2022/12/4 僧侶たちの戦争
廣瀬卓爾:浄土宗平和協会理事長
ナレーター(以下「ナ」という):今年6月、仙台市で浄土宗の僧侶や信徒が集まって、平和を願う法要が開かれました。
会場に並べられたのは、戦時中の寺院の様子を物語る写真や資料、その中に注目を集めていた1枚の写真があります。太平洋戦争中、兵器を作る金属のために供出された阿弥陀如来像を囲む人々。滋賀県の僧侶、廣瀬卓爾さんは各地に残るこうした写真や資料を集めてきました。
『廣瀬(以下「廣」という):これは浄土宗だけじゃなくて、いろんな宗派が合同で学校の運動場に並べて(鐘を)供出するという』
ナ:戦争中、僧侶たちは檀家や信徒の人たちを戦地に送り出し、自らも出征しました。不殺生を教えとする仏教の僧侶が、なぜ戦争に協力することになったのでしょうか。
『廣:時代だったから仕方がなかったんだと、「今更そのことを掘り返してどうなるんだ」というご意見も届いてます。仕方がなかったではすまない、仏道に歩もうとして、私たちは僧侶になった。その人々が武器を取る、あるいは、檀信徒の方々を「頑張ってこい」と送り出すことは、私たちの務めではない。反省と教訓、上っ面のものではない、本気でそのことを考えたい』
ナ:廣瀬さんは、浄土州平和協会という団体の理事長です。戦争当時の資料が見つかったと聞くと、全国に足を運んで調査を続けてきました。
阿弥陀の供出があったことを示す写真は、群馬県の寺で見つかったものでした。阿弥陀仏は、戦時中の金属類回収令という勅令を受けて出されました。
『廣:非常にこう強烈な思いになりましてね、 象徴的なあれですね、、、
善念寺住職:お寺にとってはね、1番大切なもの。本当にみんなに惜しまれて、当時で言えば、お国のためにっていうことで、戦争にタスキをかけて行かれてしまった。
江戸時代の享保年間に作成された阿弥陀様の金仏様のようですね。
廣:阿弥陀様の供出ってのは、1点だけなんですよね。阿弥陀様まで供出のね、命令っていうか、この皆さん、檀徒さんの方々?
善念寺住職:檀徒さんの方もいらっしゃいますし、近所の方だと思うんですよね。80人ぐらいの方が、ここに写真に写ってますけれども。
廣:若い男性の方が少ないなっていう。
善念寺住職:そうですね。女性とね、子供が多いですよねあとはお年寄りですね。やっぱり若い方はみんな戦地に駆り出されていたんでしょうかね。
阿弥陀仏を戦争にやらなければならないっていう、本当に当時の祖父、父ももう大変心痛めるとこだったんじゃないかなってね思いますし、近所の人たちもまさかって気持ちで送ったかもしれないですよね』
ナ:この寺では、金属製の阿弥陀仏や梵鐘は差し出したものの、木製の本尊は守ったと言います。
『善念寺住職:大事な本尊様が戦争の戦火で焼かれてしまってはっていうことで、父がリアカーで高崎のいわゆる田舎のお寺に疎開をしてるんですね。ですから、先にこちらの阿弥陀様が戦争の方にとられてしまってて、 あとは、本尊様の皆様を守らなきゃならないっていう、そういった気持ちがより強くなったかもしれないですよね。
廣:皆様を供出の対象にしているっていう驚きと腹立たしさっていうか、怒りっていうかね、その時に送っていかれるそのご住職の気持ちっていうのは、やっぱりもう言い難いものがあったと思うんですよ。だって、教会で言うとね。イエスキリストのキリストの像を持ってくわけでしょ』
ナ:さらに調査を進めると、同じ群馬県で戦時下の寺の状況を移したフィルムも見つかりました。
戦局が悪化し、本土空襲の危険が高まると、寺は子供たちが避難する疎開先としても使われました。
『大運寺住職:これは今この参道ですね。最初見た時驚きました。現実でこういうことがあったんだなってほんとに』
ナ:フィルムと共に見つかった子供たちの日記には、戦時下の寺での生活や寺にまで召集令状が届いた時の様子が記されていました。
「5月19日(金)晴天、午後は大運寺の裏庭をかいこんして畑を作った。7月18日(水)晴れ、土屋先生に召集が来たという、驚きのことを聞いたあまり突然だった。7月19日(木)晴れ、4時頃起き、清掃もそこそこにすまし、日の丸の旗を作った。僕は土屋先生のことを思うと、涙が出てきた」
廣瀬さんは発掘した資料の中に、当時の人々の様々な思いを汲み取ろうとしてきました。
廣:過去の遺物とか、過去のものを考古学のような感覚でものを集めてるのでは決してないんですよね。
この間伺ったお寺で小嚢(しょうのう)っていうんですかね。兵隊さんが抱えてる小嚢の中から出てきたゲートル(脛に巻く布)、ゲートル1本見た瞬間、これを巻いた人の肌の温もりっていうか、ただ、ゲートルを履いた兵隊っていうの文字で読むと、ゲートルを巻いた兵隊がいたんだなっていう、もので、ゲートルを履いたこの兵士がすでに戦地で亡くなっている、ここへの思いがね。こういうものが非常にものの持ってる訴えがあると。
で、これを過去に学ぶっていうか、あるいは過去を生かすっていうか、だから、1つ1つのものが訴えてる、そこには、家族への思いとか、あるいは、友人への思いとかですね、自分の人生に対する思いとか、いろんなものがこう凝縮されて、ものがそこにあるという。 それに若い50代までの僧侶たち、今僧侶になってる人たちが思いを馳せてほしいっていう、それが資料を収集してる私の思いですね、協会全体の思いでもあると思いますけどね。
ナ:滋賀県大津市、琵琶湖近くに立つ願海寺、廣瀬さんは江戸時代から続く、この寺の31代目の住職です。
なぜ、自分が戦時中の資料を集めているのか、法要にやってくる人たちにもその動機を訴えてきました。
『廣:当時、どういうものであったのかっていうのを、いろんな材料で、過去にこういうことがあった。まさかもう核戦争はないだろうっていう風に私は思っていたんですね、思っていたっていう、もうすでに過去形です。日本は、2度と戦争をしない国であろういう風に思っていた。
ところが、最近の空気っていうのは決して、それが過去のものであったという風には思えられないような、そういう状況があります。その中で僧侶たちは過去において、どのような言葉で檀信徒さんを戦地に送ったんだろうか、その反省が必要だろう』
ナ:僧侶たちはどのようにして、戦争に組み込まれていったのか。
廣瀬さんが理事長を務める浄土州平和協会は、全国7,000を超える寺に呼び掛け、戦時資料を集めてきました。
福島県からは、寺を継ぐため仏教系の大学を卒業した青年の徴兵当時の遺品が寄せられました。
廣:これが、大正大学の学生であった時の青柳良厳さんっていう方が出征される時の出征旗。お寺の近在の人たちが、あるいは学生仲間が寄せ書きしたみたいですね。「俺も行くぞ」っていうものがありますね。
僧侶総動員態勢調査用表ってこんなものもあるんですね』
ナ:僧侶たちはなぜ戦場に向かったのか。廣瀬さんは、明治時代の日清戦争当時、出征する僧侶たちに渡された冊子に注目しています。
浄土州が教団として発行した教法「報恩教話」、僧侶が国家に奉仕することの義務がうたわれていました。
「たといその身は海に死し、山に斃るとも、弥陀仏の慈悲などか打ち捨ておかるべき、直ちに迎えて、浄土に往生せしめ給はん」、「この際、出陣の士、よくよく前のことわりを心得て、のちの世の落ち着きはまったく弥陀仏に打ちまかせ、この身はあくまで君王に捧げ上るべし」、「行く末は、弥陀仏の慈悲に任せて、自分の身体は天皇に捧げよ」、教団を束ねる管長が記した文章です。
『廣:「さてこの度の戦争は、朝鮮の弱気を憐れみ、独立を擁護せんが為に基づき、辭(ことば)明らかなる仁義の師(いくさ)なれば、之によれて我帝国の公営は廣く萬国(せかい)に輝くべし」
実際にこういうのを持って戦地に行った人たちっていうのは、浄土州の僧侶、信徒たるもは、 ご門主の言葉っていうのは、この当時絶対なんですよね。それを考えると、これを持ってる意味っていうのは、非常に大きい』
ナ:当時の日本で仏教はどういう立場に置かれていたのか、国の形を決めた大日本帝国憲法では、宗教についてこう規定されています。「日本臣民は、安寧秩序を妨げず、臣民たるの義務に背かざる限りにおいて、信教の自由を有す」、「信教の自由は、天皇に仕える臣民としての義務に背かないかぎり与えられる」とされています。
仏教もまた、天皇を頂点とする国家体制を支えるものとして、組み込まれていったのです。
廣:日本は天皇の国なんだと、で、自分たちはそれの子供なんだと。だから、天皇が天皇の名においてだから、まさに聖戦なんですよね。聖っていうのは、聖なる世界の聖戦ではなくて、天皇の戦争なんだと。そこに、それを親と思えば子たる国民は願ってでも行けと。非常に厳しく言うと、当時の彼らに仏教僧としてのその自覚があったのか、ということになるんですよね。
ただ、そういう時代であったから、武器を取らざるを得なかったんだという風に後になって今ね、私たちは慮ってそういう風に言いますけども、どういうレトリックでやったのかっていうのはわからないけども、そういうことを説いていたっていう事実は残っています。
名:なぜ、なんのために過去の歴史を検証しなければならないのか。廣瀬さんの僧侶としての活動の原点は、少年時代に遡ります。
『廣:この向こうが海外だと思ってたんです。これは海だと思ってたんで、海の向こうにあるのは海外だ』
ナ:廣瀬さんは、日本敗戦の2ヶ月前、1945年6月に 代々続く願海寺の長男として生まれました。成長するにつれ、 父の後を継いで住職になることに疑問を感じ、自分が僧侶として人生を歩むべきか悩みました。
廣:中学の時に、今でいう進学校だったので、みんなそれぞれ夢があるんですね。自分はこういう仕事に就きたい、こういう職に向いてかっていくんだ。ところがね、その夢を持とうにも、その頃から世襲、本来は世襲性じゃないんですけどね、浄土宗の場合は、ないけれども、寺に生まれた長男はその寺を継ぐというのが決まりではないけども、当たり前になって きた。で、悩んだんですね、で、なぜ悩んだのかって今から思うと、 そのこういう僧侶になりたいというモデルがなかった。
それで当時、中村錦之助という、後で萬屋っていう屋号が変わりますけども、彼が演じるとこの「親鸞」っていう映画があって、で、その親鸞聖人が若い頃悩まれるんですね。で、法然上人と同じように比叡山で学ばれるけれども、 一体そのここで学んでることのあるいは、自分が修行してるってことが人々にとってどういう意味を持つのか。あるいは自分の苦悩、苦悶さえ、その解決できないと。そのセリフが非常に強烈に胸の中に響いて、で、お経の本と三部経と全国寺院名鑑っていうのがありましたから、それをリュックサックに入れて、「立派な僧侶になって戻ってきます」という手紙も残して、法然上人が歩まれた道、比叡山の方へまあ、向かったんですね。
ナ:廣瀬さんは、人々をどう救えるか、自らも苦悩した法然や親鸞の足跡を追うようにして、家を出ます。それは、俗世での生活を絶つことまで考えた出家のつもりでした。
廣:もう辺り構わずお寺を探すか、あるいは、仙人にでもなってと思って向かったんですけども、その日がちょうど土曜の丑の日で、私がウナギが好きなので、 ひょっとしたら今生の終わりかと、今生の最後の食事になると思って、そのうなぎ屋に入った。そうすると2週間近く夏歩いてるわけですから、中学生が無銭飲食に来たんではないかっていうんで、店の主人がお金持ってんのかと言いながら、その主人は村の駐在所に電話をして、変なのが来たと、駐在さんが来て、 そこでまあ身柄が保護されて、で帰ってきたんですね。
出家するための旅立ちだったわけですけども、世間はそれは家出少年、で、謹慎処分。
で、東京に行こうと、で、それを父に言いましたら、それでよしと、好きな道を歩めと、 寺に生まれたから、不承不承継ぐっていうことになると、阿弥陀様の願いでもないし、ましてや、檀信徒さんたちの気持ちにも沿わないと。
ナ:覚悟の出家のつもりが不良少年の家出とされたことにショックを受けた廣瀬さんは、高校卒業後、 念願だった上京を果たします。大正大学に入学し、社会学を専攻、そこで出会った教授の言葉が廣瀬さんにとって、その後の道しるべとなりました。
廣:社会病理学っていうのをね学んだんですよ、で、その恩師は柏熊岬二という先生で、下半身が不随だったんですよね。それで私はおんぶして教授会に出たりしたんですけども、社会病理学って何のために君やるんだと。そこに困ってる人たちがいる、なぜ、その問題が起こってきたのかっていうのを研究するんだろうと。そうすれば、 その状態をなくすにはどうすればいいのかっていうのを書く、これが俺の学問だと思うという風におっしゃってね、もう55歳で亡くしてますから、あれですが、未だにやっぱりそういうことだと思うんですね。仏教ましてや仏教。
ナ:学問は苦しんでいる人たちの身になって、その原因を探り、現在をより良くするためにこそある。この恩師の言葉は、廣瀬さんのその後のライフワークに繋がっていきました。
廣瀬さんには、仏教者にとっての戦争を我が身に引き寄せて考える上で、 ずっとわだかまりとなってきた写真があります。戦時中、中国大陸で撮影された先代住職の父、亮誡さんの写真、袈裟を着た父がサーベルを持つ男たちと写っています。
父、亮誡さんは日中戦争のさなか、日本の植民地だった朝鮮半島や疎開があった中国大陸などに派遣される「開教使」。海外で布教活動をする僧侶として蘇州に渡っていたのです。
廣:四日市の農家の出身なんすね父は。で、僧侶になる道を歩んで、その浄土宗の僧侶になって、やがてその中国大陸の開教使補ですかね、そういう形で蘇州へ渡るんですよ。
蘇州で日本語幼稚園ですね、明照幼稚園っていうのをして、その時にやっぱり保母さんが何人か必要だと、そこにいたのが母。その母と向こうで結婚をするんですね。
行く時は、 阿弥陀様をね体にくくりつけて、同心一体なんだと、で、それぐらいの思いで開教に行ってますから。で、当時はいわゆる満州に開拓団の人たちも入る、ほとんど満州のネイティブの人も日本的な文化や言葉やそういうものがもう日本化されてましたから、父はそういう若くて向こうに移られた人たちを対象に法然上人の御教を教化する、あるいはそこで生まれた日本人及び中国人の子供たちを保育する、そういう役割を担っていたんですね。
ただ、戦況がやはり厳しくなってくる16年、17年になってくると、日本軍の戦線の拡大なり整備等に長く地元に住んでいるものですから、いろんな情報を提供するという役割も担っていたと。で、そのことは当時、私も中学か高校の時にそういう役割について疑問に思ってましたから、サーベルを持った人たちと一緒に真ん中に座っている写真があるんですね。で、なぜ僧侶がサーベルを脇に置いたのと、並んでいるのか、同席してるのかと、それで、別の写真があってね、その時に父は僧服じゃなかったですね。いわゆる国民服っていうんですかね、カーキ色のあれを着て、小高い丘に立って、何か軍人たちと一緒に並んでいる。そして、いわゆる軍人に何かこう説明してる写真があったので、これは何をしてるんだと言ったら、「私は土地を蘇州の町を知ってるから、どういう風に守る時はどこを守ればいいのか、どこに構えればいいのかというのを相談を受けたから、それの説明をしてるんだ」と、それで「これじゃまるで、仏教の教えを伝えに行ったんじゃなくて、協力じゃないのか?」と淡々と言ったんですよね、そしたら「冗談じゃない」と。「子供たち、中国の子供たちに蘇州で幼稚園を開き、そして、そこに住んでる日本人の人たちに、ラジオ講座の企画もしたんだと、だから、決してそういうことではない」と。
それが父とのこう軋轢にずっとなってましたね。まして、その宣撫工作の一翼をね担ったんではないのかと。それで、最初聞こうとしなかったので、「そういう話をよそう」と行ったんで、「よしません」と。「なぜその話から逃げるんだ」っていうぐらいまで、ちょっと激しいやり取りだったですね。
インド、中国、朝鮮半島から経由してきた日本仏教が、なぜその仏教が西に向かって開教
というおこがましいことを考えたんだって、そういう疑問も当時私持ったんですが、それはともかく、日本仏教の法然上人ひとえに、一筋に来ている、あるいは親鸞聖人一筋に来た人たちがこの教えこそ、今異郷の地で頑張っている日本人に対して説くべき教えだと思って、多くの人たちは出ていったわけですね。
開教使になって赴任するわけですが、それをいわゆる統括している上層部がね、ある種の目的を担って、彼らは動くんだっていうのを知っているわけですね。で、それは今までのいろんな資料の中からでも、その僧侶を工作員というか、そういう任務に就かせるべく、その協力を要請しているっていう日本の国策、国の政策が残ってますから。
だから、父がそれをいつ感じ始めたのか、あるいはそれを知った上で協力したのかっていうのは、最後までわからなかったですね。
ナ:父、亮誡さんは戦争当時の心の内を語らないまま、この世を去りました。 廣瀬さんの記憶に残っているのは、帰国後の人生を地域の生活困窮者支援や福祉活動に捧げた父の姿でした。
廣:蘇州時代っていうかね、開教使の頃も、父はそういう姿であったし、帰ってきてからも、そのことに触れることへの反応っていうのは、さっき言ったような、時に怒り、時に口を閉ざす。ただ、当然帰ってきて、社会福祉に従事すると。で、それは開教に行ってたっていうこともあるんでしょうけども、在日の外国籍を持った人たち、一世たちが亡くなっていく、その弔いをしようということで、今も在日韓国朝鮮籍の方、あるいは帰化された方も結構このお寺多いんですね。それと、生活保護、まだね、社会保障がそんなに整備されてない頃ですからね。昭和21年、22年、27年ってのは、で、その生活困窮の方々のお弔い、そういうものをやってましたからね。だから、私の記憶は、ただ母と共に戦後のこの大津の小さなお寺で、福祉に一筋に生きた人だなっていうそういう印象ですね。
ナ:廣瀬さんが率いる浄土宗平和協会、去年から本格的に行われた収集活動の結果、今では150点を超える戦時資料が集まってきました。それらは、各地の僧侶が参加する専門委員会で調査されます。
『廣:「戦時資料に関する委員会」開催をいたします。大谷委員長のもとに、今日はそれぞれの班の進捗をご報告をいただきますと同時に、何が課題になっているのかと。
大谷栄一(佛教大学教授):気になったのがですね、この「天機奉仕」が度々あるんですね。要は、宮中に管長が参内をすると、仏教関係者がその宮中に参内をするとか、各所の大臣に接触するとか、それがやはり行われていた。これはおそらく浄土宗だけではなくて、他の宗派も行っていた。
ですから、今と全然単純に比較はできないんですけども、やっぱり仏教教団の占める位置がそれなりに高かったというか、期待された部分があるんじゃないかという風に思うんですね。』
ナ:委員会メンバーの1人、千葉県の寺の住職、八木英哉さんは、僧侶たちが教団のどんな指導を受けて、戦場に赴いたのかを示す資料の分析を進めています。
「時局特別傳道教化資料」、日中戦争のさなか、全国の住職に配布された冊子です。そこには、国の内外で布教するにあたり、僧侶が説くべきことが記されていました。
『八木英哉:この時局にあたっては、こういう風に布教なりお説教しなさい、檀信徒を指導しなさいというようなルールブックでしょうかね。「大御命」であるその「命」から分け与えられて、私たちが出てきた国民だということがありますね。
だからこそその「忠誠」の心が自ずと湧き上がってくるんだようなことがあり、「だから私たちにとって、陛下は”阿弥陀”で増まします」と』
ナ:そこには「限りない命」を意味する「無量寿」の仏、阿弥陀仏が天皇であると記されていました。
『八木英哉:天皇を中心とした大東亜共栄圏という理想郷を立てるということが、「浄土をたてる」ということと合致させられたり、あるいは万世一系だということが、今考えると無茶苦茶ですけども、無量寿の阿弥陀仏と一緒だということになって、合致されたりして、
天皇を崇拝してついていくということは、阿弥陀仏に従うということと同じなんだということで、「お前のとこの宗派の本尊は誰だ」と言われた時に、上官に「阿弥陀仏であります」と言ったら、「では天皇陛下と一緒だな?では、天皇のご命令は阿弥陀仏のご命令と一緒だな?」と言われたら、何も言えなくなっちゃうんですよね。そういうことが後について回るということになったのではないか。
取材者:八木さんだったら、この時代、阿弥陀様が天皇だっていう教えをこう書かれてた時に、その当時生まれてたら、どう思った?
八木英哉:うん、その当時だったらどうでしょうね、ちゃんと言うことができたでしょうかね、私もちょっとそれがね、不安になることが多々ありますね。私が反対することによって、家族が非国民扱いを受けて、いじめられたり、 獄中でトイレにも行かしてもらえない、牢の中でね、大小便垂れ流しみたいな。そういうことを強いられて、それでも言い続けることができるのかどうかっていうことまでね、やっぱり突きつけられますもんね、言わねばならないことと、実際に私がそこまで完結できるかどうかっていうことは、今もやっぱり揺れますね。だからこそ、今何もない時に考えておかなくちゃいけないんだなっていうことはよく考えています。
ナ:この「傳道教化資料」が布教する僧侶に配られたのは1938年、それは廣瀬さんの父、亮誡さんが中国大陸に派遣された年です。この資料は、戦時中のことは堅く口を閉ざし、戦後は社会福祉に力を注いだ父の心情を察する1つの手がかりとなりました。
廣:いかに死ぬかっていうんじゃなくて、いかに生きるか。その時にその阿弥陀如来というストーリーですよね。阿弥陀様が阿弥陀如来になる前に法蔵菩薩という修行僧の時代に誓いを立てると。それはその西方の彼方に立派な、人々が平和に安穏に暮らせる国土を作るんだと、そこに自分は必ず、人々、苦しんでる人々たちを呼び寄せようっていう、そういう誓いを立てる、これが阿弥陀様になられるんで、南無阿弥陀仏っていう風に言って、そこに行こうとする。そこに行くためには、生きてる間に人として他者を敬う、自尊性を持つ、心を静める、それが大事だと。
だから、その論理とその論理というのはそれとね、その天皇がどこでこう一緒になるのか。ただ、当時の国家としてはそこに結びつけ、国家なり当時の教団はそこを結びつけないと論理が合わなくなると。そのことが、一殺多生にも繋がると思うんですね。自分が死んだとしても、多くの自分の肉親や国民が救われるのであれば、あるいは1人をやっつけることによって、自分がやられても、他のものが救われていく。だから、多くのものを生かすために1人を殺すんだっていう一殺多生なんてのは変な話で、なぜなら、不殺生、不殺生戒ですよね。一切のものを生かすという。
だから、僧侶が武器を取るっていうのは、あり得ないことなんですよね、本来、で武器を取った瞬間僧侶やめないかんでしょう、僧侶というその地位をね。僧侶である限り、 武器を取っては駄目だと、殺されても武器を取っては駄目だと。
そういう問題、つまり社会的事柄っていうのに僧侶が発言をするっていうのは、らしくないっていうな空気があるんですよ。平和を言うやつは、その左派のイデオロギーだと。で、仏教者は元々そのそういうイデオロギーを持たない、持っていけないんだと、平和を言うこと戦争反対をいうことは、なぜイデオロギーの問題になるのか、それは国家が仕掛けようとする事柄に反対をするから、反体制だって風に言われるんでしょね、単純なんですよ。ということは、国家の言うことは全部聞く、反対であっても聞くふりをするなり、聞くということになる。それが今、私たちがやってる戦時の資料のいろんなものを見ていくと、 明らかになってくる
ナ:国策を担わされた教団の中で、葛藤を抱えながら戦地に赴いた僧侶たちはどんな戦後を生きたのか、それを物語る遺品が栃木県の寺で見つかりました。
『清泉寺住職:これ、ずっと名簿ですね。
廣:この名簿を今までどこかに?
