本さんは常に民衆の側に身を置いて、時代を見つめる在野の思想家でした。渡辺さんは、吉本さんを師と慕うようになりました。

渡辺:記憶に残ってるのはね、一緒に国電に乗った。国電に乗ってね、そしたら吉本さんはね座席に座ってね、あの人大きい人だからね体、大きい人がね身を縮めるようにしてね、何かもう本当にもう体を小さくするようにしてね、座ってなさるの、その姿見た時に「生きててすいません」っていう風な感じなの。「生きててすいません」っていのね、で、「わあ、この人はやっぱり違う」、やっぱも普通の物書きとは、 やっぱりこの人は違うってことを強く感じたね、
 それからね、もう吉本さんとかにずっと遊びに行くようになってね、というのが、やっぱりなんか吉本さんっていう人に、やっぱ魅せられたわけよ、私はあの人にね。もちろん書いてるものもすごいしね。まあ、1つ吉本さんっていうのは、僕にとっての思想的な導き手でもあるしね。また、自分が書きたいと思ってるような思想的、あるいは、文学的な評論というもののお手本でもあるしね。

『「最後の親鸞」(吉本隆明著):「知識」にとって、最後の課題は頂きを極め、その頂きに人々を誘って蒙を開くことではない。頂きを極め、そのまま寂かに「非知」に向かって着地することができればというのがおおよそどんな種類の「知」にとっても、最後の課題である』

渡辺:要するにものを読書する人間というのはだから、世界普遍性に向かってだね、上昇していくっていうのはね、自然過程なんだって、これは当たり前の自然過程だっていうわけだ。問題はそういう風にして、世界の最高思想までね、上昇していこうというとこから上昇していったところから反転してだね。何にも物は知らない小学校しか出とらん、それで一生ただ要するに結婚して、子供を作って、働いて、そして年取ってから子供に背かれてという風な極平凡な普通の人間の一生、これが価値があるんであってね。だから、世界思想の頂点までずっと登り詰めたらね、そこから反転してね、そういう庶民の庶民というか、大衆だね、大衆の在り方に着地しないといけないって、書いとるわけだ。「最後の親鸞」で。
 僕にとっては、やっぱりその言葉が 座右の銘というかね。もう自分の勉強も含めて文章を書くことも含めて、自分の思想的な営みというものの、根本的なあり方をね、規定してる言葉でね。だから、そういった意味では、吉本さんというのは 2人といないね、私の先生なの。

ナ:「日本読書新聞」に入社して2年目、皇室をめぐる記事に右翼団体が抗議し、会社が謝罪するという出来事がありました。渡辺さんは、これに納得できず会社を辞め、熊本に帰ってきました。そして創刊したのが雑誌「熊本風土記」です。

『渡辺:これは僕が飯食おうと思って出したわけです。まあ、地方文化誌でね。これで飯食を食おうと思って、月間でちょうど12冊出してね。雑誌作りってのはね、やると楽しいんですよね。つまり、雑誌ってのはね、全体の傾向というのはもちろんあるんですけどね、あの1冊、1冊がやっぱり1つのアンサンブルっていうかね、巻頭論文に何を持ってって、最後で何を締めて、中間にこういうものを配してっていうのね。僕は常にやっぱりそういうアンサンブルってのを考えてね、作ってきましたけどね。
 そしてもう1つはやっぱり雑誌をやると人が集まるってことね、集まるっていうか、集めなくちゃ出せないわけだよね。だから、常にやっぱりライターを発見していくというね、
喜びがありますからね』

ナ:渡辺さんが向かったのは、水俣です。不知火海の自然と共にあった豊かな暮らし、しかし、日本が高度経済成長していくその影として、海の異変が始まっていました。
 渡辺さんが原稿を依頼したのは、石牟礼道子(いしむれみちこ)さんです。石牟礼さんは当時、水俣で暮らす主婦でした。水俣病によって村の共同体が壊れていくのを目の当たりにしていました。
 石牟礼さんは、「海と空の間に」というタイトルで、熊本風土に連載します。それが後に「苦海浄土」として出版されると社会に大きな衝撃を与えます。水俣病によって奪われたものは何なのか、これまで連綿と続いてきた人と自然が共にあった暮らし、そして、自然と共に生きてきた人たちの人間の尊厳を描き出しました。

『「苦海浄土」:彼は、実に立派な漁師顔をしていた。しかし、彼の両の腕と足はまるで 激浪に削り取られて年輪の中の芯だけになって、丘に打ち上げられた流木のような具合になっていた。それでも骨だけになった彼の腕と両足を潮風に焼けた皮膚がぴったりとくるんでいた。顔の皮膚の色にも、汐の香がまだ失せてはいなかった。彼の死が急激に彼の意に反してやってきつつあるのは、彼の浅黒い引き締まった皮膚の色が完全にまだあせきっていないことを一目見てもわかることである。
 水俣湾内においてある種の有機水銀に汚染された魚介類を摂取することによって起きる 中枢神経系統の疾患という大量中毒事件。彼のみに絞って砕いて言えば、 生まれてこの方聞いたこともなかった水俣病というものになぜ自分がなったのであるか。いや、自分が今、水俣病というものにかかり、死につつあるなどということが果たして理解されていたのであろうか。
 私は自分が人間であることの嫌悪感に耐え難かった。この人の悲しげなヤギのような魚のような瞳と流木じみた姿態と決して往生できない魂魄は、この日から全部私の中に移り住んだ』

ナ:石牟礼さんとの出会いから、渡辺さんは水俣病の支援活動に深く関わっていきます。熊本で水俣病を告発する会を結成。デモ行進するなどして患者支援を呼び掛けました。さらに、機関紙「告発」を発行、多い時には1万9,000部に及び、 全国に水俣の現状を伝えました。告発する会は、東京など各地でも結成され、支援活動は全国に広がっていきました。
 1970年石宗さんや渡辺さんたちは、厚生省で抗議行動を行いました。補償の交渉を一任した「一任派」の患者たちが、低い金額の補償金で解決とされるのを止めようとしたのです。渡辺さんは、仲間とともに厚生省の会議室を占拠しようと乗り込みました。言葉で伝えるだけではなく、直接自らの身を投げ出して訴えようとしました。水俣病患者たち、「小さきもの」の思いに突き動かされたのです。

渡辺:告発する会として1つの転機がね、厚生省を占拠したのが転機だったのよ。 この厚生省を占拠したのはね、厚生省の一室で、「一任派」と処理委員会が会って、手打ち式がある。その会場を占拠しようって、占拠したって反除されるだけの話したけどさ、一時的にもね、ストップしてやらなっちゅうんだよね、厚生省のその会場をね、占挙するっていう案を私が出したのよ。で、要するに厚生省のその発表する部屋を下見して、当日そこを占拠したわけよ。
 まあ占拠してねと新聞記者が来る、こっちは声明文を読み上げる、もうすぐ機動隊が来て、排除されて丸の内署に連れてかれたけどね。10何人かね捕まったよね。
 とにかくね、厚生省の職員には1大ショックだったんだよ。つまり、僕らが部屋に占拠して機動隊が入って、捕まえられて出ていく一部始終を厚生省の職員見てるでしょう。だから、その中から、厚生省の職員の中から「告発する会」ができたんだよ。

ナ:当時、告発する会で渡辺さんと行動を共にしていた人がいます。福元満治さん、現在、福岡市で出版社を経営しています。
 当時、熊本大学の学生だった福元さんは、友人に誘われて「告発する会」に参加しました。 渡辺さんと一緒に厚生省にも乗り込みました。

『福元:あの、東京行動というものの会議がありまして、要するに、そういう補償処理委員会の斡旋案をですね実力で阻止すると、「全存在をかけて阻止する」というですね、そういう非常に白熱した議論が行われてた会議にですねたまたま出席をしまして、その話を聞いてて、非常にあの生意気だったんですけれども、「いや、全存在をかけるなんてできませんよ」なんてことをちょっと言ってしまったんですよね、そうしましたら、 いきなりですね、「小賢しいことを言うな、これは浪花節だ」という風なですね、一喝されたんですね。 
で、その方がその時私どなたか知らなか知らなかったんですけれども、このおじさんはなんだろうかと思ったわけですよ。それで、後でその人が渡辺京二さんだっていうことがわかりまして、それは本当になんていうか、日本刀で斬りつけられるというそういう感じでした。 水俣病のあの時の闘争って言いますか、市民運動とやはりちょっと違うところは、あの石牟礼さんの存在がなければ、私は水俣病事件というものはですね、要するに、裁判闘争、
損害賠償請求事件にとどまったんじゃないかと思うんですよね。そうではなくて、石牟礼さんの、「苦海浄土」の世界にありますように、知識人の持ってる世界とは違う豊かさって言いますか、漁民の持ってる豊かさって言いますか、知恵というか、生活というか、いろんなあの習俗とかですね。その世界の持ってる秩序であるとか、そういうものがいわば、チッソによって破壊されたんだと、むしろ近代によって破壊されたと。渡辺さんは、その石牟礼さんが描かれた世界にですね、そこに触発されたって言いますか、多分、そこで渡辺さんがずっと考えてらした世界とものすごくこう、なんて言うんすかね、そこでこう融合すると言いますかそういうものが、やはり水俣病の運動をある意味で、従来の市民運動とは異質なものにしたんではないか。

ナ:渡辺さん自身も、石牟礼さんに触発されるようにして執筆活動を始めます。近代によって失われたものとは何だったのか、庶民が残した記録や資料から「小さきもの」の歴史を書いていきました。
 1973年に、水俣病第1次訴訟の判決が出た後、渡辺さんが通うようになった場所がありました。熊本市にある浄土真宗の寺、真宗寺です。経済や効率が優先される時代、真宗寺には時代に取り残され、生き方に悩む若者たちが集まってきていました。
 住職の佐藤秀人さんは、「非行少年・少女」と言われる若者たちを受け入れます。寺に住み込んで、生活を共にする人も10数人いました。佐藤さんは、若者たちに対して対等な立場で向き合いました。自分をさらけ出し、時には本気で喧嘩することもあったといいます。

渡辺:まあ、お寺にいっぱい集めてる非行少年の中にはね、もちろん素直なやつばっかりじゃないからね、とにかくそういう青年とね、もう殴り合って喧嘩するのよ。これはみっともないでしょ、そういうなんというかね、隠しもなんもしない。
 この人にはやっぱりあの僕が学んだのは「己をかばうな」ってことだね、まあ「己をかばうな」ってたって、そこは限度があるけどね。とにかく、人から嫌われたり、愛したりすることを恐れるなと、自分の評判を良くしようと思うなってことですよ。つまり、救われないような存在だって人間は、それをよく見せかけることをするなっていうわけ、でもそんなこと言ったって人間はやっぱり多少は修養せにゃならんからね。だけど、それをあえてさ、自分の我がまな姿をね、ありのままには出していこうっていう風になさったんだからね。
 でも、結局はやっぱりそういうことで、本当の人間と人間のつながりをその中で見出していこうとなさったんだろうからね。とにかくやっぱりあれだけの、非行少年・少女を引き受けて、そしてみんなやっぱりその非行少年・少女たちが懐いたわけだからね。だから、そこんとこでね、佐藤先生のことを思い出してね、「己をかばうな」って言ってたよなあの人はって。やっぱり最後までそれを貫いて強烈な一生ではあったので、僕はあんな風にはできないけどね、またしようとも思わないけど、本当に好きになれた人だね僕は。

ナ:真宗寺との出会いから、渡辺さんは浄土信州を開いた親鸞の思想にたどり着きます。
親鸞阿弥陀仏によって選ばれた人だけでなく、全ての人が等しく救われると説きました。

渡辺:世の中の人間が全部救われない限り、自分も救われないっていうこの願いね。つまり、衆生を全部救いたい、こう阿弥陀さんは願いなはったから、お前たちはそのまま全部助かってんのよって、親鸞さんは理屈を言ってるわけだ。
 そうすると、この世に阿弥陀さんというのがおるのか、阿弥陀さんが願いなはったから、 俺たちは救われるのかってことになっちゃってね、じゃあ、親鸞さんの前に出てきた阿弥陀さんって、どんな顔しとったのか、どんな姿しとったのかと思うとさ、結局この世の実在世界の形をとっとったんじゃないかね。つまり、言ってみりゃ山河というか、山あり川ありね、花が咲いてるし、虫もおるわけたい、風も流れとるわけたい。そういう実在世界、これが阿弥陀さんなんじゃないかね。
 だから、この実在世界の中の1人の存在として、お前はそれで肯定されてんだよということになるんじゃないかと思うんですね。例えば、夕焼けの雲だってそうですよ、これの実在世界ってのがね、一方では、弱肉強食のそういう世界でありながら、実になんていうか、美しい調和の取れた世界で、生命ということをとるならば、これはもう人間からあらゆる動物からあらゆる植物から、さらに岩や石や、もうそういうものを全部含めて、全部これは1つの生命体だと言っていいんですよね。
 だから、救いっていうのは、そういう実在世界の中でほんのちょっとの間ね、滞在を許される。その滞在っていうのは、これはずっと先祖があり、子孫があるようにね、ずっと繋がっていくんだけれど、そういう無数の生命の繋がりがひしめいているわけね。で、その中の自分は存在だってことで、それが本当に見えてきてね、本当に見えてきて「いいじゃないかそれで」、そういういいなと思う時に、阿弥陀さんが出現するわけでしょ、じゃないかって僕は思うけどね。そういう形で親鸞さんに阿弥陀さんが出現したんじゃないかと思うけどね。
 
『「幻のえにし」:つまり、自分は一人である。自分は自分の考えで生きている、国からも支配されない、いわゆる世論からも妄想からも支配されないというあり方ができるのは、 自分がある土地に仲間と共に結びついていると感じるからなんだ。
 自分がこの世の中で自分でありたい、妄想に支配されたくないという同じ思いの仲間がいる、それが小さな国である。自分が自分でありたいという自分と、同じく、自分が自分でありたい人たちで作った仲間が小さな国になっていく、そういうものをしっかり作るということが 僕の思う革命なのさ』

 

ナ:自分は、そして人々はその時代をどう生きていくのか、渡辺京二さん、庶民の視点から歴史と時代に向き合い続けた92年の生涯でした。

逝きし世の面影 (平凡社ライブラリー 552)

小さきものの近代 〔第1巻〕

幻のえにし 渡辺京二発言集

2022/12/25 シリーズ「問われる宗教と“カルト”」 VOL.3

島薗進宗教学者
小原克博:牧師、宗教学者
若松英輔:批評家、随筆家
川島堅二:牧師、宗教学者
岡田真水:僧侶、宗教学者
櫻井義秀:宗教学者
原敬子:カトリック修道者、神学者
釈徹宗:僧侶、宗教学者
八木久美子:イスラーム研究者

 

eraoftheheart.hateblo.jp

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ナレーター(以下「ナ」という):2022年は、旧統一教会問題に揺れ、宗教の在り方が問われる年となりした。「こころの時代」では10月2回にわたる緊急特集で、カルトとは何かを検証し、宗教の本質について討論しました。

『小原(以下「小」という):実際その統一協会、旧統一教会がしてきたことというのは、
単に社会というより、社会一般というよりかはですね、政治体制、既存の政治体制の中に深くこう食い込んできたっていうことが今や問題になっていす。

川島(以下「川」という):やはり、今本当に宗教が変わらなければならない。カルト化しないために大きく変わる時期が来ていると思っていて。

若松(以下「若」という):救いは決してお金で買えないっていうことを、宗教は本当に強く語るべきなんですよ。救いは絶対にお金では買えない、なぜなら、神はお金はいらないんですよ』

ナ:放送後、視聴者の皆さんからたくさんの手紙やメールが届きした。とりわけ多かったのは続編を望む声、それを受け「こころの時代」では今後もこの問題をシリーズ化して考えていきます。
 続編の最初となる今回は宗教における家庭や性差別、宗教二世を含む子供がテーマ。女性や子供への抑圧の問題を取りやめてほしいという視聴者からの要望に答え、仏教やキリスト教イスラームも視野に入れて徹底討論します。

