eraoftheheart

NHK「こころの時代〜宗教・人生〜」の文字起こしです

2022/12/18 瞑想でたどる仏教~心と体を観察する~第3回 多様化する瞑想 (再放送、初回放送:2021/6/20)

蓑輪顕量:東京大学大学院教授
為末大:元プロ陸上選手
ききて:中條誠子

中條(以下「中」という):心の時代では、毎月1回「瞑想でたどる仏教~心と体を観察する~」と題しまして、 仏教瞑想の世界をご紹介しています。お話しくださいますのは、東京大学大学院教授、 仏教学がご専門の蓑輪顕量先生です。よろしくお願いいたします。

蓑輪(以下「蓑」という):よろしくお願いいたします。

中:そして、聞き手は為末大です、よろしくお願いします。

中:今から2,500年前にブッダが、苦しみから飲まれるために瞑想を見い出した。その瞑想というのは私たちの心と体をしっかりと観察することで、認識の仕組みがわかって心を静めることができるということを知りました。

為末(以下「為」という):この瞑想っていう言葉がね、どうしてもなんとなくふわっとしていて、だけど、あんまりこれ聞いていいことなのかなっていうのあったんで、今までそのままにしておいたのがとってもよく理解できて、なんでも質問してよかったので、すごくクリアになったのを覚えてますね。

中:蓑輪さん、第3回今回はどんな展開なんでしょうか。

蓑:今回はブッダの死後、仏教が数百年かけてインド各地に広がっていきますけれども、 その様子を瞑想を通じてたどっていきたいと考えています。 そのプロセスを知れば、仏教が大切にしたものがなんであったかが、またよく見えてくると思います。

ナレーター(以下「ナ」という):仏教は今から2,500年前、ブッダが瞑想によって悟りを得たことで始まります。ブッダは、元々王の息子として生まれ、何不自由なく暮らしていました。しかしある時、生きている限り、誰もが老いや病、そして死を免れないと知り、苦しみを覚えます。
 苦しみから逃れる方法を探して、たどり着いたのが瞑想でした。瞑想によってブッダは苦しみを作り出すのは、自らの心だと気づき悟りを得ました。
 ブッダの瞑想は、初期の仏典では「念処」という言葉を使って表されています。「念処」とは、 注意を振り向けて、しっかりと把握すること。
 例えば呼吸に注意を振り向けます。息を吸ったり吐いたり、空気の出入りとそれに伴う体の動きに気づくでしょう。鳥の声を耳にした時、どんなふうに感じたでしょうか、心の動きもしっかりと把握します。このようにブッダの瞑想は、行動や感覚を観察の対象として捉え、気づき続けることで、自らの認識の仕組みを把握しようとするものでした。
 瞑想が仏教に欠かせないものとして受け継がれていく過程で、様々なものが観察の対象となっていきます。

中:その瞑想がどのように変化していったのかというのがわかるという書物がこちらですね。
蓑:「清浄道論」という名前で呼ばれる資料なんですけれども、5世紀頃には、出来上がっていたのではないかと考えられている資料なんです。 
 当時伝わっていた観察の対象をまとめ上げたものと考えていいと思うんですけれども、
初期の時にはですね出てこなかったものが含まれてるような気がいたします。

中:観察の対象っていうのが、瞑想における観察の対象?

蓑:そうです。初期の時には四念処という言葉で、観察の対象になるものは大きく4つに分けられていました。それは私たちの体の動き、それから心の中に生じてくる働き、そういうものに分けられていましたけれども、「清浄道論」になりますとそれがもっと細かくなりまして、実際には40種類ほどの瞑想の対象が出てまいります。

中:こちらがその40に分けられる、瞑想ですね。

為:今の時代だと見ないような感じがありますね。

ナ:ブッダが瞑想で観察の対象にしたのは大きく分けて4つでした。それが「清浄道論」の時代になると、細かく分類され、さらに新たなものも加わります。自然現象や具体的な事物、特定の言葉、心の持ちよう、様々なものが観察の対象となっていきます。

中:この1番上、これは「十遍」ということでよろしいですか?

蓑:「清浄道論」の最初に挙げられましたものは、「十遍」とか、あるいは「遍処」という風に呼ばれるんですけど、10個のものを挙げて観察を対象にして、ずっと集中をしていきですね、やがてそれが、私たちの身の回りに満ちているという風に観察していくやり方として挙げられてきます。
 最初の「地」はこの「大地」なんですけれども、地が遍満している。


ナ:「地遍処」とは、地が身の回りに満ちていると心の中で繰り返し唱え、集中する瞑想です。現在、東南アジアなどでは、土で作った円盤を目の前に置いて行います。円盤を見つめ、 「地、地、地」と唱えていると、たとえ円盤を取り除いても脳裏に焼き付いて地が溢れているように感じると言います。