清泉寺住職:あります出したことはあるんですよね。向こうで亡くなった人たちの名前とかね何とかの法要をするんですね。その時に作ったものだと思うんですけどね』
ナ:南方戦線に出征したこの寺の住職、山田隆元さんが戦後持ち帰った名簿です。山田さんは、オランダ領インドネシアのジャワ島で、現地のオランダ人を収容した抑留所の所長でした。
戦後、バタヴィアでのBC級戦犯裁判で部下による虐待の罪を問われ、 20年の長期刑となります。6年後、山田さんは巣鴨プリズンに身柄を移され、帰国。身に携えて持ち帰った名簿には処刑されたり、自ら命を絶ったりした兵士たちの最後が刻まれています。
山田さんが、インドネシアの刑務所の中で、砲弾のかけらで作った仏具、お鈴。廣瀬さんは、この遺品によって最後は僧侶として生きようとした山田さんの思いに触れました。
山田隆元さんが刑務所で砲弾を加工されて、お鈴にされてると。そして、刑務所で亡くなられた日本兵のご回向なさると。当時どういう音色だったかわかりませんけども、僧侶として出征されて、いろんな経緯があって収容所の所長になった。で、刑務所にいて自分の部下たちが処刑をされる、あるいは自死をする、逃亡してそこで命を落とすと、そういう人たちを、「私はやっぱり僧侶なんだ」っていうね、ひょっとしたら、そこで自分は一生を終えるかもしれない、しかし自分は僧侶として生きたんだ。弔うためには回向をきちっとしようと、そのためにはこれなくてもいいんですよね、なくてもいいけれども、その聞こえるかと。だから、これを作っておられた時の心境を察するとね、ちょっと言葉出ないですね。
けれどもこれ見るたんびに、その無念とかなんとかじゃないんですよ。これを作り、これを打ち鳴らすことで、ご回向するということが、まだ若い山田隆元さんのその僧侶としての
、何て言うんでしょうかね、平時だったら、思いつかないことですよね。古い言葉で言うと、存在証明っていうか、自分が僧侶であることのアイデンティフィケーションを探し求めて、これだと思ってお作りになったんだろうと思うんですね。
これ本当にね、浄土宗の宝物だと思いますね。 後世に伝えるべきこれはそういうものだと。
ナ:集めてきた戦時資料を現代にどう生かすか。廣瀬さんは、自らの歩みを振り返りながら、今を生きる僧侶たちが目指すべき道を問い続けています。
廣:何のために資料を掘り起こしてるんだと。掘り返すことを今までしなかったことが問題だっていうのもありますし、自分自身に刃を向けなかった自分が70後半をね経て、これはやっぱり課題だと改めて思ってるんですね。
言えなかった自分がいると、今言わなきゃ、あるいは誰かが言わなきゃ危ないなっていうことを今感じてるんですね。
個々の住職が平和へ寄せる思いで、真剣に取り組んでおられるご寺院ないわけではないし、よく知ってる方々もおられますけど、その時節時節の、「終戦記念日だから平和宣言しましょう」とかね、例えば、沖縄の問題にしても、広島、長崎にしても、その衣を着て、こんなふんぞり返って前の方に座ってる僧侶たちは、これ終わったら、この後どうしようかって思ってるのかどうか知りませんけど、その後ろで手を合わしている人たちの方が涙こぼしてるんですよね。あるいは、幼い子供たちでも、戦争は反対だという気持ちで手を合わせてる。
だから、どこまで本気なのかっていう。ちょっと下世話になりますけども、国葬にかかる費用、あるいは、浄土宗で各遠忌、 記念行事ですね、800年とか850年、ここにかかるお金をねわずか1週間とか、1日のためにね億の単位を使うわけでしょ。ちょっと頭ひねればね、だから、法然上人が存名であればこういう行事をいいことだっていう風に思われたかなというと決してそうじゃないですね。馬鹿なことはやめとけと、そういう余力があるんなら飢えた子に象徴され、まあ象徴的に言えば、飢えた子にね、少しでもっていうふうにおっしゃるだろうと思うんですね。祈るだけじゃだめだろう。どう実践に結びつけていくのか。
仏教僧として生きるってどういう意味を持つのかっていうのをしっかり今持たないと、もう仏教っていうのは先ないんじゃないかと思うんですね。
戦争は悲惨だとか、戦争は悪である、平和が尊いんだって、これ言葉でいくら繰り返しても、そんなことは誰にもわかってることで、それを 一個のやっぱ人間としてそうだという信念を持って説かないと、その経典からね言葉を引っ張ってきて、「お経の本にこう書いてあります」って言った瞬間に、私だったら、「お経の本にそう書いてあるかもしれないけど、あなたはどう思うんだ」と問いかけるでしょうね。
そういう静かに目を閉じて、社会の情勢、あるいは日々の自分の生活を内省する。そして、 もしそれが今すぐ答えが出なければ、答えを求めて精進するという姿を示すことが、自分を大事にすることだと思うんですよね。自身の人生を、あるいは、日々の生き方を大事に、自分の尊厳というか、その自尊性、だから知るということですよね。知るっていうことと本当の意味で自分の人生内省するということと、自分の尊厳を最大限生かすために使命を持ってね、使命感のある人とか、自尊心というか自尊的な感情が豊かな人っていうのは、戦争に賛成するわけがないんですよね。自分が尊い存在である、真剣に生きている存在だと、そうすると、他者もまた同じようにそういう自尊的な感情、真剣に生きている他者であるという認識ができてくるはずなんです。そこには殺生が生じるはずがないんですよね。
2022/11/27 悲しみを分かちあう-ミャンマー人と歩んだ30年- (再放送、初回放送:2021/12/5)
馬島浄圭:僧侶
ナレーター(以下「ナ」という):名古屋の住宅街の一角に異国情緒あふれる建物が建っています。パゴダと呼ばれるミャンマーの仏教の塔です。
釈迦の住む家とされる神聖な場所。6年前に建てられて以来、ミャンマー人たちが祈りを捧げる聖地になっています。この日、パゴダの隣の集会所にミャンマー人が集まりました。
持ち寄ったのは遠く離れた祖国で最近亡くなった家族や友人の写真、彼らの魂を鎮める慰霊祭が開かれます。お経を唱えるのは地元の僧侶、馬島浄圭さん、これまで30年以上ミャンマー人の支援を続けてきました。この慰霊祭を呼びかけたのも馬島さんです。
ミャンマーは、インドシナ半島の西部に位置する国です。かつてはビルマと呼ばれていました。今年(2021年)2月ミャンマーで突如起きた軍によるクーデター、民主政権を率いるアウン・サン・スーチー氏を拘束し、軍が国を統治することを宣言しました。これに対して国民は抗議の声を上げます。しかし、軍は武力で鎮圧、これまでに命を落とした人は、1,000人以上に上ります。
突然の死別で、傷ついた人々の心を癒したい、1人1人に祈りを捧げます。
馬島(以下「馬」という):穏やかな気持ちになれたと思います。これで明日からまたね、元気を出して、前へ進みましょう。
ナ:クーデターによって祖国に帰れなくなったミャンマー人にとって、パゴダはかけがえのない慰めの場になっています。
パゴダと同じ町内に、日蓮宗の妙本寺があります。馬島さんが住職を務める尼寺です。江戸時代に、近隣の大きな寺の末地として建てられました。明治時代から尼寺となり、代々養女として寺で育てられた女性によって受け継がれてきました。
馬島さんは5代目の住職です、現在この寺を1人で守っています。日蓮宗の信徒の家を回り、月命日のお経を挙げるのが日課になっています。
ナ:こちらのお宅は代々の信徒です。若い頃から毎月馬島さんの訪問を受けてきました。
『信徒の方:浄圭さんが今までのずっと生い立ちからずっと考えてね、今ある姿を見てるとね、本当に頭が下がります。ここまで苦労して、苦労して、周りから見てると本当に立派な庵主さんになられたなと思ってます。本当に涙が出てきます』
ナ:馬島さんは、昭和28年名古屋市に生まれました。養女として寺に引き取られたのは、1歳の時です。
馬:一応、師匠から聞いてるのは、師匠がお月参りに伺ってました家庭、そこのお家で赤ん坊がいつも泣いてると。色々家庭事情を聞くと、その子供の赤ん坊の父親がもう再婚した方がいいと、するっていうような話も出てて、この孫の赤ちゃんがいると、再婚話が話が中々ね、進められないんじゃないかっていうことも、ちらっと話が出たりして、で、何回か伺ううちに、じゃあ、うちのお寺へもらえないかっていうことで、それでそしたら、2つ返事でいいということになって、当時は1歳と1ヶ月ぐらいで、寒い時期だったんじゃないかと思いますけど、後見人みたいな人を立てて、それで、妙本寺へ連れてきたというか、養女にするために、こちらに来たんだっていうことは聞いてますね。だから、お前はいらん子だったんだっていうことを言ってました師匠は、困ってたんだよってお前のお守りを。
実家とはもう縁が切れてますね。なんていうのかな、ここへ来てからもうほとんど会ったことないし、だからここで居座るしかないみたいな。普通に庵主さんたち、2人の庵主さんが可愛がってくれた。ただ、若い師匠の方は手厳しかったですけど。隠居さんの方はすごい甘くって、、一緒に寝てたぐらいですから。
だから、そういう愛情を手塩にかけて育ててはくれたんだと思います。だから、気持ちの中に何かひがんだりそういうことがなかったみたいですね。
小学校時代は結構おてんばで、元の俗名は圭子だもんで、お寺の圭子ちゃんで通ってましてね。なんか男の子と遊んでて、砂利の山があったんですね、そこからみんなが飛び降りてるんですよ。で、私も真似して飛び降りて、膝に傷を作ったっていう思い出も。だから、お前はもう傷をもう、本当に傷が絶えない子だって言って、そのぐらいおてんばだった。
ナ:高校卒業後、馬島さんは東京の立正大学に進学。翌年、育ててくれた師匠の意に沿って得度します。しかし、剃髪はしませんでした。
馬:師匠を手伝わないと、やっぱし自分をここまでしてくれたし、大変だってことはわかってたからね。
ただ、普通の尼僧さんになることには、少しね抵抗がありましたね。私が入ったのは「補教」と言って、剃髪しなくていいコース、当時はそういうこともできたんですね。 だから、そこでいいから入ればいい。だから、私がその抵抗しないコースをちゃんと用意して入ったんですよね。 だから、その辺まではまだね、そんなこう自分でこの道しかないんだっていう思いで入ったわけじゃないですね。
その当時、剃髪の尼僧さんはこの名古屋にはすごく多かったんですよ。で、私は1番若い。で、「どうして剃らないの?」ってみんなに言われました。 男のお坊さんからも言われました。「あなたは庵主さんのお寺のお弟子でしょう。どうして剃らないの?」ってことは、もうしょっちゅう言われました。だから次第に反発心が出てきましたね。なんか剃ってて頭丸めればお坊さんなのかっていう。なんか、そういう1つのね、なんて言うのかな、ものはありましたね。
確かに仏教の中に形式から入るっていう宗派もあるんだけど、私の中にはなんかね、
なんか昔頭丸めると全てね、懺悔できるみたいな、なんか認められるみたいなものがあって、それの方がもっと安直じゃないかみたいなね、もうちょっと自分自身をこう極め、自分を試したい、試してみたいみたいな欲があったのかな。頭を丸めちゃうと、尼僧さんの場合は、行動範囲がすごく狭まるんですよ。社会に出ても、男性の場合は割とね、丸めてても背広着てあっち行ったり、こっち行ったりやっておられるんだけど、 尼僧さんの場合は、もうすごく行動半径は狭がりますよね。で、私はもうちょっと世の中見てみたいみたいなね、そういう欲がありましたね。
ナ:世の中との接点を持たないまま、仏の道に入ることに迷いがあった馬島さん。寺の務めを果たしながらも、自分らしく生きる道を探します。
20代の頃は華道や茶道を習い、免状を取って寺で教室を開きました。
馬:まだ、その頃は見えてなかったと思いますね、本当に何がしたいとかね。ただ、いろんなことをやってみたいっていう。だけど、それがじゃあ自分の歩むべき本当の道かなっていうものは、どっかにあったかもしれませんね。
ナ:自分の歩むべき道は何か、馬島さんは広く社会に目を向けます。
30代になると、環境や人権などの問題に取り組む研究会に参加するようになりました。やがて、その仲間たちに誘われ、海外に飛び出す機会が訪れます。
1990年馬島さんは、タイに渡りました。 世界の仏教者たちが集い、様々な問題について話し合う会議に参加したのです。その会議で、馬島さんはその後の人生を決定づける体験をします。
馬:そこで出会ったのが、ミャンマー人の弾圧を逃れて、 タイ国境を目指して逃げてきた学生やら、医者やら、お坊さんと出会ったんですね。その中で彼らがミャンマー、ビルマの現状を訴えてた。その彼らのその姿勢っていうか、姿はすごく印象深かったですね。自分の
心の奥に届いたっていう感じでしたね。
まずね、その目がすごい悲しみに満ちてた目がね、印象的でしたね。深い悲しみをたたえた、本当誰しもそうでしたね。その来てる、本当に大変な思いを背負って来てるなっていうのが実感できたんですね。言葉が通じるわけじゃないからね、ミャンマー、ビルマ語ができるわけじゃ、コミュニケーションを取れるわけじゃないんだけど、ただ、通訳を通して色々聞く。彼らの言ってることに対しては、心に響いてきましたね。
ナ:この会議の2年前、ミャンマーでは歴史的な大事件が起きていました。
当時の国名はビルマ、長らく独裁政権が続いていましたが、この年初めて国民による大規模な民主化運動が起こります。この時、アウン・サン・スーチー氏が初めて運動に加わり、民主化を象徴する人物になりました。
ところが軍が武力で鎮圧、数千人の国民が殺されたと推定されています。翌年、軍政府は国名をミャンマーと変更しました。馬島さんが会議で出会ったミャンマー人たちも、こうした弾圧を受け、祖国から逃れてきた人々でした。
理不尽な状況に苦しむミャンマーの人たちにできることはないか、そんな中少数民族のパラウン族に出会いました。彼らは国境を越え、ミャンマーからタイの山岳地帯に逃げた人々です。山あいの土地で、貧しい暮らしを余儀なくされていました。
馬島さんは、パラウン族が現金収入を得る手助けをしようと考えます。
『馬:これは、ミャンマーの少数民族の1つのパラウン族の衣装ですね。こちらの方はもうちょっと日本人がちょっと着てくれそうな、全部ね』
ナ:そこで、現地の女性たちが織った布を日本に送ってもらい、寺で販売しました。日本人が気に入るように、バッグやマフラーのデザインを工夫してもらうと評判を呼びます。
『馬:顔写真がここにあります、この柄のはこの人が織りましたよ』
ナ:売り上げは全て布を織った女性たちに送りました。
こうした支援を通して、彼らが置かれている状況が日本人と無関係ではないことに馬島さんは気づきます。
馬:まるっきり遠い存在みたいに見えるけれど、日本の発展の影で私たちが繁栄してる影で、その人たちの生活を犠牲にして、私たちが豊かになってるって側面があるんですね。で、それを知らしてくれたのが彼らですね。今少数民族が住んでる場所っていうのは、ダム開発だったり、それから、中国と、本当に中国からの大きな道路を引いたりとか、それから森林開発、森林の伐採がすごく盛んで、そういうこととかで本当にある意味、今の我々の先進国が資源とかを安く手に入れてるその背景にある問題ですよね。今の森林の伐採でも、チークとか、あるいは、ダム開発でも日本の電源会社がいってやってるし、だから、全くその無関係の問題じゃないんですね。で、そういうのを教えてくれましたね彼らは。だから、それをやはり知った以上、これは不平等ですよね、あまりにも仏教的な感じからいけばね。やっぱし、フェアになるためにはお返ししなくちゃいけない、こちらのね、せめてお金だけでもね、それで生活を豊かにしてほしいという、そういう思いも ありましたね。
ナ:コツコツとパラウン族の支援を続けていた馬島さんに大きな出会いが訪れます。当時、 軍の監視下に置かれ、同棲が知られていなかったアウン・サン・スーチー氏との面会に成功したのです。
馬:とにかく、スーチーさんがホームパーティーをする、で、世界のいろんなところから女性たちが訪問して、そのパーティーには参加するから、馬島さんも尼さんとして、参加してみませんか、みたいな声がかかったんですね、 本当にいろんな国から女性たちが参加して、交流会みたいなことするんだな、ぐらいしか思ってなかったです。
行ってみて、ヤンゴンについてから、ちょっとこれは様子が違うと、行ってそのホテルで、あとノルウェー人の女性と、それからタイ人の学生さんと4人が合流できて、その2人が情報収集してたんですね、どういうタイミングで訪れるといいかっていうことをね、今は、なんかすごい監視が見張りが厳しくて、なかなかその合間を縫っていくのは本当に厳しいみたいで、でもなんとかして、あえ会いに行くんだみたいなことだったんですけど、もし、これ軍の方の見張りの人に捕まると大変だからっていうことで、なんか持ってた知人の名刺を全部ビリビリ破いて、トイレに捨ててたんですね。私は、そんなまだあんまりも持ってない身1つて行っていたから、そんなに大変なのかっていう感じで、それで当日を迎えたんです、今日行きますって。
取材者:行かれた時、スーチーさんはどんなご様子でいらっしゃいましたか?
馬:まず、なんかすごい薄暗かったんですねその部屋が、だから、どこにいらっしゃるかなって感じだったんだけど、とにかく、党員たち、NLD党員の若者とか女性たちがいて、まず拍手で出迎えてくれ で、その奥の方にスー・チーさんが立ってらっしゃったって感じですね。で、ニコやかに迎えていただいたと。
行って、待てど暮らせど、4人しかいないわけです、訪問者は。ああ我々が訪問すること自体が今日の1つの目的だったんだっていうのに、そこで気付くんですね。だから、情報を託すっていうかね、今どんなことになってるかとかね、ただ私がしっかり分かったのは、その今の海外からの色んな投資、こういう軍政下で人々のところに潤っていかない海外投資っていうのは、全く意味をなさないから、そういう投資をもう一度考え直すように、日本に帰ったら、企業にそれを伝えてほしいっていうようなことをおっしゃった。
それで、私がお会いしてきたんだから、スー・チーさんの気持ちを、やはり伝えないといけないっていう思いに駆られて、それで中日新聞に投書して会ってきたさまをちょっと書いたんですね、で、おっしゃってたこととかをね。そしたら、中日新聞が取り上げてくれて、1面で取り上げてくれましたね、トップ記事でね。
ナ:帰国後間もなく、馬島さんの記事と写真は新聞の紙面を飾りました。すると思いがけないことが起こります、馬島さんの元へ、名古屋で暮らすミャンマー人たちから、次々と連絡が入ったのです。
馬:ミンニョンさんっていう、その当時名大に留学してた方ですね。それで、日本では1番最初に名古屋で難民認定された方なんですけど、この方から電話がかかってきて、実はミャンマー人たちっていうのが、今民主化を促すために、様々な抗議活動でデモしたりっていう活動に取り組んでいると、名古屋でもそういうメンバーがいると、で、そういう人たちが、ビザが切れてると、みんなね88年から90年のかけての弾圧を避けて、日本へま逃げてきた、逃れてきた、多くの人は、そういう経緯を持ってると。ほとんどなんていうのかな。一般的に言うと、オーバーステイなのに動いてたんですね、いつ捕まって強制送還されても、不思議ではないみたいなね。 だから、まず、難民申請を手伝ってほしいってことでしたね。
ナ:難民認定とは、本国に帰ると、迫害を受ける恐れがある外国人に対して、 日本での永住許可を与える制度です、しかし、審査は非常に厳しいものでした。
1999年には、日本全体で260人の申請に対して認定された人はわずか16人でした。それでも、日本に逃げてくるミャンマー人が年々増えていました。馬島さんは彼らのために難民認定の申請の手伝いを始めます。その中でも、最も心に残っているのが、キン・マウン・ラさんだと言います。
今では在留を許可され、放置自転車を安く買い取って、アジアの貧しい国に送る仕事をしています。
『キン・マウン・ラ:日本ではもうゴミだけど、やっぱり貧しい国行けば、これがすごく宝物ですね。貧しい人でも手が届く道具なんですよ。自転車1台あれば、子供って学校遠くても、 2時間3時間歩くところがもう30分で行けれちゃうんです』
ナ:キン・マウン・ラさんは、ミャンマーの少数民族、ロヒンギャの出身です。ミャンマーでは数少ないイスラム教徒の民族で、軍からの迫害はもちろん、仏教徒からも激しい差別を受けてきました。
『キン・マウン・ラ:少なくとも私のふるさとでは、軍と一緒に仏教の人でも、こういうもう普通に軍と同じやり方を、殺したり、レイプしたり、もうすごい言葉ではちょっと言いづらいぐらい、こういうひどいことをもう生まれつき経験してきたっていうことですね。
1988年にこの民主活動の時にいろんな活動やってで、それで、こう逮捕されて拷問を受けて、袋かぶされて、殴ったり蹴ったり、膝下に石を入れて、そこに膝だけを乗せて、これはねもうナイフで刺すよりも 痛いんですよ、最後にもうすごい怪我で入院したんですよ。
で、そこの入院先からもうお金の力で、もうパスポートも作って、もう空港でもお金払って、そのままバンコクへ逃げたんですね。最初ヨーロッパとか行くと思っとったんですけど、たまたま日本に来る、こういう説明をしたブローカーがおって、日本にもちろん偽造パスポートで写真を入れ替えて、全部偽造パスポートで日本に来たんですね』
ナ:キン・マウン・ラさんは1992年に来日しました。以来、孤立無縁のまま、名古屋の町工場で働き続けました。しかし、2001年に不法滞在で捕まります。
『キン・マウン・ラ:入国管理局のところで、「もう国に帰りなさい」、でも、私は帰るところがないから、私は帰ることはできないんですけれども、でもその時でも難民申請することは僕はわからないんですよ。 そこで初めてこう馬島さんたちが加わって、この人ミャンマーに書いたら命が危ないから、この人は難民だよと、そこからがもう始まりですね、馬島さんとの出会いっていう』
ナ:キン・マウン・ラさんの難民認定は不許可となりました。それでも、彼がなんとか日本で暮らせるようにと、 馬島さんは裁判に訴える方法を選びます。
馬:頼ってくる以上、それに応えたいっていうかね、それはありましたね。必死でとにかく帰れないんだからっていう形でね、言ってくるか、来る人が目の前にいればね、そこは、ちゃんと受け止めないとっていう思いはありましたね。
ナ:裁判では、キン・マウン・ラさんが国に帰ると、命の危険があることを証明しなければなりませんでした。
馬島さんは、毎日夜遅くまでキン・マウン・ラさんの話を聞き取り、書類にまとめて何度も裁判所に提出しました。4年に及ぶ裁判の末、キン・マウン・ラさんの主張が認められ、日本での在留が許可されました。
キン・マウン・ラさんは、見ず知らずの自分を信用し、尽くしてくれる馬島さんに驚きを感じたと言います。
『キン・マウン・ラあの人の前には、全然、人、宗教、肌の色、民族とか、あの人の前には何もないんです。あの人の頭の中には真っ白なんですよ、あの人は、馬島さんは。
あの人の心の中には、こう区別っていうのが、差別っていうのがないんですよ。本当に 僕仏教の人たちから色んな差別を受けて、仏教嫌いだったんですよ昔。でも馬島さんっていう仏教のお坊さんと出会って、やっぱりこれ宗教とか関係ないっていうことは馬島さんから僕勉強したんですね。
自分の人生にもいろんな国に行って、いろんなところ、いろんな人と出会ってるんだけど、やっぱり馬島さんみたいな心の豊かな人間って、僕は会ったことないですね。
馬:少数民族難民の現場を何度もこの目で確認したりして、そういう本当に大変な生死をさまよっている状態の人たちを見てきてて、で、その1つの日本で難民申請した人たちは代弁者だと、その問題をやはりなんていうの、伝える大きな代弁者なんですね。申請者が増えて、認定者が増えれば、ビルマの問題っていうのは、結構一般の人にはわかりやすくなるだろうっていう思いが1つと、それから、やはり目の前にそうやって本当に苦しんでいる人がいるっていうことに対してね、自分にできることがあれば、関わっていこうという思いはありましたね。
その苦を見る時は、こちらの私見を挟まないでその苦をきちっと認識するっていうことが必要ですよね。だから、自分の心を、自分の感想とか感情を入れないで、まず受け止めるっていう受け入れるってことからしないと、相手も心開いてくれないし、「同苦」って日蓮上人はおっしゃってるね。「苦を同じくする」っていうかね、自分もその立場に置くというかね、「同苦」の認識というかね、そこから始めたんですね。
だから、それはどういうことかっていうと、苦しんでる人の立場に立つとか、その原因を取り除くことも、仏教の1つの教えですから。で、そういうのはたとえ政治であれ、宗教であれ、民族であれ、あるいは、差別の問題であれ、それを全部こう含んでるわけですよね。
で、私がミャンマーの問題に出会ったのはそこだったんですね。 仏教の教えっていうのが試されるというかね、そういう現場に行けば、日蓮上人がおっしゃるその、「法華経を読め」と言うけれど、声に出して読めばいいのかっていうんじゃなくて、自分が苦しみを抱えてる人と関わって関係性を持って、その中で自分が何ができるか、どうその働きかけができるかっていうことを試行錯誤しながら関わっていく、その中から「法華経」が自分を通して 実現されていくっていう思いを持ってたんですね。
ナ:ミャンマー人と共に苦を分かち合う、それは仏教の心に通じていました。そうした姿勢は、1歳で寺の養女となった馬島さん自身の生い立ちと深く関わっています。
馬:小さい頃から、そういう感性は少し芽はあったかもしれませんね。人1倍そういうことに敏感な自分がいたかもしれませんね。
悲しんでる人や、苦しんでる人に対するその憐憫の情というか、そういう気持ちは多少
あったのかもしれません。自分の心の中に何か満たされないものがそこに、この人もこういうもの持ってるなっていう思いとこう共感したのかもしれませんね。そういう1つの琴線っていうかね、それが響くものがあったんでしょうね。おそらく、その根っこはそういう幼なくして、肉親の情に薄かった身が、それを特に感受性を持ってたかもしれませんね。本当に皆さん家族から離れてね、他国のところである意味、それぞれいろんな苦を抱えてたわけですからね。
ナ:名古屋のミャンマー人の心のより所になっているパゴダ。実は、馬島さんとミャンマー人が力を合わせて作り上げたものです。ミャンマーの言葉で、「ミッタディカパゴダ」、「慈しみの仏塔」と名付けられています。
パゴダ建設の話が持ち上がったのは2012年、難民認定の支援を始めてから、10年ほど後のことでした。
その頃、ミャンマーの軍事政権は、民主化へとかじを切っていました。新しい憲法と選挙制度が整えられ、アウン・サン・スーチー氏が自宅軟禁から解放されます。
2012年には国会議員に当選、ミャンマーに民主主義がもたらされることを多くの国民が信じ始めていました。
馬:2010年から12年にかけて、その民主化の方にかじが切られていく。アウン・サン・スーチーさんも解放されて、政治の表舞台に姿を現されるようになって、少しずつ民主化 の道が開けていくという状況になったんですね。それで、私も今までの活動に少しちょっとこうなんて言うのかな、ちょっと間を置きたいという時期があった。
で、何かこう、自分でも自分のメモリアルのものが欲しいなということで、まずミャンマーからお釈迦様をお釈迦様の尊像を手に入れて、私共の妙本寺の本堂に1年半近く、畳の上に台を引いて置いてたんですね、そこにお祀りしてたんです。
だけども、大理石でできてる真っ白のお釈迦様の尊像、坐像ですから、やっぱし重い、だんだん畳の方が沈むような感じもあったし、どう見てもやっぱしここのお寺では合わないなっていうものがあって、で、気づくと、今パゴダのある土地に私どもの土地があったということで、で、そこにじゃあこのお釈迦様をお祀りする、ちょっとしたお堂を作ろうかということで、 そんな思いでいたら、ミャンマー人の懇意にしてた女性が、じゃあミャンマーのパゴダ、それもマンダレーにあるクドードォパゴダの姿にしたお堂にしてほしい、したら?っていう提案をしてくれて、じゃあパゴダにしましょう、そういうパゴダを作りましょうって。
ナ:民主化が進むとともに留学生や技能実習生の若者が増え、日本で暮らすミャンマー人は 1万人近くになっていました。馬島さんは、彼らのためにもパゴダを作りたいと考えます。
まず、建設資金を捻出するために、ミャンマー人に声を掛けて寄付を募り、 現地から大理石でできた壁や彫刻の部品を送ってもらいました。
さらに、寺の信徒の建築士に工事を依頼、3年の歳月をかけてパゴダが完成しました。
以来、ミャンマー人の祈りの場として大切にされています。
パゴダの建設とともに、隣にはゲストハウスが建てられました。一緒に食事をしたり、顔を突き合わせて相談をしたり、様々な世代のミャンマー人が集い、交流する場所として活用されています。
この日は毎日忙しく働いている若者のために、懐かしい郷土料理が振る舞われました。
馬:自分たちのアイデンティティを確認する場にはなってると思いますね。パゴダを通じてね、仏教徒であり、 ミャンマー人であるっていうね、そういうルーツというかね、それを確認する場にはなってると思いますね。
全てのことをこうなんていうの、日本でのいろんなことをね、もうこう無にして、ひたすら祈れる場所にはなってると思いますね。様々な、日本で生活するには、障害とか問題を抱えてますからね彼らは、それは日本人でもそれはありますけど、だから、そういう人たちがパゴダでこうお参りしてる。その時だけはそんなことを全部こう空にして、素の自分に変えて、子供みたいな気持ちで参ってるっていう、そういうことですね。そういう自分を、そこでは確認しているっていうようなことも聞きましたね。 何も考えないで、ここでひたすらお祈りする、それで、心が現れたようなね、気持ちになるんだって。
ナ:ところが今、またミャンマーに危機が訪れています。今年(2021年)2月軍がクーデターを決行、抗議する国民を武力で鎮圧しました。
日本で暮らすミャンマー人たちも繰り返しデモ行進を行い、日本人に民主派への協力を呼び掛けています。
馬島さんはミャンマーに帰っている知り合いの身を案じ、連絡を取り合っています。
『取材者:今の方は、馬島さんとどういう、もともとお知り合いっていいますか、、、
馬:長い付き合いがある子ですね、それで、ずっとこう一緒に支援活動してますね。自分の身の危険を、本当にいつもいつもそのリスクと隣り合わせでね。だから、ちょっとあんまり詳しいことが言えませんね。
取材者:もともと名古屋にいらっしゃって、
馬:そういう情報もあまり、もう何もこれ以上は
取材者:わかりました、ありがとうございます』
ナ:10月31日パゴダ建設以来、毎年行われてきた最大の行事、灯明祭の日がやってきました。
祖国で大勢の人が亡くなっているのに、祭りを行うのは不謹慎ではないかとの意見もありました。しかし、そういう今だからこそ、祖国へ祈りを捧げたいと開催が決まりました。
ミャンマーの言い伝えでは、10月の満月の夜にお釈迦様が、この世に帰ってくると言います。 灯明祭では、精一杯のご馳走でお釈迦様をもてなすのが習わしです。 例年は、みんなで食事を共にしていました。しかし、今年はお祈りを主とし、料理は持ち帰ることにしました。
パゴダに続々とミャンマー人が集まります、県外で暮らす若者たちもこの日ばかりは、誘い合わせてやってきました。日が暮れる頃には100人余りのミャンマー人が集まりました。祖国への思いを込めて、みんなで祈りを捧げます。
ミャンマー人と共に歩んできた長い歳月、それが僧侶としての馬島さんを磨き上げました。
馬:ミャンマーの問題に関わると共に色々縛りが解けましたね。理想としてのこうなんか、 立場とか、日本の僧侶としての立場とか、そういうものを全部1つ1つほどけてって、本来の自分の心のままに動けるようになってきましたね。それは、いろんな人との出会いで揉まれ、鍛えられてきたんだと思いますね。
私なりに、本当にそれが修行だったと思います。ミャンマーの少数民族の難民キャンプだったり、あるいは避難民の姿だったり、あるいは弾圧を逃れてミャンマーから来てる人たちのそういう問題意識っていうかね、そういうものに学ばせてもらうというか、それを共感したり、そういう自分で鍛えてもらったっていう思いもありますね。
しかも、ミャンマーの場合は、やはり本当にそういう人々が苦しんでることに対して、僧侶として、何ができるかっていうことで、行政にものを申したり、抗議したりっていうお坊さんも多数見えました。で、そういうお坊さんの考え方にも刺激されましたね。
それは別に政治だから関わっちゃいけないとか、なんていうのかな、外国人の問題だから、関わっちゃいけないとかって、そういう線引きがあるわけじゃないんですね。お坊さんだったり、全部全部やっぱし抱え込まないといけないと思うんですね。それが苦の現実ですからね、その現実を避けることはできない、見つめ続けることによってしか本当は悟りは得られないんですよね実際は。
そういう現場をやっぱし経験させていただいたのはありがたかったと思いますね。多分、 それが私にとってのお曼荼羅の世界だったと思います。そこに、本仏はおられたと思います。
ナ:祭りの最後には、馬島さんへミャンマー人からの感謝を伝えるセレモニーが行われました。
在日ミャンマー人の2世として、日本で生まれ育った子供たちがお礼の言葉を述べます。
『子供①:こんにちは馬島さん、馬島さんは、僕が生まれる前から僕の父や母、困っているミャンマー人たちを世話してくれていました。
名古屋に馬島さんがいてくれたので、日本のことが何もわからない多くのミャンマー人たちが助けられました。今、こうして僕たちが集まっているのも、馬島さんのおかげです。
子供②:ミッタディカパゴダが名古屋にあることがどれだけミャンマー人にとって、心強いことか感謝してもしきれません、これからも私たちを見守っていてください。
馬:なんかびっくりして言葉が出ません。なんか、こんなにたくさんの私の大事な大事な子供や孫がいっぱいいるって感じです。
日本のお母さん、おばあさんとして、これからもよろしくお願いいたします。役に立てれば長生きしたいと思います。
今は本当にミャンマー国内が大変な状況です。少しでも良くなるように、私も陰ながら 皆さんの力になりたいと思います。なんでも言ってきてください』
2022/11/20 瞑想でたどる仏教~心と体を観察する~ 第2回 ブッダの見つけた苦しみから逃れる道 (再放送、初回放送:2021/4/18)
蓑輪顕量:東京大学大学院教授
為末大:元プロ陸上選手
ききて:中條誠子
中條(以下「中」という):心の時代では、毎月1回「瞑想でたどる仏教~心と体を観察する~」と題しまして、 仏教瞑想の世界をご紹介しています。お話しくださいますのは、東京大学大学院教授、 仏教学がご専門の蓑輪顕量先生です。よろしくお願いいたします。
蓑輪(以下「蓑」という):よろしくお願いいたします
、そして、元プロ陸上選手で、現在は育成者としてもご活躍の為末大さんです。どうぞ、よろしくお願いいたします。
為末(以下「為」という):よろしくお願いします。
中:前回はですね、ブッダが人生の苦しみから逃れるために、悟りを求めていった。そこで、心身の観察を見つけ、その苦しみの正体は自分自身の心にあるということを教ていただきました。
その教が、2,500年経った私達に伝わっているというのが、仏教ということですね。
蓑:今回は、ブッダの発見したものがお弟子さん達、そして、修行者達にどのように伝られ、そして、それがどのように受け継がれていったのかについて、話していきたいと思っています。
中:はい、為末さん、この第1回仏教の原点に、私達は瞑想から見てきたんですけれどもいかがでしたか。
為:本当になんとなく知ってたことがですね、細かに色々伺うのができて、すごく学びになったなっていうことと、あれだけ苦しみと直結してるっていう風に納得すると、瞑想っていうのが大事なんだなってのはすごいよく思いましたね。
中:はい、ブッタがその悟りを開いた後、どのような行動に至ったのか、それではまずこちらをご覧ください。
ナレーター(以下「ナ」という):ブッダは、元々シッダッタという名の王子でした。ある日、生きている限り、誰もが老いや病、そして死を免れないと知り、苦しみを覚えます。
苦しみから逃れたい一心で出家したシッダッタ。苦行を行うなど、試行錯誤するもなかなか解決には至りません。ついには苦行を諦め、山を下ります。 共に修行をしていた付き人達は失望し、彼の元から去ってゆきました。
一度は諦めたシッダッタですが、母大樹の下で瞑想に取り組みます。自分の心を深く観察し、なぜ人が苦しむのか、この世の真理に気がつきました。すると、心に落とした暗い影は消え、穏やかな気持ちに包まれます。 彼は、「悟りを得た人」ブッタと呼ばれるようになりました。
その後、ブッダは西に200キロ離れたサールナートへ向かって歩き始めます。そこにいたのは、ブッダの元を離れていった5人の付き人達、自らの悟りを彼らと共有しようと足を運んだのです。その姿に心を動かされ、付き人達はブッダの弟子になると決めました。
迷想を通じて得た気づきを、ブッタは弟子達に1つずつ語りかけます。
為:そういう風に誰かに伝たいって気持ちがあったから、今の仏教が広がってるっていう、そういうことなんでしょうね。
蓑:1番最初に、伝えるということをですね、決心するには、少しためらいがあったようです。ご自身が悟った内容というのは、大変に難しい、人に話しても理解してもらえないのではないかという、思いが生じたようです。最初は説くのをやめようと思っていたようなんですけれども、そこはこれも、伝記の中のお話なんですけども、インドで1番偉い神様であります、梵天さんが登場いたしまして、世の中には、それを理解してくれる人もきちんといるはずだと、ですから、きちんと説いてくださいということを、お釈迦様に勧められます。
それで、お釈迦様は、その教えをですね、人に伝えようとして、5人の同じ修行仲間に説くことになったんだと伝えられています。
為:この5人の方ってのは、すんなり最初に受け取られたんですか、それとも、最初はいやいやってなったのか。
蓑:そうですね、やはりお弟子さん達も、最初の付き人と言われていますけども、一緒に修行していた仲間みたいなものですから。お釈迦さんが悟ったと言っても、退転したという風に最初考えていました。
為:退転っていうは?