島薗(以下「島」という):そもそも旧統一協会はですね、世界平和統一家庭連合という名前がついておりして、家庭ということに力点がある。た、最も重要な儀式に祝福と言って、合同結婚式ですね、こういうことがあって、家族に特別な意味を込めているということがございます。
 他方で大変苦しんだ、辛い目に、辛い経験をした子供たち という人たちが、発言をするようになりして、宗教二世という言葉は今広く使われるようになっておりす。家族とか家庭、姓というのは宗教において重要な論題でもあり、た、現代社会の中にその問題にどう適応していくかということで、宗教が悩んでいるという、そういう面もあるう問題かと思います。これは日本の宗教だけではなくて、世界的にもそういう問題が、広くはそういう問題も含めて、今回宗教と家庭。姓・子どもとカルト問題を手掛かりにしながら、そこで広げて考えてもらいたいということで、どうぞよろしくお願いいたします。
 順番に自己紹介をしながら、最初の一言をいただきたいと思います。

岡田(以下「岡」という):私は立ち位置としては、女性僧侶ということになるのでしょうか。5年ほど前、ホテルで朝食を取っておりしたら、年配の女性が「失礼ですが、瀬戸内さんですか?」と、当時、90代の寂聴さんと間違えられたわけです。そういえば瀬戸内寂聴先生は去年亡くなられしたが、日本で一番有名な女性僧侶であったかなと思います。 
 私はそんな方に間違われるような、そんな立派な布教活動もしておりせんし、寺の外でも内でも、いつも着たきりすずめのこの格好で住職の指導の下お檀家のお世話をしたり、宗門のその教学振興のお手伝いをしたりしている、田舎の1僧侶でございます。今日はそのような立場から素朴な話をしてほしいというご依頼を受けましてここにやっていりした。

櫻井(以下「櫻」という):私は宗教社会学というそういう学問的な立場からお話をさせていただきたいという風に思ってるんですけども、家族とか地域の自治体とか、あるいはその世界全体に対してですね、統一業界がどういう働きかけをしてるのか。そこに私たちはどういう風に対応していくのかっていう、こういう観点からもですね統一教会の問題ってのは議論していかないといけないんじゃないのか。
 なぜかというと、統一教会が宗教法人でなくなったとしてもですね、依然として数十年にわたって統一教会の信者の方ってのは日本にずっと居住されるわけなんですよね、その方々とどういう風に付き合っていくのかっていうことを考えた際に、やっぱりその統一教会のことをですねその宗教として、理解しておかなきゃいけないんじゃないのかっていう風に思います。

原:上智大学で神学部の教鞭を取っております。私自身、家の宗教が仏壇があって神棚があるという、いわゆる日本の習合宗教の家から出て、キリスト者になったわけなんですけども、洗礼を受けてカトリックの信徒となっております。
 その後色々な経験があって、修道生活に入って今に至ってるっていうことを考えると、自分自身、宗教プロパーな人生を送っていると言えると思います。
 そのような立場からして、今年統一教会をめぐる様々な事件について、もう目をつむることはできないというか、自分自身に問いかける意味で様々な考えが巡っております。

釈:宗教思想、宗教文化を研究しております。専門がそちらですので、今日は旧統一協会問題を軸に話を広げていくのが役割かなという風に思っております。
 宗教っていうのは、一般に考えられてるほどスタティックなものじゃなくって、生きた宗教っていうのはもう少しもっと動的なものだ。我々つい、なんとか教はこうでしょとか、なになに宗はこうですよねっていう風に固定して捉えがちですが、ずっと動き続けてる面があるという風に、これまた信仰者もそうでない人も見ていった方がいい、そんなお話ができれば考えておりますよろしくお願いいたします。

八木(以下「八」という)::東京外国語大学の八木と申します。専門はイスラムでして、 近代以降のアラブ世界を中心とした、特に一般の信徒と言いますか、思想家とかウラマーの人たちのイスラム観ではなくて、いわゆる普通の人たちにとって、宗教っていうものがどう見えるのかっていうなところをやっております。
 で、私はイスラム教徒ではないので、研究者としてイスラムを見ているわけですけれども、ちょっとここでカミングアウトしておきますと、私はカトリックの信者でして、エジプトで、専門はエジプトを中心にやってるんですけれども、私にとってはイスラムっていうのは研究し始めた最初のきっかけは1番わかりにくい、これがわかったら、何かこう宗教が見えてくるんじゃないかという感じで勉強し始めたんですけれども、だんだんイスラムがわかってくるにつれて、何がわかっていないことに気づいたかというと、日本のことがわかっていないということに気づきまして、今日は本当に場違いなところに私が来ているような気がするんですけれども、少なくとも全く違う、前提条件を持っているイスラムっていうものも同じ宗教だと考えると、日本の現在の状況がどういう風に見て取れるのかっていうところはお手伝いができるのかなと思っております、よろしくお願いいたします。

島:最初の話題としてですね、「カルト問題における家族」ということで、統一教会問題から見えてくる宗教と家族ということについて。まず岡田さんからお話をいただいて、皆さん、ご意見を頂いていくということにしたいと思います。どうぞよろしくお願いします。

岡:1954年、何の年でしょうか。それは私が生まれた年です。そして統一協会ができた年でもあります。
 大学でインド哲学、仏教学を学んでた時に、中学の同級生の〇〇ちゃんが、その合同結婚式に参加したのよということを別の友人から聞きました。で、その〇〇ちゃんは、友達のところを回って折伏(しゃくふく)してるのよって。当時京都では折伏という言葉が流行っておりまして、布教していると。その私の統一協会に入った友達というのは、とてもその優しい人で、真面目で、頭のいい人でした。で、幼い時にお父様を亡くして、お母様を助けて、頑張り屋さんでした。ともかく、なんで?っていう感じで。で、私のとこにも早く折伏(しゃくふく)に来ないかな、来てくれたら、そのお釈迦様やら、イエス様のお話をするのにと思って待ってたんですけど、私のとこにはついに来てくれせんでした。 
 そのうちですね、その1992年、桜田淳子氏がその合同結婚式に出たっていうのが大々的に取り上げられ、その後パタっとですね、元統一教会系のニュースを見なくなったような気がいたします。ちょうどそれから30年ですね、その合同結婚式から。で、その空白の30年にもですね、女性やら子供さんたちがですね、たくさん苦しみを感じて、 統一教会がですねイブを虐げるような教義を信者に教え込んだり、日本をイブの国と呼んで、献金をするのが当たり前だというようなそういう指導をしていたということも全く私は知らずにきした。
 教義的に女性を蔑視している、そういう教えを元統一教会が、強く示しつつたくさんの女性や子供を苦しめてきた、その事実を知らずに、20年、30年暮らしてきたという。そのことについて少しお話をいたしました。

櫻:今岡田さんがですね、女性が虐げられているという、統一教会に関してですね、これをご指摘されたんですけども、一般的に統一教会の被害者っていう風に言われてすけども、男性と女性の比率で言えばですね、圧倒的に女性が被害者になってるという言えると思うんですね。
 霊感商法あるいはその献金被害、そこでやはり献金していくっていうのは、やっぱり女性なんですね。で、その献金の動機、霊感商品を買ってしまったその動機っていうのが、要するに、家族を救いたい、先祖を救いたい、で、そのお金を生み出すために自己犠牲も辞さないっていうこういうタイプのですね、言わば統一教会のやり方に入ってくる、そういう部分があると思うんですね。
 で、もう1つはですね、これはその青年信者で祝福を受けた方々なんですけども、韓国に日本人の女性信者約7,000人渡ってるという風に言われてまして、現在も6,000人近くの方が過ごされてるわけなんですね。で、岡田さんが指摘されたお友達の件なんですけども、1988年統一協会は6,500組、92年には30,000組、そういう多数のですね合同結婚というのをやりました。その際男性はですね韓国の場合は、信者でなくてもよろしいと、なぜならば、メシアが生まれた韓国の男性は霊的に高いので、信者でなくてもよろしいんだと。ところが、このメシアが生まれた国を虐げた、要するに、植民地支配した日本はですね、霊的に低いので、日本人女性信者は自らを犠牲にしてって言い方は、適切じゃないにしてもですね、韓国に行って、いろんな苦難、生活にですね耐えながら、日本の罪を贖罪しなきゃいけないんだ、こういう教説があるわけなんですね。
 なぜその男性に対して、女性が自己犠牲をしなきゃいけないのかってことに関しても、教説のレベルでですね、「失楽園」の物語があるわけなんですけども、女性エバがですね、サタンと不倫をしたであるとか、あるいはアダムを篭絡してですね、善悪を知る木の実を食べさせたであるとか、いわば、その女性に問題があってこういう原罪が人類にですね、血統として流れてるという、こういう非常に女性差別的なですね教義、国家感関係、あるいはその実践を生み出してるっていうところがありして。その意味ではですね、なぜ統一協会がいろんな社会問題を生み出すのかっていうところの根にですね、こういう、そのジェンダー差別的な内容っていうのが入ってるんじゃないかなっていう風に思っております。

原:今、櫻井先生がその教義をお話しくださったんですけれども、その話を聞くだけでもう違和感というか、もうちょっと耐えられないという気持ちになりますよね。私も今回ここに来るまでに少しカトリック協会内の中世に至る様々な誹謗中傷、女性に対する蔑視のこともちょっと調べていくつか見てみたんですけれども、もう調べれば調べるほど、もう自分自身だと辛い、そしてもう気持ちが悪いという状況になるわけです。
 だけれども、自分自身も今教会共同体に所属していますので、当然その共同体の中にいたら蔑視、女性蔑視的なこととか、差別、ジェンダー差別があったとしても、それを空気のように吸っている。だから、それがあまり違和感を感じない。ですので、その時間を置いて客観的に見る、あるいは、それが他の人とその共同体以外の人と話した時に正しいことなのか、間違ってることなのかっていうことをちょっと自由に話し合うとかですね、そういう、動きというか、何かできないのかなっていう風に思うんですね。

釈:そうですね、伝統宗教で言いますと原さんおっしゃった面があると思います。伝統的な教団っていうのは、 従来の家族や地域をモデルとしてずっとこう組み立ててきたようなところがあるので、社会はどんどん家族や地域は変化しているのに、従来型のモデルを基盤としてものを考えるっていう傾向がありますので、ただ、宗教という領域はそもそも急ハンドルがそぐわない領域なんです。基本的には前例踏襲を大切にしますし、そもそも流れてる時間もすごくゆっくりしてますし、何よりも宗教っていうのは、死者や心霊といった要素があるので、今ここにいる人間だけで変更、簡単にしちゃいけないっていう、ある種特殊な事情があるので、少しずつ少しずつ。
 とはいえ、社会の要請に精神誠意向き合って真剣に変わっていかねばならないという、こういう関係にあるはずなんですが、どれほど伝統的な習慣とか理念、理想、各宗教が持つ理想であっても、あまりにも非人道的な習慣や伝統、あるいは女性子供、マイノリティーを抑圧するっていうのは、やっぱりそれは社会から改善が求められる、宗教に対して求められるわけで、宗教はそれにちゃんと向き合うことによって、宗教自身を鍛錬していくっていう
ところがあります。いわば、コアの宗教性はできるだけは保持しつつ、 変化させていく部分を変えていくっていうところですよね。カルト集団、カルト教団なんていうのはそういうところがもうほとんど見られないというところがですね、1つ大きな問題としてあるかなと思います。

島:八木さんいかがでしょうかね。

八:さっき、アダムとイブの話があって、コーランの中身というのはいろんな内容があるんですけれども、聖書と似てるところもたくさんありまして、楽園追報の話はあるんですね。 けど、面白いところはイブがそそのかしたんじゃないですよ、2人とも一挙に、なので、女性がそそのかしたっていうところもないし、あと、アダムは楽園追放されて、神と和解してるんです。反省して許してもらって、なので、予言者になってるっていうところで、罪から始ってないっていうところが、その女性がもっと罪深いので、で、男性の下に行くっていう構造は生まれないはず。
 その他の内容を見ても、コーランを読むと女性蔑視の内容がずらずらと並んでいるのかと思いきや、そうではない言葉もたくさん入っていて、やはり私がいつも思うのは、聖典に何が書いてあるかとか、予言者が何を言い残したかっていう以上に、その後解釈をしてきたのが誰かっていうところで、男性だけが解釈を行ってきたっていうところが蔑視という結論に 繋がっているのではないかなっていうのが私はとても強く感じています。

櫻:先ほどその釈先生が宗教とそのカルトの相違についておっしゃったんですけども、統一教会がなぜこういう反社会的な性格を今もって強く持ってるのかってことなんですけど、 教団設立当初のですね地上天国を実現するっていうことを今もって考えてやろうとしてるということなんですよね。
 つまり、その社会に適応するって形で、一般の信徒の方が家庭生活を余裕を持って営めるようにとか 地域社会に溶け込めるようにとか、隣の人と仲良くできるようにというこういう配慮も全くない。言わば、その教義をそのままに実践して、社会全体を変えていくっていう、こういう思想を今もいまだに持ってるんですね。そのために非常に急進的で過激で、こういう活動をやっていて、そこにある種自己犠牲的に関わることによって、それが信仰のモチベーションになってくっていう、こういうところがあると思うんですね。 
 ただ、ここにも少し展開が来まして、第1世代はそれでやれたんですけど、第2世代、宗教2世の話題に繋がるかと思うんですけど、ここはもう耐えきれないと、こういう声を上げているんで、ひょっとしたら、これからその2世代目、3世代目になると社会にその適用するですね、パターンになるかもしれないんですが、現在その日本社会とかなりもう敵対的な関係になってるので、どういう風になってくのかっていうのは、なかなかその先を見通せないっていう、こういうところがあるかなと思います。

島:ちょうど宗教2世という話も出したので、2番目の話題に移っていきたいと思うんですけれども、 「宗教は女性と子供を抑圧するか?」っていう、そういう問いをですね、掲げてみております。
 そういう風な、そもそも宗教にそういう側面があると考えなければならないのかどうかという、あるいはどうしてそういう風なイメージができてきているのかという風なその辺のことについて、 まずは原さんからちょっと問題提供をしていただく。

原:今ずっと出ています、アダムとイブの話で、「創世記」の女性の創像ということになりますと、当然そのアダムのアバラ骨からそのイブが作られた、結局そこでもうすでに男女がもう平等ではないというか、従属している状態にあるわけですよね。その話は、「新約聖書」の中にも、特にパウロの手紙などで、 妻はその家にいなさいとか、女性、妻は夫に従っておくべきだとか、そういった話が出てきます。 
 そのような社会の中でイエスは、女性と積極的に出会って話もして、一緒に宣教をした 記述が出ておりますので、どちらかと言えば、イエスフェミニストだったのではないかという話もございます。 
 しかし、イエスが死んだ後教会が成立していくんですけれども、結果できた教会は、男性社会の男性中心主義的な制度によって作られていったっていうことになります。 
 それから教義という話になりますけれども、先ほど少し申し上げました、中世で使われていた色々なテキスト、今回ちょっとその「魔女の鉄槌」をちょっと見てきたんですけれども、魔女裁判のために、女性がどうして魔女裁判にかけられなければならないか、ものすごいテキストがあって、本当に凄まじい誹謗中傷と女性蔑視で、こういうものが実際に使用されて扱われていたっていうことを思いますと、やはりこう女性の位置ってのが、今私が想像する以上の女性が本当に虐げられていたんだな、私自身の愛する教会でさえも、そういう状況になっていたんだなっていうことを感じます。本当に女性に対する悪口でしかないような言い方をしております。
 問題点としては、やはりその男性が聖職者集団あるいは宗教の指導者集団を構成する時に、男性の権威がそこに集中してしまい、その権威に対する従属性というか、その従属性が依存になっていく、で、その女性がその権威をもう逆に共依存的な形ができてしまう時に、 その女性がその男性に与えられた権威を自分のものとして、逆にその権威をこう横行して使ってしまう。
 ですから、もちろんその男性社会というその組織そのものも変更しなければならないと同時に、その女性側もその経緯をそこに依存して、その自分自身が従属することによって、自分自身を存在させる、それは大きな問題になってくるのではないかと、こういう風なことを感じました。

