eraoftheheart

NHK「こころの時代〜宗教・人生〜」の文字起こしです

2022/10/9 シリーズ 「問われる宗教と"カルト"」前編 “カルト”問題の根源をさぐる

島薗進宗教学者
小原克博:牧師、宗教学者
櫻井義秀:宗教学者
若松英輔:批評家、随筆家
川島堅二:牧師、宗教学者
釈徹宗:僧侶、宗教学者

ナレーター(以下「ナ」という):宗教問題を最前線で考えてきた研究者、宗教者6人が集結した。”旧統一教会”問題から宗教と”カルト”の本質を徹底討論する。

島薗(以下「島」という):「問われる宗教と"カルト"」というテーマで話し合いをしたいと思っております。
 7月8日に安部元首相の殺害という事件が起こりましてね、宗教に多くの人が改めて関心を持つという事態になりました。今日は統一教会問題とこういうふうにいいましょうか、犯人がそういうことで苦しんできた人だったということから、なぜそういうことが起こっているのかということ。で、それはそもそも宗教とは何か、日本人にとって宗教は何か、あるいは現代人にとって宗教は何かと。あるいはまた、政治と宗教というのはどういう関係なのかと。まあこういうことに問いが広がっていると思います。そういうことについて話し合っていこうとそういうことでございます。

小原(以下「小」という):本日前編ですね、司会進行させて頂きます私小原克博と申します。ではあの、櫻井さん早速よろしくお願いいたします。

櫻井(以下「櫻」という):はい。私がですね統一教会に最初に触れたというのは1987年、35年前に遡ります。その時札幌市にですね社会病理研究会というのがありまして、そこで私霊感商法を担当したんですよね。それで弁護士会とか消費者センターに行きまして、そこで1981年に北炭夕張でですね、大事故があるんですけれどもその時ご主人を亡くされた女性がですね、1,000万円の弔慰金もらったんですが、それが霊感商品を買ってですね、全て無くしてしまったというケース初めて見ましてですね、それ以来霊感商法統一教会の問題というのはやっております。

若松(以下「若」という):今あの、私達は確かに宗教とカルトという問題をよく考えてみなきゃならないとこにいるんだと思うんですけども、宗教とカルトがまさにこう似て非なるものだってこと、やっぱ僕改めて考えたいなと思ってるんですね。似て非なるものっていうのは、外見上もしかしたら同じように見えるかもしれないけどもその本質を異にするっていうことですよね。
 私が今少し残念に思っているのは、宗教者、あるいは信仰者達がですね、自分達のありようということを自分達の言葉でもう少し語っていい、語らなければならない、むしろ。で、それは自分達の本当の使命というのが一体何で、どういう形で世の中とつながっていきたいのかということをですね肉声で語るべき時に来ているんじゃないかと思って、そんなこともちょっと皆さんと今日考えてみたいなというふうに思ってます。

川島(以下「川」という):最近ここ5年ぐらいは宗教2世、あるいはカルト2世の問題が実は私顧問を務めております日本脱カルト教会でもずっとテーマになってきました。それはある必然性が多分あって、日本でカルトが70年代、80年代盛んに布教を始めていく、その頃に大学生、若い人で信者になった者達が結婚して子供ができてその子供達の問題というのがその20年の経過の中でですね浮上してきたということだと理解しています。そういう観点で見るとこの度の事件というのはその問題が1つの臨界点に達したと。

釈:私が旧統一教会の問題について詳しく知るようになったのは、皆さんに比べると近年でして、6年ほど前に霊感商法対策弁護士連絡会とご縁ができて、いろいろ教えて頂くようになったんですが、もうその時から今回の痛ましい事件へとつながるような政治家と教会との関係っていうのは随分議論をされておりました。
 これまでもオウム真理教事件や9.11のテロ事件など何度か宗教がバーっとこう論じられる機会はあったんですがいずれもスキャンダラスなトピックスに終始してしまって、深く宗教を考える、これからの社会と宗教の在り方を考えるというところまでいかなかったんじゃないかと思いますと今回宗教について改めてしっかりと考える機会になればそんなふうに考えています。

小:今日はですね、これから早速宗教とカルトの問題に入っていくんですけども、同時にやっぱり私が関心を持ってきたのは宗教と政治とか宗教と国家の問題なんですね。で、これはあの私達は戦後社会に生きてますから戦前のことは終わったというふうにこう感じがちですけども、戦前のなんか政教一致祭政一致体制から戦後の政教分離へみたいなですね、そういうことを論じがちなんですけども、私自身はそれほど大きな断絶はないと思ってます。むしろいろんなものが連続して今に至ってるということを考えると国家の中にある宗教性みたいなもの、今回で言えば国葬などを通じてですね、深く考えることもできますのでいろんなテーマですね皆さんと一緒にこう議論していきたいというふうに思います。
 では最初ですけども、出だしの議論といたしましてはカルトとは何なのかということについて共に考えていきたいと思いますが、そのために問題提起をですね川島さんの方からして頂きたいというふうに思っています。

