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NHK「こころの時代〜宗教・人生〜」の文字起こしです

2022/10/23 瞑想でたどる仏教~心と体を観察する~ 第1回 ブッダの見つけた苦しみから逃れる道(再放送、初回放送:2021/4/18)

蓑輪顕量:東京大学大学院教授
為末大:元プロ陸上選手
ききて:中條誠子

中條(以下「中」という):今日から「瞑想でたどる仏教、心と体を観察する」と題しまして月に1回、6回シリーズでご紹介します。お話いただきますのは、東京大学大学院教授蓑輪顕量先生です、よろしくお願いいたします。

蓑輪(以下「蓑」という):よろしくお願いいたします

中:そして元プロ陸上選手で、現在は指導者としても活躍の為末大さんです。

為末(以下「為」という):よろしくお願いいたします。 

中:このシリーズは仏教を瞑想でたどるということなんですが、そもそも、この仏教と瞑想の関わりというのはどのようなものなんでしょうか。

蓑:実は仏教の中では瞑想というのが大変に大切な起点でありまして、 これが基になって様々な教説というようなものも起きてきます。 実際には、私達の心を観察していくということをしていくんですけれども、それを通じてブッダは悟りを開いていかれます。
 ですので、瞑想をよく知ることによって仏教を知ることができるというふうに言っても過言ではありません。

為:じゃあ、瞑想していくってのはちょっとブッダの追随体験してくみたいなところがあるんですかね。こんなふうなプロセスで、 あのブッダは悟っていったってのを、我々が瞑想する時には、そういう似たような体験をしていくための ツールっていうか、道具みたいなそんなところがあるんですか。

蓑:はい、そういう側面が確かにあります。これは、現在の東南アジアのお坊様達がよく言われることなんですけれども、あなたもこの瞑想をすればブッダと同じような境地に到達することができるという風に言っています。ですので、瞑想というのはとても大切なものだということができます。

中:為末さん、この瞑想って言うとどんな

為:いや、だから。今2つ瞑想っていうか、この瞑想とあの迷う、迷って走る。で、まあ、それぐらいに競技やってる時に、やっぱり瞑想って選手達の間でも話してるんですけど、このやり方が合ってるのか、どうかよくわからないみたいなのが時々あったりしたんですね。

中:瞑想っていうものが、この方法でいいのかどうか?

為:そうですね。あんまりちゃんと教てもらったことがやっぱりなくて、何かに集中する、いや、空っぽになるんだとか、 いや、座ってなきゃいけない、いや、座ってなくてもいいかとか、そういうことを選手達も話しながら、まあでも何かあの競技には役に立つのかなっていうので話もしたりしていて、でもそんなイメージですね。
 だから、なんとなく集中して心を落ち着けてる何かなんだろうけど、具体的には何かはよくわかんないっていう、そんな感じでしたね。

中:この瞑想っていうのは、一体いつ頃から始まったものなんでしょうか。

蓑:実は、お釈迦さん以前から心を観察する瞑想というものは存在していたと考られています。

為:じゃあ、お釈迦さんが瞑想を編み出したっていうよりも、瞑想っていうのをお釈迦さんがこう取り入れたみたいな、そんな感じなんですか。

蓑:はい、そのように考ていただければいいと思います。実際にインドには、私達今「ヨーガ」という言葉で呼んだりしますけれども、心を何か1つのものと結び付けていくっていう意味があるんですけれども、そのような心の観察というのが、お釈迦さん以前から存在していたと考られます。

中:それをまたこのブッダブッダオリジナルの瞑想を作っていったというわけなんですか。

蓑:はい、実際ね最初にやられたものは伝統とほぼ同じものをされていて、ただ、悟りを開かれた時の瞑想がどんなものであったかというのは、詳しくはわからないところがあるんですけれども、おそらく、オリジナルの部分があったと考てよいと思います。

為:ブッダっていうのは、本当にいた人なんていうことですか。

蓑:これは、実際にあのいらっしゃったことは間違いありません。

中:じゃ、私達と同じ人間だったということですよね。

蓑:そうですね、はい。

為:ちょっと希望を持てますね。じゃあ、僕らももしかしたら、悟りに、、、何ていうかな。

中:悟りの境地へ

蓑:ブッダの当時の人間と現代の私達人間もそれほど大きく変わったものではないと思いますので、 ブッダの見られた世界というのが、実は現在の私達にも通用するものではないかと考ています。