島:その辺り、八木さんいかがでしょうかね、イスラムの世界にも、そういうことがありそうな気もするとは思うんですね。

八:イスラムというとこう、女性を差別する宗教だというイメージがあると思うんですけれども、実際にイスラム教徒の方と親しくされた方っていうのは、女性が虐げられて、なんて言うんでしょうね。自由に発言もできないっていう状態にあるのかっていうと、アフガニスタンとかイランの特殊な例は除いてそんな感じを全く受けないという。
 確かに、婚姻関係とかには依然としてイスラム法、古典的なイスラム法そのままと言ってもいいほど残ってるですけれども、そこが非常になんて言うんですかね面白くて、確かに男性と女性が同じ権利と同じ義務を持つというのが平等であるとすれば全くそうではない。
 男性と女性、妻と夫の義務と権利が全然違うんですね。で、経済的にその養うっていう義務は、男性100パーセント、養われる権利は女性100パーセントあるので、仕事をする権利は女性もあるんですよ、だから女性の収入は全部自分の全部自分の小遣い、なので男性は厳しいんですよ。なので、夫が養おうとしなければ、女性は自分の権利として要求できると、性役割って、男性が得ばかりしてるってのは必ずしもそうは言えない。
 しかし、女性は養われるっていう権利を主張することで、自分の権利を拡大していくんだけれども、そこがやはり養われるものとして発言をするっていうところは、やはりちょっとおかしいんじゃないかっていうことで、庇護されるもの、庇護される権利を主張するっていうところにこう完全な自由というか、人間として同じレベルで男性と女性語られるっていうところには、やはりなっていないんではないかなって。

原:だから、対等な関係ではなっていないっていうことなんですね。

八:なので、女性として見れば逆手に使っているっていう感じですね、差別というか区別を。

島:その一方で、宗教2世は統一教会問題が起こって、初めて言われたことではないんですが、この10年くらいですね宗教2世の集まりがウェブ上などで、できてきたというのはこの10年ぐらいかと思うんですけど。

釈:この宗教2世問題ですが、おそらく宗教2世問題が世に大きな注目を集めたのは、1985年の輸血拒否事件、川崎市で起こったものですよね。あの時に、輸血拒否することによって10歳の男の子が命を落とすんですが、自分自身の信仰によって輸血を拒否し、命を落とすというのはまだ理解できたとしても、子供までそれは適用されるものなのかっていうようなことがあったと思います。
 その後、本当に近年になって宗教2世、当事者たちが声を上げ出したんですよね。もう本当に近年のことでこれSNSの発達で声を上げると、意外に多くの共感を呼んで、その人たちが宗教を超えて繋がり出して、ただ、この「宗教2世」っていう呼び名、再考必要なんじゃないかなとは思ってるんですよ。これは、もちろん伝統宗教にだって、2世、3世の問題があるという意味で、そういう使い方をしてるようなんですが、今問題になってるのは、やはりカルト教団と言いますか、いや、教団だけじゃないですよね、カルトって宗教だけじゃありせんので、教育カルトも政治カルトもあるので、カルト問題に関する2世、3世、熱狂的な信仰っていう意味での2世、3世、その親を持った子供たちっていうようなことであれば、カルト2世っていう方がより適切かなと思うんですけどいかがですかね?

櫻:この問題、その宗教2世っていう言い方でよろしいのかっていう、これは、私もそういうに思ってまして。正確に言うんであれば、その統一教会2世、エホバの証人2世って言うべき。ただ、この言い方自体、当事者は好ないんですね、宗教2世っていう形で言いたいっていう、こういうことなんだと思います。これは1つ生きづらさの告発なんだと思うんですけども、結局その親にですね自分の生き方とか、信仰を決めてもらいたくないっていう、こういう意向なんですね。 
 いわば、その家族単位で、その信仰を持つというこの考え方自体にですね、もう反発してる人がその新宗教、あるいはその教団宗教含めて多いんじゃないかなっていうことだと思います。
 で、これは大きな流れで言うと、やはり世俗化、あるいは個人化っていうところで信仰っていうのはその文化じゃなくて、ある種その選択なんだ、信じる自由、信じない自由、 日本では、この信じない自由っていう強制されない自由って非常に強調するんですけども、これも日本社会のですねその世俗化状況とか、個人化状況っていうのを反映してると思うんですよね。で、その選択をですね、各個人がしなきゃいけないっていうのも ある意味で、これは自由なんですけども、負荷が非常にかかってきてですね、いろんな形でその迷う人も出てくる、そういった中でまたいろんな宗教の勧誘、布教に出会ってですね、言わば、その自分の家はこの宗教であるから、そちらに行きせんっていう、 こういう拒絶の仕方もしにくくなってくると思うんですね。
 ですから、個人化っていうのは、その個人の自由を非常に高めるんですけども、 逆にですね、家族とか地域とかある種、その文化圏に守られていたバリアがなくなってしまって、むき出しの個人がですね、もう、教団宗教に直面しなきゃいけない、カルト宗教に直面しなきゃいけないという、大変な時代でもあるんじゃないかなっていう風に思いますね。

島:岡田さんは比較的厳しい、しつけのあるご家庭に育ったので、宗教2世という言葉に、どういうような思いを持たれるか、ちょっと伺いたいです。

岡:そうですね、いわゆるところの堅法華というやつで、私のひい爺さんは政府に反対して、そのなんで反対したかっていうと、神仏分離に反対して、100日御所に通うというようなことをして、寺にいられなくなって、一般在家の家に入り婿に入って、その家族で自分の信仰を守っていこうとしたんですよね。ですから、私も座れるようになったら、赤ちゃんの時から勤行に出てですね、ご飯の前におあずけお経を聞いて育ったわけです。 
 それで、私はすごくそれが自分に強制されてるような気がある時したんですね、なぜかっていうと、色々わからないことがあるから親に尋ねるんですが1つも教えてくれない。それで訳のわからないもの、なぜ私はしなくてはならないのかということですね。ですから、 私は小学校の時から高校でずっと隠れキリシタンで、聖書を読みですね、しまいに教会にこっそり通ったりとかもしたんですけれど、偶然にもインド哲学に出会い、また、仏教に帰ってきたけど今でも聖書を時々読むというような、そういう信仰生活です、という話をこの前したんですねこのNHKの方に、そうしたら、「岡田さんは自由だったんですね」って言われたんですね、で、その自由っていうのはすごいびっくりしして、私は不自由に育ったと思ってたんですが、そうやって自分で選んで、例えば、その赤ちゃんからちょっと大きくなった時に、おじいちゃんの後ろに座って、それを聞いてたところから、自分でキリスト教に目覚めて、それで自分でその仏教の世界に戻ってきた、そのお寺の嫁になっているというのを、みんな自分で選んできたじゃありせんか。
 だから、精神的にも圧迫を受けてなかったっていうことなんですね意外に、それで、自由だったという言葉を聞いた途端に、私は本当に自由な気持ちがしました。ですから、やっぱり選択だったわけです私にとって信仰は。
 それで、「ボーン〇〇」って呼ばれる、ボーン創価学会とか、ボーンクリスチャンの方々もある時、自分で選ばれるそういう瞬間があれば、とても幸せだと思います。

釈:私もお寺の子供として生まれたので、そういう意味では2世3世、もう結構代々続いてるので宗教19世みたいなことになっちゃうんですけど、でも少なくとも、私は他の道で生きていけるっていう自信というか思いはずっとありましたので、扉は閉まってなかったっていう感じはします。自分の居場所はここにあるとしても、全方向に扉は開いててそっちの方向に進むことは十分可能でした。
 ところが、これを囲い込んでしまって、もう一方方向へと誘導するっていうことになると2世問題が起こることだと思います。

島:今のお話の非常に重要なところは、一般にこうイメージとしてですね、宗教が個人の自由を奪うというところが目立つのですが、逆に宗教的なものによって育つことによって、自分自身で責任を持って選ぶという風なそういうメンタリティーも養われるとそういう場合もある。そういうことから言うと、人権という言葉で言うとすると、宗教と人権が対立するんじゃなくて、宗教こそが人権の元になるものを養っているという、そういう面もあるんだと、この辺りはここに宗教者の方が多いので、私もそういう風に考えておりますのでここで確認してもいいことかなと思います。
 3番目のテーマなんですけども、「世界と日本の諸宗教における女性の力」という題で、少し話をしていきたいと思います。女性が宗教によって抑圧されていると、そういう面があることは否定できない、しかし、それは宗教本来のものでないという面もあるし、あるいは誤解されて誇張されてるという面もあるという、そういう風なお話が出てまいりしたが、八木さんにそこら辺をもう少し詳しく紹介していただければと思います。

八:先ほどもちょっとお話した通り、イスラム宗教の名前を聞くとやはり女性のステータスっていうことが真っ先に頭に浮かぶと思うんですけども、そのこと自体が実はイスラムという宗教の持ってる特性とこう考えた時に極めて異常なことで、なぜかというと、イスラムっていうのは、一般に包括的な性格の宗教、政治も経済も芸術も全て人間の営みに関しては、全てその行為の意味を問うような宗教であるので、家族のことであるとか、女性のステータスについてだけ言ってる宗教では全くないはずなんですね。
 ところが、なぜそのようなイメージになっているかというと、それはイスラム教徒の世界というか社会の側の事情があって、その近代化の過程で、要するにイスラム世界の外と付き合わなければならない、交渉しなければならない。あるいは、西洋諸国をモデルとする近代化を行わなければならないという時に、政治や経済はイスラムの論理で動かすことができなくなっていた。で、唯一残ったのがいわゆる身分法って呼ばれている結婚とか離婚とか遺産相続とか、そこのところだけ最後の取として、イスラムの古典的な法律、イスラム法を法律の形として残したんですよね。そうするとそこが残っているっていうことで、そうした性格を持つ身分法を持っている国っていうのはイスラムの国であるということになる。
 で、そういう法律を大切にしている政府は統治の正当性を持つ承認されるっていう構想があって、 なので、本来イスラムというのは女性のステータスについてやかましく言う宗教だということはやはり全く違う、歴史的な経緯が生んだ1つの特殊な側面であるっていうことと、女性のステータスと男性のステータスがはっきり決っている身分法を大切にすることっていうのも、イスラム教徒として生きることというように、意味が帯びてしまうっていうその辺りがやはり私たちが女性について厳しいことをイスラムの方は決めてるっていう時に、元々そういう宗教だって捉えるのではなく、どういう歴史的経緯があって、どういう経験をイスラム世界の外としてきたかっていうことを踏まえて、彼らが見出したその決りの意味っていうのを考えていかないと、いけないかなって思いました。
 ただこのことを日本に振り返った時に、括弧式の「美しい国日本」みたいなところを、その家族のあり方とかっていうところに、こうなんて言うんでしょうね、象徴させるっていう考え方と、やっぱ同じようなものがあるんですよね。本来、イスラムってそういう教えじゃないのに、あたかもそれがイスラムの本質であり、そこだけは譲れない部分であるかのように位置づけられてしっているっていうところがあるので、その辺りは、別性はいけないとかそういう話、日本の話が持つ意味っていうのをもう1回イスラムの例を写し鏡にして考えてみるのもいいかなって思いました。

島:統一教会は各地でですね、地方の議員たちに働きかけたり首長に働きかけたりしながら、性教育を制限したり、家庭教育支援法という風なものを作ろうというね、これはどういうことなのかあれですが、要するに家族の絆を強めるということを掲げると、それにある種の政治勢力が共鳴する。
 また、さっき「美しい国」と言いしまたが、「美しい国柄」は安倍元首相がよく使った言葉で、日本には独自の国家体制があると、日本の古来からあるそういう美しい国柄と家族の秩序が重なってるんだという風な、そういうことに共鳴する人たちがいて、その人たちと統一教会が、関係したと、結びついたと、そういう風なところがあったかと思います。

櫻:八木さんが言われたですね、イスラムが世界と交渉する、近代西欧と交渉する中で、 言わばその政治と経済ここはもう西欧式のやり方でやるしかない。しかし、その家族的な領域、文化の領域、ここはその最後の取としてここを守ったがためにここだけ注目されるってことをおっしゃりました。で、ここはですね、実は日本の場合も当てはまるんじゃないのかなっていうに思うんですよね。失われた30年っていうに言われてますけども、 この間やはりそのグローバル経済の中で日本経済がその沈行してきた。それは科学技術の問題も色々あるでしょうけども、もう1つはやっぱり少子化ですね。出生率の低下、これ結局止められないという、こういう非常にここの根本的な問題をですね、なんとかしなきゃいけないにも関わらず、ここをやらずにですね、疑似的な争点を作ってきたんじゃないのかと。要するに、その日本の家族がですね、あまりにもその個人化してきたと、あまりにもその自由になってきた、ここがですね問題じゃないかっていう、こういうその疑似的な争点を作って、そこにその対応することでですね、ある意味、その政治家がそのパフォーマンスをいろんな形で発揮してるんじゃないのかなっていう風に思うんですね。 
 ジェンダーフリーっていう言葉、これは、男女共同参画社会基本法が制定されまして、それに基づいて、各自治体がですね様々な条例っていうのを作ってきました。で、その中で2003年にですね、都城市が「性別又は性的指向にかかわらず、すべての人々の人権が尊重される」っていう、こういう条例を作ったんですね。ところがその3年後、その市長が変わる中でですね、ここには統一教会の関連団体である世界日報がですね、ものすごい批判的なキャンペーンを打ちましていわば、その同性愛者が集まるとかですね、こういう極端な主張を展開しながら、都城市にある種混乱、惑乱を起こしてですね、そして、都城市として、この「すべての人々」から始める、「性別、又は性的思考にかかわらず」という文言を削除してるんですね。で、こういう形での地域自治体にできたその条例に対する反対運動、これフェミニズムに対するバックラッシュっていう形で注目されてすけども、これが2000年代に生じてます。
 これに対して、統一教会の関連団体、そういったところが関わってくるんですね。で、これってのは私、本当にその疑似的な問題だと思っていて、政治がやるべきはですね、やはり、その地域のその経済産業をどうするのかってことと、本当にその家族が求めてるですね、社会保障的な支援をどうすべきかっていうこういうことなんですね、教育するこれは必要ないんですよ、にも関わらず、こういう争点をですね作り出すことによって、地方の政治家、あるいはその国会議員がですね、あたかもその政治的な活動をやって、日本のためにやってるっていうですね、なんかこういう保守政治を演じてる、ここがですね私は日本にとって非常に、残念なことじゃないかなというに今思っております。

原:家族はこうあるべきだっていう固定観念、そのイデオロギー、こういう風にこの家族はこれでやるんだっていう強い意志をですね家の中の誰かがその権威を持って、それをどんどん推し進めていく、あるいは、宗教的なものがその背後にあるとするならば、もう本当にそこに家族といえども、もうがんじがらめになってくるわけですよね。
 で、カトリック教会なんですけれども、カトリック教会の信徒ですって、私一言簡単に言いますけれども、世界の中で13億人いるっていう風に言われていますと、もう、同じ宗教なのかっていうか、これは1つの宗教と言えるのかっていうぐらい多様なわけですよね。ですから、そうなってくると、保守的な考え方の人もいますし社会派の人もいると、宗教は やはりこう神と人とのこの縦軸というか個人とその自分を超越した大いなる何者かとの関係性というのを 、本当にこう深めて深化して、その歴史の中に刻んでいくっていうことは、もう宗教がその自分自身も アイデンティティとして生かされていくと同時に、その恩恵というか恵みは当然その社会にこの横軸ですよね、横軸の中でこう実りとして分かち合って、 この縦軸と横軸のバランスというのが非常にこう重要ですし、その両方を客観性を持って
探求していくっていうことが求められているんだろうなっていう風に思います。

釈:いずれにしても、原理主義的に宗教言説を振り回す人って宗教の伝統への理解が
シンプルすぎるんですよね。宗教の伝統って先ほど八木さんのお話もあったように、本当に時代によっても変わってきたし、自ら枠組みも変更してきた中でごく近視眼的に自分の見える範囲が伝統のように勘違いして振り回すっていうようなところがあるんだな、そんな風に思いした。
 イスラムの女性問題に関しても、おそらく地域や文科圏や国、民族の問題もきっとあるんだろうっていう風に思います。アラブの人たちの感覚と、アジアのムスリムの感覚違うようですし、アラブの元々の伝統習慣とイスラムの教えと混同する場合だってあるでしょうし、実際にお話聞くと結構イスラムって、本当に個人個人でスタイルを決めるっていうのが強くて驚くような 時もありす。私は神様とこのように約束したので、こういう風に暮らしていきますっていうような面があったりするので、本当にひとくくりに浅くシンプルに捉えてはいけないっていうことだという風に思うんですが、先ほども、少しお尋ねしようと思ったところですが、LGBTQに関して内部の意見というか、ムスリムの中での議論みたいなものが、 あれも教えていただきたいんですよ。私の友人の当事者なんか、やっぱりイスラムちょっと怖いみたいなこう印象を持ってるもんですから、その辺り教えていただけると思うんですけど。