川:私が大学に教員として宗教学、キリスト教学担当の教員として職を得た年が1994年でした。ご承知のように1995年の3月からオウム真理教地下鉄サリン事件が起こり非常に衝撃を受けまして特にそれまではキリスト教思想の、一応自分の専門領域は近代におけるキリスト教の思想でしたけれども、大学で宗教学を教えていく限りこの問題は避けて通れないだろうということで当時専門家、それからカルトの被害者、脱会者等々でオウムの問題を総合的、いろんな立場から考えようということで結成された日本脱カルト教会にその時から参加してこの問題を考えてきたということになります。
 そういうカルトですけれども学生達にどういう仕方でアプローチするかそれもいろいろ変わっていきます。初期の70年代、80年代は統一教会が路上で「手相を勉強している者ですが」と言って手当たり次第に声をかけていくというのが主でしたけれども、コロナ禍以降はSNSを非常に巧みに利用していますね。いわゆる大学生達が利用する非常に良質な出会い系のそういうSNSがあります。有料でそこでいろんな外国人達と知り合ってネイティブの英語なり韓国語なり中国語がこう対話、使う機会を提供できるようなそういうところにカルトの布教者達が紛れ込んでいて巧みに自分達の集まりに誘導するというようなことです。そういうのが一応私が見てきたカルトですけども、一応ここではカルトとは何かという私なりの理解を提示しろということですので。
 カルトという言葉は非常に広い意味があります。一番一般的な意味は代表的な国語辞典、日本の国語辞典などがとっている、まずマイノリティーの集団であるということと、熱狂的な崇拝行為などを実践しているというその2点で大体定義してると思います。
 しかし、それイコールカルトだとすると別に対策を取る必要もない、大学などでカルト対策という時にはそれにプラスアルファして、やはりそこに関わってしまうと違法行為に巻き込まれる、あるいは人権侵害的な行為に知らずして最初は被害者ですよね、勧誘されるわけで被害者ですけども、時を置かずして今度はそれに加担する側に変わっていくので加害者になっていくと。そういう意味でマイノリティー集団で熱狂的な崇拝行為をするような団体で、しかし、そこに関わってしまうと違法行為、反社会的な行為に巻き込まれて非常な不利益を自分も被るし、また社会や人々に対しても被らせてしまうような団体、それを一応私の中ではカルトというふうに考えて、活動してきているということでございます。

小:ではあの特にですね、統一教会に関して恐らく詳細な調査をされ、またその実態もご存じの櫻井さんの方から統一教会に関わる問題を中心にカルトとは何なのかっていうことに少し迫って頂けますか。

櫻:川島さんの方からですね、非常に社会問題性のある集団という形でカルトの定義がなされたと思うんですよね。その中には正体を隠した勧誘であるとかあるいは違法な商品販売とか献金強要とかこういう問題が含まれる。その点では統一教会のカルト性というのは歴然としてるんですけども、この押さえ方だけではですね私、統一教会を認識するにはちょっと不足があるんじゃないかなというふうに思ってるんですね。統一教会の規模感から言いますと、日本だけで5万人から6万人の信者がいて、世界全体を含めればですね、相当数の信者さんがおられますし、教団自体がですね一種のコングロマリット敵な経済団体であるとか政治的なロビイング活動をする団体とか複合してまして、ちょっとそのカルトという収め方にですねストンと落ちないんじゃないのかというふうに私は思うんですね。
 しかもその政治に関わる何ていうんですかね、動機付けが他のカルト視される集団より極めて強いわけでして、その政治家の庇護を得ながら守られて成長したいと、こういうことが歴然としていますし、しかも70年くらいのですね、日本における定着の歴史があるのでこれを捉えるためには政治と宗教の関わりであるとかですねこういった側面も含めて見ていかなければいけないんじゃないのかなというふうに私は思っております。

島:宗教学とか宗教社会学を研究している人、あるいは恐らく法学の立場からもですね、カルトの定義は非常に難しいということなんで、学術用語としてはちょっと使えないというのが我々の考えですね。
 何がカルトかということの定義は非常に難しいんだけれども、しかし今、社会が懸念していることに関わって言えることは、非常に閉鎖的で、それから排外的、敵を見つける、敵への対立観が非常に強くある。そして、ひきこもるんじゃなくて攻撃的に外に向かって打って出るという側面があると。
 そういう団体はですね、大体コンフリクトを激しく起こすので社会の様々な抑制が働く場合が多い、統一教会の場合はその点が非常に特殊ですね。つまり、非常に攻撃的に社会に関わったにもかかわらず、抑制がきかなかった。これは政治的な庇護を受けたことが非常に大きいですね。

小:カルトとは何かということをですね今問うてるんですけども、恐らくそれは同時に宗教とは何かということへの問いへとかえっていくと思います。
 若松さんにお尋ねしたいんですけど最初の冒頭でのご発言の中で宗教とカルトは似て非なるものだということをですね、おっしゃって下さいましたけどその点についてもう少し説明して下さいますか。

若:私はカトリックのクリスチャンで、生まれて90日で洗礼を受けてますので母親のおなかにいる頃から教会に行ってたってそういう人間なんですけどね。
 私達が今考えてみなければならないのは、似て非なるものだということはですね、宗教というものは一歩間違えればカルトになるってことですよね、そのことはよく考えてみなければならなくて、なぜじゃあそこに何がそこに歯止めをするのかということと、絶対超えてはならない壁って何なんだっていうことを考えなくちゃならない。ですんで私はですね、大きく3つあると思ってるんですけど。
 1つは恐怖ですよね。恐怖によって人を縛りつけようとするもの。これが世の中で、これはまっとうな宗教だというふうに思われている、ところが仮にですよ、それをやったとしたら僕はそれはカルトなんだと思うんですよ。看板は関係ないんですよ。恐怖によって人を縛りつけてしまったらもうそれは宗教と呼ぶに値しない。
 後もう1つは搾取ですよね。搾取というのは、今問題になってるのは、持たざる者からその人が生活を破綻するまで何かを搾取するということですよね。搾取というところには本当の意味での自由がないんだと思うんですよ。
 後もう1つはどう言ったらいいんでしょうかね、言葉で言えば拘束なんですけども、宗教が本当に宗教であるということであれば、出入りは自由だと思うんです、出入りが自由だと。そこに属している、属していないということが本当に自由に行われる。
 ですので、人生の中で、ある時期はとても熱心にある宗教活動をしてたけど、しなくなるということが何ら問題にならない。宗教というのはその扉に鍵がかかってないはずなんです。もし何らかの宗教が内側から鍵をしめるようなことがあったらそれはもう宗教と呼ぶに値しない。
 だからその、私達は今この時代にカルトとは何かということを考えていくのはとても大事な問題なんですけど、宗教が知らず知らずのうちにですね、恐怖と搾取と拘束というのをしていないかってこともやっぱりもう一度考えてみたい。私達がそれの中の1つでももし自分の中に触れるようなことがあったらどんなに歴史的な看板がそこにあったとしても私達はやっぱり一度距離を保つべきだというふうに思うんですよね。

