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NHK「こころの時代〜宗教・人生〜」の文字起こしです

2022/10/30 オモニの島 わたしの故郷〜映画監督・ヤンヨンヒ〜

ヤンヨンヒ:映画監督

ナレーター(以下「ナ」という):映画監督ヤンヨンヒさん、大阪生まれの在日コリアン2世です。
 北朝鮮と日本、今から半世紀前、国家によって一家は引き裂かれました。 北に渡る3人の兄を見送った時、ヨンヒさんはまだ6歳でした

ヤンヨンヒ(以下「ヤ」という):最近大きな変化に気づいたんです。ブルー、青色がオッケーになったんですよ、ずっとブルーが苦手だったんですけど。特に日本海側の海だと、もう子供の向こうにお兄ちゃんがいるっていうので、ボーっとなったり。それが最近ね青オッケーになりました。なんだろう、なんか、逆に青の服が着たくなるぐらいに、なんか1つハードル超えた感じがしますね。

ナ:今年6月から公開が始まった最新作「スープとイデオロギー」。母親の壮絶な体験に向き合ったドキュメンタリー映画です。
 週末になると、この映画のプロデューサーでもある夫と、全国各地の映画館を回る日々が続いていました。
 30歳で初めてカメラを手にしてから、ヨンヒさんは映画を通じて家族に、そして自分自身に向き合ってきました。

『ヤ(映画館で):26年かけて、自分の家族についてのドキュメンタリーを3つ作るっていうあほなことをしたわけですけれども』

ナ:今から17年前、2005年に発表した長編第1作「ディアピョンヤン」。
 両親と北に渡った兄達を通して、それまで知られることのなかった北朝鮮の姿が描かれています。
 カメラを持つヨンヒさん、両親と3人の兄、家族全員が揃うのは30年ぶりのことでした。
 朝鮮総連の幹部だった父親の70歳の誕生日を祝うパーティーです。映画は、映像と共にヨンキさん自身のナレーションで綴られています。

『「まだ、忠誠心を尽くし足りない」という父の言葉に私は混乱した。自分の子供や孫達を革命家に育てるのが残された仕事だと彼が言った時、その場から逃げ出したくなった』

『ヤ:どんな人がええの
 ヤンヨンヒさんの父:どんなでもええわ、お前が好きなやつは
 ヤ:ほんと?アボジ、今のこれビデオで撮ったで。証拠やで、絶対?どんな人でも何でも言ったらあかんで。
 ヤンヨンヒさんの父:アメリカ人と日本人だけは駄目だ!
 ヤ:それ「どんな人でもええ」にならへん。フランス人やったらええの?
 ヤンヨンヒさんの父:いやもうそれは別や
 ヤ:注文あんねやんかいっぱい。
 ヤンヨンヒさんの父:一応はとにかくは、朝鮮人だったらいい!』

ヤ:ずっと考えてきたのは、どうやったらこの家族から解放され、在日ということ、女ということ、うちの両親の娘ということ、うちの私の兄貴達の妹であるということ、その全てからどうやったら解放されるんだろうってずっと悩んできた。 
 その答えが、隠したり、ごまかしたり、遠ざけてては全然解放されないと、もう向き合うしかない。
 結局、自分についての私の問いがずっと続いてるんですよね。だから、映像で見せてるのは親だったり家族だったりしますけど、一貫しての本当の主人公というのは私で、 私が私を知りたくて、ずっと映像作品を作ってるっていうふうにも言えると思います。

ナ:1964年、大阪生野区。かつて猪飼野と呼ばれた街で、ヨンヒさんは生まれました。 
1910年から始まった日本の植民地支配。戦前からこの街には今の韓国の南にある済州(チェジェ)島の人が多く暮らしていました。大阪への定期航路が開かれ、「君が代丸」と名付けられた船で、島の人達が続々と大阪にやってきたのです、ヨンヒさんの父もその1人です。
 1945年終戦。その後朝鮮半島は38度線を挟み南北に分断。南にはアメリカの後ろ盾を得た大韓民国、北にはソ連が支援する朝鮮民主主義人民共和国が誕生。国内でも北を支持する朝鮮総連。南を支持する民団が誕生。在日社会にも38度戦が生まれます。
 ヨンヒさんの父親は民族学校の設立など、在日コリアンの権利を守るために、積極的に活動していた総連を選びます。キムイルソンの教えの元、身を粉にして組織の活動に励みました。
 そして、同じ済州島にルーツを持つ日本生まれの母親と結婚。3人の兄とヨンヒさをもうけました。

