eraoftheheart

NHK「こころの時代〜宗教・人生〜」の文字起こしです

2022/11/20 瞑想でたどる仏教~心と体を観察する~ 第2回 ブッダの見つけた苦しみから逃れる道 (再放送、初回放送:2021/4/18)

蓑輪顕量:東京大学大学院教授
為末大:元プロ陸上選手
ききて:中條誠子


中條(以下「中」という):心の時代では、毎月1回「瞑想でたどる仏教~心と体を観察する~」と題しまして、 仏教瞑想の世界をご紹介しています。お話しくださいますのは、東京大学大学院教授、 仏教学がご専門の蓑輪顕量先生です。よろしくお願いいたします。

蓑輪(以下「蓑」という):よろしくお願いいたします
、そして、元プロ陸上選手で、現在は育成者としてもご活躍の為末大さんです。どうぞ、よろしくお願いいたします。

為末(以下「為」という):よろしくお願いします。

中:前回はですね、ブッダが人生の苦しみから逃れるために、悟りを求めていった。そこで、心身の観察を見つけ、その苦しみの正体は自分自身の心にあるということを教ていただきました。
 その教が、2,500年経った私達に伝わっているというのが、仏教ということですね。

蓑:今回は、ブッダの発見したものがお弟子さん達、そして、修行者達にどのように伝られ、そして、それがどのように受け継がれていったのかについて、話していきたいと思っています。

中:はい、為末さん、この第1回仏教の原点に、私達は瞑想から見てきたんですけれどもいかがでしたか。

為:本当になんとなく知ってたことがですね、細かに色々伺うのができて、すごく学びになったなっていうことと、あれだけ苦しみと直結してるっていう風に納得すると、瞑想っていうのが大事なんだなってのはすごいよく思いましたね。

中:はい、ブッタがその悟りを開いた後、どのような行動に至ったのか、それではまずこちらをご覧ください。

ナレーター(以下「ナ」という):ブッダは、元々シッダッタという名の王子でした。ある日、生きている限り、誰もが老いや病、そして死を免れないと知り、苦しみを覚えます。
 苦しみから逃れたい一心で出家したシッダッタ。苦行を行うなど、試行錯誤するもなかなか解決には至りません。ついには苦行を諦め、山を下ります。 共に修行をしていた付き人達は失望し、彼の元から去ってゆきました。
 一度は諦めたシッダッタですが、母大樹の下で瞑想に取り組みます。自分の心を深く観察し、なぜ人が苦しむのか、この世の真理に気がつきました。すると、心に落とした暗い影は消え、穏やかな気持ちに包まれます。 彼は、「悟りを得た人」ブッタと呼ばれるようになりました。
 その後、ブッダは西に200キロ離れたサールナートへ向かって歩き始めます。そこにいたのは、ブッダの元を離れていった5人の付き人達、自らの悟りを彼らと共有しようと足を運んだのです。その姿に心を動かされ、付き人達はブッダの弟子になると決めました。
 迷想を通じて得た気づきを、ブッタは弟子達に1つずつ語りかけます。

為:そういう風に誰かに伝たいって気持ちがあったから、今の仏教が広がってるっていう、そういうことなんでしょうね。

蓑:1番最初に、伝えるということをですね、決心するには、少しためらいがあったようです。ご自身が悟った内容というのは、大変に難しい、人に話しても理解してもらえないのではないかという、思いが生じたようです。最初は説くのをやめようと思っていたようなんですけれども、そこはこれも、伝記の中のお話なんですけども、インドで1番偉い神様であります、梵天さんが登場いたしまして、世の中には、それを理解してくれる人もきちんといるはずだと、ですから、きちんと説いてくださいということを、お釈迦様に勧められます。
 それで、お釈迦様は、その教えをですね、人に伝えようとして、5人の同じ修行仲間に説くことになったんだと伝えられています。

為:この5人の方ってのは、すんなり最初に受け取られたんですか、それとも、最初はいやいやってなったのか。

蓑:そうですね、やはりお弟子さん達も、最初の付き人と言われていますけども、一緒に修行していた仲間みたいなものですから。お釈迦さんが悟ったと言っても、退転したという風に最初考えていました。

為:退転っていうは?

蓑:退転というのはですね、退いてしまった、やめてしまったっていうような、そんなニュアンスなんですけれども、
 ですから、悟りを求めての修行から離れてしまったっていう風に考えたようなんです。5人の方達はですね、お釈迦さんが来ても敬意を持って迎えるのはやめようというようなことを最初は話し合っていたそうなんです。もうそんなにしっかりと応対する必要はないんじゃないかっていう風に思っていた。
 ところが、実際にやってくるお釈迦さんの姿を見て、そこから感じられるものに心を動かされて、その約束をすっかり忘れてしまって、足を洗う水を持ってきたりとか、礼拝をしたというようなことが伝えられています。

為:じゃあ、もう存在というか、姿形に悟りが現れていて、みんながもうそれに心動かされたっていう。

蓑:はい、そういうことです。

中:ブッタは最初にこの弟子達にどんなことを伝えましたか。

蓑:お釈迦さんの悟りの全部を伝えているのではないかと言われる。初期経典がありまして、その中に登場するお話では 、四諦八正道という名前で呼ばれるんですけど、4つの真理、それから 、その悟りの世界に至る8つの正しい道というのをですね、説かれたという風に伝られています。
 「四諦」の「諦」の字はですね、現代の日本語ですと「諦める」という風に読むことがあると思いますけれども、 4つの真理という意味で真理真実という意味で使われています。

中:なぜ「諦める」というような字が当てはめられてるんでしょうか?

