eraoftheheart

NHK「こころの時代〜宗教・人生〜」の文字起こしです

2022/10/9 シリーズ 「問われる宗教と"カルト"」前編 “カルト”問題の根源をさぐる

島薗進宗教学者
小原克博:牧師、宗教学者
櫻井義秀:宗教学者
若松英輔:批評家、随筆家
川島堅二:牧師、宗教学者
釈徹宗:僧侶、宗教学者

ナレーター(以下「ナ」という):宗教問題を最前線で考えてきた研究者、宗教者6人が集結した。”旧統一教会”問題から宗教と”カルト”の本質を徹底討論する。

島薗(以下「島」という):「問われる宗教と"カルト"」というテーマで話し合いをしたいと思っております。
 7月8日に安部元首相の殺害という事件が起こりましてね、宗教に多くの人が改めて関心を持つという事態になりました。今日は統一教会問題とこういうふうにいいましょうか、犯人がそういうことで苦しんできた人だったということから、なぜそういうことが起こっているのかということ。で、それはそもそも宗教とは何か、日本人にとって宗教は何か、あるいは現代人にとって宗教は何かと。あるいはまた、政治と宗教というのはどういう関係なのかと。まあこういうことに問いが広がっていると思います。そういうことについて話し合っていこうとそういうことでございます。

小原(以下「小」という):本日前編ですね、司会進行させて頂きます私小原克博と申します。ではあの、櫻井さん早速よろしくお願いいたします。

櫻井(以下「櫻」という):はい。私がですね統一教会に最初に触れたというのは1987年、35年前に遡ります。その時札幌市にですね社会病理研究会というのがありまして、そこで私霊感商法を担当したんですよね。それで弁護士会とか消費者センターに行きまして、そこで1981年に北炭夕張でですね、大事故があるんですけれどもその時ご主人を亡くされた女性がですね、1,000万円の弔慰金もらったんですが、それが霊感商品を買ってですね、全て無くしてしまったというケース初めて見ましてですね、それ以来霊感商法統一教会の問題というのはやっております。

若松(以下「若」という):今あの、私達は確かに宗教とカルトという問題をよく考えてみなきゃならないとこにいるんだと思うんですけども、宗教とカルトがまさにこう似て非なるものだってこと、やっぱ僕改めて考えたいなと思ってるんですね。似て非なるものっていうのは、外見上もしかしたら同じように見えるかもしれないけどもその本質を異にするっていうことですよね。
 私が今少し残念に思っているのは、宗教者、あるいは信仰者達がですね、自分達のありようということを自分達の言葉でもう少し語っていい、語らなければならない、むしろ。で、それは自分達の本当の使命というのが一体何で、どういう形で世の中とつながっていきたいのかということをですね肉声で語るべき時に来ているんじゃないかと思って、そんなこともちょっと皆さんと今日考えてみたいなというふうに思ってます。

川島(以下「川」という):最近ここ5年ぐらいは宗教2世、あるいはカルト2世の問題が実は私顧問を務めております日本脱カルト教会でもずっとテーマになってきました。それはある必然性が多分あって、日本でカルトが70年代、80年代盛んに布教を始めていく、その頃に大学生、若い人で信者になった者達が結婚して子供ができてその子供達の問題というのがその20年の経過の中でですね浮上してきたということだと理解しています。そういう観点で見るとこの度の事件というのはその問題が1つの臨界点に達したと。

釈:私が旧統一教会の問題について詳しく知るようになったのは、皆さんに比べると近年でして、6年ほど前に霊感商法対策弁護士連絡会とご縁ができて、いろいろ教えて頂くようになったんですが、もうその時から今回の痛ましい事件へとつながるような政治家と教会との関係っていうのは随分議論をされておりました。
 これまでもオウム真理教事件や9.11のテロ事件など何度か宗教がバーっとこう論じられる機会はあったんですがいずれもスキャンダラスなトピックスに終始してしまって、深く宗教を考える、これからの社会と宗教の在り方を考えるというところまでいかなかったんじゃないかと思いますと今回宗教について改めてしっかりと考える機会になればそんなふうに考えています。

小:今日はですね、これから早速宗教とカルトの問題に入っていくんですけども、同時にやっぱり私が関心を持ってきたのは宗教と政治とか宗教と国家の問題なんですね。で、これはあの私達は戦後社会に生きてますから戦前のことは終わったというふうにこう感じがちですけども、戦前のなんか政教一致祭政一致体制から戦後の政教分離へみたいなですね、そういうことを論じがちなんですけども、私自身はそれほど大きな断絶はないと思ってます。むしろいろんなものが連続して今に至ってるということを考えると国家の中にある宗教性みたいなもの、今回で言えば国葬などを通じてですね、深く考えることもできますのでいろんなテーマですね皆さんと一緒にこう議論していきたいというふうに思います。
 では最初ですけども、出だしの議論といたしましてはカルトとは何なのかということについて共に考えていきたいと思いますが、そのために問題提起をですね川島さんの方からして頂きたいというふうに思っています。

川:私が大学に教員として宗教学、キリスト教学担当の教員として職を得た年が1994年でした。ご承知のように1995年の3月からオウム真理教地下鉄サリン事件が起こり非常に衝撃を受けまして特にそれまではキリスト教思想の、一応自分の専門領域は近代におけるキリスト教の思想でしたけれども、大学で宗教学を教えていく限りこの問題は避けて通れないだろうということで当時専門家、それからカルトの被害者、脱会者等々でオウムの問題を総合的、いろんな立場から考えようということで結成された日本脱カルト教会にその時から参加してこの問題を考えてきたということになります。
 そういうカルトですけれども学生達にどういう仕方でアプローチするかそれもいろいろ変わっていきます。初期の70年代、80年代は統一教会が路上で「手相を勉強している者ですが」と言って手当たり次第に声をかけていくというのが主でしたけれども、コロナ禍以降はSNSを非常に巧みに利用していますね。いわゆる大学生達が利用する非常に良質な出会い系のそういうSNSがあります。有料でそこでいろんな外国人達と知り合ってネイティブの英語なり韓国語なり中国語がこう対話、使う機会を提供できるようなそういうところにカルトの布教者達が紛れ込んでいて巧みに自分達の集まりに誘導するというようなことです。そういうのが一応私が見てきたカルトですけども、一応ここではカルトとは何かという私なりの理解を提示しろということですので。
 カルトという言葉は非常に広い意味があります。一番一般的な意味は代表的な国語辞典、日本の国語辞典などがとっている、まずマイノリティーの集団であるということと、熱狂的な崇拝行為などを実践しているというその2点で大体定義してると思います。
 しかし、それイコールカルトだとすると別に対策を取る必要もない、大学などでカルト対策という時にはそれにプラスアルファして、やはりそこに関わってしまうと違法行為に巻き込まれる、あるいは人権侵害的な行為に知らずして最初は被害者ですよね、勧誘されるわけで被害者ですけども、時を置かずして今度はそれに加担する側に変わっていくので加害者になっていくと。そういう意味でマイノリティー集団で熱狂的な崇拝行為をするような団体で、しかし、そこに関わってしまうと違法行為、反社会的な行為に巻き込まれて非常な不利益を自分も被るし、また社会や人々に対しても被らせてしまうような団体、それを一応私の中ではカルトというふうに考えて、活動してきているということでございます。

小:ではあの特にですね、統一教会に関して恐らく詳細な調査をされ、またその実態もご存じの櫻井さんの方から統一教会に関わる問題を中心にカルトとは何なのかっていうことに少し迫って頂けますか。

櫻:川島さんの方からですね、非常に社会問題性のある集団という形でカルトの定義がなされたと思うんですよね。その中には正体を隠した勧誘であるとかあるいは違法な商品販売とか献金強要とかこういう問題が含まれる。その点では統一教会のカルト性というのは歴然としてるんですけども、この押さえ方だけではですね私、統一教会を認識するにはちょっと不足があるんじゃないかなというふうに思ってるんですね。統一教会の規模感から言いますと、日本だけで5万人から6万人の信者がいて、世界全体を含めればですね、相当数の信者さんがおられますし、教団自体がですね一種のコングロマリット敵な経済団体であるとか政治的なロビイング活動をする団体とか複合してまして、ちょっとそのカルトという収め方にですねストンと落ちないんじゃないのかというふうに私は思うんですね。
 しかもその政治に関わる何ていうんですかね、動機付けが他のカルト視される集団より極めて強いわけでして、その政治家の庇護を得ながら守られて成長したいと、こういうことが歴然としていますし、しかも70年くらいのですね、日本における定着の歴史があるのでこれを捉えるためには政治と宗教の関わりであるとかですねこういった側面も含めて見ていかなければいけないんじゃないのかなというふうに私は思っております。

島:宗教学とか宗教社会学を研究している人、あるいは恐らく法学の立場からもですね、カルトの定義は非常に難しいということなんで、学術用語としてはちょっと使えないというのが我々の考えですね。
 何がカルトかということの定義は非常に難しいんだけれども、しかし今、社会が懸念していることに関わって言えることは、非常に閉鎖的で、それから排外的、敵を見つける、敵への対立観が非常に強くある。そして、ひきこもるんじゃなくて攻撃的に外に向かって打って出るという側面があると。
 そういう団体はですね、大体コンフリクトを激しく起こすので社会の様々な抑制が働く場合が多い、統一教会の場合はその点が非常に特殊ですね。つまり、非常に攻撃的に社会に関わったにもかかわらず、抑制がきかなかった。これは政治的な庇護を受けたことが非常に大きいですね。

小:カルトとは何かということをですね今問うてるんですけども、恐らくそれは同時に宗教とは何かということへの問いへとかえっていくと思います。
 若松さんにお尋ねしたいんですけど最初の冒頭でのご発言の中で宗教とカルトは似て非なるものだということをですね、おっしゃって下さいましたけどその点についてもう少し説明して下さいますか。

若:私はカトリックのクリスチャンで、生まれて90日で洗礼を受けてますので母親のおなかにいる頃から教会に行ってたってそういう人間なんですけどね。
 私達が今考えてみなければならないのは、似て非なるものだということはですね、宗教というものは一歩間違えればカルトになるってことですよね、そのことはよく考えてみなければならなくて、なぜじゃあそこに何がそこに歯止めをするのかということと、絶対超えてはならない壁って何なんだっていうことを考えなくちゃならない。ですんで私はですね、大きく3つあると思ってるんですけど。
 1つは恐怖ですよね。恐怖によって人を縛りつけようとするもの。これが世の中で、これはまっとうな宗教だというふうに思われている、ところが仮にですよ、それをやったとしたら僕はそれはカルトなんだと思うんですよ。看板は関係ないんですよ。恐怖によって人を縛りつけてしまったらもうそれは宗教と呼ぶに値しない。
 後もう1つは搾取ですよね。搾取というのは、今問題になってるのは、持たざる者からその人が生活を破綻するまで何かを搾取するということですよね。搾取というところには本当の意味での自由がないんだと思うんですよ。
 後もう1つはどう言ったらいいんでしょうかね、言葉で言えば拘束なんですけども、宗教が本当に宗教であるということであれば、出入りは自由だと思うんです、出入りが自由だと。そこに属している、属していないということが本当に自由に行われる。
 ですので、人生の中で、ある時期はとても熱心にある宗教活動をしてたけど、しなくなるということが何ら問題にならない。宗教というのはその扉に鍵がかかってないはずなんです。もし何らかの宗教が内側から鍵をしめるようなことがあったらそれはもう宗教と呼ぶに値しない。
 だからその、私達は今この時代にカルトとは何かということを考えていくのはとても大事な問題なんですけど、宗教が知らず知らずのうちにですね、恐怖と搾取と拘束というのをしていないかってこともやっぱりもう一度考えてみたい。私達がそれの中の1つでももし自分の中に触れるようなことがあったらどんなに歴史的な看板がそこにあったとしても私達はやっぱり一度距離を保つべきだというふうに思うんですよね。

小:今カルトの問題を扱っていますけど、確かに伝統宗教もややもするとカルト化していくといいますか、恐怖を武器に人を集めたりお金を集めたりということっていうのはやっぱりこれまでもありましたよね。
 私はプロテスタントの信者なんですけども、アメリカのプロテスタントの場合には終末意識を非常に、終末的な恐怖を駆り立てて熱狂を生み出したりとかお金を集めたりというようなことというのはやっぱり後を絶たないんですよね。
 もっと緩い意味では例えば、地獄の恐ろしさ恐ろしさなんていうことを描いて、これはキリスト教なんかもしますし、仏教もするかもしれませんけども、もしあなた達が今なになにしないとこんなとこに行くんだよみたいなですね、やはりその恐怖を利用してきたという歴史もありますから、これ程度問題もあるのかもしれませんけど、やっぱりそこに対して私達慎重である必要がありますよね。

釈:統一教会というのはかなり悪質で大きな問題を抱えてるというふうに言わざるをえないと思います。またやはり各宗教集団、どれほどこう対話可能かっていうところはやっぱり大きいと思うんですよ。宗教間対話成り立つかどうかっていうのだってそもそも1つの目安になりうると思うんですよね。
 絵画の手法で近景、中景、遠景っていうのがあるそうなんですよ。近くのものを描く時は近景、遠くのものを描く時は遠景、その間の中景というような概念があるらしくて、それを少し宗教の構図に当てはめてみますと、私の問題とか家族の問題っていうのは近景。遠景に聖なる領域というものを設定するとする。もちろんその聖なるものと私とが直結するのが宗教体験の問題になるんですが、構図で言いますと遠景に聖なるもの、その中景に例えば文化であるとか地域コミュニティーであるとかさまざまなものがこうある、そのバランスみたいなものは宗教にとってはすごく考えなきゃいけない大事なとこだと思うんですよ。
 カルトとか原理主義というのはすごく中景が瘦せてて、私と聖なる領域というか究極の問題、究極の言説とがもう直結してしまう。日常がすごく軽視されて、中景が瘦せてるみたいなところがあるんじゃないかと思うんですが、中景がある程度分厚くないとね、宗教間対話って成り立たないんですよね。それぞれが自分の究極のところだけ主張したら決して折り合わないのが宗教というところがありますので、その辺りも1つ被害者の会があるかたくさんの訴訟を抱えてるか以外に宗教間対話が可能かどうか、中景を大切にしてるかどうかその辺りも1つ問題のあるカルト集団の見極め方っていうんでしょうか、見どころじゃないかというふうに思います。

小:そうですね、釈さん言われたようにカルトということと比較的隣接する言葉としては、原理主義という言葉がやっぱりあると思うんですよね。そしてそれは自分達の教義を半ば絶対化して他をもうあまり見なくなってしまう。つまり、中景をどんどん欠いていくわけですよね。ですからそれは恐らく多くの、もう本当に宗教の何ていうか伝統にかかわらずですね、あちこちに見ることができるとは思います。

川:若松さんが言われたことをちょっと取っ掛かりとしてちょっと考えるところがあるんでよろしいですかね。
 今やっぱり宗教とカルトの違いとかカルトとは何かということなので、若松さんいくつか3つくらい論点挙げて、その内最後に拘束ということを挙げられましたね、本来の宗教とは自由があると。
 しかしこれ中々宗教の側からも自由って結構カトリックの信者さんであるということでその辺り体感的に分かって頂けると思うんで、私も4代目のプロテスタントキリスト教徒でありまして毎週日曜日には礼拝に行くと。そうすると自由といってもやっぱり他の教会行くっていうのはすごく難しい雰囲気があるんですよ。やっぱりこの教会に帰属したらそこで忠実に一生信仰生活をすべきだと。その通常の教会でもかなりそういう拘束っていうんでしょうかねあると思うし、それが結局強度的に強くなっていくとやっぱり閉鎖的なカルトになると。やはり今本当に宗教が変わらなければならない。カルト化しないために大きく変わる時期が来ていると思っていてそこがまさにその点。
 つまり、帰属をもうここだけというふうにするのではなくて、いや今週はここだけどもこっちもとかね、そういう自由さっていうのはそういう意味とはちょっと違う感じでしょうか、若松さんのおっしゃる。

若:今のそういうことも現象的には起こるのかもしれないんですけども、人っていうのは信仰を守り続ける、一生守り続けるというのは中々難しい。ですので、いやちょっと自分は今信仰生活あるいは宗教というものから離れてみたいと思うことがあってもいいんだと思うんですよね。そのt気に宗教側から、いやそういうことをしてはならないというふうにもう一回引っ張り返すようなことをやはりすべきではない。何ていうんでしょうか、その人が離れていたとしてもその人のために祈るのが宗教だと思うんですよ。ですので、あなたが離れようとしてるのはそれは良くないことだから、あなたはここにとどまりなさいということをやはりしてはならない。
 やっぱり歴史的にはそういうことをやってきたというのはもちろん僕は理解してるつもりなんですけども、人は信じる自由だけじゃなくて、やっぱり迷う自由があると思うんですよね。その人の迷いってものまで奪ってしまうというのが僕はやっぱりとても恐ろしい。
 だから人は立ち止まり迷い、そして何かを探求するってことが信じることによって失われていくんだとしたら僕は何か残念なような気がするんですよね。

川:あれでしょうかね、そういう「ちょっと休みたいんだけど」とか「いやそれはサタンの声だよ」というともうカルトですか。

若:僕はそうだと思います。というのは、その人に宗教の側というのはどれだけの恐怖というものを相手に与えるのかを考えることなく発言するべきではないと思うんですよ。相手の心に刃を突きつけるようなことは絶対にしてはならない。
 むしろその人が離れたいと思って思ってることに寄り添わなきゃ駄目だと思うんですよ。そこに判断をするのではなくて、なぜその人が今離れなければならないのかってことを共に考えるってことなくですよ。そこにある判断がとても強い判断があったとしたら、それはやっぱりその人にとっては恐怖しか残らないように私には思えますけどね。

小:かなり本質的なところまで議論が及んだと思うんですけど、迷う機会が与えられてるかどうかということは1つやっぱり基準になると思うんですよね。
 ですから、信じることと迷うこと、信じることと疑うこと、こういったことがやっぱりバランスよく保たれてるかどうかというのが大事かなとは思うんですね。ただ、その迷うチャンスも与えられない。そして自由も与えられない、あるいはそういったことを疑ったり迷ったりすると先程言われたように、まさにそれはサタンの囁きだみたいなね。これまさに統一教会であらわれていたことだと思います。

釈:もともとコントロールを目的にもう近づいてくるわけですから、ある意味宗教の力を利用してるといいますか、宗教って大変力が強いので日常なんかあっさり潰されてしまいますよね。それを利用してコントロールするのが目的っていうようなそういうことになってきますよね。
 本来宗教というのはそういう毒とか棘を持ってるんですが、社会とせめぎ合いながら教義とか教学によって様々なリミッターやストッパーを設定しながら成熟してくるんですけども、そういうものを意図的に設定せずに聖なる力を利用して日常を潰すっていうことの残虐さといいますか、悪質さみたいなものを感じますよね。

小:そうですね。社会とのせめぎ合いというのはね人間がこの理解を深めたり成熟していくうえでは非常にやっぱり大事だと思うんですけど、そこの点をですね角度を変えて深めていきたと思うんですが、社会体制と宗教の関係についてですね、若松さんの方から少し問題提起を頂きたいと思います。

若:反体制という言葉が宗教を近年考える時にいろいろ発言いろんな角度で発言されると思うんですけど、宗教が反体制的であるということはもしかしたらその根源からして、あるいは私はキリスト者なので、イエスは必ずしもというか、大変反体制だったと行ってもいいくらいです。ただ、反体制ということと反社会ということは全然違うんだということです。
 むしろ今回の問題は宗教が体制側に入り込んだとこに大きな問題があるわけですね。ですので、宗教が反体制的であるということはその宗教の真偽を問う時に私達はとても信用に判断しなければならない。
 例えば宗教と政治というのが結び付いて反体制的な運動を起こした最も近年で大きな出来事それはインドの独立だと思うんですよ。インドの独立マハトマ・ガンディーが人々を率いた大変反体制的な動きだった。だけどもああいうふうに開かれた非暴力によってインドの独立を実現するということがあった。だから私達は反体制ということが必ずしも非人間的とか非社会的であるということとは違うんだってことを論議の前提にしないと体制的なものが良いことだというふうになってしまうととても恐ろしいことになる。
 ですので例えば、1993年以降のナチス・ドイツの蛮行、ああいうものはあれが体制だったわけですよね。あそこに非体制であるということはとても重要なことだった。そこにもちろん立ち上がったボンヘッファーのような人もいた。
 ですので私達は非体制イコール悪だというのではなくてそこにもっと繊細な視座と考えというのがやっぱりなくてはならないんだと思うんですね。で、反体制と言う時にじゃあその人達は何を守っているのかということだと思うんです。そして、宗教が自分達の利益を守るということになってしまうと少し問題がやはり出てくる。やはりその人間の尊さ、あるいは人間のつながり人間が存在する意味というものをどうしても守りたいということであれば宗教が反体制になって立ち上がるということはある。
 だけども自分達の考え、自分達の利益というものを獲得するために何か闘おうとするということは全く別なんだと思うんですね。

小:あのその点で言うとですね、キリスト教は恐らく反体制的な状況の中から生まれてきましたし、イエスはそれゆえに十字架にかけられたというところがやっぱりありますよね。まさに社会とかのせめぎ合いなんですけども、どうですか釈さん先程の発言から今のような議論が生まれてきたんですけども。

釈:反体制と反社会の区別っていうのはなるほど必要だと思います。またですね、宗教にはそもそも社会とは別の価値体系があって、だからこそ人は救われるっていう面があります。宗教には今泣いてるものこそが幸せである、今苦しんでるものこそ幸せである、悪人こそが救われる、死ぬ際には死ぬがよろしく候というような、やっぱり世間的な価値とは別のものを提示できるからこそ宗教の存在意義があるんですが。それは言ってみれば脱社会というか非社会というそういう方向性のことですよね。しかも究極のところで先程の話で言うと遠景の部分、究極のところがあるんですが、それと反社会っていうのもこれ区別すべきところかなというふうに思います。社会とは別の価値を持ってるからこそ宗教には様々な棘も毒もある。伝統教団というのはそうやって社会とせめぎ合っているのでもう棘が取れちゃって社会と共に存在してる状態ではあるんですが、ただ社会とこの棘との接点のところに文化も生まれ、アートも生まれ音楽も生まれるっていうそういう面があるというふうに思うんですよね。

小:伝統教団からね棘が取れてるというのは面白い表現だと思うんですけども、ちょっと取れすぎてそれで伝統教団に物足りなさを感じて、若い人はもっと刺激のあるカルトに

釈:そういうことだと思います。本来の宗教、本来が持ってる魅力っていうものがやっぱり減ってきて、さっきの図式で言えば遠景がもう霞んじゃって、中景ばかりが分厚くなってるっていうそういうところもあるかと思います。