ナレーター(以下「ナ」という):仏家が仏教を開いたのは、今からおよそ2,500年前のインドです。
 ブッダは、王族に生まれました。名前はシッダッタ、妻ヤショーダラと一人息子、ラーフラと共に王宮で何不自由なく暮らしていました。
 ある時、町に行こうとお城の東の門から出ると、白髪の老人を目にします。「あれはなんだ」。(従者)「年を取ると誰もがあのような姿になります。(ブッダ)私もいつかはあのようになるのか、、、」
 また、ある時、南の門を出ると病を患う人を見かけました。誰もが病にかかることを知ります。
 今度は西の門を出ると、葬式の隊列に遭遇します。生きていく限り免れない、老・病・死。シッダッタの心は重く沈み、苦しみで覆われてしまいました。「苦しみから逃れるには どうすれば良いのか」
 そして、北の門で出会ったのは、世俗を捨てた修行僧。 何事にも平然とし、苦しみから解放されているように見ました。シッダッタは出家、悟りへの道を歩み始めます。
 出家したシッダッタは、2人の仙人に教をこい、瞑想の修行を重ねます。この瞑想は深く集中することで心の動きを止めるもの。難なくその教地に達したシッダッタでしたが、
ひとたび瞑想をやめ、日常に戻ると悩みや苦しみは再びわき起こってきます。 2人の師から教わった瞑想では、根本的な解決にはならないと考ました。 
 試行錯誤するシッダッタは山の中に入り、断食など自らの体を痛めつける苦行を行います。それでも、悩みや苦しみから逃れることはできませんでした。シッダッタは、失意の中で山を下ります。「一体、どうすれば良いのか」
 シッダッタの前に、大きな菩提樹がそびていました。何かを得るまで、この木の下から動くまいと決意し、再び瞑想に取り組みます。 この時、シッダッタは独自の瞑想法を編み出したとされます。それにより苦しみから解かれ、 「悟りを得た人」ブッダと呼ばれるようになりました。

為:じゃあ前半部分は先生がいたけれども、後半は自分1人で模索したってことなんですかね。

蓑:はい、恐らくはブッダ自身がですね、体験的に気がついていった世界なのではないかと思います。 
今、私達の見ている世界というのは、新しい知恵みたいなものがですね、どのような形で得られるかっていう時に、 人から教わってくる知恵、それから、自ら体験して得られる知恵という風に分けられることがありますが、ブッダの場合には、まさに自ら体験して得られた世界、体験知とか臨床知っていう言い方が今あると思うんですけども、 ブッダの悟りの世界というのは、まさに体験知、臨床知の世界なのではないかと思います。
 
為:体験知の世界だと、これスポーツでもよくあるんですけど、 やってみなきゃ分かんないと。でやって、体が分かれば分かるんだといって、説明がとても難しいっていう特徴があると思うんです。
 で、もう1つは 本当かどうかよくわかんないと。何かこう、ただごまかしてるだけじゃないかって、あの言葉で説明できないもの、お前体で分かったら分かるもんなんだっていう、この辺りの苦しみとかもあったんじゃないかって気がするんですけど、そのどういう風にブッダはこう言葉にできないような体験知を伝ようとしたっていうこの辺りってどどうだったんですかね。

蓑:自分の体験をきちんと整理されて、言葉化していったんだと思います。 それができたっていうことは、なかなかにすごい人だったんだなと思います。

為:言語化能力というか、言葉にする力の強い方だったということなんですね。

蓑:はい、そうですね。

為:これどうだったんです?最初ブッタは、自分の苦しみの解決のために修行に行ったのか、それとも、みんなの苦しみのために修行に行ったのかっていうと、どっちだったんですかね、最初の動機というか。

蓑:それはやはり自分のことに引き寄せて、必ず誰もが生まれる苦しみ、年を取る苦しみ、病にかかる苦しみ、死に至る苦しみというのを経験すると。 そのような点から考えますと、最初は、自分の苦しみをいかにして逃れるかっていうところから、始まったと考えていいと思います。

為:じゃあ、自分の身で体験してみてこうやったら苦しみが逃れられた。じゃあ、みんなも同じやり方で、それぞれの人がこの瞑想を通じて逃れられるんじゃないかっていう、そんな順番だったってことですかね。

蓑:そうだと思います。はい、

中:人の苦しみってのが2,500年前から同じようにあって、それについて真剣にこの逃れるための方法を考えられてたってことなんですよね。

為:そこだけは結局人間が生きてる以上は変わらないですよね。これからも、まあまさに我々の人生と向き合ってるようなものなので、ずっと本質的な苦しみだったってことなんですよね。

蓑:はい、そうだと思います。実際に仏教の中では、その生老病死の4つを四苦という風に言うんですけれども、もう4つほど、苦しみになるものがあるという風に捉えていました。 
 それは求めても得られないということが苦しみである。愛しいものと別れなければならないのは苦しみである。そして、嫌なやつと会わなければいけないのは苦しみであるというのがありまして。 それと、私達の身体が様々な構成要素からできているが故に受ける苦しみという、4つのものが加えられて、 全部で八苦という風に言います。

為:全くなくなってないですね。

蓑:そうですね。

為:ず~っと2,500年同じ苦しみを人類は向き合ってきてる。

蓑:向き合ってるわけですね。で、その四苦と八苦があの繋がりまして、「四苦八苦」という熟語ができますので、これは現在の日本語の中でもちゃんと生きていますから、まさに、あの2,500年前のブッダの時代に考えていたことと、今、私達が現実に生きてる上で感じるものというのはほとんど変わってないと思います。

