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NHK「こころの時代〜宗教・人生〜」の文字起こしです

2022/9/18 歎異抄にであう シリーズ 無宗教からの扉(6) 「慈悲の実践」

阿満利麿:宗教学者 明治学院大学名誉教授
ききて(ディレクター):鎌倉英也、池座雅之 

ナレーター(以下「ナ」という):「歎異抄」は700年以上前に書かれた仏教の古典です。そこに流れているのは、阿弥陀仏がかつて全ての人を救おうと立てた願い「本願」に基づき阿弥陀仏の名を称えるだけで皆が浄土に導かれるとした「本願念仏」の思想。法然によって説かれたその思想は親鸞らによって受け継がれました。「歎異抄」はその親鸞の言葉を門弟となった唯円という人物が正しく伝えようと書き残した書物です。
 鎌倉時代、疫病や戦乱、飢饉に苦しむ人々の間で燎原の火のごとく広がった本願念仏の教えは、1207年、時の権力者による激しい弾圧を受けました。京都鴨川で法然門下の僧侶が斬首により死刑。法然親鸞もまた僧籍を剥奪され流罪の身となります。この出来事は法然親鸞らが説く「慈悲」の教えに深い関係がありました。
 あらゆる人を差別なく救おうとする「慈悲」の根底にあったのは、絶対平等の思想
宗教学者の阿満利麿さんはそう考えています。

阿満(以下「阿」という):本願念仏がもたらした平等観というものが段々広まっていきますとね、面白くない人が出てくるんですよ、それは権力者です。
 権力者というのはいつの時代でも現存の組織や体制を差別によって維持している。

ナ:「歎異抄にであう 無宗教からの扉」第6回、シリーズ最終回となる今日は、仏教が目指す究極の実践「慈悲」に焦点を当てます。

阿:今日は「慈悲の実践」ということですけれども、仏教というのは一言で言えば、慈悲の宗教ですね。
 なぜ慈悲というのをそれほど強調するのかというと自歩ということが強調される背景に我々の在り方が検討されていると、そこは大事なポイントではないかと思うんですね。そういう「慈悲」を「歎異抄」は、どういうふうに説明しているのかということを今日は見ていきたいと思っております。
 普通に日常語で「慈悲」というと「思いやり」とか「いつくしみ」とかそういう意味合いで使われているんだと思いますね。その「思いやり」というのは私が見るところそれは「私が中心」なんです。どこまでも私が中心で、で、私が困ってる人にこう手を差し向けると。で、私の意識がいつもあってですね、で、もっと言えば、私の都合が悪くなると手を差し伸べることができないと。私の都合でこう左右されるという、そういう面が思いやりの中にあると思うんですね。で、それに比べて「慈悲」というのは、苦しんでいる人の立場に身を置けと。つまり、自分の立場ではなくて相手の人の立場に立ちなさいと。
 しかし、それは難しいことなんですよね。段々年取ってまいりますとね、あちこち具合が悪くなって、他人様のお世話になるということになって初めて人間というのは一人で生きられないもんなんだなという実感をするようになってきているんです。
 しかし、若い時はですね、人生というのは自分の力で切り開くもんだと。また、自己実現なんて言葉がありましてね、なんか自分一人の力で生ききれるように思い込んでいたということを最近よく感じるんですけれども。なぜそういう思い込みが生じたのか振り返ってみると、私の中にやっぱり大きくて強い自我がこう頑張っていたんですね。
 で、自我はいつでも自分のことしか考えてないんですよね。ですから、物事はうまくいかなくなると大体あの、あれはあの人のせいだとこう思うんですね。また、環境が悪い、条件が整わないからうまくいかないんだというふうに思い込んでですね、自分の手に負えないことが起こるとまあそれはなんか、ないことにしておこうというふうなことにもなりがちなんです。
 しかし、やはり私達は本当に独立不変の存在なのかと、こう考えてみると様々な因果が交錯している巨大な網の中の1つの結び目にしかすぎないんだなということも段々とまあ分かってくる。
 つまり、人間を関係の中で見るというそれは実は仏教の基本的なスタンスなんですね。私を含む網全体が救われないことには私の苦しみは解決しないと。つまり一人だけの空くいというのはありえないと。そういうことを仏教は教えるんだと思いますね。ですからこそ、仏教が「慈悲の実践」ということをこの目的とすると。
 実は仏教は、そういうことを仏教が言うということは、苦しみの根本というものを見定める智慧が不可欠だということを前提にしてるんですね。相手の立場に立てるということは相手がどういう条件が重なって今の苦しみが生じているのかが分かる、そういう智慧があると。その苦しみの根本を見定める智慧というものを前提にして、慈悲というものが成立してると。その智慧を手にするということは仏教の大きな、この課題になるわけですね。
 ですからその、思いやりと一番違う点はそういう智慧を前提にして慈悲というのが成立していると、そこが大きなポイントだと思いますね。
 で、具体的にじゃあ、その「歎異抄」の中ではその智慧ということについてどういうふうな説明をしているかということになるんですが、現実にですね、思うように人々を助け遂げるということはできないという苦しみを前提にして、実は「歎異抄」の第四条というものは生まれている。