島:オウム真理教もそうなんですがね、統一教会もある種鮮烈なイメージを持って出てきたというか、なので高学歴層が惹かれたんですね。統一教会も初期は高学歴層をターゲットにしてたんですね。それはある種反体制とすごく結び付いていたと思いますね。なので既成宗教にはないもの、日常のさっきの中景的なものでしょうかね、になじんでいない。しっかりとんがってるものはとんがってると、こういうところがある種の人達には非常に魅力的に感じられたと。そのことはちょっと忘れてはいけないことだと思いますね。

小:実際その統一教会、旧統一教会がしてきたことというのは、単に社会というより社会一般というよりかはですね、政治体制、既存の政治体制の中に深くこう食い込んできたっていうことが今や問題になっています。そこには恐らく価値を共有するという部分があったからそうなったと思うんですけども、その政治体制への食い込みという点で、櫻井さん

櫻:統一教会はですね、1950年代に韓国で生まれてるわけなんですけども、朴正煕(パクチョンヒ)政権の下でですね反共運動をやるという先兵、フロント団体としてですね庇護を受けながら成長できてきたってことなんですね。
 当時その韓国ではいろんなスキャンダラスな事件などもあったりしてですねキリスト教新宗教としては鳴かず飛ばず、そういう団体だったんです。ところがその政権の庇護を受けてですね一定程度勢力を拡張して、それから日本に来てですね、岸信介さんとか笹川良一さんとかですねそういった方々との関係も利用しつつですね、自民党政権、清和会などこういったその中にですね深く沈潜してきたわけなんですね。ですからその意味では、反共運動、国際勝共連合なんかが担っていたとこはですね、非常に体制内運動なんです。
 しかし、その反体制的なところがなかったのかというと、1960年代はですね、キャンパスにはですね新左翼であるとかマルクス主義的な考え方これがあって、この2つがですね体制だったわけです。それに対して統一教会はですね、キリスト教を統一する、神主権という新しい思想をですねこれを主張してたわけなんですね。それで一部の学生達が入っていった政治運動であり、思想運動だったんです。
 だからそういう意味では統一教会っていうのは、体制に沈潜する側面もあり、反体制的な面も示し、そしてまた様々な面を持ちながらですね現在に至ってるっていう、その意味でですね簡単に捉えることのできない宗教団体だなっていうふうに私は思ってるんですね。

釈:例えば、保守政治家の人達なんかは旧統一教会がやってるという、反日的な教義っていうのはどういうふうに考えてるんですか。

櫻:そこは見てないと思います。
 勝共連合の方もですね女性連合とか平和連合いろいろありますけども、自民党の保守的な考え方ですね、家族が大事であるとか、あるいは青少年の健全育成であるとかそこだけを見てですね、いわばその考え方がですね、重なってるというふうに思うわけですよ。
 しかし、その先は青少年の健全育成といっても結婚するまでは婚前交渉含めてですね、恋愛も禁止するとかですね非常に極端な主張をしてるんですけどもそこを見てない。これは私非常におかしいんじゃないかというふうに思ってます。

小:もともとはですね政治体制の食い込みというのは勝共連合を中心とする反共というところで一致する点があったからですよね。ところが冷戦の終焉、ソ連の解体ということを経て日本社会の中では反共という勢いというのは大分収まってきたと思うんですよ。
 つまり、冷戦以降の日本社会の中で特にその保守派の議員がなお統一教会との関係を非常に魅力的に考えた理由というのは、どこありますか、単に反共だけではなくって。

櫻:国際勝共連合のですね政治家への働きかけっていうのは、もうこれは70年代、80年代ず~っと一貫してるわけですね。
 しかし、政治家にとって統一教会がですね非常に魅力的になったというのは、1つは選挙での協力、無償のボランティアを派遣するであるとかですねいろんなビラ配りとか電話かけとかですねやってくれる人を確保できるとか、あるいは組織票の問題もあるんですけども、結局2000年代に入って日本の政治がですねどんどん安定した社会を求めていってそれぞれの政党が組織票を重視しますね。そういった中で統一教会というのは5万人か6万人なんですけども、これは地方議会においてはですね結構大きな意味を持ってます。そんな形でですね地方の議会、自治体あるいは国政にですね食い込める余地が出てきたんじゃないかと思うんですね。その意味で統一教会と政治との関係っていうのはですね、やはりこの20年代の日本の政治の動きと関連させて見なければいけないんじゃないかなというふうに私は思っております。

小:現代の日本社会の問題だけじゃなくって、先程棘が抜けてしまった伝統宗教の話もいたしましたけども、現代の宗教そのものがひょっとしたら歪んでいるかもしれない、そのように捉えることもできます。島薗さんの方から現代宗教の歪みち日本ということですね、特に宗教右派なども絡めながらまず問題提起して頂きたいと思います。

島:統一教会でこんなに酷いことが行われていたかということが見えてきて、みんな驚いていると。もうこの2ヶ月間そういうニュースをたくさん見てきたと思うんですが、その一つに嘘というかですね、さっきの恐怖、脅し、搾取と共にですね、嘘というのがあると思うんですね。これは例えば壺を売るというのもね、途方もない値段をつけたらこれが効果があったということで、これ宗教ですか、本当に嘘ですよね。
 しかしですね、考えてみるとですねなんでそんな、そういう宗教はかつてあったでしょうかということなんですけども、これはある意味で現代社会の病理を映し出しているような相手が気付かないならこちらの利益を通してしまっていいというような、そういう発想が宗教の中に入ってしまった。これは現代社会の病理を組み込んでしまっているというふうに言えるかもしれません。
 もう1つはですね、先程の保守的なモラル、これは反共産主義もそうですね、伝統的な家族同士の愛、近隣社会の隣人愛、そういうものが尊ばれる社会がどんどん崩れていく。それに対して何とかモラルを回復すると。トランプ大統領もですね統一教会に温かいメッセージを送ったんですかね、どのぐらいのお金が動いてるんだろうというふうに我々見てしまうんですが。
 しかし、トランプを支持してるグループ、議会に突っ込んだりする人達もいましたが、あの中にはかなりのキリスト教の右派、宗教右翼と言ったりもしますけどもそういうグループが関わってる。トランプ支持のグループのかなりの要素は宗教右派ですね。この人達は今の社会体制そのものに反対しながらですね、選挙の時には非常に強いと、それはまた権威主義であるといいますかね、民主主義的な社会体制そのものにあまり好意を持っていない。そういう人達をそういう専制的な手法を持つ政治家ですね、そういう政治家がこう近寄せると、こういうことが世界中に起こってるんじゃないかなという気がするんですね。プーチン大統領も宗教を非常に利用してるんですね。そういうことが大いに気になります。そういう側面から統一教会を捉える。これはカルトというと日本がすごく変わってるんじゃないかということなんですけども、同じようなことが世界にも起こっていて、そういう視野からですね統一教会問題、これは政治と宗教の好ましくない関係ということにもなるんですが、そういうところから見ることもできるかもしれないと思います。

小:アメリカとの、アメリカのですね統一教会との繋がり、これも日本で時々報道されていますけども、共和党との関係というのは非常に強いってことが言われています、歴代の大統領との関係であるとかですね。そしてそこでも当然接点がありまして、1つはやはりアメリカの中でどんどん失われていってるような伝統的なこのモラル、特に家族観ですよね。そういったことを一緒に立て直してくれるような頼もしき仲間としてですね、統一教会共和党の議員に受け入れられてきたという経緯があるかと思います。
 ですから、そういうこの価値が大きく変わってくる時代の中でその伝統的な価値観を守り抜きたいというような気持ちというのは恐らくどの世界にも多分起こり得るということですよね。
 ですから、その動機付け自体は私は決して間違ってないと思うんですけども、それがこうやり方を間違った時にまさにこの病理がですね、現象化していってるのではないかというふうに思いました。
 釈さんどうでしょうか。今もそのグローバルな視点でですね宗教それぞれが何らかの危うさを抱えてるというような話をしてきたんですけど、釈さんの視点から何か発言できることあれば。

釈:日本の場合で言うと、1つは戦後の宗教への認識の歪みみたいなものが1つあるかなと思います。GHQの主導でとにかく国家神道対策っていうのが強力に進められた結果、政治や教育の場からかなり徹底して宗教的なものを排除すると。で本来、政教分離はガバメントアンドチャーチですので、政治と教会の問題だったのですが、宗教全般をこうよけるっていうようなことになって、これは当時担当していたウッダードもいくら何でも無茶じゃないかっていうような意見を当時発言したのを残しているくらいなんですが。かなり無理に宗教的なものを徹底してアレルギー的に排除した結果そのカウンターとして右派の宗教右派の人達が声をあげたっていうのがあると思いますね。
 いずれにしてもとにかく宗教というのは本当に取扱注意案件で畏敬の念を持っておつきあいしなければいけない。人間から生まれ、宗教は人間から生まれたものであるにも関わらず、人間の手を離れて自目的に動きだすともうコントロール不能といいますか。
 例えば宗教の暴力装置や差別装置が稼働し始めるともう止まらないんですよね。人間の力でどうにもならないっていうそういう危なさがありますので、だからこそ、こう飽くなき教義、教学の議論を重ねて宗教が内包している暴力性や差別性を稼働させないようなリミッターを設定し続けなきゃいけないわけですね。
 そういう意味では信仰の持つ加害者性、信仰はそもそも加害者性を持ってるというそこに立たねばならない。信仰は常に人を傷つける可能性がある。信仰というのは他のストーリーに生きてる人に対して大変無頓着になったり、無自覚になりがちですのでそこに常に立つ。

小:ご指摘の通り戦後の日本社会というのは戦前への反省からやっぱり出発してるという点がありますから、戦前ですね国家が宗教と過度に関係して、まさにその宗教国家として最後戦争に入っていったと。ですから戦後教育の中からは宗教教育が徹底して排除されたわけですよね。
 その点で言うと宗教リテラシーというものを戦後世代というのはほぼ全世代欠いてるわけですよ、もう何にも基本が分かっていない。なのでカルトにですね甘い誘惑の声をかけられても簡単にそこに引きずり込まれてれてしまうと。
 同時に今私達はですね、日本の国内の問題としてだけでなく、グローバルな課題としてこのことをやっぱ考えようとしてるんですが、若松さんにちょっとお尋ねしたいんですけど、カトリックというのはですねもうグローバル宗教の典型的なものだと思います、先程暴力装置ってことも出ましたけどね、カトリック教会がそのような役割を果たした時代もありましたし、しかしそのことを反省して今のカトリックがあるってことを考えるといろんなことを学べる気がするんですけど、何かその視点からご発言いただけますか。

若:ウクライナの戦争が起こってから今の教皇フランシスコは発言をとても強くしてるんですけど、その中でとても注目すべきだなと思ったのは、宗教が政治に利用されてはならないってことを言うわけですよね。
 で、僕はこれなんかとても重要なことを言っていて、宗教がどこか政治に利用されることを待っていたんじゃないかっていうのは、僕やっぱちょっと考えてみなきゃならない、とっても重要な問題としてあるんだと思うんですね。
 この近代日本の歴史においてもその政治と波長を同じくすることが自分達にとっての利益なんじゃないか、ですんでこれからの宗教というのが本当に宗教であるためには、いかに利用されないかってことをやっぱり宗教側としては真剣に考えていく必要がある。
 後もう1つは、大事だと思ったのは、今の島薗先生や釈先生のお話から見ますとね、やっぱりその利己的であることを是認するんだと思うんです、宗教が。利己的であることを是認してしまったらそれは自分だけが救われて、自分だけが救われるのにお金が必要だということになってくるわけですね。宗教が利己ということをもう一度深く捉え直してそこにどうやって我々が闘っていくことができるのかということをやっぱり考えないとこの問題解決しないと思うんですよね。
 後もう1つは、救いは決してお金で買えないということを宗教は本当に強く語るべきなんですよ、救いは絶対にお金じゃ買えない。なぜなら神はお金は要らないんですよ。神はお金が要らないから、宗教者が1円でも多く払った人が救いに近づくみんたいなこと、雰囲気がですよ、もし既存の宗教が持っるんだとしたら、それはやっぱり改めなきゃ駄目なんだと
思うんですね。
 そういう社会が私達が今こういう不幸な出来事を生んでるんだってことをやっぱ既存の宗教側も考えなきゃいけない。ですんで、神はお金は要らないんです。で、このことをやっぱり責任ある宗教者達が今この時期に僕は強く語るべきだというふうには思っているんですけどね。

小:そうですね、その点は非常に大事ですし、特にキリスト教の場合には聖書の中でね、神と富に使えることをできないという言葉があるように、それを峻別するってことの大事さが語られていながら、しかし残念ながら、後のキリスト教の歴史では中々そうもいかなかったということで非常に難しい課題であるとは思うんですよね。

若:結局宗教というものが救いを売買するって形になるわけですよね。そんなことはありえない。救いというものは売ってないわけなんですよ。売ったり買ったりできないもんだってことをとっても基本的なことなんですけど、そういうことをやっぱり宗教はどこか語らずにきた。
 で、例えば宗教施設にお金がかかるって、これは当たり前のことなんです。ですけどもそのこととその人個人の救いということは全く関係ないです。
 だから100万円出したら救いに近づくんじゃなくて、100万円を出す余裕がある人はそれはもしかしたら出してもいいのかもしれない、だけども1円も出すことのできない人からお金を搾り取るとかって絶対にならないですね、それは。

小:そのいわば反対の例を示してきたのが統一教会だと思うんですよね。で、櫻井さんにお聞きしたいんですけども、信仰とお金の関係、旧統一教会の中ではどういうふうな論理が育まれて、そのお金を際限なく追及していくというような論理が正当化されてきたのか。

櫻:青年信者の場合はですね、いろんな活動をしながら最終的には合同結婚式に参加して祝福を受けて子供を受けるというこういう救いが予定されてるわけですよね。
 既にもう結婚しちゃった人、子供がいる人はもう一回ってできないわけです、最近できるようにはなってるんですけども、お金のためにですね。この人たちは神様に対して自分の心にですね、忠誠を示すやり方としてもう献金しかないと、こういうふうに言われてるわけなんですね。
 ですからそこでその信仰がお金に転換されているわけなんですよ。若松さんのその言葉を借りれば、一種その対価的なサービスに変わってるんですね、宗教的な行為が。それを積極的に進めてるのが1つ統一教会なんですけども、しかしこれ、統一教会だけの問題じゃなくてですね、いろんな諸宗教にやはりあるし、それを見てですね、いろんな学者の方もですね、こういった宗教被害これを防ぐためにはですね、その消費者法の枠の中で宗教行為を対価的サービスというふうに認識すれば、いわばその価格の相当性ということが判断できるんじゃないのかというこういう議論をですね今構築しようとされてるんですね。
 しかし、献金とかお布施というのはですね対価的なサービスにではなくて、贈与的な側面がやっぱりあると思うんですね。それは自分に対して何かしてくれた人に直接お返しするのではなくて、かなり回り回った形で一般的にお返しをしたいという気持ちを表すという、そういう贈与的な側面があるんですけども、やっぱりこの対価とですねその贈与の違いということを、宗教者自身がですね、あまり説明してきていないということがですねいろんな混乱を生み出してる原因じゃないかと。その意味で宗教リテラシーという言葉なんですけど、これは市民の側だけの問題じゃなくてですね、宗教者の側にもですね私はあるんじゃないのかなというふうに思います。

小:その通りですね、今の献金、、、川島さんどうぞ。

川:いいですか一言。まさにつながるところだと思うんですけど、今お話しを伺っていてそういう宗教の持つ負の面というのは、その経典そのものにねある程度ルーツがある。それを解釈する宗教指導者のまさに宗教リテラシーの問題なんだけれども。
 例えばお金のことで言えば、聖書で罪という言葉が借金を表す言葉と言語では同義ですよね、ですから、その罪の償いにお金でっていうのは、非常に経典レベルでこう裏付けることができる。そこを直接つなげちゃいけないんだけれども、統一教会はそれを巧みに利用しています。
 それから、島薗さんが最初に嘘の問題を挙げましたよね。で、まさに統一教会ではついていい嘘と悪い嘘があるけれども、騙してでも献金をさせるのはこれはついていい嘘なんだと、その人はその時騙されたと思うかもしれないけど、やがて裁きの時にそれが功徳となって最悪の地獄に行くところだったのが少しいい地獄に入れるみたいなそういうロジックですよね。
 それはですから、彼らに嘘をついちゃ駄目だよと言っても、いやこれはもう救いのためには許される嘘なんだってもう教え込まれてるから通じないわけですよね。その問題を私ずっとこう考えてた時に、実はこれ釈さんのご専門かもしれない「法華経」の中にそういう教えがあるんですよね。
 大きな館の中にたくさんの人が住んでいて、ところがもう相当古びた館でもういつ崩れるか分からないどころかもう火の手が実は上がって、もう間もなく館が。
ところがそこに住み着いてる人達は居心地がいいものだから、もう危ないよ危ないよと言っても全然動こうとしないと。そこでその館から引き出すためにその人達が関心を持つようななんか珍しいおもちゃとかあげるからさあ出ておいでと言って、館から出すみたいなそういう例えが人を救う時の例えが。
 ですから、本当のことを言っても通じない場合にはそういうことでというのがある、ということを考えると根が深いっていいますかね。
 だからそこでやはり要求されるのは宗教家の倫理性、まさにリテラシーとそういう問題だと思うんですけども、ちょっとそんなこと考えています。

小:嘘でもそれをこう正しいものだというふうに信じ込まされた人がその状況から脱するって非常に難しいですよね。外部の人があなた騙されてるんだよというふうに言ってもね、一旦入ってしまった論理からこう外に脱出させるための苦労みたいなものがもしあればちょっと教えてほしいんですけど。

川:ありすぎというか

小:もうそうだと思いますけども

川:もうそこの世界に入り込んでる人には、第三者がいくら言っても難しいっていうのが実感ですね。ですので、やはりその人が本当にそこに火が迫ってるんだっていう熱さなりそういうものを感じるような状況にこう直面しないと。後今の時代ね、あのそれこそ無理やり引き出してっていうのはもうできない、倫理性から言ってもできない時代ですからね。そこはやはり脱カルト支援の一番今難しいところかなと。
 まあ脱カルトの取り組みの中で3ヶ月と1年っていう私から経験値から出した数字があるんですけども、ファーストコンタクトから3ヶ月までであればほぼ100%、あの裏事情とか情報を提供することで脱出させることができる、その方法でできたマックスが1年、1年度はギリですね。もうそれ過ぎてしまうと本当にコントロールが深まってしまい、中々耳を傾けてもらえない。

島:オウム事件もね、最大の時にどのぐらいの人が出家をしたか1万人ぐらいいたかもしれませんがね、その大方は今は普通の生活に戻っている。だけどあれはやはりあの事件が起こって、社会の中の物の見方が変わったということがかなり影響してます。これは多分今統一教会についての様々な報道がなされたことがですね、メンバーの人達に相当実は大きな影響を与えている。
 だから一人一人を説得するということと共にですね、やはり社会が適切にそういう問題のある集団についての認識をですね共有していく、マスコミにもそういう役割があるし、研究者にもそういう役割があるんだけど、それはとても大きな意味があると思いますね。

若:もう1つだけいいですか。疑いってことをですね、宗教と疑いって問題なんですけども、どうしても宗教は既存の宗教がですね、疑いないことがいい状態だというようなとこに導いてきたように私には思えるんですけども。そうではなくて、信仰が深まってくということは、やっぱ疑いが深まってくってことなんだろうと思うんですよ。深く疑うことができるということがとても大事なことなんだって。人は疑う疑うことの中でしか発見できない問いというものもあるし、疑いの中でこそ人とつながるってことがあるんだろうと思うんですよ。それが確信こそよい状態だと、確信しなければ駄目なんだっていうとこに何か宗教が線を引いてきたんじゃないか。そうだとすると疑いなき状態が人間のゴールだというふうに思って当たり前なんだと思いますね。宗教というのが本当に働くべき時というのは、疑いもまた何かの意味であるっていうことがやっぱり宗教が今もう一度語りたいっていうか語って頂きたいなって感じは強くありますね。

小:そうですね。これぞ疑いなき道だというふうにカルトも示すし、原理主義も多分示すけども、それがやっぱり人間の自由とか可能性を非常にこう制限するわけですよね。
 これまでの議論の中でカルトとは一体何なのかというところからですね私達議論をはじめましてそれが今まさに話したように一人一人の個人の心の在り方、信仰と疑いの関係であったり、そして一旦疑いなき道を行った人がですね、どのようにすればそれを相対化できるのかとかですね、いろんな課題ありますので、私達は様々に視点を様々に変えながらこのカルトということから見えてくる問題をですね、やっぱり多様に見ていく日うようがあるのではないかということをですね今議論しながら感じました。
 ですから私達カルト問題、これはごく一部の人達だけの問題だというふうには考えないで、そのことを通じて照らし出されている日本社会の病巣であるとか政治と宗教の関係であるとかそういったこともですね今日は考えてくることができましたし、また引き続きですね議論していくことができればというふうに思います。どうもありがとうございました。

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2022/9/25 悲しみと寄り添う~スピリチュアルケアの仏教者~

大河内大博:浄土宗願生寺住職
ききて:武田真一


ナレーター(以下「ナ」という):医療技術の進歩でのびる寿命。その一方で死と向き合う時間が長くなっています。なぜ死なないといけないのか。どうして思い病気になってしまったのか。多くの人々と最期の時を過ごしてきた僧侶がいます。大河内大博さん20代の頃から終末期の医療現場などでスピリチュアルケアを実践してきました。
 スピリチュアルケアとは、人生の困難に直面した時、生きがいを持てるようにサポートをすることです。欧米の病院では広く普及しています。大河内さんは仏教者としてスピリチュアルケアに早くから取り組んできました。
 死への悲しみや苦しみをどうすれば和らげることができるのか、全国でその経験を伝えています。大切な人を失った悲しみにも寄り添います。

『大河内(以下「大」という):(亡くなった人が)いた場所って強烈ですよね。いつも座ってたソファーとかダイニングとかそこにいるべき人がいない。その日常にまず慣れていかないといけない』

ナ:大河内さん自身も5年前に父親、2年前に母親を自宅で看取りました。

『大:この写真は父が亡くなる10日程前、この衣の写真を使ってほしいっていうので、みんなで(父を)抱えて(衣を)着せて結局それが最期でしたね。
 父、母を亡くした悲しみ苦しみは今までに経験の無かった悲しみ苦しみでした。

ナ:誰もが迎える最期、そして残される家族はその悲しみにどう向き合えばいいのか。スピリチュアルケアを通して多くの悲しみに寄り添ってきた大河内さんに伺います。
 大阪の中心部から電車で15分程のところにある大阪市住吉区。ここに大河内さんが住職を務める願生寺があります。
 南無阿弥陀仏と唱えればどんな人も極楽浄土に救われると説いた法然。その教えを受け継ぐ浄土宗の寺です。
 
武田(以下「武」という)では改めてよろしくお願いいたします。

大:よろしくお願いいたします。

武:ここが大河内さんのお寺ということですよね。普段はこちらでお仕事なさってる。

大:はいそうです。そうですね、まさにここの本堂で朝のお勤めからご法事、また時に、お葬儀とかですね、そういったあの~、宗教のまさに念仏道場として、はいここで暮らしながらお守りいたしております。

武:私達が普通にイメージするお坊さんのお仕事を日々なさってるわけですよね。

大:そうですね、はい。

武:しかし、大河内さんはそれだけではない。僧侶の仕事はそれだけじゃないというふうに思ってらっしゃるということですよね。

大:はいそうです。病に苦しむ方であるとか障害を持っている方、それから檀家さんではなくても独居、高齢者の方で孤独を感じていらっしゃる方、いろんな方が地域の中には人の数だけのそれぞれの悲しみ、喜び、苦しみがあると思うんですけども、できるかぎりそんな方といろんな方と交流できればうれしいと思ってまして。
 私が外に出ていった時にどんな人と出会えるだろうかっていうところで、それが病院という場所かもしれませんし、そのほかの高齢者施設かもしれませんし、たまたま道で会う方かも分かりませんし。

武:医療の現場に出ていく、あるいは、社会の中で苦しむ人達に寄り添う、そういった場に宗教者である大河内さんが出ていく、関わっていく、そのことはどんな意味があるんでしょうか。

大:そうですね、死とか、死にゆく自分の命があとどれくらいであるかとか、そうしたこう、自分自身の人生、生き方、生きざまに向き合わざるをえない時のいわゆるこう、魂の叫び。それらに対する問いの答えっていうのは容易に他者が用意できるものではない。医師、看護師含めてやっぱり誰しもに、その方に容易に答えをですね、提示することはできない。
 宗教者っていうのはそうしたまさに答えのない問いに対して向き合い続けること、それから逃げないでいるということ、そしてその方がそこに向き合っていくその人の力を信じるということ、そういうふうなこう足腰、体力を持ったうえで関わり続ける、寄り添い続けるということが宗教者の非常に重要な役割ではないかと思っています。

ナ:大河内さんが初めて臨床の現場を訪れたのは2001年22歳の時。院内に僧侶が常駐するビハーラ病棟でした。ビハーラとは仏教の教えを心の拠り所に安らかな死を迎えてほしいと提唱されたターミナルケアのことです。この病棟は1992年にできました。
 院内には釈迦菩薩像が安置され、日々お勤めが行われています。大河内さんはここでボランティアとして活動を始め、あまたの命と向き合います。

武:初めてビハーラの現場をご覧になってどんな風景だったんですか?