ナ:瞑想について、ブッダは言葉を残しています。ブッダの教えを記した初期の仏典、「念処経」の一節です。

『比丘たちよ、この道はもろもろの生けるものが清まり、愁いと悲しみを乗り越え、苦しみと憂いが消え、正理を得、涅槃を目のあたりに見るための一道です。』

蓑:念処を通じて、私達が日常に感じている悩みや苦しみを超えることができる。 そして、正しい道理を知ることができる、涅槃に到達することができるという風に書かれています。 
 その中でも、瞑想という風に今まで呼んできましたけれども、実際の言葉では、「サティパッターナ」、「念処」という言葉で呼ばれています。 この念処というのは、現代の仏教研究者の方達が 、どのように翻訳するのが1番実際に近いかというので、あれこれと苦労しているんですけれども、今、考えられる翻訳語としては、「注意を振り向けて、しっかりと把握すること」というふうに、 訳されるようになってきました。

中:その念処というのが、このブッダがたどり着いた悟りということになるんでしょうか。

蓑:はい、念処という方法を通じて、悟りに到達したという風に考えるといいと思います。 
 気付きの対象になるものっていうのを、ブッダは4つの範疇に、グループに分けました。 
で、これは、「四念処」という言葉で表現されています。4つの念処という意味なんですけれども、実際につかまえられる、注意を振り向けられる対象は、「身・受・心・法」というですね4つの言葉で表現されます。

ナ:念処で注意を振り向ける対象を、ブッダは大きく4つに分けました。 
 聞こえてきた音、それを捉える耳など、体の感覚器官に注意を振り向けます。これを身念処と言います。その音が鳥のさえずりなら心地よく、雑音なら不快だと感じます。どちらでもないということもあるでしょう。 
 外からの刺激を受けて、最初に生じるこの感覚、それを観察するのが受念処です。そこから、心には喜怒哀楽、様々な感情が生まれますこの感情にも気づき把握することを心念処と言います。
 瞑想をしていると、誰もがそわそわしたり、眠気や疑念などに苛まれます。この心の働きも観察します、法念処です。
 聞こえてきた音や体だけでなく、それを受け取る心や生じた感情、 あらゆるものに注意を振り向けるのがブッダの瞑想です。

中:では、実際に私達も体験してみたいんですが、先生。

蓑:はい、それでは1番基本になります、呼吸の観察をしてみたいと思います。
 まず目をつぶりまして、顔のあたり、鼻のところにですね、気持ちを持っていきまして、 入る息、出る息をそのままに観察してみてください。私も少しやってみます、それではお願いいたします。

為:座る形はなんでもいいですか。

蓑:座る形は、あの姿勢を整えて、背骨の上に頭がしっかり乗っていて、1番楽な姿勢で結構です、ではお願いいたします。

為:これは、あの激しく鼻で息を出したりしないと感じ取りにくいですね。あと周りの声とかなんか聞いちゃいますね。

蓑:実際の呼吸の観察の時には、まずは呼吸の入ってくる息、出ていく息を、きちんと把握していく、つかまえていくことが、大切です。でも実際にですね。私達の心は様々なことを考えたりとか 、いろんな感覚期間が動いていますので、、他のものも受け止めてしまいます。ですので、観察のやり方の時に、
ほんと最初は1つのものに注意を振り向けて、しっかりと把握することですから、静かな環境で、呼吸を観察していくっていうのが1番望ましいです。
 しかし 、私達の感覚期間を通じてつかまえているものですね。それもあの気付いていくということもできますので。
 少し観察の仕方を変えてみたいと思います。今度は呼吸以外に 、椅子に触れているお尻の感覚がわかると思いますので、触れている感覚も気づきの対象にしてください。 それから、もし音が聞こえてきましたら、その音もつかまえる対象として気づいてみてください。
では、お願いいたします。

為:これは忙しいですね。

中:自分がいろんなことに気づかなきゃいけないっていう風に思わないとそのまま呼吸だけになってしまいそうな。

為:今、鳥が鳴いてますね。鳥が鳴いていながら、ちょっとなんか、背中が 同じ姿勢で疲れてきたなっていうのと。こだわって、1個のことつかまえてたら、他のが起きてることが分かんなくなる感じですかね。

蓑:最初は1つのものに気づき続けるというのも結構大変なことです。 
 最初に呼吸を観察してくださいと申し上げましたけれども、私達の心というのは常に動き回っているというような言い方もありまして、これは仏典の中に出てくる例なんですけれども、私達の心は猿に例られることがあります。あの動物園にいる猿をご覧になったことありますか? 1年中あの動いてると思うんですよ。とにかく手当たり次第に物を掴んでは、口に持ってったりとかします。 
 ところが猿というのは大変に面白い性質がありまして、紐を使って首のところからですね
エンロープでですね、こう縛ってどっか杭とかにですね縛りつけてしまいますと、最初は逃げようとして暴れるんですけれども、 しばらくすると、紐に繋がれているっていうのをしっかりと認識するみたいで、じっとしてしまうんです。仏典の中に使われている心の例というのは猿でありまして。同じように何か1つのものに結びつけていると、最初は大変だけれども、 いつの間にか落ち着いてきて、1つのものに集中することができるようになると説かれてるんです。
 まずこの練習がブッダの悟りに至る最初の段階として設定されています。で、その後に1つのものにきちんと集中するってことができるようになってから、観察の対象を複数のものにしていく。 先ほど、お尻の触れてる感覚とか聞こえてくる音とか、あるいは体が感じる痛みなんかもそうですけれども、そういうものも全て気付くというやり方に変えていきます。
 お釈迦様が悟りを開かれた時の観察の仕方というのはおそらく後者の方であった可能性が あると思います。