蓑:退転というのはですね、退いてしまった、やめてしまったっていうような、そんなニュアンスなんですけれども、
ですから、悟りを求めての修行から離れてしまったっていう風に考えたようなんです。5人の方達はですね、お釈迦さんが来ても敬意を持って迎えるのはやめようというようなことを最初は話し合っていたそうなんです。もうそんなにしっかりと応対する必要はないんじゃないかっていう風に思っていた。
ところが、実際にやってくるお釈迦さんの姿を見て、そこから感じられるものに心を動かされて、その約束をすっかり忘れてしまって、足を洗う水を持ってきたりとか、礼拝をしたというようなことが伝えられています。
為:じゃあ、もう存在というか、姿形に悟りが現れていて、みんながもうそれに心動かされたっていう。
蓑:はい、そういうことです。
中:ブッタは最初にこの弟子達にどんなことを伝えましたか。
蓑:お釈迦さんの悟りの全部を伝えているのではないかと言われる。初期経典がありまして、その中に登場するお話では 、四諦八正道という名前で呼ばれるんですけど、4つの真理、それから 、その悟りの世界に至る8つの正しい道というのをですね、説かれたという風に伝られています。
「四諦」の「諦」の字はですね、現代の日本語ですと「諦める」という風に読むことがあると思いますけれども、 4つの真理という意味で真理真実という意味で使われています。
中:なぜ「諦める」というような字が当てはめられてるんでしょうか?
蓑:これは、真実を明らかにするという意味だと思うんですけれども、それはある意味で、私達の欲望から離れていくことでもありますので、 それで、「諦める」というような言い方ができたのではないかと、私の想像ですけれど、そのように思います。
中:そして、その内容ですね
蓑:1番最初の真実というのは、この世は苦しみに満ちているというのが、最初の真実として説かれました。
その次の真実が「集諦(じったい)」という風に呼ばれるんですけれど、この世の苦しみの原因は何か、それは私達が持っている欲望であるという風にお説きになりました。これが2番目の苦の原因である、真実
3番目が「滅諦(めったい)」です。これは、苦しみのない理想的な状態を「滅」という字で表現いたしまして、滅諦という名前で呼びました。これはある意味で悟りの境地のようなものです。
最後の「道諦」、これは「道」という真実なんですけれど、その悟りの状態に到達するための実践が、道諦という風に呼ばれまして、8つに分けられました。八正道という風に言われるんですけども 、その実践が苦を消滅させると考えて「道諦」という風に呼ばれました。
具体的に八正道の中身は何かと言いますと、「正見」というのは「正しい見解」という意味です。これは、誤った考え方を持たないという意味で理解すればいいと思います。
「正思惟」というのは「正しい思い」という風に言われます。内容は欲を持たないとか、 怒りを持たないとかですね、他人に害を与えない、そのような思いを持つのが、正しい思惟だという風に言われます
為:この「集諦」ですかね、「集諦」にあたるところが、ある意味期待とか理想とも言える気がするんですね。こんな風になりたいとか、こんな風なものが欲しいとか、本当はこうあるべきだっていう期待感とか。ともするとね。なんか夢とか希望や、目標を持たないのが苦しみから逃れる方法だみたいに思っちゃいがちな気もするんですけど。
蓑:そうですね、そうではなくて、実は人格の完成を目指しているのだっていう言い方があるんです。飽くなきいわゆる欲望というような形で言われるようなものを追求することには、非常に否定的なんですけれども、悟りを求めたりとか、何か努力するということに関しては、それを否定してるわけではありません。
それはその八正道の中に「正精進」っていう言葉がありますけれども、それはやはりきちんと努力をすることを大事なものとして認めています。
為:じゃあある方向においての向上心と努力っていうのは、この8つの正しい行いの中に含まれてる。
蓑:含まれていますね。
中:ちょっとほっといたしました、よかった。
蓑:ですので、その八正道というのはですね、日常の中における心構えみたいなものとして、受け止めても良いのではないかと思います。
ナ:ブッダは、修行する5人の弟子達と過ごすようになります。彼らは、仏教における最初の出家者集団「サンガ」です。
サンガは、インドに根付くカースト制度から離れた存在です。カースト制度では、人々を バラモン教の司祭を頂点とする4つの階級に分け、この身分は生まれによって定められていました。
世俗を捨て、出家したサンガの僧達は、カーストの外で生きることになります。カースト制度に疑問を持っていたブッダは、僧達と共にガンジス川流域を旅しながら教を説いていきます。その先々で苦しみから逃れたいと願う多くの人達が集まりました。
80歳を迎えたブッダ、体は限界に達し、最後の夜を迎えます。弟子達に見守られ、この世を去りました。弟子達はブッダなき後も思いを受け継ぎ、修行を怠ることなく、各地で教を説いて回ります。わずか6人から始まったサンガは、次第に大きくなります。仏教が広まる過程で、サンガでは出家者がブッダの教えを実践するための様々な戒めや規則、すなわち戒律が作られていきます。
蓑:お釈迦さんの時代にも、4つの階級が存在していました。 その階級は、生まれによって決まっているという風に考えられていましたので、お釈迦さん自身はそのカースト制に対して、非常に否定的な考え方を持っていらっしゃいました。「人間は生まれによって尊いのではない行いによって尊いのである」という言葉を残されています。
つまり、カースト制度から離れるというためには、おそらく出家をして別の集団を作るしかなかったというのが原因なのではないかと思います。
中:そこに、なぜこう戒律が必要になってくるんですか?
蓑:その1番の理由というのは、おそらく出家の集団でありますので、自分達で生産活動をすることができないというのがあったからだと思います。
これは世間ですと、皆さんそれぞれ職業を持って、それによる対価としてお金を得たりとかして生活をしてらっしゃると思います。ですから、なんらかの仕事を始めてしまうと、それは出家ではなくなってしまいます。 在家と世間と同じように見なされてしまいますので、実際に出家をしますと、生活どうするのかっていうことになるわけですけれども、それは、在家の人達からの布施に頼ることになります。
ですので、お布施をいただくためにはやはりその人達が、他の人達とは異なった、聖なる存在であるというのが一般に認められてなければおそらく難しかったと思います。
中:その聖なる存在っていうのは、何かこうお手本的なということなんですか?
蓑:そんな感じでいと思います。社会から批判されるような人であれば、その人に何か供養したいとかという風に思うことはないと思いますので。 社会的な、非難されるような行動はなるべく慎みましょうというようなところから、様々な規則が出来上がっていくと考えてよいと思います。
為:会社のマネジメントの仕組みを作っていく時に似てるな。
蓑:実際にですね、本当にそうだったのかはよくわかりませんけれども、何か事件が起きますと、 お釈迦様のところにそれが伝えられて、それをしてしまった比丘をですね、お釈迦さんが呼び出して、このようなことがあったのかって確かめるんですよね。そうして、そのような行為は良くない行いであると、沙門(出家者)のすべきものではないというようなことをおっしゃられて、以後こういうことはしてはいけないという風にして決められていったという風に伝られています。
中:その戒律なんですけれども、具体的にはこの内容はどういうものだったんですか。
蓑:内容はですね、やはり世間的に批判されるようなことは慎みましょうというのがあるんだと思うんですけれども、梵網教というですね教典の中には小戒と中戒と大戒というような分け方で説かれてくるものがあります。
小戒というのは、具体的に例えば、人の命を殺めてはいけないとかものを盗んではいけないというようなものが、小戒として定められました。
中戒は、例えば、種のなるような木を切ってはいけないとか、そういうものが入ってきます。インド世界ってすごく熱いところですので、 大きな木のですね木陰に入ると涼しくて、それは皆さんが集まってくる場になっています。ところがそういう木をですね邪魔だからだといって、切ってしまうようなことがありますと、やはり問題になったようでありまして、そのようなことがしてはいけないなんていうのが、中戒の中に出てまいります。
大戒といわれるのはですね、その経典の中では、例えば占いをしてはいけないとか 、医療行為をしてはいけない、これは多分星占いとかですね、医療行為とか っていうのは、職業として存在していますので、それをすることによって、おそらくカーストの中にまた組み込まれてしまうので、そのようなことはしてはいけないという風に考えていたんだと思います。
為:じゃあ、もしそのカースト制度がなくて、みんながそのまま町で暮らしていたら、戒律はすごいその時代、緩かった可能性もあるってことですか。
蓑:おそらくそういうところあったと思いますね。ですから、カースト制度が存在しない地域においては、 おそらく違った形というのが考えられるのではないかと。で、実際にインドの周辺の国々の中でも、 カースト制度がしっかりと伝わってしまった国もありますけれども、そうでない地域もあります。で、そのような地域においては、出家者というよりも、修行者の人達が家庭を持つという例が少し出てまいります。
為:戒律はもしかしたら、時代とともに結構合わせていってもいい可能性があるっていうことなんですかね。
蓑:はい、そうだと思います。そういう意味では、大変柔軟性があったんだという風に言うことができると思います。これは、お釈迦さんが亡くなられた時に、 些細な対立は変えても良いということを言い残されていたという風に伝えられています。
ところが問題はですね、 何が些細な戒律なのかっていうことを規定しなかったと。それで実は現代においてもですね、そのまま使われていると言われています。
中:戒律がですね、この瞑想については、何か効果をもたらすようなところはあったんでしょうか。
蓑:はい、それはあったと思います。実際に重大な罪とされていたものがいくつかありますが、そういうものを避けることによって、 私達の心の安定性というのがもたらされると思います。これは、現在の東南アジアの上座系のお坊様達が言うことですけども、「戒律によって実は私達は守られているんだ」という言い方をするんです。それを日常守っていることによって、実は修行がしやすくなるという側面も確かにあると思います。
ですから、戒律という言葉をよく使いますけども、実は元の言語になっているものが「シーラ」という言葉なんですけども、本来の意味は習慣という風に訳されています。ですから、仏教教団の人達が守るべきものというのはですね、日常的な習慣として良い習慣を身につける、それはある意味で環境を整えていくことだ、それを主体的にやることなんだっていうところが大きかったのではないかなと思います。
為:今のを伺っていて、その私達の世界にすると戒律は「ルール」のイメージが強いんですね、習慣はルーティンって言うんですけど、そのイメージは強くてで、ルールはしてはいけないことなんですけど、ルーティンはそれ自然にそれをしてしまうように、体に擦り込ませるものなんですね。で、多分前者の方がルールの方が社会の中で受け入れられていくために必要な戒律で、さっきおっしゃったようなこう、修行にプラスになるような、自分の体に習慣化させていくようなものは、ルーティンに近いのかなと思ったんです。
私達の世界では、ルーティンが大事な理由っていうのは、無意識にその行動を取れることによって、心の状態がまさに毎回同じ状態で安定して作れるというので、ルーティンが好まれるんですね。ですので、選手が試合の時に同じ動きを繰り返すのは、 心をそうするよりも体で心の状態を整えていった方が確率が高いので、毎回みんなバットをこうイチローさんみたいに、こうやっていったり、同じ行為を繰り返すってのはそれなんですけど、ちょっとお話伺いながら、そういうのに似てるのかなと。
蓑:押し付けられてやるものではなくて、自ら進んで守っていくものという風にも言われるんです。「律」っていう言葉で言われる時には、少し他者から強制的にっていうなニュアンスが入るんですけども、 「戒」と言ってる時には、実は強制ではなくて自らが進んで本当にルーティンのような感じで身につけていくものという風に考えています。
それをすることによって、実は修行がしやすくなるという点がやっぱりあったんだと思います。
為:経験則で、自分でわざわざ生み出さなくても、 こうやってやっておくと修行がしやすくなったよっていうようなものがまとめてあるのが「戒」みたいなイメージなんですね。
蓑:はい、そういう側面は確かにあったと思います。
中:これがそのサンガを守って、この心身の観察をこう進めていったっていうことにも繋がってるわけですね。
蓑:そうですね、はい。ブッダは「心身を整えていくために、環境をしっかりと整えていくっていうことが大事」だということを、「ダンマパダ」という教典の中で述べています。
ナ:瞑想を行うため、どのように環境を整えればよいのか、「ダンマパダ」と呼ばれる有名な仏典、 「修行僧」と題された章の一節を見てみましょう。
『眼について慎むのは善い、耳について慎むのは善い、鼻について慎むのは善い、舌について慎むのは善い、身について慎むのは善い、ことばについて慎むのは善い、心について慎むのは善い、あらゆることについて慎むのは善いことである。修行層はあらゆる事柄について慎み、全ての苦しみから脱れる』
蓑:目について耳について鼻についてと出てきてますが、これは私達の感覚器官を指しています。外界の刺激を受け止めるのが私達のこの感覚器官ですので、そこで受け止めるものをなるべく慎んできなさい。
それはなぜかというのは、苦しみというのは私達の感覚器官を通じて入ってきて、そして、私達の心をざわつかせてしまうからという風に考えていたからだと考えられます。
ですから、そのようなものをあらかじめ遠ざけておいて、入ってこないように気を付けておくということを言っていると考えられます。
これ、お酒の大好きな方にしてみれば一升瓶とかですねあるいは、ボトルとかを見ればお酒だ飲みたいなっていうような気持ちが起きてきて、そして、つい手が出てしまうっていうようなことはよくあると思いますので、ですから、そのようなものは遠ざけておきなさい
、それが大事なことですよっていう風に言ってるんだと思います。
私達の心は、戯論があるということを、心の拡張機能という風に申し上げましたけれど、も、そういうものが自然に備わってるんだと思います。ですから、その働きによって何かを見ると、次々と連想が起きてきて、一升瓶、お酒、飲みたいというような感じで、行ってしまうんだと思うんです。
で、そのようなことから、やはり遠ざかっていようと。それが修行する上では大切だという風に述べていたんだと思います。
為:でも、現実的な着地っていうかね。ある種許しがあるっていうか、まあ人間は弱いので、そういう環境を整えて、それに対処していきましょうってそんな考え方なんですね。
蓑:はい、そうだと思います。実際に仏典の中に伝えられている修行の場所として、ふさわしいところというのが出てくるんですが、人里離れたところが用意とされていました。人がたくさんいる、喧噪がある、色々と大変なこともよく起きている、そういうのから遠ざかったところが アーラニャという風に呼ばれまして、インド社会ですと、結構林の中とかですね、森の中を指すことが多いようです。そういうところに行きますと、静かな環境で修行をするのにはやりやすいところと考られてたようです。
為:この一般の人達のレベルで、心を乱さないようなことをするには、どういう風にするといいんでしょうか?
蓑:在家の、言わば世間の信者さんの場合には、そこまで厳しいことは言っていません。在科さんの場合には、 よく5つの戒が挙げられるんです。「五戒」といいます。これは不殺生、人の命をやめない。不偸盗、人のものを盗まない。不妄語、これは嘘をつかない。それから不邪淫、これは、邪な性関係を結ばない、ですので今風に言いますと、浮気はしないっていうことだと思いますね。で、最後が不飲酒で、お酒を飲まないです。
為:5つ目だけ外してできないですかね?
蓑:確かにそのようなですね守り方もありまして、五戒というのはですね、全部を守らなければいけないというわけではなかったんです。「分戒」という言い方をするんですけども「分ける」に「戒」と書くんですが、一部分だけでも良いというですね、とても柔軟な考え方が存在していました。ですから、お酒どうぞ召し上がってください。
為:まあ、何にしても過剰にならないように、ちゃんと自分をコントロールしておきましょうってそうですよね。
中:心乱されるようなものは遠ざけてるわけですから、瞑想が非常に深まるというわけですか。
蓑:そうですね、実際に色々なものに注意を振り向けて、しっかりと把握していくことっていうのをやるわけですけれども、 これ集中力をまずつけないと、なかなか難しいところがあります。ですから、心配事があったりとか、他のことを色々考えなければいけないっていうような状況に置かれていると、実はなかなか。1つのものに専心していく、注意を振り向けていくってことが難しくなります。
ですので、日常生活からそのようなですね、心をざわつかせるようなものを遠ざけておくという考え方は、すごく理に適ってると思う。
為:1つ伺って思ったのは、その戒律のメソッドみたいなものっていうのは、ある意味で、ブッタがこう悟りに至った時のプロセスの轍みたいなものを形にしてあるんじゃないかと思うんですね。その形をなぞらていくと、まだ意味がわからないような初心者でも、それを追いかけていくことで、ある時、意味がわかるっていうことを伝えていくための型なんじゃないかって気がする。
中:まず守って、それでその境地にこうたどり着く
為:競技をやっていくときにですね、チャンク化っていう言葉があるんですけど、それどういうことかっていうと、最初のうちはですね、自転車に例えば、乗る時にでも必死になるんですね、で、それは終わってみると、なんか体がすごいクタクタでいろんなとこが痛いと、で、それはどこに力入れていいかわからないので、自分の脳の中もですね、すごいいろんなところが動いてる状態になるんですね。
ところがこれチャンク化って言って、 何回も繰り返していくと、体は自然に動くようになるんですけど、脳の中はある一部分しか動かなくなるっていうで、そうすると、 他のところに余裕ができるので、自転車で言ば、最初は必死なんだけど、乗ってくるのが自然になると、初めて前を見て風景を眺めたりとか、考えることができるようになると、多分、こういう風に体の方を自然に動くような型を覚えさせて、 脳のスペースを開けることで、瞑想しやすくするとか、そんな意味合いがあるのかなっていうのは思ったのは1つですね。
なので極端に言うと、脳のスペースを開けるために、この形に覚とけばいいよっていう感じにしたんじゃないかと思うんですね。で、その形自身が適当な形にしちゃうと、変な自転車の乗り方覚えちゃうと一生癖が残りますから、このやり方でやっとくと大丈夫だよっていう風に経験者であるブッダがメソッドの形にして残していったので、 武道で言えば型に当たると思うんですけど、この型をやっておけば基本的な基礎ができるので、あとはその上で
開放された自分のスペースを使って瞑想に集中してっていう、そんな役割があるんじゃないかと思います。
蓑:おそらく、その通りだと思いますね。
これは上座系の仏教者の中に伝わっている言い方なんですけども、このブッダの教えというのは、実は3つぐらいのジャンルに大きく分けられるんです。「三蔵」という言葉があるんですけども、経典を「経蔵」、それから戒律のところを「律蔵」、それから色々と注釈的なものを書いてるんで、存在してるんですけども、これ「論蔵」と言います。一般には「経・律・論」という風に言うんですけども、上座系の人達はこの順番をですねとても大事にしていまして、「律・経・論」という風に言うんです。戒律というのは、ブッダの教えの中でも実は大切なものなんだとで、それで、伝書の中で、「律」というのが1番最初で、その次が、
為:「律」っていうのがいわゆるこのルーティンだったり、戒律だったり
蓑:はい、そういうところです。この「律」をちゃんと守ることによって、「戒」をちゃんと守ることによって、悟りに繋がるものだっていう意識を持ってると思うんです。
ですから、今おっしゃられたことは、おそらくピッタリくるんじゃないかなと思います。
中:やっぱり、この心と体ってすごく繋がってるんですね、
為:いや、もうそれはもう、なんて言うんでしょうね。集中しなきゃいけない局面を経験してる選手ほど、心は最後は体から入るしかないって言いますね。心自体には、直接手を入れれコントロールできないので、自分でなんとかできる体の方を整えていって、心はあとはそれにちょっと紐がついた先にいる犬みたいな感じなんですよね。心はこっちの方だよとは言えるんだけど、首をつかまえては連れてこれないので、体の方でここっちこの辺だよっていう風にはめてあげて、で、犬があとはこうふうっと歩いてきてくれるのを待つっていうような、 試合の時の集中はそんな感じ。
今日はゾーンに入るぞってことはできないですね。なんか、布団に入って寝るみたいな感じであったかくして、布団に入るとこができるけど、寝るかどうかは、タイミングとか、その日の調子次第で、できるのは準備までそういう感じ。でも、そこもやっぱりみんな自分なりのやり方を編み出して、自分なりの戒律を生み出していたと思います。
中:そのように日常から整えて、瞑想の土台に入っていく
為:そうですね、
蓑:整えられた状態でやる瞑想の方が、おそらくしっかりと深いものが得られるのではないかと思います。
仏教の中で述べている、観察の時に得られる智慧というのがあるんですけども、それも得られやすくなるのではないかっていう気がいたします。
中:観察の中で得られる智慧っていうのはどんなものなのでしょう。
蓑:はい、まず1番最初に生じてくるものが、名色の分離の智だ、という風に言われ
ます。
中:第1回で習いました、名色の分離。
蓑:はいそうです。はい。
ナ:ブッダが瞑想によって発見した名色の分離。例えば、何かを見た時、脳には見ている対象のイメージが浮かびます。すると、イメージを見る、自分の意識があるとわかります。 つまり、リンゴが有るという認識は、リンゴ、色とそれを観察する心の働き、名に分けられます。この仕組みに、ブッタは気がつきました。
蓑:第1回目の時に呼吸の観察っていうのをお話いたしましたので、呼吸で説明したいと思うんですけれども、鼻のところに気持ちを持ってい て、入ってくる息を入る、出ていく息を出るという風につかまえるのが1番基本です。
それをやってみますと、ただ単に入る、出るという風に気付いていたものだと思うんですけども、ある瞬間にですね、その気づかれている対象としての風のような動きが存在して、 それに対して自分の心が入るという風に気付いているんだなと思える瞬間がやってくるんです。この時には、実はつかまえられる風の動きがあった時に、つかまえる心が生じてるんです。
ですから、この関係性というのは実は一方的でありまして、つかまえられる風の動きがあった時につかまえる心が存在して、生まれてきてると。
中:この入れ替わりはないわけですね。
蓑:入れ替わりはないわけですね。こっちのつかまえる心が先にあって、つかまえられてるものが生じるってことはないわけです。
私達が観察している対象というのが2つのものに分離されて、そこには常に一方的な関係性が成り立っているで、この一方的な関係性を初期仏教の時には縁起という言葉で表現したと考られます。
名:一方的関係性、縁起は名色の分離からも導き出されます。脳に描かれたイメージとそれを観察する心の働き。この時必ず観察されるものが先にあり、その後で観察する意識が生じます。リンゴ、色がなければ、観察する意識、名もおのずと消滅します、この逆はありません。あるいは、リンゴが存在することで観察する意識が生まれるのです。この一方的な関係性を、仏教では縁起と呼びます。
蓑:元々、縁起という言葉は、関係性と訳されることが多いんです。あるいは、条件性という風に訳されることもあります。特に、初期仏教が考えている関係性というのは、一方的な関係性なんです。これ今申し上げましたように、つかまえられる対象が先にあって、それが生じてきた時につかまえるところの方が生じていると。
で、そういう風に考えてきますと、一方的な関係性というのが1番最初の縁起の意味であったと考られます。
為:これはだから要するに、自分の方はいつも受け身であるってことなんですね、その向こうからやってくるもの、こうキャッチする側で、こっちからそれを認識しに行くっていうことはそれが存在しないとできないっていうことですよね。
蓑:そうですね、基本的に五感で受け止めているものの場合には、つかまえられる対象の方が先です。
為:その一方向の関係があるって考ると、自分の周りに誘惑がいっぱいあると、それに反応してちょっと周りの環境を整えないとっていう修業環境っていうのは、なんか自然な気がしますね。
蓑:そうですね、縁起の考え方というのは、ある意味で一方的な関係性で、何かがある時に、次のものが生じてきているという風に考えていますので、苦しみというのもその原因があって、それによってこう生じてきているものだっていう風に捉えていきます。で、実際に 私達の心の中に生じてる様々な働きが原因になって、いろんなことが起こされているんだなと、その元になっているものがなければ、なくなれば、その起きているものもなくなっていくんだなっていう風に考えています。この関係性は、まさに名色との関係と一緒でありまして、こちらがつかまえられるものがなくなると、つかまえてる働きもなくなる。
ですから、戯論がなければ、ある意味で苦しみも生じてこないことになりますので、現状にしっかりと対応することができるという風に考ていいと思います。
こういう風なことに気づけるというのもですね、実際には深い瞑想を行うことによって、その中で気づかれてくるものです。
名:戯論とは、ブッダが瞑想によって見つけた苦しみが生まれる仕組みです。
飛んできた矢、これが体に当たると、本来受け取るのは、矢が触れたという体の感覚だけです。しかし、その認識がきっかけとなり、第2の矢が放たれます。すると、心はどんどん動いて、怒りや悲しみが生まれます。このように心が拡張することを戯論と言います。
つまり、戯論が起きることで苦しみが生じ、戯論を抑えられれば、苦しみもおのずと消える、ここにも一方的関係性、縁起があるとわかります。
為:これは一方向って関係とおっしゃいましたけど、ずっと今もそんなそういう認識なんですか仏教の中で。
蓑:これは仏教思想のですね、長い年月の間に展開があります。これは初期の仏教からやがて大乗仏教というのが生じる時代が出てまいります。
大乗の世界になりますと、一方的な関係性ではなくて、相互の依存性の関係として縁起を捉えるように変わっていきます。私達が見ている様々な事物が存在しているその理由というのは、様々な条件とかが折り重なって、今の目の前にこう出現してきているんだっていうような関係性になっていくんです。
ある時までは、心の中に生じてくる様々な働きも一方的な関係性で生じてきているんだって捉えてるんです。ところが、その考え方が私達の心を説明する原理だけではなくて、私達の世界を説明するための原理みたいなものとして、 応用されていくようになるんですけど、その段階になりますと、全てのものがこう繋がっているっていうような感覚になっているんです。
為:現代でいう意味ではないけれども、自分中心的なものの見方がもう少しなんていうのかな、自分の世界の一部であるみたいな考えに近くなっていく感じ、、、
蓑:なっていくと思いますね。自分と世界という関係というのが見えてくるようになると、ある意味で、自分を中心にして考えるっていうところから抜け出せていくようになりますので、仏教が目指している世界の1つをですね、現代的な言い方をした時に、自己中心性を離れるという言い方があるんです。自分を中心として考えていくっていうのを離れていくっていうのが、実は大事な視点だっていう風にも言いますので、ま、それを可能にしているのは、ある意味で、縁起の考え方であり、自分を中心にして考えるっていうことがもたらす弊害点を超える部分を持っているんではないかとま思います。