ナ:「慈悲」をどう考えるか、「歎異抄」第四条では、修行により自力で悟りに至る「聖道門」という道と、阿弥陀仏の他力に頼る「浄土門」の道を比べてこう説かれます。

『慈悲に関して言うならば、従来の仏教の教えから浄土門の教えに移らざるを得ない節目の自覚というものがあります。従来の仏教が教える慈悲、聖道の慈悲とは、人に同情し、人をいとおしみ、人を慈しむことであります。しかし、思いどおりに人を助け遂げることはきわめて困難なことです。それに比べると浄土の慈悲とは念仏して速やかに仏になり、仏の慈悲心をもって思いどおりに人々を助けることを言うのです。
 この世にどんなにいとおしい、かわいそうだと思っても思いどおりに助け通すことが難しいのでそうした慈悲は一貫しないのです。そういう思いに至ると、念仏することだけが一貫した慈悲心となるのです』

阿:第四条の中で一番大切なことはこの原文で言いますと、「かはりめ」という言葉なんですね。「慈悲に『聖道』『浄土』のかはりめあり」、とこういうふうに書いてあります。両方とも悟りを目指すという点では共通してるわけです。
 例えで言うならば海の中で暖流と寒流があるというふうなですね、こうず~っと暖流をこう横切ってきてあるところから寒流に変わると。しかし、全体は海であるということには変わりがないわけですね。で、同じように慈悲もですね、慈悲を実践しているとあるところからこの聖道の慈悲の限界があって、気が付くと浄土の慈悲にこう強い共感を覚えてるというそういう移り変わりなんですね。
 ですから、私達の日常的な暮らしの中で人に対する思いやりとか同情というのは長続きしないんですよ。もうこれは、もうどうしようもないことですね。そしてひどくなると燃え尽き現象まで生じてしまって。しかしね、我々は不思議なことにこの同情が挫折したり、あるいは燃えついたりしても、どこかでですねなんか諦めきれない、その人に対する思いやりの気持ちは依然としてどこかでこう残っていると。で、その挫折をして自分の中でなんとかしたいという気持ち、それをここでは「かはりめ」と言ってるんですね。
 しかし、浄土の慈悲というのは、死んでからお浄土に行くというそこで手にする慈悲のことでしょう、これがね中々壁なんですよ。生きている間の話にどうつながるんですかと、ここがあの、やっぱり分かんないと浄土の慈悲を自分のものにしようという意欲はわいてこないですね。「歎異抄」では最後に、「念仏まうすのみぞすえとをりたる大慈悲心にてさふらふべきと」いうふうに念仏が一番末通った大慈悲心だというそういう説明はありますけれども。浄土の慈悲というのは具体的には、念仏をするということなんですよ。念仏の実践の中で感じるものなんですね。念仏の実践を踏まえていないとそれは単なるそのおとぎ話の延長でしかない。

鎌倉(以下「鎌」という):実際にその無宗教的な人間の立場からしますと、念仏を称えることで自分があの世に行って、早くその浄土に生まれることによって救われるんだという発想になりますと現実で今私共が見ている苦しみや助けが必要な世の中でですね、実際それ手を下さなくていいのかと、実際その結び目として助け合わなくていいのかっていう発想っていうのがどうしてもこう疑問として生まれてくると思うんですがそれについてはいかがですか。

阿:それはね、あの実はこの第四条を読んでですね誤解する人は少なくなかったんですね。浄土の慈悲というのは具体的には念仏することだと、そうすると念仏だけしていればいいんじゃないですか、現実がどうであってもね、それは悲しいことだけどまあ目をつぶっていきましょうと。で、それがもっと進むとね、現実に対するはたらきかけなんか要らないんだと、そういう誤解にまでなるわけですね。
 で、私が若い時1960年代のベトナム戦争の時にお坊さん達もですね、ベトナムに平和をというデモなんかに繰り出してですね、いろいろ活動されました。で、それを見ていたある高名な仏教学者がですね、あの連中は何してるんだと、念仏以外なんの不足があってああいう行為をするんだというふうなことをおっしゃったんですね。私はもう愕然としましたよ。この第四条を念仏することしかないんだというふうに限定してしまわれて、その念仏が阿弥陀仏のはたらきでその人間を称名する人間を更に突き動かす力があるんだというふうなところまで見ておられないというところがとても私は不満だったんですね。
 つまり不作為。その仏教者が何もしなくてもいいという不作為の言い訳としてですね、この第四条が使われるということがしばしばあったんですね。ひょっとしたら今もあるかもしれませんよ。
 ですから、私はもうこの第四条を理解する時には念仏とは何かということがちゃんと分かっていることが大前提だと思うんですね。それは阿弥陀仏という仏はですね、南無阿弥陀仏という名前になってる。で、その名号を口で称えると阿弥陀仏は私の中ではたらくと。ですから称名をするという行為自身の中から阿弥陀の慈悲が少しあふれ出ることもあると、それが生きている私達に浄土の慈悲が持つ意味なんですね。