ナ:ブッダの瞑想「念処」、その2つの方法です。ろうそくの炎にだけ集中して見つめます。1つのものに集中して観察する方法、これを「止」と言います。
 今度は炎だけでなく、その周囲にも注意を振り向けます。すると、ろうそくの燃える匂いや空気の流れ、暖かさなど様々なことに気づくでしょう。 このように、複数のものに気づく瞑想を「観」と言います
 
中:その 2つ、その気付きも、この1つに集中するものから、同時に色々なことに気付いていくというこの2種類。

蓑:そうですね。それで、その1つのものを対象にして気付き続けているというのは、後の時代に、「サマタ」、「止」という名前で呼ばれるようになりました。

為:「止」というのは止まるという字を書きます。心の働きが静まるっていく、止まっていくというような意味から「止」と命名されたと考られます。
 ただ、この「止」という命名の仕方、それと対になっている、様々なものを気付いていくやり方は、「観」、「ヴィパッサナー」という名前で呼ばれるようになります。 
 ところがこの「止」と「観」という言い方は、お釈迦さんの時代にはどうも使われてなかったようでありまして、お弟子さん達の時代になってから使われるようになった用語と考えられています。
 ブッダ以前に行われていた瞑想というのは、おそらく伝記の中に登場します2人の仙人、どうもその仙人の人達から教わった境地というのは、1つのものに集中して心の働きが起きなくなっていく過程を経験していたようでありますので、おそらくお釈迦様以前の瞑想のスタイルというのは、心の働きを静めていくというところが中心だったのではないかと思います。 
 それと比べていきますと、ブッダの瞑想の特徴はいわゆる「観」、「ヴィパッサナー」のところにあるのではないかと考られます。
 
中:この「止」だけでは悟りに至れないっていうことに気づいたから、「観」に向かっていったっていう。

蓑:そうですね、これは伝記の中の記述なんですけれども、「止」を行うことによって、 そのやっている最中は他の働きが起きないわけですから、悩みや苦しみも生じてきていないと 、しかし、「止」の状態から日常の状態に戻ったら、その時にはやはり前と同じように悩みや苦しみが生じたと。
 ですから、「このやり方は真実の悟りに至る道ではないのではないか」というふうに考えられてオリジナルと推定される「ヴィパッサナー」、「観」の瞑想の方に入っていったのではないかと思われます。 
 ですから、「観」の練習をすることによって色々なものに気づき、しっかりと受け止めていく、把握するってことをしつつ、それを手放していくということで悩みや苦しみから逃れられていくんだろうなと。

中:為末さんの競技中とかですね、アスリートにとって集中するってすごく大事だと思うんですけど、何か共通点ってありますか。

為:そうですね、動きを僕らは「粒度を細かくする」と言うんですけど、足を動かして走るってところから足を上げて、地面を踏むってところになって、あの母子球って言うんですど、親指の付け根で踏んで、しっかり乗っかって、その重さを腰に受けるとか、だんだんだんだん感覚を細かくして、注意するところに向けて、変えていくんですけど、ちょっと今伺いながらそういうのにすごい似てるなと。

蓑:あの、感覚をとにかく細かくしていくっていうことをしていますと、 あの動作はすごくゆっくりになってくるんですけど、それは大丈夫なんですか?

為:そうなんです。ですから、速く走る競技なので、みんな速くだんだんなっていくんですけど、もうとにかく前半のコーチングが ゆっくり動ける、ゆっくりやるっていうことを覚させるってことです。ゆっくりやって、意識ができて、その上で速くするのは速くなれるんだけど、ただ速くすると体が感じないまま速くしちゃってるのでどっかで伸び止まってしまうんです。

中:再現性がなくなるってことですか。

為:そうです、だから、ゆっくりして分かってる。この感じが分かってるってのは、かかった上の 速くしていくと、上手くいくんですけど、ただ速くするとポイントとかがわからないので、こういう何か、何て言うんでしょうね。 だから、ゆっくりさせる方が難しいですね。

中:自分でその動きをしっかり認識しておくっていうことが大事。

為:はい、大体そういう時にコーチが「今どんな感じがする?」、「どんな風な感覚がある?」とか、そういうことを言って自分の中の体であの地面からの反力なんですけど、それを感じ取ってるかどうかとかをすごく言いますね。

蓑:まさしくやってることは、「サティパッターナ(念処)」のような感じがいたします。

ナ:為末さんが瞑想に興味を持ったのは「ゾーン」と呼ばれる経験がきっかけでした。競技の最中、 極度の集中状態に入るとそれまでの自分を超える驚くべき結果を出せたのです。
 言葉にできないあの不思議な体験はなんだったのか、引退後もその答えを探求する中で瞑想中における心身の変化とゾーンには通じるものがあるのではないかと考えるようになりました。