ヤ:すごく民族差別がきつい、日本社会の中ではあるけれども、それに対する反骨精神も含めて、のびのびと生きていたと思うんです私の両親は。で、堂々と朝鮮人として生きたいっていう思いが強烈にある人達なので、恥じるな、いじめる人がもしいたらそんなの相手にするなとか、そんなのと友達にならなくていいとか、もしくはアボジに言えオモニに言いなさい、私達が戦ってあげるみたいなぐらいの親だったので、それはすごくベースに なってると思います、自己肯定という意味では。これはもう一生、私のベースになってる。

ナ:働き者の母親は、レストランを切り盛りしながら、活動家の夫と家族の暮らしを支えました。 
 ヨンヒさんは、両親の愛情を存分に受け、兄達と共に育ちました。

ヤ:兄3人いますけど、下の兄は庶民的な兄貴なんですよ。もう本当たこ焼き食べに行って、お好み食べに行って、吉本新喜劇を見て、そういう兄貴達だったんですけど、長男のコノ兄は、 クラシックと本当においしい豆のコーヒーさえあれば生きていけるみたいな人で、なんでああいう人があの鶴橋の家であのキムイルソンの肖像画の下で育ったのか、ちょっとよくわかんないんですけど、5~6歳の私にもいつもこのでっかいヘッドホンを
つけてくれて、わーって、ベートーヴェンとか鳴ってるわけですよ、ショパンとか。とにかくいい音楽をたくさん聞くと、心が綺麗になるんだよとか、いい映画をたくさん見ると、頭が良くなるんだよっていうのを、呪文のように妹に言う兄貴だったので、うん。

ナ:そんな幸せな家族の日々が突然終わりを告げます。1959年から始まった帰国事業。当時北朝鮮は地上の楽園と呼ばれ、9万3,000人余りの在日コリアンとその家族が北に渡りました。
 1971年、次男と三男が自分から希望して帰国しますその数ヶ月後、朝鮮総連から思いもよらぬ知らせが届きました、「長男も帰国させよ」という指示でした。
ヤ:やっぱ、長兄は自分で北朝鮮に行くと決心して行ったわけではないので、キムイルソンの60歳の還暦の誕生日祝いということで、朝鮮大学校の学生を捧げるみたいな。 私は、人間プレゼントと呼んでますけれど、そのプロジェクトのために、200人ぐらい指名されるんですね、赤紙かっつう話なんですけど。指名されて、君はいわゆる帰国をしなさいと、片道切符で。
 やっぱ寂しいとか、北朝鮮に行ってほしくなかったとかを言えなかったですし、なんか、「栄光の帰国」みたいな、とても 肯定的な帰国事業に対するフレーズに囲まれて育ったので、帰国事業によってお兄ちゃんと離れ離れになることが、私は嫌だっていう風に言えなくて、「お兄ちゃん達偉いな」って言われたら、「はい」とか、 「ヨンヒもお兄ちゃん達みたいになりな」とか言われたら、なんか「はあはあ」みたいな。
 どういう壊れ方をしたのか、その私、幼い私がとか、私の家族だとかが、やっぱりよくわからなかったんだと思います、もっとわかりたかったんだと思います。

ナ:帰国事業によって、兄と離れ離れになった悲しみを押し殺したままヨンヒさんは、民俗学校に通います。 優等生として振る舞っていましたが、心の中では葛藤を抱えたままでした。

ヤ:あなたは愛国的な家庭で育ち、朝鮮総連の幹部の親の下で、お兄さん達もみんな捧げた家庭の1人だけ残った娘だから、立派な朝鮮争連の働き手になりなさいみたいな。そこに私のチョイスはないって言われたんですよ、 そっからですね私の苦悩が始まったのが。
 学校の外での文化の影響だとは思います。やっぱり、日本の特に欧米の映画を毎週映画館通いまくって見てましたし、演劇を見てましたし、 結局、学校で教える全体主義と学校の外で自分が得る個人主義の衝突だと思うんです。あと反発とも言えると思う。
 親は自分で選んだわけだし、お兄ちゃん達はもう行ってしまって、あの制度の中、あの北朝鮮にも入ってしまったので。でも、私は日本にいるので、日本で暮らしてる私になんで人生を自分で選ぶ選択する権利がないんだっていうのは納得できなかった。

ナ:しかし、総連幹部の娘としてヨンヒさんは朝鮮大学校に進学卒業後も組織に従い、朝鮮学校の国語の教師になります。当時、家族の中で父親以上に複雑な感情を抱いていたのが母親でした。長男が北朝鮮に渡った後は、仕事も辞め、総連の活動に専念。北への仕送りが生きがいでした。