池座(以下「池」という):その阿弥陀仏によって与えられた念仏を称える時にそれは人を行動へも突き動かす力になるという、具体的にそういうことでしょうか。

阿:そうです。一人一人が念仏をするというその念仏をするという行為の中でその人に現れてくる、その人に個有のこの慈悲の現れ方、それが浄土に慈悲というものだと思いますね。 で、「歎異抄」のですね第十四条にはこういう阿弥陀の慈悲が私からあふれ出てくることがあるということを述べている箇所がありますね。

『私達は阿弥陀仏誓願の力によって阿弥陀仏の名を一度称えようと思い立ったその時に、あたかもダイアモンドのような堅固な信心を得ることができるのであり、その信心を手にすると阿弥陀仏は必ず悟りに至ることができるという位に迎え取ってくださって、私達は死ぬとただちにもろもろの煩悩や仏道の妨げになることが転じて悟りの境涯に入ることができるからなのです』
阿:念仏をするようになると阿弥陀仏の金剛の信心、ダイヤモンドのように固い信心が私の中にこう伝えられてくると、この場合の信心というのは信心(まことのこころ)という意味です。
 つまり、称名をすると我々の心の中にも少しずつ変化が生じてくるということを実は言外にこれ含まれているんですね。阿弥陀仏の心がですね、念仏を通して私の中に蓄積されてきて時にあふれ出ることがあるということについて、親鸞はですね少なくとも2つの智慧が我々凡夫の間にも生まれてくるというふうなことを述べています。
 1つはですね、その自分と他人とを平等に観るということができるようになると。いつも自分中心であったそういう度合いがですね、自分中心の度合いが少し弱くなって相手のことにその関心が相当動くようになる。
 2つ目はですね、人と人との違いということが分かってくると。それぞれ異なった宿業を背負って今あるというふうなことは少し分かるようになってくると。人と人は違うんだと、ということは、人を自分どおりに動かそうとかいうふうなことはありえないというふうなことに気が付くということなんでしょう。念仏を私が口にすると阿弥陀が私の中ではたらいて私を生きてる間にですね、私を少々慈悲に向かわせる力を生み出すと。
 ですから、念仏が私達を慈悲へ向けて後押しをするというふうに説明できるんですけど、念仏は単に浄土に行くための手段だというふうにしか考えてないと、それはあの念仏から何か慈悲心がそのあふれ出てくるという発想は起こらないですよ。
 で、このことは明治以降ですね、この「歎異抄」を再発見した清沢満之が「念仏というのは阿弥陀仏の慈悲を伝える導きの器である」、導器、「阿弥陀仏の慈悲を導いてくれる器である」というそういう表現をしてるんですよ。
 ですからね従来の説明は、阿弥陀仏があって、で、我々があって、実はその間は念仏という一点でその2つが結ばれてるという説明がなかったんですよね。ですから、念仏はせいぜい浄土に生まれるための死後助かるためのまあ呪文とまでは言いませんがそういう言葉しか受け止められてない。だから念仏というものが阿弥陀仏の言葉になってそして我々との接点を持ってるというその一点ですね。
 つまり、阿弥陀仏を私との間の連続性っていうかそれを保証しているのは念仏だと。だから念仏はその慈悲の実践とは無関係だというそういうことはありえない。そこはポイントだと思いますね。
 で、私はここで法然上人がなぜ「本願念仏」という教えを主張されなければならなかったのかということをもう一度思い起こしたいと思うんですね。
 法然という人は全ての人が例外なく仏になる方法を求めて本願念仏にとまあ至った方ですね。だから法然上人の心の中には例外なく一切の人が救われるという、つまり平等ですね。その本願念仏はそういう意味では我々に絶対の平等をもたらすんですね。そういうことを思い起こした上で慈悲ということを考える必要があると思うんですね。
 その表現の1つがですね、「親鸞は弟子一人ももたずさふらふ」というそういう表現ですよ。で、なぜ親鸞は弟子一人も持たないのかと、たくさんのお弟子がいるじゃないか。しかし、親鸞にとってはお弟子じゃないわけですね、「同朋」仲間なんですね。で、なぜかというと念仏というのは、阿弥陀が全ての人間に平等にその与えたものですね。
 ですからこの、あるその宗教的真理とか教えとかいうものを特別の人が独占していてですね、その教えや真理を知ってる人はたった1人であると。で、他の人は全部それに付き従えばいいんですと、そういう発想は仏教じゃないわけです。阿弥陀からもらった信心(まことのこころ)を念仏を通じて等しく全ての人が同じように手にできているというその平等さ、平等性ですね。
 で、しかしですね、こういう本願念仏がもたらした平等観というものが段々広まっていきますとね、面白くない人が出てくるんですよ、それは権力者です。権力者というのはいつの時代でも現存の組織や体制を差別によって維持しているわけですね。秩序とかいうものは差別があって初めて成立するので、そういう差別を前提にして権力というのは成り立ってるわけですね。そういう人にとっては、本願念仏が人に平等を教えるなんてことはけしからんことになるわけですよ。その挙句の果てが「歎異抄」の中に一番最後にですね、「流罪の記録」というものが付いておりますね。