為:スポーツだと最近分かってきたのは、観客の影響っていうのはとても面白くて、例えば今コロナで、無観客の試合が行われること多いんですけど、 普通はホームっていって、地元で戦った時は勝率がちょっといいんですね。で、これが観客がいなくなるとこれがなくなって、勝率が一緒になったんです。やっぱり、ちょっと応援されてるってことは、 プラスになってるのはわかったりとか。あとは、野球なんかで言うと、バッターがこの玉を打つかどうかっていうのを決めてる。ジャッジの中にいろんな要素があるんですけど、1番大きいのが、 観客の声援の大きさだったっていうのがあって。
なので、まあ私達自分の体を鍛えるんだけど、どうも自分のパフォーマンスは、自分の体とだけじゃなくて、周りの応援とか、周りの選手の関係の影響も受けてるっていうのは、最近は分かってきてて、それも少し近いのかなとはと伺ってましたけど、
中:心身の観察をして、縁起の関係性に気づいて、そしてこの苦しみからも解放され、知恵を得ました。もうここまで来たら、修行はおしまい、完成でしょうか。
蓑:残念ながら、経典の中では、そのようには述べていません。 智慧を得た人達は、次のようにあるのが良いというような言い方が出てきます。
ナ:苦しみから解かれた後どうあるべきか。ブッダは弟子達へ修行のその先について伝え残しています。
『究極の理想に通じた人が、この平安の境地に達してなすべきことは、次の通りである。
能力あり、直く、正しく、ことばやさしく、柔和で、思い上ることのない者であらねばならぬ。他の識者の非難を受けるような下劣な行いを、決してしてはならない。
一切の生きとし生けるものは、幸福であれ、安穏であれ、安楽であれ、目に見えるものでも見えないものでも、遠くに住むものでも、近くに住むものでも、すでに生まれたものでも、これから生まれようと欲するものでも、 一切の生きとし生けるものは、幸せであれ』
蓑:この点から考えていきますと、理想に到達した人達は、それだけで終わりというわけではなくて、生きとし生けるものに対して、安穏であれ、幸せであれと祈るって言いうんでしょうか。それを実践していかなければいけない。
これ一般には慈悲という言葉で呼ばれていますけれども、この気持ちがとても大切なものだということを言っているのではないかと思います。
私達、自分自身が幸せになるっていうことをよく念願すると思うんですけれども 、それを他者に対しても振り向けていくと、これがとても大切なことだという風に述べています。で、それが実際には今現在だけではなくて、未来に生まれてくるであろう生きとし生けるものに対しても、同様の気持ちを持たなければならないっていうことを述べてるところが、実はなかなかに素晴らしいところではないかと思います。
為:この慈悲の気持ちは修行を続けていくと、自然に芽生てくるからそうしなさいなのか、それとも他者に対して貢献していく意志に慈悲の心は育ちますというのかって、このブッダはどっちの方を強くおっしゃってたんですかね。
蓑:それはとても難しい問題でして、これも研究者の見解で分かれるんですけれども、仏教の考え方の中に元々存在していたものなのか、あるいは修行等によって後から得られたものなのかっていうので議論があるんです。でも、これは私の個人的な考え方ですけども、本来的にあるものと捉えてもいいのではないかと。
何を根拠にしてるかと言いますと、私達が経験しました東日本大震災の時に、日本中の人達、世界中の人達と言ってもいいかもしれませんけれども、その大変さを知った人達が何かしてあげなければいけないというような感じで、動いてくださったと思うんです。で、それは、私達が本来的に他者に対する慈しみの気持ちみたいなものを持っているからなのではないか、という風に思いました。
ただ、日常的にはなんかあまり目立たないような感じでともすれば忘れがちなんですけれども、何か危機的な状況があった時に意識されるものなのかなと。で、仏教者達はそれを踏まえた上で、これをいつも気を付けていなさいというようなことを言っているのではないかなと思います
中:思い起こせば、このブッタも最初、王宮から町に出た時に苦しんでいるのを目の当たりにして、まるでこう自分の苦しみかのように感じて、そこから逃れるにはどうすればいいかということで修行を始めたわけですよね。
他者の苦しみを自分事としてこの感じる、この感受性っていうのは、もしかしたら、本当に、、、
蓑:元々持ってるものなのかもしれないですね。
為:それを慈しみの心ってなんとなく直感的に感じたり、感情的にそう思おうっていうよりも、そう思ってしまうようなもののような気がするんですね。あんまりコントロールできないって思うところを、この瞑想っていう手段で順序をちゃんと踏んでいくと、いろんな人の中にあるこの慈悲の種みたいなものがもっと膨らんで、花開くんだっていう。
蓑:多分そうなんだろうと思います。自分の心の中にある慈悲の気持ちみたいなものにですね気づいて、それを多くの人達にも気づいてもらおうっていうようなところがあるのではないかなと思うんです。それを自分のものにしていく、きちんと身につけていくためには、
瞑想という手段も大切だと考えていたみたいなんです。
智慧というのと慈悲というのは、仏教にとってとても大切なものなんですけれども、2本の柱だっていうな言い方もあるんですが、今日の話の中で八正道というのを申し述べましたが、1番最初の教えのところから、智慧と慈悲という2つを大切なものとして、受け止めていたのではないか、ということができると思います。
名:ブッタが弟子達に最初に説いた教え、八正道。八正道の中には、怒りの気持ちを持たないことや、相手を傷つけない振る舞いについて言及されています。ここからは慈悲の要素が感じられます。
そして四諦とはなぜ人は苦しむのか、この世の理を説いたものです。欲望があるから、苦しみが生まれる八正道を実践すれば、苦しみのない理想的な状態が生まれる、ここにも一方的関係性、原理があるとわかります。このように、四諦には瞑想で得られる智慧が含まれています。
つまり四諦八正道には仏教の2本柱、智慧と慈悲が既に備わっていたのです。
蓑:心身の観察によって得られてくるところは智慧の世界であり、他者への思いやりの気持ちって言いましょうかね、他者との関係性の中で捉えられてくるものが慈悲である。で、その両方が実はとても大切なものだと考えているのが、仏教だということができると思います。
為:自分に向いての智慧と社会に向いての慈悲、その両方で、、、
蓑:はい、その両方が大切なものとして考えられてると。これはいろんなところにですね、そのようなことが感じられるような資料がありまして、日本人の仏教者の中でも、ある時期までは自分の修業ばっかりこうやってっていう人がいるんですけども、あるところでですね、やっぱり大きな体験をしていまして、その慈悲の世界というのに気がついて、そして、ようやくしっかりとした悟りに到達したっていうような言い方をしてる人達が多いんです。
ですので、智慧と慈悲っていうのが、仏教にとってはとても大切なものであるっていうのが、分かるのではないかと思います。
中:今日はブッタがどのようにこの弟子達に瞑想を伝えてきたのか、という過程を見てきましたけれども、為末さんいかがでしたか。
為:いや、もう本当にとても思うところはありまして、特に選手のプロセスに似てるなと思ったんですね。大体は自分の夢のために頑張っていくんだけど、どっかのタイミングで、応援してくれる人とか、社会の方に向けてっていうのをやってくんですけど、結構その
分岐点になるところの体験に、自分1人でやってるわけじゃないっていうか、直感的な感覚を持って、選手はそっちに行くことが多いんですね。で、そういうものが人に優しくされたからしなきゃとか、そういうことじゃなくて、なんとなく直感的に、自分1人でやってるわけじゃないんだなっていうのを思って選手がこう、今日の言葉で行くと、慈悲の世界に入ってくのかもしれないですけど、そんなプロセスも想像しながら、結構近いなと思って話を聞いてまして、 まあそのわけで瞑想っていうのが、もっと世の中に色々と使われていくっていうのは、とてもいいのかなという風に思いました。
中:はい、私達にもできることがありそうでしたね。
蓑:仏教の瞑想というのは、実は忘れられがちなところがありまして。でも、それが持っている大事なところというのが今日の話の中ではたくさんできたのではないかなと思います。
っと、仏教の大切な智慧と慈悲という世界が実は、瞑想の世界としっかりと繋がっているというのがわかっていただければよかったと思います。
中:お二方、今日はどうもありがとうございました。
次回は、ブッダが弟子達へと伝えた瞑想が、その後インドでどのように広まっていったのか伺います。
2022/11/13 「光にむかって」
2022/11/13 「光にむかって」
高浜寛:漫画家
『女性:きれい、、、
男性背景が黒いから夜の女神ニュクスかな。
女性:知ってる?ニュクスは夜を司る神様だけど、彼女は全ての戦いを終わらせる力を持つの。手にしている、この角灯(ランタン)で、暗い世界を照らそうとしているのね』
ナレーター(以下「ナ」という):闇の世界を角灯(ランタン)の光で照らす女神ニュクスのプローチ。漫画、「ニュクスの角灯(ランタン)」の舞台は、明治初期の長崎とパリ。ブローチを巡って、 過去の苦しみや、厳しい現実を背負った人達がそれぞれの光に向かって歩き始める物語です。 世代を超えて、多くの読者から支持され、数々の漫画賞を受賞している注目の作品です。
作者は漫画家の高浜寛さん、この作品を描くまでには長く苦しい体験がありました。
高浜(以下「高」という):だんだん酒や薬が私を乗っ取ってしまったというか、 酒を飲んでるせいで、精神薬を乱用しているせいで、生活ができなくなっていって、そのためのストレスが大きくなった。
ナ:アルコールや精神薬の依存症に苦しむ中で、高浜さんを闇から救った大きな出会いがあります。それは一片の祈りの言葉でした。
『変えられない物を受け入れる心の落ち着きと変えられる物は変えていく勇気、そして
2つのものを見分ける賢さ』
高:わかりやすいのは変えられないものは他人で、変えられるものは自分だから、自分を変えることだけにフォーカスすればいいんですよね。
リアルを書こうと思ったんですよね、現実的なものによりしようと思ったんです。
ナ:闇の世界にある人の心に、角灯(ランタン)が明かりを灯します。
高浜さんは故郷、熊本県天草市で暮らしています。家の近くに畑を借りて、野菜や果物を育てています。
『高:ここは、旦那がキウイの果樹円にする予定のところで、今からキウイ棚を作るんですけど、ここにもう気の早いやつがちょっとなってる。 本当はもう棚を作って棚にはわせてこう上からなるようにしたいんですけど、その前にもうなっちゃった。
おいでおいで、私たちが哺乳して育てた未熟児だったんですけど、もうだいぶ大きくなりました』
ナ:家族は農業を営む夫と、野山に放し飼いにしているヤギ、犬と猫。
家事が一段落した昼下がり、仕事に取りかかります。月刊誌の連載やイラスト、原稿執筆など依頼は後を絶ちません。
動物と自然に囲まれた穏やかな生活です。
代表作となったのは初めての長編「ニュクスの角灯(ランタン)」です。2015年から4年間にわたって連載されました。
高:悪い時代の後には、必ず良い時代があるから、前を向いて歩いていこうってことを描こうと思って。
ナ:物語は太平洋戦争末期、空襲にさらされる熊本から始まります。 防空壕で身を潜める主人公の美世が、孫にいい時代だった頃の話を聞かせます。
『美世:ある時からばあちゃんの世界が変わったの、あの不思議なドアを開けた時からね』
ナ:美世がまだ少女だった明治11年長崎、両親を亡くし、叔母の家で育てられていた美世。 家事や仕事も満足にできず、自分に自信がありませんでした。ある日、迫来品を扱う道具屋に連れて行かれます。
売り子募集と聞いて採用してもらおうと、美世の特技をアピールします。
『叔母:この子はね、触ったものの過去や未来の持ち主がわかるんですから。
道具屋の店員:この時計の未来の持ち主を見て。
美世:未来の持ち主は女性ですね。少し太った人、お金持ちかも
道具屋の店員:よし、採用だ、明日からおいで』
ナ:美世は道具屋の仕事を覚えようと懸命に働きます。物に触ると、その持ち主の過去や未来が見えるという神通力を生かして。ある日、 近所のおばあさんが訪ねてきて、家出した孫の消息を知りたいと、美世に頼みます。
『おばあさん:孫が戻ったらやろうと思って、新調した着物さ、あんたが触って未来の持ち主にあん子が見えれば無事ってことやろ。
美世:わかったばあちゃんやってみよう。なんか、ひ孫さんみたいな人まで見えましたよ。多分、そのうち帰ってくるよ』
ナ:それを見ていた道具屋の女主人が、美世に忠告します。
『女主人:あんたは、何よりもまず嘘をつくのはやめんといかんね』
高:ヒロインが嘘をつく、そういうつまらん嘘をつくっていうヒロインはあまりいないから、かっこよくないし、ヒロインとして「それはないわ」って思うようなことでしょ。それは新しい試みとして入れたかったんですよね。
ナ:美世は、特殊な能力があると嘘をついて、周囲の人から認められようとしていたのです。女主人は美世を諭します。
『女主人:人には、悩みを抱えて落ち込んだままでいる権利もあるんだよ。あんたの嘘で悩みをなくしてやるとは簡単たい。 でもそのことで、その人が自分で悩んで、成長する機会を奪ってしまうことになると思うんかい?』
嘘をつくには、洞察力がいる、その洞察力こそがあんたの本当の能力なんじゃなか?』
『美世:重くて、とても優しい言葉だった』
ナ:子供の頃から絵が好きで、ちょっと内気だった高浜さん。高校を卒業すると大学の美術科に進学するために故郷を離れ、茨城県つくば市で1人暮らしを始めます。
時代は、就職氷河期、進路で悩んでいる頃、漫画家への一歩を踏み出すきっかけがありました。
高:短いものだったら、高校生ぐらいの時に何本か描いたことがあって、大学何年だったか忘れましたけど、 飲み会してる時にノリで上質紙に書いてみたのが、 久しぶりのその漫画制作だったのかな。で、それをみ見た友達が、「あなたは漫画家の才能があるよ」と言って漫画を勧めてくれて、そこから本格的に書くようになりました。
ナ:2002年に漫画家デビューを果たします。
初めて発表した短編漫画、気持ちがすれ違う夫婦とその和解、家族間の心の機微を、独特の世界観と陰影で描きました。新しい日本の漫画としてフランスでいち早く評価されます。
アメリカで賞を受賞した短編集、緻密なストーリーラインの作品群はどれもが学校生活や不倫、老いなど日常をテーマにしていました。
高:取材が必要だったり、新しい知識が必要だったりするものを1からやるよりも、日常生活の中から出てくる話を描く方が自分にとってやりやすかったから。
ナ:デビューから2年、仕事が増える一方、悩みも増していきました。
高:本当にとんとん拍子でどんどん仕事もらったり、インタビューもらったり、漫画家になることは夢見てたけど、それに付随するものは予想していなかったっていうか。新しい編集者にあったりとか、雑誌の取材を受けたりとか、苦手なシーンをこなさなきゃいけないような時に、少しお酒を飲むとこう口が回ってというか、緊張しないで話せるようになるので、少し飲んでから行ったり。海外にプロモーションなんかで行くと時差もあるし、そのきつい状態で長距離の移動があったりとか、言葉の問題があったりとか、 海外での取材を受ける時の方がより困難だった気はしますね。
ナ:初対面の人とのコミュニケーションが苦手だった高浜さん、自分の気持ちを偽り、取り繕ううちに、 心のバランスが崩れていきました。
高:苦手なシーンをこなさなきゃいけなくなってから、最初に行ったのは心療内科で、次の日が重要な日なのに眠れないとか、ドキドキが出るから、安定剤が欲しいとか、そういうことで薬をもらって飲んでて、で、お酒も飲んでて、お酒の量はもしかしたら、もうずっと
飲んでて変わらなかったかもしれないんだけれども、精神薬が入って、それを合わせ技にしたせいで、 今まではなんとか自分でそれでも管理できてた日常生活がもう完全に自分の管理できないものになってしまった。
睡眠薬を飲まないと眠れないし、飲んだところで効いてる間だけしか寝なくて、で、それで起きてしまうから、全然疲れが取れなくて。だから、まあ、朝も起きれないで起きてもなかなか頭がぼーっとして仕事ができなかったりとか、で、シャキッとしようと思って、また、ちょっとお酒飲んだりとかで少し乗ってくると仕事をするけれども、 遅くまでやってしまって、またくたびれて。
ナ:アルコール依存症が進行し始めた時、描いていた漫画です。
当時、小学校の臨時教員をしていた体験を元に虐待や両親の離婚をモチーフにしました。
この頃は、救いのないストーリーばかりで、コマの外は黒く塗りつぶし、より暗い印象を強めていました。
高:睡眠薬で死のうとしたことがあって、で、今の睡眠薬って、何百錠も飲まないと死ねないと言われてますけども、それでも試そうとしたわけですね。だから、遊び半分でやったわけですね。でも50錠ぐらいしか眠すぎて飲めなくて、結局助かったんだけど、その時に記憶してることはただ暗くなって、次の瞬間は目が覚めて何にもなかった。その間に夢も見なかったし、走馬灯もなかったし、死として来るべきものがなくて、ただ、眠りに落ちたのみで、何にもなかった、感動的なものは何もなかった。自殺未遂も3回ぐらいやったことがあって、で、救急車で運ばれて胃洗浄されたりとか、それも何回もあったんですけど、帰ってきてもケロっとしてるから、 みんな大丈夫だろうって思ったみたい。
大人になってから、多動障害と診断されたんですよね。多動障害っていうのは、常に動いていて、注意集中が困難なタイプと、見た目がボケっとしてて中が混乱してるタイプとあるんです。で、私は見た目はボケっとしてるのに、中が混乱しているタイプで、私がどんなに混乱していても、周りからはそれがわからない。だから、お酒にしても薬にしても、もう自分ではどうにもならないところまで行ってるのに、普通に真顔でぼーっとしてるだけだから、誰も気づかなかった。
それで、私はもう自分で、これでは自分がダメになると思って、まず最初に行ったのは内科で、先生に飢餓状態になってると診断されて、それで周りにもようやくわかる異常が発見されるわけです。だけど、どんどんどんどん手に負えなくなってくるんですよね生活が、ここから ベランダまで行くのに、2時間かかったりするんです。で、それでおかしいと、自分でどうもおかしいと、今普通じゃないって思って、なんとかしなきゃなと。
ナ:アルコール依存症が進行するにつれて、イラストなどを書くことはできても、漫画の複雑なストーリーを生み出すことが困難になっていました。
高浜さんは、治療に専念するため熊本に帰ります。イラストのほか、アルバイトをしながら実家で暮らしました。
高:どんな人に相談しても、決定的な答えをくれる人はいなかった。もう、お酒をやめなさいとは言ってくれないし、医者に薬を飲みたくないですと言っても、いきなりやめろとは言われないし、だから、 相談できるところは回復した人達のグループしかないと。
ナ:高浜さんはネットで探したアルコール依存症の自助グループを頼りにします。
高:暗い廊下を下りていって、少し明るいところに出て、この部屋に入ってきますよね。なんか、それがすごい再生を象徴するように、当時の自分に思えたんですよね。
毎日どこかでやっていて、毎日飲みたくなった人が、いつでもどこかの会場に行けば、グループに参加できるようになっています。来ると、こうやって、席について問題を抱えてる人達が集まってくると、ここに来る人達は、アルコールの問題をみんな持っていて、みんな言いっぱなし、聞きっぱなしで、他の人は口を挟まないで、その人の話を聞くんですけど、自分の問題だとか、発見だとか、喜びだとか、頑張ってることとか、辛いこととか、何を話してもいいんです、その特定の誰かを傷つけなければ。
最初はやっぱり緊張してましたよね。どんな人がいるのかわからないし、自分のことについて話すのは緊張するし、かなりドキドキしながら来ました。
2つの感情があって、他で話せないことをここで話すと気が楽になるんだけど、同時に話したことで生まれる罪悪感っていうのもあるんですよね。なぜ、罪悪感を感じるのかな。自分の問題を話す時に、正直に話したつもりでも、いくらかドラマチックになっているのではないか、自分の中でそれが正確に伝えられているのかが、その時は自信がなかった。これは、漫画の制作と違うから、私自身の人生の問題だから、そこに嘘が入ってはいけない。本当に1パーセントでも、嘘が入ってはいけないと思って、 非常に気を遣ったんですよね。
ナ:自らの経験を語るとともに、他の参加者の話から希望を見出だすようになります。
高:やめて、また社会復帰した人達の中には、時々すごい奇跡を起こすような、もうものすごい大逆転をする人がいるんですよ。 で、そういう例を見ると、自分ももうここまで自分は落ちてきたけれども、あの人みたいにあそこまで戻りたい、もっと上に行きたいって、もう諦めていたものが、もう1回手に入るかもしれないっていう憧れ、希望、回復した人達を見たので、 これは自分も回復してみたいと思ったわけですね。
ナ:この頃、ボランティアとして訪れたホスピスで、1人のがん患者と出会います。
高:その方はね、もう末期の癌だったけど、結構それでもホスピスの中で4年過ごされて、 だから長くいらっしゃったから、私がその行っていた間、ずっと彼と会って話をすることができて、その間に友達になったんですよ。で、若い時はずっとその精神の問題に悩まされて、で、結婚もなさらないで、ずっと苦しい人生を歩んできて、で、ガンになって、ホスピスに入ってらっしゃった。ガンになってから、全然幻覚とか、そんなそういう精神の問題がなくなったらしいんです。 すごく穏やかに死なれたの。だから、癌がね悪者だと思わなかった、思えなかった。少なくとも彼を楽にしたのは癌だったのかもしれないし、で、すごく穏やかな顔で、私を含めてお世話になった人達みんなに挨拶して握手して、それで逝かれたんですよね。見事な死だった、それをなんか見せていただいたことにものすごい感謝して、誰かの死っていうのを見せていただいたことはすごく自分のためになったし、自分が死に向かう時もそうでないといけないと思うようになりました。
ナ:熊本に戻り、身近になった自然の中で考える時間が増えていきます。
高:やっぱ、回復のために体作りをした方がいいっていうことで、よくウォーキングしてましたね。
ナ:自分に与えられた時間をどう生きるのか、意識するようになっていました。
高:夜月当たりだけでここに来て、蛍がバナナの葉っぱの間を消えたり出てきたりするのがすごい幻想的で綺麗で。こういうところに来る以前は植生みたいなことにはあまり関心を持ったことがなかったんです。 でも、まあだんだん興味が湧いてきて、自然に触れるっていうのは、やっぱりすごくいいことだと思うし、精神が癒される、それから、深く考えるための落ち着きが得られる、もう言葉で表せないものでもあると思いますね。
やっぱり自然の側にいて、例えば、どんなに無神論の人でも、自然のことは否定できないじゃないですか。鳥が飛ぶこととか、虫が鳴くこととか、そんなことをどんなに科学で説明しようと思ってもわからないことがたくさんあるし、 だから、自然を信じていればいいと思いますよね。なんか、そのとにかく自然が助けてくれたり、自然が答えをくれたりすることはたくさんあるし。それがサムシング・グレートっていう人もいれば、ハイアーパワーっていう人もいれば、神という人がいれば、宇宙という人もいるでしょうけど。でも、自分が そういうものなしに、自分1人が生きてると思うのは傲慢でしょ、やっぱり、自然の中で生かされているわけだから。何か全体のおっきなものの中で生かされてて、それについては何も解明されてないことが多すぎるわけだから。
ナ:自助グループに通って1年以上、出会いと別れを重ね、高浜さんは自分の依存症と向き合い続けました。
高:いろんな知識を得ることができました。普通の一般社会、学校とか、家族とか、 職場とかで習ってこなかったようなことを習う機会になった。特に精神的なものに関して。
ナ:そして運命を変える言葉と出会います。アメリカの神学者、ラインホルド・ニーバーが広めた祈りです。
『神様、私にお与えください、変えられないものを受け入れる落ち着きを、変えられるものを変える勇気を、2つのものを見分ける賢さを』
高:回復しようとする依存症者を日々支えてる祈りですね。わかりやすく言うと、変えられないものは他人、変えられるものは自分だから、自分に決定権がないものを一生懸命変えようとすることは無駄なことで、でも、自分の在り方とか、自分の中で変えられるものは変えていこう。
今までは、その困難な状況を自分でなんとかしようとしてきたわけだから、なんともならないものを受け入れようって言われることが驚きだった。
ナ:ニーバーの祈りに背中を押されて、高浜さんは依存症から回復していきました。
31歳の時、出版社のオファーを受けて、数年ぶりにストーリーのある漫画に取り組むようになります。その頃、描いていた「SAD GIRL」、自分の過酷な体験をもとにしました。
しかし、結末は自らの力で明るい方向に向かうようにしました。
高:例えば、悪とかネガティブなものを描いても、それを読むことが面白いって思うようなものにしたい。 なんか、自分のネガティブな感情を他の人に押し付けるような漫画をもう描きたくない。
さらに歴史漫画にも幅を広げます。幕末の長崎、丸山遊郭を舞台にした「蝶のみちゆき」、悲しい過去を抱えながら、美貌と粋で遊郭を生き抜いた太夫の生涯、ふるさとで暮らすうちに地元の歴史に触れ、そこに生きた人々の埋もれた声に惹かれていきました。
高:最初は仕事としてやってましたけど、だんだんそのジャンルに惹かれてやるようになったわけですね。それは確かに、もう今生きてない人達のことを調べると、自分も変わるし、 今の社会に応用できることがたくさんある。で、以前はやってたはずなのに、今の人達がやらなくなったことを掘り出すことがあるし、そういうのを描いていくのは、やりがいもありますよね。
ナ:復帰後、次回作の構想を練っている時、アンティークショップで偶然1つのブローチを見つけます。それが夜の闇に光を灯す「女神ニュクス」でした。
高:ずっと夜が来ない状態で、それが明けたことがあったんで、そのブローチを見た時に、 自分の経験と照らし合わせて、すごく惹かれたのはあると思います。
ナ:ブローチに着想を得たのが、初めての長編「ニュクスの角灯(ランタン)」、高浜さんの代表作が生まれた場所を訪ねました。
『高:3回の角部屋です
ナ:かつてここに立っていた築数十年の古いアパートに住んでいました。
高:薬をやめて、お酒をやめてって決めた時に、インターネットの不動産情報サイトで1万円台、1部屋、ワンルーム、熊本市内中央区で検索して、こんなものあるわけないって、エアコン、フローニングとかですね。思い切っていろんな条件を挙げたんですけど、あるわけないだろうと思ってたら、ここが1件だけあったと。それで、もう1発で決めてずっと住んでます。 住んでる間に家がこう傾いてきて、玄関ドアが閉まらなくなったんで、鍵かけないで出歩いたりしてたぐらいボロかった。
3年間いたと思います。こんなボロくても入ってみりゃ住めるじゃないかっていうので、どん底があるってことを教えてくれたけど、そのそこが別に自分が思ってたような、最低のものじゃなかった。
実際に底を見てきた人達の方が、そこを知らないで育った人達より強かったりするそれと同じことです。底は知ってる方が強いと。
ナ:部屋には家具やランプなど、お気に入りのアンティークをいっぱいに飾りました。古い品々に囲まれて、 「ニュクスの角灯(ランタン)」を夢中で書きました。
高:もう私、ここ住んでる間は全然何も問題を感じてなくて、エアコンもあったし、壁も ボロかったけど問題なかったし、お風呂も寒かったけど、発泡スチロールで塞げばなんとかなったし、 あんま何も問題感じずに、その1万2,000円のボロ物件に住んでたわけです。結構それは幸せな時間もあって、保育園から子供達の声が聞こえてきて、のどかでね、なんか、いい思い出も結構あります。 やれば、なんとかなるんだってことを教えてくれた物件でした』
ナ:神通力で、物の持ち主と未来が見えるのは嘘だと見破られた美世、再びその力を頼まれます。
『女性:あんたなら視えるやろ』
美世は女主人の言葉を思い出します。「あんたは、嘘をやめんといかんね、人には悩んだままでいる権利もあるんだよ」
『美世:ごめん、おばさん。私、視えなくなってしまったの。
女性:神通力が失くなってしまったとかい?
