eraoftheheart

NHK「こころの時代〜宗教・人生〜」の文字起こしです

2022/9/25 悲しみと寄り添う~スピリチュアルケアの仏教者~

大河内大博:浄土宗願生寺住職
ききて:武田真一


ナレーター(以下「ナ」という):医療技術の進歩でのびる寿命。その一方で死と向き合う時間が長くなっています。なぜ死なないといけないのか。どうして思い病気になってしまったのか。多くの人々と最期の時を過ごしてきた僧侶がいます。大河内大博さん20代の頃から終末期の医療現場などでスピリチュアルケアを実践してきました。
 スピリチュアルケアとは、人生の困難に直面した時、生きがいを持てるようにサポートをすることです。欧米の病院では広く普及しています。大河内さんは仏教者としてスピリチュアルケアに早くから取り組んできました。
 死への悲しみや苦しみをどうすれば和らげることができるのか、全国でその経験を伝えています。大切な人を失った悲しみにも寄り添います。

『大河内(以下「大」という):(亡くなった人が)いた場所って強烈ですよね。いつも座ってたソファーとかダイニングとかそこにいるべき人がいない。その日常にまず慣れていかないといけない』

ナ:大河内さん自身も5年前に父親、2年前に母親を自宅で看取りました。

『大:この写真は父が亡くなる10日程前、この衣の写真を使ってほしいっていうので、みんなで(父を)抱えて(衣を)着せて結局それが最期でしたね。
 父、母を亡くした悲しみ苦しみは今までに経験の無かった悲しみ苦しみでした。

ナ:誰もが迎える最期、そして残される家族はその悲しみにどう向き合えばいいのか。スピリチュアルケアを通して多くの悲しみに寄り添ってきた大河内さんに伺います。
 大阪の中心部から電車で15分程のところにある大阪市住吉区。ここに大河内さんが住職を務める願生寺があります。
 南無阿弥陀仏と唱えればどんな人も極楽浄土に救われると説いた法然。その教えを受け継ぐ浄土宗の寺です。
 
武田(以下「武」という)では改めてよろしくお願いいたします。

大:よろしくお願いいたします。

武:ここが大河内さんのお寺ということですよね。普段はこちらでお仕事なさってる。

大:はいそうです。そうですね、まさにここの本堂で朝のお勤めからご法事、また時に、お葬儀とかですね、そういったあの~、宗教のまさに念仏道場として、はいここで暮らしながらお守りいたしております。

武:私達が普通にイメージするお坊さんのお仕事を日々なさってるわけですよね。

大:そうですね、はい。

武:しかし、大河内さんはそれだけではない。僧侶の仕事はそれだけじゃないというふうに思ってらっしゃるということですよね。

大:はいそうです。病に苦しむ方であるとか障害を持っている方、それから檀家さんではなくても独居、高齢者の方で孤独を感じていらっしゃる方、いろんな方が地域の中には人の数だけのそれぞれの悲しみ、喜び、苦しみがあると思うんですけども、できるかぎりそんな方といろんな方と交流できればうれしいと思ってまして。
 私が外に出ていった時にどんな人と出会えるだろうかっていうところで、それが病院という場所かもしれませんし、そのほかの高齢者施設かもしれませんし、たまたま道で会う方かも分かりませんし。

武:医療の現場に出ていく、あるいは、社会の中で苦しむ人達に寄り添う、そういった場に宗教者である大河内さんが出ていく、関わっていく、そのことはどんな意味があるんでしょうか。

大:そうですね、死とか、死にゆく自分の命があとどれくらいであるかとか、そうしたこう、自分自身の人生、生き方、生きざまに向き合わざるをえない時のいわゆるこう、魂の叫び。それらに対する問いの答えっていうのは容易に他者が用意できるものではない。医師、看護師含めてやっぱり誰しもに、その方に容易に答えをですね、提示することはできない。
 宗教者っていうのはそうしたまさに答えのない問いに対して向き合い続けること、それから逃げないでいるということ、そしてその方がそこに向き合っていくその人の力を信じるということ、そういうふうなこう足腰、体力を持ったうえで関わり続ける、寄り添い続けるということが宗教者の非常に重要な役割ではないかと思っています。

ナ:大河内さんが初めて臨床の現場を訪れたのは2001年22歳の時。院内に僧侶が常駐するビハーラ病棟でした。ビハーラとは仏教の教えを心の拠り所に安らかな死を迎えてほしいと提唱されたターミナルケアのことです。この病棟は1992年にできました。
 院内には釈迦菩薩像が安置され、日々お勤めが行われています。大河内さんはここでボランティアとして活動を始め、あまたの命と向き合います。

武:初めてビハーラの現場をご覧になってどんな風景だったんですか?