中:自分の頭の中を、その地の円盤でいっぱいにするということですか。

蓑:基本的には自分の頭の中だと思うんですけれど、それは私たちの見えている世界にこう遍満していると。
 例えば家の中とかですね、それから、この町の中とか、あるいは宇宙にまで広がるような感じで、 こう遍満しているという風に観察をしていくという風に書かれています。

中:それをいっぱいにすると、どうなるんですか。

蓑:私たちは何か1つのものに集中していると、他の働きが起きなくなってきますので、それを進めていきますとやがて、私たちの心が静まっている状態っていうところに入ってきます。とにかく1つのものに集中して、他の働きが起きないように、心を訓練しているんだと思います。

中:そして、ちょっと次も見ていきたいんですが、この色々ちょっと

為:なんかちょっと怖い感じ。

中:そうなんですね。膨張したり、青くなったり、爛れたり、膿んだり、壊れたり。

蓑:これはですね私たちの身体が 亡くなってしまった後、死体になりますけれども、死体が腐敗する過程を観察を対象としています。で、そこに挙げられましたものを数えていただきますと、全部で10個ありますので「十不浄」という名前で呼ばれます。これは日本にも平安時代に伝わっていまして、その時には十ではなくて、九つで出てきまして、「九相図」という名前で呼ばれる、死体が腐敗してく様をですね絵に書いたものが存在していますけれども、その元になったものがこの十不浄です。

ナ:人が死ぬとその体はやがて膨張し、腐敗し、バラバラになって、最後には骨となり、自然に帰っていきます。死体の変化を直視し集中することで、修行者たちは人間の体にまつわる 1つの真理に気づきます。

蓑:身体がですね執着の対象ではないということを、これでもかというぐらいに納得させるためのものだったのではないかと思います。

中:美しくなってる人も富んでいる人も現世では色々皆さん形を持つわけなんですけれども、行き着く先は骨だぞという。

蓑:そうですね、これはもう万人に共通しているところで、私たちの身体に執着する必要はないということを確認させているんだと思います。 
 現在の、東南アジアのタイランドの仏教者の中にもこの不浄観は特に若いお坊さんたちに修習を進めることが多いと。で、それはなぜかというと、異性に対する欲望を抑えてくれるからだという風に出てきます。

為:でも、変化してく様子を見てくってことになんですね。きっと、1日じゃ起きないから、ずっと通って眺めてくって感じなんですかね。

蓑:これは、インド等の古代におきましては、村から離れた山の中とかにですね、あまり言葉遣いよくないかもしれませんけれども、死体捨て場みたいなところがありまして、そこのところに行きましたら、 亡くなったばかりの遺体から腐敗が進んでいる白骨になっているものとかですね、色々なものに接することはできたんだと思います。
 でも、そのような場所に行って観察をする時に色々な注意も出されていまして、例えば、人間の遺体が腐敗していくっていうことは、匂いも大変になってしまいますので、風上の方にいなさいとかですね、結構色々と細かい注意をしながら、観察をするというのが伝えられています。

為:それは観察の方法として残ってるんですね、How toとして

蓑:興味深いのはですね。元々は自分の身体を中心にして観察してると思うんですけれども、 やがて自分の外に存在するものも観察の対象にしているということだと思いますね。

為:あれですかね山登りで言うと、なんかこの1点に上がるんだけど、結構いろんな登り方があって、それが仏様の頃は ここからだよって言ってたのが、40個ぐらい出てくるけど、でもみんな目指すところは、大体同じところを目指してるってそういう感じですかね。

蓑:そうですね、手段は少し違うという風に考えたんでしょうけれども、目指してる世界は一緒っていう風に考えて、おそらく様々な工夫を認めていたのではないかと思います。 
 実際に別のものを使ってやってみても、同じような境地に到達できたっていうような、そういう体験が背景にあって、色々なものがその観察の対象として認められていくようになったのではないか。

中:この「十隨念」ですか?こちらは?

蓑:こちらはですね 念という言葉が使われてきてますけれども、私たちが心の中に抱くもの、概念的なものと考えていいと思うんですけれども、それを集中の対象として使っていきます。1番最初に登場いたします仏隨念というものがあるんですけども、これは「清浄道論」の時代には仏様のですね名号というんですけども、10種類の尊敬のための名称があったんです。仏は人間の師であるとか、よく討議をしている人であるとか、あるいは世の中の尊敬するものであるとかっていうので、「仏の十号」と言われるんですけども、この「仏の十号」を1つ1つ心の中で確認していくというやり方が出てくるんです。言葉もですね、集中をしていく対象として使えるというのに気がついたんだと思います。
 言葉を対象にして使うっていうのは、後に東アジア世界の方に伝わっていきますと、これはいわゆる念仏とかのですね、名号になっていくんだと思います。私たち身近な言葉としては、 「称名念仏」という言葉があると思いますけども、その称名念仏に繋がっていくのがこの隨念の修習だったのではないかと思います。