美世:そうです。ごめんなさい、力になれなくて
女性:そんなこともあるんだね、それじゃ、しょうがないね』
美世は誰かの期待に答えようと、自分を偽ることをやめたのです。
ナ:漫画家として再び光を見出した頃、地震が襲います。住んでいたアパートは全壊認定。 アンティークに囲まれた部屋は、立ち入るのも困難になっていました。
『高:予震の時に、すでに全壊だったんですよ。揺れて、この家に戻ってきたら、もう住民の人達がここにみんなで出てて、で、この道なんとかこう危なくないように、この道に避難してて、でももう この亀裂なんかもそうな時じゃないのかな。ぐにゃぐにゃ道がぐにゃぐにゃで、こういう電柱が倒れてくるんじゃないかと思って。みんな右ったり、左行ったりって感じでした。』
高:本当にもう死ぬんだって思った時は不思議な感じでしたね。そしてもう、受け入れる気持ちになってたし、その瞬間が5分後なのか、3日後なのか、噴火なんか予測もできないし、なんともわからないから近いうち死ぬっていう、それぐらいしかわからないから、どうやって生きるのか、すぐ考えて、その間にも県外に逃げる人とか、車を使ってどんどんどんどん逃げ出す人達がいたんだけど、なんで私はここに残ってるのか、自分でもちょっと不思議でした。死ぬつもりで残っていましたし、死ぬまでに少し時間があれば、 文章なり漫画なりにして残して死ねるけど、きっとこの死に方は、あっという間に行くから、誰にも伝えることができないのは残念だと思いました。
ナ:住み慣れたアパートはすぐに解体され、集めていたアンティークの多くも、手放さざるを得ませんでした。
『高:緩やかにPTSDみたいなものになって、 前住んでた家をこう通ったりすることがあったんだけど、その時にもうすでにあれが立ってて、自分が住んでた部屋がないっていうのが、なんかちょっと不思議な喪失感を感じてました。いや、そのね、物質的にいろんなものが新しくなったり、復興したり、違う人が生活を始めてあったりするのに、自分が先に進んでないっていう感じなんですよ。ポカンとあそこから、あそこに住んでた時のまま、なぜか自分がその間に進歩してなくて、1人だけが取り残されているっていう感じなんですね。
あと、なんか復興ムード、すぐにこう、「頑張ろう熊本」とかすごい復興ってなったけど、それにも追いついていかなかった感じがしますね。地震の直後からずっと仕事だってしてたし、いつもいつも何かしら一生懸命してたし、もうしてるのにっていう気持ちなんですよね。だから、鬱の人に頑張れって言うといけないっていうのと同じ心理で、もうなんかこれ以上頑張ろうとかっていうのは、もう言ってくれるなっていう感じなんですよね』
ナ:実家も全壊し、車での避難生活は1ヶ月に及びました。この車の中で、「ニュクスの角灯(ランタン)」の連載を描き続けました。
高:震災みたいな分かりやすい、悪いことってそう何回も頻繁にあることではないから、祖母と話してて思ってたんですけど、例えば、スペイン風邪の話聞いたり、戦争の話聞いたり、老人の話を聞くといい時代と悪い時代が、その1人の長い人生の中では何回かあるんだってことは、小さい時から思ってたんですよ。だから、私の バットラックっていうか、バットターム、バットピリオドが今来てるっていうのがすごくその時に思って、災害系は何回来るんだろうなとか、感染症系は何回来るんだろうなとか思いましたね。あと何回災害は起こるんだろう、戦争はあるんだろうか。やっぱりその80年、70年、80年人生生きるとして、その間に何もないなんてよっぽどじゃないとないから。
今被災してる人達がね、過去に被災して、その人達がどういうふうに生活を立て直していったのかを知ることもいいことだし。やっぱり自分が何かを克服したい、自分、変えられるものを変えていく自分を変えていこうと思った時に求めて読むものは書物だったり、インターネットであっても、テキストだったりするわけなんですけど、そこにそのテキストがなければ検索してたどり着くことができないから、やっぱり残すっていうことは大事だなと思いますね。
ナ:熊本地震のあと、物語は大きく動き出します。 自分には何もできないと、自信が持てなかった美世は英語やフランス語を学び、道具屋として大きく成長します。
ある日、美世の仕事ぶりが貿易商の目にとまります。美世はパリで働くチャンスを掴みます。
連載への人気が高まり、震災からの復興も熱を帯びる中で、高浜さんは再び心のバランスを崩します。
高:半年ぐらいしてから、みんな気が緩んだ時に、そういうちょっと空虚な気持ちになって、再飲酒、私も再飲酒したし、酒飲み友達が色々とできて、その中にはアル中の人達もいるわけで、仲良くなった人達もいて、私はせっかく親しくなったんだし、みんな自分の夢の話とかも飲みながらしたりして、みんなで光の方に行こうよって思ったけど、みんな行かないわけですね、飲んでたいからずっと。やめようよって言っても、みんなやめなかった。
本当にいろんなことが全然できなくなって、で、もうこのままだと仕事を失ってしまう、漫画家としてもう機能しなくなってしまうって思って、もう辞めないといけないと思って。お酒を飲んでいる時に、私は24ページの短編しか作る能力がないんですよ。集中力も低下して、絵の、その目とか脳が多分水が溜まってるせいだと思うんだけれども、絵も描く絵もおかしくなるし、色もきちんと正確に塗れないし、長編なんか、その構成を頭の中でキープし続けることができない。だから、紙に書いて、なんかここはこうするって全部メモしても
飲めば飲むほどどんどん描けなくなっていって、でもお酒をやめて3ヶ月、半年、1年、 3年って経つと特別メモしてなくても、長編の構想が頭の中でキープできる、こんなに違う。 だから、スリップ(再飲酒)した時、震災の後でスリップした時にも、もうせっかくあれをその再び得てたのに、あの能力をまた失ってしまったと思って、もうそれを取り戻したいからやめられた。
ナ:闇の世界を角灯(ランタン)の光で照らす、女神ニュクスのブローチ。職人の叔父が手作りしたものを、 お守り代わりに美世に持たせます。いよいよ美世がパリへ旅立ちます。
物語の舞台は花の都パリへ、美世は早速パリで仕事を始めます。最初はなかなかうまくいきませんが、持ち前のひたむきさで仕事に慣れていきます。見るもの触るもの、なんでも珍しい海外生活です。
パリ編の重要人物となるのが高級娼婦、ジュディット。社交界で華やかな生活を送っています。その裏で重度のアルコール依存症に苦しみ、結核を患っているにも関わらず、飲酒をやめられないでいました。
高:リアルを、アル中のリアルはこんなもんだっていうことは、ちゃんと描いた方が話は面白くなると思いましたね。それは自分が知ってるから、 アル中になったことがない人のアル中を描くのとなったことある人が描くのとではきっと違うし。
あの話の中にはもう1人ポーリーヌっていう同じアル中だったけれども、既に回復してて、彼女を導くキャラクターがいて、それを自助グループみたいなもんですよね。2人だけだけど、メンバー2人の自助グループ。先を行く人が、これからやめる人を導いていくっていう、そういうスタイルをそこに入れて、こういう風にしてやめていくことができるっていうサンプルをその中に入れた。
ナ:ポーリーヌに託したのは、高浜さんの人生を変えてくれた「ニーバーの祈り」でした。
『ポーリーヌ:必要なのは静かな忍耐だよ、変えられないものを受け入れる心の落ち着きと
変えられるものを変えていく勇気、そして2つのものを見分ける賢さ、そして一番重要なこと、「気楽にやろう」』
ナ:生まれ育った天草で暮らす高浜さんは、この地を舞台に次回作の構想を立てています。
江戸時代、初期に起きた天草島原の乱、激戦地となった富岡城の資料館を訪ねました。
「高:なぎなたはあまり詳しくないので、よくわかんないですけど、当時は九州で流行したって書いてありますね。室町時代に九州で流行した』
ナ:城跡には、当時の石垣が残っています。城が攻められた時、たくさんの人がここで命を落としました。この島で戦乱を生き抜いた人々は、何を見、何を感じていたのか、数年をかけて ストーリーを練り上げていきます。
高:過去の日本人から教わることがたくさんあるということですよね。私達やっぱり時代が新しくなればなるほど、いろんな発見があって、科学的にもいろんなものが解明されて、人間は賢くなってきてると思うけれども、実際は昔の人の方が聡明だったと思うことが、私はすごく多くて、困難の乗り越え方も教えてくれるし、いろんな人が書き記しているし、いろんなエピソードもあるし。だからもう、それが神であってもいいし、死んだじいさんであってもいいし、全然血の繋がりのない何世紀かに生きた誰かであってもいいわけだけど、自分の中で自分だけのメンターを持つっていう。それは死者であっても構わないと思うんですよ。もうとっくにいなくなった人でも構わない、でも、必ずなんか答えが出る、不思議なことですけどね。
ナ:漫画を描き続けること、それが苦しみ抜いた高浜さんがたどり着いた希望です。
太平洋戦争末期の防空壕から始まった「ニュクスの角灯(ランタン)」、年老いた美世が孫に語る明治時代、長崎、パリでの夢のような話が終わりました。
「孫:いいね、すごく素敵な時代やったんだ、
美世:あの頃は世界中が浮かれたったね。新しか発明に、新しか芸術、初めて知る世界。でも、その一時の夢がみれたことには感謝してるよ。その後の現実を生きていくことはようでけんかったろうと思う。
孫:あの頃があったけん、今があるわけやしね。
美世:ばあちゃん少し眠くなってきた。
孫:ゆっくり眠って話し続けて疲れたろ、それがばあちゃんと話をした最後でした』
高:大きく変わったのは、やっぱりその生き直すというか、小さな輪廻ですよね。現世でも輪廻だけど、1回精神の死とか、肉体の死とか仮死、仮の擬死を経て、もう1回生き直すっていうそのちょっとした輪廻ですよね。これを経験して、漫画の状況設定とか、歴史設定、時代設定が長くなった。前は1人の人生のこの辺りを切り取って書いていたようなものが、 人の生き死にのサイクルをもっと全体を含めて描くようになった。
『孫:戦争が終わったら、いつか私もばあちゃんみたいに世界を見に行きたい、見たことのないものを見たり、いろんな人達と友達になったり、いつかできるといい』
ナ:美世の孫が見つめるのは、原爆が投下された長崎です。
『美世:大丈夫、悪い時代の後にはきっといい時代が来るから』
高:私が最終的に言いたかったのは、悪い時代の後にはいい時代が来る。でも、そこがエンドじゃなくて、また悪い時代が来る。だけど、 悪い時代が来た時に、どうやって乗り切っていくかっていうところをレーニングをしておけば、次だってちゃんと乗り越えられる。そういうことを描きたかった。
『高:3歳ぐらいまで、晴れた日は毎日見てました。この美しさはね、表現してもしきれない。あとは、雲を見て、雲の形の中からいろんなストーリーを見つけるのが好きだった。
すごい象徴的だったのは、震災の後スリップして、 また断酒を始めた頃に、ちょうどこんな風な夕焼けで、熊本市の空でしたけど、鳩が大きく羽を広げたような形の雲がわーっと目の前に出たことがあって、それもなんとなくこうすごい象徴的で覚えてて、 もうあっち側に行かないといけないと思って、明るい方に行かないといけないから。
ナ:高浜さんが闇の中で求めた光、それは女神ニュクスのブローチでした。
美世は、お守り代わりのブローチをパリで落としてしまいます。拾ったのは、 アルコール依存症に苦しむジュディット。ジュディットにとっても、ニュクスのブローチは、 大切な人との愛の証だったのです。
『美世:やっぱり、あなたが拾ってくださったんですね』
ナ:混乱するジュデットを美世は優しく介抱します。
『美世:私の父も時々こんなふうにパニックを起こして、父の飲酒がひどくなってから、 混乱状態になった父の気持ちを沈めるためによく嘘を』
ナ:嘘をつくことで父親を安心させたり、周囲からの注目を集めたりしていた美世。しかし、嘘は見抜かれ、自分をよく見せようと気持ちを偽ってきたことを克服します。自分を信じて、ありのままを生きてきたと伝えました。
『ジュデット:私が人や自分を信じることを恐れているってことね、ありがとう話してくれて。このブローチに書かれている女性、誰なのか知ってる? ランタンの手に暗い世界を照らし、全ての戦いを終わらせにやってくる。夜の女神ニュクス、角灯(ランタン)のような明るさと誠実さで、私の闇を照らしにやってきた私のニュクスよあなたは。
美世:どうか怖がらずに光の方へ
ジュデット:ありがとう、、、』
2022/11/6 “ごちゃまぜ”で生きていく
雄谷良成:僧侶、社会福祉法人理事長
ナレーター(以下「ナ」という):石川県白山市にある行善寺、お寺と同じ敷地に 全国でもあまり例を見ないユニークな福祉施設があります。B’s行善寺、「誰もがみんな仏の子」を意味する、佛子園という社会福祉法人が運営しています。
ここに集まるのは障害のある人ばかりではありません。福祉サービスを利用する人もそうでない人も、 様々な人に訪れてほしいと、7年前に開かれました。
子供たちが集まる駄菓子コーナーがあったり、地域の人が集う天然温泉があったり、野菜の直売所があったり、まるで娯楽施設のようです。
障害のある人の生活支援や高齢者のデイサービス、学童保育まで、まだまだあります。外に出てみると、ハンバーガー屋さんにキッチンスタジオ。園庭には、子供たちが駆け回って遊べる遊具。他にもフィットネスクラブにクリニック、花屋、カラオケ、リラクゼーションサロンまであるんです。
様々な場所を作ったら、子供も高齢者も、障害のある人もない人も、色々な人が集まってくるようになりました。
ナ:この施設を作ったのは雄谷良成さん。施設と同じ場所にあるお寺、行善寺の住職です。
ここでは障害のある人もない人もスタッフとして力を合わせて働いています。
とりわけ、いろんな人がやってくる人気のフィットネスクラブ。健康づくりにダイエット、 リハビリ、おしゃべリを楽しみに来る人など、その目的も様々。
生活介護サービスを利用する。市川雅之さんです。「みんなでシンクロ」という水泳教室で立ち上げたチームのメンバーです。プールで沈まないように体を絞っているんだそう。
この日、市川さんが一緒にやろうとフィットネスに誘ったのは、雄谷さん。雄谷さんは時間ができるとここに来て皆と交わります。
どんな人にも居場所があり、笑顔になれるところ、雄谷さんはここを「ごちゃまぜの場所」と呼びます。
雄谷(以下「雄」という):こういうごちゃ混ぜの場所の場合は、いろんな障害のある人や、あるいは遊びに来る、ちょっと様子を見に来るとか、そういう人とか、子供が走ってきて「何やってるの?」とか聞いたりとかする中で、いろんな人がこのウェルネスにいると。そうすると、脳梗塞で、例えば、半身に麻痺が出ているような人ももっとあのいろんな人がいて、頑張ってるな。 だったら自分ももっと頑張ろうと思って、まあ、励まされるというか、そういう中でどんどんどんどんこう元気になっていく。
僕達は、やっぱり社会福祉法人として、障害のある子供達を受け入れるところから始まったんですけど、従来の福祉なり医療は縦割りで、障害のある人は障害者だけと。あるいは高齢者の人だけって。それはやっぱりなんとかみんなでそのサポートしようという中で、必然的に生まれてきたことですけど。でも、そういった人がごちゃまぜになって、いると、その人達ばかりではなくて、実を言うと、いろんな人、福祉のサービスからは漏れるような人。例えば、あの引きこもりの人であるとか、あるいはちょっと、伴侶をなくして、1人住まいになって寂しいなと思ってきた人が例えばやってきて。でも、病気の状態では障害のあるような状態ではないですけど、いろんな人がいるのを見て、また元気になってくるっていうことはたくさんあると思います。
市川くんにしてもそうですかね、彼この間見てたら、毎日お昼腹筋やってるんですよ。腹筋ねこれでびっくりしたのが数えたら、100回超えてるんですよ。 最初はもう、こうやって右左とかってやってたら、あ、50回ぐらい簡単にやっちゃったんですよ。で、そもそもそこもすごいんですけど、そこから今度はこういう風にしてみようかって言ったら、はいって言って50回ぐらいやって100回、もうあっという間に100回になったの。そしたら、だんだんね、ウェルネスの中のジムの雰囲気が変わってくんですよ。 明らかにオーバーワークなんだけど、周りに期待されてるっていうのもあって、で頑張る。
そうすると「ほら、後じゃ10回」とかって言ったら、もう最後、ギリギリの力取り絞ってやってハーッて、で、周りも全然バイク乗ってる人とかも握手して、それで、ちょっとドヤ顔にはなるんですけど、すっと離れて、隣の鏡のある部屋に行ったら、本当に疲れた顔してる。 「この人が喜んでくれたらなあ」とかなんか期待されたら、期待に答えて、ああ喜んでくれるなあとかっていうことが、彼を突き動かしてる。
皆さんそれぞれ、ウェルネスの中で、それぞれのトレーニングをしてるわけで、その拍手が起こるなんてことはおおよそないんですけどね、自分のことを一生懸命やってる世界だから、でも、この巻き込み力とか、そこら辺がすごくて。
ある時は、支えているし、ある時は支えられていて、それで関わってるっていうことなんだろうと思うんです。
インタビュアー(以下「イ」という):こちら、施設の名前がちょっと変わっているな
と思ったんですけど。
雄:B’sっていうのは、佛子園というのは、私達社会福祉法人の佛子園なので、「佛子園の」っていう「の」という意味はありますけど、B’sっていうのは、「数珠」っていう意味でもあって。やっぱ人がこう繋がっている、関係し合っているってことを表していて、もう一つは存在ですよねbe同詞のbe。やっぱり1人1人が存在していて、その人達を敬う、お互い障害があってもなくても、認知症があっても、あるいは日本人であってもなくても、いろんな人がやっぱりこう、それぞれをお互いに敬いながら、いる存在しているという意味で、beで、その3つをB’s行善寺、
ナ:B’s行善寺のルーツは同じ敷地にあるお寺、行善寺にあります。そこにはかつて、障害のある子どもが暮らす施設がありました。
今年8月16日行善寺で行われたお盆の法要。かつて、この場所にあった障害児の施設で育った人や、家族達が集まりました。お経をあげるのは、行善寺の住職、雄谷さんです。
雄谷さんにとってここは、自分の生き方を決める原点となった場所です。幼い頃、雄谷さんはここで障害のある人達と一緒に家族のようにして育ったのです。
戦後間もなくこの場所に施設を開いたのは、祖父の本英さんでした。本英さんは幼くして両親を亡くした孤児で、寺に預けられて育ちました。大人になると、戦災孤児や障害のある子供達を寺に引き取り、施設を作って一緒に暮らしました。
父の助成さんはその意思を引き継ぎ、施設の運営資金に苦労しながらも、 障害のある子供達が楽しく暮らせるよう工夫を凝らし奔走しました。雄谷さんは、代々受け継がれたその施設の中で育てられました。
雄:ちっちゃい時は、本当に生まれたての時は、そん時はまだまだお寺の一画を間仕切って、そこにみんな暮らしてましたので、途中からやっぱりどんどんまた人が増えてきたので、あの時実は言うと鶏小屋があったんです。 自給自足に近いですよね。やっぱり当時はみんな畑一緒に作ってたりとか、鶏も育てて卵とったりとか、そういうことを、みんな施設としてはしてた。で、それも一緒にこう、朝茄子採りに行ったりとか、 お味噌も造ったりとか、ずっとそういう生活でしたよね。
ですから、まあ生活がもうそこに全部あるという。寝るのも一緒ですし、うん、8人とか多い時は12人ぐらいの部屋に一緒に寝てましたので。
その中にはやっぱり喋れない方もいますし、おっきな声を出す人もいますし、障害のある状態に対して、やっぱりいろんなことができない人だなとかって思うっていうのは、小さい時あったと思いますよね。 でも、一緒に暮らしていく中で、やっぱ家族ってそんなもんじゃないですか。で、色々できる人もいれば、できない人もいて、怒るお父さんもいれば、優しいお母さんもいたり、反対の例があったりとかして。でも、それでやっぱ家族に成り立ってると。
でも、なんか学校に行くと、やっぱり、こういう施設にいる ことに対して、学校の先生が「悪いことしたら、雄谷のとこ入れるぞ」みたいな話があって、なんかカチンとくるんです。なんでそんなこと言われなきゃいけないのかなみたいな。そこら辺が、やっぱり周りとのギャップみたいなものをすごく感じて。で、そこらへんはすごい。やっぱり自分が悩んだというか、疑問に思ったところですよね。
一緒に住んでたので、誰かにいじめられたら助けに来てくれるお兄ちゃんもいたし、その人は、いつも一緒におやつ分けたりとか、卓球したりとか、そういう人で、僕が本当にちっちゃい時に、墓石にみんなで登って競争して、途中で折れたんですね。折れた時にバーンって大腿骨、その時、あばらともう腕と、それから大腿、大量出血して。で、そこでほったらかされたら、多分アウトだったんですけど、当時の保母さん、保育士さん呼んでくれて、そのまま病院に連れて行ってもらって九死に一生を得ると。
その彼がそんなにいつもはそんなにこう誰かを呼んでくるっていうことが、うまくできるかっていうと、そうではないような気もするので。 だから、よくその時に呼んできてくれたねっていうのがあるんですね。
ナ:兄弟のようだった障害者に対する偏見や差別に感じた憤り。雄谷さんは福祉の道を踏み出します。障害のある人のことをもっと知りたいと地元の金沢大学に進学、障害者心理を学びました。
雄:やっぱり理解したかったってあると思いますね。なんでああいうことになったのかなとか、知りたい、分かりたいっていうとシンプルですけど、障害という分野、障害福祉という分野を学ぶっていうところがなかなかなかったんですね。私学とかありましたけど、うちの環境というか、経済状況もあって、国立の大学の中には、障害関係っていうのは1か所、金沢大学ではそこだったんですね。で、養護学校教員、で、もっとやっぱり今の障害のある人達と環境とか、それから考え方とか、障害って何っていうこととか、きちんとやりたいなと思ったので選んでいったんですけど、実際にはやっぱり学校というところと、やっぱりその暮らしというものは、やっぱりカリキュラム的には随分違っていて、もっと泥臭いっていうか、生活に密着したような部分をやりたいなっていう風に思っていたので。
ナ:転機になったのは、青年海外協力隊員として渡った中米、ドミニカ共和国での体験でした。
思いがけない出来事が続く中、自らが幼い頃、障害のある人と暮らしてきたことの意味を教えられるようになったのです。
雄:障害福祉の指導者の育成に来てくださいと、スーパーバイズするという立場で行ったんですけど、行ったら、 みんな隊員として訓練終わったら行くんですけど、貰われていくんですよね。要請先が来て、例えば、農業だとか灌漑だとかってみんな連れて行かれるんですけど、何日たっても迎えに来ないんですよ。誰も迎えに来ないの。それでその要請があったところに行ったら、呼んでない。
首都にいたんですけど、とりあえず首都よりももっと田舎の第2都市があるんですけど、そっちにやっぱり、そういう教えられるようなスペースがあるっていうことで、 そっちに行ったら、もう電気も水もなくて、お金もないなって、で、じゃあどうすっかってなって、えっと、 当時、養鶏の隊員と一緒になって、鶏を育てて、今度はその出た鶏糞で畑をして、野菜を取って、それを売って、今度はそれで木材を買って、障害のある人と一緒に家具作りとかして、それで学校とか、それから働いた人の工賃とかを出すようにして、それで初めて、今度は 学校で先生宛てに、障害とは何とか順番に1つずつ教えていくような関係を作った。
イ:そこでもいろんな出会いがあったんじゃないかなと思うんですけど。
雄:すごいなと思ったのは、僕が教える学校に車椅子の方も来てたんですよね。 で、その時にすごいやっぱり長い道を通ってくるんですよ。で、向こうですから、福祉車両とかないので、車椅子押してこないとダメなんですね。だから、学校があると、彼の家はここなんですよ、でも車椅子を押してくれる人がいるんですね。その子も先生なんですけど。で、彼はいっぺん学校まで1時間近い、弱かかるので、それ通りすぎて、この車椅子の方のうちに迎えに行って、連れてくるんですよ、だから、全部でまあ3時間ぐらい。で、帰りもまた3時間かけて、彼を送って、自分が自分の家に戻ってくるんですよ。で、それをやっぱり人のために使うことができるっていう。
ある時教えてたドミニカのいろんなそういう障害のある指導者の発表会開いたの。僕が教えたメインスピーカーが来なかった、穴開けたんですよ。終わった頃にやっぱ来たんですよ、「どうした?今日メインスピーカーだったよね」って言ったら、隣のなんか、奥さんが風邪ひいて寝込んだ。 「で出こなかったの?」って、「うん、来なかった」。病気になったら、みんなで看病するし、でもお金がないから、社会保障はしっかりしてないってことがあるので。でも、そこにはみんな寄ってたかってこう心配して、こう関わって、なんとかしようとしている人達って反対に教えられちゃって。よくどっかでこの感じあったなっていうのは、施設で育ってる時だった。これってなんかよく似てるなって。やっぱり人と人は関わるっていう、いろんな役割持ってるんだなっていうのは、そこでじわっと気づき出すって感じかなと思うんですけど。
ナ:自分のことよりも人を思う。それは少年時代、自分を助けてくれた障害者の姿と重なりました。
雄谷さんは1990年に帰国。自分の少年時代、墓石から落ちた時に命を救ってくれた人が、 施設から社会に出た後、激しい差別にさらされていたことを知ります。それは、兄のように慕っていた人でした。
雄:うちの法人ってのは、児童施設しかなかったので、必ず卒園していくと、まあ社会に出る、あるいは他の施設に行くっていうことがあったんですけど、墓石の下敷きになった、あれを助けてくれた人が虐待に遭ってたんですね。で、まあちょっと叩かれたりとかして、ちょっと耳が聞こえなくなってたりとかっていう。やっぱり、今だったらもう完璧に捕まるような案件ですけど、当時はなかなかそういうのが立証できないというのがあって、 「お給料ももらってないですよね」、「いや、渡してた」って話とか。でも園から出たままのずっと服を着てたりとかってのがあって、 だから、結構ひどい状態になっていたので。
なんか悩みがあっても、聞いてもらえるような。そういうソーシャルワークのシステムがなかったりとか。例えば、働いていてもなかなか長い間、何十年も働いてても正社員になれないとか、なかなか障害があるから、でも働けるだけいいよねっていう時代、そん時もう怒ってましたね、怒りでしたね。なんかちょっとした敵討ちみたいな感じかもしれないですけど。
ナ:雄谷さんは、児童施設から社会に出ても障害者が生活し、働ける場所を作ろうと考えました。 まずは、大人になっても、皆で暮らせる入所施設を開きました。
大切にしたのは、自分が施設で育った時の経験から、そこで暮らす人たちのプライバシーを守るということ、当時では珍しかった個室も作りました。建物には鍵をかけず、日中は自分で選んだサークル活動に参加できるなど、好きな場所で思い思いに過ごせます。
雄:やっぱりプライバシーを守るってことは、すごい大切だなっていうことは感じられたんですけど。そこはやっぱり経験したらわかる、楽しいと思う時もあるし、やっぱり1人でいたいなっていう時もあるし。
ナ:次に取り組んだのが、障害のある人が生きる糧を得られる場所、働ける環境を整えることでした。 1998年に開いた、自家製ビールを堪能できるレストランです。 飲食店で働いてみたいという皆の願いを形にしました。
福祉施設としては、日本初のビールの醸造。それぞれの特技やそれぞれのペースに合わせて、様々な人が力を合わせます。ここで作られるビールは、日本全国の地ビールが競う品評会で、数々の受賞歴を誇ります。
雄:障害のある人達は、いわゆる税金を使う側だ、じゃなくて、ビールを売ったら、酒税が街に落ちるんですよね。ですから、ビールをみんなで売ったら、使うばっかりじゃなくて、きちんと還元する力がある。
ナ:ここができてから、20年以上働く東外志秋(ひがし としあき)さんは、配達にも出かけます。
『イ:仕事は楽しいですか。
東さん:楽しいです。お母さんにお金を1万円札でお金をあげます、あげます。
イ:お母さんは喜んでますか。
東さん:喜んでいます』
雄:ごく普通の生活を送れるように、何か特別な暮らしではなくて、ごく普通の生活ができるように、みんなでこれを守っていくっていうことができるんだっていうことを、やってみたかったんだね。
ナ:福祉施設での活動を始めた雄谷さんは、一方で実家の寺を継ぐため得度し、僧侶となりました。
子供の頃から触れてきた読経やお寺の仕事。しかし、仏教と福祉の世界とが雄谷さんの中ではうまく結びついていませんでした。
34歳の時、日蓮宗の道場で修行。その時、福祉の考え方に目を開かれる仏教の言葉に出会います。
雄:ずっと前から疑問に思っていたことがあって、お経をあげられない、僕が一緒に育った子供達、言葉がない人とか、そういった人達はじゃあどうなるんだろう。僕はこうやって修行に来て、お経を学んで、内容もこういうこと言ってるんだよって理解して、僧侶として、、教師としてやってくんだなっていうことはわかると。じゃあ、本当に障害があって、お経すらよく読めない、唱えることができないっていう人は救われないんですかというのが、僕の基本的な問題だったので、じゃあ、この僕の家族同様育った人はどうなるんだろうって、聞いたんですよ、
イ:どなたに聞かれたんですか。
雄:そこの先生がいて、答えてもらったんですね。そしたら、「うん、雄谷君はそういう関係で育ったんだね」って言われて。そして、「三草二木(さんそうにもく)」の話が出てくるるんです。「三草二木」という、その「薬草喩品(やくそうゆほん)」という「法華経」の中の5番目のお経に書かれてるわけですけど。ある時、順番に読み進んでったら、最初1回目は全部やり過ごしてわかんなかったんだと思う。2回目か3回目ぐらいに読んでって、あ、ここだっていうのを見つけて、あ、このことだったのか、そこは大きかったですね。
ナ:およそ2,000年前に編纂された仏教の教典、「法華経」。生きとし生きるもの全てが持つ命のかけがえのなさ、それを尊重する行いの大切さなどが様々な比喩を使って説かれています。
例えば、
『三千大千世界の山や川、渓谷や地上には草や木、草むらや林が生い茂り、さまざまな薬草が幾種類もあって、その名前や形というのは異なっています。
その大地の上の空に幾重もの厚い雲がみちわたり、三千大千世界をくまなくおおい尽くし、同時に雨が降りそそぐのです。 その雨は広く、草木や叢林、あるいは種々の薬草に対して降りそそぎ、小さな薬草の根、中くらいの薬草の根、茎、葉、さらには大きな薬草の根、茎、葉などを潤すのです。
さらにまた、種々の樹木の 大樹や小樹の二木があって、それぞれの性質に応じて平等に降りそそぐ雨を受けとるのです。
同じ雲から降りそそぐ雨であっても大地に入る草木は性質に応じて、それを受け、 成長し、花を咲かせ、それぞれの実を結ぶのです』
雄:世の中には大きい大木もあれば小木もあるし、いろんな草もあるし、でも、これにはみんな分け隔てなく、太陽も雨も降り注いでるんだって。だから、唱えられないとしても、 必ずそういった平等に機会を与えられていることがあって。
小根、小茎、小枝、小葉、中根、中茎、中枝、中葉、大根、大茎、大枝、大葉、もろもろ。 施設で育った自分にとっては、 やっぱりいろんな人がいるなということが、浮かびますね。ああここにあったのかと。それまでに読んではいるんですけどね、読んではいるんですけど、気がつかなかったって、そこまで智慧が及んでいなかったていうことだと思いますけど。なんかこういうことかっていう腑に落ちるというか、ストンと自分の中にこう、こういう風に、喜びっていうんですかね、何千年も前の人のお考えになったことが今、自分にとっても当てはまるということがやっぱり嬉しかった、心が落ちつくというんですかね。
ナ:様々な人がそれぞれに生きている。雄谷さんは仏教の教えに背中を押されるように、福祉の世界で新たな挑戦に踏み出します。
「三草二木」と名付けたこの福祉施設、地元の人から、住職がいなくなり荒れ果てた寺をなんとかしてほしいという依頼が舞い込み、力を合わせてみんなの居場所にしていきました。
試みたのは、子供も大人も分け隔てなく、地域に住むみんなが来られる場所。ここでも障害のあるなしに関わらず、支え合うスタッフ達、お揃いの紺のTシャツも作りました。
雄:色々な人達が共に過ごす中で、時には元気を与えたり、それを受け取ったり、この施設の中で、雄谷さんは様々な人と人との関係が生み出す予想もしなかった力を目の当たりにしていきます。
雄:初期の頃にびっくりしたんですよね、ここまでのことが起こるとは思わなかった。やっぱり、重度心身障害の方が知的障害を持ちながら、首から下が麻痺であるというその人と認知症のおばあちゃんが関わったら、おばあちゃんが毎回もらったゼリーを彼に食べさせようとする、最初はうまくいかない。でも、だんだんこうやってるうちに、彼もだんだんこう麻痺してる首を動かせるようになってくる。 そうすると、僕らが2年ぐらいリハビリでうまくなかなか可動域を増やせなかったのが、あっという間にみるみるうちに動くようになっていくとか。
あと、おばあちゃんがやっぱり今まで深夜にいろんなところにお出かけになる。家族は、それに対してもう疲弊しているっていう状況があったのはなくなってはいないですけど、月に1回とかに激変していく。認知症が改善されているかどうかということは別にして、でも、 私が西圓寺に行かないと、あの子が死んでしまう。そこら辺の認識はおかしいんですけど、でも、そこに彼との関わりを通して西圓寺に行くんだという目的が生まれたから、 深夜にはしっかり寝て、それで朝起きて西圓寺に行って、彼に自分がもらったゼリーなりプリンなりをプレゼントするっていうところに生き甲斐を感じてる。
人は、やっぱりいろんな人と関わることで、元気になっていくんだ。決して、そのクローズドの福祉の決められた人間関係の中では、足りないものがあるんだっていうことを、やっぱり理解するには十分でしたよね。面白かった、うわ、何が起こってるんだろう。
ナ:障害があっても、認知症であっても、人と人が関わることで引き出される秘められた力。その力を生かそうとかつて、自分が育った施設を引き継ぎ、立ち上げたのがB’s行善寺でした。 これまでの試行錯誤や学びを生かし、ごちゃ混ぜの力を発揮できる場所を目指したのです。
B’s行善寺のフィットネスクラブで働く山本千咲さんです。知的障害がある山本さんも、就労支援を受け、ここでスタッフとして働いています。
明るい性格の山本さんにも苦手なものがあります、それは大きな音。数日前、自分の上司が注意を呼びかけるため、スタッフの間で交わした大きな声にも反応しました。
『山本さん:野竹さんと彩先生がケンカしてた。
野竹さん:本当に?