大:たまたま私が一番最初に病棟に行った時がお昼の3時くらいだったんですね。で、3時くらいは後から聞いたんですけども、ティータイムといってボランティアさんがやって来て体調のいい患者さんは談話室に出てこられて、で、お茶を飲んでそしてまあ談笑して、で、体調のすぐれない方は病室にお茶を運ばれ運ばれたりとかですね。医療者ばかりに囲まれたりとかではなくて、いわゆる普通の方達がですね、エプロンをつけて、で、3時のおやつのような時間をですね、和んで帰って頂くっていうようなですね、たまたまその時間に寄せて頂いて。
 そういうのがあるっていうのは私も知識として分かってたんですけども、行ったらですね、お酒を飲んでるんですね。まあいいわけですよ別に、お酒を飲んでも。普通の病院だったらそういうことは控えなきゃいけないか分かりませんけども、ビハーラ、ホスピス緩和ケアというのは、最期までその方がその人らしく生き抜く場所である。だから出来る限りその人がやりたいような、過ごしたいような空間をこう用意していく。そこにお酒があるっていうのは、その方にとって日常であれば、それは当たり前の風景である。

武:終末期の患者さんは静かにこう死を待つということではなく、まだ人生がそこにあるということですね。

大:そうですね。死ぬ場所ではなくて、生き抜く場所としての日常の延長。たまたまその場がビハーラ病棟であったっていうですね、そのことにすぎないっていう感じ。

武:そういったビハーラの現場に飛び込んでいかれて大河内さんご自身はどうでしたか、何かこう役割をうまく果たせたのか、手応えがあったのかいかがでしたか?

大:やっぱりまだまだ甘かった。人生も経験としてもそうだし、そういう場に僧侶として関わる時のある種の専門性を身に付けなければならないってこともそうだし、非常に自分としては大きな経験をさして頂きましたけども、足らなかったこと足りないこと、未熟なこと、何かほんとにこう教え込まれた経験だったなっていうふうに振り返っては思いますね。だから失敗もいっぱいしました。

武:心に残ってらっしゃる大事な出会いがあったそうですね。

大:そうですね。ある80代の女性で肺がんの末期でご入院されていらっしゃいました。その方はですね、ただ少しこう、精神的なご不安があられてあまり部屋から出られない方だったんですね。
 で、ある日ですね、私が夕方一日の活動を終えて帰宅しようと思ってナースステーションの前を通ったらですね、一人で談話室でですねポツンと座っていらっしゃったんですね。私はてっきり気分がよくて外に出て談話室に座ってらっしゃるのかなというようなそういうふうな思いを持ってですね、家に帰ろうとしてたんですけれども足をですね、その方の方に向けて「ああ珍しいですね、こんなところで」っていうようなことで声をかけて、「何をしてるんですか?」というような話をしたらですね、「別に何もしてないよ」って話をしつつ、「この時間の病棟は慌ただしいね」っておっしゃったんですね。
 で、私はですね、「そうですねこの時間の病棟は慌ただしいね。日勤の人と夜勤の人とが入れ代わるからみんなバタバタしてるよね」っていうようなことを応答したんですね。
 で、「いつものように部屋にばかりいないでこういうところにいても、こういうところにいる方が気分が晴れていいでしょう」みたいなことを私が申し上げたらば、「どうかな、しんどいからね」ってこうおっしゃった。
 で、私はですね、もう既に半分家に帰ってるようなまあ心持ちだったものですからですね、「しんどいんですか無理しないでくださいね。じゃあ私はこれで失礼しますね」って、もう早々に会話を切り上げようとしたらばですね、その方が「あしたまで生きていられるかな」ってぼそっとこうおっしゃったんですね。で、私は一瞬ドキッとしたんですけれども「ここだ」っていうふうにこう思って、その方にですね、「あしたまで生きていられるかどうかは誰にも分からないんですよ、僕だってね」ってこう話始めたら、「そんなこと言ってるんじゃないのよ」っていって途中で話を遮られて、私はその後何も言い返せずにですね、ただ沈黙のままでその沈黙にも耐えられずに、頭を深々と下げて「失礼します」っていって帰ったという経験がありました。

武:大河内さんのその言葉の何がどう、こう悪かったんでしょうか?

大:気分が良くて部屋から出てきたわけではなかったかもしれない。むしろ部屋にいることさえ孤独感やつらさで耐えられなくなったその方が、決死の思いでもしかしたら部屋から出て談話室に座っていらっしゃったかもしれない。
 でもその自分の前を何人もの看護師がこう行き交う中で、もしかしたらみんな姿は見えてたかもしれないし、姿さえも見えてなかったかもしれないし、声をかける余裕がなかったかもしれない。そんな中で「誰も私に気付いてくれないね」っていう孤独感をもし持ってたならば、「あしたまで生きていられるかな」っていうのは、ある種私に対する「もう少しそばにいてほしい」というメッセージだったのかもしれない。
 でもそれに対し私は、「ここぞ」ということで返したのは、「諸行無常の教えでこの場を乗り切る」っていうですね、がんの末期の患者の方がいらっしゃる病棟ですから「あしたまで生きていられるかな」っていうようなことをもしかしたら聞かれるかもしれないということをある種の想定問答で私の中で準備をしていて、そう言われたら僧侶なので、「あしたまでの命、あしたの命は、それはがんの末期の方であろうと若い大河内であろうと皆平等に分からない」っていうですね、そういうようなことをですね説明して、「だから今の時間を大切に生きましょう」みたいなふうにですね、まさに説法ですよね。それを「ここぞ」という時に返したわけですね。その言葉の最後まで待たずに「そんなこと言ってるんじゃないのよ」ってこう、「そりゃそうですよね」っていうふうに思うんですね。
 つまりこう、用意してきたようなマニュアル的な言葉っていうのは、そういうまさに命の場面では通じるはずがない。もっともっと私がもし言葉として伝えるものがあるならば、その時に自分の腹から出てきている言葉、自分の血肉になっている言葉ならば届くかもしれない。それがその方にとって必要かどうかは分からないけども、とりあえず届くかも分からない。

武:今のお話はまさに人としてどう他者と関わっていくかっていう根本的な部分ですよね。

大:そうですね、そうだと思います。
 まさに「僧侶としてどうあるべきか」っていうことが一番私の中での命題ではあるんですけれども、その前に人としてって意味での大河内の私という人間がある種丸裸になるようなですねそういうような経験といいましょうか。
 なぜならば目の前の方もそんな自分をさらして、さらさざるをえない状況ですよね、車椅子の状況であるとかベッドで横たわっているとかですね、色んな意味でその方のこう尊厳からすると「元気であればそんな姿はあなたに見せないのよ」というような中で、でも精一杯生きていらっしゃる方に関わっていくっていう時のこちら側の姿勢としてですね、何か小手先でといいましょうか、技術的なところでましてや心に関わっていく、更にその心の更に奥底といいましょうか、その方の生きる意味とか生きがいとか、今のまさに存在価値みたいなところまでこう関わっていこうとするならば、私自身のありようってことも非常に問われていく。

ナ:その病棟では当時3日に1人が亡くなっていきました。懸命に生きようとする患者の姿、そこに見えてきたのは仏の教えでした。

大:80代の方だったんですけれども、女性の方でがんの末期で入院されておられまして、その方の病室からですね、きれいな山々がこう見えるようなロケーションでして、その方のテーブルの上にカメラが置いてまして、で私がそのカメラ、「カメラ撮られるんですか」ってな話でカメラの方に話題を振ったらば、カメラで撮っているのを何枚か見せて下さって、その中にはまさに山々を毎日同じところからパシャパシャっとこうですね、撮っていらっしゃって。
 で、「あなたこれをご覧なさい」と、で「あなたにとってはこれ今日の写真、これ昨日の写真」っていうふうにしてですね毎日撮っていらっしゃる写真の今日と昨日の間でぱっと見私には違いは分からないんですね。
 でもその方がそれを私に見せて下さりながら「あなたにはこれ、この写真と昨日の写真の違いは分からないかもしれないけれども私にはその違いは分かるのよ」と。「昨日と今日は違う」っていうことを教えて下さって。
 まさに仏教というのは「刹那を生きる」昨日の自分と今日の自分の中で昨日の自分は死んだ、今日の自分を新たに生きるっていうですね、まさにそういう刹那刹那の諸行無常の中でこう生かされているっていうことをですね、まさに頭で分かっていてそういうことを言っていながら、いざその方がまさに見ている風景の中で昨日と今日は違うということは、実は私自身は全くもって体感なく、「昨日のような今日があって、今日のようなあしたがまた来る」っていうふうにある種思い込んでいる自分に気付かされた。

武:がんの患者さん達がまさに人生の師となった、そんな瞬間だったんですね。

大:そうですね。どのような患者さんであられても、決して患者さん達は私の学びのためにそこにいるわけではない。その方々達に関わるのであれば私は僧侶として出会ったり何かしらの専門職としてしっかりと役割を果たさなければいけないってことがもちろん前提にあるわけですけども、一人一人の患者さんのありよう、下さった言葉、そんなことっていうのは私にとっては人生の師。まさに信仰は違えども「仏教とはどういうことか」とかですね、「お前が僧侶として生きるってことはどういうことだ」っていうことを常にこう問いかけて下さるような、まあそんな時間、経験だったなっていうふうに思いますね。

ナ:3人兄妹の長男として生まれた大河内さん。450年続く寺の跡継ぎとして9歳で仏門に入りますが決められた道に葛藤がありました。
 そこで寺を継ぐ前に社会を知りたいと、親元を離れ東京の大学へ進学します。学生生活を満喫していたある日、僧侶としての生き方その原点となる言葉を友人から投げかけられます。「キリスト教は愛、仏教は死」

大:大学の授業の帰りにですね、女性のお友達だったんですけど、同じ授業をとっていて駅まで歩いている最中にですねその友達が「キリスト教は愛で、仏教は死って感じだよね」っていうようなですね、そういうニュアンスの言葉を私にかけてきたんですね。
 前後どんな話をしてたかって正直覚えてなくて、その言葉だけがズトーンとですね、私のこう心の中に残って、その時の私の感覚は「やっぱりそうか」っていう感じだったんですね。

武:やっぱりそうか

大:いわゆる社会からですね、お寺がどんなふうに見られているんだろうとか、僧侶がどんなふうに見られているのだろうかというのは、お寺で生まれ育ったが故に非常にこう花瓶であったように思います。
 そんな中で当時から「葬式仏教」という言葉が言われていたりしました。で、葬式仏教っていうのは日本の仏教の在り方を示しているという言葉よりもどちらかというと、揶揄する、ちょっと批判的な、つまり「葬式しかしない」とかですね、「死んでからお坊さんには用がある」っていうですね、そういうようなこう捉えられ方がしていて、キリスト教っていうのはあったかかったり、こう生きてる間にこう何か楽しいことをですね、用意してくれていたり、もちろん悩みを聞いてくれたりというような、こうコミュニティ、ネットワーク的なイメージがあって。「このまんまではいけないんじゃないかな」っていう、私自身のより具体的な問題意識としてこう残って、じゃあ「死んでから」って言われる僧侶が、あるいはお寺が、その前から人々と関わるってことがどういうことなのか、それって実際に実践なされているのかっていうようなことにですね、少しずつ関心が向いていくようになりました。

武:死というものの前に仏教がどんなことを提供できるのかというその時は何かこうイメージはあったんですか?

大:いや全く無かったですね。お寺に生まれ育った中で何も培ってないなっていうことを突きつけられたみたいなそんな経験だったかもしれません。

武:そんな中で、大学の授業の中でその後の道を定める大変重要な出会いがあったそうですね。

大:2年生の時に生命政治論の授業に出会って、その授業が進んでいく中で終末期医療の単元がありまして、日本には大体1980年代ぐらいに欧米からホスピスというものが入ってきて、ホスピスというのはキリスト教の流れの中で日本に入ってきたもの。
 でも日本では多くの方がいわゆる仏教徒といいましょうかですね、どこかしらのお寺の檀家さん、信徒さん、門徒さんっていう方が圧倒的に多い中で、日本ではやっぱり仏教の方がこの活動に関わって取り組んでいくことが大事なんじゃないかっていうことで、仏教版のホスピスとしてビハーラっていう言葉が1985年に田宮仁(たみやまさし)先生という先生が提唱なされて、仏教の精神によるホスピスターミナルケアの呼称、理念としてのビハーラというものが1985年に提唱されて、1990年代の最初に長岡西病院ビハーラ病棟というのができますっていうことを、当時私は1999年の時に初めて聞いたんですね。
 で、それが非常に衝撃的で、「これだ!」っていう感覚。いやでも待てよ、1985年に既に提唱されていて1990年代前半に病院ももう既にできている。で、当時の1999年の私はそれを今初めて知ったっていうことに、「なぜ広がっていないんだろう」とか、「なぜこれまでビハーラに出会ってこなかったんだろう」っていうことに、こう「これだ!」っていうことと同時にある種のこう生意気なんですけども危機感のようなことも覚えて、自分が興奮しているこの感覚を、他の方はあまり持たないのかなみたいなことをですね思った時に、自分がこれを広めていこう。

ナ:大河内さんは僧侶として臨床の現場で活動を始めますがある思いが湧いてきます。特定の宗派や宗教に関係なく多くの患者に寄り添うにはどうしたらよいのか。
 そこで出会ったのが、人生の困難に苦しむ人々が生きがいを持てるようにサポートするスピリチュアルケアでした。
 スピリチュアルケアは欧米で1960年頃から普及。今では多くの病院に専門期間で研修を受けたスタッフがいます。
 日本では2007年、医師の日野原重明さんらによってスピリチュアルケア学会が設立されるなど、医療の現場で重要視されています。
 大河内さんは学会の立ち上げから参加。スピリチュアルケアの研究をしながら、大阪の病院などで終末期の患者と向き合います。

武:そのスピリチュアルケアどんなものなんでしょうか。

大:私達がですね自分自身の人生でですね、何のために生きてるんだろうとか、順調に自分の人生あいってたらばそういうことは考えないけども、どっかで躓いた時にこれでよかったんだろうかとか、何が駄目だったんだろうとか、まさにこう終末期の患者さんっていうのは、もう少し生きたかったけrど生きられないとかですね、そういうことも含めて人生のいろんなところで私達はある種躓きながら自分自身の人生を問う。そういった時のこう自分の存在の枠組みとか培ってきた意味とか価値観とか優先順位、そういうものをですね、少し丁寧に紐解きながらその方が一番大事にしていること、その大事にしていることが通用しなくなった時にじゃあどういうものを大事にしていこうっていうようなとこのプロセスにですね寄り添っていく。そういうのがスピリチュアルケアって言われるものとして医療現場の中特に緩和ケア棟ですね、そういったところではチームの一員として重要視されているケアというふうにされています。

武:じゃあ単にその悲しみや苦しみに寄り添う、あるいはそれを緩和するというだけじゃなくて、その人が何を大切にしていくべきかということを見つける。

大:そうですね。例えばその悲しみということ、悲しいという状況を悲しみが消えるようにしたらどうしたらいいのかっていうのは、実はスピリチュアルケアともいえるんだけれども、むしろもう少しスピリチュアルケアが大事にしてるのは、その悲しみに込められている意味を一緒に大事にしていこうっていう、そういう伴走していく、寄り添う、一緒にですね歩んでいくっていうですね。
 だから、悲しみは実は悲しみのままかもしれない。でも悲しみの質が変わっていく、悲しいということがそもそも愛おしかったり、悲しいということがそもそも大事だっていうようなそういうようなことによって、私達はそれを引き受けながらあるいは折り合いをつけながら生きていく。そういった人間観がベースにあるのがスピリチュアルケアだというふうに思っています。

武:そのスピリチュアルケアを実践していかれるわけですけれども、患者さんと心を共鳴し合う、寄り添う、真の意味で寄り添えるような体験っていうのはどうでしたか?最初からできたものですか?

大:いや~どうでしょうね~。それは私がお浄土に行って、ご本人から答え合わせをしなければ永遠に分からないことではないかと思ったりもしますが。
 60代の男性でした、私が勤めていた緩和ケア病棟にご入院されてきて。そして症状はまあ比較的落ち着いていらっしゃったんですけれども、ご病気のこと、ご病状のことをしっかりと頭で理解して、理解されていて、ただ一つ、予後、自分は後どれくらい生きられるのかっていうことは明確にはお医者さんからは聞いていらっしゃらなかったんですね。
 正直聞くのが少し怖いということをお話されました。怖いというのは、もし自分が思っているよりも短い期間を言われたならばせっかくこうして落ち着いている気持ちがまた乱れてしまうんではないかというようなことを心配されておられて、何かいいアドバイスを頂けないかというですね、そういうこうお話でした。
 で、私はもちろんのことながらですね、そんなところでですね、「こうした方がいいです」とかいうようなアドバイスができるはずもないので、「もう少しお話聞かして頂いていいですか」っていうふうにお伺いして、「どうして予後を聞きたいんですか?」ってことを尋ねました。
 スピリチュアルケアで非常に大事なのは、その方に聞かなきゃやっぱり分からない、「世間一般的にはこうだよね」とか「自分の場合はこうだったよね」ってことで、安直にその方を自分の理解の枠組みにはめるのではなくて、聞けるならば、聞かしていただけるならばきちんとその方の言葉で聞かして頂くっていうことがスピリチュアルケアの非常に大事な関わりだと思っていまして、私自身その方に「どうして予後をお聞きになられたいんですか?」っていうふうに聞きましたらば、「かくかくしかじかだからだ」っていうような明確なものではなくて、奥さんの話になっていったんですね。
 その方いわく「妻は自分がいなければ電球も替えられないぐらいの自分は亭主関白でやってきた。家庭のことは妻に任せて自分は仕事に打ち込んできた。で、自分のたくさんの趣味もあって、ガレージには趣味のものがたくさんあって、そんなものもちゃんと整理しなければいけないし。後自分の中でどれくらいの時間があるかによって、そういったことをちゃんと整理していきたい」っていうようなお話をされて。
 私はその方に「残りの時間は奥様のための時間なんですね」ってお返ししたらば、大粒の涙を流されて「そうなんです」というふうに深くうなずかれました。
 その方にとってはあとどれくらいかっていうことは、お医者さんに聞けばもちろん答えて下さることもあるかもしれません。でも、私の役割は、それが聞くべきか聞かないべきかということの答えを出すのではなくて、その問いの奥底にあるその方の自分の命をどう生きるかっていうところの中心にその奥様がいらっしゃる。でも奥様に聞いたら奥様は「ちゃんと自分で電球替えれますよ」とかいって、現実は違ったりするんですけども。
 全部を大切にすることはできないし、「元気だったならばこうしていこう」みたいなことは全部崩れてしまったかもしれない。でも崩れてしまった中で、でも、何とか最後自分の手の中に握りしめた妻との時間、家族との時間っていうものをどんなふうに過ごしていくかってことを、ある種その方の中で大事にして下さったならば、あとどの選択をしたとしてもきっとその方にとって大事な選択をしていって下さるだろうってことを信じて、後はもう私としては役割を終えて引いていくというんでしょうかね。そういうような関わりだったというふうに私は思っています。

武:その方のある種人生の選択の場面に立ち会う。
 しかしですね、その死を目前にしてどう生きればいいか分からない、何を大切にして選び取っていけば分からないっていう方もいらっしゃると思うんですね。

大:決して最後がですね、丸印で終わるような人生ばかりではない。むしろ私が関わらせて頂いた中には、何かしらの悔しさとか悲しみとか、もう少し生きたかったという思いであるとかっていうことをどっか残しながら、ある種未完成の中で死んでいくのが、私は人間の当たり前の自然な姿ではないかっていうふうに感じさえします。
 そういう場に立ち会っているとほんとに無力です、ほんとに無力です。何もできないことは無力ですし、申し訳なさもあるし、「何やってんだ」ってこう投げやりになったりすることもあります。
 僧侶であるからということで救えるわけではない。むしろ、救える人なんて一人もいないかもしれない。でも、その方を一人にしないということのアクションはできるかもしれない。その方にとっての最後の拠り所となる信仰であったり、何か自分の人生の意味を見出すことができなくっても、それでもなおその方をそのままに受け止めて下さる方がいらっしゃるっていうことを信じて関わり続けるということですね。

武:大河内さんは病院で患者のケアに当たりながらその経験を講演するなど活動の幅を広げていきます。そんな矢先、予期せぬ出来事が起こります。
 住職を務めていた父、良廣さんにすい臓がんが見つかったのです。医師から「治療という選択肢はない」と告げられます。

『大:これなんですけどね
 取材者:これはどういったものですか?
 大:これはカレンダーなんですけども、2017年の(父が亡くなった)9月、10月、そこからめくらずにそのままになっているカレンダー。冷凍保存されているような、そんな感じがするんですけども。父がいた9月1日、2日、3日、そんなところに戻れる唯一のものかなっていう感じもあって、そのままになってて。

ナ:臨床の現場では味わったことのない悲しみを体験をします。

武:お父様を看取るまではどう過ごされていったんですか?