『ヤ:何が1番喜ぶ?商売できるんちゃうの?オモニこれ持って行って。学用品が一番喜ぶ?
 ヤンヨンヒさんの母:学用品!もう、娘達が!』
『ヤ:母の愛情に支えられて、息子、孫達は元気に暮らしている。でも、母は 人から聞かれると、「祖国のおかげ、将軍様のおかげで、子供達は元気です」と、いつも答える』

母が荷作りをしてる姿を見るのがすごい嫌だったんですね。あの、心の中では偉い母親だな、すごいな母の愛情ってすごいなって、もう本当にこんなお母ちゃんいないっていうぐらい思ってましたけど、 私が荷作りしてますから、大丈夫です。って言えばいいのに、本当に、それを1度も聞いたことがないんですよ。あたしがちゃんと送ってますからって言えばいいのにって。 
でも、祖国のおかげ、主席様のおかげ、嘘つけって思うんですよ。何が主席様のおかげだって、お母ちゃんのおかげやんかって、お母さん1人で何人食わせてんだって、 母はかたくなにやっぱ北朝鮮に対する批判を受け入れない人だったんですね。だから、私がもっと反発心もあって、だから、すごく大事に育ててもらった部分への感謝と、北朝鮮に対しては、かたくなに愚痴も許さないというような支持と、あと、韓国に対する生理的なアレルギーというほどの絶対的な拒絶みたいな否定みたいなのが、母はすっごいはっきりしてたんですよ。
 父を見てるとある程度こう。あー、もう1度人生のね生き方として、こう選択をしてしまったから、 全部ひっくり返すわけにもいかないし、自分の過去人生否定するわけにもいかないし、この人ずっとこうやって生きてきたんだから、こうやって生きていくんだなっていうぐらいではなんとなくわかったけど、母のあのかたくなさ、徹底したところに関しては、私はやっぱりちょっとついていけないなって思ってたんですが。あとはまあそうしないと持たなかったのかなと。

ナ:同じ頃、長男のコノさんも苦しんでいました。母親からの仕送りのノートに書き記した文集。大阪で通い続けていた音楽喫茶の思い出、クラシック音楽への憧れが繊細な日本語の文字で書かれていました。
 当時、北朝鮮ではクラシックなどの西洋音楽が禁じられていました。コノさんは持ち込んだ日本のレコードや機材が摘発、資本主義的だと厳しい自己批判を強いられ、監視の対象となります。コノさんは精神を病んでいきました。

ヤ:当時、日本でねうつ病っていう言葉が取り沙汰され始めた頃だったんですよね。雑誌とか、いろんなところで特集があったりとかして。で、ああ、こういう病気があるんだとかで、その抗鬱剤というものがあるんだとか、そういう本もいっぱい買ってきて、母と一緒に読んだり、 あと、母と一緒にそういう精神科の日本の精神科の先生のところに行って、なんとか薬をね、北朝鮮に送る薬をもらえないかとか。なんか、そういう相談をしに母と一緒に行ったりとかはしてましたね。

ナ:3人の兄の人生を描いたノンフィクション、「兄かぞくの国」、帰国してから、ちょうど20年が経った。1992年平壌のレストランで、コノさんの姿を見た時の衝撃が記されています。

ヤ:立ち上がって、わーって、大声で交響曲を歌い始めたんですよ。で、私はなんかもうびっくりして、最初冗談かなと思ったけど、すごい本気なんですよ本人は。結局 お兄ちゃん目がギラギラしてるし、兄ちゃんの目の前にはもう公響楽団が見えてるし、すんごい音響で、音がこの人の耳には今響いてんだなっていうのは私にはわかったので、この人の人生はなんだったんだろうってすごい思って、自分の中から一切の今後の人生において、何かのために誰かのためにっていうのは持ちたくないと思いましたね。会社のために組織のために、国のために。

ナ:その3年後ある出来事がきっかけで、人生が動き出します。
 当時、朝鮮学校の教師を辞め、大学時代から続けてきた演劇に取り組んでいたヨンヒさん。知り合いのビデオジャーナリストから、自分でカメラを回し、映像で表現してみないかと勧められたのです。

ヤ:ずっと10代、20代の自分の中での鬱積した疑問とか、やっぱり、私はこう思ってんのに、なんでそれを言っちゃいけないんだっていう、抑えつけられる何かが、それに対する私の抵抗みたいなのもあったし、表現方法探してたんだと思います。