小:今カルトの問題を扱っていますけど、確かに伝統宗教もややもするとカルト化していくといいますか、恐怖を武器に人を集めたりお金を集めたりということっていうのはやっぱりこれまでもありましたよね。
 私はプロテスタントの信者なんですけども、アメリカのプロテスタントの場合には終末意識を非常に、終末的な恐怖を駆り立てて熱狂を生み出したりとかお金を集めたりというようなことというのはやっぱり後を絶たないんですよね。
 もっと緩い意味では例えば、地獄の恐ろしさ恐ろしさなんていうことを描いて、これはキリスト教なんかもしますし、仏教もするかもしれませんけども、もしあなた達が今なになにしないとこんなとこに行くんだよみたいなですね、やはりその恐怖を利用してきたという歴史もありますから、これ程度問題もあるのかもしれませんけど、やっぱりそこに対して私達慎重である必要がありますよね。

釈:統一教会というのはかなり悪質で大きな問題を抱えてるというふうに言わざるをえないと思います。またやはり各宗教集団、どれほどこう対話可能かっていうところはやっぱり大きいと思うんですよ。宗教間対話成り立つかどうかっていうのだってそもそも1つの目安になりうると思うんですよね。
 絵画の手法で近景、中景、遠景っていうのがあるそうなんですよ。近くのものを描く時は近景、遠くのものを描く時は遠景、その間の中景というような概念があるらしくて、それを少し宗教の構図に当てはめてみますと、私の問題とか家族の問題っていうのは近景。遠景に聖なる領域というものを設定するとする。もちろんその聖なるものと私とが直結するのが宗教体験の問題になるんですが、構図で言いますと遠景に聖なるもの、その中景に例えば文化であるとか地域コミュニティーであるとかさまざまなものがこうある、そのバランスみたいなものは宗教にとってはすごく考えなきゃいけない大事なとこだと思うんですよ。
 カルトとか原理主義というのはすごく中景が瘦せてて、私と聖なる領域というか究極の問題、究極の言説とがもう直結してしまう。日常がすごく軽視されて、中景が瘦せてるみたいなところがあるんじゃないかと思うんですが、中景がある程度分厚くないとね、宗教間対話って成り立たないんですよね。それぞれが自分の究極のところだけ主張したら決して折り合わないのが宗教というところがありますので、その辺りも1つ被害者の会があるかたくさんの訴訟を抱えてるか以外に宗教間対話が可能かどうか、中景を大切にしてるかどうかその辺りも1つ問題のあるカルト集団の見極め方っていうんでしょうか、見どころじゃないかというふうに思います。

小:そうですね、釈さん言われたようにカルトということと比較的隣接する言葉としては、原理主義という言葉がやっぱりあると思うんですよね。そしてそれは自分達の教義を半ば絶対化して他をもうあまり見なくなってしまう。つまり、中景をどんどん欠いていくわけですよね。ですからそれは恐らく多くの、もう本当に宗教の何ていうか伝統にかかわらずですね、あちこちに見ることができるとは思います。

川:若松さんが言われたことをちょっと取っ掛かりとしてちょっと考えるところがあるんでよろしいですかね。
 今やっぱり宗教とカルトの違いとかカルトとは何かということなので、若松さんいくつか3つくらい論点挙げて、その内最後に拘束ということを挙げられましたね、本来の宗教とは自由があると。
 しかしこれ中々宗教の側からも自由って結構カトリックの信者さんであるということでその辺り体感的に分かって頂けると思うんで、私も4代目のプロテスタントキリスト教徒でありまして毎週日曜日には礼拝に行くと。そうすると自由といってもやっぱり他の教会行くっていうのはすごく難しい雰囲気があるんですよ。やっぱりこの教会に帰属したらそこで忠実に一生信仰生活をすべきだと。その通常の教会でもかなりそういう拘束っていうんでしょうかねあると思うし、それが結局強度的に強くなっていくとやっぱり閉鎖的なカルトになると。やはり今本当に宗教が変わらなければならない。カルト化しないために大きく変わる時期が来ていると思っていてそこがまさにその点。
 つまり、帰属をもうここだけというふうにするのではなくて、いや今週はここだけどもこっちもとかね、そういう自由さっていうのはそういう意味とはちょっと違う感じでしょうか、若松さんのおっしゃる。

若:今のそういうことも現象的には起こるのかもしれないんですけども、人っていうのは信仰を守り続ける、一生守り続けるというのは中々難しい。ですので、いやちょっと自分は今信仰生活あるいは宗教というものから離れてみたいと思うことがあってもいいんだと思うんですよね。そのt気に宗教側から、いやそういうことをしてはならないというふうにもう一回引っ張り返すようなことをやはりすべきではない。何ていうんでしょうか、その人が離れていたとしてもその人のために祈るのが宗教だと思うんですよ。ですので、あなたが離れようとしてるのはそれは良くないことだから、あなたはここにとどまりなさいということをやはりしてはならない。
 やっぱり歴史的にはそういうことをやってきたというのはもちろん僕は理解してるつもりなんですけども、人は信じる自由だけじゃなくて、やっぱり迷う自由があると思うんですよね。その人の迷いってものまで奪ってしまうというのが僕はやっぱりとても恐ろしい。
 だから人は立ち止まり迷い、そして何かを探求するってことが信じることによって失われていくんだとしたら僕は何か残念なような気がするんですよね。