八:LGBTQに関しては残念な状態ですね。本当にもう許容する言説ってのは聞いたことがないと言っている、いるんですよもちろん、でも、それが公にこう理解しようというような声は、私は1度も聞いたことがないというぐらいない。

釈:考えてみたら、我々の生物的な性のメカニズムから考えて、男性、女性って綺麗に2つに分かれること自体が不思議ですよね。性ってもっとグラデーションがある、 そういう意味では、一時期あったような女性が男性を告発するような敵対するような、もう2項対立の
戦略もあんり有効じゃないっていう風に思うんですよ。で、男性の中の女性性もあれば、女性の中の男性性もありますし、 我々の中のユニセックスな面とかいうのがあって、で、それを育てるってのは生きていくってすごく大事なことじゃないですか。

島:日本の宗教会というのを見渡すと、やはり男性が目立つ。特に仏教会にそういう傾向があるわけですが、 その辺りは岡田さんはどのようにお考えですかね。

岡:そうですね。元々うちの宗派は本当に女性と男性を分けるっていう、そういう風な条項が全くないところですので、今では女性がそのどういうんですかね、出家になりたいと、数が少なかったのでっていう、それぐらいしか理由が見当たらない。かと言って、ものすごく増えてきてるかっていうと、台湾とかのようには増えてはいないんですが。もし、そういう勢力が生まれてきた時に、教団はそれを抑えにかかるかっていうと、それはないという自信は私はあります。
 それより、むしろ女性の声にもっと耳を傾けたいと考えている、この教団の人たちの方が
多いと思いますね。だって、世の中の信者の半分は女性なわけですから、それは、もう今は相当変わったと思います。

八:そうですねカトリック教会は今は全面的にですね、去年2021年からそのシノドスという1つの動きをしてるんですけれども。フランシスコ教皇はこの大きなムーブメントを4年かけてやっていくわけなんですけれども、その中心にあるのは、もう互いに自由に分かち合うと、で、合意形成をですね、その決定権が今ではその権威、男性中心としたその権威に集中していたんですけれども、それを一緒に、一緒に分かち合って、一緒に話し合って、一緒に決めていくという部分を促進しています。
 で、 やはり世界中で、そういった機運が来てるわけなんですけれども、その場合女性はある種決められた中で自由に発言できるっていう、その安全だっていうこの場は、自分が何を話しても安全なんだと、何も自分は傷つくことがない、何も虐げられることはない、はねにされることはないしという、そういうこう全体的な環境っていうものがすごく重要だなと
と。

櫻:ジェンダー平等ですね、各教団、宗派、教派で急がなきゃいけないと全く私そういう認識を持っていて、それをやらないでいるとですね、そもそも、宗教家、お坊さんであるとか、牧師さん、神父さん含めてですね、もう、日本人のなり手がいなくなってくんじゃないのかっていうことなんですよね。
 ですから、私はその宗教界はこの宗教2世問題含めてですね宗教に対してその魅力をもっとその感じるようにしていかないとですね、その若い世代、宗教家への成り手も少なくなるし、信者も減ってくしですね。ますますこの世俗化してくんじゃないか。で、この世俗化の中でですね、いわばこのカルト問題ってのはですね、深刻化してくんじゃないのか。

島:私はですね、ちょっと無宗教ということなんですが、宗教2世ではない。私の場合「科学2世」みたいなとこがあるんですけれども、「科学2世」のような人は、また自分の中にちょっとこの空虚を抱くっていうか、それでよかったのかという風な、そういう場合もありすね、なので宗教に頑張ってほしいなと。
 で、自分は、宗教の中に入っていかないけれども、やっぱり宗教あってこそのこの世界だという風な考え方の人も結構いると思います。そして、今スピリチュアリティという言葉が重んじられていて、 宗教は信仰しない、特定宗教は信仰しないけれども、自分なりのスピリチュアリティを養いたいという人も多数いるんですかね。そういう方は、その社会に宗教なしでいいと思っているかというとそうではない。まさに宗教があってこそ、宗教の外で養われるスピリチュアリティも豊かなものになるという風に私などは思っております。そういう風なところで最後にですね、釈さんからまとめをいただけたらと思っておりす。

釈:そもそも、広い意味での宗教っていうのは、人間の営みの中に必ずあるものですから、やはり機を選んで、しっかり考えていかなければならない。ただ、毎日宗教の現場にいるものの実感から言うと、宗教言説っていうのは、あんまり振り回してはいけない。どちらかというと、もう本当にその道を恐る恐る歩き続けるっていうので、ちょうどぐらいっていう感じがあります。というのは、1歩踏み外すと差別や排除や暴力を生みだす、反対側に踏み外すと、今度は単なる中毒に陥るっていうような、そういう剣が峰を歩くようなところが宗教にはある、そんな風に思います。
 ただ、宗教は、制度化されてきた宗教は各宗教教団もこれまで枠からこぼれる人やマイノリティのために、何度も何度も立てつけを組み、立て直してきたわけです。その経緯などを自己点検しっかりして、ぜひとも家族やジェンダーっていう問題に対して真面目に取り組む対話の場を設けるというようなことをしていただきたい、そう思います。

島:どうもありがとうございました。

 

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2022/12/18 瞑想でたどる仏教~心と体を観察する~第3回 多様化する瞑想 (再放送、初回放送:2021/6/20)

蓑輪顕量:東京大学大学院教授
為末大:元プロ陸上選手
ききて:中條誠子

中條(以下「中」という):心の時代では、毎月1回「瞑想でたどる仏教~心と体を観察する~」と題しまして、 仏教瞑想の世界をご紹介しています。お話しくださいますのは、東京大学大学院教授、 仏教学がご専門の蓑輪顕量先生です。よろしくお願いいたします。

蓑輪(以下「蓑」という):よろしくお願いいたします。

中:そして、聞き手は為末大です、よろしくお願いします。

中:今から2,500年前にブッダが、苦しみから飲まれるために瞑想を見い出した。その瞑想というのは私たちの心と体をしっかりと観察することで、認識の仕組みがわかって心を静めることができるということを知りました。

為末(以下「為」という):この瞑想っていう言葉がね、どうしてもなんとなくふわっとしていて、だけど、あんまりこれ聞いていいことなのかなっていうのあったんで、今までそのままにしておいたのがとってもよく理解できて、なんでも質問してよかったので、すごくクリアになったのを覚えてますね。

中:蓑輪さん、第3回今回はどんな展開なんでしょうか。

蓑:今回はブッダの死後、仏教が数百年かけてインド各地に広がっていきますけれども、 その様子を瞑想を通じてたどっていきたいと考えています。 そのプロセスを知れば、仏教が大切にしたものがなんであったかが、またよく見えてくると思います。

ナレーター(以下「ナ」という):仏教は今から2,500年前、ブッダが瞑想によって悟りを得たことで始まります。ブッダは、元々王の息子として生まれ、何不自由なく暮らしていました。しかしある時、生きている限り、誰もが老いや病、そして死を免れないと知り、苦しみを覚えます。
 苦しみから逃れる方法を探して、たどり着いたのが瞑想でした。瞑想によってブッダは苦しみを作り出すのは、自らの心だと気づき悟りを得ました。
 ブッダの瞑想は、初期の仏典では「念処」という言葉を使って表されています。「念処」とは、 注意を振り向けて、しっかりと把握すること。
 例えば呼吸に注意を振り向けます。息を吸ったり吐いたり、空気の出入りとそれに伴う体の動きに気づくでしょう。鳥の声を耳にした時、どんなふうに感じたでしょうか、心の動きもしっかりと把握します。このようにブッダの瞑想は、行動や感覚を観察の対象として捉え、気づき続けることで、自らの認識の仕組みを把握しようとするものでした。
 瞑想が仏教に欠かせないものとして受け継がれていく過程で、様々なものが観察の対象となっていきます。

中:その瞑想がどのように変化していったのかというのがわかるという書物がこちらですね。
蓑:「清浄道論」という名前で呼ばれる資料なんですけれども、5世紀頃には、出来上がっていたのではないかと考えられている資料なんです。 
 当時伝わっていた観察の対象をまとめ上げたものと考えていいと思うんですけれども、
初期の時にはですね出てこなかったものが含まれてるような気がいたします。

中:観察の対象っていうのが、瞑想における観察の対象?

蓑:そうです。初期の時には四念処という言葉で、観察の対象になるものは大きく4つに分けられていました。それは私たちの体の動き、それから心の中に生じてくる働き、そういうものに分けられていましたけれども、「清浄道論」になりますとそれがもっと細かくなりまして、実際には40種類ほどの瞑想の対象が出てまいります。

中:こちらがその40に分けられる、瞑想ですね。

為:今の時代だと見ないような感じがありますね。

ナ:ブッダが瞑想で観察の対象にしたのは大きく分けて4つでした。それが「清浄道論」の時代になると、細かく分類され、さらに新たなものも加わります。自然現象や具体的な事物、特定の言葉、心の持ちよう、様々なものが観察の対象となっていきます。

中:この1番上、これは「十遍」ということでよろしいですか?

蓑:「清浄道論」の最初に挙げられましたものは、「十遍」とか、あるいは「遍処」という風に呼ばれるんですけど、10個のものを挙げて観察を対象にして、ずっと集中をしていきですね、やがてそれが、私たちの身の回りに満ちているという風に観察していくやり方として挙げられてきます。
 最初の「地」はこの「大地」なんですけれども、地が遍満している。


ナ:「地遍処」とは、地が身の回りに満ちていると心の中で繰り返し唱え、集中する瞑想です。現在、東南アジアなどでは、土で作った円盤を目の前に置いて行います。円盤を見つめ、 「地、地、地」と唱えていると、たとえ円盤を取り除いても脳裏に焼き付いて地が溢れているように感じると言います。

中:自分の頭の中を、その地の円盤でいっぱいにするということですか。

蓑:基本的には自分の頭の中だと思うんですけれど、それは私たちの見えている世界にこう遍満していると。
 例えば家の中とかですね、それから、この町の中とか、あるいは宇宙にまで広がるような感じで、 こう遍満しているという風に観察をしていくという風に書かれています。

中:それをいっぱいにすると、どうなるんですか。

蓑:私たちは何か1つのものに集中していると、他の働きが起きなくなってきますので、それを進めていきますとやがて、私たちの心が静まっている状態っていうところに入ってきます。とにかく1つのものに集中して、他の働きが起きないように、心を訓練しているんだと思います。

中:そして、ちょっと次も見ていきたいんですが、この色々ちょっと

為:なんかちょっと怖い感じ。

中:そうなんですね。膨張したり、青くなったり、爛れたり、膿んだり、壊れたり。

蓑:これはですね私たちの身体が 亡くなってしまった後、死体になりますけれども、死体が腐敗する過程を観察を対象としています。で、そこに挙げられましたものを数えていただきますと、全部で10個ありますので「十不浄」という名前で呼ばれます。これは日本にも平安時代に伝わっていまして、その時には十ではなくて、九つで出てきまして、「九相図」という名前で呼ばれる、死体が腐敗してく様をですね絵に書いたものが存在していますけれども、その元になったものがこの十不浄です。

ナ:人が死ぬとその体はやがて膨張し、腐敗し、バラバラになって、最後には骨となり、自然に帰っていきます。死体の変化を直視し集中することで、修行者たちは人間の体にまつわる 1つの真理に気づきます。

蓑:身体がですね執着の対象ではないということを、これでもかというぐらいに納得させるためのものだったのではないかと思います。

中:美しくなってる人も富んでいる人も現世では色々皆さん形を持つわけなんですけれども、行き着く先は骨だぞという。

蓑:そうですね、これはもう万人に共通しているところで、私たちの身体に執着する必要はないということを確認させているんだと思います。 
 現在の、東南アジアのタイランドの仏教者の中にもこの不浄観は特に若いお坊さんたちに修習を進めることが多いと。で、それはなぜかというと、異性に対する欲望を抑えてくれるからだという風に出てきます。

為:でも、変化してく様子を見てくってことになんですね。きっと、1日じゃ起きないから、ずっと通って眺めてくって感じなんですかね。

蓑:これは、インド等の古代におきましては、村から離れた山の中とかにですね、あまり言葉遣いよくないかもしれませんけれども、死体捨て場みたいなところがありまして、そこのところに行きましたら、 亡くなったばかりの遺体から腐敗が進んでいる白骨になっているものとかですね、色々なものに接することはできたんだと思います。
 でも、そのような場所に行って観察をする時に色々な注意も出されていまして、例えば、人間の遺体が腐敗していくっていうことは、匂いも大変になってしまいますので、風上の方にいなさいとかですね、結構色々と細かい注意をしながら、観察をするというのが伝えられています。

為:それは観察の方法として残ってるんですね、How toとして

蓑:興味深いのはですね。元々は自分の身体を中心にして観察してると思うんですけれども、 やがて自分の外に存在するものも観察の対象にしているということだと思いますね。

為:あれですかね山登りで言うと、なんかこの1点に上がるんだけど、結構いろんな登り方があって、それが仏様の頃は ここからだよって言ってたのが、40個ぐらい出てくるけど、でもみんな目指すところは、大体同じところを目指してるってそういう感じですかね。

蓑:そうですね、手段は少し違うという風に考えたんでしょうけれども、目指してる世界は一緒っていう風に考えて、おそらく様々な工夫を認めていたのではないかと思います。 
 実際に別のものを使ってやってみても、同じような境地に到達できたっていうような、そういう体験が背景にあって、色々なものがその観察の対象として認められていくようになったのではないか。

中:この「十隨念」ですか?こちらは?

蓑:こちらはですね 念という言葉が使われてきてますけれども、私たちが心の中に抱くもの、概念的なものと考えていいと思うんですけれども、それを集中の対象として使っていきます。1番最初に登場いたします仏隨念というものがあるんですけども、これは「清浄道論」の時代には仏様のですね名号というんですけども、10種類の尊敬のための名称があったんです。仏は人間の師であるとか、よく討議をしている人であるとか、あるいは世の中の尊敬するものであるとかっていうので、「仏の十号」と言われるんですけども、この「仏の十号」を1つ1つ心の中で確認していくというやり方が出てくるんです。言葉もですね、集中をしていく対象として使えるというのに気がついたんだと思います。
 言葉を対象にして使うっていうのは、後に東アジア世界の方に伝わっていきますと、これはいわゆる念仏とかのですね、名号になっていくんだと思います。私たち身近な言葉としては、 「称名念仏」という言葉があると思いますけども、その称名念仏に繋がっていくのがこの隨念の修習だったのではないかと思います。

ナ:仏隨念では、仏に対する10の敬称を心の中で1つずつ繰り返し集中します。言葉を観察の対象とする瞑想です。最初、心の中で念じられていた言葉は、後に口に出して唱えられるようになります。「南無阿弥陀仏」など私たちにも馴染み深い念仏は、こうした言葉を手がかりにする瞑想をルーツの1つとしています。
 仏教の瞑想は、時代や文化に合わせて様々に形を変えていきました。インド北部のラダック地方、密教を信仰する地域です。密教は5世紀頃、仏教に土着の宗教が影響して生まれました。密教の僧は、真言と呼ばれる呪術的な言葉を声に出して繰り返します。儀式では、集団で仏の名前を口にします。尊い言葉に集中するのが密教の瞑想です。
 ブッダが1人行った心身の観察とは、一見異なる密教の瞑想。しかしここにも観察の対象を定め、注意を振り向けるというブッダの瞑想が確かに受け継がれています。

中:為末さんは、何かこう試合の前とか試合中とか、1つにこう集中するために唱えてる何か言葉だったり思いだったり、なんかありましたか。

為:僕はあんまりなかったんですけど、マイク・パウエルさんって、幅跳びで世界記録を持ってらっしゃる方が幅跳びを飛ぶ前に、ずっとブツブツブツブツ話をするんですね。で、1回実際に会ったことがあって、何を話してるかって聞いたら、「僕はできるんだ」とか、
決まった言葉は言ってて、それは本人曰く自分を信じさせてるっていうよりも、 そうして言っておいた方が頭の中でジャンプのイメージが描きやすいらしいんですよ。
 選手がプレイする前って、頭の中でその動きをずっと繰り返すんですね、頭の中なんですけどちょっと余白があって、それだけやってても、観客の声が聞こえたりとかするたびに「頑張れよ」って言われて、なんか急にプレッシャーが上がってきて、これ失敗ジャンプだったらどうしようとか、そういうのがどんどん起きてくんですけど、それをなんかシャットアウトするためのブツブツだったっていう風に言っていて、だから、なんかもうちょっとわかりやすい話かと思ったんですね、自分はやれるんだって言って、自分を信じさせるために話してるかと思った。なんかどっちかっていうと、体の内側で音を出して、 外から情報が入ってこないようにすることで、動きを頭の中でイメージを描くっていうことを言っていて、そういうことは あったかなってきしますね。

中:それで言うと、様々な観察対象があっていいということなんでしょうか。

蓑:そうですね、これは色々と新しいものができてきています。20世紀になってから、新しくできた瞑想のやり方っていうのがありまして、タイで発案されたようなんですけれども、手の動きを観察するっていうのが存在しています。
 今、手を動かす瞑想で「手動瞑想」っていう名前で呼ばれていますけども、もしよろしければ少しやってみますか?