ナ:ヨンヒさんは、買ったばかりのカメラを手に、すぐ北朝鮮に向かいました。平壌について、最初に撮影したのが初めて会う姪のソナでした。
 以来、何度も北朝鮮に通い撮影を続けました。当局の検閲は、家族のホームビデオということで押し通しました。取りためた映像をどうやって作品に仕上げていくのか、ヨンヒさんは決心をします。 父親の大反対を押し切って、アメリカに留学、ニューヨークで、6年間映像について学びました。ニューヨークでの経験は、新たな視点を与えてくれました。

ヤ:自分の家族だとか、自分のバックグラウンドだと思うと、もうただただ重いし、悩みの種みたいになるのがちょっと突き放すと、 ネタとして面白いというか、ユニークな家庭だと、家族だと、ネタって言葉がね良くないかもしれないですけど、こういろんなイシューが溶け込んでいて、1つの対象としてみると、うちの家族の上にバーってこう日本と半島の地図が見えて、分断が見えたり歴史がわーっと歴史の年表が見えて、うちの家でも2階の親の あの部屋は東ドイツで、3階の私の部屋は西ドイツだって言って、廊下をね、ベルリンの壁だって、私は呼んでましたけど、そういう風に1軒の家の中にも38度線があって、ベルリンの壁があってみたいな、そういうモザイクがうわーって、私の家族の写真の上に見えた時に、なんかもうオーマイガーみたいな、これ作らない手はないなと思って。
 同時に家族を見つめるっていうのは、結局自分を見つめることだと、どういう作品にしたいかっていうのを考えた時に、やっぱりなんとか残る作品を作りたいと思って、この1本作るためだけにでも、ニューヨークに留学をしたいと思いましたね。 その1本で映画作り終わるかもしれないし、この1本からなんか始まるかもしれないけれども、それぐらいの1本を作りたいと思いました。

ナ:「もう後がない」、覚悟して作ったディア・ピョンヤン」は国内外で絶賛。 しかし、その一方で、ヨンヒさんは北朝鮮から入国禁止を言い渡されます。総連からは謝罪文を要求されましたが拒否しました。

ヤ:自分のバックグランドや家族をダイレクトに扱って、ましてや、ドキュメンタリーで、その家族の名前も顔も全部出しながら、それを晒すっていうことですから作品にして。世界中にばらまくというか、自分が選んでやってるので、もちろんこれは愚痴でもないんですけれどもしんどかったのは事実ですね。
 被写体になってる人は北朝鮮で私の作品のために罰則を受けるかもしれない。人生影響されるかもっていう、そのやっぱりプレッシャーとか罪悪感みたいなものはすんごいしんどくて、それでもやりたいのか、それでもやるのかの自問自答を20年以上やってきたっていうことですし。
 すっごい極端な言い方をすると、じゃあ、私が作品を作り続けてたら、お兄ちゃん達が収容所に入れられると、どうしますかって言われたら、じゃあ私どうするんだろう。これね、じゃあやめますとは言いたくないんですよね。 それで、ずっと今まで口封じしてきたんじゃないか、みたいなところがあるんですよ。なんか、家族が北朝鮮にいるからっていうので、本当のことを言えないとか、知ってるたくさんのことを言えないとか、もうそういうの本当に終わりにしたいなっていうのがあって。正義感とかじゃなくてですよ。あたしが言うこと、私が表現することが気に入らないんだったら、あたしに文句を言えばいいわけだし。
でも、もちろんたかが映画ですから。気に入る、気に入らないはあって当たり前で、そんなのいちいちこっちが責任取れるわけじゃないんですけど、じゃあ、収容所に入れられて、 もうあなた映画作るんですかって言われたら作りますよとは、なんかその明るくは言えないですけど、でも、うんだったらやめます。とは言いたくないっていうのはすごくありますね。と、ここまで言えるようになったんです、ずっと自問自答して、すごい残酷なことです。でも、すごい残酷な、それぐらいの決心がないと、こういう作品は作れないですよね。

ナ:北の兄に会えなくなっても、ヨンヒさんは映像を通じて家族を描くことを諦めませんでした。 
2011年初めての劇映画に挑戦します。脚本はヨンヒさんの実体験をもとに自ら書きました。3男に腫瘍が見つかり、両親の5年越しの訴えが実って、日本で治療が受けられることになりました。1999年のことです。
 留学中だったヨンヒさんは、撮影機材一式を持って帰国しました。しかし、、、

ナ:やっぱりビデオカメラ回すわけにはいかず。それはとても邪魔なわけですよ。このビデオカメラがなんかもうすこの兄の滞在全てを破壊してしまうなと思ったし、結局はせっかく日本に来れたのに、 この日本に来てまでこの緊張させたりね、言ってはいけないこととかって、色々いつも神経尖らせさせるっていうのが、やっぱこれはやっちゃいかんなと思って。もうビデオカメラはこの兄の滞在期間中は一切持たないって決めて、 で、この私の目をカメラだと思って記録しておいて、まあ、いつかは劇映画にできるかな、ぐらいにできればいいな、ぐらいに思っていたんですね。