川:あれでしょうかね、そういう「ちょっと休みたいんだけど」とか「いやそれはサタンの声だよ」というともうカルトですか。

若:僕はそうだと思います。というのは、その人に宗教の側というのはどれだけの恐怖というものを相手に与えるのかを考えることなく発言するべきではないと思うんですよ。相手の心に刃を突きつけるようなことは絶対にしてはならない。
 むしろその人が離れたいと思って思ってることに寄り添わなきゃ駄目だと思うんですよ。そこに判断をするのではなくて、なぜその人が今離れなければならないのかってことを共に考えるってことなくですよ。そこにある判断がとても強い判断があったとしたら、それはやっぱりその人にとっては恐怖しか残らないように私には思えますけどね。

小:かなり本質的なところまで議論が及んだと思うんですけど、迷う機会が与えられてるかどうかということは1つやっぱり基準になると思うんですよね。
 ですから、信じることと迷うこと、信じることと疑うこと、こういったことがやっぱりバランスよく保たれてるかどうかというのが大事かなとは思うんですね。ただ、その迷うチャンスも与えられない。そして自由も与えられない、あるいはそういったことを疑ったり迷ったりすると先程言われたように、まさにそれはサタンの囁きだみたいなね。これまさに統一教会であらわれていたことだと思います。

釈:もともとコントロールを目的にもう近づいてくるわけですから、ある意味宗教の力を利用してるといいますか、宗教って大変力が強いので日常なんかあっさり潰されてしまいますよね。それを利用してコントロールするのが目的っていうようなそういうことになってきますよね。
 本来宗教というのはそういう毒とか棘を持ってるんですが、社会とせめぎ合いながら教義とか教学によって様々なリミッターやストッパーを設定しながら成熟してくるんですけども、そういうものを意図的に設定せずに聖なる力を利用して日常を潰すっていうことの残虐さといいますか、悪質さみたいなものを感じますよね。

小:そうですね。社会とのせめぎ合いというのはね人間がこの理解を深めたり成熟していくうえでは非常にやっぱり大事だと思うんですけど、そこの点をですね角度を変えて深めていきたと思うんですが、社会体制と宗教の関係についてですね、若松さんの方から少し問題提起を頂きたいと思います。

若:反体制という言葉が宗教を近年考える時にいろいろ発言いろんな角度で発言されると思うんですけど、宗教が反体制的であるということはもしかしたらその根源からして、あるいは私はキリスト者なので、イエスは必ずしもというか、大変反体制だったと行ってもいいくらいです。ただ、反体制ということと反社会ということは全然違うんだということです。
 むしろ今回の問題は宗教が体制側に入り込んだとこに大きな問題があるわけですね。ですので、宗教が反体制的であるということはその宗教の真偽を問う時に私達はとても信用に判断しなければならない。
 例えば宗教と政治というのが結び付いて反体制的な運動を起こした最も近年で大きな出来事それはインドの独立だと思うんですよ。インドの独立マハトマ・ガンディーが人々を率いた大変反体制的な動きだった。だけどもああいうふうに開かれた非暴力によってインドの独立を実現するということがあった。だから私達は反体制ということが必ずしも非人間的とか非社会的であるということとは違うんだってことを論議の前提にしないと体制的なものが良いことだというふうになってしまうととても恐ろしいことになる。
 ですので例えば、1993年以降のナチス・ドイツの蛮行、ああいうものはあれが体制だったわけですよね。あそこに非体制であるということはとても重要なことだった。そこにもちろん立ち上がったボンヘッファーのような人もいた。
 ですので私達は非体制イコール悪だというのではなくてそこにもっと繊細な視座と考えというのがやっぱりなくてはならないんだと思うんですね。で、反体制と言う時にじゃあその人達は何を守っているのかということだと思うんです。そして、宗教が自分達の利益を守るということになってしまうと少し問題がやはり出てくる。やはりその人間の尊さ、あるいは人間のつながり人間が存在する意味というものをどうしても守りたいということであれば宗教が反体制になって立ち上がるということはある。
 だけども自分達の考え、自分達の利益というものを獲得するために何か闘おうとするということは全く別なんだと思うんですね。

小:あのその点で言うとですね、キリスト教は恐らく反体制的な状況の中から生まれてきましたし、イエスはそれゆえに十字架にかけられたというところがやっぱりありますよね。まさに社会とかのせめぎ合いなんですけども、どうですか釈さん先程の発言から今のような議論が生まれてきたんですけども。

釈:反体制と反社会の区別っていうのはなるほど必要だと思います。またですね、宗教にはそもそも社会とは別の価値体系があって、だからこそ人は救われるっていう面があります。宗教には今泣いてるものこそが幸せである、今苦しんでるものこそ幸せである、悪人こそが救われる、死ぬ際には死ぬがよろしく候というような、やっぱり世間的な価値とは別のものを提示できるからこそ宗教の存在意義があるんですが。それは言ってみれば脱社会というか非社会というそういう方向性のことですよね。しかも究極のところで先程の話で言うと遠景の部分、究極のところがあるんですが、それと反社会っていうのもこれ区別すべきところかなというふうに思います。社会とは別の価値を持ってるからこそ宗教には様々な棘も毒もある。伝統教団というのはそうやって社会とせめぎ合っているのでもう棘が取れちゃって社会と共に存在してる状態ではあるんですが、ただ社会とこの棘との接点のところに文化も生まれ、アートも生まれ音楽も生まれるっていうそういう面があるというふうに思うんですよね。