ナ:仏隨念では、仏に対する10の敬称を心の中で1つずつ繰り返し集中します。言葉を観察の対象とする瞑想です。最初、心の中で念じられていた言葉は、後に口に出して唱えられるようになります。「南無阿弥陀仏」など私たちにも馴染み深い念仏は、こうした言葉を手がかりにする瞑想をルーツの1つとしています。
 仏教の瞑想は、時代や文化に合わせて様々に形を変えていきました。インド北部のラダック地方、密教を信仰する地域です。密教は5世紀頃、仏教に土着の宗教が影響して生まれました。密教の僧は、真言と呼ばれる呪術的な言葉を声に出して繰り返します。儀式では、集団で仏の名前を口にします。尊い言葉に集中するのが密教の瞑想です。
 ブッダが1人行った心身の観察とは、一見異なる密教の瞑想。しかしここにも観察の対象を定め、注意を振り向けるというブッダの瞑想が確かに受け継がれています。

中:為末さんは、何かこう試合の前とか試合中とか、1つにこう集中するために唱えてる何か言葉だったり思いだったり、なんかありましたか。

為:僕はあんまりなかったんですけど、マイク・パウエルさんって、幅跳びで世界記録を持ってらっしゃる方が幅跳びを飛ぶ前に、ずっとブツブツブツブツ話をするんですね。で、1回実際に会ったことがあって、何を話してるかって聞いたら、「僕はできるんだ」とか、
決まった言葉は言ってて、それは本人曰く自分を信じさせてるっていうよりも、 そうして言っておいた方が頭の中でジャンプのイメージが描きやすいらしいんですよ。
 選手がプレイする前って、頭の中でその動きをずっと繰り返すんですね、頭の中なんですけどちょっと余白があって、それだけやってても、観客の声が聞こえたりとかするたびに「頑張れよ」って言われて、なんか急にプレッシャーが上がってきて、これ失敗ジャンプだったらどうしようとか、そういうのがどんどん起きてくんですけど、それをなんかシャットアウトするためのブツブツだったっていう風に言っていて、だから、なんかもうちょっとわかりやすい話かと思ったんですね、自分はやれるんだって言って、自分を信じさせるために話してるかと思った。なんかどっちかっていうと、体の内側で音を出して、 外から情報が入ってこないようにすることで、動きを頭の中でイメージを描くっていうことを言っていて、そういうことは あったかなってきしますね。

中:それで言うと、様々な観察対象があっていいということなんでしょうか。

蓑:そうですね、これは色々と新しいものができてきています。20世紀になってから、新しくできた瞑想のやり方っていうのがありまして、タイで発案されたようなんですけれども、手の動きを観察するっていうのが存在しています。
 今、手を動かす瞑想で「手動瞑想」っていう名前で呼ばれていますけども、もしよろしければ少しやってみますか?

中:今できるんですね?

蓑:簡単にできますので、まず手を膝の上に置いてください。手をこう1回膝の上でこう立てまして、それをこう上に持ってきます。で、上に持ってきたここのところでちょっとこう手の動きにですね、止まったところをこう気づいてください。で、その次に今度お腹にこう持ってきます。で、お腹に行ったところで、ちょっとこう気づいてください。で、同じように胸のとこに持っていって、こちらに持っていって、で、膝の上に落として、これだけの動きなんですけども、要点ははじーっとなんか観察するのではなくて、要所要所だけを気づけばいいです。慣れてくるといろんなことを考えちゃったりしますけども、それも全然構いません。考えてるなでもいいや、オッケーという感じで流して手放していくと、それでは
やってみましょう。

為:動きをだんだん覚えてきました。
 こういうのが瞑想に入っていいんだってのが驚きでした。なんとなく 、全身ピタっと止まってないと、そうじゃないってイメージがあった。動きながらでも、こういうのであれば、やったことあったなって気がしました。同じ動きをずっと繰り返していく時に、我々の場合は、どっか局所的な筋肉を意識するんですけど、そこに向けてずっと考えながら筋肉を続けていくと。

蓑:1つのものを対象にして気づいていくと、他の働きが起きにくくなってきますので、本当に集中力がついてくるんですよね。

為:スッキリしますね、そればっかりそれだけのこと考えるんで。

ナ:瞑想を通じて苦しみから逃れる道を解き続けたブッダは80歳で亡くなります。思いを継いだ弟子たちはブッダの教え、仏教を多くの人に伝えようと、インド各地へと歩み出しました。教えを伝える主体となったのは、出家者の集団「サンガ」でした。サンガが各地に広がるとともに瞑想をするのに欠かせない規則対「戒律」にも、 地域ごとの違いが生じていきます。


中:まずはブッダが入滅した後ですね、こちらから教えていただけますか。

蓑:入滅から約100年後なんですけれども、お釈迦さんの教えを信奉していたサンガが、2つに分かれます。これを「根本分裂」という名前で呼びます。この時に伝統的な保守派と 改革を目指したというわけではないですけども、改革的な考え方を持っていた派、上座部と大衆部と言うんですけども、この2つに分かれたと考えられています。 
 で、それ以降ですね、この上座部の中でも、大衆部の中でもさらに細かく派が生じまして、最終的には20の部派が存在したという風に伝えられています。