ナ::「歎異抄」の末尾に付録として登場する「流罪の記録」。そこには、法然親鸞らが受けた弾圧の経緯が克明に記されています。

後鳥羽院の時代、法然上人の本願念仏宗が盛んであったが、ときに興福寺の僧侶が本願念仏宗を仏教の敵として朝廷に訴え出た。加えて弟子の中に狼藉に及んだ者がいるという風評が立ち、事実無根の風評だけで罪科に処せられた人々がいた。
 一、法然上人と御弟子七人が流罪。また御弟子四人が死刑。
 法然上人は土佐の国番田(はた)という所へ流罪。罪人としての名は藤井元彦、年齢は七六歳。
 親鸞は越後の国へ流罪。罪人としての名は藤井善信(よしざね)。年齢は三五歳』

ナ:政治権力と結び付いた旧来の仏教勢力とは異なる立場から法然親鸞らが説いた絶対平等の教えは皇室を頂点とする秩序への挑戦と見なされたのです。
 親鸞が90歳でこの世を去るまで推敲を重ねたとされる「教行信証」、その終わりには自らの人生を変えた権力の横暴を記した箇所が最後まで削除されずに残されています。

上皇天皇とその家臣らは法に背き道義に反して怒りをあらわにし恨みを抱いた。このため、真の仏教を興した祖師・法然と門弟数人は量刑の手続もなく無闇やたらと死罪にされたのである。あるいは僧籍を剥奪され俗名を与えられて流罪にされた。私もその一人である。であれば、私はもはや僧侶でもなく俗人でもない。ゆえに「禿」の字をもって自分の姓としたのである』

阿:死刑というものは当時、数百年にわたってなされてこなかったというんですね。しかし、死刑執行がなされている。で更に、俗なる名前を与えて、つまり、僧侶から普通の人間に身分を変えたうえで流刑というものにしてるわけですね。
 もちろん理屈としてはね、当時法然上人の仏教が広まり始めて、古い仏教の代表である奈良の興福寺の人達が法然の仏教はあれは仏教じゃないから早くあんなものやめさせろということを朝廷に願い出たりしてる。で、そういうことに応えるということを名目にして流刑、死罪というものは行われるんだけど、実は、その後鳥羽という人は熊野詣に行って留守の間にですね、死刑になったその僧侶達が催す法要に後鳥羽に仕えていた女房達がですね、それに参加してそれにとても感激して、中にはですね、尼さんにまでなっちゃったというふうなこともあってですね。で、後鳥羽はどうもその自分の御所の女房達が死刑になった僧侶達と情交を交わしたのではないかというふうな誤解までしてですね、まあいわば、でっちあげで、腹いせで命令を下したということですね。
 ですから、親鸞は猛烈に怒るわけですよ。で、この「歎異抄」にはですね、この付録この「流罪の記録」、なぜこういう記録がついているのか。私の解釈ではですね、「本願念仏がもたらす平等というものに生きていくと必ず権力者とぶつかりますよ」と、「その平等に生きる人を弾圧してきますよ」ということを、まあいわば予言の書としてね、付けておかれたんではないかと、と私は深読みするわけですね。
 つまり、それほどに本願念仏のもたらす平等というのは人間を突き動かしてですね、新しい社会をつくる1つのエネルギーにまでなっていく、そういうものだと思いますね。
 だからですね、本願念仏を13世紀の段階で誰が喜んだかというと、差別や疎外されていた人々ですよ。で、それは「歎異抄」の第十三条にその一端がちょっと出ていますね。第十三条の中にですね、「うみかわにあみをひき、つりをして世をわたるものも、野やまにししをかり、とりをとりていのちをつぐともがらも、あきなひをもし、田畠をつくりてすぐるひともただおなじことなり」、「ただおなじこと」というのは本願の前では職業の別は問題にならないという意味でただ同じこと、そういう言葉があります。
 当時の生産の現場に最先端に立って人々の暮らしを支えていたにも関らず、当時の社会では差別を受けていたと、そういう人々は一番本願念仏を喜んだわけですね。
 ですから、そういう善悪とか年齢とか男女の性別の違いとか職業の違いとか、そういう現実の差別というものを一切超越したところにその本願念仏というのは成立していると。その本願念仏が我々にもたらした平等というものの価値は、これは大したものだと思いますね。
 これは後にやはりその平等の意識に立って日本社会にこのゆがみを正そうというふうな人が現れてくるそういう根拠にもなるわけですね。