為:今日私が1番伺いたかったっていうのは、そのゾーンっていうものが科学的な証明がとっても難しいんですね。要するに脳波を取ったりとかで多少できるかもしれないですけど、我々走っちゃってるんで外れちゃうわけですね。もしかしたらブッダの体験知を言語化することの悩みって、ちょっと近いんじゃないかって思ってたんですね。
 ゾーンに関して言うと、どんな体験になるかっていうと、よく言うのが、私もそうですけど周辺の音が小さくなって、自分の体だけが動いてる感じになるっていう。具体的にはスタンドの声が小さくなり、 周りの選手があんまり見えなくなり、自分の体がひたすらに動いてる感じがして、動かしてる感じがなくなって、動いてる感じを自分が追っかけてるみたいな感じですね。まあそういうのってなんていうかな。 集中して、考え事してたら、気が付いたら目的地取りすぎてたってことあるじゃないですか。あれのもうちょっと集中版なんですけど、だから、 体が先に動いてるって感じです。で、それを自分が後から追っかけてる感じなんですね。

中:それって、そのすごいトレーニングを積んだ暁にこう入るものなんですか。

為:1番大事なことは、私はハードルですけど、ハードルを跳ぶっていうことを忘れられても跳べるかどうかです。ハードルを跳ぶぞって思ってたら、ハードルに意識が行くんで、集中できないんですけど、ハードルを跳ぶぞなんて考なくても、体が勝手に動いちゃえるようになった時に初めて自分の頭がそれを手放せるので集中に入れるっていうか。だから、まず、体がそれを何も考えなくてもできるようなところまでは覚えてないといけないですね。
 これはまさにどうなんでしょうね、

蓑:いや、とっても近いと思いますね。
 サマタ、「止」の行法の中でどういうことが起きてくるのかっていうのを、体験された方の話ですけれども、1つのものに集中していると、それだけがあのきちんとつかまえられるようになってきます。で、実際には音の感覚とかですね他のものが遮断されていくようになります。 
 ですので、1つのものに一定集中というように言うことできますので、そうしてくると、他の感覚機能もですね、機能を停止していくっていうような状況が生じてきます。これは、脳科学の世界でもそのようなことをちょっと言われておりまして、「止」の行法をしている行者さんを、その場合には横になって呼吸に集中していくっていうな感じで計測されたようですけれども、 ちゃんと機械の中に入れますので計測できたようだと。そうすると、いわゆる他の感覚機能がですね、ずっとあの全体的に低下していっちゃうんだそうです。で、あの1つのことだけはどうも動いてるという感じですので、まさに今おっしゃられた、音が聞こえなくなってくるような感覚とかですね。 集中が進んでいって、生じてきている状態っていう風に言うことができると思いますね。

中:「止」と「観」で言うと「止」

蓑:「止」ですね、そういう意味では。

為:観客がすごく多かったりする時に、選手の勝負強さっていうのは、やっぱりオリンピックみたいな舞台だとすごく出るんですね。 練習会場で集中することはできるんだけど、周りの歓声とかやっぱとっても多いんである意味、気を引かれるのが多い中で、どうやって自分がそのままの自分で言うかってのはすごい難しくて、だから、その辺りは「観」とかわからないんですけど、近いのかなと思って今伺ってましたけど。

蓑:多分「観」に近いような気がしますね。「観」の練習をしていてですね、いろんなものに気づけるようになってくるので、ただ気づいた後どうするかなんですけど、それを手放していくのがやっぱり大事だっていう風に言うんです。 
 で、そのような状況になってくると、少しずつ悩み、苦しみから離れていけるっていう風にあのとらえられていますので、まさにその観客の歓声とかですね聞いていても、それをきちんと流していけるように心が変わっていけば、本領が発揮できるっていうことなんじゃないかなという風に私は今伺いました。

為:じゃあ捨てられないっていうのは、例えば歓声で「為末頑張れよ」って言われてるのが聞こえてきて、「ああ聞こえたな」 ってことは、今日結果が出ないときっとあの人がっかりするだろうな、わ~って加速していくようなことが、 捨てられてないような状況って感じですかね。それをなんか「聞こえたぞ」で、ピッと止めてそのまますっと流れていけば、、、

蓑:そんな感じでいいんじゃないかなと思いますね。

中:もう頂点になればなるほど重しがかかってきて、そういった中で本領を発揮するって、 ものすごくこう心をコントロールしないといけないんですよね。

為:いや、心ですね最後はもう。体で競争していくんですけども、決勝とかになるともう心ですね。心っていうか、 だから、みんな最後のトレーニングは難しいんですね。最初のトレーニングは全部メソッドがあって、頑張ればなんとかなるんですけど、最後の練習の仕方がみんななかなかわからないんです。なんかこう、どうしてあの時にあんなことしてしまったんだろうか、全部心の問題なので。
 今思い出しながら伺ってて、、もうちょっと早く聞いてたらよかったなっていう。
中:このように気づき続けると、心には何が起こるんでしょうか。