大:いよいよもう恐らく週単位から日単位になってきたな。それからもう日単位も今日、明日、明後日、そんなぐらいになってきたかなっていうのは私の経験からもですねこう分かってきて、姉から連絡があって「ちょっと呼吸がおかしい」っていうので起こされて、で見るといわゆる最期の呼吸になっていたので、「これ最期の呼吸だから」ということで家族みんな起こさせて、私の娘なんかも起こして最期ほんとに家族でベッドを囲みながら最期の時間を過ごすような時間を持つことができたんですね。
 その時にやはり「いよいよ」っていう思いがありながら「いよいよ来てしまったか」っていうですね、そういう思いもありつつ、父がですね亡くなるほんとに息を引き取る数分前に2回手をあげたんですね。で、目を開けることはなかったんですけども、何となく表情は「おお、久しぶり」っていうような、何というんでしょうかね、口角が上がったように見えたっていうのを見てですね、「あ、もうたくさんの人が迎えに来てるんだ」っていうふうなことを思った時に、残ってる私達は何としても、何とか向こうにいこうとする父の手を離したくない、手放したくない、引き止めたいっていう思いがそれぞれにこうありながら、でも向こうには「おお、よう頑張ったな」っていうですね、父の父親、母親とか、父がたくさんの人をお葬儀で送ってきたですね檀家さんとかですね、竹馬の友とかいろんな人がやっぱり向こうにはたくさんいて、で、残ってる私達はやっぱり手放したくないけれども、でも、もうそろそろ「お疲れさん」っていって手放してあげなきゃいけない。何かそういう感覚にふとなれる、お迎え現象なのかどうか分からないんですけどもそれが、お迎えのようなことがあって。信仰では阿弥陀様と仏様、極楽浄土というお浄土っていうようなことをですね、日々言いながら、でも実際に父を見ながらこの世に留まってほしい、でもちゃんと向こうに待ってくれてる人がいるんだねってことをまさに体現してくれるような時間の中で少しずつ手放すことができて、最期の最期の息を引き取るその瞬間まで家族で見守ることが、これはほんとにありがたいことでした。

武:それからまさしく、、、最初の住職のお仕事としては、葬儀を取りしきるということになるわけですよね。

大:はい。まさにこう、もうすぐにやるべきことというのはですね、感傷に浸っている暇もないような格好で、次々とやらなきゃいけないことっていうのはありまして。そこに数時間後にドクターが、看取ってくれたワタナベ医師という先生がですね、死亡宣告に来てくれて、死亡宣告っていうのをしてもらった時に、どっかこうすごくそれは寂しいんだけれども、一方、自分から遠くに行ってしまったというか、遠くに行った父っていうのを感じたんですね。で、これって冷静に考えるとすごく大事な場面だなと思っていて。
 つまり、家族だけだとどうしてもべた~っとした気持ちが中心なのでやっぱり離したくない、何とか揺らしてでも起きてほしい。でもそこに死亡宣告っていう、まあ極めてもしかしたら、誰でしょうかね、作業的かも分からないけれども第三者が入ってきてくれて、次に進んでいかなければいけないというところに背中を押してくれるような感じですね。
 で、その後父をですね、座敷に移動して枕経というお経であったり、それから弔問の人が来て下さったりっていう中で、少しずつ少しずつやっぱり冷たくなっていく硬くなっていく、父の頬とかですね、額に手を当てていくと、「あ、やっぱり生きていないんだな」っていうようなことを突きつけられる。その父が棺の中に納まることによってまた少し遠くなっていく、それが通夜、葬儀の中で安置されていくと、またもう一つ簡単に触れることができなくなっていく。
 そうやって儀式っていうのはもしかすると少しずつ少しずつ私達が現実として受け止めきれない大切な人の死からいい意味で引き剝がされるために必要なある意味パワーといいましょうかですね、力を持っているもので、これが無かったら私達はいつまでももしかしたら抱え込んでしまうかもしれない。父を看取って、あるいは父の葬送儀ですね関わって新たな気付きといいましょうかね、「葬式仏教では駄目だ」っていう思いで現場に飛び込んだ私がたどり着いたのは、「本気で葬式仏教をしよう」っていうですね、何かそういうようなことをですね父を看取った経験から、更にこう、思いを強くしたみたいなところが何かありますね。

武:大河内さんご自身の悲しみ、それはどう乗り越えられたんですか。

大:今、父を看取って5年になるんですけれども、悲しみは恐らくまだ乗り越えてないかなと思っていて、この先も恐らく「乗り越える」という表現ではどこか常に違和感が残ってくるかなっていうふうに思っています。
 きっと折々に父を思い出して「悲しい」であったりとか「ほんまにもうちょっと長生きしてくれてたらよかったのに」とかっていう恨み節とかいろんなことは、恐らく私の人生のこの先も折に触れて出てくる。時間と共に何か忘れ去られていくような時間の方が増えていくけれども、それは完全になくなったわけではなくて、ちょっと奥の方におさまっただけで、ぽ~んとこう出てくるものじゃないかなと思ってます。「あ、きっとこのことを父が生きてきてたらこんなふうに言うだろうな」とか「こんなふうに喜んでくれるだろうな」とか、「あ、きっとこうやって怒るだろうな」とかっていう父は常にこう出てくる。

武:私は8年前に父を急に亡くしまして、やはり今でも「会えない、でも会いたい」というはざまの中でやっぱり苦しんでるんですね。夢にも時々出てきますし。夢に出てくるとやはりこう、会えたということと、でも「これは夢だ」と分かってますから、やっぱり涙で目が覚めるってことが今でもあるんですね。
 で、やっぱり悲しみっていうのは乗り越えられてないなと、意識することが多いです。で、やっぱり会いたいんですよね。その亡き人と会いたいっていう思いを誰もがこう簡単に折り合いつけられるものじゃないと思うんですよね。そういう中で話をする、あるいは話を聞く、そのことはどんな意味がありますか?

大:私達の中で大切な人を失ったその瞬間で止まってしまった時計というものがあって、でも、生きていかなければいけないという現実の中で確かに生きてきた時間というのがあって、これは止まってしまった時計を動かすのではなくて、その両方の時計を持った人生が始まったっていうふうに受け止めていくことの方が私は自然ではないかと思っています。
 まさにそうした止まってしまった時計に、ある種こう戻りながらそれがどのようなご経験であったか。そして、それでもなお動いてきた自分の人生の動いてる方の時計の中であなたは何を大切にしてきたか。あるいは、その中で亡き人はどんな存在として立ち現れていらっしゃるか、どこにいらっしゃるか、どんな思いを持っていらっしゃるかっていうのをスピリチュアルケアと同じくやはり物語として大事に聞かして頂く。
 そして物語って頂くことを他者としての聞き手として立ち現れた時に実は話ながら自分に返ってきている。私はそういった時に「いや父はこういう人でね」とか「夫はこういう人でね」っていうような話をしている時に、その方と出会い直しをして下さっているっていうふうに思っていて。この出会い直しを私達は大事にしていくってことが重要ではないかな。
 つまり、不在とか止まったっていう死者はでも実は生き続ける。変化していくんですね。よく聞くのは、ご主人がいかに私にとって理想なご主人だったか、いかに私は愛されてたかっていう話をですねさんざんした後、最後に慌てて「でも主人はそんないい人じゃなかったんです」って、何か慌てて否定される方がけっこういらっしゃるんですね。で、よくおっしゃるのは、「なぜかよく分からないけれどもいいことしか思い出さない」。お父さんもそうじゃないですか?嫌なこともあったか分かりませんけども。
 これは不思議で、ある意味私はそれは何か与えられているプレゼントの気がするんですよね。

ナ:父の死後、住職となり僧侶としての仕事が忙しくなった大河内さん。スピリチュアルケアの活動を臨床の現場から地域に移しました。これまでの経験を生かし、訪問看護ステーションを立ちあげます。

訪問看護ステーションの職員(以下「職員」という):本人に確認したところ、病院にいきたくない、どうしようかと。
大:みとりができるキーパーソンはいらっしゃらない。
職員:もうそろそろそういうこと考えとかなきゃあきませんよねってなって』

ナ:毎月100軒の檀家を回り、大切な人を亡くした悲しみにも寄り添います。

『大:こんにちは。今までやったら(実家に)来たら必ずおったのに(親のいない)真っ暗な家に来なあかん。
 檀家の方:帰る時さみしかったですね。このままおいてしまうのがしのびない。
 大:お父様、お母様のご自宅にいる安心感と一緒にいる感覚と、それぞれの元の生活をもう一度立て直していくという意味でバランスをね。それも慌てる必要はないですし』

ナ:知己の人が気軽に何でも相談できるようにと月に数回本堂を解放。ボランティアの協力のもと、子ども食堂や看護師による健康相談など様々なイベントを行っています。

『夫を亡くした女性:「ちょっと2階にあがるよ」って今でも癖がついて(仏壇に声をかける)
 大:何十年って夫婦の時間があって。(仏壇は)かしこまって手を合わせるだけでなくて日常の中で対話する対象として声をかけて、「ちょっと聞いてえや」とかね』

武:これまで臨床の現場で活動されてきた大河内さんが地域に目を向けるようになったのはこれはなぜなんでしょうか。

大:住職になってですね、地域の方と触れ合う時間も機会も増えてきました。で、これまでは病院というですねある種特殊な閉じられた場所、そこに来る方は病になっていらっしゃってがんと闘ってらっしゃったり、がんの終末期であるっていうですね、そういうある種ピンポイントな方のところに伺うっていうことがありました。
 実際に今、住職になって檀家さんとの関わりもそうですし、地域にこう目を向けた時に地域もまた臨床で、人の数だけのそれぞれの悲しみ苦しみがある。

武:それは今までのスピリチュアルケアの取り組みの一環として新たに始められた、この地域でここに根ざしてということですね。

大:高齢者とか独居とか、大切な人を亡くされた方、それから子供たちもいるし、障害を持ってる方もいるし、障害を持ってるお子さんを育てていらっしゃる親御さんもいる。そういったこう一人一人の当事者性というところに目を向けていった時にできることは限られているけれども、できることは何でもしようっていうような思いがあって、訪問看護を立ち上げながら他にあるんじゃないかってことを考えまして、それで次から次と実はいろんなことを今場づくりをしているところなんです。

武:今日はたくさんお話を伺いましたけれども、死ですとか悲しみと向き合う、これはとても後ろ向きのことのように思えますけれども結局は生きるということに向き合うことなんだなと改めて感じました。

大:いろんな意味でこう、命が操作されてきているような社会になっているようにも感じたりします。
 つまり、どう生きるのが望ましいかとかどのような最期が理想的かというですね、混沌としていたり、いろんな選択肢があればあるほど私達は理想的な死であったり、理想的な最期を追い求めていく傾向にあると思います。
 でも仏教が伝えるべきメッセージは、「とはいえ思いどおりにならないこともあるよ」ということと、それから理想的な死とか理想的な命とか理想的な人生を設定した時に、そうならなかった自分の人生、命、死というものは不幸な死、不幸な人生、不幸な命になっていく、その二者択一の中に自分をかける。で、結果として自分のものになった、よかったよかった、思いどおりにならなかったから自分の人生不幸だったか「あの人の人生はかわいそうね」っていうですね、そういうまあレッテル貼り、ジャッジっていうものを明確にしていきすぎているような気がします。
 私達が理想を持つことは自然なこと。でも、大事なのはどのような結果になったとしても、まさにありのままを受け止めるっていうことを大事にしていく社会の方が私はそれぞれに寛容であって、それが人生の中の私達のある意味生きていくうえでの修行なんではないかなと思ってたりします。

 

ともに生きる仏教 ──お寺の社会活動最前線 (ちくま新書)

大切な人を亡くしたあなたに知っておいてほしい5つのこと

2022/9/18 歎異抄にであう シリーズ 無宗教からの扉(6) 「慈悲の実践」

阿満利麿:宗教学者 明治学院大学名誉教授
ききて(ディレクター):鎌倉英也、池座雅之 

ナレーター(以下「ナ」という):「歎異抄」は700年以上前に書かれた仏教の古典です。そこに流れているのは、阿弥陀仏がかつて全ての人を救おうと立てた願い「本願」に基づき阿弥陀仏の名を称えるだけで皆が浄土に導かれるとした「本願念仏」の思想。法然によって説かれたその思想は親鸞らによって受け継がれました。「歎異抄」はその親鸞の言葉を門弟となった唯円という人物が正しく伝えようと書き残した書物です。
 鎌倉時代、疫病や戦乱、飢饉に苦しむ人々の間で燎原の火のごとく広がった本願念仏の教えは、1207年、時の権力者による激しい弾圧を受けました。京都鴨川で法然門下の僧侶が斬首により死刑。法然親鸞もまた僧籍を剥奪され流罪の身となります。この出来事は法然親鸞らが説く「慈悲」の教えに深い関係がありました。
 あらゆる人を差別なく救おうとする「慈悲」の根底にあったのは、絶対平等の思想
宗教学者の阿満利麿さんはそう考えています。

阿満(以下「阿」という):本願念仏がもたらした平等観というものが段々広まっていきますとね、面白くない人が出てくるんですよ、それは権力者です。
 権力者というのはいつの時代でも現存の組織や体制を差別によって維持している。

ナ:「歎異抄にであう 無宗教からの扉」第6回、シリーズ最終回となる今日は、仏教が目指す究極の実践「慈悲」に焦点を当てます。

阿:今日は「慈悲の実践」ということですけれども、仏教というのは一言で言えば、慈悲の宗教ですね。
 なぜ慈悲というのをそれほど強調するのかというと自歩ということが強調される背景に我々の在り方が検討されていると、そこは大事なポイントではないかと思うんですね。そういう「慈悲」を「歎異抄」は、どういうふうに説明しているのかということを今日は見ていきたいと思っております。
 普通に日常語で「慈悲」というと「思いやり」とか「いつくしみ」とかそういう意味合いで使われているんだと思いますね。その「思いやり」というのは私が見るところそれは「私が中心」なんです。どこまでも私が中心で、で、私が困ってる人にこう手を差し向けると。で、私の意識がいつもあってですね、で、もっと言えば、私の都合が悪くなると手を差し伸べることができないと。私の都合でこう左右されるという、そういう面が思いやりの中にあると思うんですね。で、それに比べて「慈悲」というのは、苦しんでいる人の立場に身を置けと。つまり、自分の立場ではなくて相手の人の立場に立ちなさいと。
 しかし、それは難しいことなんですよね。段々年取ってまいりますとね、あちこち具合が悪くなって、他人様のお世話になるということになって初めて人間というのは一人で生きられないもんなんだなという実感をするようになってきているんです。
 しかし、若い時はですね、人生というのは自分の力で切り開くもんだと。また、自己実現なんて言葉がありましてね、なんか自分一人の力で生ききれるように思い込んでいたということを最近よく感じるんですけれども。なぜそういう思い込みが生じたのか振り返ってみると、私の中にやっぱり大きくて強い自我がこう頑張っていたんですね。
 で、自我はいつでも自分のことしか考えてないんですよね。ですから、物事はうまくいかなくなると大体あの、あれはあの人のせいだとこう思うんですね。また、環境が悪い、条件が整わないからうまくいかないんだというふうに思い込んでですね、自分の手に負えないことが起こるとまあそれはなんか、ないことにしておこうというふうなことにもなりがちなんです。
 しかし、やはり私達は本当に独立不変の存在なのかと、こう考えてみると様々な因果が交錯している巨大な網の中の1つの結び目にしかすぎないんだなということも段々とまあ分かってくる。
 つまり、人間を関係の中で見るというそれは実は仏教の基本的なスタンスなんですね。私を含む網全体が救われないことには私の苦しみは解決しないと。つまり一人だけの空くいというのはありえないと。そういうことを仏教は教えるんだと思いますね。ですからこそ、仏教が「慈悲の実践」ということをこの目的とすると。
 実は仏教は、そういうことを仏教が言うということは、苦しみの根本というものを見定める智慧が不可欠だということを前提にしてるんですね。相手の立場に立てるということは相手がどういう条件が重なって今の苦しみが生じているのかが分かる、そういう智慧があると。その苦しみの根本を見定める智慧というものを前提にして、慈悲というものが成立してると。その智慧を手にするということは仏教の大きな、この課題になるわけですね。
 ですからその、思いやりと一番違う点はそういう智慧を前提にして慈悲というのが成立していると、そこが大きなポイントだと思いますね。
 で、具体的にじゃあ、その「歎異抄」の中ではその智慧ということについてどういうふうな説明をしているかということになるんですが、現実にですね、思うように人々を助け遂げるということはできないという苦しみを前提にして、実は「歎異抄」の第四条というものは生まれている。

ナ:「慈悲」をどう考えるか、「歎異抄」第四条では、修行により自力で悟りに至る「聖道門」という道と、阿弥陀仏の他力に頼る「浄土門」の道を比べてこう説かれます。

『慈悲に関して言うならば、従来の仏教の教えから浄土門の教えに移らざるを得ない節目の自覚というものがあります。従来の仏教が教える慈悲、聖道の慈悲とは、人に同情し、人をいとおしみ、人を慈しむことであります。しかし、思いどおりに人を助け遂げることはきわめて困難なことです。それに比べると浄土の慈悲とは念仏して速やかに仏になり、仏の慈悲心をもって思いどおりに人々を助けることを言うのです。
 この世にどんなにいとおしい、かわいそうだと思っても思いどおりに助け通すことが難しいのでそうした慈悲は一貫しないのです。そういう思いに至ると、念仏することだけが一貫した慈悲心となるのです』

阿:第四条の中で一番大切なことはこの原文で言いますと、「かはりめ」という言葉なんですね。「慈悲に『聖道』『浄土』のかはりめあり」、とこういうふうに書いてあります。両方とも悟りを目指すという点では共通してるわけです。
 例えで言うならば海の中で暖流と寒流があるというふうなですね、こうず~っと暖流をこう横切ってきてあるところから寒流に変わると。しかし、全体は海であるということには変わりがないわけですね。で、同じように慈悲もですね、慈悲を実践しているとあるところからこの聖道の慈悲の限界があって、気が付くと浄土の慈悲にこう強い共感を覚えてるというそういう移り変わりなんですね。
 ですから、私達の日常的な暮らしの中で人に対する思いやりとか同情というのは長続きしないんですよ。もうこれは、もうどうしようもないことですね。そしてひどくなると燃え尽き現象まで生じてしまって。しかしね、我々は不思議なことにこの同情が挫折したり、あるいは燃えついたりしても、どこかでですねなんか諦めきれない、その人に対する思いやりの気持ちは依然としてどこかでこう残っていると。で、その挫折をして自分の中でなんとかしたいという気持ち、それをここでは「かはりめ」と言ってるんですね。
 しかし、浄土の慈悲というのは、死んでからお浄土に行くというそこで手にする慈悲のことでしょう、これがね中々壁なんですよ。生きている間の話にどうつながるんですかと、ここがあの、やっぱり分かんないと浄土の慈悲を自分のものにしようという意欲はわいてこないですね。「歎異抄」では最後に、「念仏まうすのみぞすえとをりたる大慈悲心にてさふらふべきと」いうふうに念仏が一番末通った大慈悲心だというそういう説明はありますけれども。浄土の慈悲というのは具体的には、念仏をするということなんですよ。念仏の実践の中で感じるものなんですね。念仏の実践を踏まえていないとそれは単なるそのおとぎ話の延長でしかない。

鎌倉(以下「鎌」という):実際にその無宗教的な人間の立場からしますと、念仏を称えることで自分があの世に行って、早くその浄土に生まれることによって救われるんだという発想になりますと現実で今私共が見ている苦しみや助けが必要な世の中でですね、実際それ手を下さなくていいのかと、実際その結び目として助け合わなくていいのかっていう発想っていうのがどうしてもこう疑問として生まれてくると思うんですがそれについてはいかがですか。

阿:それはね、あの実はこの第四条を読んでですね誤解する人は少なくなかったんですね。浄土の慈悲というのは具体的には念仏することだと、そうすると念仏だけしていればいいんじゃないですか、現実がどうであってもね、それは悲しいことだけどまあ目をつぶっていきましょうと。で、それがもっと進むとね、現実に対するはたらきかけなんか要らないんだと、そういう誤解にまでなるわけですね。
 で、私が若い時1960年代のベトナム戦争の時にお坊さん達もですね、ベトナムに平和をというデモなんかに繰り出してですね、いろいろ活動されました。で、それを見ていたある高名な仏教学者がですね、あの連中は何してるんだと、念仏以外なんの不足があってああいう行為をするんだというふうなことをおっしゃったんですね。私はもう愕然としましたよ。この第四条を念仏することしかないんだというふうに限定してしまわれて、その念仏が阿弥陀仏のはたらきでその人間を称名する人間を更に突き動かす力があるんだというふうなところまで見ておられないというところがとても私は不満だったんですね。
 つまり不作為。その仏教者が何もしなくてもいいという不作為の言い訳としてですね、この第四条が使われるということがしばしばあったんですね。ひょっとしたら今もあるかもしれませんよ。
 ですから、私はもうこの第四条を理解する時には念仏とは何かということがちゃんと分かっていることが大前提だと思うんですね。それは阿弥陀仏という仏はですね、南無阿弥陀仏という名前になってる。で、その名号を口で称えると阿弥陀仏は私の中ではたらくと。ですから称名をするという行為自身の中から阿弥陀の慈悲が少しあふれ出ることもあると、それが生きている私達に浄土の慈悲が持つ意味なんですね。

池座(以下「池」という):その阿弥陀仏によって与えられた念仏を称える時にそれは人を行動へも突き動かす力になるという、具体的にそういうことでしょうか。

阿:そうです。一人一人が念仏をするというその念仏をするという行為の中でその人に現れてくる、その人に個有のこの慈悲の現れ方、それが浄土に慈悲というものだと思いますね。 で、「歎異抄」のですね第十四条にはこういう阿弥陀の慈悲が私からあふれ出てくることがあるということを述べている箇所がありますね。