ナ:和歌山県新宮市、明治時代この地で阿弥陀仏の本願念仏の思想に基づき、被差別部落の解放に尽くし日露戦争へと流れる世の風潮にあらがった僧侶がいました。

『淨泉寺(じょうせんじ)の住職:こういうお写真ですね。(写真は)あまり残ってないですね。いわゆる”大逆事件”で連座した人達の写真です。高木顕明さんはこの方です、集合写真ですけどね。
 顕明さん自体の写真というのは恐らくないと思いますね、私も見たことありません、はい』

ナ:高木顕明、ふるさと愛知県から33歳の時新宮に来て淨泉寺の住職となりました。後に明治天皇の暗殺を謀ったとされる、いわゆる「大逆事件」で無実の罪に問われ、獄中でこの世を去った浄土真宗の僧侶です。

『淨泉寺(じょうせんじ)の住職:顕明さんがここへ来た時には電球1つもないような状態で大変ひどい、荒れてたような状態の中で高木さんは来られたみたいですね。
 檀家さんが大体180のうち、120は”地区”の人であったと。いわゆる差別されている同和地区のことを”地区”と。”地区”の檀家さんもあるんですよ。

ナ:親友だった新宮教会の牧師沖野岩三郎が伝えたところによれば、顕明は初めて訪れた被差別部落門徒の家で、出迎えた家族の様子におののいています。
 娘の首筋は垢にまみれ、手や爪は汚れていました。出された握り飯もところどころ黒ずみ顕明は泣かんばかりに一口ずつ念仏を称えながら飲み込んだといいます。「自分の中にはぬぐいがたい差別の心が宿っている」、この体験は顕明が自らを厳しく見つめる原点となりました。
 以来、顕明は彼ら門徒からお布施を取って生活などできないと、自ら按摩の技術を学んで働き寺の生計をたてました。やがて新宮に遊郭を誘致する動きが起きると、貧しさゆに身売される女性達を看過できないと反対の声をあげます。
 1904年日露戦争が始まると、当時の仏教界はこぞって戦争に加担しました。顕明が属する真宗大谷派も宗報の号外を発行。「帝国臣民の義務を尽くすのは念仏者の本分」だとして人々を鼓舞しています。それは、新宮の町にも及びました。周囲の寺の僧侶は戦勝祈願の法要を合同で行いましたが、顕明はただ一人参加を拒否しました。それまで僧侶達が集まって行われていた軍人の供養にも顕明は招かれなくなり、非国民として疎外され孤立してゆきました。
 そんな顕明を支えたのは、遊郭の誘致や戦争に厳しく反対して仲間となったキリスト教の牧師や医者、文化人達でした。身分や貧富による差別がはびこる世の中を変えようと、社会主義に心を寄せる彼らとの交流が顕明のその後の人生に影を落としてゆきます。
 1910年、街から離れた熊野川沿いの炭鉱労働達を訪ねた直後、顕明は家宅捜索を受けました。容疑は天皇に対する反逆の罪でした。その時の押収品の中に、日露戦争開戦の年、顕明がつづった唯一の論文がありました。原本が失われたその書に、顕明の言動を支えた根拠が記されています。

『余は、南無阿弥陀仏には平等の救済や平等の幸福や平和や安慰やを意味して居ると思ふ。智者にも学者にも官吏にも富豪にも安慰を与へつつあるが、弥陀の目的は主として平民である。愚夫愚婦に幸福と安慰とを与へたる偉大の呼び声である。
 極楽世界には他方之国土を侵害したと云ふ事も聞かねば、義の為に大戦争を起したと云ふ事も一切聞れた事はない。依って余は非開戦論者である。
 実に濁世である、苦界である、闇夜である。御仏の成さしめ給ふ事を成し、御仏の行ぜしめ給ふ事を行じ、御仏の心を以て心とせん』