蓑:心の中に起きてくる、気づきみたいなものがあるんだと思うんですけども、最初、呼吸の観察をしましょうというので、やっていただきましたけれども、 それがですね。何か気づかれている対象として風のような動きがこうあって、それに対して心が何か、あの風が流れている、動いているというふうに、気づかれるような瞬間が出てきます。これは物を見ている場合でも同じです。
 例えば、私達日常生活の中で物を見ている時に、どういうことが起きているのかというと、実は目という視覚器官を通じて、心の中、現在では脳と言った方がいいかもしれませんけれども、 脳の中につかまえられる対象としてのイメージがまず描かれます。
 その次にその描かれたイメージに対して、「これは何々だ」というようなですね判断が働いてきます。最初の1つのものだと思っていたものが、2つのものに分離されるという段階がやがて訪れてきます。 で、この時につかまえられている方が、「色」、色という字を書くんですけど、「色」という風に表現され、つかまえている心の働きの方が「名」、名前の名と書くんですけど、「名」と呼ばれます。1つと思われてたものが、「名」と「色」の2つに分離されるということが起きてきます。 
 物体の中では、そのような気づきをですね。1番最初の知恵だという風に、記述してるものがありまして、「名識の分離智」という風に名前を付けて呼んでいます。ですので、観察を、心身の観察をしているとですね、やがてそのような状態が経験されるというふうに言っていいと思います。

ナ:例えば何かを見た時、脳には見ている対象のイメージが浮かびます。 すると、そのイメージを見る、自分の意識があるとわかります。つまり、 リンゴがあるという認識は、リゴ「色」とそれを観察する心の働き、「名」に分けられることをブッタは発見したのです。

為:もう1つの自分がいるわけですね。

蓑:もし気づいてるって働きが確かにあるはずなんですね。でも、まず日常生活の中では、私達は認識をしてる時にですね、当たり前のようにものを見たらただもうやっと1つのものだと思って判断とかが起きてますので、その心の中にまず何かが描かれて、それに対して心が別の働きを起こしてそれを認識してるんだっていうですね、そのことに普通は気がつけないと思うんです。 
 ところが体や心の観察をしていると、そういうことにも気づけるようになってくると、そうしますと私達の心の中に生じてくる感情だとかですね、様々なものにもきちんと気づけるようになってきます、これがとても大切な部分なんだと思います。

中:四念処を知ることがこの苦しみから逃れることにつながるということなんですけども、 その苦しみってのはそもそもどうして起こるんでしょうか。

蓑:私達が感じる苦しみというのは、基本的には私達の心が作り出しているという視点になると思います。

ナ:なぜ苦しみが生まれるのか、心身の観察を通じてブッダはその正体に気づきました。

『およそ苦しみが生ずるのは、全て識別作用に縁って起こるのである。識別作用が消滅するならば、もはや苦しみが生起するということは有りえない。』

中:これはどういうことを言っているのでしょうか。
蓑:私達は世界を感覚器官を通じて受け止めていますので、感覚期間を通じて世界を受け止めて、 心の中につかまえられる対象としての何かを描いて、 それに対して瞬時に、これは何々だという判断を起こしています。これは、協定の中に言われる識別作用という風に位置づけることができます。 で、その識別作用が生じると私達の心は次から次へと別の働きを起こしていきます。 
 例えば何かものを見た時、最初例えば、リンゴを見た時にリンゴのイメージが心の中に描かれます。 で、そうするとそれに対して、これはリンゴだっていうですね、識別作用が働きます。それが生じるとその次の瞬間に、「美味しそうだな、食べたいな」とでも食べたら太っちゃうかな、そういう風に次から次へと色々な働きが生じてきます。
で、これを仏典の中では最初の段階の受け止めは、「第一の矢」という風に表現します。
 これは弓に矢をつがえて撃つような感じをイメージしてるんだと思うんですけども。 まず最初に感覚機関が受け止めたものは、「第一の矢」を受け止めたと。それがきっかけになって、「第二の矢」を私達の心は起こしていくんだと。、そんなふうに分析してるんです。
 分かりやすい例としてはですね、道を歩いていて向こうから来る人と肩と肩がぶつかったっていう例が1番いいんじゃないかと思ってるんです。 肩がぶつかった時に、まず感じ取るものは、実は、身体がぶつかったわけですから、接触感覚、時にはそれが痛いという風につかまえられますので、痛いっていう風な感覚はこれ「第一の矢」なんですよ。でも、それがきっかけになって、 「第二の矢」として起きてくるものは、相手に対してあなた一体どこ見て歩いてるのよっていうような感じで、怒りの気持ちが生じてくるとか、これが「第二の矢」です。
 本来私達の身体が受け止めたものは痛みだけですので、それに対して痛いということをちゃんと気づけばそこで止まるはずなんです。 ところが、日常生活の前には、痛いというようなところから、すぐ次の反応が起きてしまって、 怒りの気持ちが生じたりとか、相手に対する非難が生じたりとか、色々なところにこう展開していってしまいます。このように、私達の心って次から次へと広がってっちゃうんです。このような働きを仏教では「戯論」という名前で呼び、現代風に言うと、「心の持っている拡張機能」という風に名付けていいのではないかと思います。
 
ナ:飛んできた矢、これが体に当たると、本来受け取るのは矢が触れたという体の感覚だけです。しかし、その認識がきっかけとなり第二の矢が放たれます。すると、心はどんどん動いて、怒りや悲しみが生まれます。「誰だ、ふざけるな!」、このように、心が拡張することが「戯論」です。この「戯論」が苦しみを生む原因なのです。