中:今できるんですね?

蓑:簡単にできますので、まず手を膝の上に置いてください。手をこう1回膝の上でこう立てまして、それをこう上に持ってきます。で、上に持ってきたここのところでちょっとこう手の動きにですね、止まったところをこう気づいてください。で、その次に今度お腹にこう持ってきます。で、お腹に行ったところで、ちょっとこう気づいてください。で、同じように胸のとこに持っていって、こちらに持っていって、で、膝の上に落として、これだけの動きなんですけども、要点ははじーっとなんか観察するのではなくて、要所要所だけを気づけばいいです。慣れてくるといろんなことを考えちゃったりしますけども、それも全然構いません。考えてるなでもいいや、オッケーという感じで流して手放していくと、それでは
やってみましょう。

為:動きをだんだん覚えてきました。
 こういうのが瞑想に入っていいんだってのが驚きでした。なんとなく 、全身ピタっと止まってないと、そうじゃないってイメージがあった。動きながらでも、こういうのであれば、やったことあったなって気がしました。同じ動きをずっと繰り返していく時に、我々の場合は、どっか局所的な筋肉を意識するんですけど、そこに向けてずっと考えながら筋肉を続けていくと。

蓑:1つのものを対象にして気づいていくと、他の働きが起きにくくなってきますので、本当に集中力がついてくるんですよね。

為:スッキリしますね、そればっかりそれだけのこと考えるんで。

ナ:瞑想を通じて苦しみから逃れる道を解き続けたブッダは80歳で亡くなります。思いを継いだ弟子たちはブッダの教え、仏教を多くの人に伝えようと、インド各地へと歩み出しました。教えを伝える主体となったのは、出家者の集団「サンガ」でした。サンガが各地に広がるとともに瞑想をするのに欠かせない規則対「戒律」にも、 地域ごとの違いが生じていきます。


中:まずはブッダが入滅した後ですね、こちらから教えていただけますか。

蓑:入滅から約100年後なんですけれども、お釈迦さんの教えを信奉していたサンガが、2つに分かれます。これを「根本分裂」という名前で呼びます。この時に伝統的な保守派と 改革を目指したというわけではないですけども、改革的な考え方を持っていた派、上座部と大衆部と言うんですけども、この2つに分かれたと考えられています。 
 で、それ以降ですね、この上座部の中でも、大衆部の中でもさらに細かく派が生じまして、最終的には20の部派が存在したという風に伝えられています。

中:どうしてここまで分化が進んだんでしょうか。

蓑:軽い思いがあるんですけども規則が作られていくんです。で、その規則を 2週間に1度必ずそのサンガの人たちは集まって確認をしなければいけないっていう運営の仕方をしていた。実際に100年後に起きた事件というのはですね、それ以前は禁止されていたことに対して、これはしてもいいのではないかという新しい改革的な意見が出てくるんです。
 その1番有名なものがですね、塩を1日を超えて蓄えて良いかどうかという問題が出てまして。塩というのは、私たちが生活していく上で、とても欠かせない必要なものだと思うんですけれども、お釈迦さんの時代に作られた規則の中では、布施されたものはですね、その日のうちに、消費しなければいけないと いう風に決められていた。

中:蓄えていちゃいけいないけないと。ええ

蓑:ところが塩みたいな保存のきくものをですねいただいた時にも、もしもらったとしたらですね、その日のうちに使わなければいけないというのは、やはりちょっと不自然なところもあるのかもしれません。

為:じゃあ、「塩論争」で上座部とあれなんですね、「じゃあみんなもう1回ルール思い出しますよ」って話していった時に、なんかやってくうちに先生っていうのかわからないですけど、ちょっとこういう時にも言われた通りやんなきゃいけないですかみたいな、だんだんだんだん、塩ってこれ明日も残るじゃないですかみたいなのがちょっと出てきたみたいな。そんな感じで、徐々に徐々に意見の対立っていうか、考え方の違いみたいなそんな感じなんですかね?

蓑:そうですね。お釈迦さんが亡くなってから100年っていうと、何世代か過ぎてると思いますので、 新しい考え方というようなことを主張する人が出てきたのだろうと思います。 実際にお坊さんたちがですね、所有しても良いものっていうのが決められているんですで、それは着物と言いますか、衣という風にお坊さんの場合は言いますけれども、大中小の3枚は持っても良いという風に決められていたんです。ところがこの3枚の布ですから3衣と言いますけれども、それだけでは、仏教がですね例えば、北の方のヒマラヤの裾野の方に広がっていった時に、寒い地域ですので布3枚だけでは、やっぱり生活していくの大変になると思います。ですので、仏教が広がっていって時代も変わり、地域も変わると、そのような中でサンガを良好に運営していくためには、どうしたら良いかということを考えていたんだと思います。
 ですので、最初期のですね根本分裂というのは、いろんな異なった考え方が出てきて、それを認めることによって、つまり、サンガを分けてしまえば、そのサンガの中の規則には抵触しない。別のサンガは別の規則で運営されていけば、その中では戒律違反にならない。  ですから、戒律違反を避けるためにですね、分化というのが起きたのではないかと考えられています。

為:大衆部系の方が改革派っていうか、比較的新しいことっていう感じだと思うんですけども、だんだんそうやっていくと、この際の辺りに入っていくと、ここを超えたら仏教ではもうないんじゃないかっていう際が出てくるような気がするんですけど。

蓑そうですね、それあり得ますね。
為:その時って、どの辺を持って、仏教と解釈したのか?

蓑:お釈迦さん自身が、自らの悩み苦しみを超えるっていうのが最初だとは思うんですけれども、 1番の根底にあるのは、私たちの持っている悩み、苦しみ、そこからいかに解放されていくのか、それを ある意味で道筋を示してくださったのが、お釈迦さんだと思うんですけれども、それ以外のところについては、様々なものをですね柔軟に認めていくっていうことをしていたんだと思います。

為:それすごいなんていうか、おおらかですね。ラーメン屋で言うと、これとこれさえ使っててくれたら、あとはのれん分けしていいよみたいな。

蓑:いろんな形があってもいいよっていうことなんだと思います。で、その1番根底にあるのは、やはり心身を観察していくっていうことで、そこからあらゆるものは、実は私たちの心が作り出しているものなんだ。だから、こだわらなくていいよっていうところに多分行き着くんだと思います。

蓑:仏教は体験の宗教ですから、悩み苦しみを超えていくために、心身の観察、いわゆる瞑想がですね。きちんと存在してるんだと思うんですけども、そこのところをちゃんと受け継いでいればですね、問題ないという風に考えていたのではないかと思います。 
 ですから、瞑想に関しましても様々な新しい考察の対象みたいなものが認められていくのではないかなと思います。仏教は非常に寛容性に富んでいて、様々な多様性を肯定する姿勢があったという風に言うことができるのだと思います。

為:なんか、そもそもは「執着から離れよ」みたいなところに教えがあるから、多様性を否定すると、それ自体がなんか執着してるみたいになるんで、なんかそこもきっとね、自分自身をこうなんていうかな、ある執着から放たれていくってこと全ての人に広げていくと、当然教えがなんか寛容になっていくのかなっていうのは今思いました。
 仏教が残れていったっていうこのポイントっていうのと、この瞑想っていうのがずっと残ってきたことって、なんか関係があるもんなんですか。

蓑:仏教の中に伝えられている信というのは、実は自ら体験して確認する信だっていう風に言われるんです、それで出てくるのが仏教の信だと。
 何かですね、こちらの方から敬虔なる信仰を捧げると、これ「バクティ」っていう言葉で呼ばれるんですけど、それが他の仏教以外のところの信の特徴だって言われるんです。
 それに対して仏教者の方は自ら体験して、確認して、そして出てくる信が大切だっていう風に言ってるんです。

為:だから、1番最初に捧げなさい、そうするとバックがありますよっていう、信じなさい、恩恵がありますよっていう関係じゃなくて、自分でものためにまずやってみなさい。そして、体験として納得感があるなら続けなさいみたいな

蓑:そんな感じだと思いますね。ですから、基本的に仏教の中にはある意味で、その唯一心への信みたいなものと、ちょっと異質の信が存在していた。

為:それがブッダがちょっと神様、そうは言っても、なんか他の神様のこと神様っぽくないっていうか、あくまで1人の人間として語られることが多い気がするんですけど。

蓑:そうですね、そこにやっぱり原因があるんだと思います。
中:上座部大衆部というふうに分かれて、その後20の部派が生まれるっていうとこまで教えていただきましたが

蓑:私たちにも馴染みの深い大乗仏教というのが生まれます。大体紀元前の1世紀ぐらいからあったという風に考えられるんですけれども、新たな改革運動としての仏教が大乗仏教です。

ナ:大乗仏教が始まったのは、ブッダの死後300年余りが経った紀元前1世紀頃とされます。大乗仏教は「誰もが悟りを得られる」と説きます。それは、部派仏教に対する問題提起でした。
 部派仏教では、ブッダの教えを分析することが重視され解釈論に陥っていました。その結果、悟りは生きているうちに到達できないものとして扱われるようになります。 ブッダを悟りに導いた瞑想という体験も、十分に伝えられてませんでした。悟りが人々から遠くなっているのではないかと、大乗仏教は問いかけたのです。

蓑:ある意味で部派の時代の仏教というのが、色々なものを緻密に分析するようになってしまって、言葉による分析とかですね、そういうものにこだわってしまって、悟りの世界みたいなものも言葉で細かく分析するうちにですね、いつの間にかたどり着けないようなものになってしまったと。
 こうなりますと、もう私たちはこの世で修行しても、 悟りに到達することはできないというような認識になってしまいます。それをなんかやっぱりおかしいんではないかっていう風に考えた人たちが、悟りを自分たちのものに取り戻していく。こういうことをしたのではないか、という風に現在では考えられています。

為:なんかあれですかね、イメージとしては、その部派仏教の中で悟りとはこうじゃないかとか、そういうこう議論みたいな感じが行われていく中で、だんだん言葉と頭で理解をしようみたいな感じで、なんとなくそんな空気がある中で、グイッといや、そういうものじゃなくて、やっぱりもう少しこう体験的なもんなんじゃないかみたいな大きな流れが、こっちの世界だと、なんかこう空中戦になるっていうんですかね。言葉遊びみたいになってるようなものを、もう1回ちょっとこうどんと1回地に足ついたものに持ってくような、大きな流れがあって、そんな感じなんですかね。

蓑:そんな風に考えていいんだと思います。これは面白い例がですね、日本の仏教者の中に伝わっておりまして。臨済宗の中で、江戸時代に登場して活躍する大変に有名な白隠慧鶴禅師(はくいんえかくぜんじ)って方がいらっしゃるんですけど、どういうものかと言いますと、教説としてはですね、私たちの心があらゆるものを作り出しているっていうのは、耳で聞いて多くの人たちは理解してると思うんですけども、それをやっぱ本当に体で理解してるかどうかっていうことになりますと意外に難しいと言いますか、少ないのではないかと思うんです。
 白隠さんはですね、 若い時なんですけど、夕方、托鉢のために村を回って、それでお寺に帰ってきたと。大分疲れたと見えられまして、でも、夕方の日課としてですね、本堂、禅堂の中で座禅をしようと、でも疲れているから、今日は柱にもたれかかって座禅をしようと考えられたみたいでして、柱にこうもたれかかるんですけども、そしたらですね、あると思っていた柱がなくて、そのまま後ろにすってんころりんと1回転しちゃった。この時にですね白隠禅師は、まあカッカッカとですねお笑いになられて、大きな悟りの1つ「大悟の1つ」っていう風に後で位置づけられるんです。なぜだかわかりますか?

中:あると思ったものがなくって、、、
蓑:柱は自分自身の心が作り出したものだっていうのを、その時に実感として体験なさったんでしょうね。心を見つめていく瞑想が、そこから大切だっていうことをまた再認識されたんだと思います。 
 つまり、体験として理解していくっていうことの重要性というのを仏教はいつも主張してるんだと思います。

中:その大乗仏教における瞑想っていうのは、それまでの瞑想とどんなふうに違いますか。

蓑:基本的なところは変わらないと思うんですけれども、いわゆる観察の対象にするものに違いが、別のものが生じてきたりとか、教えの上でもですね実は、「空」を強調するというような特徴が出てまいります。「物事には実体がない」という意味で使われます。1つ1つのものが実体としては存在していないという意味で、例として、家というのがあるんですけども、家というのはそれそのものだけで成り立ってるものではない。例えば、ここの家もですね、柱があり、天井があり、屋根がありというので、こう出来上がっています。それで家が出来上がっています。でもよく考えてみると、柱が家そのものではないですし、これ本をただせば1本の木ですから、柱だけにしてしまって、横に置いたとしたら、柱とは呼べずに単なる材木ですよね。そうすると、柱とか屋根とかですね、そういうようなものと家というのは、 お互いに関係し合って初めて成り立っていると。

ナ:「空」という言葉は大乗仏教よりも前の初期の仏典に記されています。当初、その意味はあるべきところにあるべきものがない。例えば、象や馬がいない小屋は空、つまり空っぽだということです。大乗仏教では、空の捉え方が変わります。この小屋自体も実体のないものとされます。どういうことか家の例で見てみましょう。
 私たちが家と呼ぶものは分解してみれば、柱や屋根、壁などの集合体です。つまり、家とは柱や屋根などそれぞれが関わり合うことで現れたものに過ぎず、固定的な実体はないと考えるのです。

蓑:大乗仏教が登場してきて、空というのを協調する方が登場するんですけど、この人が実はナーガールジュナ、龍樹と呼ばれる方です。活躍されているのが、南インドの方だという風に言われています。
 龍樹さんの時になりますと、私たちの世界を説明する原理としても空というのが使われるようになります。私たちの身の周りに存在してる様々な事物ですけれど、これも実は実体としては存在しているものではないと捉えるようになっていきます。 
空という考え方と、縁起という考え方の両方を使っているんですけども、世の中に存在してるものは全て空であると。それはなぜかというと、縁起によって成立してるものだからっていう説明がされるようになってくるんです。

ナ:龍樹は2世紀頃活躍した僧侶です。彼のもとで大乗仏教は多くの信者を獲得します。 
人々を引きつけたのが龍樹が掲げた「すべてのものは空である」という思想です。龍樹が説く空に欠かせないのが縁起の概念です。
 縁起は物事の関係性を示します。この縁起は心身を観察するブッダの瞑想によって見出されました。ある事物が存在するから、それを観察する意識が生じる、観察する対象がなくなれば意識も消える。当初縁起は、先に観察される対象があり、その後に認識が生まれるという一方向の関係性を表していました。 大乗仏教の時代、龍樹によって縁起の概念は捉え直されます。一方向の関係性だけを意味していた縁起を双方向のものとしたのです。
 先ほど見た家、空では家は固定的な実体のないものとされます。家が存在するのは、柱や屋根、壁が互いに関わり合うからです。この双方向の関係性、縁起があらゆる物事を成り立たせると龍樹は主張します。
 双方向の縁起で世界を見てみると、人と人、人と自然、全ては結びつき影響し合っています。関係性がなければ、全ての存在が成り立たない。これを「すべてのものは空である」と龍樹は言いました。

蓑:全てが存在してるのは、関連性ということが強調されてきますから、ある意味で、自分と他者の区別みたいなものを、そんなに気にしなくてって言うんでしょうかね、1つのものとして、こう考えていくっていうことが可能になってくるんではないかなと思います。


為:柱があって、畳があって畳の中を見ていくと、いぐさがあって、その中に入ってくるどうも分子とか粒子の世界に多分そこまで入ってくと、今度は畳と外の空気との境目もなくなってくるっていう、多分なんかずっと観察してこうミクロの世界に入っていくと、境目があやふやになっちゃったみたいなところから帰ってくると、このそもそも実体、ここにクリアに自分と自分以外があるっていうのがなんか怪しくなっちゃったりするな、なんか、そんな感じじゃないかって気がするんですけど。空っていう前提があると、どう変わっていったんですか、その仏教ってのは。

蓑:一切のものはですね空であるっていう言い方が出てきますので、こだわる必要がなくなってきます。つまり、物事にはなんか固定普遍の実体っていうものは存在しないという風に見ていくと、ある意味で、非常にこだわりがなくなってきますし、楽になっていきます。

中:例えば、タイムをもっと縮めてよくしようとか、もっと飛ぼうとかいうことも、なんか溶け出していくっていうなことなんですか?