小:伝統教団からね棘が取れてるというのは面白い表現だと思うんですけども、ちょっと取れすぎてそれで伝統教団に物足りなさを感じて、若い人はもっと刺激のあるカルトに

釈:そういうことだと思います。本来の宗教、本来が持ってる魅力っていうものがやっぱり減ってきて、さっきの図式で言えば遠景がもう霞んじゃって、中景ばかりが分厚くなってるっていうそういうところもあるかと思います。

島:オウム真理教もそうなんですがね、統一教会もある種鮮烈なイメージを持って出てきたというか、なので高学歴層が惹かれたんですね。統一教会も初期は高学歴層をターゲットにしてたんですね。それはある種反体制とすごく結び付いていたと思いますね。なので既成宗教にはないもの、日常のさっきの中景的なものでしょうかね、になじんでいない。しっかりとんがってるものはとんがってると、こういうところがある種の人達には非常に魅力的に感じられたと。そのことはちょっと忘れてはいけないことだと思いますね。

小:実際その統一教会、旧統一教会がしてきたことというのは、単に社会というより社会一般というよりかはですね、政治体制、既存の政治体制の中に深くこう食い込んできたっていうことが今や問題になっています。そこには恐らく価値を共有するという部分があったからそうなったと思うんですけども、その政治体制への食い込みという点で、櫻井さん

櫻:統一教会はですね、1950年代に韓国で生まれてるわけなんですけども、朴正煕(パクチョンヒ)政権の下でですね反共運動をやるという先兵、フロント団体としてですね庇護を受けながら成長できてきたってことなんですね。
 当時その韓国ではいろんなスキャンダラスな事件などもあったりしてですねキリスト教新宗教としては鳴かず飛ばず、そういう団体だったんです。ところがその政権の庇護を受けてですね一定程度勢力を拡張して、それから日本に来てですね、岸信介さんとか笹川良一さんとかですねそういった方々との関係も利用しつつですね、自民党政権、清和会などこういったその中にですね深く沈潜してきたわけなんですね。ですからその意味では、反共運動、国際勝共連合なんかが担っていたとこはですね、非常に体制内運動なんです。
 しかし、その反体制的なところがなかったのかというと、1960年代はですね、キャンパスにはですね新左翼であるとかマルクス主義的な考え方これがあって、この2つがですね体制だったわけです。それに対して統一教会はですね、キリスト教を統一する、神主権という新しい思想をですねこれを主張してたわけなんですね。それで一部の学生達が入っていった政治運動であり、思想運動だったんです。
 だからそういう意味では統一教会っていうのは、体制に沈潜する側面もあり、反体制的な面も示し、そしてまた様々な面を持ちながらですね現在に至ってるっていう、その意味でですね簡単に捉えることのできない宗教団体だなっていうふうに私は思ってるんですね。

釈:例えば、保守政治家の人達なんかは旧統一教会がやってるという、反日的な教義っていうのはどういうふうに考えてるんですか。

櫻:そこは見てないと思います。
 勝共連合の方もですね女性連合とか平和連合いろいろありますけども、自民党の保守的な考え方ですね、家族が大事であるとか、あるいは青少年の健全育成であるとかそこだけを見てですね、いわばその考え方がですね、重なってるというふうに思うわけですよ。
 しかし、その先は青少年の健全育成といっても結婚するまでは婚前交渉含めてですね、恋愛も禁止するとかですね非常に極端な主張をしてるんですけどもそこを見てない。これは私非常におかしいんじゃないかというふうに思ってます。

小:もともとはですね政治体制の食い込みというのは勝共連合を中心とする反共というところで一致する点があったからですよね。ところが冷戦の終焉、ソ連の解体ということを経て日本社会の中では反共という勢いというのは大分収まってきたと思うんですよ。
 つまり、冷戦以降の日本社会の中で特にその保守派の議員がなお統一教会との関係を非常に魅力的に考えた理由というのは、どこありますか、単に反共だけではなくって。

櫻:国際勝共連合のですね政治家への働きかけっていうのは、もうこれは70年代、80年代ず~っと一貫してるわけですね。
 しかし、政治家にとって統一教会がですね非常に魅力的になったというのは、1つは選挙での協力、無償のボランティアを派遣するであるとかですねいろんなビラ配りとか電話かけとかですねやってくれる人を確保できるとか、あるいは組織票の問題もあるんですけども、結局2000年代に入って日本の政治がですねどんどん安定した社会を求めていってそれぞれの政党が組織票を重視しますね。そういった中で統一教会というのは5万人か6万人なんですけども、これは地方議会においてはですね結構大きな意味を持ってます。そんな形でですね地方の議会、自治体あるいは国政にですね食い込める余地が出てきたんじゃないかと思うんですね。その意味で統一教会と政治との関係っていうのはですね、やはりこの20年代の日本の政治の動きと関連させて見なければいけないんじゃないかなというふうに私は思っております。

小:現代の日本社会の問題だけじゃなくって、先程棘が抜けてしまった伝統宗教の話もいたしましたけども、現代の宗教そのものがひょっとしたら歪んでいるかもしれない、そのように捉えることもできます。島薗さんの方から現代宗教の歪みち日本ということですね、特に宗教右派なども絡めながらまず問題提起して頂きたいと思います。