ナ:映画「かぞくのくに」は、病気治療のために25年ぶりに日本の地を踏んだ兄と家族の物語。ヨンヒさん自身を投影した妹、リエを演じるのは、安藤サクラ。重要な役である北朝鮮から同行した監視人を、韓国の俳優、ヤンイクチュンが演じました。
 ヨンヒさんは、これまでドキュメンタリーでは描けなかった重い事実に踏み込みました。

『兄(映画の場面):今後、例えば指定された誰かに会って話した内容を報告するとか、そういう仕事する気あるか?
 ヨンヒ(映画の場面):仕事?オッパにそんなこと言わせた上の人に言っといて、「妹は我々とは相反する思想を持った敵です」ってはっきり言っといて』

ヤ: 兄弟で、なんでこんな会話をしなきゃいけないんだっていうこの、どこにぶつけていいかわかんない怒りというか、なんちゅう会話をさせるんだっていう本当クソみたいな国なのか制度なのか組織なのかなのかわかんないけど、それをまたぬけぬけいうお兄ちゃんも情けねえなと思いながら、でも、本当お兄ちゃん可哀想だなと思って、でも、ここで私は自分の人生守らなきゃと思って、絶対にそんな仕事はしない、2度とそんな話は聞きたくないし、妹は思想的には敵です、そういう妹ですってきっぱり言っといてって言って、それにもめげず、お兄ちゃんが私を説得しようとしたらどうしようかなって思って怖かったんです。本当、心臓バクバクバクバクして頼むから説得しないでくれって。そしたら、お兄ちゃんが「お前かっこいいな」って言ったんですよね。「自分の考えはっきり言えて、かっこいいよ
」って、私が「ごめんなお兄ちゃんの役に立てなくてごめんな」って言って。でも、私が1回断った時にやっぱそれですんなり「わかった、もうこの話はしない」って「お前かっこいいな」まで言ってくれたお兄ちゃんにはすごい感謝をしましたし、お兄ちゃんがなんか罰せられたり、批判されたりしないことを望みつつ、残酷な妹だなということも自覚しつつ、でも、これで 私はこうするしかないっていう風にも思いましたし。

『ヨンヒ(映画の場面):あなたもあの国も大っ嫌い、
 男性:あなたが嫌いなあの国でお兄さんも私も生きているんです。死ぬまで生きるんです。』

ヤ:「あなたもあの国も大嫌い」っていう安藤サクラさんのあのシーンも、この映画を作 る理由の1つで、あのセリフを言いたいっていう。もう1つはあのセリフ以上に言いたいのが、でもそこで僕ら死ぬまで生きるんだよ、そこでっていうね、その国で僕もあんたの兄貴も生きるんだよっていう現実を突きつけられた時のあの勝てなさ感というか。だから、あの、安藤サクラさんのあの純粋さっていうのは子供なんですよ。子供だから、正直にダイレクトにぶつけるっていう、それはもろ私なんです、本当ガキなんですよ。
 だから、 腹を立てるし、地団太踏むしみたいな、言うことによって跳ね返ってくるっていうか、それがもろ私じゃないですか。やりたいことやってるとかって言ってるけど、笑いながらでも、やりたいことやるおかげで、家族にも会えないしとか、 毎晩うなされるしみたいな跳ね返ってくるわけですよ。それは私の現実でもあるし、あの地団太踏んでるサクラさんを見た時に、「ああ今映画作ってる私がこれなんだな」と思いました。私の映画は、地団太なんだなと思いました。何も現実も変えられないしね、じタバタしてるだけなんです。 
誰も痛くもかゆくもないし、1人でジタバタしてるだけなんだけど、すごく深い、静かだけど、すごい深い怒りが根底にありますあの作品には。

ナ:日本に来て1週間、 3ヶ月の滞在のはずが突然帰国の命令が本国から届きます。これも実際にあった話でした。母親は毎日小銭を貯めていた貯金箱を開け、監視人への贈り物を用意します。