中:どうしてここまで分化が進んだんでしょうか。

蓑:軽い思いがあるんですけども規則が作られていくんです。で、その規則を 2週間に1度必ずそのサンガの人たちは集まって確認をしなければいけないっていう運営の仕方をしていた。実際に100年後に起きた事件というのはですね、それ以前は禁止されていたことに対して、これはしてもいいのではないかという新しい改革的な意見が出てくるんです。
 その1番有名なものがですね、塩を1日を超えて蓄えて良いかどうかという問題が出てまして。塩というのは、私たちが生活していく上で、とても欠かせない必要なものだと思うんですけれども、お釈迦さんの時代に作られた規則の中では、布施されたものはですね、その日のうちに、消費しなければいけないと いう風に決められていた。

中:蓄えていちゃいけいないけないと。ええ

蓑:ところが塩みたいな保存のきくものをですねいただいた時にも、もしもらったとしたらですね、その日のうちに使わなければいけないというのは、やはりちょっと不自然なところもあるのかもしれません。

為:じゃあ、「塩論争」で上座部とあれなんですね、「じゃあみんなもう1回ルール思い出しますよ」って話していった時に、なんかやってくうちに先生っていうのかわからないですけど、ちょっとこういう時にも言われた通りやんなきゃいけないですかみたいな、だんだんだんだん、塩ってこれ明日も残るじゃないですかみたいなのがちょっと出てきたみたいな。そんな感じで、徐々に徐々に意見の対立っていうか、考え方の違いみたいなそんな感じなんですかね?

蓑:そうですね。お釈迦さんが亡くなってから100年っていうと、何世代か過ぎてると思いますので、 新しい考え方というようなことを主張する人が出てきたのだろうと思います。 実際にお坊さんたちがですね、所有しても良いものっていうのが決められているんですで、それは着物と言いますか、衣という風にお坊さんの場合は言いますけれども、大中小の3枚は持っても良いという風に決められていたんです。ところがこの3枚の布ですから3衣と言いますけれども、それだけでは、仏教がですね例えば、北の方のヒマラヤの裾野の方に広がっていった時に、寒い地域ですので布3枚だけでは、やっぱり生活していくの大変になると思います。ですので、仏教が広がっていって時代も変わり、地域も変わると、そのような中でサンガを良好に運営していくためには、どうしたら良いかということを考えていたんだと思います。
 ですので、最初期のですね根本分裂というのは、いろんな異なった考え方が出てきて、それを認めることによって、つまり、サンガを分けてしまえば、そのサンガの中の規則には抵触しない。別のサンガは別の規則で運営されていけば、その中では戒律違反にならない。  ですから、戒律違反を避けるためにですね、分化というのが起きたのではないかと考えられています。

為:大衆部系の方が改革派っていうか、比較的新しいことっていう感じだと思うんですけども、だんだんそうやっていくと、この際の辺りに入っていくと、ここを超えたら仏教ではもうないんじゃないかっていう際が出てくるような気がするんですけど。

蓑そうですね、それあり得ますね。
為:その時って、どの辺を持って、仏教と解釈したのか?

蓑:お釈迦さん自身が、自らの悩み苦しみを超えるっていうのが最初だとは思うんですけれども、 1番の根底にあるのは、私たちの持っている悩み、苦しみ、そこからいかに解放されていくのか、それを ある意味で道筋を示してくださったのが、お釈迦さんだと思うんですけれども、それ以外のところについては、様々なものをですね柔軟に認めていくっていうことをしていたんだと思います。

為:それすごいなんていうか、おおらかですね。ラーメン屋で言うと、これとこれさえ使っててくれたら、あとはのれん分けしていいよみたいな。

蓑:いろんな形があってもいいよっていうことなんだと思います。で、その1番根底にあるのは、やはり心身を観察していくっていうことで、そこからあらゆるものは、実は私たちの心が作り出しているものなんだ。だから、こだわらなくていいよっていうところに多分行き着くんだと思います。

蓑:仏教は体験の宗教ですから、悩み苦しみを超えていくために、心身の観察、いわゆる瞑想がですね。きちんと存在してるんだと思うんですけども、そこのところをちゃんと受け継いでいればですね、問題ないという風に考えていたのではないかと思います。 
 ですから、瞑想に関しましても様々な新しい考察の対象みたいなものが認められていくのではないかなと思います。仏教は非常に寛容性に富んでいて、様々な多様性を肯定する姿勢があったという風に言うことができるのだと思います。