為:じゃあ、ブッダが言った苦しみの正体っていうのは、この第一の矢から第二、第三までが一塊で、これは崩せない一つの矢なんだって思い込んでる、つまり、こんな出来事があったら、 怒りでも辛さでも悲しみでも、それに支配されるところまでがワンセットだって思ってるのをよく見てみると、これは分割できて気が付くことで第二、第三はストップできる。どうも苦しみの元はこの第一っていうよりも、第二、第三のあたりに潜んでるっていうのがブッダの、、、

蓑:そうですね、そういう風にいいと思います。

中:スポーツの現場ではどんなふうにして抑えるようにされてたんですか。

為:しょうがないねって感じですかね。最後、僕はそうですよ、なんかなんていうのかな、まあこれで試合で負けて、いや最初のうちはやっぱりこんな弱気になっちゃいけないっていう湧き上がるのに対して選手っていうのは強気で、いつも勇気満々でなんとかしなきゃいけない、で、そうじゃない感情が湧き上がってきたら、こんなこと思ってちゃダメだ、絶対うまくいかないってやってたのを、最後の方は、でもしょうがないよね、今はこう思ってるんだからっていう風に思ったっていう感じですかね。

中:ありのままを受け入れるみたいな

為:なんかこうかっこよくてそうなんですけど、これ経験的に浮かんできた感情に対して、そんなのじゃダメだって言えば言うほど注目がいって、これが消えなくなるんですね。なんかずっと葛藤が残っちゃうっていうか、怖いって来た時に、怖いよね、そりゃだって人生で何回しかないもんねっていう風にした方が、まだ抜けていく感じがあって、なんかしょうがないなってなんていうのか、そういう感じですかね。

蓑:なんか為末さん体験の知で、悟りの世界にもう入っているような気がいたします。
 でも確かにその通りで、私達の心に生じてくる様々な感情というのは抑えようとしても、抑えられないこと多いんだと思います。 で、起きてもいいから、それをちゃんとつかまえなさい、しっかりと注意を振り向けて気づきなさい、気づいて把握しなさい、で、何度も把握するようにしていると、やがてそこから抜けられるっていうのが、これが大事な点なんです。

為:難しい、でも優しい気持ちになりますね。もうそういう気持ちが起こってもいいって言われると、起こっちゃダメって言われると、そんなところまで達成できるかなって気がするけど、まあ人間だからそういうのは起きるけど、それを気づくんだっていうことなんですかね。

蓑:(感情が)起きてもいいから、中立的な気持ちでちゃんとそれを眺めなさないんですね。

蓑:私達の脳の容量というんでしょうか、いろんなものを考えたりとかですね、していくときの容量と言いますか、それは意外に多くはないと。 いろんなものをですね、同時にやっていくっていうのもですね、やっぱり限界があるようなんです。
 ですから、様々なものを気づき続けていくっていうことをしていると、やっぱり脳の様々な情報処理の限界に近づいていってしまうと。そういう体験をしていると、いわゆる次から次へと起こる戯れ論の働きが起きにくくなってくるのではないかと考られます。
 どうして私達がその悩みや苦しみから抜け出られるのか、マインドフルネスを専門にしてる先生方の言い回しなんですけど、心の中に回路ができる。つまり、反応のパターンが新しく作られると。つまり、今の一瞬一瞬をきちんと受け止めるっていうことを練習としてやっていると、それが習い性になって日常生活の中でも生かされるようになってくると。何かあって第一の矢を受けても、その第一の矢を受け止めるだけで、第二の矢を起こさないようにですね、心の中に回路ができてくるんだと。で、こういうやり方をしています。

為:トレーニング可能だということですね。

蓑:そうですねはい。瞑想もですね、色々と指導してもらっていたバングラデシュのお坊さんがいるんですけど、その方と一緒に調査旅行で韓国に行ったことがあるんです。 
 その時にですね、空港で大きなカートを荷物を乗せて歩いてたんですけども、急いでる人がいまして、その人がカートをお坊さんの足にぶつけてしまったんです。で、足の親指の爪が剥がれるというかなり大きなある意味で事故だと思うんですけど、それが起きた時にそのお坊さんがどういう反応したかっていうとですね。とにかく、あの痛いということに気づくようにして、 最初はちょっとわおっていう感じで声を上げましたけれども、もう冷静にですね、痛みだけのちゃんと気づいて、それでそのぶつかってきた人に対しても、こういう状況ですので、ちょっと一緒にあのこの中の病院まで一緒に来てくださいと ていうような感じで対応をしてました。
 それを見た時に、ああ、やっぱりきちんと修行していると、かなり大きなことでも、やっぱり実際に起きて受け止めている最初の段階できちんと受け止めて、 第二第三の矢を起こさないように、心が整ってきてるんだなっていうのを実感したことがあります。

為:気づくだけでいいっていうと、なんか気づいて解決ついしなきゃいけないみたいな気分なんですよ。ただ気づきさすれば、苦しみが消えるんだっていうところは?