ヤ:個人ってどうあがこうがそういう社会のシステムとか、国家体制とかには勝てないですよ。1人で抗えないというか。ここが全体主義の国じゃないから、私はこういう生き方ができてるんであって、私がいくら全体主義が嫌だっつっても、全体主義の国にもし生きてたら従うか、死ぬしかない、もしくは逃げるかっていうことなんでしょうけど。
 でも、映画の中では 全体主義に勝たせたくないんですよね。やはり、あのヤンイクチュンの演じた監視人に対して、母親がスーツとか用意したその母親の賄賂なのか、真心なのか微妙なあの愛情としたたかさがこもったあれに接した後のあの監視人の視線というか、目の表情みたいな、あの家族の写真をずっと見ながら、 キムイルソンさんの肖像画を見ますけど、そん時はなんか命令に従わなきゃっていう目で見てないんですよね。もう、なんか、この家族の写真を見た後であれ見た時はしらけてるっていうか、ちょっとね、ちょっとこっちが勝ってんですよ、やっぱり。
 本当に兄達のためを思うんだったら、北朝鮮に一切関係ない作品を作る方が1番、多分、平和で安全なんでしょうけど、いろんな国のことを私達が知った上で、例えばアメリカに魅力を感じるフランスに魅力を感じる。なんか、いろんな国に対して親近感を持ったり、その国の人に対して理解が深まるっていうのは、別にプロパガンダ的ないいことだけを聞いてるからじゃないと思うんです、そうなると、逆にしらけるじゃないですか、その国の実情とか、いろんな人々の苦悩を描いた小説とか、映画とかをたくさんたくさん見れて、その中で私達との共通の部分と違うのをいっぱい発見して、分かり合って、友情も深まり、っていうものだと思うんですよ。 
 家族の国を作った時、たくさんの人に言われたんですよ、あんな映画作っていいんですかって、 みんな声をちっちゃくして、それは総連系の人にも言われましたし、日本の映画会社の人にも言われましたし。だって、ハリウッドもみんな自分の国の馬鹿ばかしいところを描いてるし、政治の腐ったところも描いてるし、韓国映画もみんな描いてるし、そんなこと言わないじゃないですか。なんで北朝鮮を描くとそう言うんですか、っていう話で、それやっぱ別枠で見てるってこと。あそこはアンタッチャブルだからってことでしょ、腫れ物にしてるってことですよ。私は、腫れ物にしてないから、私はフェアに扱ってるだけの話だと思うんですよ、腫れ物にしたくないんです、なんでかというと、あたしが腫れ物になりたくないんです。 あたしは、腫れ物じゃないっていうことを人生かけてずっと喋ってんですよ。カモンって感じですよ、本当、腫れ物じゃねえんだよ、触れよもっとって、触ろうよって話ですよ。北朝鮮も帰国事業も、在日も朝鮮学校も総連も脱北も、でこそ知り合えるってことだと思います。いいとこだけ見せて、権利を主張じゃなくて、こんなとこで悩んでますねん、こんなに大変なんです、ここ苦しいんですって見せないと、だと思っています。腫れ物にしたくないんです、うちの親の生き方も、うちの兄達の存在も、私も。

ナ:「かぞくのくに」は、ベルリン国際映画祭をはじめ、世界中で高く評価されました。堂々と世界の舞台に立つヨンヒさん、しかし、その影で身も心も追い詰められていました。
 2009年7月、映画の素晴らしさを教えてくれた長男コノさんが病気で亡くなります。4ヶ月後には、父親が他界、遺骨は母親が北朝鮮まで持っていきました。兄にも会えず、父上の墓参りも叶わない日々、借金までして、北に仕送りを続ける母親とは、いさかいが絶えませんでした。

ヤ:私1人ではもうね、マックスだったんだと思います。その自分を支えるのもそうだし、この家族の物語を作品にする上でも、 多分バーンアウトだったんだと思います。死にたいって泣いてたんですよ、私は可哀そうとかじゃなくて、でも死ぬ勇気がないのもわかってたけど。
 一方ではやっぱりね、北にいる人ほどのしんどい思いはしてない。私としてはなんかギルティがあると思うんすよ。でも、そのギルティを感じちゃうと私の生活が壊れる、もっと壊れるので。

ナ:「かぞくのくに」の後、映画監督として新しい作品を発表できないまま、10年の歳月が流れました。この苦しみを溶かしてくれたのは、兄達が北に渡った時からわだかまりを抱えたままだった母親でした。

『母親:怖かったでえ、あっちこっちから射撃の音がバーンバーン。たくさん殺されたね。学校の校庭に強制的に引っ張って並べて機関銃でダダダダダ、、、
 ヤ:学校の校庭で?』

ナ:母親が語り出したのは、ずっと封印していた18歳の時の壮絶な体験でした。済州島4・3事件です。
 終戦間際、母親は空襲を逃れて、大阪から自分の母のふるさと済州島疎開していました。それから3年、朝鮮半島アメリカ、ソ連それぞれが支援する2つの国家が生まれる前夜、1948年4月3日、済州島で南北分断を決定づける南での単独選挙に強く反対する声が上がり、武装蜂起が起きます。これに対し、軍や警察が激しく弾圧、死者、行方不明者は合わせて3万人に上りました。