蓑:これは、真実を明らかにするという意味だと思うんですけれども、それはある意味で、私達の欲望から離れていくことでもありますので、 それで、「諦める」というような言い方ができたのではないかと、私の想像ですけれど、そのように思います。

中:そして、その内容ですね

蓑:1番最初の真実というのは、この世は苦しみに満ちているというのが、最初の真実として説かれました。
 その次の真実が「集諦(じったい)」という風に呼ばれるんですけれど、この世の苦しみの原因は何か、それは私達が持っている欲望であるという風にお説きになりました。これが2番目の苦の原因である、真実
 3番目が「滅諦(めったい)」です。これは、苦しみのない理想的な状態を「滅」という字で表現いたしまして、滅諦という名前で呼びました。これはある意味で悟りの境地のようなものです。 
 最後の「道諦」、これは「道」という真実なんですけれど、その悟りの状態に到達するための実践が、道諦という風に呼ばれまして、8つに分けられました。八正道という風に言われるんですけども 、その実践が苦を消滅させると考えて「道諦」という風に呼ばれました。
 具体的に八正道の中身は何かと言いますと、「正見」というのは「正しい見解」という意味です。これは、誤った考え方を持たないという意味で理解すればいいと思います。 
 「正思惟」というのは「正しい思い」という風に言われます。内容は欲を持たないとか、 怒りを持たないとかですね、他人に害を与えない、そのような思いを持つのが、正しい思惟だという風に言われます

為:この「集諦」ですかね、「集諦」にあたるところが、ある意味期待とか理想とも言える気がするんですね。こんな風になりたいとか、こんな風なものが欲しいとか、本当はこうあるべきだっていう期待感とか。ともするとね。なんか夢とか希望や、目標を持たないのが苦しみから逃れる方法だみたいに思っちゃいがちな気もするんですけど。

蓑:そうですね、そうではなくて、実は人格の完成を目指しているのだっていう言い方があるんです。飽くなきいわゆる欲望というような形で言われるようなものを追求することには、非常に否定的なんですけれども、悟りを求めたりとか、何か努力するということに関しては、それを否定してるわけではありません。
 それはその八正道の中に「正精進」っていう言葉がありますけれども、それはやはりきちんと努力をすることを大事なものとして認めています。

為:じゃあある方向においての向上心と努力っていうのは、この8つの正しい行いの中に含まれてる。

蓑:含まれていますね。

中:ちょっとほっといたしました、よかった。
蓑:ですので、その八正道というのはですね、日常の中における心構えみたいなものとして、受け止めても良いのではないかと思います。

ナ:ブッダは、修行する5人の弟子達と過ごすようになります。彼らは、仏教における最初の出家者集団「サンガ」です。
 サンガは、インドに根付くカースト制度から離れた存在です。カースト制度では、人々を バラモン教の司祭を頂点とする4つの階級に分け、この身分は生まれによって定められていました。
 世俗を捨て、出家したサンガの僧達は、カーストの外で生きることになります。カースト制度に疑問を持っていたブッダは、僧達と共にガンジス川流域を旅しながら教を説いていきます。その先々で苦しみから逃れたいと願う多くの人達が集まりました。
 80歳を迎えたブッダ、体は限界に達し、最後の夜を迎えます。弟子達に見守られ、この世を去りました。弟子達はブッダなき後も思いを受け継ぎ、修行を怠ることなく、各地で教を説いて回ります。わずか6人から始まったサンガは、次第に大きくなります。仏教が広まる過程で、サンガでは出家者がブッダの教えを実践するための様々な戒めや規則、すなわち戒律が作られていきます。
 
蓑:お釈迦さんの時代にも、4つの階級が存在していました。 その階級は、生まれによって決まっているという風に考えられていましたので、お釈迦さん自身はそのカースト制に対して、非常に否定的な考え方を持っていらっしゃいました。「人間は生まれによって尊いのではない行いによって尊いのである」という言葉を残されています。
 つまり、カースト制度から離れるというためには、おそらく出家をして別の集団を作るしかなかったというのが原因なのではないかと思います。

中:そこに、なぜこう戒律が必要になってくるんですか?