ナ:逮捕後の裁判は控訴を認めない一審即決。顕明は社会主義者幸徳秋水ら23人と共に死刑を宣告されます。真宗大谷派も顕明の僧籍を剥奪し、最も重い処分、永久追放に当たる「擯斥(ひんせき)」に処すると通達しました。
 12人の死刑が執行される中、無期懲役減刑された顕明は、秋田刑務所に収監され、3年後獄中で自らの命を絶ちました。満50歳になったばかりの初夏の頃でした。

阿:高木顕明ですね、この「今の社会は闇夜の世界である」と。闇夜というのは具体的にはどういうことかというと、彼の書いたものを少し紹介するとですね。
 その名誉と社会的地位、勲章のために平民を犠牲として平然としている社会、これ1つですね。
 2つ目に彼が挙げるのは投機事業の名の下にですね、少数人間の利益のために平民が苦しめられている社会。
 3つ目はですね、金持ちのために貧しい者が獣扱いされている社会。
 4つ目はですね、飢えのために雨に打たれる子供。子供が雨に打たれている、操を売る女性がいる、そういう社会。
 5つ目はですね、多くの人々を翫弄(がんろう)物としてしか見ず人々を迫害、苦役して自らそれを快とする、喜びとする、そういう金持ちとか官僚達が横行している社会と。
 これが闇夜の社会として彼は具体的に列挙している。そしていわゆる被差別部落の解放運動に彼は乗り出していくわけですね。それは後に水平社運動なんかが生まれてきますけれどもそれよりもはるか前のことです。
 ちょうど1904年日露戦争が始まりだす。で、その寺の住職達が何をしたかというと皆戦勝祈願をしたっていうんですね。念仏しながら人を殺すということを、そういうことを勧めるのかということで極めて激しい反戦、非戦の主張者になるわけですね。念仏は阿弥陀仏が自分の中ではたらいているわけでしょう。阿弥陀仏が殺人を容認しますか。
 だから、高木顕明のこの「余が社会主義」っていうのを読むと、彼の根本は全て念仏ですよ。南無阿弥陀仏という言葉を口にしながら何が人はできるのか、何をしてはいけないのか基準は全部そこですね。そこが他の社会主義者達と違う点ですね。

鎌:つまり、そのマルクス主義とかあるいはイデオロギー的なですね、いわゆる一般的に知られている社会主義っていう方向から入ったんではないということですね。

阿:そうです。それはねこの面白いことに、「余が社会主義」の冒頭にちゃんと断ってるんですね。
『余が社会主義とはカールマルクス社会主義を稟(う)けたのではない。又トルストイの非戦論に服従したのでもない。けれども余は、余丈けの信仰が有りて実践して行く考へであるから夫れを書て見たのである』という冒頭に書いてますね。
 そこがやはりその念仏を根拠に、つまり、宗教的原理を根拠に生きていくということは部分的な生き方ではなくて、その人の全人格的な生き方にそれが貫かれていくと。
 実はそのことのためにはですね、「歎異抄」の第一条というものをね振り返る必要があると思うんですね。

阿弥陀仏の誓いによって浄土に生まれることができると信じて、阿弥陀仏の指示どおりにその名を称えようと思い立つその決断のとき、阿弥陀仏はただちに感応してその人を迎え取ってくださり、すべての人々を仏とするはたらきに参加させておいでなのです』

 「あづく」という言葉はですね、これ「参加させる」という意味なんだと。お念仏をするということは自分が助かるだけじゃなくて、全ての人を仏とするはたらきに自分が積極的に「参加」していくと、そういう意味合いがあるんだと。そうすると、まあ私の言葉で言うと念仏をするということは、「阿弥陀仏の事業に参加する」ということなんだと、積極的に言い直せばですよ。そうすると、じゃあ「阿弥陀仏の事業って何だ」ということになりますけど、あらゆる貧しさ、苦しさから人々を解放すると、そういうはたらきですね。
 ですからね、念仏をして自分の救済だけでとどまってしまう、つまり「死後を安楽にして下さいよ」というそういう祈りでとどまってるんなら、それはまあ仏教でなくたっていいわけですよ。
 なぜ阿弥陀が我々に念仏を与えたかというと、自分の事業に参加させるためなんだと。人は巨大な網目の網の1つの網目でしかない。網全体が救われるということは仏教の目標だから、そのためには阿弥陀仏の事業に参加して、その網全体が救われていくというそういう道を選ぶしかないんだと。
 ですからね、高木顕明という人は阿弥陀仏が行動されるように自分達も行動するんだと。で、阿弥陀仏がよしと思われるように我が身を律していくと。
 つまり、念仏をするということは阿弥陀仏の事業に参加することです、という解釈をいたしました、それを地でいってるんですね、高木顕明という人は。
 私は慈悲というのはですね、我が身一人にとどまるものではなくて仲間の同朋達の苦しみを取り除くというふうにしてあふれ出てくるものだというふうに申しました。清沢満之の言葉で言えば、念仏は阿弥陀の慈悲を導く器なんだということも申しました。
 つまり、慈悲というのはですね単に個人的な徳目ではないんですね。制度とか法律とか組織の中に貫通して初めて慈悲というものは意味を持つ。慈悲の本当の狙いはこういう社会全体に貫徹するというそれをある意味で目的にしていると。そういうことがですね、高木のこういう動きからも分かってくると思うんですね。
 しかし、明治以降日本社会、宗教を巡る日本の社会状況というのは大変厳しくてですね、天皇崇拝というものを維持するためにですね、宗教というのは個人のことなんだと、しかも私事なんだと、こういうふうに宗教というものを閉じ込めてきてる。
 