山本さん:かわいそうだよ。
野竹さん:かわいそうだった?
山本さん:かわいそう、かわいそう。
野竹さん:ケンカしてた?すみませんでした。
山本さん:約束してたのになんで彩先生に怒りだすの?
彩先生:お話してただけだよ。
野竹さん:すみません、気を付けます。
山本さん:彩先生のせいじゃない。
野竹さん:約束したもんね。
彩先生:もう大丈夫。
山本さん:私音怖いから、何でも苦手なものは、、、』
ナ:そんな山本さんですが、こんな一面も。
この日やってきたのは利用者の村井さん。村井さんは自分の意思を言葉で伝えることが苦手です。大きな声を出すときもありますが、それは自分の思いを懸命に伝えようとする気持ちからです。
大きな音が苦手な山本さんですが、村井さんを避けることなく、寄り添い続けます。言葉で表現するのが苦手な人が利用する文字盤を使って、丁寧にコミュニケーションを取ります。
『彩先生:千咲ってさ、村井くんの大きい声は平気なの。
山本さん:うん。
彩先生:あ、そうなんだ、なんでだろうね。
山本さん:それが訳わからないんだよ私も』
雄:共感するっていうか、おっきな声を出すっていうのは苦手で、でも、自分がサポートしようとする人の大きな声に関しては、全然問題がないとか。野竹君も上司に当たるわけですけど、「約束したのにね、ごめんね」みたいなという会話はなかなか一般的な、関係性ではできない。彼女はそこをスパッといく力がある。勉強になりますよね。こういう風に入ってくるって。
毎日毎日、試されるっていうか、その自分のあり方をきちんとこう、問われるというか、そういう場所なんだなと。
ナ:今、雄谷さんが大切にしている言葉があります。それは、 「法華経」の教えを自らの人生で全うしようとした宮沢賢二の言葉です。しばしば開くのは、賢二が残した手帳の復刻版です。
雄:そのまま賢二が書いた、これ曼荼羅なんですよ。南無妙法蓮華経って書いて、四菩薩が入ってる。曼荼羅を書いてるんですね。
ナ:宮沢賢治は、「風の又三郎」、「注文の多い料理店」、「銀河鉄道の夜」などの童話や 数々の詩を残しました。それらには、みんなの幸せを願い、日々他者を思いながら生きることの尊さが刻まれています。
『本当にみんなの幸せのためならば、僕の体なんか百ぺん灼いても構わない』
雄谷さんがとりわけ、賢二の思想が凝縮されているとして大切にしているのは、手帳に書かれた「雨ニモマケズ」の一節です。
雄:「南に死にそうな人あれば、行って恐がらなくてもいいとい、ケンカや諍いがあれば、 つまらないからやめろといい、デクノボーと呼ばれ、褒められもせず、苦にもされず、そういうものに私はない」、で、ここにやっぱり曼荼羅が書いてあるんですよね。
これなんかやっぱり「行ッテ」という言葉が赤で書かれている。そこに行くっていう言葉ではなくて、やっぱそこに行って、自分が行動を起こしていくっていうことに、やっぱり すごい共感する。
ナ:自ら行って行動するデクノボー、このデクノボーのモデルとされる菩薩が「法華経」の中に登場します。常不軽菩薩、お経を読まなくても、やがて悟りを得て、みんなから敬われた菩薩です。 どんな暴力や迫害を受けても、常に相手を敬い、軽んじることがありませんでした。
雄:常不軽菩薩というのは、実は言うと、お経とか読んでないと。行いを持って、それが僧侶となる、あるいは成仏するっていうことなんだっていうことを書かれていて、そうか、じゃあ、あの時僕が「お経を唱えられない人はどうなるんですかね」って言った言葉は、みんな平等なんだってその後ろにある唱えるばっかりじゃなくて、実を言うと、人を思いやったりするっていうことがイコールそういうことなんだよっていうことが書かれてるのが、今度は人を思いやる、決して軽んじないで尊く対応していくっていうことが実を言うと、今度はここにきたと思って。
常不軽菩薩という人は、皆さんは人を慈しんで敬っていくと、必ず成仏できるんだっていうことを言っていくわけですけど、お前は何を言ってるんだと、周りからそんなお前偉そうにと言って、やっぱりこう疎まれる、軽んじられる。でも、それでも一生懸命そう唱えながら言っていく、最後はそれが人に伝わっていく。 私は決して皆さんのことを絡んじない
ということをずっと言い続けてやっていくっていうことが、実を言うと、これは、障害のある人達と関わってきた僕が行く道とリンクしてるんじゃないかなって思ったんですね。
ナ:B’s行善寺の中には、常に人を大切にして行動した常不軽菩薩の精神が生きている。雄谷さんはそんな思いを抱いてきました。この場所で、障害のある子供達と一緒に、雄谷さんを育てた父の助成さん。B’s行善寺では、皆が集まってくる蕎麦屋のカウンターにいつも座っていました。
助成さんが癌で病床につくと、蕎麦屋の常連や施設の仲間達が入れ替わり立ち替わり訪れました。
雄:お弁当、配食サービスのお弁当を一生懸命作ってる、山本さんという人がいて、その人がお見舞いに来た。で、僕はたまたまその目の前にいて、オールを片手に、お酒ですよね、酒持ってきて、ウィスキー持ってきて、パッて「寝てる場合じゃないだろ」って言ったんです。そしたら、モルヒネ打って朦朧として、ちょっと意識がはっきりしてないような時にワッと起きるのね、「ああ、ありがとう」っつって。で、もう急に元気になってきたのね。まあ、他の仲間も一緒に来たら、親父がまた急に元気になって、「お前らが急に来るってことは、俺ももうそろそろ死ぬってことか」って言ったら、もう恐縮しちゃって。で、強烈なやっぱり麻酔薬も入れてるんですけど、そこでフワって元気になる。まあやっぱり2週間後には亡くなるわけですけど。
亡くなった後に、そのさっき言った差し入れした山本さんが、やっぱりうちの親父が座ってた場所にこう献杯のグラスを置いて、ここはしばらくは他の人間座っちゃダメだぞって地域の人に言ってるわけですよ。それで、自分が献杯して飲んでる。その山本さんも4ヶ月後に亡くなって、今度そこにまた2人いつも一緒に気配を感じて飲んでた人間がいなくなって、寂しいなっていうところに、今度はまた障害の重い人がまたそこに入ってきて、それでこれが連綿と続いていくという、そういうことにやっぱりね、励まされている。
ナ:雄谷さんの人生を支えてきたごちゃ混ぜという言葉、それは同志だった人と交わした会話から生まれたものでした。
B’s行善寺の建築を手掛け、去年亡くなった西川英司治さん。様々な人が一緒の空間で過ごすことなど難しいと言われた頃から、雄谷さんの思いを受け止め、建築家として、「ごちゃまぜ」の器を実現してくれました。
雄:こうやって僕がここに座って見上げる、そこには子供がいる。そうすると「天井の素材
ですか」って僕が言うと、「さすがわかってますね」って言うんで、「僕は木張りにした方がいいんじゃないかなと思うんですけど、どうですか?」って、「うん、その代わり、水分にはそんなに強いっていう風には言えない、でも、気持ちよく泳いでもらう」
西川さんは、やっぱり、信じてくれていたという。そこは大きかったですね、やっぱこうやって、みんな一緒に住むっていうことに対してそうとはいえという、無理あるでしょう、って人は山のようにいたので。今ね、亡くなられて、非常に自分達もね、こう一緒にごちゃまぜの空間を一緒に作ってきた盟友というか、そういう方だったので、非常に残念ですけど。 でもまあ、そういった西川さんの考えてることは、僕らの拠点の中では生きてるので。
障害があるとかないとか、そのそういったこと関係なしに、なんか居心地がいい、居心地がいいというんですかね、人の状態に限らず、ああなんか居心地がいいなっていう、そういう言葉なのかなと思うんです。なんか、行動があるとか、そういうことではなくて、なんか居心地がいいなっていう感じを皆さん感じ取られてるんじゃないかなと思うんですね。
まあ、例えば障害のある人がちょっと思いを伝えられなくて、大きな声を上げたりとか、あるいはちょっと、なかなか理解できないような、認知症の方の動きがあったりとかしても、最初はびっくりする、でも、それをこうだんだんこうその人を見ていると、どうも、言いたいことがあるんじゃないのかな、とか、お互いのことをだんだんあの分かっていく。そういった意味では、一緒にいる、で、その人達の気配を感じているっていうだけで、だんだん理解が進んでいく。
こういうごちゃまぜの場所っていうのは、そういった向き合うこともありますけど、実を言うと向き合ってなくて、同じ方向向いてたりとかすると、まあただいるだけなんですけど、そのことって実を言うと、それが心地いいというかいう風に繋がっていくという部分もあると思います。
ナ:ごちゃまぜの裾野は、今、B’s行善寺から全国へと広がりを見せています。
鳥取県南部町ここにもまた1つのごちゃまぜの場が生まれました。今年6月にオープンした法勝寺温泉。建物は、西川さん亡き後、彼が育てた建築士が手がけました。雄谷さんも、その開所式に駆けつけました。
『雄(開所式にて):ごちゃまぜというキーワードはいろんなところから学んだわけですけれども、子供も若者も、あるいは、お年寄りも障害のある人もない人も、認知症の人も、日本人もそうでない人も、みんながバラバラではなくて、関わりながら、一緒に気配を感じながら暮らす場所ができたらどれだけ素晴らしいことだろうかと』
2022/10/30 オモニの島 わたしの故郷〜映画監督・ヤンヨンヒ〜
ヤンヨンヒ:映画監督
ナレーター(以下「ナ」という):映画監督ヤンヨンヒさん、大阪生まれの在日コリアン2世です。
北朝鮮と日本、今から半世紀前、国家によって一家は引き裂かれました。 北に渡る3人の兄を見送った時、ヨンヒさんはまだ6歳でした
ヤンヨンヒ(以下「ヤ」という):最近大きな変化に気づいたんです。ブルー、青色がオッケーになったんですよ、ずっとブルーが苦手だったんですけど。特に日本海側の海だと、もう子供の向こうにお兄ちゃんがいるっていうので、ボーっとなったり。それが最近ね青オッケーになりました。なんだろう、なんか、逆に青の服が着たくなるぐらいに、なんか1つハードル超えた感じがしますね。
ナ:今年6月から公開が始まった最新作「スープとイデオロギー」。母親の壮絶な体験に向き合ったドキュメンタリー映画です。
週末になると、この映画のプロデューサーでもある夫と、全国各地の映画館を回る日々が続いていました。
30歳で初めてカメラを手にしてから、ヨンヒさんは映画を通じて家族に、そして自分自身に向き合ってきました。
『ヤ(映画館で):26年かけて、自分の家族についてのドキュメンタリーを3つ作るっていうあほなことをしたわけですけれども』
ナ:今から17年前、2005年に発表した長編第1作「ディアピョンヤン」。
両親と北に渡った兄達を通して、それまで知られることのなかった北朝鮮の姿が描かれています。
カメラを持つヨンヒさん、両親と3人の兄、家族全員が揃うのは30年ぶりのことでした。
朝鮮総連の幹部だった父親の70歳の誕生日を祝うパーティーです。映画は、映像と共にヨンキさん自身のナレーションで綴られています。
『「まだ、忠誠心を尽くし足りない」という父の言葉に私は混乱した。自分の子供や孫達を革命家に育てるのが残された仕事だと彼が言った時、その場から逃げ出したくなった』
『ヤ:どんな人がええの
ヤンヨンヒさんの父:どんなでもええわ、お前が好きなやつは
ヤ:ほんと?アボジ、今のこれビデオで撮ったで。証拠やで、絶対?どんな人でも何でも言ったらあかんで。
ヤンヨンヒさんの父:アメリカ人と日本人だけは駄目だ!
ヤ:それ「どんな人でもええ」にならへん。フランス人やったらええの?
ヤンヨンヒさんの父:いやもうそれは別や
ヤ:注文あんねやんかいっぱい。
ヤンヨンヒさんの父:一応はとにかくは、朝鮮人だったらいい!』
ヤ:ずっと考えてきたのは、どうやったらこの家族から解放され、在日ということ、女ということ、うちの両親の娘ということ、うちの私の兄貴達の妹であるということ、その全てからどうやったら解放されるんだろうってずっと悩んできた。
その答えが、隠したり、ごまかしたり、遠ざけてては全然解放されないと、もう向き合うしかない。
結局、自分についての私の問いがずっと続いてるんですよね。だから、映像で見せてるのは親だったり家族だったりしますけど、一貫しての本当の主人公というのは私で、 私が私を知りたくて、ずっと映像作品を作ってるっていうふうにも言えると思います。
ナ:1964年、大阪生野区。かつて猪飼野と呼ばれた街で、ヨンヒさんは生まれました。
1910年から始まった日本の植民地支配。戦前からこの街には今の韓国の南にある済州(チェジェ)島の人が多く暮らしていました。大阪への定期航路が開かれ、「君が代丸」と名付けられた船で、島の人達が続々と大阪にやってきたのです、ヨンヒさんの父もその1人です。
1945年終戦。その後朝鮮半島は38度線を挟み南北に分断。南にはアメリカの後ろ盾を得た大韓民国、北にはソ連が支援する朝鮮民主主義人民共和国が誕生。国内でも北を支持する朝鮮総連。南を支持する民団が誕生。在日社会にも38度戦が生まれます。
ヨンヒさんの父親は民族学校の設立など、在日コリアンの権利を守るために、積極的に活動していた総連を選びます。キムイルソンの教えの元、身を粉にして組織の活動に励みました。
そして、同じ済州島にルーツを持つ日本生まれの母親と結婚。3人の兄とヨンヒさをもうけました。
ヤ:すごく民族差別がきつい、日本社会の中ではあるけれども、それに対する反骨精神も含めて、のびのびと生きていたと思うんです私の両親は。で、堂々と朝鮮人として生きたいっていう思いが強烈にある人達なので、恥じるな、いじめる人がもしいたらそんなの相手にするなとか、そんなのと友達にならなくていいとか、もしくはアボジに言えオモニに言いなさい、私達が戦ってあげるみたいなぐらいの親だったので、それはすごくベースに なってると思います、自己肯定という意味では。これはもう一生、私のベースになってる。
ナ:働き者の母親は、レストランを切り盛りしながら、活動家の夫と家族の暮らしを支えました。
ヨンヒさんは、両親の愛情を存分に受け、兄達と共に育ちました。
ヤ:兄3人いますけど、下の兄は庶民的な兄貴なんですよ。もう本当たこ焼き食べに行って、お好み食べに行って、吉本新喜劇を見て、そういう兄貴達だったんですけど、長男のコノ兄は、 クラシックと本当においしい豆のコーヒーさえあれば生きていけるみたいな人で、なんでああいう人があの鶴橋の家であのキムイルソンの肖像画の下で育ったのか、ちょっとよくわかんないんですけど、5~6歳の私にもいつもこのでっかいヘッドホンを
つけてくれて、わーって、ベートーヴェンとか鳴ってるわけですよ、ショパンとか。とにかくいい音楽をたくさん聞くと、心が綺麗になるんだよとか、いい映画をたくさん見ると、頭が良くなるんだよっていうのを、呪文のように妹に言う兄貴だったので、うん。
ナ:そんな幸せな家族の日々が突然終わりを告げます。1959年から始まった帰国事業。当時北朝鮮は地上の楽園と呼ばれ、9万3,000人余りの在日コリアンとその家族が北に渡りました。
1971年、次男と三男が自分から希望して帰国しますその数ヶ月後、朝鮮総連から思いもよらぬ知らせが届きました、「長男も帰国させよ」という指示でした。
ヤ:やっぱ、長兄は自分で北朝鮮に行くと決心して行ったわけではないので、キムイルソンの60歳の還暦の誕生日祝いということで、朝鮮大学校の学生を捧げるみたいな。 私は、人間プレゼントと呼んでますけれど、そのプロジェクトのために、200人ぐらい指名されるんですね、赤紙かっつう話なんですけど。指名されて、君はいわゆる帰国をしなさいと、片道切符で。
やっぱ寂しいとか、北朝鮮に行ってほしくなかったとかを言えなかったですし、なんか、「栄光の帰国」みたいな、とても 肯定的な帰国事業に対するフレーズに囲まれて育ったので、帰国事業によってお兄ちゃんと離れ離れになることが、私は嫌だっていう風に言えなくて、「お兄ちゃん達偉いな」って言われたら、「はい」とか、 「ヨンヒもお兄ちゃん達みたいになりな」とか言われたら、なんか「はあはあ」みたいな。
どういう壊れ方をしたのか、その私、幼い私がとか、私の家族だとかが、やっぱりよくわからなかったんだと思います、もっとわかりたかったんだと思います。
ナ:帰国事業によって、兄と離れ離れになった悲しみを押し殺したままヨンヒさんは、民俗学校に通います。 優等生として振る舞っていましたが、心の中では葛藤を抱えたままでした。
ヤ:あなたは愛国的な家庭で育ち、朝鮮総連の幹部の親の下で、お兄さん達もみんな捧げた家庭の1人だけ残った娘だから、立派な朝鮮争連の働き手になりなさいみたいな。そこに私のチョイスはないって言われたんですよ、 そっからですね私の苦悩が始まったのが。
学校の外での文化の影響だとは思います。やっぱり、日本の特に欧米の映画を毎週映画館通いまくって見てましたし、演劇を見てましたし、 結局、学校で教える全体主義と学校の外で自分が得る個人主義の衝突だと思うんです。あと反発とも言えると思う。
親は自分で選んだわけだし、お兄ちゃん達はもう行ってしまって、あの制度の中、あの北朝鮮にも入ってしまったので。でも、私は日本にいるので、日本で暮らしてる私になんで人生を自分で選ぶ選択する権利がないんだっていうのは納得できなかった。
ナ:しかし、総連幹部の娘としてヨンヒさんは朝鮮大学校に進学卒業後も組織に従い、朝鮮学校の国語の教師になります。当時、家族の中で父親以上に複雑な感情を抱いていたのが母親でした。長男が北朝鮮に渡った後は、仕事も辞め、総連の活動に専念。北への仕送りが生きがいでした。
『ヤ:何が1番喜ぶ?商売できるんちゃうの?オモニこれ持って行って。学用品が一番喜ぶ?
ヤンヨンヒさんの母:学用品!もう、娘達が!』
『ヤ:母の愛情に支えられて、息子、孫達は元気に暮らしている。でも、母は 人から聞かれると、「祖国のおかげ、将軍様のおかげで、子供達は元気です」と、いつも答える』
母が荷作りをしてる姿を見るのがすごい嫌だったんですね。あの、心の中では偉い母親だな、すごいな母の愛情ってすごいなって、もう本当にこんなお母ちゃんいないっていうぐらい思ってましたけど、 私が荷作りしてますから、大丈夫です。って言えばいいのに、本当に、それを1度も聞いたことがないんですよ。あたしがちゃんと送ってますからって言えばいいのにって。
でも、祖国のおかげ、主席様のおかげ、嘘つけって思うんですよ。何が主席様のおかげだって、お母ちゃんのおかげやんかって、お母さん1人で何人食わせてんだって、 母はかたくなにやっぱ北朝鮮に対する批判を受け入れない人だったんですね。だから、私がもっと反発心もあって、だから、すごく大事に育ててもらった部分への感謝と、北朝鮮に対しては、かたくなに愚痴も許さないというような支持と、あと、韓国に対する生理的なアレルギーというほどの絶対的な拒絶みたいな否定みたいなのが、母はすっごいはっきりしてたんですよ。
父を見てるとある程度こう。あー、もう1度人生のね生き方として、こう選択をしてしまったから、 全部ひっくり返すわけにもいかないし、自分の過去人生否定するわけにもいかないし、この人ずっとこうやって生きてきたんだから、こうやって生きていくんだなっていうぐらいではなんとなくわかったけど、母のあのかたくなさ、徹底したところに関しては、私はやっぱりちょっとついていけないなって思ってたんですが。あとはまあそうしないと持たなかったのかなと。
ナ:同じ頃、長男のコノさんも苦しんでいました。母親からの仕送りのノートに書き記した文集。大阪で通い続けていた音楽喫茶の思い出、クラシック音楽への憧れが繊細な日本語の文字で書かれていました。
当時、北朝鮮ではクラシックなどの西洋音楽が禁じられていました。コノさんは持ち込んだ日本のレコードや機材が摘発、資本主義的だと厳しい自己批判を強いられ、監視の対象となります。コノさんは精神を病んでいきました。
ヤ:当時、日本でねうつ病っていう言葉が取り沙汰され始めた頃だったんですよね。雑誌とか、いろんなところで特集があったりとかして。で、ああ、こういう病気があるんだとかで、その抗鬱剤というものがあるんだとか、そういう本もいっぱい買ってきて、母と一緒に読んだり、 あと、母と一緒にそういう精神科の日本の精神科の先生のところに行って、なんとか薬をね、北朝鮮に送る薬をもらえないかとか。なんか、そういう相談をしに母と一緒に行ったりとかはしてましたね。
ナ:3人の兄の人生を描いたノンフィクション、「兄かぞくの国」、帰国してから、ちょうど20年が経った。1992年平壌のレストランで、コノさんの姿を見た時の衝撃が記されています。
ヤ:立ち上がって、わーって、大声で交響曲を歌い始めたんですよ。で、私はなんかもうびっくりして、最初冗談かなと思ったけど、すごい本気なんですよ本人は。結局 お兄ちゃん目がギラギラしてるし、兄ちゃんの目の前にはもう公響楽団が見えてるし、すんごい音響で、音がこの人の耳には今響いてんだなっていうのは私にはわかったので、この人の人生はなんだったんだろうってすごい思って、自分の中から一切の今後の人生において、何かのために誰かのためにっていうのは持ちたくないと思いましたね。会社のために組織のために、国のために。
ナ:その3年後ある出来事がきっかけで、人生が動き出します。
当時、朝鮮学校の教師を辞め、大学時代から続けてきた演劇に取り組んでいたヨンヒさん。知り合いのビデオジャーナリストから、自分でカメラを回し、映像で表現してみないかと勧められたのです。
ヤ:ずっと10代、20代の自分の中での鬱積した疑問とか、やっぱり、私はこう思ってんのに、なんでそれを言っちゃいけないんだっていう、抑えつけられる何かが、それに対する私の抵抗みたいなのもあったし、表現方法探してたんだと思います。
ナ:ヨンヒさんは、買ったばかりのカメラを手に、すぐ北朝鮮に向かいました。平壌について、最初に撮影したのが初めて会う姪のソナでした。
以来、何度も北朝鮮に通い撮影を続けました。当局の検閲は、家族のホームビデオということで押し通しました。取りためた映像をどうやって作品に仕上げていくのか、ヨンヒさんは決心をします。 父親の大反対を押し切って、アメリカに留学、ニューヨークで、6年間映像について学びました。ニューヨークでの経験は、新たな視点を与えてくれました。
ヤ:自分の家族だとか、自分のバックグラウンドだと思うと、もうただただ重いし、悩みの種みたいになるのがちょっと突き放すと、 ネタとして面白いというか、ユニークな家庭だと、家族だと、ネタって言葉がね良くないかもしれないですけど、こういろんなイシューが溶け込んでいて、1つの対象としてみると、うちの家族の上にバーってこう日本と半島の地図が見えて、分断が見えたり歴史がわーっと歴史の年表が見えて、うちの家でも2階の親の あの部屋は東ドイツで、3階の私の部屋は西ドイツだって言って、廊下をね、ベルリンの壁だって、私は呼んでましたけど、そういう風に1軒の家の中にも38度線があって、ベルリンの壁があってみたいな、そういうモザイクがうわーって、私の家族の写真の上に見えた時に、なんかもうオーマイガーみたいな、これ作らない手はないなと思って。
同時に家族を見つめるっていうのは、結局自分を見つめることだと、どういう作品にしたいかっていうのを考えた時に、やっぱりなんとか残る作品を作りたいと思って、この1本作るためだけにでも、ニューヨークに留学をしたいと思いましたね。 その1本で映画作り終わるかもしれないし、この1本からなんか始まるかもしれないけれども、それぐらいの1本を作りたいと思いました。
ナ:「もう後がない」、覚悟して作ったディア・ピョンヤン」は国内外で絶賛。 しかし、その一方で、ヨンヒさんは北朝鮮から入国禁止を言い渡されます。総連からは謝罪文を要求されましたが拒否しました。
ヤ:自分のバックグランドや家族をダイレクトに扱って、ましてや、ドキュメンタリーで、その家族の名前も顔も全部出しながら、それを晒すっていうことですから作品にして。世界中にばらまくというか、自分が選んでやってるので、もちろんこれは愚痴でもないんですけれどもしんどかったのは事実ですね。
被写体になってる人は北朝鮮で私の作品のために罰則を受けるかもしれない。人生影響されるかもっていう、そのやっぱりプレッシャーとか罪悪感みたいなものはすんごいしんどくて、それでもやりたいのか、それでもやるのかの自問自答を20年以上やってきたっていうことですし。
すっごい極端な言い方をすると、じゃあ、私が作品を作り続けてたら、お兄ちゃん達が収容所に入れられると、どうしますかって言われたら、じゃあ私どうするんだろう。これね、じゃあやめますとは言いたくないんですよね。 それで、ずっと今まで口封じしてきたんじゃないか、みたいなところがあるんですよ。なんか、家族が北朝鮮にいるからっていうので、本当のことを言えないとか、知ってるたくさんのことを言えないとか、もうそういうの本当に終わりにしたいなっていうのがあって。正義感とかじゃなくてですよ。あたしが言うこと、私が表現することが気に入らないんだったら、あたしに文句を言えばいいわけだし。
でも、もちろんたかが映画ですから。気に入る、気に入らないはあって当たり前で、そんなのいちいちこっちが責任取れるわけじゃないんですけど、じゃあ、収容所に入れられて、 もうあなた映画作るんですかって言われたら作りますよとは、なんかその明るくは言えないですけど、でも、うんだったらやめます。とは言いたくないっていうのはすごくありますね。と、ここまで言えるようになったんです、ずっと自問自答して、すごい残酷なことです。でも、すごい残酷な、それぐらいの決心がないと、こういう作品は作れないですよね。
ナ:北の兄に会えなくなっても、ヨンヒさんは映像を通じて家族を描くことを諦めませんでした。
2011年初めての劇映画に挑戦します。脚本はヨンヒさんの実体験をもとに自ら書きました。3男に腫瘍が見つかり、両親の5年越しの訴えが実って、日本で治療が受けられることになりました。1999年のことです。
留学中だったヨンヒさんは、撮影機材一式を持って帰国しました。しかし、、、
ナ:やっぱりビデオカメラ回すわけにはいかず。それはとても邪魔なわけですよ。このビデオカメラがなんかもうすこの兄の滞在全てを破壊してしまうなと思ったし、結局はせっかく日本に来れたのに、 この日本に来てまでこの緊張させたりね、言ってはいけないこととかって、色々いつも神経尖らせさせるっていうのが、やっぱこれはやっちゃいかんなと思って。もうビデオカメラはこの兄の滞在期間中は一切持たないって決めて、 で、この私の目をカメラだと思って記録しておいて、まあ、いつかは劇映画にできるかな、ぐらいにできればいいな、ぐらいに思っていたんですね。
ナ:映画「かぞくのくに」は、病気治療のために25年ぶりに日本の地を踏んだ兄と家族の物語。ヨンヒさん自身を投影した妹、リエを演じるのは、安藤サクラ。重要な役である北朝鮮から同行した監視人を、韓国の俳優、ヤンイクチュンが演じました。
ヨンヒさんは、これまでドキュメンタリーでは描けなかった重い事実に踏み込みました。
『兄(映画の場面):今後、例えば指定された誰かに会って話した内容を報告するとか、そういう仕事する気あるか?