為:多分オリンピックに出たいと思っても、オリンピックがあることの間の縁起ですねっていう話なんだと思うんですよね。オリンピックがないと、あなたの欲望もないですねっていう全てがそういう相互関係にあるので、タイムを縮めるっていうことも目標があるから縮めたいっていうか、こういろんなものが溶け出していって、一体、なんか自分が向かう方向ってなんだろうとかっていう感じになるんじゃないかって気がするんですけど。

中:そうなると、どこへ向かっていけばいいのかっていうことが、戸惑いが出てこないかと思うんですが。

為:僕はなんか個人的にはそこが全ての苦しみのスタート地点のような気がして、「何かに向かわなきゃいけない」みたいなものを解体していくために、空っていうのが働いたんじゃないかっていう気がするんですけど、どう思われすかね?

蓑:今の存在してるものに対して、こう執着する必要もなければ、それを追い求めていかなければいけないっていうようなこともないようになっていくところがありますので、そういう意味で空であるからこそ安心できるようなところもですね、あるのではないかなと。

ナ:空に関わる瞑想は「空観」というような言葉で表現されています。「いっさいは空である」という風に観察していくっていうやり方が紹介されています。ですので、具体的にですね、心の中で実際は空であるっていう風に確認していくような、やり方だったのかなと推測しています。
 でも、もう1つ考えられるのは、入息出息などを観察してあらゆるものがですね生じては滅していくものなんだっていう風に気づいてくる観察もある意味で、その空を気づいていくことに繋がっていくんではないかなと思います。

中:空に気づいていくとどうなるんですか。私たちは

蓑:そこから実は、私たちの持っている慈悲というのがですね、きちんと出てくるという風にも考えることができます。ある意味で、「自他の区別がなくなる」ということだと思いますので、そういう世界というのは区別だてをしない世界、仏教の場合には区別だてすることを「分別」と言うんですけども、その分別のない世界をきちんと捉えることができると、それ「無分別智」っていう言い方がされるんですけども、自分も世界であり、世界も自分であると、自分は世界である、世界は自分であるというような、そういう感覚にもこうなっていくと思います。 
 ですから、私たちは日常的にもう隣の人は別の人っていう感じで考えてしまいますけれども、実は繋がった存在なんだっていう風にも言うことができるわけです。そこから、生じてくる感覚的なものですかね、これが多分、慈しみや哀れみの世界に繋がっていくんだと思います。

為:先ほど家に例えをされてたんですけど、梁が存在するためには、柱が支えてなきゃいけないっていう関係だと思うんです。例えば、世の中全部が縁起してるってことは、先生と僕の間にもなんかの支え合いの関係があって、片方が取り除かれると、片方が倒れるから、
全部が相互に必要とし合ってますねみたいな、要するにそういう感じで、慈悲が立ち上がってくるんじゃないかと思うんです。
 だから、全部個別に分けていくと1個取り除いちゃっても大丈夫かなって気になりますけど、実は全てが繋がってバランスするから、見えないけど何かがこう繋がってるっていうのを言葉ではこうなんだけど、多分体験的にそれを知って、そこになんか境目がないっていうか、関係があるんだっていうのに気づいてくんじゃないかなっていう気がするんですけどね、なんか、それが縁起と空のことなのかな。

ナ:1つ1つのものに実体のない世界では、自他の区別もありません。あなたや私が存在するのは互いの関わり合いがあるから。そうした縁起の世界に生きていると気づいた時、自然と湧き上がってくるのが慈悲です。慈悲の「慈」は慈しみ、人々に幸福を与えたいと思う心、「悲」は、哀れみ、人々の苦しみを取り除きたいと願う心です。

蓑:やっぱりある意味で、排斥もしないし、対立もしない世界なんだと思いますので、そういうものが出てくるんだと思います。これは瞑想の中の体験でよく言われることなんですけど、その全てがこう繋がっている世界っていうのを体験した人たちは、自然と他者に対する慈悲の気持ち、哀れみ、慈しみの気持ちが自然と生じてくるものなんだと。
 大乗仏教の人たちはですね。その空を強調し、それが慈悲に繋がっていて、そして、多くの人たちを悟りの世界に渡していくんだよっていう理想をですね、高らかに掲げることになります。自分が悟りを開いてなくても、他者を悟りの世界に渡してあげるというですね、そういう理想を立てるようになりまして、悟りの世界に自らが安住するのではなく、世の中の人のために尽くしていくっていうことをですね、うたうようになっていくんです、それはまさに慈悲の世界であり、それを実践している人たちが「菩薩」という名前で呼ばれるようになります。

為:今言われたのは、その本人が悟りを開いてなくても他者を悟りに導こうみたいな、そういうとこですかね。なんかそこはすごく、私たちの世界でいうコーチングの コーチの役割で、オリンピックに行ってないコーチは、オリンピアンにオリンピックのことを教えられるのかっていう問いがあるんですね。で、これよく選手側は疑問を持つわけですね、できるから教えられるんだろうっていう。でも、今はやっぱり認識が変わってきて、できることと導けることってのは違っていて、もうちょっと言うと選手を教えてるんじゃなくて、実は選手に伴走していて、選手がそこに行こうってことの、なんかサポートをするのがコーチだっていう。だから、決してその常に選手を上回る経験を持ってる必要はないんだっていう考え方に変わってきてるんですけど、ちょっと今伺いながら、そのなんとなく指導者ってね、自分が知ってることを伝えるってイメージがあったんですけど、自分が悟らなくても悟りに行く人を助けようっていうのは、その自分の経験とは関係なく、ある意味フェアな、なんかこうブラットな関係で支え合うみたいな、そんな印象を持って、それはとっても私たちの世界でも言われてることに近いなと思って。
 だから、それが今おっしゃった、悟ってるから悟らせられるんだねではなくて、その本人が悟ってる云々とは関係なくて、支援を、まあおそらくだから一方的でもないんじゃないかと思うんです。菩薩になりあってるっていうか、いつ誰でもそちら側になって、 そういう話かなと思って聞いてましたけど。

ナ:「すべては空であり、実体はない」と解いた龍樹。誰もが苦しみから逃れ悟りを得られることを大乗仏教で伝えようとしました。根源にはブッダの時代から脈々と受け継がれてきた慈悲がありました。
 慈悲は、瞑想の観察対象をまとめた「清浄道論」にも記されています、「四梵住」、相手を思う限りない気持ちに気づくことです。

蓑:これは「四梵住」とか、別名「四無量心」とも呼ばれるんですけれども、4つの尊い気持ちという風に言われるものです。続けて「慈悲喜捨」という風にまとめて呼んでしまうことも多いんですけれども、その4つの気持ちに対して気づいていくって感じなんですけれども、現在では、「慈悲の瞑想」という名前で呼ばれていますけれども、自己自身が幸せであるように、それから身近な人たちも幸せであるようありますようにとか、赤の他人も幸せでありますようにと。そして、非常に特徴的だなと思うんですけれども、まだ生まれていない者たちも幸せであれというのが願われているんです。
 この「四梵住」は、誰もがおそらく持っている気持ちだと思うんですけれども、なかなか 発言してくることが難しいような気がいたしまして、特に慈しみとか、哀れみの気持ちっていうのは、誰もが持ってるんだと思うんですけれども、意外に長続きしないのではないかなと考えることがあります。
 実は東日本大震災の時に、日本中の人あるいは世界中の人たちが、被災した人たちに対して何かしてあげなければならないっていう風に思ったと思うんですけども、あの時の感情はまさに慈しみや哀れの感情だと思うんです。ですので、万人が持っている感情なんだと思うんですけども、やがてそのような思いも忘れられていってしまいますので、仏教者たちはおそらく大変に尊い心持ちなので、それを長続きさせ自らのものにするために修習の対象としても出してきたんだと思います。
 これ、毎朝唱えられるようになってくれば、多分自分の心の中に自然と刷り込まれるように入っていくと思いますので、いろんなところで人に対する態度とかですね、言葉遣いとかが、 変わっていくようになるのではないかと思います。

中:ブッダが始めた仏教、元々は6人のサンガでしたよね。ここから、インド全部に広がっていくというとこを見たんですけどもいかがでしたか。

為:やっぱりここまで見てきて、仏教っていう考え方とか、そういう方に生きそうなものを 結局引き止めてたのは瞑想なのかなって気がして、あれがやっぱり 、いやいや体験なんだよっていうのを、その都度その都度引っ張ってくるような感じがあって、面白かったなっていうのと。でも、この慈悲のアイデアが出てきた時に、いや、なかなかこの慈悲の心でやるんだけど、でも、ちょっとぐらいはお返ししてほしいかな、みたいに思う人間の性っていうものとの向き合い方とか、だから、人間はずっと変わらないできてる本質をですね、よく見抜いていたんだろうなっていうのを改めて思いました。

中:日本に伝来するところまでこれから広がっていくわけなんですが、仏教の力改めていかがですか。

蓑:いろんな地域に広がっていって、その地域に存在している文化的な伝統とかですね、そういうものを柔軟に受け止めているというような気がいたします。特に多様性を受け止めていく、そこには寛容なる姿勢みたいなものが存在していて、でも、それを確かにに支えているものが瞑想みたいなところがあって、体験によって得られる何かっていうのは確実にあるんだよっていうのを、常に意識してたのではないかなという気がします。

中:次回第4回はインドで花開いた仏教が中国に渡ります。そして、のちに日本に伝来する仏教の基盤を作った展開を見ていきます。お二方、今日もありがとうございました。

 

NHKこころの時代~宗教・人生~ 瞑想でたどる仏教: 心と身体を観察する (NHKシリーズ NHKこころの時代)

仏教瞑想論

2022/12/11 被爆者とともに40年歩んで

村田未知子:被爆者団体の相談員

『村田(以下「村」という):深堀さんですか、東友会の村田です。すいません、昨日お電話いただいたようで失礼しました。ご無沙汰してます、あの先生病名なんておっしゃってます?皮膚がんとおっしゃってたそれで、深堀さんは被爆、今現在、医療特別手当受けてらっしゃいますよね。そうするとその皮膚がん出しといた方がいいですね。あの今、膀胱がんの方、落ち着いてらっしゃる、経過観察の方、よかった。もう膀胱がんの方は落ち着いていれば、更新しなくてもいいしで、皮膚がんの方だけで行くということで、 うん、でも久々に深堀さんの声聞いて、私は安心』

ナレーター(以下「ナ」という):東京で、被爆者団体の相談員を務める、村田美智子さん、40年間、原爆が人間にもたらす被害を見つめてきました。

『深:あのがんはがんんでもよ、医療性って言ってね、お医者さんの治療が経過観察必要ないよって言うと、ダメになっちゃう場合が多いんですよ。はい、その時はまたお電話いただければ、はい、こちらこそお大事に。はい、どうも、どうしてこうやって次々がんが出てくるんでしょうね被爆者って。鼻の横に皮膚がんだってこの方、ご主人もがんでご主人のお手伝いもしたんですけどね』

ナ:東京で生きてきた被爆者たちの知られざる物語、彼らを間近で支え続けた女性が語ります。そこには苦しみから立ち上がり、誰かと手を携えようとする人間の姿がありました。
 77年前、日本に投下された2つの原爆、辛うじて生き延びた被爆者も過酷な人生を強いられました。戦後、大勢の被爆者が広島、長崎から東京に移り住みました。
 ここ「東友会」は、東京の被爆者たちの相談を無料で受け付ける団体です。持ち込まれる相談は、年に1万3,000から4,000件、東京都からの委託を受け、原爆症の申請や医療や介護の手続きを手伝っています。
 東友会は1958年、東京の被爆者により結成。今も役員のほとんどは被爆者です。
 被爆者として国が認定した証の手帳、認定には証人や証拠が必要で、東京にいると手続きは容易ではありません。東京で被爆者が互いに助け合うために、東友会は作られました。現在、東京在住の被爆者はおよそ4,400人、平均年齢はおよそ84歳となりました。
 東友会一のベテラン相談員が今年勤続40年になる、村田美智子さん。この日、相談を受けていた被爆者の病気が原爆症として国に認定されました。

『取材者:認定まではどのくらいかかるんですか?
村:早い人で4ヶ月、この人なんかは却下されたので、申請いつかな?最初に申請したの6月ですね、こういう風な書類を出しましたよということで、書類全部コピーをつけて、年代的にもあんまりそういうのが得意じゃない人たちが多くて、だから、お手伝いをしてくっていうことですね』

ナ:村田さんたちがこれまで相談に乗った被爆者の記録は、カルテと呼ばれるファイルに収められています。その数、およそ5,000人分。本人と遺族の許諾が得られたカルテの一部を見せてもらいました。

『取材者:いつ頃からカルテはお作りなんですか?
村:80年代から90年代で作ったと思います。これは1番古いものですけれども、 お名前と、それから、手帳番号とか、生年月日とか、それから本人の家族関係ですね。これ消してありますけど、当時は聞ける方は聞いてしたということ。原爆症の認定を取る時には、どこで被爆して、どういう風に逃げたかということを聞いて、それで、その後、広島のこれは郊外の地図ですけど、どう逃げていったかっていうなことをちゃんと聞き取って作ったんだと思います。
取材者:95年9月20日に村田さんがお作りになった。
村:この方は日本名と韓国のお名前と2つもっている。だんだん記憶が蘇ってきました。奥さんもいらして、金さんだけ置いて、みんなあの韓国に引き上げて、金さん1人残されたっておっしゃってましたね。死亡届もありました、急性白血病でなくなってますね金さん。平成17年、急性白血病。 とにかく、あの約束したことが実行できないって言うんですか。いついつ何時に来てというのはなかなかうまくいかなかったですね、それは、やっぱりお疲れだったのかなという風に、とにかくいつも疲れる、疲れるとおっしゃったんすけど、もうそれは覚えてます。 
 この方は、私のことは全部話していいよっていうことで、ご本人からは承諾を受けている方です、自死した方。高校の先生だった方で、死亡診断書は、「縊死」と書かれています。ご自分で命を絶たれたという。
 1番この方のすごいのは、「路上に溢れ、川岸に向かって移動していく人、遺体がこう両拳を固く握りしめていた」とか、「水を求めていた」とかってことを書かれている後に、家族4人の生活だとあるけど、ご長男とご長女の方の健康、将来のことがとっても不安、特に長女の方が不安だっていう風に書いてありますね。

ナ:自らの被爆が子供に影響を及ぼすのではないかという不安、そしてやむことのない体調不良と被爆との関連が病院で軽視されることへの憤りが綴られていました。

『村:60年余りどういう思いで、結局ずっと原爆を引きずって生きてこられた方なんだと思いますよ。なんか、この人の書いてある中にあった、川の中でお母さんが子供をこうだき抱かえて一緒に流されているけれども、そのお母さんの姿がね忘れられないとかね。あとやっぱり子供が大の字になってね浮いてる中にお母さんがこう覆いかぶさっていたとか。
 次は小林さんですね、この方はご存命でいらっしゃいます。広島の1.6キロで被爆されてます。原爆被害者調査っていうのをやった時に、小林さんが書かれていた言葉がすごく気になりまして。建物の中にお母さんが残っているのに、自分は逃げざるを得なかったと、「あなた逃げなさい」、お母さんはお経を唱え始めたと、心の中で、「お母さんごめんなさい、親不幸を許してください」、何度も何度も手を合わせて逃げた、この辛さは一生忘れることができないっていう風に、その方が書かれてたの。その言葉が今も覚えてるぐらいに印象に残っていて、家族を見捨てた思い、見捨てたという事実っていうのは、どんなに辛いのかなって私は想像できませんから。 だけど、その「ごめんお母さん、ごめんなさい、親不幸を許してください」って逃げたその辛さは忘れられないってその書かれて、その後も滅多に話してくださらないんですけどね、わからないですけど、そういう事実があったということで、私はそのご本人がかこの体験集に書かれたったここの一部を淡々と読むだけですから、 どんな気持ちだったんでしょうね、想像できないです。1番家族の幸せな時間、幸せな時の朝、悪魔に襲われてるものですよね』