蓑:その1番の理由というのは、おそらく出家の集団でありますので、自分達で生産活動をすることができないというのがあったからだと思います。
 これは世間ですと、皆さんそれぞれ職業を持って、それによる対価としてお金を得たりとかして生活をしてらっしゃると思います。ですから、なんらかの仕事を始めてしまうと、それは出家ではなくなってしまいます。 在家と世間と同じように見なされてしまいますので、実際に出家をしますと、生活どうするのかっていうことになるわけですけれども、それは、在家の人達からの布施に頼ることになります。
 ですので、お布施をいただくためにはやはりその人達が、他の人達とは異なった、聖なる存在であるというのが一般に認められてなければおそらく難しかったと思います。

中:その聖なる存在っていうのは、何かこうお手本的なということなんですか?

蓑:そんな感じでいと思います。社会から批判されるような人であれば、その人に何か供養したいとかという風に思うことはないと思いますので。 社会的な、非難されるような行動はなるべく慎みましょうというようなところから、様々な規則が出来上がっていくと考えてよいと思います。

為:会社のマネジメントの仕組みを作っていく時に似てるな。

蓑:実際にですね、本当にそうだったのかはよくわかりませんけれども、何か事件が起きますと、 お釈迦様のところにそれが伝えられて、それをしてしまった比丘をですね、お釈迦さんが呼び出して、このようなことがあったのかって確かめるんですよね。そうして、そのような行為は良くない行いであると、沙門(出家者)のすべきものではないというようなことをおっしゃられて、以後こういうことはしてはいけないという風にして決められていったという風に伝られています。

中:その戒律なんですけれども、具体的にはこの内容はどういうものだったんですか。

蓑:内容はですね、やはり世間的に批判されるようなことは慎みましょうというのがあるんだと思うんですけれども、梵網教というですね教典の中には小戒と中戒と大戒というような分け方で説かれてくるものがあります。
 小戒というのは、具体的に例えば、人の命を殺めてはいけないとかものを盗んではいけないというようなものが、小戒として定められました。
 中戒は、例えば、種のなるような木を切ってはいけないとか、そういうものが入ってきます。インド世界ってすごく熱いところですので、 大きな木のですね木陰に入ると涼しくて、それは皆さんが集まってくる場になっています。ところがそういう木をですね邪魔だからだといって、切ってしまうようなことがありますと、やはり問題になったようでありまして、そのようなことがしてはいけないなんていうのが、中戒の中に出てまいります。
 大戒といわれるのはですね、その経典の中では、例えば占いをしてはいけないとか 、医療行為をしてはいけない、これは多分星占いとかですね、医療行為とか っていうのは、職業として存在していますので、それをすることによって、おそらくカーストの中にまた組み込まれてしまうので、そのようなことはしてはいけないという風に考えていたんだと思います。

為:じゃあ、もしそのカースト制度がなくて、みんながそのまま町で暮らしていたら、戒律はすごいその時代、緩かった可能性もあるってことですか。

蓑:おそらくそういうところあったと思いますね。ですから、カースト制度が存在しない地域においては、 おそらく違った形というのが考えられるのではないかと。で、実際にインドの周辺の国々の中でも、 カースト制度がしっかりと伝わってしまった国もありますけれども、そうでない地域もあります。で、そのような地域においては、出家者というよりも、修行者の人達が家庭を持つという例が少し出てまいります。

為:戒律はもしかしたら、時代とともに結構合わせていってもいい可能性があるっていうことなんですかね。

蓑:はい、そうだと思います。そういう意味では、大変柔軟性があったんだという風に言うことができると思います。これは、お釈迦さんが亡くなられた時に、 些細な対立は変えても良いということを言い残されていたという風に伝えられています。
 ところが問題はですね、 何が些細な戒律なのかっていうことを規定しなかったと。それで実は現代においてもですね、そのまま使われていると言われています。

中:戒律がですね、この瞑想については、何か効果をもたらすようなところはあったんでしょうか。

蓑:はい、それはあったと思います。実際に重大な罪とされていたものがいくつかありますが、そういうものを避けることによって、 私達の心の安定性というのがもたらされると思います。これは、現在の東南アジアの上座系のお坊様達が言うことですけども、「戒律によって実は私達は守られているんだ」という言い方をするんです。それを日常守っていることによって、実は修行がしやすくなるという側面も確かにあると思います。 
 ですから、戒律という言葉をよく使いますけども、実は元の言語になっているものが「シーラ」という言葉なんですけども、本来の意味は習慣という風に訳されています。ですから、仏教教団の人達が守るべきものというのはですね、日常的な習慣として良い習慣を身につける、それはある意味で環境を整えていくことだ、それを主体的にやることなんだっていうところが大きかったのではないかなと思います。