『ヤンヨンヒ(映画のナレーターとして):動く人影には無条件で発砲せよという作戦を立て、赤狩りの名のもと島人を無差別に殺した』

ナ:4・3事件は韓国現代史のタブーとして長く歴史の闇に葬られてきました。 1980年代後半から韓国の民主化が進み、真相究明や遺族補償の動きが始まります。
 日本でも、遺族会が誕生。4年前には、済州島から多くの人が逃れてきた大阪に慰霊碑も建立されました。
 済州島に帰った母親は日本で受けたような差別もなく、結婚を約束した恋人もできました。
 ここでの幸せな暮らしを思い描いていた矢先4、三事件が起きます。婚約者はなくなり、
母親は幼い弟、妹を連れて密航戦で再び大阪に戻ったのです。

ヤ:んー、ずっと4・3のことを語らずに、アボジは 42年に日本に渡ってきたし、私の父は。で、母は大阪生まれなんでみたいな。だから、4・3の本を読んでましたけど、うちの両親は直接的には関係ないんだなってずっと思ってましたし。で、母に聞いても「知らん知らん」とか「済州島行ったことない」とか最初は言ってたんで、行ったこと、1回も行けんかったんやね。「1回行ってみたい」とか聞くと、「あ、ちょっとおった」とか、「ちょっと住んでたことがあんねん」とか、なんか最初そんな適当な言い方をしてたんですね。
ナ:父親が亡くなってから1人暮らしになった母は、娘が帰ってくるとポツリポツリと済州島の思い出を語るようになりました。ヨンヒさんは、記憶の断片のような母親の証言を記録し始めます。しかし、どうやって作品にするのか答えは見つかりませんでした。
 そんな時、1人の日本人が現れます。 編集者をしている今の夫、荒井カオルさんです。「ディア・ピョンヤン」を何度も見て、ヨンヒさんの生き様に心を動かされたと言います。 初めて荒井さんが母親に挨拶に来た日、結婚するなら、朝鮮人と言い続けていた母親の姿にヨンヒさんは驚きました。自慢の済州島の鳥スープを作り始めたのです。

ヤ:アライが母にあった日、私はカメラマンでしたが、正直すごく衝撃を受けたし、感動したんですよね。その母の荒井に対する態度にもそうだし、荒井の母に対する態度にも、なんか本当に外交官かよっていうぐらい争いごとのネタになるような会話は一切せず、いらん質問もせずいらん説明もせず、平和を保つためだけに、ニコニコしながら、お互いを気遣い合って、ご飯を食べて別れるっていうね。 
 東京に戻ってきたら、お母さんには、オモニは長生きをしてもらう、長生きしてほしいじゃなくて、長生きをしてもらうって言ったんですよ、俺がそうするみたいな言い方だったんですよ。で、私びっくりしてで、家族になる気満々なわけですよ。この人すごいなと思って、そっからこの2人をずっとちょっと撮りたいと思ったんですよね。 日本人ダメだって言ってたうちの母が、この日本人の荒井と本当に見事にどんどん近くなって、家族になっていく様子は、家族ってほっといてもなるものじゃなくって、 お互いの努力によって家族になっていくもんなんだなって、なんか血が繋がってるとかそういうので、ふんぞり返ってちゃいけないんだなみたいなね、もっと言うと、家族ってやっぱすごいめんどくさくって、鬱陶しいものでもあるけれども、なんかすごいいいもんだなって、初めてかも、思ったんですよね。

『ヤンヨンヒ(映画のナレーターとして):韓国済州島から済州4・3研究所のメンバーが聞き取り調査のため、母に会いに来た。1948年に起こった大量殺戮の体験者を訪ね、日本でもインタビューを続けている。
 この日を境に母の認知症が劇的に進み、いるはずのない家族を探し始めた。 

『母親:アボジは何してんねんアボジはね
 ヤ:アボジはね、もうちょっと遅く帰ってくるわ、今度アボジ会うてね、言わなアボジといっぱい飲まなあかんな。』

ナ:2018年4月、ヨンヒさんは母親を連れてあの日から70年が経った済州島を訪れました。
プロデューサーとして映画作りを支えてくれる夫も一緒に、消えゆく母親の記憶を受け止めたいと考えていました。

『ヤンヨンヒ(映画のナレーターとして):70年前、この道を歩いた母は無残に殺された村人達の遺体を見て涙が溢れたと言った。母達は、警察の検問をくぐり抜けるため、散歩を楽しむ兄弟を装い、歩みを進めた。どれほど怖かっただろう。18歳の母はどんなに勇敢だっただろう。