大:たまたま私が一番最初に病棟に行った時がお昼の3時くらいだったんですね。で、3時くらいは後から聞いたんですけども、ティータイムといってボランティアさんがやって来て体調のいい患者さんは談話室に出てこられて、で、お茶を飲んでそしてまあ談笑して、で、体調のすぐれない方は病室にお茶を運ばれ運ばれたりとかですね。医療者ばかりに囲まれたりとかではなくて、いわゆる普通の方達がですね、エプロンをつけて、で、3時のおやつのような時間をですね、和んで帰って頂くっていうようなですね、たまたまその時間に寄せて頂いて。
 そういうのがあるっていうのは私も知識として分かってたんですけども、行ったらですね、お酒を飲んでるんですね。まあいいわけですよ別に、お酒を飲んでも。普通の病院だったらそういうことは控えなきゃいけないか分かりませんけども、ビハーラ、ホスピス緩和ケアというのは、最期までその方がその人らしく生き抜く場所である。だから出来る限りその人がやりたいような、過ごしたいような空間をこう用意していく。そこにお酒があるっていうのは、その方にとって日常であれば、それは当たり前の風景である。

武:終末期の患者さんは静かにこう死を待つということではなく、まだ人生がそこにあるということですね。

大:そうですね。死ぬ場所ではなくて、生き抜く場所としての日常の延長。たまたまその場がビハーラ病棟であったっていうですね、そのことにすぎないっていう感じ。

武:そういったビハーラの現場に飛び込んでいかれて大河内さんご自身はどうでしたか、何かこう役割をうまく果たせたのか、手応えがあったのかいかがでしたか?

大:やっぱりまだまだ甘かった。人生も経験としてもそうだし、そういう場に僧侶として関わる時のある種の専門性を身に付けなければならないってこともそうだし、非常に自分としては大きな経験をさして頂きましたけども、足らなかったこと足りないこと、未熟なこと、何かほんとにこう教え込まれた経験だったなっていうふうに振り返っては思いますね。だから失敗もいっぱいしました。

武:心に残ってらっしゃる大事な出会いがあったそうですね。

大:そうですね。ある80代の女性で肺がんの末期でご入院されていらっしゃいました。その方はですね、ただ少しこう、精神的なご不安があられてあまり部屋から出られない方だったんですね。
 で、ある日ですね、私が夕方一日の活動を終えて帰宅しようと思ってナースステーションの前を通ったらですね、一人で談話室でですねポツンと座っていらっしゃったんですね。私はてっきり気分がよくて外に出て談話室に座ってらっしゃるのかなというようなそういうふうな思いを持ってですね、家に帰ろうとしてたんですけれども足をですね、その方の方に向けて「ああ珍しいですね、こんなところで」っていうようなことで声をかけて、「何をしてるんですか?」というような話をしたらですね、「別に何もしてないよ」って話をしつつ、「この時間の病棟は慌ただしいね」っておっしゃったんですね。
 で、私はですね、「そうですねこの時間の病棟は慌ただしいね。日勤の人と夜勤の人とが入れ代わるからみんなバタバタしてるよね」っていうようなことを応答したんですね。
 で、「いつものように部屋にばかりいないでこういうところにいても、こういうところにいる方が気分が晴れていいでしょう」みたいなことを私が申し上げたらば、「どうかな、しんどいからね」ってこうおっしゃった。
 で、私はですね、もう既に半分家に帰ってるようなまあ心持ちだったものですからですね、「しんどいんですか無理しないでくださいね。じゃあ私はこれで失礼しますね」って、もう早々に会話を切り上げようとしたらばですね、その方が「あしたまで生きていられるかな」ってぼそっとこうおっしゃったんですね。で、私は一瞬ドキッとしたんですけれども「ここだ」っていうふうにこう思って、その方にですね、「あしたまで生きていられるかどうかは誰にも分からないんですよ、僕だってね」ってこう話始めたら、「そんなこと言ってるんじゃないのよ」っていって途中で話を遮られて、私はその後何も言い返せずにですね、ただ沈黙のままでその沈黙にも耐えられずに、頭を深々と下げて「失礼します」っていって帰ったという経験がありました。

武:大河内さんのその言葉の何がどう、こう悪かったんでしょうか?