為:今のを伺っていて、その私達の世界にすると戒律は「ルール」のイメージが強いんですね、習慣はルーティンって言うんですけど、そのイメージは強くてで、ルールはしてはいけないことなんですけど、ルーティンはそれ自然にそれをしてしまうように、体に擦り込ませるものなんですね。で、多分前者の方がルールの方が社会の中で受け入れられていくために必要な戒律で、さっきおっしゃったようなこう、修行にプラスになるような、自分の体に習慣化させていくようなものは、ルーティンに近いのかなと思ったんです。
 私達の世界では、ルーティンが大事な理由っていうのは、無意識にその行動を取れることによって、心の状態がまさに毎回同じ状態で安定して作れるというので、ルーティンが好まれるんですね。ですので、選手が試合の時に同じ動きを繰り返すのは、 心をそうするよりも体で心の状態を整えていった方が確率が高いので、毎回みんなバットをこうイチローさんみたいに、こうやっていったり、同じ行為を繰り返すってのはそれなんですけど、ちょっとお話伺いながら、そういうのに似てるのかなと。

蓑:押し付けられてやるものではなくて、自ら進んで守っていくものという風にも言われるんです。「律」っていう言葉で言われる時には、少し他者から強制的にっていうなニュアンスが入るんですけども、 「戒」と言ってる時には、実は強制ではなくて自らが進んで本当にルーティンのような感じで身につけていくものという風に考えています。
 それをすることによって、実は修行がしやすくなるという点がやっぱりあったんだと思います。

為:経験則で、自分でわざわざ生み出さなくても、 こうやってやっておくと修行がしやすくなったよっていうようなものがまとめてあるのが「戒」みたいなイメージなんですね。

蓑:はい、そういう側面は確かにあったと思います。

中:これがそのサンガを守って、この心身の観察をこう進めていったっていうことにも繋がってるわけですね。

蓑:そうですね、はい。ブッダは「心身を整えていくために、環境をしっかりと整えていくっていうことが大事」だということを、「ダンマパダ」という教典の中で述べています。

ナ:瞑想を行うため、どのように環境を整えればよいのか、「ダンマパダ」と呼ばれる有名な仏典、 「修行僧」と題された章の一節を見てみましょう。

『眼について慎むのは善い、耳について慎むのは善い、鼻について慎むのは善い、舌について慎むのは善い、身について慎むのは善い、ことばについて慎むのは善い、心について慎むのは善い、あらゆることについて慎むのは善いことである。修行層はあらゆる事柄について慎み、全ての苦しみから脱れる』

蓑:目について耳について鼻についてと出てきてますが、これは私達の感覚器官を指しています。外界の刺激を受け止めるのが私達のこの感覚器官ですので、そこで受け止めるものをなるべく慎んできなさい。 
 それはなぜかというのは、苦しみというのは私達の感覚器官を通じて入ってきて、そして、私達の心をざわつかせてしまうからという風に考えていたからだと考えられます。 
 ですから、そのようなものをあらかじめ遠ざけておいて、入ってこないように気を付けておくということを言っていると考えられます。
 これ、お酒の大好きな方にしてみれば一升瓶とかですねあるいは、ボトルとかを見ればお酒だ飲みたいなっていうような気持ちが起きてきて、そして、つい手が出てしまうっていうようなことはよくあると思いますので、ですから、そのようなものは遠ざけておきなさい
、それが大事なことですよっていう風に言ってるんだと思います。
 私達の心は、戯論があるということを、心の拡張機能という風に申し上げましたけれど、も、そういうものが自然に備わってるんだと思います。ですから、その働きによって何かを見ると、次々と連想が起きてきて、一升瓶、お酒、飲みたいというような感じで、行ってしまうんだと思うんです。 
 で、そのようなことから、やはり遠ざかっていようと。それが修行する上では大切だという風に述べていたんだと思います。

為:でも、現実的な着地っていうかね。ある種許しがあるっていうか、まあ人間は弱いので、そういう環境を整えて、それに対処していきましょうってそんな考え方なんですね。

蓑:はい、そうだと思います。実際に仏典の中に伝えられている修行の場所として、ふさわしいところというのが出てくるんですが、人里離れたところが用意とされていました。人がたくさんいる、喧噪がある、色々と大変なこともよく起きている、そういうのから遠ざかったところが アーラニャという風に呼ばれまして、インド社会ですと、結構林の中とかですね、森の中を指すことが多いようです。そういうところに行きますと、静かな環境で修行をするのにはやりやすいところと考られてたようです。

為:この一般の人達のレベルで、心を乱さないようなことをするには、どういう風にするといいんでしょうか?

蓑:在家の、言わば世間の信者さんの場合には、そこまで厳しいことは言っていません。在科さんの場合には、 よく5つの戒が挙げられるんです。「五戒」といいます。これは不殺生、人の命をやめない。不偸盗、人のものを盗まない。不妄語、これは嘘をつかない。それから不邪淫、これは、邪な性関係を結ばない、ですので今風に言いますと、浮気はしないっていうことだと思いますね。で、最後が不飲酒で、お酒を飲まないです。

為:5つ目だけ外してできないですかね?