『私達は阿弥陀仏誓願の力によって阿弥陀仏の名を一度称えようと思い立ったその時に、あたかもダイアモンドのような堅固な信心を得ることができるのであり、その信心を手にすると阿弥陀仏は必ず悟りに至ることができるという位に迎え取ってくださって、私達は死ぬとただちにもろもろの煩悩や仏道の妨げになることが転じて悟りの境涯に入ることができるからなのです』
阿:念仏をするようになると阿弥陀仏の金剛の信心、ダイヤモンドのように固い信心が私の中にこう伝えられてくると、この場合の信心というのは信心(まことのこころ)という意味です。
 つまり、称名をすると我々の心の中にも少しずつ変化が生じてくるということを実は言外にこれ含まれているんですね。阿弥陀仏の心がですね、念仏を通して私の中に蓄積されてきて時にあふれ出ることがあるということについて、親鸞はですね少なくとも2つの智慧が我々凡夫の間にも生まれてくるというふうなことを述べています。
 1つはですね、その自分と他人とを平等に観るということができるようになると。いつも自分中心であったそういう度合いがですね、自分中心の度合いが少し弱くなって相手のことにその関心が相当動くようになる。
 2つ目はですね、人と人との違いということが分かってくると。それぞれ異なった宿業を背負って今あるというふうなことは少し分かるようになってくると。人と人は違うんだと、ということは、人を自分どおりに動かそうとかいうふうなことはありえないというふうなことに気が付くということなんでしょう。念仏を私が口にすると阿弥陀が私の中ではたらいて私を生きてる間にですね、私を少々慈悲に向かわせる力を生み出すと。
 ですから、念仏が私達を慈悲へ向けて後押しをするというふうに説明できるんですけど、念仏は単に浄土に行くための手段だというふうにしか考えてないと、それはあの念仏から何か慈悲心がそのあふれ出てくるという発想は起こらないですよ。
 で、このことは明治以降ですね、この「歎異抄」を再発見した清沢満之が「念仏というのは阿弥陀仏の慈悲を伝える導きの器である」、導器、「阿弥陀仏の慈悲を導いてくれる器である」というそういう表現をしてるんですよ。
 ですからね従来の説明は、阿弥陀仏があって、で、我々があって、実はその間は念仏という一点でその2つが結ばれてるという説明がなかったんですよね。ですから、念仏はせいぜい浄土に生まれるための死後助かるためのまあ呪文とまでは言いませんがそういう言葉しか受け止められてない。だから念仏というものが阿弥陀仏の言葉になってそして我々との接点を持ってるというその一点ですね。
 つまり、阿弥陀仏を私との間の連続性っていうかそれを保証しているのは念仏だと。だから念仏はその慈悲の実践とは無関係だというそういうことはありえない。そこはポイントだと思いますね。
 で、私はここで法然上人がなぜ「本願念仏」という教えを主張されなければならなかったのかということをもう一度思い起こしたいと思うんですね。
 法然という人は全ての人が例外なく仏になる方法を求めて本願念仏にとまあ至った方ですね。だから法然上人の心の中には例外なく一切の人が救われるという、つまり平等ですね。その本願念仏はそういう意味では我々に絶対の平等をもたらすんですね。そういうことを思い起こした上で慈悲ということを考える必要があると思うんですね。
 その表現の1つがですね、「親鸞は弟子一人ももたずさふらふ」というそういう表現ですよ。で、なぜ親鸞は弟子一人も持たないのかと、たくさんのお弟子がいるじゃないか。しかし、親鸞にとってはお弟子じゃないわけですね、「同朋」仲間なんですね。で、なぜかというと念仏というのは、阿弥陀が全ての人間に平等にその与えたものですね。
 ですからこの、あるその宗教的真理とか教えとかいうものを特別の人が独占していてですね、その教えや真理を知ってる人はたった1人であると。で、他の人は全部それに付き従えばいいんですと、そういう発想は仏教じゃないわけです。阿弥陀からもらった信心(まことのこころ)を念仏を通じて等しく全ての人が同じように手にできているというその平等さ、平等性ですね。
 で、しかしですね、こういう本願念仏がもたらした平等観というものが段々広まっていきますとね、面白くない人が出てくるんですよ、それは権力者です。権力者というのはいつの時代でも現存の組織や体制を差別によって維持しているわけですね。秩序とかいうものは差別があって初めて成立するので、そういう差別を前提にして権力というのは成り立ってるわけですね。そういう人にとっては、本願念仏が人に平等を教えるなんてことはけしからんことになるわけですよ。その挙句の果てが「歎異抄」の中に一番最後にですね、「流罪の記録」というものが付いておりますね。

ナ::「歎異抄」の末尾に付録として登場する「流罪の記録」。そこには、法然親鸞らが受けた弾圧の経緯が克明に記されています。

後鳥羽院の時代、法然上人の本願念仏宗が盛んであったが、ときに興福寺の僧侶が本願念仏宗を仏教の敵として朝廷に訴え出た。加えて弟子の中に狼藉に及んだ者がいるという風評が立ち、事実無根の風評だけで罪科に処せられた人々がいた。
 一、法然上人と御弟子七人が流罪。また御弟子四人が死刑。
 法然上人は土佐の国番田(はた)という所へ流罪。罪人としての名は藤井元彦、年齢は七六歳。
 親鸞は越後の国へ流罪。罪人としての名は藤井善信(よしざね)。年齢は三五歳』

ナ:政治権力と結び付いた旧来の仏教勢力とは異なる立場から法然親鸞らが説いた絶対平等の教えは皇室を頂点とする秩序への挑戦と見なされたのです。
 親鸞が90歳でこの世を去るまで推敲を重ねたとされる「教行信証」、その終わりには自らの人生を変えた権力の横暴を記した箇所が最後まで削除されずに残されています。

上皇天皇とその家臣らは法に背き道義に反して怒りをあらわにし恨みを抱いた。このため、真の仏教を興した祖師・法然と門弟数人は量刑の手続もなく無闇やたらと死罪にされたのである。あるいは僧籍を剥奪され俗名を与えられて流罪にされた。私もその一人である。であれば、私はもはや僧侶でもなく俗人でもない。ゆえに「禿」の字をもって自分の姓としたのである』

阿:死刑というものは当時、数百年にわたってなされてこなかったというんですね。しかし、死刑執行がなされている。で更に、俗なる名前を与えて、つまり、僧侶から普通の人間に身分を変えたうえで流刑というものにしてるわけですね。
 もちろん理屈としてはね、当時法然上人の仏教が広まり始めて、古い仏教の代表である奈良の興福寺の人達が法然の仏教はあれは仏教じゃないから早くあんなものやめさせろということを朝廷に願い出たりしてる。で、そういうことに応えるということを名目にして流刑、死罪というものは行われるんだけど、実は、その後鳥羽という人は熊野詣に行って留守の間にですね、死刑になったその僧侶達が催す法要に後鳥羽に仕えていた女房達がですね、それに参加してそれにとても感激して、中にはですね、尼さんにまでなっちゃったというふうなこともあってですね。で、後鳥羽はどうもその自分の御所の女房達が死刑になった僧侶達と情交を交わしたのではないかというふうな誤解までしてですね、まあいわば、でっちあげで、腹いせで命令を下したということですね。
 ですから、親鸞は猛烈に怒るわけですよ。で、この「歎異抄」にはですね、この付録この「流罪の記録」、なぜこういう記録がついているのか。私の解釈ではですね、「本願念仏がもたらす平等というものに生きていくと必ず権力者とぶつかりますよ」と、「その平等に生きる人を弾圧してきますよ」ということを、まあいわば予言の書としてね、付けておかれたんではないかと、と私は深読みするわけですね。
 つまり、それほどに本願念仏のもたらす平等というのは人間を突き動かしてですね、新しい社会をつくる1つのエネルギーにまでなっていく、そういうものだと思いますね。
 だからですね、本願念仏を13世紀の段階で誰が喜んだかというと、差別や疎外されていた人々ですよ。で、それは「歎異抄」の第十三条にその一端がちょっと出ていますね。第十三条の中にですね、「うみかわにあみをひき、つりをして世をわたるものも、野やまにししをかり、とりをとりていのちをつぐともがらも、あきなひをもし、田畠をつくりてすぐるひともただおなじことなり」、「ただおなじこと」というのは本願の前では職業の別は問題にならないという意味でただ同じこと、そういう言葉があります。
 当時の生産の現場に最先端に立って人々の暮らしを支えていたにも関らず、当時の社会では差別を受けていたと、そういう人々は一番本願念仏を喜んだわけですね。
 ですから、そういう善悪とか年齢とか男女の性別の違いとか職業の違いとか、そういう現実の差別というものを一切超越したところにその本願念仏というのは成立していると。その本願念仏が我々にもたらした平等というものの価値は、これは大したものだと思いますね。
 これは後にやはりその平等の意識に立って日本社会にこのゆがみを正そうというふうな人が現れてくるそういう根拠にもなるわけですね。

ナ:和歌山県新宮市、明治時代この地で阿弥陀仏の本願念仏の思想に基づき、被差別部落の解放に尽くし日露戦争へと流れる世の風潮にあらがった僧侶がいました。

『淨泉寺(じょうせんじ)の住職:こういうお写真ですね。(写真は)あまり残ってないですね。いわゆる”大逆事件”で連座した人達の写真です。高木顕明さんはこの方です、集合写真ですけどね。
 顕明さん自体の写真というのは恐らくないと思いますね、私も見たことありません、はい』

ナ:高木顕明、ふるさと愛知県から33歳の時新宮に来て淨泉寺の住職となりました。後に明治天皇の暗殺を謀ったとされる、いわゆる「大逆事件」で無実の罪に問われ、獄中でこの世を去った浄土真宗の僧侶です。

『淨泉寺(じょうせんじ)の住職:顕明さんがここへ来た時には電球1つもないような状態で大変ひどい、荒れてたような状態の中で高木さんは来られたみたいですね。
 檀家さんが大体180のうち、120は”地区”の人であったと。いわゆる差別されている同和地区のことを”地区”と。”地区”の檀家さんもあるんですよ。

ナ:親友だった新宮教会の牧師沖野岩三郎が伝えたところによれば、顕明は初めて訪れた被差別部落門徒の家で、出迎えた家族の様子におののいています。
 娘の首筋は垢にまみれ、手や爪は汚れていました。出された握り飯もところどころ黒ずみ顕明は泣かんばかりに一口ずつ念仏を称えながら飲み込んだといいます。「自分の中にはぬぐいがたい差別の心が宿っている」、この体験は顕明が自らを厳しく見つめる原点となりました。
 以来、顕明は彼ら門徒からお布施を取って生活などできないと、自ら按摩の技術を学んで働き寺の生計をたてました。やがて新宮に遊郭を誘致する動きが起きると、貧しさゆに身売される女性達を看過できないと反対の声をあげます。
 1904年日露戦争が始まると、当時の仏教界はこぞって戦争に加担しました。顕明が属する真宗大谷派も宗報の号外を発行。「帝国臣民の義務を尽くすのは念仏者の本分」だとして人々を鼓舞しています。それは、新宮の町にも及びました。周囲の寺の僧侶は戦勝祈願の法要を合同で行いましたが、顕明はただ一人参加を拒否しました。それまで僧侶達が集まって行われていた軍人の供養にも顕明は招かれなくなり、非国民として疎外され孤立してゆきました。
 そんな顕明を支えたのは、遊郭の誘致や戦争に厳しく反対して仲間となったキリスト教の牧師や医者、文化人達でした。身分や貧富による差別がはびこる世の中を変えようと、社会主義に心を寄せる彼らとの交流が顕明のその後の人生に影を落としてゆきます。
 1910年、街から離れた熊野川沿いの炭鉱労働達を訪ねた直後、顕明は家宅捜索を受けました。容疑は天皇に対する反逆の罪でした。その時の押収品の中に、日露戦争開戦の年、顕明がつづった唯一の論文がありました。原本が失われたその書に、顕明の言動を支えた根拠が記されています。

『余は、南無阿弥陀仏には平等の救済や平等の幸福や平和や安慰やを意味して居ると思ふ。智者にも学者にも官吏にも富豪にも安慰を与へつつあるが、弥陀の目的は主として平民である。愚夫愚婦に幸福と安慰とを与へたる偉大の呼び声である。
 極楽世界には他方之国土を侵害したと云ふ事も聞かねば、義の為に大戦争を起したと云ふ事も一切聞れた事はない。依って余は非開戦論者である。
 実に濁世である、苦界である、闇夜である。御仏の成さしめ給ふ事を成し、御仏の行ぜしめ給ふ事を行じ、御仏の心を以て心とせん』

ナ:逮捕後の裁判は控訴を認めない一審即決。顕明は社会主義者幸徳秋水ら23人と共に死刑を宣告されます。真宗大谷派も顕明の僧籍を剥奪し、最も重い処分、永久追放に当たる「擯斥(ひんせき)」に処すると通達しました。
 12人の死刑が執行される中、無期懲役減刑された顕明は、秋田刑務所に収監され、3年後獄中で自らの命を絶ちました。満50歳になったばかりの初夏の頃でした。

阿:高木顕明ですね、この「今の社会は闇夜の世界である」と。闇夜というのは具体的にはどういうことかというと、彼の書いたものを少し紹介するとですね。
 その名誉と社会的地位、勲章のために平民を犠牲として平然としている社会、これ1つですね。
 2つ目に彼が挙げるのは投機事業の名の下にですね、少数人間の利益のために平民が苦しめられている社会。
 3つ目はですね、金持ちのために貧しい者が獣扱いされている社会。
 4つ目はですね、飢えのために雨に打たれる子供。子供が雨に打たれている、操を売る女性がいる、そういう社会。
 5つ目はですね、多くの人々を翫弄(がんろう)物としてしか見ず人々を迫害、苦役して自らそれを快とする、喜びとする、そういう金持ちとか官僚達が横行している社会と。
 これが闇夜の社会として彼は具体的に列挙している。そしていわゆる被差別部落の解放運動に彼は乗り出していくわけですね。それは後に水平社運動なんかが生まれてきますけれどもそれよりもはるか前のことです。
 ちょうど1904年日露戦争が始まりだす。で、その寺の住職達が何をしたかというと皆戦勝祈願をしたっていうんですね。念仏しながら人を殺すということを、そういうことを勧めるのかということで極めて激しい反戦、非戦の主張者になるわけですね。念仏は阿弥陀仏が自分の中ではたらいているわけでしょう。阿弥陀仏が殺人を容認しますか。
 だから、高木顕明のこの「余が社会主義」っていうのを読むと、彼の根本は全て念仏ですよ。南無阿弥陀仏という言葉を口にしながら何が人はできるのか、何をしてはいけないのか基準は全部そこですね。そこが他の社会主義者達と違う点ですね。

鎌:つまり、そのマルクス主義とかあるいはイデオロギー的なですね、いわゆる一般的に知られている社会主義っていう方向から入ったんではないということですね。

阿:そうです。それはねこの面白いことに、「余が社会主義」の冒頭にちゃんと断ってるんですね。
『余が社会主義とはカールマルクス社会主義を稟(う)けたのではない。又トルストイの非戦論に服従したのでもない。けれども余は、余丈けの信仰が有りて実践して行く考へであるから夫れを書て見たのである』という冒頭に書いてますね。
 そこがやはりその念仏を根拠に、つまり、宗教的原理を根拠に生きていくということは部分的な生き方ではなくて、その人の全人格的な生き方にそれが貫かれていくと。
 実はそのことのためにはですね、「歎異抄」の第一条というものをね振り返る必要があると思うんですね。

阿弥陀仏の誓いによって浄土に生まれることができると信じて、阿弥陀仏の指示どおりにその名を称えようと思い立つその決断のとき、阿弥陀仏はただちに感応してその人を迎え取ってくださり、すべての人々を仏とするはたらきに参加させておいでなのです』

 「あづく」という言葉はですね、これ「参加させる」という意味なんだと。お念仏をするということは自分が助かるだけじゃなくて、全ての人を仏とするはたらきに自分が積極的に「参加」していくと、そういう意味合いがあるんだと。そうすると、まあ私の言葉で言うと念仏をするということは、「阿弥陀仏の事業に参加する」ということなんだと、積極的に言い直せばですよ。そうすると、じゃあ「阿弥陀仏の事業って何だ」ということになりますけど、あらゆる貧しさ、苦しさから人々を解放すると、そういうはたらきですね。
 ですからね、念仏をして自分の救済だけでとどまってしまう、つまり「死後を安楽にして下さいよ」というそういう祈りでとどまってるんなら、それはまあ仏教でなくたっていいわけですよ。
 なぜ阿弥陀が我々に念仏を与えたかというと、自分の事業に参加させるためなんだと。人は巨大な網目の網の1つの網目でしかない。網全体が救われるということは仏教の目標だから、そのためには阿弥陀仏の事業に参加して、その網全体が救われていくというそういう道を選ぶしかないんだと。
 ですからね、高木顕明という人は阿弥陀仏が行動されるように自分達も行動するんだと。で、阿弥陀仏がよしと思われるように我が身を律していくと。
 つまり、念仏をするということは阿弥陀仏の事業に参加することです、という解釈をいたしました、それを地でいってるんですね、高木顕明という人は。
 私は慈悲というのはですね、我が身一人にとどまるものではなくて仲間の同朋達の苦しみを取り除くというふうにしてあふれ出てくるものだというふうに申しました。清沢満之の言葉で言えば、念仏は阿弥陀の慈悲を導く器なんだということも申しました。
 つまり、慈悲というのはですね単に個人的な徳目ではないんですね。制度とか法律とか組織の中に貫通して初めて慈悲というものは意味を持つ。慈悲の本当の狙いはこういう社会全体に貫徹するというそれをある意味で目的にしていると。そういうことがですね、高木のこういう動きからも分かってくると思うんですね。
 しかし、明治以降日本社会、宗教を巡る日本の社会状況というのは大変厳しくてですね、天皇崇拝というものを維持するためにですね、宗教というのは個人のことなんだと、しかも私事なんだと、こういうふうに宗教というものを閉じ込めてきてる。
 
 しかし、慈悲というものは個人の徳目ではなくて社会全体にこのはたらきかける、そういう性格のものだということは実は「歎異抄」の中にもあったし、そして近代以降、高木顕明という存在を通じてそのことが証明もされたと。そこに「歎異抄」の大きなやっぱり役割があると思うんですね。
 で、私は最後に申し上げておきたいことは、「歎異抄」というのは念仏とは何かということについて縷々(るる)説明しているしている古典ですよ。その念仏をですね実際に実践してみたら、どういうことが我々の間に起こるのかは書いてないんですね。書いていないってことは大きな意味があると私は思います。
 それは、その「歎異抄」が説く念仏を実践するとね、私共はその阿弥陀がはたらいた結果、どういう行動をするか一律には言えない。念仏がはたらくはたらき方も全部違うわけですね。それは念仏を実際に称えた人々がその身をもって示していく事柄であるということだと思うんですね。

鎌:今のお話聞いてですね私が思いましたのは、ブッダもそうですし、イエスキリストもそうですし、それからガンジーもそうですけど、とにかく歩くってことを非常に大事にしていた。しかし、その歩くことが大事だということをいくら言ってもですね、実際に歩かないと何が得られるのか分からないっていうことはずっとあらゆる宗教も多分言ってきたことだと思いますね。そういった意味でその念仏っていうのも私共捉えてもよろしいでしょうか。

阿:そのとおりだと思います。今のお話では歩くとか、念仏をするとか実践するかどうかですね。「歎異抄」はそういう念仏の意義を教えてくれるけれども、「歎異抄」を読んだ人間はそこから先は阿弥陀の慈悲をどのように世の中に及ぼしていくかと、それはその人の課題ですね。
 念仏は単なる呪文ではなくて、阿弥陀の慈悲というものをこの我々の中に呼び起こしていく、そういう大事なその役割を持ってるんだと。それは確認する必要はあろうかと思いますね。

池:あの今日お話をお伺いしてですね、宗教者がですね、時に権力と結び付き弾圧あるいは不作為に加担してしまうというのは、これは本来であればですね、宗教者というものがその貧苦を救うということを目的とされていると思うんですけれども。

阿:宗教者の中で正規の僧侶でない人達、そういう人達がね日本社会、日本の歴史にはたくさんいて特に貧苦というのを解決するためにはたらきかけると。そういう人達がそういうはったらきをしてるんですね。

池:聖とか?