大:気分が良くて部屋から出てきたわけではなかったかもしれない。むしろ部屋にいることさえ孤独感やつらさで耐えられなくなったその方が、決死の思いでもしかしたら部屋から出て談話室に座っていらっしゃったかもしれない。
 でもその自分の前を何人もの看護師がこう行き交う中で、もしかしたらみんな姿は見えてたかもしれないし、姿さえも見えてなかったかもしれないし、声をかける余裕がなかったかもしれない。そんな中で「誰も私に気付いてくれないね」っていう孤独感をもし持ってたならば、「あしたまで生きていられるかな」っていうのは、ある種私に対する「もう少しそばにいてほしい」というメッセージだったのかもしれない。
 でもそれに対し私は、「ここぞ」ということで返したのは、「諸行無常の教えでこの場を乗り切る」っていうですね、がんの末期の患者の方がいらっしゃる病棟ですから「あしたまで生きていられるかな」っていうようなことをもしかしたら聞かれるかもしれないということをある種の想定問答で私の中で準備をしていて、そう言われたら僧侶なので、「あしたまでの命、あしたの命は、それはがんの末期の方であろうと若い大河内であろうと皆平等に分からない」っていうですね、そういうようなことをですね説明して、「だから今の時間を大切に生きましょう」みたいなふうにですね、まさに説法ですよね。それを「ここぞ」という時に返したわけですね。その言葉の最後まで待たずに「そんなこと言ってるんじゃないのよ」ってこう、「そりゃそうですよね」っていうふうに思うんですね。
 つまりこう、用意してきたようなマニュアル的な言葉っていうのは、そういうまさに命の場面では通じるはずがない。もっともっと私がもし言葉として伝えるものがあるならば、その時に自分の腹から出てきている言葉、自分の血肉になっている言葉ならば届くかもしれない。それがその方にとって必要かどうかは分からないけども、とりあえず届くかも分からない。

武:今のお話はまさに人としてどう他者と関わっていくかっていう根本的な部分ですよね。

大:そうですね、そうだと思います。
 まさに「僧侶としてどうあるべきか」っていうことが一番私の中での命題ではあるんですけれども、その前に人としてって意味での大河内の私という人間がある種丸裸になるようなですねそういうような経験といいましょうか。
 なぜならば目の前の方もそんな自分をさらして、さらさざるをえない状況ですよね、車椅子の状況であるとかベッドで横たわっているとかですね、色んな意味でその方のこう尊厳からすると「元気であればそんな姿はあなたに見せないのよ」というような中で、でも精一杯生きていらっしゃる方に関わっていくっていう時のこちら側の姿勢としてですね、何か小手先でといいましょうか、技術的なところでましてや心に関わっていく、更にその心の更に奥底といいましょうか、その方の生きる意味とか生きがいとか、今のまさに存在価値みたいなところまでこう関わっていこうとするならば、私自身のありようってことも非常に問われていく。

ナ:その病棟では当時3日に1人が亡くなっていきました。懸命に生きようとする患者の姿、そこに見えてきたのは仏の教えでした。

大:80代の方だったんですけれども、女性の方でがんの末期で入院されておられまして、その方の病室からですね、きれいな山々がこう見えるようなロケーションでして、その方のテーブルの上にカメラが置いてまして、で私がそのカメラ、「カメラ撮られるんですか」ってな話でカメラの方に話題を振ったらば、カメラで撮っているのを何枚か見せて下さって、その中にはまさに山々を毎日同じところからパシャパシャっとこうですね、撮っていらっしゃって。
 で、「あなたこれをご覧なさい」と、で「あなたにとってはこれ今日の写真、これ昨日の写真」っていうふうにしてですね毎日撮っていらっしゃる写真の今日と昨日の間でぱっと見私には違いは分からないんですね。
 でもその方がそれを私に見せて下さりながら「あなたにはこれ、この写真と昨日の写真の違いは分からないかもしれないけれども私にはその違いは分かるのよ」と。「昨日と今日は違う」っていうことを教えて下さって。
 まさに仏教というのは「刹那を生きる」昨日の自分と今日の自分の中で昨日の自分は死んだ、今日の自分を新たに生きるっていうですね、まさにそういう刹那刹那の諸行無常の中でこう生かされているっていうことをですね、まさに頭で分かっていてそういうことを言っていながら、いざその方がまさに見ている風景の中で昨日と今日は違うということは、実は私自身は全くもって体感なく、「昨日のような今日があって、今日のようなあしたがまた来る」っていうふうにある種思い込んでいる自分に気付かされた。

武:がんの患者さん達がまさに人生の師となった、そんな瞬間だったんですね。

大:そうですね。どのような患者さんであられても、決して患者さん達は私の学びのためにそこにいるわけではない。その方々達に関わるのであれば私は僧侶として出会ったり何かしらの専門職としてしっかりと役割を果たさなければいけないってことがもちろん前提にあるわけですけども、一人一人の患者さんのありよう、下さった言葉、そんなことっていうのは私にとっては人生の師。まさに信仰は違えども「仏教とはどういうことか」とかですね、「お前が僧侶として生きるってことはどういうことだ」っていうことを常にこう問いかけて下さるような、まあそんな時間、経験だったなっていうふうに思いますね。