為:なんか、そもそもは「執着から離れよ」みたいなところに教えがあるから、多様性を否定すると、それ自体がなんか執着してるみたいになるんで、なんかそこもきっとね、自分自身をこうなんていうかな、ある執着から放たれていくってこと全ての人に広げていくと、当然教えがなんか寛容になっていくのかなっていうのは今思いました。
 仏教が残れていったっていうこのポイントっていうのと、この瞑想っていうのがずっと残ってきたことって、なんか関係があるもんなんですか。

蓑:仏教の中に伝えられている信というのは、実は自ら体験して確認する信だっていう風に言われるんです、それで出てくるのが仏教の信だと。
 何かですね、こちらの方から敬虔なる信仰を捧げると、これ「バクティ」っていう言葉で呼ばれるんですけど、それが他の仏教以外のところの信の特徴だって言われるんです。
 それに対して仏教者の方は自ら体験して、確認して、そして出てくる信が大切だっていう風に言ってるんです。

為:だから、1番最初に捧げなさい、そうするとバックがありますよっていう、信じなさい、恩恵がありますよっていう関係じゃなくて、自分でものためにまずやってみなさい。そして、体験として納得感があるなら続けなさいみたいな

蓑:そんな感じだと思いますね。ですから、基本的に仏教の中にはある意味で、その唯一心への信みたいなものと、ちょっと異質の信が存在していた。

為:それがブッダがちょっと神様、そうは言っても、なんか他の神様のこと神様っぽくないっていうか、あくまで1人の人間として語られることが多い気がするんですけど。

蓑:そうですね、そこにやっぱり原因があるんだと思います。
中:上座部大衆部というふうに分かれて、その後20の部派が生まれるっていうとこまで教えていただきましたが

蓑:私たちにも馴染みの深い大乗仏教というのが生まれます。大体紀元前の1世紀ぐらいからあったという風に考えられるんですけれども、新たな改革運動としての仏教が大乗仏教です。

ナ:大乗仏教が始まったのは、ブッダの死後300年余りが経った紀元前1世紀頃とされます。大乗仏教は「誰もが悟りを得られる」と説きます。それは、部派仏教に対する問題提起でした。
 部派仏教では、ブッダの教えを分析することが重視され解釈論に陥っていました。その結果、悟りは生きているうちに到達できないものとして扱われるようになります。 ブッダを悟りに導いた瞑想という体験も、十分に伝えられてませんでした。悟りが人々から遠くなっているのではないかと、大乗仏教は問いかけたのです。

蓑:ある意味で部派の時代の仏教というのが、色々なものを緻密に分析するようになってしまって、言葉による分析とかですね、そういうものにこだわってしまって、悟りの世界みたいなものも言葉で細かく分析するうちにですね、いつの間にかたどり着けないようなものになってしまったと。
 こうなりますと、もう私たちはこの世で修行しても、 悟りに到達することはできないというような認識になってしまいます。それをなんかやっぱりおかしいんではないかっていう風に考えた人たちが、悟りを自分たちのものに取り戻していく。こういうことをしたのではないか、という風に現在では考えられています。

為:なんかあれですかね、イメージとしては、その部派仏教の中で悟りとはこうじゃないかとか、そういうこう議論みたいな感じが行われていく中で、だんだん言葉と頭で理解をしようみたいな感じで、なんとなくそんな空気がある中で、グイッといや、そういうものじゃなくて、やっぱりもう少しこう体験的なもんなんじゃないかみたいな大きな流れが、こっちの世界だと、なんかこう空中戦になるっていうんですかね。言葉遊びみたいになってるようなものを、もう1回ちょっとこうどんと1回地に足ついたものに持ってくような、大きな流れがあって、そんな感じなんですかね。

蓑:そんな風に考えていいんだと思います。これは面白い例がですね、日本の仏教者の中に伝わっておりまして。臨済宗の中で、江戸時代に登場して活躍する大変に有名な白隠慧鶴禅師(はくいんえかくぜんじ)って方がいらっしゃるんですけど、どういうものかと言いますと、教説としてはですね、私たちの心があらゆるものを作り出しているっていうのは、耳で聞いて多くの人たちは理解してると思うんですけども、それをやっぱ本当に体で理解してるかどうかっていうことになりますと意外に難しいと言いますか、少ないのではないかと思うんです。
 白隠さんはですね、 若い時なんですけど、夕方、托鉢のために村を回って、それでお寺に帰ってきたと。大分疲れたと見えられまして、でも、夕方の日課としてですね、本堂、禅堂の中で座禅をしようと、でも疲れているから、今日は柱にもたれかかって座禅をしようと考えられたみたいでして、柱にこうもたれかかるんですけども、そしたらですね、あると思っていた柱がなくて、そのまま後ろにすってんころりんと1回転しちゃった。この時にですね白隠禅師は、まあカッカッカとですねお笑いになられて、大きな悟りの1つ「大悟の1つ」っていう風に後で位置づけられるんです。なぜだかわかりますか?