阿:聖とか、ある聖とすら名前は呼ばれないような人が他者のためにね、まさに慈悲行を実践してると。
 いわゆる名前のある教団に付属しているその宗教者、仏教者がどれだけそういう努力をしたかですね。で、それはね近代社会になれば現実社会の矛盾、もろもろの貧苦というものを解決するためにはそれぞれの職種を通じてそれを克服していくということであって、宗教者の役割というのはなんか精神にこう限定されていく、というふうなことになりがちであったと。
 おまけに宗教は個人の私事であるというふうなイメージも強くてですね、なんか宗教というものはそういう社会経済的な領域に手を伸ばすものではないというふうなことにもなってきたんでしょう。実際また、手を伸ばしてみるとひどい間違いを犯しているということだって現実にあるわけですから。
 ですから、私は個々の人間がそのそれぞれの宗教心を背景にしてね、それぞれの職業なりその社会的な役割の中で、そういう貧苦をなくしていくというはたらきにこう取り組んでいくと。
 しかし、それが挫折した時に、なおそれをもう一歩進むことはできるために、ための宗教心というか、そういうものが宗教の1つの役割だというふうにも思うんですね。

鎌:あのこれ最後の質問になりますけれども、現在政権とですね、ある特定のいわゆるカルトと呼ばれる宗教ってのが相互作用し合って非常に人間達を苦しめてるって現実が徐々に最近浮かび上がってきてますけれども、そういった現代ってものを見た時にですね、阿満先生のお考えになる宗教というものの役割っていうのはこれから未来的にはですねどのようになっていくべきだというふうお考えでしょうか。

阿:1つはね、我々が宗教という言葉で、実は呪術的思考を深めてるだけではないかというふうに思うことはよくあります。
 つまり、宗教と呪術の違いというのは非常に微妙なものですよ。例えばこの本願念仏にしても、自分のこの願望のために念仏すると、例えば今自分はひどい病気にかかって、なんとか病気を治してほしいとして念仏すると。そういう欲望ですね、その欲望実現の手段にしてしまう。そうするとその念仏は呪術ですよ。
 つまり、その宗教と呪術の区別はほんとに難しい。難しいけれども1つ言えることは宗教は自分を問うて、自分を内省して、自分の問題を意識したうえでそれを乗り越えるためにその宗教の行というものを求めると。
 しかし、呪術は自分を問わないんですね。こういう社会ですからいろいろ困ったことを抱えてどうしていいか分かんないという状況はたくさん出てくるでしょう。その時にちょっとした隙間にそういう呪術的思考で近寄ってくる人があればですね、それにすぐ飛び乗ってしまうと思いますね。
 だから宗教というのは、自分の根本問題を解決したい、しようというそういう営みであって、なぜそういう状況が人間に生まれてくるのかということを問い尋ねていって根本的な問題が何であるのかに行き着くようなそういうやっぱり場があるか、ないかですね。
 それはあの、例えばアメリカ人なんかでこのジョアンナ・メイシーなんかがその典型ですけど、環境保護運動なんかに乗り出した人が自分の行動の根拠として仏教を採用したというような例もあるわけですね。彼女の言葉で言えば、「エゴ・セルフ(ego-self)」、つまり、自分がどこまでも中心であるような世界の見方ですね。そういう見方から仏教を知ることによって「エコ・セルフ(eco-self)」というね、そのつながりの中の、私の言葉で言えば網の1つの結び目という、そういう関係性の中で自己、人間というものを捉えるというそういう視点をね手にしたと。
 つまり、エゴ・セルフ、エゴ・センターであると自分が疲れたり挫折したらそこまで燃えついてしまう、燃え尽きてしまうわけですね。でも、そのエコ・セルフという生命体全体の中の自分なんどという思いになれば疲れた時は休めばいいじゃないですか。そして、その仲間達と手が組める時は手を組んで少しずつ世の中を変えていけばいいと。
 ですから、私が冒頭で申し上げたように仏教というのは関係性の中で人間を捉えていくと。私を成り立たしめている因果関係の全てを知ることはできないから、私は自分が生じて生み出した問題を自分の力では解決できない。そういう時に彼女が言うようなエゴ・セルフからエコ・セルフへというふうな自我観の展開、転換といいますか、そういうことも1つの手助けになるだろうし、我々の持っている常識だけが世界を見る見方、人間見る見方だというのは、ちょっとやっぱりこの際考え直していいんじゃないかと思うんですね。

ナ:高木顕明は今、新宮市の南、丘陵地に設けられた共同墓地で市井の人々と共に眠っています。冤罪によって逆賊とされ、命を落としてから82年が過ぎた1996年、高木顕明の名誉は回復されました。
 真宗大谷派が高木顕明に対する擯斥処分の取り消しを告示。宗務総長の名で「真摯な僧侶を擯斥して死に至らしめ」たことに「心からなる謝罪」をし、これが「自らの過誤の歩みを検証」する一歩であると表明しました。
 名誉回復の後、淨泉寺では20年以上毎年、高木顕明をしのぶ法要が営まれ多くの人が顕明の訴えに耳をすましています。
 かつて逮捕された顕明の弁護費用などにするため売られ、行方知れずになっていた遺品の数々、現住職らが捜し寺に買い戻しました。

『淨泉寺の住職:これが顕明さんの書かれたお名号なんですけど、お見せするのは、表に出たのはおそらく初めてです。自分で「南無阿弥陀仏」の字を一生懸命。これは顕明さんの心ですよ、気持ちやと思いますね』

ナ:闇夜の現世で念仏者としての慈悲の道を歩もうとし、実践し続けた高木顕明。墓と並んで立つ顕彰碑には、その遺言とも言うべき言葉が刻まれています。

南無阿弥陀仏は真に御仏の救済の声である、闇夜の光明である、絶対的平等の保護である。諸君よ、願わくは我らと共にこの南無阿弥陀仏を称えたまえ。何となればこの南無阿弥陀仏は平等に救済し給う声なればなり』

歎異抄 (岩波文庫)

歎異抄 (ちくま学芸文庫)

NHK「100分de名著」ブックス 歎異抄 仏にわが身をゆだねよ

NHKこころの時代~宗教・人生~ 歎異抄にであう 無宗教からの扉 (NHKシリーズ)

2022/9/11 かわいい民藝 救いの美

2022/9/11 かわいい民藝 救いの美

太田浩史:大福寺住職

太田(以下「太」という):素朴なものは民藝なんですよ。人々を圧倒するような美ではなくて安心できる美なんです。単に物に限らず人間との出会いだろうが何だろうが、よくよく感じてみればこれは救いじゃないだろうかということは随分ある。

ナレーター(以下「ナ」という):富山県南西部南砺市にそのユニークなお寺はあります。大福寺、目を引くのは入口にある大きな山門です。

太:普通お寺の山門というのはいろんな装飾がついているんですよ、彫刻があったり、でもこれは一切何もないですね。その分中のキャパシティが大きいんですよ。どうぞお入りください。
 いろんなものを置いて、資料館とかそんなんじゃなくて、みんなでくつろげる場所にしてるつもりなんです。

ナ:築150年のこの門は農家から譲り受けたもの。そこには数々の民芸品が並んでいます。
 民藝とは名もない作り手達が普段の生活に使う道具として作り出したもの。陶器や織物、宗教の儀式で使う祭具、農作業に使う道具など世界各地から集めた民藝品は1,000点以上にものぼります。

太:この部屋は”かわいい民藝”という、民藝を通して”かわいい”ってどういうことかを考えてもらいたいと思ったんですね。
 これ(蓋)はねイランかな、かわいいでしょ。これが何かというとね、ミツバチがここを通るんですよ、この向こうが巣になってて蓋なの、それでいっぱい重ねてあって一種のアートになってるわけよ。どれもね同じように鳥の絵が描いてあるんだけれども、一つ一つは人間の手が入ってるから微妙に違うの。蜂はねその微妙な違いをちゃんと覚えてて、間違いなくここに戻ってくる。
 これ(お皿)なんかねアフガニスタンかな。これ(お皿に描かれている生き物の絵)哺乳類なのか昆虫なのかよく分からない、どうでもいいの。
 今イランとかアフガンっていったらすごく殺伐とした感じがあるけど、大の男がこういう絵を描くの、こういうもの見てるとね、これを描いてるやつは信頼できると思う。
 (お皿に描かれた人)顔にね個性がないの、みんななんか同じ顔してるの。大事なのは心の在り方というかね、だからみんな丸い線で覆われて角ばったとこはどこにもない、穏やかだね。だからやっぱりそういう穏やかなものに憧れてきたんだよね、人類は。
 僕はこのかわいいというものの大本の心というのは、もうちょっと根源的なもんだと思う。この北陸にはね、富山弁といってもいいかな、「あ~らかわいや」っていう言葉があるのよ。で、「あ~らかわいや」っていうのはね、ちょうど子供が辛い目に遭ってる時に母親がねできたら代わってあげたいというような気持ちの時が「あ~らかわいや」と。
 本当はこの”かわいい”というのは慈しみの心なんですよ。だから、かわいらしさというものから入っても、ずっとその奥があって、その奥はすごく大きな仏でいえば慈悲というし、あるいは、神の愛とかそういうとこまで実は僕らは無意識の内につながっていけるようなものを持ってる。それが”かわいい”ということじゃないかと思うんです。
 

 

太:そろいでなくていいね?

太田さんの妻、奈々代さん(以下「奈」という):はい、いいです。

ナ:民藝品は使われてこそ生きる。太田さんは日々の生活の中で使っています。

『太:これ(お皿)小鹿田(焼)ね大分県ですけども。飛び鉋、トタンの端っこみたいな金具でろくろを回して滑らすの、そしたらこういう模様ができるの。
 これ(お皿)はね僕が高校生の時に買ったんだ。この片口、だんだんこのしっとり感が増してくるんですよ。やっぱりこういう焼き物は使えば使うほど力が出てくるの。この焼き物が持ってる命がねだんだん強くなってくる。私達が使って育てていくんですよ。
取材者(以下「取」という):育てていく?
太:育てていく。
取:これ、あえて蓋を替えてる?
奈:蓋が無かったんです、見つからなかったの。
太:あるはずなんだけど。
奈:何て言ってたっけ?
太:エッグベーカー
奈:ちょっとしたことでもお皿で華やかにしてくれるんで
太:僕らの生活を盛り上げてくれるのね。
取:なんか壊しちゃうかもっていう緊張とかないんですか?
太:ゆうべ壊したよな。
奈:昨日は派手にやりましたけど。
太:それをこんなふうに金で継いで使うとまた味わい深いもんですよ。美術の世界だと傷物になったという感じ。そうじゃなくて、民藝の物は大体それが逆にその物の魅力が輝いていくようなドラマがあるわけです』

ナ:食事中に親しくしている門徒の方が亡くなったという電話が入りました。

太:亡くなったらすぐに行って、お顔を拝見して、それからお経を一回あげるんですよ。
 あっという間にお坊さんになる。

ナ:浄土真宗のお寺に生まれた太田さんは、10代の頃から先代住職の父と共に法事にも立ち会いました。しかし当初は寺を継ぐことに抵抗がありました。
 太田さんは1955年、大福寺の長男として生まれました。

太:お寺の息子ってずっと言われ続けてきたから、何か違うんだよね。同級生のクラスの中でもなんか違ってるんですよね。それはたぶんね、お寺に生まれたってことが大きいかもしれない。みんなからね、人が死んだら儲かる商売だって言われて、それが一種のコンプレックスになったことありますね。
 中学校の時に2泊3日の合宿に行ったんです。そしたら集中豪雨で道が全部崩れ落ちて2週間以上閉じ込められたことがあるんです。自分らこれ生きて帰れないんじゃないかというような気分になっていたころ、そういう中で一人の女性(同級生)に一目ぼれをしたというか、それが今から思えば「二」との出会いなんですよ。つまり、相手と自分とか、「生」と「死」とかいろんなものを二つに分けてどれかにこだわるという。その「二」というものを感じた途端に全てが整わなくなるんですよ、バランスが崩れるわけ。
 自分の中には2つ願望があったんですよ。みんなと同じになりたいという願望とそれから自分の個性の中で独立した人間になりたいという、これ矛盾してるんですよね、うまくつじつまが合わないんですよ。非常に落ち込みまして引きこもりみたいになったんです。
 バット持っていろんなものぶち壊す、おやじの大切にしていた物とか、あれてあれて、自分がいかに情けないことやってるかって分かるわけよ。分かるけどもどうしようもないの。ガラスを50何枚も割った時は寒い風が吹いてくるし、自分の心の中にも吹いてくるし。

ナ:父親の利雄さんはそんな太田さんを叱りもせず、ありのまま受け止める人でした。ある日、届け物を理由にして利雄さんは自分が親しくしていた人のもとに行くよう太田さんにすすめます。それはこの地に民藝運動を根付くきっかけを作った僧侶でした。

太:吉田龍象という人のところに行ったんですよ。「これ父から言われて届けに来ました」で渡して帰ろうとしたら、「ちょっと待て」と言われてね、後ろから声かけられて、ここにわざわざ来たからには儂に聞きたいことがあって来たんだろう、何べんも聞かれるんですね。「ありません、ありません」と抵抗してたんですが、とうとうポロっとある一言が出たんです。
 「何をやっても面白くない時はどうしたらいいんですか」って。そしたらいきなりあの人がね、僕の上へ飛び乗ってね、むちゃな話やけど首絞めるの。「よう言うてくれたな」、「そんなら儂の方から問うぞ」、「もし面白いもんが見つかった時はお前はどうしてくれるんじゃ」、その問いは意表をつかれましたよ。その時に襖ちらっと目に入ったんですよ。その襖になんと4体の観音様が描いてあるの。いやあそれがね、何とも自由でね、輝いてるよね、美しいし、もうほれぼれとしたんですね。「あれは何ですか?」って聞いたんですよ。「(襖の)裏へ回れ」って言われて裏を見せてくれたんですね。

ナ:そこに書かれていたのは、「宿業者是本能則感應道交」という言葉。人の身の上に降りかかる乗り越え難い不条理な出来事、しかし、その中にこそ救いの道がある。

太:宿業っていうのは自分の自由にならない、やっかいな矛盾に満ちた不条理なものかもしれません。でも実はそれが本能だという、この場合の本能というのは、本来の救済という意味もあるんですよ。

ナ:観音の絵と文字を書いたのは版画家の棟方志功でした。棟方は戦時中に南砺の寺に疎開して仏教の思想の深さを知ります。以来、人生の転機となったこの地で数々の作品を彫っていきました。

太:棟方志功は生まれつき目が不自由だった。お医者さんからもうすぐ失明するなんて言われて、これはあなたが持って生まれた運命だからこれはどうしようもねえんだちゅうわけだね。それはもう絵描きさんにとってはとても耐え難いことなんで。その時に宿業というものと向き合わざるをえなかったんだろうと思うんですよね。宿業以外にお前の居場所はないじゃないかと、それ以外にあなたという存在はないじゃないかというそういう呼びかけですよね。
 そしたらこれまでずっとその失明の運命なんていうようなことに強いねわだかまりみたいなものを持っておられた棟方先生がそこで感動して叫んで転げ回ったっちゅう、やった~やった~これだ~っていう。バケツの中に墨入れて太い筆がないもんで束ねて箒みたいにして書いた。

ナ:父利雄さんもまた棟方と親しく交わり仏教の教えに通じる民藝の心を大切にした僧侶でした。太田さんは父に連れられて棟方に出会います。その出会いは太田さんにとって仏教の道へと進む後押しとなりました。

太:棟方志功さんはねものすごい度の強い眼鏡でこうやって私をこうやって見てね、「ああ~しょうなの」っていうわけだね。「あんたが太田しゃんの息子しゃんなの」、左の手をがばっと取ってね「しょれはよかったね」っていうの。おやじの息子として生まれたことが「しょれはよかったね」ちゅうて何と比較してよかったとかそういうことじゃないんですよ。まさに宿業なのよ。私のそういうオリジナルそのものを押さえてよかったというわけだ。よかったということは尊いってことだよね、うん。
 だからあれで本当に自分はなんかね自由になれた感じがするんですよ。あれが僕にとっては「不二の門」だな。

ナ:「不二」とは何か。太田さんは大福寺の山門を「不二門」と名付けています。

太:蜘蛛の巣がはってますけども、これが不二の門。私達は大体物事を2つに分けて、あれかこれと言って迷うんですよ。だからそういう迷いが起こる以前の状態ですね、だからそこへ帰ればいいわけだね。私達の心が帰って行くためには、不二の門をくぐらなければいけない。

ナ:門に掲げられたこの「不二門」の文字は父の利雄さんが亡くなる直前に書いたものでした。利雄さんは物事を単純に2つに分けて区別するのではない、「不二」の生き方を歩もうとした人でした。その原点は戦争体験にあります。
 陸軍士官学校の航空科で学んでいた利雄さんは、特攻隊として次々と友人が出撃していく中で生と死という2つのはざまで揺れ苦しみました。

太:父親は家に帰ってくるんだけども、しばらくは死ぬことばかり考えてるわけです。そういう中で結核になって、おう当時不治の病ですからね。もうそれ、不思議なことにその死ぬことばっかり考えてた人間が今度は死ぬことが恐ろしくなるのね。言ってみりゃ「二」との出会いなんですよ。

ナ:そんあ恐れと苦しみの中で利雄さんを救ったのは、「民藝」との出会いでした。
 民藝とは思想家であった柳宗悦が生み出した言葉です。柳宗悦は生活のために作る実用品の中に本当の美しさを見出す「民藝運動」をこの南砺に伝え根付かせた一人です。利雄さんはそうした活動が広がる中でいつの時代も変わることなく人々に脈々と受け継がれてきた民藝の力に惹かれていきました。

太:父親は戦争が終わって、全てが訳が分からなくなったという強烈な断絶を感じてるわけです。民藝運動の先輩方というのは、戦前と戦後を股にかけて言うことがちっとも変わってないわけです。戦争が終わってこれからはデモクラシーだからとかいうのは一切ないんですよ。そういう意味でのブレないということがやっぱり信頼感とか安心感につながりますよね。
 民藝というのは本当は人との出会いなんです。「生」とか「死」という二元対立した矛盾ですよね。そういうものからいつの間にか解放されてた。だから父親にとっては民藝の道というものの出会いというのは救済だったんでしょうね。

ナ:太田さんは民藝に教えられてきたことを学生時代から続けている弓道の中でも見出してきました。寺の境内の真ん中に作った弓道場、そこで妻の奈々代さんと仲間と共に今でも週に一度弓を弾きます。自らに言い聞かせているのは、テクニックや力に頼って矢を放たないこと。

弓道の仲間:いつも教えていただいて、上手にできないので毎回アドバイスいただいて
太:あのね、上手くそと下手くそがいる。上手くそより下手くその方が有利だよ。
弓道の仲間:なんでですか?
太:自分に頼らないから。それだけ素直になりやすいから下手くその方が、上手くそは中々素直になれない、自分で解決しようとするから』

太:自然な働きを邪魔するような技術があるんですよね、自分でそういうものを勝手に作って、だから、下手くそになりたいですよね。自分の力とかプライドとかそういうものに頼らない分いいわけです。技術とか色んなものに頼ってると、”直観”される寸前にそれが出て台無しにしちゃうの。それは物作りに全部現れてるじゃないですか。
 私の中では弓と民藝と浄土真宗の教えというものは別のものじゃないんです。全くこんなもの(お茶碗)何の変哲もない、だから、美しいものが宿るとしか言いようがない。こっちから追いかけると逃げる、お前みたいな傲慢なやつには捕まらないぞっていって逃げる。やっぱりちょっとでも作為を出したり、そうするとその美というものはすっと消えてしまうんですよ。しかし、そこに自分の心の持ちようというんですかね、そういうものが態度が決まると、今度はその美というものは喜んで宿ってくれるわけです。喜べば集まる。

ナ:南砺で民藝運動が育まれた背景にはこの地に根付いた仏教の思想があります。南砺は室町時代蓮如の布教活動によって浄土真宗が盛んになった地域です。
 浄土真宗が説くのが、仏のはたらきに一切を委ねて生きる「他力」の教え。民藝運動を進めていた柳宗悦は、この他力の思想こそが、民藝の美を生み出しているものだと考えました。
 柳は南砺の寺で代表作「美の法門」を書き上げます。

『とりわけ名もない工人達が数多く作る民藝品が、必然に救われるその原理がつきとめられねばならない。多くは無学な平凡な人達の仕事であるから、若し、そこに美しさがあるとすると、個人の力から湧き出たものではなく、何かかかる人を超えた力が背后に働いて作品を美しくさせていると考えねばなるまい』

太:昔で言えば「国見」と言いますけども山の上へ登って見渡せるぐらいのエリアで考えているんですけど、そこに住んでいる人達というのは何らかのつながりがあるのね。気候を共有していますよね。方言が同じ、料理も同じ。いろんなものも共有してる。そこで自然環境と歴史、先祖からの営み、精神文化。そういうものが混然一体となってひとつの力を生み出すわけです、これを土徳というわけですわ。だから、この自分達はそんなこと意識しなくてもやることなすことがその土徳によって力を与えられ、かつ、また支えられているわけです。だからそこで作られる手仕事もやはり土徳を帯びている。そういうものの上でその人の個性が表れているわけですよ。

ナ:土徳とは、その土地の風土が持つ目に見えない力、柳宗悦が名付けた言葉です。その土徳の力にひかれるようにして今でも南砺にやって来る人達がいます。太田さんはそうした人達とも交流し民藝の味わいを伝えてきました。
 この日訪ねたのは、25年前に韓国からやって来たキムキョントクさんの工房。太田さんが手に携えてくるのは世界各地の名もなき作り手達の民藝品です。

『太:こういうの(お皿)どう思います?
 キム:かわいい感じしますね。優しい、力強い。
 太:これ(お皿)はねエクアドル、土器です。こんなのをしばらく手元に置いておいて。
 キム:ああ、ありがとうございます。よかった、本当に。見て勉強します。』

ナ:キムさんは太田さんが持ち込む民藝品をヒントにして様々な作品作りに挑戦しています。

『太:あれ最近作ってるの?
 キム:前に作ったんですけど、今新しく制作しようか考えてるんですよ。これ(急須)李朝白磁にある形ですよね。ほとんどが李朝を元にして制作してます。
 太:中にはこっちからこういう角度つけたやつもあるね。
 キム:ありますよ。もう様々ないろんなものが。昔の人達のすごいセンスそれを真似てる感じですよ、まだまだ勉強しないと。新羅を見ながら吸収して李朝を見ながらいろんなことを吸収しながら勉強しないと。
 太:これいい試みだと思います。
 キム:ありがとうございます。』

キム:太田住職はいつもこう、例えばこう、韓国人だから韓国のものを作った方がいいとかそういうことなく、それはそれとしてもっと自由に、私が自由に私が自由に飛ぼうとする時にもっと自由に飛ばせるような、キムさんこんなこともあるよ、こんなこともあるよ、これをしたらどうだ、ああしたらどうだ、いろんなことが私が素直に、素直に受け入れるような言い方であり、いろんなことが、いやほんとにありがとうございます。

ナ:キムさんもまた若い頃陶芸家として自らが進む道に悩んでいました。
 若くして韓国の陶芸界で頭角を現したキムさんは自分が作りたいものではなく、売れる作品を求める周囲に抵抗を感じていました。


『キムさんの妻:ここ(壁の落書きを指して)、ここも「ゼイタクだ」、これコミンっていうのは悩み、「悩みも贅沢だ」って書いてある。子供達の落書きもそのまま残ってる。
キム:好きなもの描いてみていうて、そしたら一生懸命描いてるの。だから大人になっても好きなことを一生懸命描けばいいんだって、評価ではなく自分が好きな絵を描き続ければいいんだって。
 いつもこんな感じですよ。戸を開けてパアーっ、見てここで』

ナ:仕事の在り方に悩んでいた頃訪ねたのが妻となる真由美さんの実家、富山の南砺でした。

キム:8年間ずっと探してたような気がしますよ。富山に来て自分が好きな場所ず〜っと、来た瞬間うわって、キムさんここですよいらっしゃいって。

ナ:キムさんはここ南砺で陶芸家として再出発しようと決意します。

『キム:気持ちいいですよ。これたんぽぽ見たりとか、たんぽぽとかこうやって見たりしたらなんかかわいいんですけど、よく見るとこれもすごいんですよ、この一つ一つが。今ちょうど飛ぶときなんですけど、なんかうま~いことできてるもんですよ、やっぱ。なんかうま~いことできてる、本当に。このなんかこう、ほらほらちゃんと飛べるようにそんな仕組みになっているこれが。で、それがとても美しくない?作ろうとして作るんではなく一生懸命生きる姿、生きる姿が美しさになる。別に誰かに見せることもなく誰かに喜ばせる、何のあれもなくただ生きる、ひたすら生きる、その生きる姿が美しくなる。
 とっても柔らかいものがどうやってこんな固い地面を広げていくんだろうって考えると、いやその力は一体何だろうって。キムさん生きるってこうゆうことですよって、それが伝わる。私もその花のような作品を作りたい。それを陶芸にどっかに表現できないかなって。
 だから自然が私の先生であり、勉強の場でありますよ。もうそのまんまやもん、うん、そのまま』