ナ:3人兄妹の長男として生まれた大河内さん。450年続く寺の跡継ぎとして9歳で仏門に入りますが決められた道に葛藤がありました。
 そこで寺を継ぐ前に社会を知りたいと、親元を離れ東京の大学へ進学します。学生生活を満喫していたある日、僧侶としての生き方その原点となる言葉を友人から投げかけられます。「キリスト教は愛、仏教は死」

大:大学の授業の帰りにですね、女性のお友達だったんですけど、同じ授業をとっていて駅まで歩いている最中にですねその友達が「キリスト教は愛で、仏教は死って感じだよね」っていうようなですね、そういうニュアンスの言葉を私にかけてきたんですね。
 前後どんな話をしてたかって正直覚えてなくて、その言葉だけがズトーンとですね、私のこう心の中に残って、その時の私の感覚は「やっぱりそうか」っていう感じだったんですね。

武:やっぱりそうか

大:いわゆる社会からですね、お寺がどんなふうに見られているんだろうとか、僧侶がどんなふうに見られているのだろうかというのは、お寺で生まれ育ったが故に非常にこう花瓶であったように思います。
 そんな中で当時から「葬式仏教」という言葉が言われていたりしました。で、葬式仏教っていうのは日本の仏教の在り方を示しているという言葉よりもどちらかというと、揶揄する、ちょっと批判的な、つまり「葬式しかしない」とかですね、「死んでからお坊さんには用がある」っていうですね、そういうようなこう捉えられ方がしていて、キリスト教っていうのはあったかかったり、こう生きてる間にこう何か楽しいことをですね、用意してくれていたり、もちろん悩みを聞いてくれたりというような、こうコミュニティ、ネットワーク的なイメージがあって。「このまんまではいけないんじゃないかな」っていう、私自身のより具体的な問題意識としてこう残って、じゃあ「死んでから」って言われる僧侶が、あるいはお寺が、その前から人々と関わるってことがどういうことなのか、それって実際に実践なされているのかっていうようなことにですね、少しずつ関心が向いていくようになりました。

武:死というものの前に仏教がどんなことを提供できるのかというその時は何かこうイメージはあったんですか?

大:いや全く無かったですね。お寺に生まれ育った中で何も培ってないなっていうことを突きつけられたみたいなそんな経験だったかもしれません。

武:そんな中で、大学の授業の中でその後の道を定める大変重要な出会いがあったそうですね。

大:2年生の時に生命政治論の授業に出会って、その授業が進んでいく中で終末期医療の単元がありまして、日本には大体1980年代ぐらいに欧米からホスピスというものが入ってきて、ホスピスというのはキリスト教の流れの中で日本に入ってきたもの。
 でも日本では多くの方がいわゆる仏教徒といいましょうかですね、どこかしらのお寺の檀家さん、信徒さん、門徒さんっていう方が圧倒的に多い中で、日本ではやっぱり仏教の方がこの活動に関わって取り組んでいくことが大事なんじゃないかっていうことで、仏教版のホスピスとしてビハーラっていう言葉が1985年に田宮仁(たみやまさし)先生という先生が提唱なされて、仏教の精神によるホスピスターミナルケアの呼称、理念としてのビハーラというものが1985年に提唱されて、1990年代の最初に長岡西病院ビハーラ病棟というのができますっていうことを、当時私は1999年の時に初めて聞いたんですね。
 で、それが非常に衝撃的で、「これだ!」っていう感覚。いやでも待てよ、1985年に既に提唱されていて1990年代前半に病院ももう既にできている。で、当時の1999年の私はそれを今初めて知ったっていうことに、「なぜ広がっていないんだろう」とか、「なぜこれまでビハーラに出会ってこなかったんだろう」っていうことに、こう「これだ!」っていうことと同時にある種のこう生意気なんですけども危機感のようなことも覚えて、自分が興奮しているこの感覚を、他の方はあまり持たないのかなみたいなことをですね思った時に、自分がこれを広めていこう。

ナ:大河内さんは僧侶として臨床の現場で活動を始めますがある思いが湧いてきます。特定の宗派や宗教に関係なく多くの患者に寄り添うにはどうしたらよいのか。
 そこで出会ったのが、人生の困難に苦しむ人々が生きがいを持てるようにサポートするスピリチュアルケアでした。
 スピリチュアルケアは欧米で1960年頃から普及。今では多くの病院に専門期間で研修を受けたスタッフがいます。
 日本では2007年、医師の日野原重明さんらによってスピリチュアルケア学会が設立されるなど、医療の現場で重要視されています。
 大河内さんは学会の立ち上げから参加。スピリチュアルケアの研究をしながら、大阪の病院などで終末期の患者と向き合います。