蓑:確かにそのようなですね守り方もありまして、五戒というのはですね、全部を守らなければいけないというわけではなかったんです。「分戒」という言い方をするんですけども「分ける」に「戒」と書くんですが、一部分だけでも良いというですね、とても柔軟な考え方が存在していました。ですから、お酒どうぞ召し上がってください。

為:まあ、何にしても過剰にならないように、ちゃんと自分をコントロールしておきましょうってそうですよね。

中:心乱されるようなものは遠ざけてるわけですから、瞑想が非常に深まるというわけですか。

蓑:そうですね、実際に色々なものに注意を振り向けて、しっかりと把握していくことっていうのをやるわけですけれども、 これ集中力をまずつけないと、なかなか難しいところがあります。ですから、心配事があったりとか、他のことを色々考えなければいけないっていうような状況に置かれていると、実はなかなか。1つのものに専心していく、注意を振り向けていくってことが難しくなります。
 ですので、日常生活からそのようなですね、心をざわつかせるようなものを遠ざけておくという考え方は、すごく理に適ってると思う。

為:1つ伺って思ったのは、その戒律のメソッドみたいなものっていうのは、ある意味で、ブッタがこう悟りに至った時のプロセスの轍みたいなものを形にしてあるんじゃないかと思うんですね。その形をなぞらていくと、まだ意味がわからないような初心者でも、それを追いかけていくことで、ある時、意味がわかるっていうことを伝えていくための型なんじゃないかって気がする。

中:まず守って、それでその境地にこうたどり着く

為:競技をやっていくときにですね、チャンク化っていう言葉があるんですけど、それどういうことかっていうと、最初のうちはですね、自転車に例えば、乗る時にでも必死になるんですね、で、それは終わってみると、なんか体がすごいクタクタでいろんなとこが痛いと、で、それはどこに力入れていいかわからないので、自分の脳の中もですね、すごいいろんなところが動いてる状態になるんですね。
 ところがこれチャンク化って言って、 何回も繰り返していくと、体は自然に動くようになるんですけど、脳の中はある一部分しか動かなくなるっていうで、そうすると、 他のところに余裕ができるので、自転車で言ば、最初は必死なんだけど、乗ってくるのが自然になると、初めて前を見て風景を眺めたりとか、考えることができるようになると、多分、こういう風に体の方を自然に動くような型を覚えさせて、 脳のスペースを開けることで、瞑想しやすくするとか、そんな意味合いがあるのかなっていうのは思ったのは1つですね。 
 なので極端に言うと、脳のスペースを開けるために、この形に覚とけばいいよっていう感じにしたんじゃないかと思うんですね。で、その形自身が適当な形にしちゃうと、変な自転車の乗り方覚えちゃうと一生癖が残りますから、このやり方でやっとくと大丈夫だよっていう風に経験者であるブッダがメソッドの形にして残していったので、 武道で言えば型に当たると思うんですけど、この型をやっておけば基本的な基礎ができるので、あとはその上で
開放された自分のスペースを使って瞑想に集中してっていう、そんな役割があるんじゃないかと思います。

蓑:おそらく、その通りだと思いますね。
 これは上座系の仏教者の中に伝わっている言い方なんですけども、このブッダの教えというのは、実は3つぐらいのジャンルに大きく分けられるんです。「三蔵」という言葉があるんですけども、経典を「経蔵」、それから戒律のところを「律蔵」、それから色々と注釈的なものを書いてるんで、存在してるんですけども、これ「論蔵」と言います。一般には「経・律・論」という風に言うんですけども、上座系の人達はこの順番をですねとても大事にしていまして、「律・経・論」という風に言うんです。戒律というのは、ブッダの教えの中でも実は大切なものなんだとで、それで、伝書の中で、「律」というのが1番最初で、その次が、

為:「律」っていうのがいわゆるこのルーティンだったり、戒律だったり

蓑:はい、そういうところです。この「律」をちゃんと守ることによって、「戒」をちゃんと守ることによって、悟りに繋がるものだっていう意識を持ってると思うんです。
 ですから、今おっしゃられたことは、おそらくピッタリくるんじゃないかなと思います。

中:やっぱり、この心と体ってすごく繋がってるんですね、


為:いや、もうそれはもう、なんて言うんでしょうね。集中しなきゃいけない局面を経験してる選手ほど、心は最後は体から入るしかないって言いますね。心自体には、直接手を入れれコントロールできないので、自分でなんとかできる体の方を整えていって、心はあとはそれにちょっと紐がついた先にいる犬みたいな感じなんですよね。心はこっちの方だよとは言えるんだけど、首をつかまえては連れてこれないので、体の方でここっちこの辺だよっていう風にはめてあげて、で、犬があとはこうふうっと歩いてきてくれるのを待つっていうような、 試合の時の集中はそんな感じ。
 今日はゾーンに入るぞってことはできないですね。なんか、布団に入って寝るみたいな感じであったかくして、布団に入るとこができるけど、寝るかどうかは、タイミングとか、その日の調子次第で、できるのは準備までそういう感じ。でも、そこもやっぱりみんな自分なりのやり方を編み出して、自分なりの戒律を生み出していたと思います。

中:そのように日常から整えて、瞑想の土台に入っていく

為:そうですね、

蓑:整えられた状態でやる瞑想の方が、おそらくしっかりと深いものが得られるのではないかと思います。
 仏教の中で述べている、観察の時に得られる智慧というのがあるんですけども、それも得られやすくなるのではないかっていう気がいたします。