ヨンヒ(映画の場面):仕事?オッパにそんなこと言わせた上の人に言っといて、「妹は我々とは相反する思想を持った敵です」ってはっきり言っといて』
ヤ: 兄弟で、なんでこんな会話をしなきゃいけないんだっていうこの、どこにぶつけていいかわかんない怒りというか、なんちゅう会話をさせるんだっていう本当クソみたいな国なのか制度なのか組織なのかなのかわかんないけど、それをまたぬけぬけいうお兄ちゃんも情けねえなと思いながら、でも、本当お兄ちゃん可哀想だなと思って、でも、ここで私は自分の人生守らなきゃと思って、絶対にそんな仕事はしない、2度とそんな話は聞きたくないし、妹は思想的には敵です、そういう妹ですってきっぱり言っといてって言って、それにもめげず、お兄ちゃんが私を説得しようとしたらどうしようかなって思って怖かったんです。本当、心臓バクバクバクバクして頼むから説得しないでくれって。そしたら、お兄ちゃんが「お前かっこいいな」って言ったんですよね。「自分の考えはっきり言えて、かっこいいよ
」って、私が「ごめんなお兄ちゃんの役に立てなくてごめんな」って言って。でも、私が1回断った時にやっぱそれですんなり「わかった、もうこの話はしない」って「お前かっこいいな」まで言ってくれたお兄ちゃんにはすごい感謝をしましたし、お兄ちゃんがなんか罰せられたり、批判されたりしないことを望みつつ、残酷な妹だなということも自覚しつつ、でも、これで 私はこうするしかないっていう風にも思いましたし。
『ヨンヒ(映画の場面):あなたもあの国も大っ嫌い、
男性:あなたが嫌いなあの国でお兄さんも私も生きているんです。死ぬまで生きるんです。』
ヤ:「あなたもあの国も大嫌い」っていう安藤サクラさんのあのシーンも、この映画を作 る理由の1つで、あのセリフを言いたいっていう。もう1つはあのセリフ以上に言いたいのが、でもそこで僕ら死ぬまで生きるんだよ、そこでっていうね、その国で僕もあんたの兄貴も生きるんだよっていう現実を突きつけられた時のあの勝てなさ感というか。だから、あの、安藤サクラさんのあの純粋さっていうのは子供なんですよ。子供だから、正直にダイレクトにぶつけるっていう、それはもろ私なんです、本当ガキなんですよ。
だから、 腹を立てるし、地団太踏むしみたいな、言うことによって跳ね返ってくるっていうか、それがもろ私じゃないですか。やりたいことやってるとかって言ってるけど、笑いながらでも、やりたいことやるおかげで、家族にも会えないしとか、 毎晩うなされるしみたいな跳ね返ってくるわけですよ。それは私の現実でもあるし、あの地団太踏んでるサクラさんを見た時に、「ああ今映画作ってる私がこれなんだな」と思いました。私の映画は、地団太なんだなと思いました。何も現実も変えられないしね、じタバタしてるだけなんです。
誰も痛くもかゆくもないし、1人でジタバタしてるだけなんだけど、すごく深い、静かだけど、すごい深い怒りが根底にありますあの作品には。
ナ:日本に来て1週間、 3ヶ月の滞在のはずが突然帰国の命令が本国から届きます。これも実際にあった話でした。母親は毎日小銭を貯めていた貯金箱を開け、監視人への贈り物を用意します。
ヤ:個人ってどうあがこうがそういう社会のシステムとか、国家体制とかには勝てないですよ。1人で抗えないというか。ここが全体主義の国じゃないから、私はこういう生き方ができてるんであって、私がいくら全体主義が嫌だっつっても、全体主義の国にもし生きてたら従うか、死ぬしかない、もしくは逃げるかっていうことなんでしょうけど。
でも、映画の中では 全体主義に勝たせたくないんですよね。やはり、あのヤンイクチュンの演じた監視人に対して、母親がスーツとか用意したその母親の賄賂なのか、真心なのか微妙なあの愛情としたたかさがこもったあれに接した後のあの監視人の視線というか、目の表情みたいな、あの家族の写真をずっと見ながら、 キムイルソンさんの肖像画を見ますけど、そん時はなんか命令に従わなきゃっていう目で見てないんですよね。もう、なんか、この家族の写真を見た後であれ見た時はしらけてるっていうか、ちょっとね、ちょっとこっちが勝ってんですよ、やっぱり。
本当に兄達のためを思うんだったら、北朝鮮に一切関係ない作品を作る方が1番、多分、平和で安全なんでしょうけど、いろんな国のことを私達が知った上で、例えばアメリカに魅力を感じるフランスに魅力を感じる。なんか、いろんな国に対して親近感を持ったり、その国の人に対して理解が深まるっていうのは、別にプロパガンダ的ないいことだけを聞いてるからじゃないと思うんです、そうなると、逆にしらけるじゃないですか、その国の実情とか、いろんな人々の苦悩を描いた小説とか、映画とかをたくさんたくさん見れて、その中で私達との共通の部分と違うのをいっぱい発見して、分かり合って、友情も深まり、っていうものだと思うんですよ。
家族の国を作った時、たくさんの人に言われたんですよ、あんな映画作っていいんですかって、 みんな声をちっちゃくして、それは総連系の人にも言われましたし、日本の映画会社の人にも言われましたし。だって、ハリウッドもみんな自分の国の馬鹿ばかしいところを描いてるし、政治の腐ったところも描いてるし、韓国映画もみんな描いてるし、そんなこと言わないじゃないですか。なんで北朝鮮を描くとそう言うんですか、っていう話で、それやっぱ別枠で見てるってこと。あそこはアンタッチャブルだからってことでしょ、腫れ物にしてるってことですよ。私は、腫れ物にしてないから、私はフェアに扱ってるだけの話だと思うんですよ、腫れ物にしたくないんです、なんでかというと、あたしが腫れ物になりたくないんです。 あたしは、腫れ物じゃないっていうことを人生かけてずっと喋ってんですよ。カモンって感じですよ、本当、腫れ物じゃねえんだよ、触れよもっとって、触ろうよって話ですよ。北朝鮮も帰国事業も、在日も朝鮮学校も総連も脱北も、でこそ知り合えるってことだと思います。いいとこだけ見せて、権利を主張じゃなくて、こんなとこで悩んでますねん、こんなに大変なんです、ここ苦しいんですって見せないと、だと思っています。腫れ物にしたくないんです、うちの親の生き方も、うちの兄達の存在も、私も。
ナ:「かぞくのくに」は、ベルリン国際映画祭をはじめ、世界中で高く評価されました。堂々と世界の舞台に立つヨンヒさん、しかし、その影で身も心も追い詰められていました。
2009年7月、映画の素晴らしさを教えてくれた長男コノさんが病気で亡くなります。4ヶ月後には、父親が他界、遺骨は母親が北朝鮮まで持っていきました。兄にも会えず、父上の墓参りも叶わない日々、借金までして、北に仕送りを続ける母親とは、いさかいが絶えませんでした。
ヤ:私1人ではもうね、マックスだったんだと思います。その自分を支えるのもそうだし、この家族の物語を作品にする上でも、 多分バーンアウトだったんだと思います。死にたいって泣いてたんですよ、私は可哀そうとかじゃなくて、でも死ぬ勇気がないのもわかってたけど。
一方ではやっぱりね、北にいる人ほどのしんどい思いはしてない。私としてはなんかギルティがあると思うんすよ。でも、そのギルティを感じちゃうと私の生活が壊れる、もっと壊れるので。
ナ:「かぞくのくに」の後、映画監督として新しい作品を発表できないまま、10年の歳月が流れました。この苦しみを溶かしてくれたのは、兄達が北に渡った時からわだかまりを抱えたままだった母親でした。
『母親:怖かったでえ、あっちこっちから射撃の音がバーンバーン。たくさん殺されたね。学校の校庭に強制的に引っ張って並べて機関銃でダダダダダ、、、
ヤ:学校の校庭で?』
ナ:母親が語り出したのは、ずっと封印していた18歳の時の壮絶な体験でした。済州島4・3事件です。
終戦間際、母親は空襲を逃れて、大阪から自分の母のふるさと済州島に疎開していました。それから3年、朝鮮半島にアメリカ、ソ連それぞれが支援する2つの国家が生まれる前夜、1948年4月3日、済州島で南北分断を決定づける南での単独選挙に強く反対する声が上がり、武装蜂起が起きます。これに対し、軍や警察が激しく弾圧、死者、行方不明者は合わせて3万人に上りました。
『ヤンヨンヒ(映画のナレーターとして):動く人影には無条件で発砲せよという作戦を立て、赤狩りの名のもと島人を無差別に殺した』
ナ:4・3事件は韓国現代史のタブーとして長く歴史の闇に葬られてきました。 1980年代後半から韓国の民主化が進み、真相究明や遺族補償の動きが始まります。
日本でも、遺族会が誕生。4年前には、済州島から多くの人が逃れてきた大阪に慰霊碑も建立されました。
済州島に帰った母親は日本で受けたような差別もなく、結婚を約束した恋人もできました。
ここでの幸せな暮らしを思い描いていた矢先4、三事件が起きます。婚約者はなくなり、
母親は幼い弟、妹を連れて密航戦で再び大阪に戻ったのです。
ヤ:んー、ずっと4・3のことを語らずに、アボジは 42年に日本に渡ってきたし、私の父は。で、母は大阪生まれなんでみたいな。だから、4・3の本を読んでましたけど、うちの両親は直接的には関係ないんだなってずっと思ってましたし。で、母に聞いても「知らん知らん」とか「済州島行ったことない」とか最初は言ってたんで、行ったこと、1回も行けんかったんやね。「1回行ってみたい」とか聞くと、「あ、ちょっとおった」とか、「ちょっと住んでたことがあんねん」とか、なんか最初そんな適当な言い方をしてたんですね。
ナ:父親が亡くなってから1人暮らしになった母は、娘が帰ってくるとポツリポツリと済州島の思い出を語るようになりました。ヨンヒさんは、記憶の断片のような母親の証言を記録し始めます。しかし、どうやって作品にするのか答えは見つかりませんでした。
そんな時、1人の日本人が現れます。 編集者をしている今の夫、荒井カオルさんです。「ディア・ピョンヤン」を何度も見て、ヨンヒさんの生き様に心を動かされたと言います。 初めて荒井さんが母親に挨拶に来た日、結婚するなら、朝鮮人と言い続けていた母親の姿にヨンヒさんは驚きました。自慢の済州島の鳥スープを作り始めたのです。
ヤ:アライが母にあった日、私はカメラマンでしたが、正直すごく衝撃を受けたし、感動したんですよね。その母の荒井に対する態度にもそうだし、荒井の母に対する態度にも、なんか本当に外交官かよっていうぐらい争いごとのネタになるような会話は一切せず、いらん質問もせずいらん説明もせず、平和を保つためだけに、ニコニコしながら、お互いを気遣い合って、ご飯を食べて別れるっていうね。
東京に戻ってきたら、お母さんには、オモニは長生きをしてもらう、長生きしてほしいじゃなくて、長生きをしてもらうって言ったんですよ、俺がそうするみたいな言い方だったんですよ。で、私びっくりしてで、家族になる気満々なわけですよ。この人すごいなと思って、そっからこの2人をずっとちょっと撮りたいと思ったんですよね。 日本人ダメだって言ってたうちの母が、この日本人の荒井と本当に見事にどんどん近くなって、家族になっていく様子は、家族ってほっといてもなるものじゃなくって、 お互いの努力によって家族になっていくもんなんだなって、なんか血が繋がってるとかそういうので、ふんぞり返ってちゃいけないんだなみたいなね、もっと言うと、家族ってやっぱすごいめんどくさくって、鬱陶しいものでもあるけれども、なんかすごいいいもんだなって、初めてかも、思ったんですよね。
『ヤンヨンヒ(映画のナレーターとして):韓国済州島から済州4・3研究所のメンバーが聞き取り調査のため、母に会いに来た。1948年に起こった大量殺戮の体験者を訪ね、日本でもインタビューを続けている。
この日を境に母の認知症が劇的に進み、いるはずのない家族を探し始めた。
『母親:アボジは何してんねんアボジはね
ヤ:アボジはね、もうちょっと遅く帰ってくるわ、今度アボジ会うてね、言わなアボジといっぱい飲まなあかんな。』
ナ:2018年4月、ヨンヒさんは母親を連れてあの日から70年が経った済州島を訪れました。
プロデューサーとして映画作りを支えてくれる夫も一緒に、消えゆく母親の記憶を受け止めたいと考えていました。
『ヤンヨンヒ(映画のナレーターとして):70年前、この道を歩いた母は無残に殺された村人達の遺体を見て涙が溢れたと言った。母達は、警察の検問をくぐり抜けるため、散歩を楽しむ兄弟を装い、歩みを進めた。どれほど怖かっただろう。18歳の母はどんなに勇敢だっただろう。
ヤ:「スープとイデオロギー」には一切出してないんですが、今までどの映画でも語ってないんですけど、実は母の実の兄、弟じゃなくて、兄がいて、その母の兄が日本兵として戦地に行き、南方の方に島に行き、で、そのまま帰ってきてないんですね。未だに戦死の知らせもないまま。その生まれ育ったところも、自分の国と思うにはなかなか厳しい、で、親の故郷に行ったら、そこはもっと残酷なことがある。自国民によってね、同士殺し合うみたいなのを目の前で見るわけですし、婚約者を失い、また日本に来て、それで日本でもない南でもないってなって、北を信じた、で、息子達まで全部送ったら、パラダイスじゃなかったってことで、 1番上の息子は、精神を病み、自分より先に死ぬと。
母は本当強烈に故郷とか、祖国、母国を持ちたかったんだと思います。 でも、最後に信じた北朝鮮を失うわけにはいかなかったんだと思います。でも、まあその中でも本当に気丈に愚痴らずに笑いながら生きてきた精神力っていうのは、本当すごいなっていう。
50代後半になって、 初めて、自分が避難民の娘だっていう、難民の娘だっていう、私の新しいアイデンティティの発見にも繋がるわけですよね。それも、すごくどういう生きざま
を経てきた人の娘かっていうのをもう1つ踏み込んだ次元でわかるっていうのは、やっぱすごい大事な、貴重な体験で、やっぱ自分が何者の娘かみたいなのをはっきり分かるっていうのはすごい自信に繋がる。深く分かるっていう、知るっていうことが自信に繋がるってことです。だから、なんでオモニはこう韓国に対してこう思うんだろうっていう疑問ではなくて、その私なりのパズルが埋まるっていうか、答えっていうか、子供に自分が何者かっていうのをしっかり伝えるっていうのは、そういう子供に親を知り、親と自分の人生の繋がり方を知り、それは歴史と言うんだと思うんですが、きっかけと道しるべみたいなのをもらった
と思ってます。
で、済州島という私が生まれた場所ではないけれども、でも、私が故郷と思いたくなるような場所をもらったような気になりますね。
3年間という時間は長くはないけれども。でもやっぱり母の人生において、あの3年間の済州島っていうのはすごく長いし、あたしにとっての母と過ごした済州島の数日間っていうのは、やっぱ強烈に今後、私の人生に影響していくと思うので、そのおかげですごい近しく思える場所。生まれ育った大阪以上に恋しいみたいな気持ちになってるところはありますね。少なくとも短い時間でも、母がやっぱり必死で、なんか青春を謳歌して、また生き延びようと必死に戦った場所なので。
最近大きな変化に気づいたんです。ブルー、青色がオッケーになったんですよ、ずっとブルーが苦手だったんですけど、 海関連が全部苦手だった。なんかこう悲しいとか、別れとかそういうイメージなので、それが最近ね青オッケーになりました。1つハードル超えた感じがしますね。
ナ:最新作「スープとイデオロギー」は、韓国での公開も始まっています。既に次回作の企画は頭の中にあります。日本と平壌を舞台にした劇映画、これからシナリオの執筆に入ります。
ヤ:だから、彼と出会ってほんとになんて言うんでしょうね笑うようになった。これはね、韓国のスタッフに言われたんですよ。
荒井(以下「荒」という):あの、明らかに死から遠ざかったと思います、この5年で。
ヤ:うん、死にたいと考えなくなりました。 死にたいと考える回数がダダダーッと減ってなくなりました。本当に短期間の間に彼と付き合い始め。
荒:だからまずはね。まずは「スープとイデオロギー」を作らなきゃいけないと、作編を作るんだと。あなたの仕事、作品を作ることじゃないかって言って、すごい励ましたんです。今作り終わって、もう次はまた次の映画を作ろみたいなことで励ましてます。創作しながら生きるんだ。
ヤ:うちのお母ちゃんみたいな人を主人公にね。コメディみたいなの作りたいですよね。エキセントリックに肖像が毎日磨いてみたいな、そういうこう「あのおばちゃんちょっとおかしいねん、ちょっと北好きやねんで」みたいな人なんやけど、めっちゃええ人なんですよ。
めっちゃええ人で、近所の人にもよくしてあげるんだけど、なんか色々心に秘めたことがあってやってる、そんなおばちゃんの話できないかなと思ってみたりね。
2022/10/23 瞑想でたどる仏教~心と体を観察する~ 第1回 ブッダの見つけた苦しみから逃れる道(再放送、初回放送:2021/4/18)
蓑輪顕量:東京大学大学院教授
為末大:元プロ陸上選手
ききて:中條誠子
中條(以下「中」という):今日から「瞑想でたどる仏教、心と体を観察する」と題しまして月に1回、6回シリーズでご紹介します。お話いただきますのは、東京大学大学院教授蓑輪顕量先生です、よろしくお願いいたします。
蓑輪(以下「蓑」という):よろしくお願いいたします
中:そして元プロ陸上選手で、現在は指導者としても活躍の為末大さんです。
為末(以下「為」という):よろしくお願いいたします。
中:このシリーズは仏教を瞑想でたどるということなんですが、そもそも、この仏教と瞑想の関わりというのはどのようなものなんでしょうか。
蓑:実は仏教の中では瞑想というのが大変に大切な起点でありまして、 これが基になって様々な教説というようなものも起きてきます。 実際には、私達の心を観察していくということをしていくんですけれども、それを通じてブッダは悟りを開いていかれます。
ですので、瞑想をよく知ることによって仏教を知ることができるというふうに言っても過言ではありません。
為:じゃあ、瞑想していくってのはちょっとブッダの追随体験してくみたいなところがあるんですかね。こんなふうなプロセスで、 あのブッダは悟っていったってのを、我々が瞑想する時には、そういう似たような体験をしていくための ツールっていうか、道具みたいなそんなところがあるんですか。
蓑:はい、そういう側面が確かにあります。これは、現在の東南アジアのお坊様達がよく言われることなんですけれども、あなたもこの瞑想をすればブッダと同じような境地に到達することができるという風に言っています。ですので、瞑想というのはとても大切なものだということができます。
中:為末さん、この瞑想って言うとどんな
為:いや、だから。今2つ瞑想っていうか、この瞑想とあの迷う、迷って走る。で、まあ、それぐらいに競技やってる時に、やっぱり瞑想って選手達の間でも話してるんですけど、このやり方が合ってるのか、どうかよくわからないみたいなのが時々あったりしたんですね。
中:瞑想っていうものが、この方法でいいのかどうか?
為:そうですね。あんまりちゃんと教てもらったことがやっぱりなくて、何かに集中する、いや、空っぽになるんだとか、 いや、座ってなきゃいけない、いや、座ってなくてもいいかとか、そういうことを選手達も話しながら、まあでも何かあの競技には役に立つのかなっていうので話もしたりしていて、でもそんなイメージですね。
だから、なんとなく集中して心を落ち着けてる何かなんだろうけど、具体的には何かはよくわかんないっていう、そんな感じでしたね。
中:この瞑想っていうのは、一体いつ頃から始まったものなんでしょうか。
蓑:実は、お釈迦さん以前から心を観察する瞑想というものは存在していたと考られています。
為:じゃあ、お釈迦さんが瞑想を編み出したっていうよりも、瞑想っていうのをお釈迦さんがこう取り入れたみたいな、そんな感じなんですか。
蓑:はい、そのように考ていただければいいと思います。実際にインドには、私達今「ヨーガ」という言葉で呼んだりしますけれども、心を何か1つのものと結び付けていくっていう意味があるんですけれども、そのような心の観察というのが、お釈迦さん以前から存在していたと考られます。
中:それをまたこのブッダがブッダオリジナルの瞑想を作っていったというわけなんですか。
蓑:はい、実際ね最初にやられたものは伝統とほぼ同じものをされていて、ただ、悟りを開かれた時の瞑想がどんなものであったかというのは、詳しくはわからないところがあるんですけれども、おそらく、オリジナルの部分があったと考てよいと思います。
為:ブッダっていうのは、本当にいた人なんていうことですか。
蓑:これは、実際にあのいらっしゃったことは間違いありません。
中:じゃ、私達と同じ人間だったということですよね。
蓑:そうですね、はい。
為:ちょっと希望を持てますね。じゃあ、僕らももしかしたら、悟りに、、、何ていうかな。
中:悟りの境地へ
蓑:ブッダの当時の人間と現代の私達人間もそれほど大きく変わったものではないと思いますので、 ブッダの見られた世界というのが、実は現在の私達にも通用するものではないかと考ています。
ナレーター(以下「ナ」という):仏家が仏教を開いたのは、今からおよそ2,500年前のインドです。
ブッダは、王族に生まれました。名前はシッダッタ、妻ヤショーダラと一人息子、ラーフラと共に王宮で何不自由なく暮らしていました。
ある時、町に行こうとお城の東の門から出ると、白髪の老人を目にします。「あれはなんだ」。(従者)「年を取ると誰もがあのような姿になります。(ブッダ)私もいつかはあのようになるのか、、、」
また、ある時、南の門を出ると病を患う人を見かけました。誰もが病にかかることを知ります。
今度は西の門を出ると、葬式の隊列に遭遇します。生きていく限り免れない、老・病・死。シッダッタの心は重く沈み、苦しみで覆われてしまいました。「苦しみから逃れるには どうすれば良いのか」
そして、北の門で出会ったのは、世俗を捨てた修行僧。 何事にも平然とし、苦しみから解放されているように見ました。シッダッタは出家、悟りへの道を歩み始めます。
出家したシッダッタは、2人の仙人に教をこい、瞑想の修行を重ねます。この瞑想は深く集中することで心の動きを止めるもの。難なくその教地に達したシッダッタでしたが、
ひとたび瞑想をやめ、日常に戻ると悩みや苦しみは再びわき起こってきます。 2人の師から教わった瞑想では、根本的な解決にはならないと考ました。
試行錯誤するシッダッタは山の中に入り、断食など自らの体を痛めつける苦行を行います。それでも、悩みや苦しみから逃れることはできませんでした。シッダッタは、失意の中で山を下ります。「一体、どうすれば良いのか」
シッダッタの前に、大きな菩提樹がそびていました。何かを得るまで、この木の下から動くまいと決意し、再び瞑想に取り組みます。 この時、シッダッタは独自の瞑想法を編み出したとされます。それにより苦しみから解かれ、 「悟りを得た人」ブッダと呼ばれるようになりました。
為:じゃあ前半部分は先生がいたけれども、後半は自分1人で模索したってことなんですかね。
蓑:はい、恐らくはブッダ自身がですね、体験的に気がついていった世界なのではないかと思います。
今、私達の見ている世界というのは、新しい知恵みたいなものがですね、どのような形で得られるかっていう時に、 人から教わってくる知恵、それから、自ら体験して得られる知恵という風に分けられることがありますが、ブッダの場合には、まさに自ら体験して得られた世界、体験知とか臨床知っていう言い方が今あると思うんですけども、 ブッダの悟りの世界というのは、まさに体験知、臨床知の世界なのではないかと思います。
為:体験知の世界だと、これスポーツでもよくあるんですけど、 やってみなきゃ分かんないと。でやって、体が分かれば分かるんだといって、説明がとても難しいっていう特徴があると思うんです。
で、もう1つは 本当かどうかよくわかんないと。何かこう、ただごまかしてるだけじゃないかって、あの言葉で説明できないもの、お前体で分かったら分かるもんなんだっていう、この辺りの苦しみとかもあったんじゃないかって気がするんですけど、そのどういう風にブッダはこう言葉にできないような体験知を伝ようとしたっていうこの辺りってどどうだったんですかね。
蓑:自分の体験をきちんと整理されて、言葉化していったんだと思います。 それができたっていうことは、なかなかにすごい人だったんだなと思います。
為:言語化能力というか、言葉にする力の強い方だったということなんですね。
蓑:はい、そうですね。
為:これどうだったんです?最初ブッタは、自分の苦しみの解決のために修行に行ったのか、それとも、みんなの苦しみのために修行に行ったのかっていうと、どっちだったんですかね、最初の動機というか。
蓑:それはやはり自分のことに引き寄せて、必ず誰もが生まれる苦しみ、年を取る苦しみ、病にかかる苦しみ、死に至る苦しみというのを経験すると。 そのような点から考えますと、最初は、自分の苦しみをいかにして逃れるかっていうところから、始まったと考えていいと思います。
為:じゃあ、自分の身で体験してみてこうやったら苦しみが逃れられた。じゃあ、みんなも同じやり方で、それぞれの人がこの瞑想を通じて逃れられるんじゃないかっていう、そんな順番だったってことですかね。
蓑:そうだと思います。はい、
中:人の苦しみってのが2,500年前から同じようにあって、それについて真剣にこの逃れるための方法を考えられてたってことなんですよね。
為:そこだけは結局人間が生きてる以上は変わらないですよね。これからも、まあまさに我々の人生と向き合ってるようなものなので、ずっと本質的な苦しみだったってことなんですよね。
蓑:はい、そうだと思います。実際に仏教の中では、その生老病死の4つを四苦という風に言うんですけれども、もう4つほど、苦しみになるものがあるという風に捉えていました。
それは求めても得られないということが苦しみである。愛しいものと別れなければならないのは苦しみである。そして、嫌なやつと会わなければいけないのは苦しみであるというのがありまして。 それと、私達の身体が様々な構成要素からできているが故に受ける苦しみという、4つのものが加えられて、 全部で八苦という風に言います。
為:全くなくなってないですね。
蓑:そうですね。
為:ず~っと2,500年同じ苦しみを人類は向き合ってきてる。
蓑:向き合ってるわけですね。で、その四苦と八苦があの繋がりまして、「四苦八苦」という熟語ができますので、これは現在の日本語の中でもちゃんと生きていますから、まさに、あの2,500年前のブッダの時代に考えていたことと、今、私達が現実に生きてる上で感じるものというのはほとんど変わってないと思います。
ナ:瞑想について、ブッダは言葉を残しています。ブッダの教えを記した初期の仏典、「念処経」の一節です。
『比丘たちよ、この道はもろもろの生けるものが清まり、愁いと悲しみを乗り越え、苦しみと憂いが消え、正理を得、涅槃を目のあたりに見るための一道です。』
蓑:念処を通じて、私達が日常に感じている悩みや苦しみを超えることができる。 そして、正しい道理を知ることができる、涅槃に到達することができるという風に書かれています。
その中でも、瞑想という風に今まで呼んできましたけれども、実際の言葉では、「サティパッターナ」、「念処」という言葉で呼ばれています。 この念処というのは、現代の仏教研究者の方達が 、どのように翻訳するのが1番実際に近いかというので、あれこれと苦労しているんですけれども、今、考えられる翻訳語としては、「注意を振り向けて、しっかりと把握すること」というふうに、 訳されるようになってきました。
中:その念処というのが、このブッダがたどり着いた悟りということになるんでしょうか。
蓑:はい、念処という方法を通じて、悟りに到達したという風に考えるといいと思います。
気付きの対象になるものっていうのを、ブッダは4つの範疇に、グループに分けました。
で、これは、「四念処」という言葉で表現されています。4つの念処という意味なんですけれども、実際につかまえられる、注意を振り向けられる対象は、「身・受・心・法」というですね4つの言葉で表現されます。
ナ:念処で注意を振り向ける対象を、ブッダは大きく4つに分けました。
聞こえてきた音、それを捉える耳など、体の感覚器官に注意を振り向けます。これを身念処と言います。その音が鳥のさえずりなら心地よく、雑音なら不快だと感じます。どちらでもないということもあるでしょう。
外からの刺激を受けて、最初に生じるこの感覚、それを観察するのが受念処です。そこから、心には喜怒哀楽、様々な感情が生まれますこの感情にも気づき把握することを心念処と言います。
瞑想をしていると、誰もがそわそわしたり、眠気や疑念などに苛まれます。この心の働きも観察します、法念処です。
聞こえてきた音や体だけでなく、それを受け取る心や生じた感情、 あらゆるものに注意を振り向けるのがブッダの瞑想です。
中:では、実際に私達も体験してみたいんですが、先生。
蓑:はい、それでは1番基本になります、呼吸の観察をしてみたいと思います。
まず目をつぶりまして、顔のあたり、鼻のところにですね、気持ちを持っていきまして、 入る息、出る息をそのままに観察してみてください。私も少しやってみます、それではお願いいたします。
為:座る形はなんでもいいですか。
蓑:座る形は、あの姿勢を整えて、背骨の上に頭がしっかり乗っていて、1番楽な姿勢で結構です、ではお願いいたします。
為:これは、あの激しく鼻で息を出したりしないと感じ取りにくいですね。あと周りの声とかなんか聞いちゃいますね。
蓑:実際の呼吸の観察の時には、まずは呼吸の入ってくる息、出ていく息を、きちんと把握していく、つかまえていくことが、大切です。でも実際にですね。私達の心は様々なことを考えたりとか 、いろんな感覚期間が動いていますので、、他のものも受け止めてしまいます。ですので、観察のやり方の時に、
ほんと最初は1つのものに注意を振り向けて、しっかりと把握することですから、静かな環境で、呼吸を観察していくっていうのが1番望ましいです。
しかし 、私達の感覚期間を通じてつかまえているものですね。それもあの気付いていくということもできますので。
少し観察の仕方を変えてみたいと思います。今度は呼吸以外に 、椅子に触れているお尻の感覚がわかると思いますので、触れている感覚も気づきの対象にしてください。 それから、もし音が聞こえてきましたら、その音もつかまえる対象として気づいてみてください。
では、お願いいたします。
為:これは忙しいですね。
中:自分がいろんなことに気づかなきゃいけないっていう風に思わないとそのまま呼吸だけになってしまいそうな。
為:今、鳥が鳴いてますね。鳥が鳴いていながら、ちょっとなんか、背中が 同じ姿勢で疲れてきたなっていうのと。こだわって、1個のことつかまえてたら、他のが起きてることが分かんなくなる感じですかね。
蓑:最初は1つのものに気づき続けるというのも結構大変なことです。
最初に呼吸を観察してくださいと申し上げましたけれども、私達の心というのは常に動き回っているというような言い方もありまして、これは仏典の中に出てくる例なんですけれども、私達の心は猿に例られることがあります。あの動物園にいる猿をご覧になったことありますか? 1年中あの動いてると思うんですよ。とにかく手当たり次第に物を掴んでは、口に持ってったりとかします。
ところが猿というのは大変に面白い性質がありまして、紐を使って首のところからですね
エンロープでですね、こう縛ってどっか杭とかにですね縛りつけてしまいますと、最初は逃げようとして暴れるんですけれども、 しばらくすると、紐に繋がれているっていうのをしっかりと認識するみたいで、じっとしてしまうんです。仏典の中に使われている心の例というのは猿でありまして。同じように何か1つのものに結びつけていると、最初は大変だけれども、 いつの間にか落ち着いてきて、1つのものに集中することができるようになると説かれてるんです。
まずこの練習がブッダの悟りに至る最初の段階として設定されています。で、その後に1つのものにきちんと集中するってことができるようになってから、観察の対象を複数のものにしていく。 先ほど、お尻の触れてる感覚とか聞こえてくる音とか、あるいは体が感じる痛みなんかもそうですけれども、そういうものも全て気付くというやり方に変えていきます。
お釈迦様が悟りを開かれた時の観察の仕方というのはおそらく後者の方であった可能性が あると思います。
ナ:ブッダの瞑想「念処」、その2つの方法です。ろうそくの炎にだけ集中して見つめます。1つのものに集中して観察する方法、これを「止」と言います。
今度は炎だけでなく、その周囲にも注意を振り向けます。すると、ろうそくの燃える匂いや空気の流れ、暖かさなど様々なことに気づくでしょう。 このように、複数のものに気づく瞑想を「観」と言います
中:その 2つ、その気付きも、この1つに集中するものから、同時に色々なことに気付いていくというこの2種類。
蓑:そうですね。それで、その1つのものを対象にして気付き続けているというのは、後の時代に、「サマタ」、「止」という名前で呼ばれるようになりました。
為:「止」というのは止まるという字を書きます。心の働きが静まるっていく、止まっていくというような意味から「止」と命名されたと考られます。
ただ、この「止」という命名の仕方、それと対になっている、様々なものを気付いていくやり方は、「観」、「ヴィパッサナー」という名前で呼ばれるようになります。
ところがこの「止」と「観」という言い方は、お釈迦さんの時代にはどうも使われてなかったようでありまして、お弟子さん達の時代になってから使われるようになった用語と考えられています。
ブッダ以前に行われていた瞑想というのは、おそらく伝記の中に登場します2人の仙人、どうもその仙人の人達から教わった境地というのは、1つのものに集中して心の働きが起きなくなっていく過程を経験していたようでありますので、おそらくお釈迦様以前の瞑想のスタイルというのは、心の働きを静めていくというところが中心だったのではないかと思います。
それと比べていきますと、ブッダの瞑想の特徴はいわゆる「観」、「ヴィパッサナー」のところにあるのではないかと考られます。
中:この「止」だけでは悟りに至れないっていうことに気づいたから、「観」に向かっていったっていう。
蓑:そうですね、これは伝記の中の記述なんですけれども、「止」を行うことによって、 そのやっている最中は他の働きが起きないわけですから、悩みや苦しみも生じてきていないと 、しかし、「止」の状態から日常の状態に戻ったら、その時にはやはり前と同じように悩みや苦しみが生じたと。
ですから、「このやり方は真実の悟りに至る道ではないのではないか」というふうに考えられてオリジナルと推定される「ヴィパッサナー」、「観」の瞑想の方に入っていったのではないかと思われます。
ですから、「観」の練習をすることによって色々なものに気づき、しっかりと受け止めていく、把握するってことをしつつ、それを手放していくということで悩みや苦しみから逃れられていくんだろうなと。
中:為末さんの競技中とかですね、アスリートにとって集中するってすごく大事だと思うんですけど、何か共通点ってありますか。
為:そうですね、動きを僕らは「粒度を細かくする」と言うんですけど、足を動かして走るってところから足を上げて、地面を踏むってところになって、あの母子球って言うんですど、親指の付け根で踏んで、しっかり乗っかって、その重さを腰に受けるとか、だんだんだんだん感覚を細かくして、注意するところに向けて、変えていくんですけど、ちょっと今伺いながらそういうのにすごい似てるなと。
蓑:あの、感覚をとにかく細かくしていくっていうことをしていますと、 あの動作はすごくゆっくりになってくるんですけど、それは大丈夫なんですか?