武:そのスピリチュアルケアどんなものなんでしょうか。

大:私達がですね自分自身の人生でですね、何のために生きてるんだろうとか、順調に自分の人生あいってたらばそういうことは考えないけども、どっかで躓いた時にこれでよかったんだろうかとか、何が駄目だったんだろうとか、まさにこう終末期の患者さんっていうのは、もう少し生きたかったけrど生きられないとかですね、そういうことも含めて人生のいろんなところで私達はある種躓きながら自分自身の人生を問う。そういった時のこう自分の存在の枠組みとか培ってきた意味とか価値観とか優先順位、そういうものをですね、少し丁寧に紐解きながらその方が一番大事にしていること、その大事にしていることが通用しなくなった時にじゃあどういうものを大事にしていこうっていうようなとこのプロセスにですね寄り添っていく。そういうのがスピリチュアルケアって言われるものとして医療現場の中特に緩和ケア棟ですね、そういったところではチームの一員として重要視されているケアというふうにされています。

武:じゃあ単にその悲しみや苦しみに寄り添う、あるいはそれを緩和するというだけじゃなくて、その人が何を大切にしていくべきかということを見つける。

大:そうですね。例えばその悲しみということ、悲しいという状況を悲しみが消えるようにしたらどうしたらいいのかっていうのは、実はスピリチュアルケアともいえるんだけれども、むしろもう少しスピリチュアルケアが大事にしてるのは、その悲しみに込められている意味を一緒に大事にしていこうっていう、そういう伴走していく、寄り添う、一緒にですね歩んでいくっていうですね。
 だから、悲しみは実は悲しみのままかもしれない。でも悲しみの質が変わっていく、悲しいということがそもそも愛おしかったり、悲しいということがそもそも大事だっていうようなそういうようなことによって、私達はそれを引き受けながらあるいは折り合いをつけながら生きていく。そういった人間観がベースにあるのがスピリチュアルケアだというふうに思っています。

武:そのスピリチュアルケアを実践していかれるわけですけれども、患者さんと心を共鳴し合う、寄り添う、真の意味で寄り添えるような体験っていうのはどうでしたか?最初からできたものですか?

大:いや~どうでしょうね~。それは私がお浄土に行って、ご本人から答え合わせをしなければ永遠に分からないことではないかと思ったりもしますが。
 60代の男性でした、私が勤めていた緩和ケア病棟にご入院されてきて。そして症状はまあ比較的落ち着いていらっしゃったんですけれども、ご病気のこと、ご病状のことをしっかりと頭で理解して、理解されていて、ただ一つ、予後、自分は後どれくらい生きられるのかっていうことは明確にはお医者さんからは聞いていらっしゃらなかったんですね。
 正直聞くのが少し怖いということをお話されました。怖いというのは、もし自分が思っているよりも短い期間を言われたならばせっかくこうして落ち着いている気持ちがまた乱れてしまうんではないかというようなことを心配されておられて、何かいいアドバイスを頂けないかというですね、そういうこうお話でした。
 で、私はもちろんのことながらですね、そんなところでですね、「こうした方がいいです」とかいうようなアドバイスができるはずもないので、「もう少しお話聞かして頂いていいですか」っていうふうにお伺いして、「どうして予後を聞きたいんですか?」ってことを尋ねました。
 スピリチュアルケアで非常に大事なのは、その方に聞かなきゃやっぱり分からない、「世間一般的にはこうだよね」とか「自分の場合はこうだったよね」ってことで、安直にその方を自分の理解の枠組みにはめるのではなくて、聞けるならば、聞かしていただけるならばきちんとその方の言葉で聞かして頂くっていうことがスピリチュアルケアの非常に大事な関わりだと思っていまして、私自身その方に「どうして予後をお聞きになられたいんですか?」っていうふうに聞きましたらば、「かくかくしかじかだからだ」っていうような明確なものではなくて、奥さんの話になっていったんですね。
 その方いわく「妻は自分がいなければ電球も替えられないぐらいの自分は亭主関白でやってきた。家庭のことは妻に任せて自分は仕事に打ち込んできた。で、自分のたくさんの趣味もあって、ガレージには趣味のものがたくさんあって、そんなものもちゃんと整理しなければいけないし。後自分の中でどれくらいの時間があるかによって、そういったことをちゃんと整理していきたい」っていうようなお話をされて。
 私はその方に「残りの時間は奥様のための時間なんですね」ってお返ししたらば、大粒の涙を流されて「そうなんです」というふうに深くうなずかれました。
 その方にとってはあとどれくらいかっていうことは、お医者さんに聞けばもちろん答えて下さることもあるかもしれません。でも、私の役割は、それが聞くべきか聞かないべきかということの答えを出すのではなくて、その問いの奥底にあるその方の自分の命をどう生きるかっていうところの中心にその奥様がいらっしゃる。でも奥様に聞いたら奥様は「ちゃんと自分で電球替えれますよ」とかいって、現実は違ったりするんですけども。
 全部を大切にすることはできないし、「元気だったならばこうしていこう」みたいなことは全部崩れてしまったかもしれない。でも崩れてしまった中で、でも、何とか最後自分の手の中に握りしめた妻との時間、家族との時間っていうものをどんなふうに過ごしていくかってことを、ある種その方の中で大事にして下さったならば、あとどの選択をしたとしてもきっとその方にとって大事な選択をしていって下さるだろうってことを信じて、後はもう私としては役割を終えて引いていくというんでしょうかね。そういうような関わりだったというふうに私は思っています。