島:統一教会でこんなに酷いことが行われていたかということが見えてきて、みんな驚いていると。もうこの2ヶ月間そういうニュースをたくさん見てきたと思うんですが、その一つに嘘というかですね、さっきの恐怖、脅し、搾取と共にですね、嘘というのがあると思うんですね。これは例えば壺を売るというのもね、途方もない値段をつけたらこれが効果があったということで、これ宗教ですか、本当に嘘ですよね。
 しかしですね、考えてみるとですねなんでそんな、そういう宗教はかつてあったでしょうかということなんですけども、これはある意味で現代社会の病理を映し出しているような相手が気付かないならこちらの利益を通してしまっていいというような、そういう発想が宗教の中に入ってしまった。これは現代社会の病理を組み込んでしまっているというふうに言えるかもしれません。
 もう1つはですね、先程の保守的なモラル、これは反共産主義もそうですね、伝統的な家族同士の愛、近隣社会の隣人愛、そういうものが尊ばれる社会がどんどん崩れていく。それに対して何とかモラルを回復すると。トランプ大統領もですね統一教会に温かいメッセージを送ったんですかね、どのぐらいのお金が動いてるんだろうというふうに我々見てしまうんですが。
 しかし、トランプを支持してるグループ、議会に突っ込んだりする人達もいましたが、あの中にはかなりのキリスト教の右派、宗教右翼と言ったりもしますけどもそういうグループが関わってる。トランプ支持のグループのかなりの要素は宗教右派ですね。この人達は今の社会体制そのものに反対しながらですね、選挙の時には非常に強いと、それはまた権威主義であるといいますかね、民主主義的な社会体制そのものにあまり好意を持っていない。そういう人達をそういう専制的な手法を持つ政治家ですね、そういう政治家がこう近寄せると、こういうことが世界中に起こってるんじゃないかなという気がするんですね。プーチン大統領も宗教を非常に利用してるんですね。そういうことが大いに気になります。そういう側面から統一教会を捉える。これはカルトというと日本がすごく変わってるんじゃないかということなんですけども、同じようなことが世界にも起こっていて、そういう視野からですね統一教会問題、これは政治と宗教の好ましくない関係ということにもなるんですが、そういうところから見ることもできるかもしれないと思います。

小:アメリカとの、アメリカのですね統一教会との繋がり、これも日本で時々報道されていますけども、共和党との関係というのは非常に強いってことが言われています、歴代の大統領との関係であるとかですね。そしてそこでも当然接点がありまして、1つはやはりアメリカの中でどんどん失われていってるような伝統的なこのモラル、特に家族観ですよね。そういったことを一緒に立て直してくれるような頼もしき仲間としてですね、統一教会共和党の議員に受け入れられてきたという経緯があるかと思います。
 ですから、そういうこの価値が大きく変わってくる時代の中でその伝統的な価値観を守り抜きたいというような気持ちというのは恐らくどの世界にも多分起こり得るということですよね。
 ですから、その動機付け自体は私は決して間違ってないと思うんですけども、それがこうやり方を間違った時にまさにこの病理がですね、現象化していってるのではないかというふうに思いました。
 釈さんどうでしょうか。今もそのグローバルな視点でですね宗教それぞれが何らかの危うさを抱えてるというような話をしてきたんですけど、釈さんの視点から何か発言できることあれば。

釈:日本の場合で言うと、1つは戦後の宗教への認識の歪みみたいなものが1つあるかなと思います。GHQの主導でとにかく国家神道対策っていうのが強力に進められた結果、政治や教育の場からかなり徹底して宗教的なものを排除すると。で本来、政教分離はガバメントアンドチャーチですので、政治と教会の問題だったのですが、宗教全般をこうよけるっていうようなことになって、これは当時担当していたウッダードもいくら何でも無茶じゃないかっていうような意見を当時発言したのを残しているくらいなんですが。かなり無理に宗教的なものを徹底してアレルギー的に排除した結果そのカウンターとして右派の宗教右派の人達が声をあげたっていうのがあると思いますね。
 いずれにしてもとにかく宗教というのは本当に取扱注意案件で畏敬の念を持っておつきあいしなければいけない。人間から生まれ、宗教は人間から生まれたものであるにも関わらず、人間の手を離れて自目的に動きだすともうコントロール不能といいますか。
 例えば宗教の暴力装置や差別装置が稼働し始めるともう止まらないんですよね。人間の力でどうにもならないっていうそういう危なさがありますので、だからこそ、こう飽くなき教義、教学の議論を重ねて宗教が内包している暴力性や差別性を稼働させないようなリミッターを設定し続けなきゃいけないわけですね。
 そういう意味では信仰の持つ加害者性、信仰はそもそも加害者性を持ってるというそこに立たねばならない。信仰は常に人を傷つける可能性がある。信仰というのは他のストーリーに生きてる人に対して大変無頓着になったり、無自覚になりがちですのでそこに常に立つ。

小:ご指摘の通り戦後の日本社会というのは戦前への反省からやっぱり出発してるという点がありますから、戦前ですね国家が宗教と過度に関係して、まさにその宗教国家として最後戦争に入っていったと。ですから戦後教育の中からは宗教教育が徹底して排除されたわけですよね。
 その点で言うと宗教リテラシーというものを戦後世代というのはほぼ全世代欠いてるわけですよ、もう何にも基本が分かっていない。なのでカルトにですね甘い誘惑の声をかけられても簡単にそこに引きずり込まれてれてしまうと。
 同時に今私達はですね、日本の国内の問題としてだけでなく、グローバルな課題としてこのことをやっぱ考えようとしてるんですが、若松さんにちょっとお尋ねしたいんですけど、カトリックというのはですねもうグローバル宗教の典型的なものだと思います、先程暴力装置ってことも出ましたけどね、カトリック教会がそのような役割を果たした時代もありましたし、しかしそのことを反省して今のカトリックがあるってことを考えるといろんなことを学べる気がするんですけど、何かその視点からご発言いただけますか。