 しかし、慈悲というものは個人の徳目ではなくて社会全体にこのはたらきかける、そういう性格のものだということは実は「歎異抄」の中にもあったし、そして近代以降、高木顕明という存在を通じてそのことが証明もされたと。そこに「歎異抄」の大きなやっぱり役割があると思うんですね。
 で、私は最後に申し上げておきたいことは、「歎異抄」というのは念仏とは何かということについて縷々(るる)説明しているしている古典ですよ。その念仏をですね実際に実践してみたら、どういうことが我々の間に起こるのかは書いてないんですね。書いていないってことは大きな意味があると私は思います。
 それは、その「歎異抄」が説く念仏を実践するとね、私共はその阿弥陀がはたらいた結果、どういう行動をするか一律には言えない。念仏がはたらくはたらき方も全部違うわけですね。それは念仏を実際に称えた人々がその身をもって示していく事柄であるということだと思うんですね。

鎌:今のお話聞いてですね私が思いましたのは、ブッダもそうですし、イエスキリストもそうですし、それからガンジーもそうですけど、とにかく歩くってことを非常に大事にしていた。しかし、その歩くことが大事だということをいくら言ってもですね、実際に歩かないと何が得られるのか分からないっていうことはずっとあらゆる宗教も多分言ってきたことだと思いますね。そういった意味でその念仏っていうのも私共捉えてもよろしいでしょうか。

阿:そのとおりだと思います。今のお話では歩くとか、念仏をするとか実践するかどうかですね。「歎異抄」はそういう念仏の意義を教えてくれるけれども、「歎異抄」を読んだ人間はそこから先は阿弥陀の慈悲をどのように世の中に及ぼしていくかと、それはその人の課題ですね。
 念仏は単なる呪文ではなくて、阿弥陀の慈悲というものをこの我々の中に呼び起こしていく、そういう大事なその役割を持ってるんだと。それは確認する必要はあろうかと思いますね。

池:あの今日お話をお伺いしてですね、宗教者がですね、時に権力と結び付き弾圧あるいは不作為に加担してしまうというのは、これは本来であればですね、宗教者というものがその貧苦を救うということを目的とされていると思うんですけれども。

阿:宗教者の中で正規の僧侶でない人達、そういう人達がね日本社会、日本の歴史にはたくさんいて特に貧苦というのを解決するためにはたらきかけると。そういう人達がそういうはったらきをしてるんですね。

池:聖とか?

阿:聖とか、ある聖とすら名前は呼ばれないような人が他者のためにね、まさに慈悲行を実践してると。
 いわゆる名前のある教団に付属しているその宗教者、仏教者がどれだけそういう努力をしたかですね。で、それはね近代社会になれば現実社会の矛盾、もろもろの貧苦というものを解決するためにはそれぞれの職種を通じてそれを克服していくということであって、宗教者の役割というのはなんか精神にこう限定されていく、というふうなことになりがちであったと。
 おまけに宗教は個人の私事であるというふうなイメージも強くてですね、なんか宗教というものはそういう社会経済的な領域に手を伸ばすものではないというふうなことにもなってきたんでしょう。実際また、手を伸ばしてみるとひどい間違いを犯しているということだって現実にあるわけですから。
 ですから、私は個々の人間がそのそれぞれの宗教心を背景にしてね、それぞれの職業なりその社会的な役割の中で、そういう貧苦をなくしていくというはたらきにこう取り組んでいくと。
 しかし、それが挫折した時に、なおそれをもう一歩進むことはできるために、ための宗教心というか、そういうものが宗教の1つの役割だというふうにも思うんですね。

鎌:あのこれ最後の質問になりますけれども、現在政権とですね、ある特定のいわゆるカルトと呼ばれる宗教ってのが相互作用し合って非常に人間達を苦しめてるって現実が徐々に最近浮かび上がってきてますけれども、そういった現代ってものを見た時にですね、阿満先生のお考えになる宗教というものの役割っていうのはこれから未来的にはですねどのようになっていくべきだというふうお考えでしょうか。