武:その方のある種人生の選択の場面に立ち会う。
 しかしですね、その死を目前にしてどう生きればいいか分からない、何を大切にして選び取っていけば分からないっていう方もいらっしゃると思うんですね。

大:決して最後がですね、丸印で終わるような人生ばかりではない。むしろ私が関わらせて頂いた中には、何かしらの悔しさとか悲しみとか、もう少し生きたかったという思いであるとかっていうことをどっか残しながら、ある種未完成の中で死んでいくのが、私は人間の当たり前の自然な姿ではないかっていうふうに感じさえします。
 そういう場に立ち会っているとほんとに無力です、ほんとに無力です。何もできないことは無力ですし、申し訳なさもあるし、「何やってんだ」ってこう投げやりになったりすることもあります。
 僧侶であるからということで救えるわけではない。むしろ、救える人なんて一人もいないかもしれない。でも、その方を一人にしないということのアクションはできるかもしれない。その方にとっての最後の拠り所となる信仰であったり、何か自分の人生の意味を見出すことができなくっても、それでもなおその方をそのままに受け止めて下さる方がいらっしゃるっていうことを信じて関わり続けるということですね。

武:大河内さんは病院で患者のケアに当たりながらその経験を講演するなど活動の幅を広げていきます。そんな矢先、予期せぬ出来事が起こります。
 住職を務めていた父、良廣さんにすい臓がんが見つかったのです。医師から「治療という選択肢はない」と告げられます。

『大:これなんですけどね
 取材者:これはどういったものですか?
 大:これはカレンダーなんですけども、2017年の(父が亡くなった)9月、10月、そこからめくらずにそのままになっているカレンダー。冷凍保存されているような、そんな感じがするんですけども。父がいた9月1日、2日、3日、そんなところに戻れる唯一のものかなっていう感じもあって、そのままになってて。

ナ:臨床の現場では味わったことのない悲しみを体験をします。

武:お父様を看取るまではどう過ごされていったんですか?

大:いよいよもう恐らく週単位から日単位になってきたな。それからもう日単位も今日、明日、明後日、そんなぐらいになってきたかなっていうのは私の経験からもですねこう分かってきて、姉から連絡があって「ちょっと呼吸がおかしい」っていうので起こされて、で見るといわゆる最期の呼吸になっていたので、「これ最期の呼吸だから」ということで家族みんな起こさせて、私の娘なんかも起こして最期ほんとに家族でベッドを囲みながら最期の時間を過ごすような時間を持つことができたんですね。
 その時にやはり「いよいよ」っていう思いがありながら「いよいよ来てしまったか」っていうですね、そういう思いもありつつ、父がですね亡くなるほんとに息を引き取る数分前に2回手をあげたんですね。で、目を開けることはなかったんですけども、何となく表情は「おお、久しぶり」っていうような、何というんでしょうかね、口角が上がったように見えたっていうのを見てですね、「あ、もうたくさんの人が迎えに来てるんだ」っていうふうなことを思った時に、残ってる私達は何としても、何とか向こうにいこうとする父の手を離したくない、手放したくない、引き止めたいっていう思いがそれぞれにこうありながら、でも向こうには「おお、よう頑張ったな」っていうですね、父の父親、母親とか、父がたくさんの人をお葬儀で送ってきたですね檀家さんとかですね、竹馬の友とかいろんな人がやっぱり向こうにはたくさんいて、で、残ってる私達はやっぱり手放したくないけれども、でも、もうそろそろ「お疲れさん」っていって手放してあげなきゃいけない。何かそういう感覚にふとなれる、お迎え現象なのかどうか分からないんですけどもそれが、お迎えのようなことがあって。信仰では阿弥陀様と仏様、極楽浄土というお浄土っていうようなことをですね、日々言いながら、でも実際に父を見ながらこの世に留まってほしい、でもちゃんと向こうに待ってくれてる人がいるんだねってことをまさに体現してくれるような時間の中で少しずつ手放すことができて、最期の最期の息を引き取るその瞬間まで家族で見守ることが、これはほんとにありがたいことでした。