中:観察の中で得られる智慧っていうのはどんなものなのでしょう。

蓑:はい、まず1番最初に生じてくるものが、名色の分離の智だ、という風に言われ
ます。

中:第1回で習いました、名色の分離。

蓑:はいそうです。はい。

ナ:ブッダが瞑想によって発見した名色の分離。例えば、何かを見た時、脳には見ている対象のイメージが浮かびます。すると、イメージを見る、自分の意識があるとわかります。  つまり、リンゴが有るという認識は、リンゴ、色とそれを観察する心の働き、名に分けられます。この仕組みに、ブッタは気がつきました。

蓑:第1回目の時に呼吸の観察っていうのをお話いたしましたので、呼吸で説明したいと思うんですけれども、鼻のところに気持ちを持ってい て、入ってくる息を入る、出ていく息を出るという風につかまえるのが1番基本です。 
 それをやってみますと、ただ単に入る、出るという風に気付いていたものだと思うんですけども、ある瞬間にですね、その気づかれている対象としての風のような動きが存在して、 それに対して自分の心が入るという風に気付いているんだなと思える瞬間がやってくるんです。この時には、実はつかまえられる風の動きがあった時に、つかまえる心が生じてるんです。
 ですから、この関係性というのは実は一方的でありまして、つかまえられる風の動きがあった時につかまえる心が存在して、生まれてきてると。

中:この入れ替わりはないわけですね。

蓑:入れ替わりはないわけですね。こっちのつかまえる心が先にあって、つかまえられてるものが生じるってことはないわけです。 
 私達が観察している対象というのが2つのものに分離されて、そこには常に一方的な関係性が成り立っているで、この一方的な関係性を初期仏教の時には縁起という言葉で表現したと考られます。

名:一方的関係性、縁起は名色の分離からも導き出されます。脳に描かれたイメージとそれを観察する心の働き。この時必ず観察されるものが先にあり、その後で観察する意識が生じます。リンゴ、色がなければ、観察する意識、名もおのずと消滅します、この逆はありません。あるいは、リンゴが存在することで観察する意識が生まれるのです。この一方的な関係性を、仏教では縁起と呼びます。

蓑:元々、縁起という言葉は、関係性と訳されることが多いんです。あるいは、条件性という風に訳されることもあります。特に、初期仏教が考えている関係性というのは、一方的な関係性なんです。これ今申し上げましたように、つかまえられる対象が先にあって、それが生じてきた時につかまえるところの方が生じていると。
 で、そういう風に考えてきますと、一方的な関係性というのが1番最初の縁起の意味であったと考られます。

為:これはだから要するに、自分の方はいつも受け身であるってことなんですね、その向こうからやってくるもの、こうキャッチする側で、こっちからそれを認識しに行くっていうことはそれが存在しないとできないっていうことですよね。

蓑:そうですね、基本的に五感で受け止めているものの場合には、つかまえられる対象の方が先です。

為:その一方向の関係があるって考ると、自分の周りに誘惑がいっぱいあると、それに反応してちょっと周りの環境を整えないとっていう修業環境っていうのは、なんか自然な気がしますね。


蓑:そうですね、縁起の考え方というのは、ある意味で一方的な関係性で、何かがある時に、次のものが生じてきているという風に考えていますので、苦しみというのもその原因があって、それによってこう生じてきているものだっていう風に捉えていきます。で、実際に 私達の心の中に生じてる様々な働きが原因になって、いろんなことが起こされているんだなと、その元になっているものがなければ、なくなれば、その起きているものもなくなっていくんだなっていう風に考えています。この関係性は、まさに名色との関係と一緒でありまして、こちらがつかまえられるものがなくなると、つかまえてる働きもなくなる。
 ですから、戯論がなければ、ある意味で苦しみも生じてこないことになりますので、現状にしっかりと対応することができるという風に考ていいと思います。
 こういう風なことに気づけるというのもですね、実際には深い瞑想を行うことによって、その中で気づかれてくるものです。

名:戯論とは、ブッダが瞑想によって見つけた苦しみが生まれる仕組みです。
 飛んできた矢、これが体に当たると、本来受け取るのは、矢が触れたという体の感覚だけです。しかし、その認識がきっかけとなり、第2の矢が放たれます。すると、心はどんどん動いて、怒りや悲しみが生まれます。このように心が拡張することを戯論と言います。
 つまり、戯論が起きることで苦しみが生じ、戯論を抑えられれば、苦しみもおのずと消える、ここにも一方的関係性、縁起があるとわかります。