若:ウクライナの戦争が起こってから今の教皇フランシスコは発言をとても強くしてるんですけど、その中でとても注目すべきだなと思ったのは、宗教が政治に利用されてはならないってことを言うわけですよね。
 で、僕はこれなんかとても重要なことを言っていて、宗教がどこか政治に利用されることを待っていたんじゃないかっていうのは、僕やっぱちょっと考えてみなきゃならない、とっても重要な問題としてあるんだと思うんですね。
 この近代日本の歴史においてもその政治と波長を同じくすることが自分達にとっての利益なんじゃないか、ですんでこれからの宗教というのが本当に宗教であるためには、いかに利用されないかってことをやっぱり宗教側としては真剣に考えていく必要がある。
 後もう1つは、大事だと思ったのは、今の島薗先生や釈先生のお話から見ますとね、やっぱりその利己的であることを是認するんだと思うんです、宗教が。利己的であることを是認してしまったらそれは自分だけが救われて、自分だけが救われるのにお金が必要だということになってくるわけですね。宗教が利己ということをもう一度深く捉え直してそこにどうやって我々が闘っていくことができるのかということをやっぱり考えないとこの問題解決しないと思うんですよね。
 後もう1つは、救いは決してお金で買えないということを宗教は本当に強く語るべきなんですよ、救いは絶対にお金じゃ買えない。なぜなら神はお金は要らないんですよ。神はお金が要らないから、宗教者が1円でも多く払った人が救いに近づくみんたいなこと、雰囲気がですよ、もし既存の宗教が持っるんだとしたら、それはやっぱり改めなきゃ駄目なんだと
思うんですね。
 そういう社会が私達が今こういう不幸な出来事を生んでるんだってことをやっぱ既存の宗教側も考えなきゃいけない。ですんで、神はお金は要らないんです。で、このことをやっぱり責任ある宗教者達が今この時期に僕は強く語るべきだというふうには思っているんですけどね。

小:そうですね、その点は非常に大事ですし、特にキリスト教の場合には聖書の中でね、神と富に使えることをできないという言葉があるように、それを峻別するってことの大事さが語られていながら、しかし残念ながら、後のキリスト教の歴史では中々そうもいかなかったということで非常に難しい課題であるとは思うんですよね。

若:結局宗教というものが救いを売買するって形になるわけですよね。そんなことはありえない。救いというものは売ってないわけなんですよ。売ったり買ったりできないもんだってことをとっても基本的なことなんですけど、そういうことをやっぱり宗教はどこか語らずにきた。
 で、例えば宗教施設にお金がかかるって、これは当たり前のことなんです。ですけどもそのこととその人個人の救いということは全く関係ないです。
 だから100万円出したら救いに近づくんじゃなくて、100万円を出す余裕がある人はそれはもしかしたら出してもいいのかもしれない、だけども1円も出すことのできない人からお金を搾り取るとかって絶対にならないですね、それは。

小:そのいわば反対の例を示してきたのが統一教会だと思うんですよね。で、櫻井さんにお聞きしたいんですけども、信仰とお金の関係、旧統一教会の中ではどういうふうな論理が育まれて、そのお金を際限なく追及していくというような論理が正当化されてきたのか。

櫻:青年信者の場合はですね、いろんな活動をしながら最終的には合同結婚式に参加して祝福を受けて子供を受けるというこういう救いが予定されてるわけですよね。
 既にもう結婚しちゃった人、子供がいる人はもう一回ってできないわけです、最近できるようにはなってるんですけども、お金のためにですね。この人たちは神様に対して自分の心にですね、忠誠を示すやり方としてもう献金しかないと、こういうふうに言われてるわけなんですね。
 ですからそこでその信仰がお金に転換されているわけなんですよ。若松さんのその言葉を借りれば、一種その対価的なサービスに変わってるんですね、宗教的な行為が。それを積極的に進めてるのが1つ統一教会なんですけども、しかしこれ、統一教会だけの問題じゃなくてですね、いろんな諸宗教にやはりあるし、それを見てですね、いろんな学者の方もですね、こういった宗教被害これを防ぐためにはですね、その消費者法の枠の中で宗教行為を対価的サービスというふうに認識すれば、いわばその価格の相当性ということが判断できるんじゃないのかというこういう議論をですね今構築しようとされてるんですね。
 しかし、献金とかお布施というのはですね対価的なサービスにではなくて、贈与的な側面がやっぱりあると思うんですね。それは自分に対して何かしてくれた人に直接お返しするのではなくて、かなり回り回った形で一般的にお返しをしたいという気持ちを表すという、そういう贈与的な側面があるんですけども、やっぱりこの対価とですねその贈与の違いということを、宗教者自身がですね、あまり説明してきていないということがですねいろんな混乱を生み出してる原因じゃないかと。その意味で宗教リテラシーという言葉なんですけど、これは市民の側だけの問題じゃなくてですね、宗教者の側にもですね私はあるんじゃないのかなというふうに思います。