中:あると思ったものがなくって、、、
蓑:柱は自分自身の心が作り出したものだっていうのを、その時に実感として体験なさったんでしょうね。心を見つめていく瞑想が、そこから大切だっていうことをまた再認識されたんだと思います。 
 つまり、体験として理解していくっていうことの重要性というのを仏教はいつも主張してるんだと思います。

中:その大乗仏教における瞑想っていうのは、それまでの瞑想とどんなふうに違いますか。

蓑:基本的なところは変わらないと思うんですけれども、いわゆる観察の対象にするものに違いが、別のものが生じてきたりとか、教えの上でもですね実は、「空」を強調するというような特徴が出てまいります。「物事には実体がない」という意味で使われます。1つ1つのものが実体としては存在していないという意味で、例として、家というのがあるんですけども、家というのはそれそのものだけで成り立ってるものではない。例えば、ここの家もですね、柱があり、天井があり、屋根がありというので、こう出来上がっています。それで家が出来上がっています。でもよく考えてみると、柱が家そのものではないですし、これ本をただせば1本の木ですから、柱だけにしてしまって、横に置いたとしたら、柱とは呼べずに単なる材木ですよね。そうすると、柱とか屋根とかですね、そういうようなものと家というのは、 お互いに関係し合って初めて成り立っていると。

ナ:「空」という言葉は大乗仏教よりも前の初期の仏典に記されています。当初、その意味はあるべきところにあるべきものがない。例えば、象や馬がいない小屋は空、つまり空っぽだということです。大乗仏教では、空の捉え方が変わります。この小屋自体も実体のないものとされます。どういうことか家の例で見てみましょう。
 私たちが家と呼ぶものは分解してみれば、柱や屋根、壁などの集合体です。つまり、家とは柱や屋根などそれぞれが関わり合うことで現れたものに過ぎず、固定的な実体はないと考えるのです。

蓑:大乗仏教が登場してきて、空というのを協調する方が登場するんですけど、この人が実はナーガールジュナ、龍樹と呼ばれる方です。活躍されているのが、南インドの方だという風に言われています。
 龍樹さんの時になりますと、私たちの世界を説明する原理としても空というのが使われるようになります。私たちの身の周りに存在してる様々な事物ですけれど、これも実は実体としては存在しているものではないと捉えるようになっていきます。 
空という考え方と、縁起という考え方の両方を使っているんですけども、世の中に存在してるものは全て空であると。それはなぜかというと、縁起によって成立してるものだからっていう説明がされるようになってくるんです。

ナ:龍樹は2世紀頃活躍した僧侶です。彼のもとで大乗仏教は多くの信者を獲得します。 
人々を引きつけたのが龍樹が掲げた「すべてのものは空である」という思想です。龍樹が説く空に欠かせないのが縁起の概念です。
 縁起は物事の関係性を示します。この縁起は心身を観察するブッダの瞑想によって見出されました。ある事物が存在するから、それを観察する意識が生じる、観察する対象がなくなれば意識も消える。当初縁起は、先に観察される対象があり、その後に認識が生まれるという一方向の関係性を表していました。 大乗仏教の時代、龍樹によって縁起の概念は捉え直されます。一方向の関係性だけを意味していた縁起を双方向のものとしたのです。
 先ほど見た家、空では家は固定的な実体のないものとされます。家が存在するのは、柱や屋根、壁が互いに関わり合うからです。この双方向の関係性、縁起があらゆる物事を成り立たせると龍樹は主張します。
 双方向の縁起で世界を見てみると、人と人、人と自然、全ては結びつき影響し合っています。関係性がなければ、全ての存在が成り立たない。これを「すべてのものは空である」と龍樹は言いました。

蓑:全てが存在してるのは、関連性ということが強調されてきますから、ある意味で、自分と他者の区別みたいなものを、そんなに気にしなくてって言うんでしょうかね、1つのものとして、こう考えていくっていうことが可能になってくるんではないかなと思います。


為:柱があって、畳があって畳の中を見ていくと、いぐさがあって、その中に入ってくるどうも分子とか粒子の世界に多分そこまで入ってくと、今度は畳と外の空気との境目もなくなってくるっていう、多分なんかずっと観察してこうミクロの世界に入っていくと、境目があやふやになっちゃったみたいなところから帰ってくると、このそもそも実体、ここにクリアに自分と自分以外があるっていうのがなんか怪しくなっちゃったりするな、なんか、そんな感じじゃないかって気がするんですけど。空っていう前提があると、どう変わっていったんですか、その仏教ってのは。

蓑:一切のものはですね空であるっていう言い方が出てきますので、こだわる必要がなくなってきます。つまり、物事にはなんか固定普遍の実体っていうものは存在しないという風に見ていくと、ある意味で、非常にこだわりがなくなってきますし、楽になっていきます。

中:例えば、タイムをもっと縮めてよくしようとか、もっと飛ぼうとかいうことも、なんか溶け出していくっていうなことなんですか?