為:そうなんです。ですから、速く走る競技なので、みんな速くだんだんなっていくんですけど、もうとにかく前半のコーチングが ゆっくり動ける、ゆっくりやるっていうことを覚させるってことです。ゆっくりやって、意識ができて、その上で速くするのは速くなれるんだけど、ただ速くすると体が感じないまま速くしちゃってるのでどっかで伸び止まってしまうんです。
中:再現性がなくなるってことですか。
為:そうです、だから、ゆっくりして分かってる。この感じが分かってるってのは、かかった上の 速くしていくと、上手くいくんですけど、ただ速くするとポイントとかがわからないので、こういう何か、何て言うんでしょうね。 だから、ゆっくりさせる方が難しいですね。
中:自分でその動きをしっかり認識しておくっていうことが大事。
為:はい、大体そういう時にコーチが「今どんな感じがする?」、「どんな風な感覚がある?」とか、そういうことを言って自分の中の体であの地面からの反力なんですけど、それを感じ取ってるかどうかとかをすごく言いますね。
蓑:まさしくやってることは、「サティパッターナ(念処)」のような感じがいたします。
ナ:為末さんが瞑想に興味を持ったのは「ゾーン」と呼ばれる経験がきっかけでした。競技の最中、 極度の集中状態に入るとそれまでの自分を超える驚くべき結果を出せたのです。
言葉にできないあの不思議な体験はなんだったのか、引退後もその答えを探求する中で瞑想中における心身の変化とゾーンには通じるものがあるのではないかと考えるようになりました。
為:今日私が1番伺いたかったっていうのは、そのゾーンっていうものが科学的な証明がとっても難しいんですね。要するに脳波を取ったりとかで多少できるかもしれないですけど、我々走っちゃってるんで外れちゃうわけですね。もしかしたらブッダの体験知を言語化することの悩みって、ちょっと近いんじゃないかって思ってたんですね。
ゾーンに関して言うと、どんな体験になるかっていうと、よく言うのが、私もそうですけど周辺の音が小さくなって、自分の体だけが動いてる感じになるっていう。具体的にはスタンドの声が小さくなり、 周りの選手があんまり見えなくなり、自分の体がひたすらに動いてる感じがして、動かしてる感じがなくなって、動いてる感じを自分が追っかけてるみたいな感じですね。まあそういうのってなんていうかな。 集中して、考え事してたら、気が付いたら目的地取りすぎてたってことあるじゃないですか。あれのもうちょっと集中版なんですけど、だから、 体が先に動いてるって感じです。で、それを自分が後から追っかけてる感じなんですね。
中:それって、そのすごいトレーニングを積んだ暁にこう入るものなんですか。
為:1番大事なことは、私はハードルですけど、ハードルを跳ぶっていうことを忘れられても跳べるかどうかです。ハードルを跳ぶぞって思ってたら、ハードルに意識が行くんで、集中できないんですけど、ハードルを跳ぶぞなんて考なくても、体が勝手に動いちゃえるようになった時に初めて自分の頭がそれを手放せるので集中に入れるっていうか。だから、まず、体がそれを何も考えなくてもできるようなところまでは覚えてないといけないですね。
これはまさにどうなんでしょうね、
蓑:いや、とっても近いと思いますね。
サマタ、「止」の行法の中でどういうことが起きてくるのかっていうのを、体験された方の話ですけれども、1つのものに集中していると、それだけがあのきちんとつかまえられるようになってきます。で、実際には音の感覚とかですね他のものが遮断されていくようになります。
ですので、1つのものに一定集中というように言うことできますので、そうしてくると、他の感覚機能もですね、機能を停止していくっていうような状況が生じてきます。これは、脳科学の世界でもそのようなことをちょっと言われておりまして、「止」の行法をしている行者さんを、その場合には横になって呼吸に集中していくっていうな感じで計測されたようですけれども、 ちゃんと機械の中に入れますので計測できたようだと。そうすると、いわゆる他の感覚機能がですね、ずっとあの全体的に低下していっちゃうんだそうです。で、あの1つのことだけはどうも動いてるという感じですので、まさに今おっしゃられた、音が聞こえなくなってくるような感覚とかですね。 集中が進んでいって、生じてきている状態っていう風に言うことができると思いますね。
中:「止」と「観」で言うと「止」
蓑:「止」ですね、そういう意味では。
為:観客がすごく多かったりする時に、選手の勝負強さっていうのは、やっぱりオリンピックみたいな舞台だとすごく出るんですね。 練習会場で集中することはできるんだけど、周りの歓声とかやっぱとっても多いんである意味、気を引かれるのが多い中で、どうやって自分がそのままの自分で言うかってのはすごい難しくて、だから、その辺りは「観」とかわからないんですけど、近いのかなと思って今伺ってましたけど。
蓑:多分「観」に近いような気がしますね。「観」の練習をしていてですね、いろんなものに気づけるようになってくるので、ただ気づいた後どうするかなんですけど、それを手放していくのがやっぱり大事だっていう風に言うんです。
で、そのような状況になってくると、少しずつ悩み、苦しみから離れていけるっていう風にあのとらえられていますので、まさにその観客の歓声とかですね聞いていても、それをきちんと流していけるように心が変わっていけば、本領が発揮できるっていうことなんじゃないかなという風に私は今伺いました。
為:じゃあ捨てられないっていうのは、例えば歓声で「為末頑張れよ」って言われてるのが聞こえてきて、「ああ聞こえたな」 ってことは、今日結果が出ないときっとあの人がっかりするだろうな、わ~って加速していくようなことが、 捨てられてないような状況って感じですかね。それをなんか「聞こえたぞ」で、ピッと止めてそのまますっと流れていけば、、、
蓑:そんな感じでいいんじゃないかなと思いますね。
中:もう頂点になればなるほど重しがかかってきて、そういった中で本領を発揮するって、 ものすごくこう心をコントロールしないといけないんですよね。
為:いや、心ですね最後はもう。体で競争していくんですけども、決勝とかになるともう心ですね。心っていうか、 だから、みんな最後のトレーニングは難しいんですね。最初のトレーニングは全部メソッドがあって、頑張ればなんとかなるんですけど、最後の練習の仕方がみんななかなかわからないんです。なんかこう、どうしてあの時にあんなことしてしまったんだろうか、全部心の問題なので。
今思い出しながら伺ってて、、もうちょっと早く聞いてたらよかったなっていう。
中:このように気づき続けると、心には何が起こるんでしょうか。
蓑:心の中に起きてくる、気づきみたいなものがあるんだと思うんですけども、最初、呼吸の観察をしましょうというので、やっていただきましたけれども、 それがですね。何か気づかれている対象として風のような動きがこうあって、それに対して心が何か、あの風が流れている、動いているというふうに、気づかれるような瞬間が出てきます。これは物を見ている場合でも同じです。
例えば、私達日常生活の中で物を見ている時に、どういうことが起きているのかというと、実は目という視覚器官を通じて、心の中、現在では脳と言った方がいいかもしれませんけれども、 脳の中につかまえられる対象としてのイメージがまず描かれます。
その次にその描かれたイメージに対して、「これは何々だ」というようなですね判断が働いてきます。最初の1つのものだと思っていたものが、2つのものに分離されるという段階がやがて訪れてきます。 で、この時につかまえられている方が、「色」、色という字を書くんですけど、「色」という風に表現され、つかまえている心の働きの方が「名」、名前の名と書くんですけど、「名」と呼ばれます。1つと思われてたものが、「名」と「色」の2つに分離されるということが起きてきます。
物体の中では、そのような気づきをですね。1番最初の知恵だという風に、記述してるものがありまして、「名識の分離智」という風に名前を付けて呼んでいます。ですので、観察を、心身の観察をしているとですね、やがてそのような状態が経験されるというふうに言っていいと思います。
ナ:例えば何かを見た時、脳には見ている対象のイメージが浮かびます。 すると、そのイメージを見る、自分の意識があるとわかります。つまり、 リンゴがあるという認識は、リゴ「色」とそれを観察する心の働き、「名」に分けられることをブッタは発見したのです。
為:もう1つの自分がいるわけですね。
蓑:もし気づいてるって働きが確かにあるはずなんですね。でも、まず日常生活の中では、私達は認識をしてる時にですね、当たり前のようにものを見たらただもうやっと1つのものだと思って判断とかが起きてますので、その心の中にまず何かが描かれて、それに対して心が別の働きを起こしてそれを認識してるんだっていうですね、そのことに普通は気がつけないと思うんです。
ところが体や心の観察をしていると、そういうことにも気づけるようになってくると、そうしますと私達の心の中に生じてくる感情だとかですね、様々なものにもきちんと気づけるようになってきます、これがとても大切な部分なんだと思います。
中:四念処を知ることがこの苦しみから逃れることにつながるということなんですけども、 その苦しみってのはそもそもどうして起こるんでしょうか。
蓑:私達が感じる苦しみというのは、基本的には私達の心が作り出しているという視点になると思います。
ナ:なぜ苦しみが生まれるのか、心身の観察を通じてブッダはその正体に気づきました。
『およそ苦しみが生ずるのは、全て識別作用に縁って起こるのである。識別作用が消滅するならば、もはや苦しみが生起するということは有りえない。』
中:これはどういうことを言っているのでしょうか。
蓑:私達は世界を感覚器官を通じて受け止めていますので、感覚期間を通じて世界を受け止めて、 心の中につかまえられる対象としての何かを描いて、 それに対して瞬時に、これは何々だという判断を起こしています。これは、協定の中に言われる識別作用という風に位置づけることができます。 で、その識別作用が生じると私達の心は次から次へと別の働きを起こしていきます。
例えば何かものを見た時、最初例えば、リンゴを見た時にリンゴのイメージが心の中に描かれます。 で、そうするとそれに対して、これはリンゴだっていうですね、識別作用が働きます。それが生じるとその次の瞬間に、「美味しそうだな、食べたいな」とでも食べたら太っちゃうかな、そういう風に次から次へと色々な働きが生じてきます。
で、これを仏典の中では最初の段階の受け止めは、「第一の矢」という風に表現します。
これは弓に矢をつがえて撃つような感じをイメージしてるんだと思うんですけども。 まず最初に感覚機関が受け止めたものは、「第一の矢」を受け止めたと。それがきっかけになって、「第二の矢」を私達の心は起こしていくんだと。、そんなふうに分析してるんです。
分かりやすい例としてはですね、道を歩いていて向こうから来る人と肩と肩がぶつかったっていう例が1番いいんじゃないかと思ってるんです。 肩がぶつかった時に、まず感じ取るものは、実は、身体がぶつかったわけですから、接触感覚、時にはそれが痛いという風につかまえられますので、痛いっていう風な感覚はこれ「第一の矢」なんですよ。でも、それがきっかけになって、 「第二の矢」として起きてくるものは、相手に対してあなた一体どこ見て歩いてるのよっていうような感じで、怒りの気持ちが生じてくるとか、これが「第二の矢」です。
本来私達の身体が受け止めたものは痛みだけですので、それに対して痛いということをちゃんと気づけばそこで止まるはずなんです。 ところが、日常生活の前には、痛いというようなところから、すぐ次の反応が起きてしまって、 怒りの気持ちが生じたりとか、相手に対する非難が生じたりとか、色々なところにこう展開していってしまいます。このように、私達の心って次から次へと広がってっちゃうんです。このような働きを仏教では「戯論」という名前で呼び、現代風に言うと、「心の持っている拡張機能」という風に名付けていいのではないかと思います。
ナ:飛んできた矢、これが体に当たると、本来受け取るのは矢が触れたという体の感覚だけです。しかし、その認識がきっかけとなり第二の矢が放たれます。すると、心はどんどん動いて、怒りや悲しみが生まれます。「誰だ、ふざけるな!」、このように、心が拡張することが「戯論」です。この「戯論」が苦しみを生む原因なのです。
為:じゃあ、ブッダが言った苦しみの正体っていうのは、この第一の矢から第二、第三までが一塊で、これは崩せない一つの矢なんだって思い込んでる、つまり、こんな出来事があったら、 怒りでも辛さでも悲しみでも、それに支配されるところまでがワンセットだって思ってるのをよく見てみると、これは分割できて気が付くことで第二、第三はストップできる。どうも苦しみの元はこの第一っていうよりも、第二、第三のあたりに潜んでるっていうのがブッダの、、、
蓑:そうですね、そういう風にいいと思います。
中:スポーツの現場ではどんなふうにして抑えるようにされてたんですか。
為:しょうがないねって感じですかね。最後、僕はそうですよ、なんかなんていうのかな、まあこれで試合で負けて、いや最初のうちはやっぱりこんな弱気になっちゃいけないっていう湧き上がるのに対して選手っていうのは強気で、いつも勇気満々でなんとかしなきゃいけない、で、そうじゃない感情が湧き上がってきたら、こんなこと思ってちゃダメだ、絶対うまくいかないってやってたのを、最後の方は、でもしょうがないよね、今はこう思ってるんだからっていう風に思ったっていう感じですかね。
中:ありのままを受け入れるみたいな
為:なんかこうかっこよくてそうなんですけど、これ経験的に浮かんできた感情に対して、そんなのじゃダメだって言えば言うほど注目がいって、これが消えなくなるんですね。なんかずっと葛藤が残っちゃうっていうか、怖いって来た時に、怖いよね、そりゃだって人生で何回しかないもんねっていう風にした方が、まだ抜けていく感じがあって、なんかしょうがないなってなんていうのか、そういう感じですかね。
蓑:なんか為末さん体験の知で、悟りの世界にもう入っているような気がいたします。
でも確かにその通りで、私達の心に生じてくる様々な感情というのは抑えようとしても、抑えられないこと多いんだと思います。 で、起きてもいいから、それをちゃんとつかまえなさい、しっかりと注意を振り向けて気づきなさい、気づいて把握しなさい、で、何度も把握するようにしていると、やがてそこから抜けられるっていうのが、これが大事な点なんです。
為:難しい、でも優しい気持ちになりますね。もうそういう気持ちが起こってもいいって言われると、起こっちゃダメって言われると、そんなところまで達成できるかなって気がするけど、まあ人間だからそういうのは起きるけど、それを気づくんだっていうことなんですかね。
蓑:(感情が)起きてもいいから、中立的な気持ちでちゃんとそれを眺めなさないんですね。
蓑:私達の脳の容量というんでしょうか、いろんなものを考えたりとかですね、していくときの容量と言いますか、それは意外に多くはないと。 いろんなものをですね、同時にやっていくっていうのもですね、やっぱり限界があるようなんです。
ですから、様々なものを気づき続けていくっていうことをしていると、やっぱり脳の様々な情報処理の限界に近づいていってしまうと。そういう体験をしていると、いわゆる次から次へと起こる戯れ論の働きが起きにくくなってくるのではないかと考られます。
どうして私達がその悩みや苦しみから抜け出られるのか、マインドフルネスを専門にしてる先生方の言い回しなんですけど、心の中に回路ができる。つまり、反応のパターンが新しく作られると。つまり、今の一瞬一瞬をきちんと受け止めるっていうことを練習としてやっていると、それが習い性になって日常生活の中でも生かされるようになってくると。何かあって第一の矢を受けても、その第一の矢を受け止めるだけで、第二の矢を起こさないようにですね、心の中に回路ができてくるんだと。で、こういうやり方をしています。
為:トレーニング可能だということですね。
蓑:そうですねはい。瞑想もですね、色々と指導してもらっていたバングラデシュのお坊さんがいるんですけど、その方と一緒に調査旅行で韓国に行ったことがあるんです。
その時にですね、空港で大きなカートを荷物を乗せて歩いてたんですけども、急いでる人がいまして、その人がカートをお坊さんの足にぶつけてしまったんです。で、足の親指の爪が剥がれるというかなり大きなある意味で事故だと思うんですけど、それが起きた時にそのお坊さんがどういう反応したかっていうとですね。とにかく、あの痛いということに気づくようにして、 最初はちょっとわおっていう感じで声を上げましたけれども、もう冷静にですね、痛みだけのちゃんと気づいて、それでそのぶつかってきた人に対しても、こういう状況ですので、ちょっと一緒にあのこの中の病院まで一緒に来てくださいと ていうような感じで対応をしてました。
それを見た時に、ああ、やっぱりきちんと修行していると、かなり大きなことでも、やっぱり実際に起きて受け止めている最初の段階できちんと受け止めて、 第二第三の矢を起こさないように、心が整ってきてるんだなっていうのを実感したことがあります。
為:気づくだけでいいっていうと、なんか気づいて解決ついしなきゃいけないみたいな気分なんですよ。ただ気づきさすれば、苦しみが消えるんだっていうところは?
蓑:きちんと注意を振り向けてしっかりと把握するっていうのはまず大事なんですけども、把握した後、それを手放していくっていうのも大事な点なんです。それにこう執着してしまうっていうのが起きてくると、これはまた問題になりますので、気づいたらまあまりそういうこともありねっていう感じで手放していけるようになればいいんです。
私達の心は様々な働きを起こす力を持ってるんだと思いますので、色々な感情を起こすんだと思うんです。それは起きても、まあ仕方がないという部分も多分あると思いますので、 起きてもそれに支配されないっていうのが大事なんだと思うんです。
中:例えば、その怒りや苦しみや不安は手放していいと思うんですけど、喜びですとか、もうちょっとどうしようかなって思った時、この第二の矢をこう喜ばしくはじけさせるみたいな、そういうこともありなんでしょうか。
為:第一の矢でね、受けた時に誕生日ケーキよと言われて、ちょっと待ってって、なんかちょっとあんまりね、あげたくなくなっちゃう。それはやっぱり素直にねと思いますけど、そこをどうするかというと。
蓑:極端にならないっていうことが、やっぱり大事な点として主張されていまして、仏教では「中道」とかですね言い方されるんですけども、真ん中あたりっていうんでしょうか、両極端に偏らないと、 次から次へともっともっととかですね、喜びをずっと持続せよというような感じで考えるのは、これはまた執着にきます。で、そこは避けていきましょう、という感じですね。
中:喜びすぎもよくないと。
蓑:よくないと、はい。
為:確かにあまり貪っちゃいけないと。
蓑:よくないですね。喜びをもっとっていう風に考えるのは、やはりあの、
為:まあそれもそれでコントロールされてるということなんですね。
蓑:そうですね、、はい、
為:じゃあ瞑想で気づきを得て、「止」と「観」を手に入れていくと、第一の矢が来た時に、とにかくそこでふっと気が付いて、第二の矢が来て怒りとかがあったとすると、それはすっと流していって、でも喜びだったとすると、そのまま素直にみたいな流していだけど、あんまりこれ流してったら、それにあれしちゃうんで、おっと、これはちょっと数が多いぞっていうのはまた流していきっていう、なんかこう1回チェックポイントっていうか、1回ちょっと間を置いて、その後に自分がどうするかを判断するみたいな、そんな機能を手に入れるために瞑想で、なんか鍛えてくみたい、そんな感じなんですね。
中:為末さんやっぱりこうアスリートとしては、もっと早くもっとこのタイムを短くっていう世界でずっとやってこられましたよね、もっともっとの世界じゃなかったですか。
為:いや、もっともっとの世界でしたし、ただ目標はね、どんどん上なんですけど、ただ今伺って思ったのはそのだんだんトレーニングが、質が高められるんですね。体、技術も高くなって。そうすると、 こっから先を超えると怪我をする確率がすごい高くなって、こっちの手前だと練習不足なんです。で、ここのギリギリをどう行くかってのが最後の方はとっても悩ましくて、 10本行くと壊れたことが多いな、怪我したのとか、でも5本じゃ練習不足だな、何本は適切なんだろうっていうのをずっと見極めるんですけど、そういう時に横でライバルが走ってるからってむきになって、走って怪我したことがたくさんあったりとか。あとは不安になって、怪我の治りかけの時に練習しちゃって、またやっちゃうってことがよくあって。
今日でもお話聞いて、やっぱりなんか一旦待って、なんていうのかな自分の感じてることとかをよく見ながら、その瞬間のその時の欲望っていうか、焦りとか、不安で動かないっていう、なんかそういうお話、そういう点ではとっても大事なとこですね、もっともっとストップするっていうのは。
蓑:そのもっともっとをストップするという意味では、本当に苦しみだけではなくて、その楽しみの方面も、実は問題を持っているっていうのをちゃんと見つめていますので、そういう意味では、両方共にあの離れていくっていうのが1番の理想として、本来は捉られていたんだと思います。
中:今日はブッダの悟りに到達した瞑想を見てきました。苦しみは自分の心から生まれてくるんだってことがわかりましたね、いかがでしたか。
為:いやもう心の中にあったことの解説書みたいな気分でした。説明書があってこういう風に説明、なんとなくちょっと思ったり、やったりしたことが競技の経験からあったんですけど、そういう説明書をもらって、こういう風になってますよっていう順番とか、整理をしてもらった気がして、それがすごくとってもなんていうのかな論理的な科学のなんか、イメージは強かったんですけど、そういう人だったのかなっていう風に今日思いました。
中:先生は、この今の世の中にこそブッダの教えを広めたい、そんな思いでいらっしゃいますか、いかがでしょうか。
蓑:私達人間のことについて、非常に深く洞察をされた方がブッダであって、 で、そしてそれがあの私達の現代でも通用する悩み、苦しみを超える道であるというのをですね、やはり多くの人達に知ってもらて、ただ知ってもらうだけではなくて、実際に実践してもらって、悩み苦しみから解放されていくことを念願しています。
中:次回はブッダの行った心身の観察がその後弟子達にどのように伝えられ、広まっていったのかを見てまいります、どうぞお楽しみに。お二方どうもありがとうございました。