ナ:太田さんは、土徳とは閉じられたその土地だけのものではなく、外から来る人達によって更に育まれ開かれていくものだと考えています。

太:沖縄の読谷村というのがあって、みんなで共同窯を作って始めると、いろんな所からいろんな人が入ってくるわけです。渋谷で遊んでいたような子がいたとか、あるいは元米軍かもしれないけど。そういう人達が入ることによって沖縄の特色が失われるかと思いきや逆に深まっていくんだね。その人達は沖縄らしいものを作るよりもむしろ自分らしいものを作ってると思うんですよ、その自分らしいものを素直に作っていくところに土徳が働いてその土地らしいものになっていく。
 そこの土地に敬意を払って、そしてその敬意の中で自分達の持ってる文化もまたそこの土地に貢献するようにもってってですね。そしてお互いが敬意で結ばれて支え合っていくこyとになれば、それはね、新たなもっとより力強い土徳が生まれるはずです。

『南砺のトマト農家の方:親戚づきあいでこっちの方に来ることがあって、来るたんびに「ああ何ていいとこやな」っていうのは毎回感じてて、あ、ここで農業したいなっていう気持ちになって、この土徳だったりというのを農作物を通して伝えたい
 自動車メーカーデザイナーの方:デザイナーなんでチャラチャラしてるじゃないですか。己が己がってやってきたんですけど、土徳って他力本願じゃないですけど自分が出したんじゃなくて、環境がそれをさせていただいた、そういう思想が結構はまって。「分かんない」って言えないですよね企業の中では、この場は言っていいじゃないですか。
 自動車メーカー新規事業担当の方:分かったって言っても自分では割り切れてないから、ずっとモヤモヤしちゃいますもんね。中々割り切れないものってありますよね。
 取材者:自分の自宅にこんなにたくさん人がしょっちゅう集まるって大変じゃないですiか?
 光徳寺住職の方:大変です。だけども多分ね、それは僕小さい頃からこんな調子やったんで、多分ね、多分僕の大変さよりも嫁の大変さの方が大変だと思います。絶えず人が来てる家やったんで僕も若い時近寄れなかったんですから。いっつも宴会してる、いっつも飲んでる、下手すると昼間ごろから飲み始めて次の火の昼間まで飲んでる人いると思うよ、ねえ。
 南砺のトマト農家の方:光徳寺で出た落ち葉は僕のとこで使わしてもらってます。で、出来たトマトがこちらです。
 自動車メーカーデザイナーの方:ああ上手い!濃い、濃い』

太:ここから先は民藝とは趣が違うんですけど。

ナ:民藝とともに力を注いで太田さんが人々に伝えようとしていることがあります。

太:いわゆる戦争中に出版された出版物ですね。

ナ:太田さんは富山の住職達と協力して戦時下の人々の生活を伝える展示会を準備していました。

太:(出版物を手に取って)昭和19年の11月だから、「一同可憐な膝小僧を並べておのが部屋前の廊下の雑巾がけである、娘美しく働いて」、こういうことを書けば売れたんだよね。
 あるいはこういうふうにその当時の新聞をスクラップしてた人がいるの。

ナ:この10年間で集められたのは、門徒の方や地元の人達の家で眠っていた身近なものです。

太:これは少女雑誌の付録なんですけど、すごろくです。いろんないいことやってると、最後日本軍が敵の、まあ多分これ南京だろうけど、そこを占領できる。だからいいことっていうのは、最初は皇居遥拝、千人針、勤労奉仕、軍用動物の愛護とか国旗掲揚、いいことするとね、飛行機で一気にここまで飛べるとか何とかしながら最後は上がり、まあ南京陥落で。こういうので遊んだわけ。そういうふうに遊んで軍国少女を養成しようと。当時少女雑誌っていうのは強烈なものがあるよね。

『太:これ何だかわかる?
 取材者:一輪挿し?
 太:一輪挿しとかね、中にお酒入れておかんして飲めばいいような感じだけども。実はこれ、この先に信管があって導火線が出ていたの、こん中火薬が入ってて爆発するんですよ。これが四式陶製手榴弾。鉄がないもんだから全国の陶器の産地にこれを作らしたんですよ。これは多分有田焼かなと思う。だからそういう上質な土を利用してこれを何十万個と作ったんですよ。こんなものを職人さんが喜んで作ったと思いますか?まあ、痛ましいね』

 太:父親を含めて無数の戦争体験を聞いてるんです。母親も富山の大空襲の経験者で。火の中を神通川に飛び込んだ経験があります。いろんな人聞きましたよ。
 一人のこのお寺の役人さんだったんですけども、私が月忌参りに行ったら、その人はちょっと体がもう病気で出てこれないはずだったのに、のこのこと這い出してきて仏間に座ったんです。で、私がお経をあげて終わるとね、「若はん」言うて、私はまだ若はんだったんですけど、今まで誰にも言うたことがない、で、それをちょっと仏さんの前で言わしてもろていいかというわけ。何だか分かんないからいいですよって。
 そしたら、座ったままですけど直立不動になりましてね、チャッとかって、まあ敬礼をしてね、で、その人は「〇〇曹長、、、」自分は曹長だったんですね、「昭和何年、南京城近郊のある村において、女、子供、年寄り全村民127名を機関銃にて殺害いたしました、以上」、後はその、うん、阿弥陀さんに対してね「申し訳ありませんでした」とかってね。それでまあ、帰っていきましたよ。それから1週間で亡くなりましたね。
 やっぱりそういう体験をね、やっぱり自分の中でしまったまま、終わりたくなかったんだね。その人は殺したくて殺したんじゃないんですよ、上官の命令ですよ。だけど、やっぱりず~っと、あの命令を実行しなくて済む方法はあったんじゃないかちゅうことを一生涯考えてた、うん。でもそれは答えが出なかったけど、仏壇に向かって「申し訳ありませんでした」と。そういう例がねいくつもあるんです、私はね、もう山ほどある。
 そうすると、そういうことを聞かされた私は、それをまた何らかの形で誰かに伝える責任がある。一番いいのは実物ですよ。僕はどうしても物にこだわるんで実物を置いて、何を感じるかはその人の問題で、でもね、見れば必ずどこかに残る。いつか何か感じるはずだということで。
 「宿業是本能則是感応道交」、そのことがとても大事ですね。この宿業というもんがあって初めて、ある意味では本当の悲しみみたいなもんが出てくるんで。で、正直さも出てくるんで。曹長がこうして阿弥陀さんの前でね、自分が体験した事実を阿弥陀様に報告してる、それはね、自分だけでは抱えきれない不条理なんですよ。でもそれをね、見事に阿弥陀さんは無言で包み込んでる。だからそれはね、なんかこう解決したんじゃないんです。解決したんじゃなくて、まあ抱き締めたんですね。だから、あの曹長は抱き締められたわけです。

ナ:苦しみや悲しみは消えなくても、ありのままの姿で自然のままに生きていけばいい。他力の教えは民藝の精神と深く結び付き、今も南砺の土地に息づいています。
 南砺で暮らす韓国人の陶芸家、キムさんの工房。この日は、太田さんの提案でキムさんが作った白磁と共に太田さんのおよそ400年前の李朝白磁を並べてみました。

『太:違和感なく収まってますね。時代を超えて一緒になってる。
 キム:あ~なんかうれしいですよね。なんか不思議。自分が目で見てるんですけど不思議。一体どういうことなんだろう。
 太:だから古いものと新しいものを僕らどうしても分けて見るんですよね。こういうとこへ来るとね時間を超えて一緒になるよね。同じ血が流れてるんだ。
 キム:それ間違いないですよね。
 太:うん、間違いない。
 キム:ほんとに昔のままのものもいかに近づけるかそれもやってみたい。そこで自分でまた心がどう動くか何を感じるか。常に自分の心がどう感じるか、何をしたら豊かになるのか、それを試すというか確認してみたい。
 太:もう色が、白磁の色が変わってきたね。
 キム:ええ
 太:夕方の色になってきた。
 キム:ああ
 太:どんどん変わっていく、見え方も変わっていく』

太:ある意味では人間以上に生きてるんですかね。物が動かない分、周りの動きを受けているような感じ、静物と動物。自然の変化の中にああいう品物を置くと、静物じゃなくて動物になるわけですよね。動物として生き生きと躍動してるのをまあ私達は見たわけです。こういうのを静と動が不二という。
 単なる物だというのは私達の傲慢ですよ。物も生きてる。そしたら私達が息を引き取る時に生き物が、生きてる人間が物になっちゃったなんて思うかもしれないけど、あるいは、お骨になったら物だと思うかもしれないけども、いや物は生きてんですよ。そういう命の連続ですよね。
 だから、キムさんはあの空間を作り上げたわけですね。もといい材料欲しいとか、あるのにとか、そういうこと考えずに目の前のものを大切に生かして、実はすてきな空間を作り上げることができる。それやっぱりね、いろんな材料の中にちゃんと救いがあるわけですよね。そういう救いと救いをうまく連結して、そうすると全体が救いの空間になる。
 ちょうどね、私が私らこういうものを見ると、例えば民藝なんかでも救いの象徴だと見るんですよ、違うんです、救いそのものなんです。だから、私達の身の回りに無限の救いがあるわけです。だから救いに勝る美なんてないんですから、究極の美を見ているわけです。
 したがって民藝には、どれよりどれが上とかそういうものはないわけです。そういうものとの出会いというとかね、山ほどあるわけです、周り中に。単に物に限らず人間との出会いだろうが何だろうが。まあよくよく、よくよく感じてみればこれは救いじゃないだろうかということは随分あるわけ。

 

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2022/8/21 歎異抄にであう シリーズ 無宗教からの扉(5) 「不条理を生き抜くために」

阿満利麿:宗教学者 明治学院大学名誉教授

ききて(ディレクター):鎌倉英也、池座雅之 

 

ナレーター(以下「ナ」という):「歎異抄」は700年前の鎌倉時代に書かれた仏教の古典です。そこに貫かれているのは、阿弥陀仏のもともとの願い、本願に基づく念仏を称えるだけで全ての人が救われるという本願念仏の思想。法然によって称えられたその教えは、親鸞らによって受け継がれました。「歎異抄」はその親鸞の言葉を門弟となった唯円という人物が正しく伝えようと書き留めた書です。

 「歎異抄」が生まれた背景には、戦乱、疫病、飢饉などが人間や社会に襲いかかる不条理に満ちた時代がありました。現代を生きる私達もまた様々な不条理の中にいます。

 

『街頭での一般の方①:就職を希望していた先がコロナの影響で就職の枠を減らされちゃったりとか、ものによっては採用そのものが無しになったところもあった。それで自分も就職先、志望先を変えざるをえなかった。半分しょうがいないと思いながらもなんで自分がこういう目にあわなくちゃならなかったんだ、というのはありました。
②:うちは父親がよく離婚していたので片親だったりというところで、世間的に「片親だからこうよね」とか決めつけられたり、なにも悪いことしていなくてもいつもそう言われちゃう。中身を見ない、外側からの家庭環境だったりというところでは平等じゃないな世の中って
③:うつ病になっちゃった。仕事の環境がガラッと変わって、仕事の内容とかで悩んじゃってそれでなった。自分では一生懸命やってて、だけどちょっと変わっただけで人間ってすぐ変わっちゃうというかそうなっちゃうんだと。
④:私達は戦争を経験してますから85歳ですから。戦争の真っ只中でコッペパン持って逃げた方です。我々東京でしたからほんとに大変でした。頭の上に焼夷弾が落っこちてもろに即死した、お友達がね、あんなひどいことはないですよ。だから戦争だけはね、今やってますねロシア、なんとしても早くやめさせないと。なんにも関係ない子供や年寄りが皆亡くなっていくでしょ』

 

 シリーズ「歎異抄にであう 無宗教からの扉」、第5回は、歎異抄の言葉を手がかりに、不条理な世の中を生き抜いていくための道を探ります。

 

阿満(以下「阿」という):今日は「不条理」ということをテーマに「歎異抄」を読み解こうと思いますけれども。
 「不条理」というのは要するに「身に余る難題」ということですね。自分で考えても考えても答えが見出せないような状況。どの方も不条理の世界でもうどっぷり浸かって満足だという人はいないと思いますね。何とかしてその不条理というものから逃れようとして、あるいは何とかそれを克服したいといろいろ努力をされると思う。
 で、不条理に立ち向かう根拠として「歎異抄」はどういうふうに教えているかと。「歎異抄」の結分ですね、終わりの文章を見ていただきますと、その終わりの文章の真ん中以降にですね、その「聖人のおほせには善悪のふたつ、総じてもて存知せざるなり」と。

 

ナ:不条理な現実と向き合う時、「歎異抄」はまず、人間の存在そのものの不確かさを見つめるよう説きます。「歎異抄」の「結分」に書かれている親鸞の言葉です。

 

親鸞聖人は「善悪のふたつについては、私はまったくわきまえるところがありません。なぜならば、阿弥陀仏がよいと思われるほどによいことを徹底的に知っているのであればこそ善を知ったということになるでしょう。また、阿弥陀仏が悪いとお知りになるほどに悪を知り尽くしているのであればこそ悪を知ったということになるでありましょうが、煩悩具足の凡夫と火宅無常の世界においては、善悪のふたつを含めて一切が空言であり、戯言で真実がないにつけてもただ念仏だけが真実でおはすのです」とおおせになったのです』

 

阿:「煩悩具足の凡夫」、煩悩をいっぱい備えている凡夫。「火宅無常の世界」、火が燃え盛って常でない。
 「火宅無常の世界はよろづのことみなもて空言戯言まことあることなきにただ念仏のみぞまことにておはしますとこそおほせさふらふしか」と。この煩悩だらけの我々、煩悩だらけということは自己中心から逃れられないということですね。その自己中心でしかも自分達の暮らしている世界が、このお互いがこの自己を主張し合っているわけですから、そこに争いが絶えず絶えないわけだし、しかも、「火宅」っていうのはまあこれは法華経から出てきている言葉で人間が生きている世界というのは、まあいわば火事を、火事に燃え盛っている家の中にいるような存在だと、人間はですね。人間、人は自分がそういう火事が燃え盛っている家の中にいるとは誰も思ってないわけです。しかし、その仏の目から見ると火宅に見えるということは、つまり人間が自分の世界の欲望を全てお互いさらけ出し合いながら衝突し合ってるという状態が火宅に見えてくるということなんでしょう。そして「無常」というのは、仏教ではあらゆるものは無常であって常なるものは何もないと、そういう中で何を手がかりにしたらいいか、中々はっきりしないというそういう世界の中で、しかし、それぞれが自己中心で暮らしている。そういう人間のあり方を考えると「よろづのことみなもて空言戯言まことあることがない」と、こういうことを感じずにおれなくなってくると。まことがないということになると、私共は生きていけなくなるわけですね。人はやっぱりどこかでまことというものがあって、そのまことを自分は踏まえて生きているんだということで安心して生きていけるという点があると思うんですけれども、あらゆる点が全て空言で戯言でまことがないとなると、それはニヒリズムになってしまってですね、ニヒリズムというのは格好はいいけれども、実際ニヒリズムの中で生きるというのは大変なことですよ。ですから、そういう中でその何か真実はないかということで、人は皆いろいろ苦労するわけですけども。この仏教は念仏だけがまことだとこういうふうに教えるわけですね。
 で、私共がそれぞれ抱えている不条理というのは、自分だけの目で見ると大変なことですけれども、そういう不条理に苦しんだ人達はもう実に無数にいらっしゃると。そういうその不条理に苦しんだ人を手がかりに自分達の不条理の問題を解決していくという、そういうことは大事な道なんじゃないかと思うんですね。
 1つは、私はあの良寛親子のことを思うんですね。

 

ナ:良寛は、江戸時代の後期に越後国現在の新潟県に生きた僧侶です。禅僧でありながら生涯寺を持たず、子供達と日が暮れるまでまりつきをして遊んだという逸話から、人々から信頼され愛された人柄が伝わってきます。しかし、良寛がその境地に達するまでの人生には、悲しい、不条理な体験がありました。
 良寛の父親は、山本以南という越後国出雲崎の名主でしたが、60歳の時自ら命を経ちます。賄賂政治が横行し、名主の職を奪われそうになったことを憂えた末の死でした。俳人としても知られた以南の一句、「露に散り 嵐にはづむ 蛍かな」、自らの境涯をはかない蛍に投影しています。
 父の非業の死は、良寛にとって不条理な出来事そのものでした。出家し、継ぐはずだった名主の家を捨て放浪していた良寛は、仏教の道を更に深めていきます。
 晩年になって残した書や歌からは、「本願念仏」を大きな心の支えとした良寛の思いが伝わってきます。「草の庵に 寝ても覚めても 申すこと 南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏」、
良寛に 辞世あるかと 人問はば 南無阿弥陀仏 といふと答えよ」

 

阿:良寛さん親子は、越後の出雲崎の豪商かつ当時の社会ではその名主をやっていた、そういうおうちの出身者ですね。名主というのは要するに当時の幕府権力の末端を担っていて、様々な矛盾を解決する現場に立ち会わなくてはいけないというそういう職業でもあったわけですね。
 ですから、不条理を目の当たりにするという経験がしょっちゅうあったんだと思いますね。

 

鎌倉(以下「鎌」という):時代としてはちょうど江戸時代の田沼意次汚職とか賄賂が横行する時代、山本以南という良寛の父親というのはその、田沼意次みたいな権力と結びついている人達によって自分達が自分のうちとかですね、名主であるその地位さえも奪われるかもしれないというような中で非常にこう筋を通そうとして頑張った人がその以南という方だったというふうに僕は聞いております。

 

阿:この良寛親子を私が引き出した理由はですね、組織の末端でその組織を守るために使われる立場にいる人間が持つ不条理のことなんですよ、それはね惨いですよ。このサラリーマンを経験した人は皆お持ちだと思うけれども、末端のサラリーマンは経営の矛盾を全部一身に浴びせられますよ。そういう中で自分を貫いて生きるっていうのは大変なことです、それは。
 良寛さんは18歳の時にですね、名主の見習い役を仰せつかるんですね。ところが恐らく3ヶ月ももたない内に出家して頭を丸めてしまうんですよ。そして良寛と名乗る。彼が頭を丸めた年はですね、越後は天災が続いて、疫病がはやってですね、凶作だらけで、あちこちでまあいろんな犯罪が起こると、その犯罪の時には死刑に立ち会うというようなこともしたらしいという話もあるぐらいなんですね。要するに不条理そのものをこの身にしみて感じるということがあったんでしょう。そして22歳の時に家を捨ててそれから放浪の暮らしをずっと続けてですね。
 ただ良寛はですね、わりと若い時にこの「本願念仏」というものと出会って、その「本願念仏」をその自分の究極的な拠り所にしていた人ですね。
 ですから、良寛さんが自殺に終わらなかったのは、「本願念仏」というものがあったからだというふうにも考えられますね。良寛さんにはあの辞世、いろんな句が辞世の句として伝えられていますけど、その1つは、
良寛に 辞世あるかと 人問はば 南無阿弥陀仏 といふと答えよ」とこういう歌が残っております。

鎌:良寛さんは、一種こう、世を捨てるような風流な生き方だったというふうに解釈、世の中で一般的にされていますけれども、やはりその良寛が非常にこう自分の愛した句として、
「裏を見せ 表を見せて 散るもみじ」、人間には表も裏もあって両方見せながら亡くなっていくのがもみじなんだ、人生なんだっていうようなことを言っている言葉だと思うんですけれども、それについてはあの先生はいかがお考えでございますか?