蓑:きちんと注意を振り向けてしっかりと把握するっていうのはまず大事なんですけども、把握した後、それを手放していくっていうのも大事な点なんです。それにこう執着してしまうっていうのが起きてくると、これはまた問題になりますので、気づいたらまあまりそういうこともありねっていう感じで手放していけるようになればいいんです。 
 私達の心は様々な働きを起こす力を持ってるんだと思いますので、色々な感情を起こすんだと思うんです。それは起きても、まあ仕方がないという部分も多分あると思いますので、 起きてもそれに支配されないっていうのが大事なんだと思うんです。
 
中:例えば、その怒りや苦しみや不安は手放していいと思うんですけど、喜びですとか、もうちょっとどうしようかなって思った時、この第二の矢をこう喜ばしくはじけさせるみたいな、そういうこともありなんでしょうか。

為:第一の矢でね、受けた時に誕生日ケーキよと言われて、ちょっと待ってって、なんかちょっとあんまりね、あげたくなくなっちゃう。それはやっぱり素直にねと思いますけど、そこをどうするかというと。

蓑:極端にならないっていうことが、やっぱり大事な点として主張されていまして、仏教では「中道」とかですね言い方されるんですけども、真ん中あたりっていうんでしょうか、両極端に偏らないと、 次から次へともっともっととかですね、喜びをずっと持続せよというような感じで考えるのは、これはまた執着にきます。で、そこは避けていきましょう、という感じですね。

中:喜びすぎもよくないと。

蓑:よくないと、はい。

為:確かにあまり貪っちゃいけないと。

蓑:よくないですね。喜びをもっとっていう風に考えるのは、やはりあの、

為:まあそれもそれでコントロールされてるということなんですね。

蓑:そうですね、、はい、

為:じゃあ瞑想で気づきを得て、「止」と「観」を手に入れていくと、第一の矢が来た時に、とにかくそこでふっと気が付いて、第二の矢が来て怒りとかがあったとすると、それはすっと流していって、でも喜びだったとすると、そのまま素直にみたいな流していだけど、あんまりこれ流してったら、それにあれしちゃうんで、おっと、これはちょっと数が多いぞっていうのはまた流していきっていう、なんかこう1回チェックポイントっていうか、1回ちょっと間を置いて、その後に自分がどうするかを判断するみたいな、そんな機能を手に入れるために瞑想で、なんか鍛えてくみたい、そんな感じなんですね。

中:為末さんやっぱりこうアスリートとしては、もっと早くもっとこのタイムを短くっていう世界でずっとやってこられましたよね、もっともっとの世界じゃなかったですか。

為:いや、もっともっとの世界でしたし、ただ目標はね、どんどん上なんですけど、ただ今伺って思ったのはそのだんだんトレーニングが、質が高められるんですね。体、技術も高くなって。そうすると、 こっから先を超えると怪我をする確率がすごい高くなって、こっちの手前だと練習不足なんです。で、ここのギリギリをどう行くかってのが最後の方はとっても悩ましくて、 10本行くと壊れたことが多いな、怪我したのとか、でも5本じゃ練習不足だな、何本は適切なんだろうっていうのをずっと見極めるんですけど、そういう時に横でライバルが走ってるからってむきになって、走って怪我したことがたくさんあったりとか。あとは不安になって、怪我の治りかけの時に練習しちゃって、またやっちゃうってことがよくあって。
 今日でもお話聞いて、やっぱりなんか一旦待って、なんていうのかな自分の感じてることとかをよく見ながら、その瞬間のその時の欲望っていうか、焦りとか、不安で動かないっていう、なんかそういうお話、そういう点ではとっても大事なとこですね、もっともっとストップするっていうのは。

蓑:そのもっともっとをストップするという意味では、本当に苦しみだけではなくて、その楽しみの方面も、実は問題を持っているっていうのをちゃんと見つめていますので、そういう意味では、両方共にあの離れていくっていうのが1番の理想として、本来は捉られていたんだと思います。

中:今日はブッダの悟りに到達した瞑想を見てきました。苦しみは自分の心から生まれてくるんだってことがわかりましたね、いかがでしたか。

為:いやもう心の中にあったことの解説書みたいな気分でした。説明書があってこういう風に説明、なんとなくちょっと思ったり、やったりしたことが競技の経験からあったんですけど、そういう説明書をもらって、こういう風になってますよっていう順番とか、整理をしてもらった気がして、それがすごくとってもなんていうのかな論理的な科学のなんか、イメージは強かったんですけど、そういう人だったのかなっていう風に今日思いました。

中:先生は、この今の世の中にこそブッダの教えを広めたい、そんな思いでいらっしゃいますか、いかがでしょうか。

蓑:私達人間のことについて、非常に深く洞察をされた方がブッダであって、 で、そしてそれがあの私達の現代でも通用する悩み、苦しみを超える道であるというのをですね、やはり多くの人達に知ってもらて、ただ知ってもらうだけではなくて、実際に実践してもらって、悩み苦しみから解放されていくことを念願しています。

中:次回はブッダの行った心身の観察がその後弟子達にどのように伝えられ、広まっていったのかを見てまいります、どうぞお楽しみに。お二方どうもありがとうございました。

 

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