武:それからまさしく、、、最初の住職のお仕事としては、葬儀を取りしきるということになるわけですよね。

大:はい。まさにこう、もうすぐにやるべきことというのはですね、感傷に浸っている暇もないような格好で、次々とやらなきゃいけないことっていうのはありまして。そこに数時間後にドクターが、看取ってくれたワタナベ医師という先生がですね、死亡宣告に来てくれて、死亡宣告っていうのをしてもらった時に、どっかこうすごくそれは寂しいんだけれども、一方、自分から遠くに行ってしまったというか、遠くに行った父っていうのを感じたんですね。で、これって冷静に考えるとすごく大事な場面だなと思っていて。
 つまり、家族だけだとどうしてもべた~っとした気持ちが中心なのでやっぱり離したくない、何とか揺らしてでも起きてほしい。でもそこに死亡宣告っていう、まあ極めてもしかしたら、誰でしょうかね、作業的かも分からないけれども第三者が入ってきてくれて、次に進んでいかなければいけないというところに背中を押してくれるような感じですね。
 で、その後父をですね、座敷に移動して枕経というお経であったり、それから弔問の人が来て下さったりっていう中で、少しずつ少しずつやっぱり冷たくなっていく硬くなっていく、父の頬とかですね、額に手を当てていくと、「あ、やっぱり生きていないんだな」っていうようなことを突きつけられる。その父が棺の中に納まることによってまた少し遠くなっていく、それが通夜、葬儀の中で安置されていくと、またもう一つ簡単に触れることができなくなっていく。
 そうやって儀式っていうのはもしかすると少しずつ少しずつ私達が現実として受け止めきれない大切な人の死からいい意味で引き剝がされるために必要なある意味パワーといいましょうかですね、力を持っているもので、これが無かったら私達はいつまでももしかしたら抱え込んでしまうかもしれない。父を看取って、あるいは父の葬送儀ですね関わって新たな気付きといいましょうかね、「葬式仏教では駄目だ」っていう思いで現場に飛び込んだ私がたどり着いたのは、「本気で葬式仏教をしよう」っていうですね、何かそういうようなことをですね父を看取った経験から、更にこう、思いを強くしたみたいなところが何かありますね。

武:大河内さんご自身の悲しみ、それはどう乗り越えられたんですか。

大:今、父を看取って5年になるんですけれども、悲しみは恐らくまだ乗り越えてないかなと思っていて、この先も恐らく「乗り越える」という表現ではどこか常に違和感が残ってくるかなっていうふうに思っています。
 きっと折々に父を思い出して「悲しい」であったりとか「ほんまにもうちょっと長生きしてくれてたらよかったのに」とかっていう恨み節とかいろんなことは、恐らく私の人生のこの先も折に触れて出てくる。時間と共に何か忘れ去られていくような時間の方が増えていくけれども、それは完全になくなったわけではなくて、ちょっと奥の方におさまっただけで、ぽ~んとこう出てくるものじゃないかなと思ってます。「あ、きっとこのことを父が生きてきてたらこんなふうに言うだろうな」とか「こんなふうに喜んでくれるだろうな」とか、「あ、きっとこうやって怒るだろうな」とかっていう父は常にこう出てくる。

武:私は8年前に父を急に亡くしまして、やはり今でも「会えない、でも会いたい」というはざまの中でやっぱり苦しんでるんですね。夢にも時々出てきますし。夢に出てくるとやはりこう、会えたということと、でも「これは夢だ」と分かってますから、やっぱり涙で目が覚めるってことが今でもあるんですね。
 で、やっぱり悲しみっていうのは乗り越えられてないなと、意識することが多いです。で、やっぱり会いたいんですよね。その亡き人と会いたいっていう思いを誰もがこう簡単に折り合いつけられるものじゃないと思うんですよね。そういう中で話をする、あるいは話を聞く、そのことはどんな意味がありますか?

大:私達の中で大切な人を失ったその瞬間で止まってしまった時計というものがあって、でも、生きていかなければいけないという現実の中で確かに生きてきた時間というのがあって、これは止まってしまった時計を動かすのではなくて、その両方の時計を持った人生が始まったっていうふうに受け止めていくことの方が私は自然ではないかと思っています。
 まさにそうした止まってしまった時計に、ある種こう戻りながらそれがどのようなご経験であったか。そして、それでもなお動いてきた自分の人生の動いてる方の時計の中であなたは何を大切にしてきたか。あるいは、その中で亡き人はどんな存在として立ち現れていらっしゃるか、どこにいらっしゃるか、どんな思いを持っていらっしゃるかっていうのをスピリチュアルケアと同じくやはり物語として大事に聞かして頂く。
 そして物語って頂くことを他者としての聞き手として立ち現れた時に実は話ながら自分に返ってきている。私はそういった時に「いや父はこういう人でね」とか「夫はこういう人でね」っていうような話をしている時に、その方と出会い直しをして下さっているっていうふうに思っていて。この出会い直しを私達は大事にしていくってことが重要ではないかな。
 つまり、不在とか止まったっていう死者はでも実は生き続ける。変化していくんですね。よく聞くのは、ご主人がいかに私にとって理想なご主人だったか、いかに私は愛されてたかっていう話をですねさんざんした後、最後に慌てて「でも主人はそんないい人じゃなかったんです」って、何か慌てて否定される方がけっこういらっしゃるんですね。で、よくおっしゃるのは、「なぜかよく分からないけれどもいいことしか思い出さない」。お父さんもそうじゃないですか?嫌なこともあったか分かりませんけども。
 これは不思議で、ある意味私はそれは何か与えられているプレゼントの気がするんですよね。