小:その通りですね、今の献金、、、川島さんどうぞ。

川:いいですか一言。まさにつながるところだと思うんですけど、今お話しを伺っていてそういう宗教の持つ負の面というのは、その経典そのものにねある程度ルーツがある。それを解釈する宗教指導者のまさに宗教リテラシーの問題なんだけれども。
 例えばお金のことで言えば、聖書で罪という言葉が借金を表す言葉と言語では同義ですよね、ですから、その罪の償いにお金でっていうのは、非常に経典レベルでこう裏付けることができる。そこを直接つなげちゃいけないんだけれども、統一教会はそれを巧みに利用しています。
 それから、島薗さんが最初に嘘の問題を挙げましたよね。で、まさに統一教会ではついていい嘘と悪い嘘があるけれども、騙してでも献金をさせるのはこれはついていい嘘なんだと、その人はその時騙されたと思うかもしれないけど、やがて裁きの時にそれが功徳となって最悪の地獄に行くところだったのが少しいい地獄に入れるみたいなそういうロジックですよね。
 それはですから、彼らに嘘をついちゃ駄目だよと言っても、いやこれはもう救いのためには許される嘘なんだってもう教え込まれてるから通じないわけですよね。その問題を私ずっとこう考えてた時に、実はこれ釈さんのご専門かもしれない「法華経」の中にそういう教えがあるんですよね。
 大きな館の中にたくさんの人が住んでいて、ところがもう相当古びた館でもういつ崩れるか分からないどころかもう火の手が実は上がって、もう間もなく館が。
ところがそこに住み着いてる人達は居心地がいいものだから、もう危ないよ危ないよと言っても全然動こうとしないと。そこでその館から引き出すためにその人達が関心を持つようななんか珍しいおもちゃとかあげるからさあ出ておいでと言って、館から出すみたいなそういう例えが人を救う時の例えが。
 ですから、本当のことを言っても通じない場合にはそういうことでというのがある、ということを考えると根が深いっていいますかね。
 だからそこでやはり要求されるのは宗教家の倫理性、まさにリテラシーとそういう問題だと思うんですけども、ちょっとそんなこと考えています。

小:嘘でもそれをこう正しいものだというふうに信じ込まされた人がその状況から脱するって非常に難しいですよね。外部の人があなた騙されてるんだよというふうに言ってもね、一旦入ってしまった論理からこう外に脱出させるための苦労みたいなものがもしあればちょっと教えてほしいんですけど。

川:ありすぎというか

小:もうそうだと思いますけども

川:もうそこの世界に入り込んでる人には、第三者がいくら言っても難しいっていうのが実感ですね。ですので、やはりその人が本当にそこに火が迫ってるんだっていう熱さなりそういうものを感じるような状況にこう直面しないと。後今の時代ね、あのそれこそ無理やり引き出してっていうのはもうできない、倫理性から言ってもできない時代ですからね。そこはやはり脱カルト支援の一番今難しいところかなと。
 まあ脱カルトの取り組みの中で3ヶ月と1年っていう私から経験値から出した数字があるんですけども、ファーストコンタクトから3ヶ月までであればほぼ100%、あの裏事情とか情報を提供することで脱出させることができる、その方法でできたマックスが1年、1年度はギリですね。もうそれ過ぎてしまうと本当にコントロールが深まってしまい、中々耳を傾けてもらえない。

島:オウム事件もね、最大の時にどのぐらいの人が出家をしたか1万人ぐらいいたかもしれませんがね、その大方は今は普通の生活に戻っている。だけどあれはやはりあの事件が起こって、社会の中の物の見方が変わったということがかなり影響してます。これは多分今統一教会についての様々な報道がなされたことがですね、メンバーの人達に相当実は大きな影響を与えている。
 だから一人一人を説得するということと共にですね、やはり社会が適切にそういう問題のある集団についての認識をですね共有していく、マスコミにもそういう役割があるし、研究者にもそういう役割があるんだけど、それはとても大きな意味があると思いますね。

若:もう1つだけいいですか。疑いってことをですね、宗教と疑いって問題なんですけども、どうしても宗教は既存の宗教がですね、疑いないことがいい状態だというようなとこに導いてきたように私には思えるんですけども。そうではなくて、信仰が深まってくということは、やっぱ疑いが深まってくってことなんだろうと思うんですよ。深く疑うことができるということがとても大事なことなんだって。人は疑う疑うことの中でしか発見できない問いというものもあるし、疑いの中でこそ人とつながるってことがあるんだろうと思うんですよ。それが確信こそよい状態だと、確信しなければ駄目なんだっていうとこに何か宗教が線を引いてきたんじゃないか。そうだとすると疑いなき状態が人間のゴールだというふうに思って当たり前なんだと思いますね。宗教というのが本当に働くべき時というのは、疑いもまた何かの意味であるっていうことがやっぱり宗教が今もう一度語りたいっていうか語って頂きたいなって感じは強くありますね。

小:そうですね。これぞ疑いなき道だというふうにカルトも示すし、原理主義も多分示すけども、それがやっぱり人間の自由とか可能性を非常にこう制限するわけですよね。
 これまでの議論の中でカルトとは一体何なのかというところからですね私達議論をはじめましてそれが今まさに話したように一人一人の個人の心の在り方、信仰と疑いの関係であったり、そして一旦疑いなき道を行った人がですね、どのようにすればそれを相対化できるのかとかですね、いろんな課題ありますので、私達は様々に視点を様々に変えながらこのカルトということから見えてくる問題をですね、やっぱり多様に見ていく日うようがあるのではないかということをですね今議論しながら感じました。
 ですから私達カルト問題、これはごく一部の人達だけの問題だというふうには考えないで、そのことを通じて照らし出されている日本社会の病巣であるとか政治と宗教の関係であるとかそういったこともですね今日は考えてくることができましたし、また引き続きですね議論していくことができればというふうに思います。どうもありがとうございました。

新宗教を問う ──近代日本人と救いの信仰 (ちくま新書)

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統一教会 日本宣教の戦略と韓日祝福

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大学のカルト対策 (カルト問題のフロンティア 1)

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