阿:1つはね、我々が宗教という言葉で、実は呪術的思考を深めてるだけではないかというふうに思うことはよくあります。
 つまり、宗教と呪術の違いというのは非常に微妙なものですよ。例えばこの本願念仏にしても、自分のこの願望のために念仏すると、例えば今自分はひどい病気にかかって、なんとか病気を治してほしいとして念仏すると。そういう欲望ですね、その欲望実現の手段にしてしまう。そうするとその念仏は呪術ですよ。
 つまり、その宗教と呪術の区別はほんとに難しい。難しいけれども1つ言えることは宗教は自分を問うて、自分を内省して、自分の問題を意識したうえでそれを乗り越えるためにその宗教の行というものを求めると。
 しかし、呪術は自分を問わないんですね。こういう社会ですからいろいろ困ったことを抱えてどうしていいか分かんないという状況はたくさん出てくるでしょう。その時にちょっとした隙間にそういう呪術的思考で近寄ってくる人があればですね、それにすぐ飛び乗ってしまうと思いますね。
 だから宗教というのは、自分の根本問題を解決したい、しようというそういう営みであって、なぜそういう状況が人間に生まれてくるのかということを問い尋ねていって根本的な問題が何であるのかに行き着くようなそういうやっぱり場があるか、ないかですね。
 それはあの、例えばアメリカ人なんかでこのジョアンナ・メイシーなんかがその典型ですけど、環境保護運動なんかに乗り出した人が自分の行動の根拠として仏教を採用したというような例もあるわけですね。彼女の言葉で言えば、「エゴ・セルフ(ego-self)」、つまり、自分がどこまでも中心であるような世界の見方ですね。そういう見方から仏教を知ることによって「エコ・セルフ(eco-self)」というね、そのつながりの中の、私の言葉で言えば網の1つの結び目という、そういう関係性の中で自己、人間というものを捉えるというそういう視点をね手にしたと。
 つまり、エゴ・セルフ、エゴ・センターであると自分が疲れたり挫折したらそこまで燃えついてしまう、燃え尽きてしまうわけですね。でも、そのエコ・セルフという生命体全体の中の自分なんどという思いになれば疲れた時は休めばいいじゃないですか。そして、その仲間達と手が組める時は手を組んで少しずつ世の中を変えていけばいいと。
 ですから、私が冒頭で申し上げたように仏教というのは関係性の中で人間を捉えていくと。私を成り立たしめている因果関係の全てを知ることはできないから、私は自分が生じて生み出した問題を自分の力では解決できない。そういう時に彼女が言うようなエゴ・セルフからエコ・セルフへというふうな自我観の展開、転換といいますか、そういうことも1つの手助けになるだろうし、我々の持っている常識だけが世界を見る見方、人間見る見方だというのは、ちょっとやっぱりこの際考え直していいんじゃないかと思うんですね。

ナ:高木顕明は今、新宮市の南、丘陵地に設けられた共同墓地で市井の人々と共に眠っています。冤罪によって逆賊とされ、命を落としてから82年が過ぎた1996年、高木顕明の名誉は回復されました。
 真宗大谷派が高木顕明に対する擯斥処分の取り消しを告示。宗務総長の名で「真摯な僧侶を擯斥して死に至らしめ」たことに「心からなる謝罪」をし、これが「自らの過誤の歩みを検証」する一歩であると表明しました。
 名誉回復の後、淨泉寺では20年以上毎年、高木顕明をしのぶ法要が営まれ多くの人が顕明の訴えに耳をすましています。
 かつて逮捕された顕明の弁護費用などにするため売られ、行方知れずになっていた遺品の数々、現住職らが捜し寺に買い戻しました。

『淨泉寺の住職:これが顕明さんの書かれたお名号なんですけど、お見せするのは、表に出たのはおそらく初めてです。自分で「南無阿弥陀仏」の字を一生懸命。これは顕明さんの心ですよ、気持ちやと思いますね』

ナ:闇夜の現世で念仏者としての慈悲の道を歩もうとし、実践し続けた高木顕明。墓と並んで立つ顕彰碑には、その遺言とも言うべき言葉が刻まれています。

南無阿弥陀仏は真に御仏の救済の声である、闇夜の光明である、絶対的平等の保護である。諸君よ、願わくは我らと共にこの南無阿弥陀仏を称えたまえ。何となればこの南無阿弥陀仏は平等に救済し給う声なればなり』

歎異抄 (岩波文庫)

歎異抄 (ちくま学芸文庫)

NHK「100分de名著」ブックス 歎異抄 仏にわが身をゆだねよ

NHKこころの時代~宗教・人生~ 歎異抄にであう 無宗教からの扉 (NHKシリーズ)