ナ:1945年8月5日、小林さんは広島に帰省、両親に産んだばかりの孫の顔を見せた翌朝被爆しました。

『村:これちょっとこれすごい、小林さんが書かれてる娘が、生後1ヶ月余りで被爆しました。幸せにも健康に過ごし過ごしていますので、結婚する時、被爆していないということで結婚させ、 被爆した事実を隠して。だから、ここの証言集にもN子って書いてあるのはそういうことですね。被爆してるってわかると結婚できないっていうのが多かったですから、やっぱりそういうことで、お母さんとしては、被爆してないってことでなさったんだと思います。
 これはちょっと貴重な証言だと思います。こういう話はたくさん聞いてますから、だから、このカルテが宝なんですよね。人類に、皆さんに見ていたただかなきゃいけない。

ナ:被爆者の記録が宝だという村田さん実は東京生まれの東京育ちです。広島や長崎に縁もゆかりもない家庭で成長した村田さん、被爆者の存在を知った最初のきっかけはある授業でした。

村:小学校6年生の最後の社会科の授業なんですけど、担任の先生が戦争を知ってる世代 だったんですね。それで「アサヒグラフ」の、1952年にちょうど終戦のあと、プレスコードが解けたのを見せてくださって、教壇に本当に仁王立ちって言うんでしょうね、こう立って。それで、すごいあの時の先生の目は忘れられないんだけど、人間が人間にこういうことをしたのを、あなたたちは忘れないでください、で、その小学校6年生の時に、その浦沢先生っておっしゃるんだけど、浦沢先生がおっしゃったんです。それがずっと何かこう残っていて、1枚の写真がずっと残っていて。

取材者:その「アサヒグラフ」にはどんな写真が載っていたんですか。

村:小さな薬瓶みたいなのが置いてあって、髪の毛がちりちりになった顔がちょうどおからのようになった女性の写真、その写真がずっと記憶に残っていて、それを東友会に行って、この写真だって言えるぐらい覚えていて、先生が人間が人間にこういうことをしたっていうのは、こういうことをおっしゃったんだなっていうのが、その時わかったっていう感じ。

ナ:高校を出て、病院の事務の仕事をしていた村田さん。31歳の時、病院のカルテに詳しいならと、友人のつてでスカウトされた先が東友会でした。入ってすぐ、今も忘れられない1本の電話を取りました。

村:当時、12月まで私の前に事務局をやってた方がいて、その方が8月6日、9日は広島、長崎に行かれたんですね。で、私1人で事務所に座ってて、電話がかかってきて、電話を取ったんですね。で、相談したいことがあるっておっしゃられて、どちら様ですかって聞いたんです。そしたら、名前を名乗らないと相談を受けてくれないんですかって女性でした。未だに、それはここの私の中に鉛になってるんですね、あの人、それで電話切られちゃったんです。あの時、相談受けていれば何かできたんじゃないか。あの人に対して、私は相談員としての立場をね、全く果たすことができなかったっていう、それは、今でもここにずっと鉛みたいに残ってる。

取材者:その電話を受けた時っていうのは、おいくつだったんですか。

村:私は31です

取材者:それは何年何月のことでしたか

村:1982年の8月6日です

取材者:じゃあ、8月6日の本当直後ですね。
村:だから、そういう日だから、電話をかけてくる方いるんですよ。必ず9日と6日とか9日 、8月6日、9日に向かう7月の末ぐらいから、あの当時は具合が悪くなるって電話が随分あって、そういう中のお1人だったかもしれませんけれども。

ナ:村田さんが記してきた業務日誌、忘れ難い被爆者との出会いが詰まっています。 東京で孤立していた被爆者が仲間と出会い、共に立ち上がる姿も目にします。
 戦後被爆者たちはなぜ広島、長崎から遠く離れた東京へとやってきたのか、原爆で家族を見失いやむを得ず、都会に出た人、東京ならば職を得られると考えた人、 そこには様々な事情がありました。

村:私が相談を受けた方でとても印象的なのは、台東区に住んでいた吉本さんって方ですけれども、東京に来たら隠れられるでしょっておっしゃってたのね、人の中に隠れるっていうことだと思います。だからそういうことで、被爆者ってことを隠して生きていけるという風に思われたと思いますし。それから就職とかね、学校へ入学するっていうので、来た方がほとんどだと思いますけど、そういう孤独な思いでこられた方もいらっしゃった。広島、長崎から逃げたかったっていう、駒江市に住んでいた中上さんなんて方も亡くなる時まで、色々ご相談受けましたけど、彼なんかもそうでしたね。

取材者:何から逃げようとしているんですか。

村:原爆から原爆の被害からですよね。台東区の方は、自分の体に原爆の被害が出てくるのが恐ろしかったと思いますし。

取材者:そういった広島と長崎でこう辛い経験されてた方たちは、東京にこう暮らしていると、もうそういうこう辛い過去から逃げることができていたんでしょうか。

村:できないから、会を作ったんだと思います。東友会の相談事業がなぜ重要かっていうのは、被爆者同士の相互の理解じゃないとね、解決できない、それは手当てをおお手伝いするとかっていうことではなくて、やっぱり心の問題のフォローですよね。
 広島、長崎のことをね、ここなら何話してもいいって場がなかったんだと思います。まだ差別がいっぱいありましたし、私が来た頃は結婚反対されたとか、お子さんの結婚が壊されたとか、そんなようなのも結構ありましたから。
 東友会の前身だった原爆被災者の会っていうのがあったんですけれども、封筒に原爆の会ってことが書いてあると、外に印刷してありますとね、もうそれが被爆者の会から連絡が来るっていうことで、あなた被爆者でしょっていうことがわかってしまうと、それでもう差別を受けるという不安を持ってらっしゃった方たちが多かったんだと思います。
 私が来てからも、調布の会が原爆っていう字を入れて書いて、調布の友の会で調友会って名前があるのに調布市原爆被爆者の会かな封筒で送ったら、それで私どもの方に大変抗議が来て、隣の人が落ちてた封筒を拾ってくれて、なんかその時の目つきがね、なんかはっきり被爆者なのかって聞いてくれればいいのに聞かない、あの目つきがねとっても嫌だったし、その後、娘さんへの縁談が一切来なくなったっていう話がありましたね。
 私たち相談員は、あの地域で制度の説明に伺うことがあるんですけど、そこの会に足のご不自由な女性だったと思いますけれども、初めて被爆者の会に出てきたという方が、近所に広島から送ってきたジャガイモを、広島から送ってきたんじゃなかったかな、とにかく、ジャガイモを配られたそうなんです。そしたら、そのジャガイモが、みんな捨てられていた。で、今日は初めてその話、昭和30年代の話だって、(女性が話をしてくれた)豊島のその総会自身は昭和50年代だったと思うんですけども、20年ぐらいずっと心の中に誰にも言えなかったことが、今日初めてここだから言えますって言って、そしたら聞いてる皆さんもすごくわかってるんですよね、それに、その両方の姿見てて、私も涙が出るような思いをしましたし。

ナ:東京で被爆者であることを隠して生きてきた中上賢治さんという男性のカルテです。
家庭を持つこともなく1人で生きてきました。中上さんが村田さんを写した写真、寄る辺のない人生を送った中上さんが、その最後に人間の温もりを求めた思いが込められていました。

村:中上さん自身は、当時お小さかった3歳か、そのぐらいのお年だったと思うんです。中上賢治さんとおっしゃいましたけど。お母さんにかばってもらって、それでご本人はそんなに怪我がなかったようですけれども、お母さんがこうこの顔とか辺りにやけどをされて、女性としてはね、大変なひどい被害を受けられたようなんです。それで、お父さんは出征中で戻ってこられて、ところが、戦争から帰ってきた夫は、その姿のお母さんをご覧なって、別の女性のところに走ってしまう。で、お母さんの中の中には赤ちゃんがいたらしいんですけれどもね、お母さんを妊娠させてるわけですね。
 お母さんは、あんな人の子なんか産みたくないっておっしゃって、冷たい水に浸かって、流産した、で、出血が止まらなかったみたいですね。そのまま出血が止まらないで亡くなったって、それは20歳になった時に、初めてお母さんのお姉さんから聞かされて、それで、人生を全部彼はもうリセットしちゃったんですね。全てを捨てて、おばさんの家のお金を盗んで東京へ出てきて、ずっと1人で暮らしてた。
 その中上さんのことを面倒見たおばさん、お母さんのお姉さんとも話したり、難しいですねっておっしゃってました。同じ年頃の同級生かなんかのご自分のお子さんもいらっしゃるんですけど、いとこ同士だし、全く同じものを買ってあげても、やっぱり自分は大事にされてないと思っちゃうんだよねっていう。当時3歳だったらね、あるいはお母さん違うってのもご存じで、大きくなったのかもしれませんけど、1人でずっと生きてきた方でした。
 病室に私がガーベラの花を買って持ってったら、あなたが病室に入ってくるところ写真に撮るって、突然カメラ出して写真撮って、写真撮ってもいいかって言って、なんでって言ったら、人生で花もらうの初めてだから、だから疑似恋愛みたいな感じになってたのかもしれませんけど、多分、女性からお見舞いを受けるとか花をもらうってのは初めてだったのかもしれませんね。

ナ:生まれて、初めて人から花をもらった中上さん。死後、遺品の中に収められていた写真が村田さんに託されました。
 村田さんが相談に乗った被爆者の中には、被爆して亡くなった家族を思うあまり罪を犯すことになった男性もいました。

村:その方はちょっと今、あの老人ホームに入ってるんでちょっとお名前を伏せさせていただきますけれども、あの昔、 被爆者援護法ができた時に特別葬祭給付金という制度がありまして、あの身内で亡くなったか方がいる被爆者手帳を持ってる方には、国債でいわゆる葬祭料みたいなもの、葬儀代みたいなものを出されたんですね。(相談のために)東友会に来た方が色々調べたら戸籍がなかったと、服役までしてるんですよ。で、私びっくりしたんですけど、その頃から弁護士さんともお付き合いあって、服役して戸籍がない方っているんですかって、いますっておっしゃってたので、びっくりしたんですけど。
 その方はやっぱり広島で妹さんと2人で逃げてきて、で、親御さんがどこかわからないんだけど、要は戸籍がない、妹さんは火傷してる、で、その先生、近所にいたお医者さんが、 その妹さんがどんどん具合悪くなるんでその見せていただいたら、そこで多分白血病みたいな状態になって亡くなっちゃうんですね。で、お兄ちゃんがたった1人だけ手を引いて連れて逃げた妹が死んじゃうわけですよ。私、多分男の人って優しいから、 特に妹だったらとっても大事にするんだと思うんですね。他の人たちの話も来てそう思うんですけど、私たち女性が思わないよりも思うより、もっと大事にしてらっしゃるお兄ちゃんいっぱい知ってますけど。
 ところがそのお医者さんが誰にも断りなく、その妹さんの遺体をあの当時のABCC(アメリカが設置した原爆調査機関)に持ってっちゃって解剖させちゃったんですね。で、それで彼としてみれば、自分の妹の体が切り刻まれたっていう思いがあって、そのお医者さんを刺しちゃった。それで彼は少年院に、当時少年院があったか、そういう施設に入れられて、そこで大きくなっていって、で、犯罪にも手を染めるようになって、服役までするという。
 福祉事務所の人から連絡があって、被爆者だっておっしゃってるけれども、あの相談に乗ってもらえないかっていうことがありまして、それで色々調べたら、その福祉事務所の人がこの人戸籍がないんですよっておっしゃるんですね。だから多分、お父さん、お母さんと一緒の戸籍が抹消されてしまったのかわかりませんけど。で、戸籍を取るということから、 家庭裁判所に行って、初めて福祉事務所の人と一緒になってお手伝いをして、戸籍を取って。


ナ:原爆は被爆者だけでなくその家族をも苦しめました。日誌には被爆者と結婚したある女性がたどった人生が記されています。

村:突然尋ねてこられて、小柄な女性でした。もう顔ももちろん覚えてませんけど、ドアのとこに立ってらして、「どうぞ」って申し上げたら、「私被爆者じゃないんですよ」って言って入ってこられたんですけどね。で、当時は女性相談員3人だけでしたので、色々話していって、うちの主人は被爆した被爆したけど、私がちょうど生まれた頃に亡くなられたっていうのがわかって、じゃああなたがこんなに大きくなる、当時から大きかったですけど、そんな時間が経ったのね、なんていうこう世間話をしてたんですけど、突然お話をして、実は結婚したら(夫が)ひどい貧血で倒れて、再生不良性貧血だって言われたって、当時の病名です。 昭和26年、1950年ぐらいのことですから。
 そしたら、あの当時はまだ輸血というのがなくて、血を買って輸血しなければダメなんですね。それで、その血を買うためには、被爆者が当時医療費の助成ってのはありませんから、入院の治療の医療費も負担しなきゃいけない、その血液を買うお金も負担しなきゃいけないっていう状態になるわけですね。で、その結婚したての若い女性が、それだけのお金を
用意して、ご自分の生活を守っていくっていうことができなかったんだと思うんですけど、
私そんなお金とってもなかったのよねっておっしゃって、何したと思う?私ね、街角に立ったのよっておっしゃったの。で、その私どういう顔して聞いてたかなって今でも思うんですけれども、半年ぐらいねその街角に立ってお金を作って、そのお金で被爆者の方の輸血するお金をね、買ったという方でしたね。ここは女性だから言えたし、こんなこと初めて、そういうお話がね他にもあったっていう、被爆者以外でもあったという風に聞いてますけど、たまたま私がそういうその話を聞く立場にいたということは、一体なんなんだろうなって、あの時考えたことがありますね。

取材者:戦後ですね、原爆被害者の被爆者の方たちには、十分な援護が整備されていたんでしょうか。

村:されていたら、被爆者団体はできなかったと思います。皆さんそれでは不満だから団体を作ったんだと思いますし、原爆被爆者はもういろんな集まりの中で、1番先に被爆者が要求したことは、亡くなった方への償いだったんですね。自分たちの体のことももちろんですけど、だって、軍人さんが亡くなったら、遺族年金出てるわけでしょ。それはずっと遺族会って大きい団体、戦死した方たちを。ところが、あの一般市民の方たちには何1つ出てないわけですよ。それは、東京空襲も原爆も同じですよね。同じ命じゃないか、なぜ同じ命なのにっていう思いが、ずっと被爆者の方にはあったと思います。
 それから、放射能で壊された自分たちの体をなんとかしてほしいって思い。それで、運動してきて、暗黒の12年って言われてますけど、12年間は何の制度もなかった。だから、土地や家を売って、医療費に充てたっていうことをおっしゃってた昭島の被爆者の方もいらっしゃいましたし、そういう思いでお金のある方はね。それで、医療費を出せたと思いますけど、さっきの女性のような、あの方のような事例もあったんだろうと思うんですね。

ナ:村田さんは、今年71歳になります。引退はまだ考えていません。生涯をかけて、被爆者と共に歩もうとしている村田さん。
 彼らを一人ぼっちにはしない、そう決心するきっかけとなったある被爆者との出会いがありました。

村:今日ここに写真持ってきたのが、織田さんっていう方が、やっぱり1番私は印象に残ってまして、あの遺言まで私宛に書いていただいて、写真も全部なくなる前に、私のとこにいただいて。神楽坂ってご存じですよね。新宿のここで仲居さんをしていた方、広島で1.3キロだったかな。織田さんは(被爆したのは)確か舟入本町1.3キロですね。被爆されてるんですけど、お母さんも広島にいて、織田さん自身はあの大正8年生まれですから、当時ご結婚される方も決まっていらしたらしいんですね。
 ところが、その方は戦死されてしまって、1人残されたようです。で、あの被爆した時に、ご自分もお母さんも広島にいらしたんだけど、それぞれ職場にいらして、結局お母さんの遺骨がわからなかった。広島には、寺町ってところがありますけれども、そこにあの色々遺骨なんかが運ばれてるところがあるから、あなた行ってみなさいって言われていって、そのたくさんこう遺体が燃えてる中の骨のようなものを当時カンカンって言うんですけど、こう缶詰開けたの、缶に入れてもらって、それを郷里に持って帰ってお墓に入れた。
 その後、東京に行けばなんとか生きられるんじゃないかって、東京に出てこられて、ずっと仲居さんをされていたって方ですね。