ヤ:「スープとイデオロギー」には一切出してないんですが、今までどの映画でも語ってないんですけど、実は母の実の兄、弟じゃなくて、兄がいて、その母の兄が日本兵として戦地に行き、南方の方に島に行き、で、そのまま帰ってきてないんですね。未だに戦死の知らせもないまま。その生まれ育ったところも、自分の国と思うにはなかなか厳しい、で、親の故郷に行ったら、そこはもっと残酷なことがある。自国民によってね、同士殺し合うみたいなのを目の前で見るわけですし、婚約者を失い、また日本に来て、それで日本でもない南でもないってなって、北を信じた、で、息子達まで全部送ったら、パラダイスじゃなかったってことで、 1番上の息子は、精神を病み、自分より先に死ぬと。
 母は本当強烈に故郷とか、祖国、母国を持ちたかったんだと思います。 でも、最後に信じた北朝鮮を失うわけにはいかなかったんだと思います。でも、まあその中でも本当に気丈に愚痴らずに笑いながら生きてきた精神力っていうのは、本当すごいなっていう。
 50代後半になって、 初めて、自分が避難民の娘だっていう、難民の娘だっていう、私の新しいアイデンティティの発見にも繋がるわけですよね。それも、すごくどういう生きざま
を経てきた人の娘かっていうのをもう1つ踏み込んだ次元でわかるっていうのは、やっぱすごい大事な、貴重な体験で、やっぱ自分が何者の娘かみたいなのをはっきり分かるっていうのはすごい自信に繋がる。深く分かるっていう、知るっていうことが自信に繋がるってことです。だから、なんでオモニはこう韓国に対してこう思うんだろうっていう疑問ではなくて、その私なりのパズルが埋まるっていうか、答えっていうか、子供に自分が何者かっていうのをしっかり伝えるっていうのは、そういう子供に親を知り、親と自分の人生の繋がり方を知り、それは歴史と言うんだと思うんですが、きっかけと道しるべみたいなのをもらった
と思ってます。
 で、済州島という私が生まれた場所ではないけれども、でも、私が故郷と思いたくなるような場所をもらったような気になりますね。
 3年間という時間は長くはないけれども。でもやっぱり母の人生において、あの3年間の済州島っていうのはすごく長いし、あたしにとっての母と過ごした済州島の数日間っていうのは、やっぱ強烈に今後、私の人生に影響していくと思うので、そのおかげですごい近しく思える場所。生まれ育った大阪以上に恋しいみたいな気持ちになってるところはありますね。少なくとも短い時間でも、母がやっぱり必死で、なんか青春を謳歌して、また生き延びようと必死に戦った場所なので。
 最近大きな変化に気づいたんです。ブルー、青色がオッケーになったんですよ、ずっとブルーが苦手だったんですけど、 海関連が全部苦手だった。なんかこう悲しいとか、別れとかそういうイメージなので、それが最近ね青オッケーになりました。1つハードル超えた感じがしますね。

ナ:最新作「スープとイデオロギー」は、韓国での公開も始まっています。既に次回作の企画は頭の中にあります。日本と平壌を舞台にした劇映画、これからシナリオの執筆に入ります。

ヤ:だから、彼と出会ってほんとになんて言うんでしょうね笑うようになった。これはね、韓国のスタッフに言われたんですよ。

荒井(以下「荒」という):あの、明らかに死から遠ざかったと思います、この5年で。

ヤ:うん、死にたいと考えなくなりました。 死にたいと考える回数がダダダーッと減ってなくなりました。本当に短期間の間に彼と付き合い始め。

荒:だからまずはね。まずは「スープとイデオロギー」を作らなきゃいけないと、作編を作るんだと。あなたの仕事、作品を作ることじゃないかって言って、すごい励ましたんです。今作り終わって、もう次はまた次の映画を作ろみたいなことで励ましてます。創作しながら生きるんだ。

ヤ:うちのお母ちゃんみたいな人を主人公にね。コメディみたいなの作りたいですよね。エキセントリックに肖像が毎日磨いてみたいな、そういうこう「あのおばちゃんちょっとおかしいねん、ちょっと北好きやねんで」みたいな人なんやけど、めっちゃええ人なんですよ。
めっちゃええ人で、近所の人にもよくしてあげるんだけど、なんか色々心に秘めたことがあってやってる、そんなおばちゃんの話できないかなと思ってみたりね。

 

かぞくのくに

朝鮮大学校物語 (角川文庫)

兄 かぞくのくに (小学館文庫)