為:多分オリンピックに出たいと思っても、オリンピックがあることの間の縁起ですねっていう話なんだと思うんですよね。オリンピックがないと、あなたの欲望もないですねっていう全てがそういう相互関係にあるので、タイムを縮めるっていうことも目標があるから縮めたいっていうか、こういろんなものが溶け出していって、一体、なんか自分が向かう方向ってなんだろうとかっていう感じになるんじゃないかって気がするんですけど。

中:そうなると、どこへ向かっていけばいいのかっていうことが、戸惑いが出てこないかと思うんですが。

為:僕はなんか個人的にはそこが全ての苦しみのスタート地点のような気がして、「何かに向かわなきゃいけない」みたいなものを解体していくために、空っていうのが働いたんじゃないかっていう気がするんですけど、どう思われすかね?

蓑:今の存在してるものに対して、こう執着する必要もなければ、それを追い求めていかなければいけないっていうようなこともないようになっていくところがありますので、そういう意味で空であるからこそ安心できるようなところもですね、あるのではないかなと。

ナ:空に関わる瞑想は「空観」というような言葉で表現されています。「いっさいは空である」という風に観察していくっていうやり方が紹介されています。ですので、具体的にですね、心の中で実際は空であるっていう風に確認していくような、やり方だったのかなと推測しています。
 でも、もう1つ考えられるのは、入息出息などを観察してあらゆるものがですね生じては滅していくものなんだっていう風に気づいてくる観察もある意味で、その空を気づいていくことに繋がっていくんではないかなと思います。

中:空に気づいていくとどうなるんですか。私たちは

蓑:そこから実は、私たちの持っている慈悲というのがですね、きちんと出てくるという風にも考えることができます。ある意味で、「自他の区別がなくなる」ということだと思いますので、そういう世界というのは区別だてをしない世界、仏教の場合には区別だてすることを「分別」と言うんですけども、その分別のない世界をきちんと捉えることができると、それ「無分別智」っていう言い方がされるんですけども、自分も世界であり、世界も自分であると、自分は世界である、世界は自分であるというような、そういう感覚にもこうなっていくと思います。 
 ですから、私たちは日常的にもう隣の人は別の人っていう感じで考えてしまいますけれども、実は繋がった存在なんだっていう風にも言うことができるわけです。そこから、生じてくる感覚的なものですかね、これが多分、慈しみや哀れみの世界に繋がっていくんだと思います。

為:先ほど家に例えをされてたんですけど、梁が存在するためには、柱が支えてなきゃいけないっていう関係だと思うんです。例えば、世の中全部が縁起してるってことは、先生と僕の間にもなんかの支え合いの関係があって、片方が取り除かれると、片方が倒れるから、
全部が相互に必要とし合ってますねみたいな、要するにそういう感じで、慈悲が立ち上がってくるんじゃないかと思うんです。
 だから、全部個別に分けていくと1個取り除いちゃっても大丈夫かなって気になりますけど、実は全てが繋がってバランスするから、見えないけど何かがこう繋がってるっていうのを言葉ではこうなんだけど、多分体験的にそれを知って、そこになんか境目がないっていうか、関係があるんだっていうのに気づいてくんじゃないかなっていう気がするんですけどね、なんか、それが縁起と空のことなのかな。

ナ:1つ1つのものに実体のない世界では、自他の区別もありません。あなたや私が存在するのは互いの関わり合いがあるから。そうした縁起の世界に生きていると気づいた時、自然と湧き上がってくるのが慈悲です。慈悲の「慈」は慈しみ、人々に幸福を与えたいと思う心、「悲」は、哀れみ、人々の苦しみを取り除きたいと願う心です。

蓑:やっぱりある意味で、排斥もしないし、対立もしない世界なんだと思いますので、そういうものが出てくるんだと思います。これは瞑想の中の体験でよく言われることなんですけど、その全てがこう繋がっている世界っていうのを体験した人たちは、自然と他者に対する慈悲の気持ち、哀れみ、慈しみの気持ちが自然と生じてくるものなんだと。
 大乗仏教の人たちはですね。その空を強調し、それが慈悲に繋がっていて、そして、多くの人たちを悟りの世界に渡していくんだよっていう理想をですね、高らかに掲げることになります。自分が悟りを開いてなくても、他者を悟りの世界に渡してあげるというですね、そういう理想を立てるようになりまして、悟りの世界に自らが安住するのではなく、世の中の人のために尽くしていくっていうことをですね、うたうようになっていくんです、それはまさに慈悲の世界であり、それを実践している人たちが「菩薩」という名前で呼ばれるようになります。