取材者:原爆でお母様を亡くして、もう身売りがないわけですか

村:1人ですね。この方については全く身寄りがなかったです。弁護士さんに紹介して調べていただきましたけど。もしよろしかったら、写真写してあげて、喜ぶと思うから。これ、お見せしましたっけ?こういう写真ですよね、女優さんみたい。

取材者:おしゃれですね。もうちょっと見せてもらえますか

村:これの方がいいでしょほら、写真館でこういう写真を撮って。こういうのをね、みんなね、自分の気に入ったのをね、私んとこに送って、東友会宛に送ってきてくださって。こういう写真とかですね。本当にいつも元気そうに見せてましたけど、寂しげな方でしたね。 
 広島の昭和60年の時かな、広島で毎年追悼式典の時の東京都の遺族代表になって行かれたんですね。その時、私ご一緒したんですけど、その方の写真撮ったのはこれ最後の写真ですけど、病院のベッドの上でお見舞いに行った時の写真ですね。この時、プレドニンっていう副腎皮質ホルモンのお薬飲んでいて、顔がムーンフェイスって言うんですけど、丸くなっちゃう状況ですね。
 両足不自由になってからもいつもタクシーで東友会に月に2回かなぐらい来るんです、新宿からまた来ちゃったよって入ってきてね、30分ぐらいお喋りして、お菓子必ず持ってくるんで、ここは受け取れないのっていうと「捨ててあったの拾ってきたの」とかって、それでお茶出して、色々お喋りをして、色んな人生のお話とか色々しましたけど、屈託のない話も多かったですけど、結局ベッドから落ちて歩けなくなったんで、福祉の方に言われて、特別養護老人ホームに入るんですね。それから、3ヶ月でしたかね、確か、拒食症みたいになって亡くなりました。
 いろんな話するんですよ、こういう世界にいたからね、私だってモテたのよだけどね、原爆ってことがわかるとね、みんな男の人は逃げてっていう風におっしゃってましたね。素敵な方だったし、きっぷも良かったし、きっとモテたと思います。だから、被爆してなければ、違う人生がきっとそのあるいはね、婚約してた方が亡くならなければ、違う人生があったし、お母さんが生きてらっしゃれば、違う人生があったのかもしれませんけど、この人は最後、老人ホームで拒食症みたいになって亡くなりました。老人ホームに入ってからも、毎日のように電話かけてきましてね、で、テレホンカードがないからチャリンチャリント入れながら、切れるとねまた、かかってくるんですね、お金がなくなって切れちゃうんですよ。またかけてくるっていうようなことでね本当にいろんなお話しました、大好きでした。

取材者:ずっと独身だったんですか?

村:結局そうですね、結婚はしてないですね。色々いたけれどとおっしゃってたけど、相当モててたと思いますけど、そういう世界ですから。
 で、この方については最後に、「村田さん私を独り人ぼっちにしないでね」っていう風におっしゃったのがずっと残っていて、独りぼっちにしないでねっていう、だから多分ね、あの、ずっと広島のあの日から結局1人で生きてこられたんですよね、被爆者のお友達も1人いましたけれども、ずっと1人だったと思うんですね。

ナ:織田さんは、1999年、79歳で亡くなりました。遺骨を引き取ったのは、村田さんでした。一人ぼっちにしないでという願い。村田さんは、その後それに答える行動に出ます。
 山本英典さん、東友会の副会長を務めた長崎の被爆者です。被爆者が共に入れる墓を作ろうとしていました。

村:山本には妻がいましたけど子供がいない。自分のお墓を作るんだったらば、誰でも入れるお墓を作りたいというふうに彼は考えて、お墓を共同墓地にするという思いになったみたいなんですね。

ナ:村田さんは、2009年、山本さんの養子となりました。 山本さんが立てた共同の墓の名義を継ぐためです。墓は山本さん亡き後、村田さんが守っています。
 10月、被爆者や家族が集まり、 追悼の集いが開かれました。東京で身寄りがなく、家族の墓がない人でも入ることのできるお墓です。

『村:今日はここに原爆被害者の墓の前で故人を偲ぶ集い2022というので皆さんにお集まりをいただきました。ありがとうございます。皆さん簡単にお差し支えのない方、自己紹介をお願いします。
参加者①:広島被爆の立川から参りました熊田と申します。
参加者②:長崎で被爆しました岡田早苗です。弟はこちらのお世話になっておりますので毎年お参りさせていただいてます、ありがとうございます。
参加者③:私は広島で被爆いたしました東條明子と申します。練馬から参りました。
参加者④:広島で被爆いたしました。安居院と申します。色々とお世話さまでございます。
参加者⑤:私は広島の暁部隊で船舶補充隊で被爆しました比治山の下ですけどね。そういうことでなんとかここまで生き延びました。
村:石井さんおいくつになられたんだっけ。
参加者⑤:96歳になりました。
村:あと90代の方がまだいらっしゃいますよね』
ナ:今この墓に葬られているのは58人。「独りぼっちにしないで」と願った織田アヤさんも仲間たちとここに眠ります。

村:織田アヤさんはここです。ここに織田さんお名前を刻ませていただきました。お喋りしてんじゃないですか。いっぱいお喋り好きな人が入ってるから、
 これが父ですね、山本英典、去年の8月8日。

取材者:村田さんご自身はお墓入るとしたらどちらに

村:ここに入りますけど。妹がね、うちの墓ある、私で終わるんですようちのお墓。だからそっちに入れって言うんですけど、死んだ後のことはあの人がやるだろうからわかりませんけど、私はここに入れてねって言ってるんですけどね。向こう行って寂しくないじゃないですか、いっぱいいるから皆さん。

ナ:この日、親子共々村田さんに相談をしたという人がやってきました。綿平敬三さん、母親と広島で被爆。今、東友会の理事を務めています
 かつて、原爆症の認定基準の改善を求めて、国を訴え認められました。

綿平:実はね、私の宝にしてて、これいつも持って歩いてるんです、(原爆症)認定のね、記念。厚労省の方に裁判が終わった後行くんですよね。

ナ:戦後国に対し被爆者自身が立ち上がり、今ある医療の手当てなどの様々な権利の多くをつかみ取ってきました。東友会、村田さんは、被爆に苦しみながら立ち上がる人々を支援してきました。

村:私、申し訳ないんだけど、綿平さんよりもお母さんの印象の方がずっと強いのよ。かっこいい女性でね凛んとしてて。だから、職業なんかもおっしゃらなかったから、聞いてなるほど、料亭の女将さんみたいなね、すごい素敵な女性でね、私ああいうタイプの方好きなのよ。

綿平:女将と言ってもね、ちょうど私が生まれてすぐもう被爆に遭って。

村:いや、本当に凛としてる素敵な人でしたよ。

綿平:(母と2人で)被爆したところは広島駅前です。私はまだ3歳になってない時ですかね、そんな感じで被爆に遭いました。

取材者:綿平さんは、戦後ずっとお母様と一緒にいたんですか。

綿平:いえいえいえ、私はもう母親とはずっと一緒に生活してません。ずっと親戚に預けられながら、なおかつ高校の時は、自分1人でもう生活しなきゃいけないっていう状態、(母は)職業として料亭にいたんですけど、それが被爆のためになくなって、生活に、路頭に迷っちゃったんですね。

村:それ以降、一度も一緒には暮らしてらっしゃらない。

綿平:だから、母親とはとにかく電話もないですから。手紙だとか、時々会いに行っても、本当に数十分の顔合わせです。それからちょうど小学校時代の時に学校から帰る時に立ち寄って、母親の顔を見て、そのまま帰ると。

取材者:お母様は被爆について何かおっしゃってましたか。

綿平:語らないんですよ。ただ、母親としては、再婚という話がちょこちょこあったようですけど、やはり私を連れて再婚としてはできないということで、とにかく、私を別居になってでもなんとか頑張って、お互いに生きようというだけの話で、被爆としての話は、母親からは具体的に何も聞かない。

ナ:晩年の母からの手紙です。子供を養うため、一人働き、生涯離れ離れだった母、息子に初めて広島での被爆体験を明かしていました。そして、被爆者として差別された苦しみも。

綿平:やはり、最後にはきちっと伝えていかなきゃいけないっていうことだったんですよね。細かく文章的には、その被爆でどうだああだってことは書き残していますけど、自分が今までどうしても一緒に生活できなかった後悔っていうかね、これが書き続ってあったと思うんですけど、あの手紙にはね。
 被爆に遭ってこういう状態で、家族が共に一緒に生活できなかった、その辛さをわかってくれということだけですね。その手紙だけは私も大切にしてるんですけど。

ナ:「敬三も苦労させました。被爆のために苦労が続く。涙が出て書けない」
 31歳で東友会に入り、以来40年被爆者に寄り添ってきた村田さん。同僚とともに、今でも年に1万3,000を超える相談に乗り続けています。

取材者:辞めたいと思ったことはありますか。

村:やめたいと思ったことあったかもしれませんね。なんの時だろう、ないかも、ありましたね。
 相談を受けた人との意思疎通がうまくいかなくて、私がやる、その方から聞いたこ とで、私が対応しなきゃいけない相談と、本当にその方が言いたかった、望んだことと食い違っていて、で、それのために申請っていうか期日がありますから、その期日を逃してしまったということがありまして。で、ものすごく責任を感じてしたら、その方にお詫びしたんですけど、口も聞いてくれなくて。その時は当時の事務局長が入ってくれて、対応してもらって戻ったんですけれども、非常にそういうその時はもうこういうことをしたら、東友会に迷惑かけるから(やめたい)という風に、その時の事務局長に申し上げたことがありましたね。そしたら言われたんですよ、いいな、あなたは それで被爆と関係なくなるんだ、いいなって言われて、それでやめられませんでした。
 そうなんですよね、考えてみて、私はいつでも戻れますけど。被爆者の人は戻れない、やめられないですよね。

取材者:いつでも辞められるのに、どうしてこの仕事に携わり続けるんですか。

村:どうしてでしょう。多分、被爆者の人が、被爆者が好きだから。だって、被爆者の人言いませんよ。ホワイトハウスの上に原爆を落とせって、「そしたらわかるだろう」って言いませんよ。もう自分たちの被害はこれで最後にしてくれって、みんな言います、そういうこと言ってた人もいるんですけどね、本当にいいの聞くと黙っちゃって、何回か聞くと、 やっぱりダメだよってみんなおっしゃる。人間らしい人たちだと私は思います。
 そういう人たちと一緒に生きられるって誇りじゃないですか。第一、私たちの世代しかいないじゃないですか、私より私たちより50年今生まれた子供たちがそれはできないじゃないですか。だから、そういう時代に生まれた人間としてのその1人として、たまたまこういうい立場を与えていただいたという思いで今はおります。
 だから、やっぱり核兵器をなくすってことは、第1の被爆者の願いですし。私もそう思うし、あの方たちが訴えてることはちゃんと聞いてほしい。

取材者:なぜ、核兵器被害だけは許してはいけないと思いますか?

村:未来永劫続くかもしれない不安を残すでしょう。だから、さっき申し上げたけど、自分は被爆者手帳を取らないって、子供たちにも話してないって方、そのお子さんは仮にがんになっても、放射線の影響だとは思わないですよね。広島、長崎で親御さんが被爆されてることが原因だとは思わない。
 でも、その方の親御さんがお手帳を持ってるってことがわかってしまったら、もしかしたら、じゃあ自分の今度生まれてくる自分の子供たちは、自分の孫たちはという風に未来永劫不安を残してしまうかもしれない、そういう兵器ですよね。
 被爆者は悪魔の兵器だとか、人類とは共存できない兵器だとかって言い方してますけど、まさにでも兵器そのものがそうだっていう言い方もあると思うんですけど、やっぱり放射線というものは、やっぱ特別なものだっていう風に、私は皆さんの話を聞いてて思いますね。 心までめちゃくちゃにされてんですもんね、皆さん。体、暮らし、心の被害っていう風に。 特に記憶のある世代の方たちっていうのは、何らかの形でその原爆で殺された人たちの姿を見てらっしゃるわけだから、何もできなかったって思いもあるでしょうし、どうなんでしょうね。ただ、私が感じてるのはさっき申し上げたけど、辛い、苦しい、悲しいだけでは、人間は生きられないけど、じゃあなんで生きてるって言ったら。やっぱり何か希望があるから、その希望の1つが、私は核兵器廃絶だと思ったり、 被爆者のことを考えてくださってる方たちがいたり、話を聞いてくださる方がいたり、若い学生さんたちが自分の話を聞きに来てくれたって、とても元気になった方もいますしね、そういうことじゃないでしょうかね。あの人、さっき言ったあの、織田さんのように、独りぼっちにしないでっていうのは、そういう意味合いもあるのかもしれませんし、やっぱり、人間の繋がりっていうのが救いになってるんじゃないでしょうかね。

ナ:人間のつながりは、次の世代にも受け継がれようとしていました。田﨑豊子さん、広島で被爆した母を持つ被爆2世です。
 田﨑さんの母、愛子さん。生前、原爆症認定の改善を求め国を提訴、体調が優れない中で信念を貫きました。

『村:お母様がね、点滴をされてそれで厚生労働省の門前に来て、ビラを配ってらっしゃったんだって、こう人がどんどん入ってくるところで、1人1人ね目を見てねしっかりと。
田﨑:出し方があるですって。出しとくと向こうもスっと避けちゃうと人がいるからサっと出すんです。そうしたら取ってくれる』

ナ:田﨑さんは、亡き母の志を継ぎ、東京の被爆2世の会の代表となりました。親の被爆体験の継承や、核兵器廃絶を掲げた活動を村田さんは応援しています。

『取材者:田﨑さんは、お母様のお気持ちをこう継いで活動していこうって思ったきっかけが何かあったんですか。
田﨑:やはり母を亡くした思いが強かったと思いますね。でも、「これだけじゃいかん
、やっぱりやり残したことがあるのよね」ってやっぱり言われると、まあ、その前から
あの感じていたことはないことはありませんし。
村:そうですよね。NPT(核兵器拡散防止条約)でニューヨークに行かれた時も、英語で証言なさったんでしょ。お母さんのことを伝えてくださったのよね。
田﨑:本人が行きたかったと思います。本人が行きたかったんだろうなと思って、遺影を思って行きましたけど』

取材者:村田さんは、そのご苦労された被爆者の方たちと出会うと可哀そうだなっていう風に同情するんですか。

取材者:同情できるということは、自分の立場が上だってことですよね、同情しませんね。 私は被爆者から教えていただいてるので、弟子ですから。同情はしない、 一緒に後ろをついて歩かせていただいてるっていうとこかな、あるいは、並んで歩いて。
 そうだと思います。同情できるっていうのは、自分の立場が安定してたり、上だったりするからできるんであって。それも一緒に生きてる1つかもしれないけど、同情はしてませんね、被爆者に対しては1人もしてません。もし、被爆者の方が仲間だと思ってくだされば、これ以上の喜びはありません。

取材者:教えてもらっても、どんなことを教えてもらう、

村:さっき申し上げたことです。他の人間としては、起こしていけないような被害を知る唯一の人たち、 その人たちの1番近くにいるいられる人間として教えてもらって、あの日あの時だけのことではなくて、その後の人生、それから今どう生きようとしてるか、これからどう生きようとしてるか、それも含めて、人間って素敵だなって思う時いっぱいありますよ、被爆者といると。本当にそう思います。
 それは多分私たちのような仕事をしている人たちは、みんな思ってらっしゃるんじゃないかしら。とても大変な被害を受けた形、一緒に歩いてるような相談員の方たちとかはそうだと思いますよ。とっても、人間って素敵だなって思うんです。どんなにさっき申し上げたように、どんなに辛くても、もう一生懸命立ち上がろうとしてたり。

ナ:戦後様々な事情で広島、長崎を離れ、東京で生きてきた被爆者。そして、彼らに寄り添う人、忘れてはいけないことを知る人は、すぐ隣にいるのかもしれません。

 

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