為:これは一方向って関係とおっしゃいましたけど、ずっと今もそんなそういう認識なんですか仏教の中で。

蓑:これは仏教思想のですね、長い年月の間に展開があります。これは初期の仏教からやがて大乗仏教というのが生じる時代が出てまいります。
 大乗の世界になりますと、一方的な関係性ではなくて、相互の依存性の関係として縁起を捉えるように変わっていきます。私達が見ている様々な事物が存在しているその理由というのは、様々な条件とかが折り重なって、今の目の前にこう出現してきているんだっていうような関係性になっていくんです。
 ある時までは、心の中に生じてくる様々な働きも一方的な関係性で生じてきているんだって捉えてるんです。ところが、その考え方が私達の心を説明する原理だけではなくて、私達の世界を説明するための原理みたいなものとして、 応用されていくようになるんですけど、その段階になりますと、全てのものがこう繋がっているっていうような感覚になっているんです。

為:現代でいう意味ではないけれども、自分中心的なものの見方がもう少しなんていうのかな、自分の世界の一部であるみたいな考えに近くなっていく感じ、、、

蓑:なっていくと思いますね。自分と世界という関係というのが見えてくるようになると、ある意味で、自分を中心にして考えるっていうところから抜け出せていくようになりますので、仏教が目指している世界の1つをですね、現代的な言い方をした時に、自己中心性を離れるという言い方があるんです。自分を中心として考えていくっていうのを離れていくっていうのが、実は大事な視点だっていう風にも言いますので、ま、それを可能にしているのは、ある意味で、縁起の考え方であり、自分を中心にして考えるっていうことがもたらす弊害点を超える部分を持っているんではないかとま思います。

為:スポーツだと最近分かってきたのは、観客の影響っていうのはとても面白くて、例えば今コロナで、無観客の試合が行われること多いんですけど、 普通はホームっていって、地元で戦った時は勝率がちょっといいんですね。で、これが観客がいなくなるとこれがなくなって、勝率が一緒になったんです。やっぱり、ちょっと応援されてるってことは、 プラスになってるのはわかったりとか。あとは、野球なんかで言うと、バッターがこの玉を打つかどうかっていうのを決めてる。ジャッジの中にいろんな要素があるんですけど、1番大きいのが、 観客の声援の大きさだったっていうのがあって。
 なので、まあ私達自分の体を鍛えるんだけど、どうも自分のパフォーマンスは、自分の体とだけじゃなくて、周りの応援とか、周りの選手の関係の影響も受けてるっていうのは、最近は分かってきてて、それも少し近いのかなとはと伺ってましたけど、

中:心身の観察をして、縁起の関係性に気づいて、そしてこの苦しみからも解放され、知恵を得ました。もうここまで来たら、修行はおしまい、完成でしょうか。

蓑:残念ながら、経典の中では、そのようには述べていません。 智慧を得た人達は、次のようにあるのが良いというような言い方が出てきます。

ナ:苦しみから解かれた後どうあるべきか。ブッダは弟子達へ修行のその先について伝え残しています。

『究極の理想に通じた人が、この平安の境地に達してなすべきことは、次の通りである。
能力あり、直く、正しく、ことばやさしく、柔和で、思い上ることのない者であらねばならぬ。他の識者の非難を受けるような下劣な行いを、決してしてはならない。
 一切の生きとし生けるものは、幸福であれ、安穏であれ、安楽であれ、目に見えるものでも見えないものでも、遠くに住むものでも、近くに住むものでも、すでに生まれたものでも、これから生まれようと欲するものでも、 一切の生きとし生けるものは、幸せであれ』

蓑:この点から考えていきますと、理想に到達した人達は、それだけで終わりというわけではなくて、生きとし生けるものに対して、安穏であれ、幸せであれと祈るって言いうんでしょうか。それを実践していかなければいけない。
 これ一般には慈悲という言葉で呼ばれていますけれども、この気持ちがとても大切なものだということを言っているのではないかと思います。
 私達、自分自身が幸せになるっていうことをよく念願すると思うんですけれども 、それを他者に対しても振り向けていくと、これがとても大切なことだという風に述べています。で、それが実際には今現在だけではなくて、未来に生まれてくるであろう生きとし生けるものに対しても、同様の気持ちを持たなければならないっていうことを述べてるところが、実はなかなかに素晴らしいところではないかと思います。

為:この慈悲の気持ちは修行を続けていくと、自然に芽生てくるからそうしなさいなのか、それとも他者に対して貢献していく意志に慈悲の心は育ちますというのかって、このブッダはどっちの方を強くおっしゃってたんですかね。

蓑:それはとても難しい問題でして、これも研究者の見解で分かれるんですけれども、仏教の考え方の中に元々存在していたものなのか、あるいは修行等によって後から得られたものなのかっていうので議論があるんです。でも、これは私の個人的な考え方ですけども、本来的にあるものと捉えてもいいのではないかと。
 何を根拠にしてるかと言いますと、私達が経験しました東日本大震災の時に、日本中の人達、世界中の人達と言ってもいいかもしれませんけれども、その大変さを知った人達が何かしてあげなければいけないというような感じで、動いてくださったと思うんです。で、それは、私達が本来的に他者に対する慈しみの気持ちみたいなものを持っているからなのではないか、という風に思いました。
 ただ、日常的にはなんかあまり目立たないような感じでともすれば忘れがちなんですけれども、何か危機的な状況があった時に意識されるものなのかなと。で、仏教者達はそれを踏まえた上で、これをいつも気を付けていなさいというようなことを言っているのではないかなと思います