為:今言われたのは、その本人が悟りを開いてなくても他者を悟りに導こうみたいな、そういうとこですかね。なんかそこはすごく、私たちの世界でいうコーチングの コーチの役割で、オリンピックに行ってないコーチは、オリンピアンにオリンピックのことを教えられるのかっていう問いがあるんですね。で、これよく選手側は疑問を持つわけですね、できるから教えられるんだろうっていう。でも、今はやっぱり認識が変わってきて、できることと導けることってのは違っていて、もうちょっと言うと選手を教えてるんじゃなくて、実は選手に伴走していて、選手がそこに行こうってことの、なんかサポートをするのがコーチだっていう。だから、決してその常に選手を上回る経験を持ってる必要はないんだっていう考え方に変わってきてるんですけど、ちょっと今伺いながら、そのなんとなく指導者ってね、自分が知ってることを伝えるってイメージがあったんですけど、自分が悟らなくても悟りに行く人を助けようっていうのは、その自分の経験とは関係なく、ある意味フェアな、なんかこうブラットな関係で支え合うみたいな、そんな印象を持って、それはとっても私たちの世界でも言われてることに近いなと思って。
 だから、それが今おっしゃった、悟ってるから悟らせられるんだねではなくて、その本人が悟ってる云々とは関係なくて、支援を、まあおそらくだから一方的でもないんじゃないかと思うんです。菩薩になりあってるっていうか、いつ誰でもそちら側になって、 そういう話かなと思って聞いてましたけど。

ナ:「すべては空であり、実体はない」と解いた龍樹。誰もが苦しみから逃れ悟りを得られることを大乗仏教で伝えようとしました。根源にはブッダの時代から脈々と受け継がれてきた慈悲がありました。
 慈悲は、瞑想の観察対象をまとめた「清浄道論」にも記されています、「四梵住」、相手を思う限りない気持ちに気づくことです。

蓑:これは「四梵住」とか、別名「四無量心」とも呼ばれるんですけれども、4つの尊い気持ちという風に言われるものです。続けて「慈悲喜捨」という風にまとめて呼んでしまうことも多いんですけれども、その4つの気持ちに対して気づいていくって感じなんですけれども、現在では、「慈悲の瞑想」という名前で呼ばれていますけれども、自己自身が幸せであるように、それから身近な人たちも幸せであるようありますようにとか、赤の他人も幸せでありますようにと。そして、非常に特徴的だなと思うんですけれども、まだ生まれていない者たちも幸せであれというのが願われているんです。
 この「四梵住」は、誰もがおそらく持っている気持ちだと思うんですけれども、なかなか 発言してくることが難しいような気がいたしまして、特に慈しみとか、哀れみの気持ちっていうのは、誰もが持ってるんだと思うんですけれども、意外に長続きしないのではないかなと考えることがあります。
 実は東日本大震災の時に、日本中の人あるいは世界中の人たちが、被災した人たちに対して何かしてあげなければならないっていう風に思ったと思うんですけども、あの時の感情はまさに慈しみや哀れの感情だと思うんです。ですので、万人が持っている感情なんだと思うんですけども、やがてそのような思いも忘れられていってしまいますので、仏教者たちはおそらく大変に尊い心持ちなので、それを長続きさせ自らのものにするために修習の対象としても出してきたんだと思います。
 これ、毎朝唱えられるようになってくれば、多分自分の心の中に自然と刷り込まれるように入っていくと思いますので、いろんなところで人に対する態度とかですね、言葉遣いとかが、 変わっていくようになるのではないかと思います。

中:ブッダが始めた仏教、元々は6人のサンガでしたよね。ここから、インド全部に広がっていくというとこを見たんですけどもいかがでしたか。

為:やっぱりここまで見てきて、仏教っていう考え方とか、そういう方に生きそうなものを 結局引き止めてたのは瞑想なのかなって気がして、あれがやっぱり 、いやいや体験なんだよっていうのを、その都度その都度引っ張ってくるような感じがあって、面白かったなっていうのと。でも、この慈悲のアイデアが出てきた時に、いや、なかなかこの慈悲の心でやるんだけど、でも、ちょっとぐらいはお返ししてほしいかな、みたいに思う人間の性っていうものとの向き合い方とか、だから、人間はずっと変わらないできてる本質をですね、よく見抜いていたんだろうなっていうのを改めて思いました。

中:日本に伝来するところまでこれから広がっていくわけなんですが、仏教の力改めていかがですか。

蓑:いろんな地域に広がっていって、その地域に存在している文化的な伝統とかですね、そういうものを柔軟に受け止めているというような気がいたします。特に多様性を受け止めていく、そこには寛容なる姿勢みたいなものが存在していて、でも、それを確かにに支えているものが瞑想みたいなところがあって、体験によって得られる何かっていうのは確実にあるんだよっていうのを、常に意識してたのではないかなという気がします。

中:次回第4回はインドで花開いた仏教が中国に渡ります。そして、のちに日本に伝来する仏教の基盤を作った展開を見ていきます。お二方、今日もありがとうございました。

 

NHKこころの時代~宗教・人生~ 瞑想でたどる仏教: 心と身体を観察する (NHKシリーズ NHKこころの時代)

仏教瞑想論