ナ:父の死後、住職となり僧侶としての仕事が忙しくなった大河内さん。スピリチュアルケアの活動を臨床の現場から地域に移しました。これまでの経験を生かし、訪問看護ステーションを立ちあげます。

訪問看護ステーションの職員(以下「職員」という):本人に確認したところ、病院にいきたくない、どうしようかと。
大:みとりができるキーパーソンはいらっしゃらない。
職員:もうそろそろそういうこと考えとかなきゃあきませんよねってなって』

ナ:毎月100軒の檀家を回り、大切な人を亡くした悲しみにも寄り添います。

『大:こんにちは。今までやったら(実家に)来たら必ずおったのに(親のいない)真っ暗な家に来なあかん。
 檀家の方:帰る時さみしかったですね。このままおいてしまうのがしのびない。
 大:お父様、お母様のご自宅にいる安心感と一緒にいる感覚と、それぞれの元の生活をもう一度立て直していくという意味でバランスをね。それも慌てる必要はないですし』

ナ:知己の人が気軽に何でも相談できるようにと月に数回本堂を解放。ボランティアの協力のもと、子ども食堂や看護師による健康相談など様々なイベントを行っています。

『夫を亡くした女性:「ちょっと2階にあがるよ」って今でも癖がついて(仏壇に声をかける)
 大:何十年って夫婦の時間があって。(仏壇は)かしこまって手を合わせるだけでなくて日常の中で対話する対象として声をかけて、「ちょっと聞いてえや」とかね』

武:これまで臨床の現場で活動されてきた大河内さんが地域に目を向けるようになったのはこれはなぜなんでしょうか。

大:住職になってですね、地域の方と触れ合う時間も機会も増えてきました。で、これまでは病院というですねある種特殊な閉じられた場所、そこに来る方は病になっていらっしゃってがんと闘ってらっしゃったり、がんの終末期であるっていうですね、そういうある種ピンポイントな方のところに伺うっていうことがありました。
 実際に今、住職になって檀家さんとの関わりもそうですし、地域にこう目を向けた時に地域もまた臨床で、人の数だけのそれぞれの悲しみ苦しみがある。

武:それは今までのスピリチュアルケアの取り組みの一環として新たに始められた、この地域でここに根ざしてということですね。

大:高齢者とか独居とか、大切な人を亡くされた方、それから子供たちもいるし、障害を持ってる方もいるし、障害を持ってるお子さんを育てていらっしゃる親御さんもいる。そういったこう一人一人の当事者性というところに目を向けていった時にできることは限られているけれども、できることは何でもしようっていうような思いがあって、訪問看護を立ち上げながら他にあるんじゃないかってことを考えまして、それで次から次と実はいろんなことを今場づくりをしているところなんです。

武:今日はたくさんお話を伺いましたけれども、死ですとか悲しみと向き合う、これはとても後ろ向きのことのように思えますけれども結局は生きるということに向き合うことなんだなと改めて感じました。

大:いろんな意味でこう、命が操作されてきているような社会になっているようにも感じたりします。
 つまり、どう生きるのが望ましいかとかどのような最期が理想的かというですね、混沌としていたり、いろんな選択肢があればあるほど私達は理想的な死であったり、理想的な最期を追い求めていく傾向にあると思います。
 でも仏教が伝えるべきメッセージは、「とはいえ思いどおりにならないこともあるよ」ということと、それから理想的な死とか理想的な命とか理想的な人生を設定した時に、そうならなかった自分の人生、命、死というものは不幸な死、不幸な人生、不幸な命になっていく、その二者択一の中に自分をかける。で、結果として自分のものになった、よかったよかった、思いどおりにならなかったから自分の人生不幸だったか「あの人の人生はかわいそうね」っていうですね、そういうまあレッテル貼り、ジャッジっていうものを明確にしていきすぎているような気がします。
 私達が理想を持つことは自然なこと。でも、大事なのはどのような結果になったとしても、まさにありのままを受け止めるっていうことを大事にしていく社会の方が私はそれぞれに寛容であって、それが人生の中の私達のある意味生きていくうえでの修行なんではないかなと思ってたりします。

 

ともに生きる仏教 ──お寺の社会活動最前線 (ちくま新書)

大切な人を亡くしたあなたに知っておいてほしい5つのこと