中:思い起こせば、このブッタも最初、王宮から町に出た時に苦しんでいるのを目の当たりにして、まるでこう自分の苦しみかのように感じて、そこから逃れるにはどうすればいいかということで修行を始めたわけですよね。
 他者の苦しみを自分事としてこの感じる、この感受性っていうのは、もしかしたら、本当に、、、

蓑:元々持ってるものなのかもしれないですね。

為:それを慈しみの心ってなんとなく直感的に感じたり、感情的にそう思おうっていうよりも、そう思ってしまうようなもののような気がするんですね。あんまりコントロールできないって思うところを、この瞑想っていう手段で順序をちゃんと踏んでいくと、いろんな人の中にあるこの慈悲の種みたいなものがもっと膨らんで、花開くんだっていう。

蓑:多分そうなんだろうと思います。自分の心の中にある慈悲の気持ちみたいなものにですね気づいて、それを多くの人達にも気づいてもらおうっていうようなところがあるのではないかなと思うんです。それを自分のものにしていく、きちんと身につけていくためには、
瞑想という手段も大切だと考えていたみたいなんです。 
 智慧というのと慈悲というのは、仏教にとってとても大切なものなんですけれども、2本の柱だっていうな言い方もあるんですが、今日の話の中で八正道というのを申し述べましたが、1番最初の教えのところから、智慧と慈悲という2つを大切なものとして、受け止めていたのではないか、ということができると思います。

名:ブッタが弟子達に最初に説いた教え、八正道。八正道の中には、怒りの気持ちを持たないことや、相手を傷つけない振る舞いについて言及されています。ここからは慈悲の要素が感じられます。
 そして四諦とはなぜ人は苦しむのか、この世の理を説いたものです。欲望があるから、苦しみが生まれる八正道を実践すれば、苦しみのない理想的な状態が生まれる、ここにも一方的関係性、原理があるとわかります。このように、四諦には瞑想で得られる智慧が含まれています。
 つまり四諦八正道には仏教の2本柱、智慧と慈悲が既に備わっていたのです。

蓑:心身の観察によって得られてくるところは智慧の世界であり、他者への思いやりの気持ちって言いましょうかね、他者との関係性の中で捉えられてくるものが慈悲である。で、その両方が実はとても大切なものだと考えているのが、仏教だということができると思います。

為:自分に向いての智慧と社会に向いての慈悲、その両方で、、、

蓑:はい、その両方が大切なものとして考えられてると。これはいろんなところにですね、そのようなことが感じられるような資料がありまして、日本人の仏教者の中でも、ある時期までは自分の修業ばっかりこうやってっていう人がいるんですけども、あるところでですね、やっぱり大きな体験をしていまして、その慈悲の世界というのに気がついて、そして、ようやくしっかりとした悟りに到達したっていうような言い方をしてる人達が多いんです。
 ですので、智慧と慈悲っていうのが、仏教にとってはとても大切なものであるっていうのが、分かるのではないかと思います。

中:今日はブッタがどのようにこの弟子達に瞑想を伝えてきたのか、という過程を見てきましたけれども、為末さんいかがでしたか。

為:いや、もう本当にとても思うところはありまして、特に選手のプロセスに似てるなと思ったんですね。大体は自分の夢のために頑張っていくんだけど、どっかのタイミングで、応援してくれる人とか、社会の方に向けてっていうのをやってくんですけど、結構その
分岐点になるところの体験に、自分1人でやってるわけじゃないっていうか、直感的な感覚を持って、選手はそっちに行くことが多いんですね。で、そういうものが人に優しくされたからしなきゃとか、そういうことじゃなくて、なんとなく直感的に、自分1人でやってるわけじゃないんだなっていうのを思って選手がこう、今日の言葉で行くと、慈悲の世界に入ってくのかもしれないですけど、そんなプロセスも想像しながら、結構近いなと思って話を聞いてまして、 まあそのわけで瞑想っていうのが、もっと世の中に色々と使われていくっていうのは、とてもいいのかなという風に思いました。

中:はい、私達にもできることがありそうでしたね。

蓑:仏教の瞑想というのは、実は忘れられがちなところがありまして。でも、それが持っている大事なところというのが今日の話の中ではたくさんできたのではないかなと思います。 
っと、仏教の大切な智慧と慈悲という世界が実は、瞑想の世界としっかりと繋がっているというのがわかっていただければよかったと思います。

中:お二方、今日はどうもありがとうございました。
 次回は、ブッダが弟子達へと伝えた瞑想が、その後インドでどのように広まっていったのか伺います。

NHKこころの時代~宗教・人生~ 瞑想でたどる仏教: 心と身体を観察する (NHKシリーズ NHKこころの時代)

仏典とマインドフルネス 負の反応とその対処法