 

阿:恐らくね、彼は「本願念仏」の本質をやっぱり掴んでいたと思いますね。「本願念仏」の本質をつかむとありのまま生き死にができるというか、だから「裏を見せ 表を見せ」ということは、その「本願念仏」の支えということがとても大事。
 やはりその彼が「本願念仏」という浄土仏教に強い関心を持っていたというか、その浄土仏教を生きてたわけですよね。そういう身に余る難題に対して、どのようにそれを納得していけばよいのかということでやっぱり「大きな物語」の役割っていうのは欠かせないと思うんですね。
 この「歎異抄」ではそんな大きな物語というのは、「無量寿経」という経典なわけですけれども。「無量寿経」という経典自体がですね、この不条理の真っ只中で不条理を克服するための教えとして説かれていると、そういう一面があるんですね。

 

ナ:「歎異抄」を支える大きな物語阿弥陀仏の本願が生まれた経緯を説く物語は、「無量寿経」という経典の中にあります。
 阿弥陀仏はもともと法蔵という名の人間でした。法蔵は不条理な現実のただなかで生きる人間の苦しみを見て全ての人を遍く救うという願を立てます。それは戦争や飢饉など社会の混乱や危機に加えて、人間そのものの存在が衰弱してゆく「五濁悪世」と呼ばれる世の中で立てられた願いでした。
 自らの願いが実現するまでは「仏にならない」と誓った法蔵は、長い歳月修行を重ねてついに「阿弥陀仏」になります。そして得た完全な智慧を駆使して一切の人々を不条理から解放する慈悲を実践します。
 「南無阿弥陀仏」という念仏は「阿弥陀仏に帰依します」という意味。念仏を称えることによって全ての人が救われる道を示したのが「本願念仏」です。

 

阿:「無量寿経」には「五濁」と呼ばれる「不条理」そのものは説かれています。五つの濁りですね。1つは、時代のひどさ、戦争とか飢饉とか疫病がはやる。2つ目は、思想が貧弱化すると、思考力が劣化をすると。3つ目は、人の考え方がますます自己中心的になっていくと、もう智慧に欠けることおびただしい。4つ目はですね、身体と精神の病が深くなると、特に精神の病が深くなる。5つ目は、人間の寿命は短くなると。これは紀元前後のですね、インド社会の姿が実はそこに反映していると言われています。
 ですから、そういうその「五濁」と呼ばれるそういう不条理の世界そのものをこの「無量寿経」というのは説いていて、その教えの要はですね、「無量寿経」の教えの要は、一切衆生が究極の智慧を手にできる方法、つまり「行」というものを工夫して与えたという点です。
 それはどういうことかと言いますと、それは「南無阿弥陀仏」という名を称えるという方ですね、方法。阿弥陀はその「南無阿弥陀仏」になっていて、その「南無阿弥陀仏」を口にするというのは阿弥陀の心が私共の心の底に伝わってくることなんだと。「本願念仏」で「信心」が大事だと、阿弥陀仏の本願を信ずるということが大事で、そして称名をする、念仏をするということが大事だと、こう言っていることの理由をですね、「信心」という言葉を手がかりに考えるとわりと分かりやすいと思うんですね。
 この普通、世間では「信心」というのは私が起こす「信心」ですね、私は神仏に対して起こす信仰心、それを普通は「信心」と言っているわけです。しかし、私は「信心」という言葉よりも「納得」するというごく普通の言葉に置き換えた方がいいと思ってるんですね。
 つまり、阿弥陀仏の物語を聞いて納得するということがこの大前提であって、納得するかしないか、そういう意味のまあ「信心」ということがあると。もう1つ、「本願念仏」でとても大事なことは、「南無阿弥陀仏」を口に称えると、阿弥陀仏の心は我々の心の奥底に伝わってくると。そして私達の心の奥底に「まことの心」を蓄えていくというそういう考え方ですね。
 そのまことの心のことを、しかも阿弥陀仏の「まことの心」であるから、親鸞は「大信心」という言葉を使うんですね、「大信心」。私が「南無阿弥陀仏」と称える、その称えた結果私の中に阿弥陀仏の心は生きていく、それは自覚できないですよ。阿弥陀仏の心は私の中で働くって言ったって私は全然分かりません。な~んにも分からない。
 ただ、阿弥陀仏の名前を称えることで私の中に阿弥陀仏の「まことの心」が伝わってくる、そのことを「大信心」と言うんだと。念仏をすると私達の心の中にまことの心、阿弥陀仏のまことの心が伝わってくると。それが我々をその仏たらしめるそういう方向に引っ張っていくんだと。

 

鎌:根本的なお話で申し訳ないんですが、阿弥陀仏が名前になっているというお話なんですが、「阿弥陀」というのはですね、実はどういう意味があるんでしょうか。

 

阿:「阿弥陀」というのは「無量の光」と「無量の寿命」という意味のようですね。ですから、無量光、光が無量である。これは何を意味するのか。
 これはあの、法然上人がとてもいい解釈をしておられますけど、普通の光は物が当たると影ができるでしょ。それから光を通さないものがありますね。ところが阿弥陀仏の光は影を作らない、その光を妨げるものは一切ないと。
 つまり普遍性ですね、絶対的な普遍性。つまり阿弥陀の名の持っている普遍性。もっと言えば阿弥陀の本願力の普遍性ですね。そういうことのシンボルであると、これは法然上人はとても強調された。だから我々は念仏だけでいいんだと、こういうふうに言っておられる。
 無量寿の法はですね、この寿命が無量だというわけです。これはあの、有限の寿命しか持っていない私なんかにはよく分からんことですね。
 しかし、それだけ無量の寿命を必要とするほど人間の業は深くてですね、もうほんと、お手上げなぐらい深いと。ちょっと我々が努力すれば克服できるような、そういう人間の業というのはそんなものじゃない。そこはやっぱり生命というものはお互いに相食みながら維持してきたわけでしょう、自分の生命を。相食むことでしか成り立たない生命の持っているある意味では限界を表しているのかもしれませんね。

 

ナ:「歎異抄」には、念仏を称えることで人生の不条理に向き合う時に、どのような心の変化が生まれるかを説いた一節があります。第七条に現れる「無碍の一道」という言葉。身に降りかかる何事にも、うろたえ動じることがない道を示しています。

 

阿弥陀仏の名を称する行為、念仏は、何事にも妨げられない唯一絶対の道、無碍の一道を歩む証です。そのわけはどういうことかと申せば、信心の行者に対しては天の神、地の神も敬ってひれ伏し、魔の世界にあるものも仏教を否定する異教徒の人々も妨げをなすことができないからなのです。罪悪もその報いを行者の上に表しても行者の心を揺り動かすことはできませんし、いかなる善も念仏に及ぶことがないので念仏を無碍の一道と言うのです』

 

阿:「念仏は無碍の一道なり。そのいはれいかんとならば」、その理由はどうかと言えば、「信心の行者には」、信心をしている人「本願念仏」を信じて念仏をしている人、「信心の行者には天神、地祇も敬伏し」、天の神、地の神も敬い、「魔界外道も障礙することなし」、魔界とか非仏教的な様々な迷信の世界も妨げになることはないと。本願を信じて名号を称える暮らしが始まると我々の心の中には、その「無碍の一道」と「歎異抄」が言っているようなそういう世界が広がってくると。
 ただし、「無碍の一道」といっても中々よく分からんですよ。というのは、「無碍の一道」という言葉はこれは阿弥陀から見た言葉なんでしょう。阿弥陀仏阿弥陀目線で見るとこの何の障りもない
 ですから、人間から言うと自分はもう差し障りだらけの暮らしの中にいるんだけど、阿弥陀の名号を口にするとですね、いささか自分と自分の暮らしを、まあいわば客観視するというか今までよりは客観視することができて、そこにある種のゆとりがまあ生じてくるというふうなことがまあ起こるんだと。
 そうなるとですね、災いとか不幸とかが生じてもですね、じたばたしなくなる。ましてやですね、その、神社、仏閣に詣でて凶を吉に変えて下さいとか福を禍に変えてくださいというふうな祈願をすると、そういうことをしなくても済む、ゆとりというのが生まれてくるのではないかと。

 

池:先生、これあの、「無碍の一道」と聞くとですね、非常にあの、何事にも妨げられないうちという言葉を聞くとですね、非常にそういうものが手に入るのかというような気持ちにもなりましたが、先生先程おっしゃったように、それはあくまでその阿弥陀目線から見た時のその「無碍の一道」である、そういう理解でしょうか?

 

阿:ですから有礙だらけの、つまり、差し障りだらけの我々からすれば、私の中では名号が働くと、そういう有礙だらけだという私が前よりは少し見えるようになってくると。

 

池:差し障り自体は消えない

 

阿:それは絶対消えないです。
 だから、もう一つ、その我々が宗教について思い込んでいる間違いの1つは、宗教を信ずると、あるいは宗教を実践するとあらゆる差し障りが姿を消すんじゃないかと。あるいは、そういう苦しみの原因が全部無くなるのではないかというふうな、まあ私から言えば錯覚を持ちがちだと思いますね。
 しかし、仏教、この「歎異抄」が教えている「無碍の一道」というのは、そういう差し障りが消えるということではないんですね。それをあの第七条の後半の言葉で言うとですね、
『罪悪の業報を感ずることあたはず』という言葉ですね。それぞれがそれぞれの縁に従って身につけてきた罪悪は、必ず私のこの体の中、私の人生で姿を見せる。しかし、それに感ずる、つまり左右される激しく引きずられると、そういうことはないんだと。苦しくて嫌だけどもうこれは、そういうものだとして受け止めることはできると。それがある種の余裕というものでしょうね。
 それでね、私はいつもその話を聞くと思い起こすのは、「二河白道のたとえ」という話なんですね。これはあの、中国で善導の話などが中心に生まれた図柄ですけれども、そのどういう図柄かというと、ある人が旅をしていると、西に向かって旅をしているんだけど、そうすると後ろの方から盗賊とか猛獣が襲ってくるんですね。で、それから懸命に逃げて逃げようとしていると、突然目の前に川が現れてくる。よく見ると川幅は100歩くらいでそんなに広い川じゃないんだけど、その右側はもうこの水がこの怒涛のように渦巻いていると。それで左側の川はですね、火が渦巻いているというんですね。その水と川の間に細い白い道が一本通じていて、その白い道を渡ると向こう岸に着いてですね、後ろから追われている災難から逃れることができると。

 

ナ:中国で浄土仏教を確立した僧侶の一人、善導が説いた「二河白道のたとえ」、降りかかる災いや不条理を前に阿弥陀仏が私達人間に対してどのように救いの手を差し伸べようとするか説いた話です。


『川の前にいる旅人に背後から声が聞こえます、「この白い道を行きなさい、とどまれば死ぬだけだ」。向こう岸からも声が聞こえます、「水の河か火の河に落ちることを恐れる必要はない、私が守ってあげるから早く渡ってきなさい」。前方の声と後方の声に励まされて旅人は河を渡り始めます。すると今度は盗賊達が声をかけてきます、「危険なところを歩かずすぐに戻ってこい、俺達はお前に危害を加えるつもりはない」、しかし旅人は盗賊達の声に耳を傾けず、不思議な声を信じて道を渡りきりました。これが「二河白道のたとえ」です』

 

阿:この旅人が西に向かって歩むというのはまあ求道、仏教的な求道ですね。もうちょっと言うと浄土に生まれることを願うという、そういう願いに生きる人を表しているんですね。で、後ろからこの盗賊とかその野獣が追っかけてくるというのは、自分の、自分の体でありながら、自分の中の様々な要素が私の意志に反して、つまり熱なんか出してほしくないのに熱を出すとか、何かあの、そんなにあの飢えなくてもいいのに猛烈飢えを主張してくるとか、自分の体のことのシンボルとしてその盗賊とか野獣というのを考えているんですね。
 そして、川でこちらと向こうに区切られているということは、こちらの世界は今の我々の世界であり、その川の向こう側の世界はこれは、浄土の世界だということを意味している。怒涛のように渦巻いている水は何かというと、これはその貪りの心を象徴しているというんですね。それに対してあの左側の火は人間の瞋りというものであると。
 つまり、我々の暮らしというのは貪りと瞋りのせめぎ合いのような中でかろうじて人が渡れるだけの白い道があると。この白い道は浄土を願う人間の心だと、求道心というものだと、こういう説明をされますけれども。
 私はこの説明で面白いのは、その川を渡ろうとした時に旅人はですね、その火の方、水の方いずれにしても、何度落ちても何度落ちてもその向こうの岸のこれは阿弥陀仏ですけど、阿弥陀は必ずお前を自分の浄土に連れてこいと約束しているんですね。普通の宗教はですね、この道から落ちるなと、つまり、火に落ちるな水に落ちるなとこの白い道をただひたすらやってこいというふうにまあ教えがちなんですよね。
 ところが浄土仏教はですね、火に落ちても水に落ちても何度落ちようが私がちゃんとまた引き上げて連れてくるから安心して渡ってこいと、こう言っている。それは私達人間からすればどういうことかというと、自分は特別の何か宗教的な修行をしたりですね、道徳的なこの禅を積み行うとかというそういう努力をしなくてもいいということですよ。私が瞋りに任せて、あるいは貪りに任せて、でも、その念仏という行為だけをすれば必ず浄土に生まれることはできると。こういうその、自分のありのままの姿のままで自分が救われていく道があるということを今示唆してることがこの二河白道の面白いところだと思うんですね。

 

池:そうしますと、不条理の中で生きている中でほんとにその瞋りに方に行ってしまったりとか、あるいはまた、それがまた次の不幸を生んでということに人間なりがちだと思いますけれども、そのことはそのまま進んでいってもよいのだという。

 

阿:そうです、そうだと思います。そうしないでおこうと思っても、そうなるんですよね我々は。瞋りやその恨みやその何ていうかそういう道に入らない、入る入ろう、入っちゃいけないんだといくら言い聞かせてもそうなっちゃうわけですよね。ですから、そのままでいいんと言うんです。それはそれでそのままでいいと。ただ称名というふうな道を忘れなければよろしいと。
 で、実は流されていってもいいんです。流されていってもね、また全部救い上げてくれるんだと思いますね。だから法然がただ念仏せよとしか言わなかったと、一切条件をつけずにただ念仏せよと。つまり、火に落ちようが水に落ちようがね、念仏さえすればよろしいというのはそういうことだと思いますね。

 

ナ:阿満さんは、抗いようのない現実を体験し「歎異抄」によって救われたある人物に注目しています。阿満さんとも交流があった作家、丹羽文雄。人間の内面を男女の愛憎や家族の葛藤を通して赤裸々に描き続けました。その根底にあったのは生まれ育った家庭に起きた不条理でした。
 まだ幼かった頃、母親が自分を置き去りにして家出、丹羽はその後もすさんだ生活を送った母に対する複雑な感情を抱き続けました。しかし、彼は晩年「歎異抄」に「煩悩の深い悪人こそご救われる」と説かれていることに改めて気付き、母の歩んだ人生を捉え直すことができたと語っています。

 

『改めて親鸞の「歎異抄」を読んで、「歎異抄」の中の悪人正機っていう章にぶつかった時、自分の母親は本当の悪人正機で、親鸞の言う通り悪人正機の典型的な生き方をした人間だった。その悪人は法律的な意味の悪人ではなく、煩悩に負けやすい人間という意味です、過ちを犯しやすい人間、つまり私の母親です。
 そういう母親を仏は救う最初の開いてにしているんだということを「歎異抄」から感じ取ることができて、「俺の母親は誰よりも救われてるんだ、最初に救われている」と思いましたら私は母親を非難していたことが間違っていると、母親はとうに救われているんだと、母親の最後の念仏の様子なんか見ると母親は仏にすがりついてるんだと実感として分かるようになった』

 

阿:丹羽文雄三重県のお寺に生まれた人ですけれども、彼は4歳の時にお母さんが家出してしまうんですね。その理由は、その父がこの義理の祖母と関係してしまったと、それを知って母は家を、つまり寺を出ていったと。
 家を出た母はですね、その後大変な役者狂いの日々を送るし、最後はこの人の世話になる、いわゆる妾暮らしで終わるというふうなことになって。晩年に丹羽さんはこの母を引き取って世話をしようとするんですけれども、母親はですね、彼が引き取った家の近くに田んぼがあったんですけれども、その田んぼにですね案山子があったんですが、その案山子は死んだカラスをぶら下げて作った案山子なんですね。その鳥よけのために田んぼの真ん中に立てられたその案山子に母親は毎朝ですね、このお供え物を持って出かけていってその案山子に手を合わせて念仏をすると。その念仏の声が風に乗ってその丹羽文雄の耳に聞こえてきてですね、丹羽文雄はもうどうしていいか分かんなくなってしまう、というようなことがあったそうであります。
 しかし晩年にたまたま、しょっちゅう昔から親しんでいた「歎異抄」はですね、土蔵の中に入って目に入ってぱっと開けたらですね、こういう不条理に苦しむ人間のために「歎異抄」というのは書かれているんだというふうに自分で理解してですね、気持ちがやっと安らかになったと。
 実際に彼の書いたもの、この「佛(ほとけ)にひかれて」とかいうところにもよく書いておられますけど、母は救われていたんだと、「この悪人なほ往生す、いかにいはんや善人をや」、母こそが親鸞の言う往生の正因の資格を十分に備えていた人間であった。そうすると自分が救われているというか安堵するようになったと。

 

ナ:丹羽文雄が「歎異抄」と出会うことで不条理と向き合う道が開かれたように、阿満さん自身もまた、自らの人生に起こる不条理をどう受け止めるか、「歎異抄」の中に探ってきました。

 

阿:私はその「不条理」の中でも、最も不条理は私が死ぬということです。自分がある日突然死ぬということは何ともはや、なんと理解していいのか、これはあの、最大の不条理だと言っていいと思いますね。「死」というものをどうしたら乗り越えていけるのか、自分は死ねばその、どこへ行くんだろうかと。そういうふうなことについてですね、中々決着がつかない。「死」というものがあたかも壁のようになってですね、ここから先中々進めないと、そういう感情をずっと持っていたんですね。
 しかし、私が念仏を続けて、その念仏の中で死んでいくとですね、私は阿弥陀仏の国に生まれて仏になるんだと。念仏の度に私は浄土にどんどんどんどん近づいている。で、そのそういうふうにして念仏を受け止めてみると、私自身がですね、私の「死」について今まで思っていたこの考え方が大きく変わってきたことに気が付きました。
 それがどういうことかというと、自分の死というのは何か浄土に至るその道筋の1つの通過点にしかすぎないと。この「死」というのは点になってしまってですね、その一点を過ぎれば次はもうその阿弥陀の浄土である。そしてその先には一切衆生を度するという、そういう慈悲の活動の世界があるんだと。
 だから、そのつながりの中の1つの出来事だというふうに自分の「死」をですね、この感ずるようになってきてもう壁ではなくなりましたね。それは念仏ができない間は「死」は恐怖でもあるわけですけど、だからひたすら死にたくないという思いなんだけど、そういう壁が点になったためにですね、「死」というものに対するかつてのような恐怖心はもう無くなったと言ってもいいと思いますね。こういうことは神秘的なことではなくてですね、念仏の暮らしというものを持続している人は皆どこかで感じておられると。
 あるその少し古い時代のお百姓さんはですね、ずっと若い時からこの「本願念仏」の教えを聞いてきた人で、念仏を生きてきた人ですけれども。彼はですね、死ぬ時はさぞかし立派に死んでいくんだろうなというふうに思って、いろいろな人がですね、「どうすれば安心して死んでいけるのか」なんか聞くようになったというんですね。ところがその人はですね、「持ち前どおり死んでいくがよろしい」と、「持ち前どおり死ぬしかないし、持ち前どおり死んでいけばそれで十分だ」というふうに教えたというんですね。つまり、ありのままに死んでいけばいいんだと。ありのままで死んでいけば、ふだんのままで死んでいけば、もう死ねばそこは阿弥陀の浄土である、だからもう何の不安もないと。
 そういう仏になる道を歩む中ではですね、「死」という不条理は、私は力を失うと思いますね。依然として不条理ですよ、「死」は不条理だけど私の中では力を、今までのような力を振るうということはないですね。どういう過去の行為が死ぬ間際に姿を表してですね、もうふた目と見られない無残な姿を人前にさらして死んでいくかそれは分かりませんね。それでもいいんですよ、それでもかまわない。それでもかまわないというのが大きな安心ですよ、これは。

 

鎌:一般的に仏教を深く学んだことのない無宗教の立場から申し上げますと、その浄土に行くというのが死ぬことにイコールだというふうに考えると僕達なんかは傾向としてあると思うんですが、浄土というのは死ぬことではないというふうに考えてよろしいんでしょうか。

 

阿:具体的には死なないといけないんです。しかし、「死」で終わりじゃなくて、死ぬことで「浄らかな土」と書いてありますね「浄土」と。何が清らかかというと、人間の煩悩は全部浄められるというそういう意味合いですね。
 ですから、浄土というのはこの世では色々差し障りのある仏道修行が一切の差し障りなく自由にこの修行ができて、仏になることができる場所、それが浄土ですね。ですから、死ぬためにいく、死んでいくところじゃなく、確かに死んでいくところなんだけど、死んで終わりじゃなくて、そこで仏になるという大仕事が待っているわけですね、それを可能にすると、そういうイメージが「死」というものを壁から解放する1つの役割をするんだと思いますね。

 

池:この「本願念仏」の中でですね、浄土に救われる場があるということは、やもするとその現実に起きているですね不義とか不正あるいは不公正をこう放置してもいいんではないか、そこには目をつぶって、その浄土に行った後に解決すればいいという、やもするとそういった考えに陥る危険性もあると思うんですが、そのあたりはいかがでしょう。

 

阿:それはそのとおりで、また、そういう意味でその、宗教がイデオロギー的にね、政治によって使われると、諦めの諦めの論理をその強制していくというかそういう歴史もあるし、現に宗教が社会の中で果たしている役割はそういう一面がやっぱり強いですよ。
 ですから、宗教というのは文字通り、昔の人の言葉で言えばアヘンなんですよね。それは現実をごまかすための、今さえ何か納得して生きていければ社会全体がどうなろうとかまわないというようなことに陥りがち。まあいわば、1つの秩序を守ろうとする人にとって、それが有用なアヘンの役割を果たすということで使われてきた。そういうことを知っている人は絶対に宗教には近づかない。無宗教であると、誇りをもって無宗教を選ぶと、こういう人もいるわけですね。私は当然だと思うそれは。
 しかし、持続する精神がないと社会変革というのは成り立ちませんよ。思いつきだけじゃどうしようもない、ある一代だけじゃどうしようもない。そこに持続というものをこの引き出すその場として、宗教というものの価値をちゃんと正当に認めるということは必要だと思いますね。

 

ナ:「歎異抄」の第一条、そこには念仏を称えることがなぜ現実の生活を生きてゆく上での救いとなりうるかこう記されています。

 

阿弥陀仏の誓いによって浄土に生まれることができると信じて、阿弥陀仏の指示どおりにその名を称えようと思い立つその決断の時、阿弥陀仏はただちに感応してその人を迎えとってくださり、すべての人々を仏とする働きに参加させておいでなのです』

 

 阿満さんは、この第一条に出てくる「あづけしめたまふ」という言葉に不条理な現実に左右されないための「鍵」があると考えてきました。

 

阿:この「摂取不捨の利益にあづけしめたまふなり」という「あづけしめたまふ」の「あづく」という言葉ですね、この「あづく」という言葉は今までは「被る」と、ですから、摂取不捨の利益を被ると、そいういう受け身的なこの解釈が多かったんですけど、私はある学者の説にしたがって、「あづく」という言葉は参加させるという他動詞である、それに「しめたまふ」という最高の尊敬語がくっついて、その摂取不捨の利益に念仏者を参加おさせになるとこういう意味合いなんだと、私はこの解釈がとても気に入っているんですね。
 全ての人を摂取不捨の利益に参加させるという阿弥陀仏の事業、そういう事業に参加するということの中身をですねよくよく検討してみると、一切衆生を度すると、つまり、生き物の網の総体を救うということを仕事にすることができると、自分の回りで暮らしている人が苦しい生活をしていたり、瞋り、わめき、この嘆いていたら果たして幸せでいることができるのか、それはあの全部が救われた時に初めて自分の救済が成立すると。
 「無量寿経」の経典の中にですね、「あまねくもろもろの貧苦を救う」というそういう仕事に従事できるようになるんだと書いてある箇所があるんですね。この貧苦は文字どおり精神的、経済的、社会的、私は貧苦を意味していると思うんですね。そういう私が申し上げる根拠は、釈尊は、歴史的人物としての釈尊ですね、釈尊はゴーダマ・シッダールタはおなかのすいた人には説教しなかったと言われています。おなかのすいた人間は食べたくて食べたくて、そればっかりが関心がいくからどんなにいい話を聞いてもそれは分からないんですよね、心にとどまらない。だから、まずはおなかがくちくなってから話をということになるんでしょう。
 ですから、全ての人々にその仏教の教え、慈悲の実践という教えを説くためには人々が飢えていたら駄目なんですよ。人々がその経済的にその飢えから解放されるという状態をまず作るということが大きな仕事になるんだと思いますね。

 

鎌:あの、社会とか経済が政治的にもですね、これだけ「五濁」が、非常にこう不条理が起こってる時に、では、私達一人一人が救われるためにためにどうしたらいいのかっていう、その現実問題として考えていった時に先生はどのようにお感じになられますでしょうか。


阿:いわゆる社会科学の視点で、人間社会の変革ということを考えていくとそれも立派な道ですよ。また、それは大きな成果を生むんだろうと思いますね。しかし、これだけの悲惨、そのウクライナの問題すら解決できない。そして、これだけコロナで人々が苦しむと。我々のその、いわゆるヒューマニズムの成果として、どれだけのこの力が人々に伝わっていったか、伝わりつつあるか、大変絶望的ですね。
 特に、社会経済が生み出す不条理ってあるわけですね。その世界の富を20何人か30人足らずの富豪がその半分を手にしてるとかね。日本の社会で7人の子供の内1人がその飢えに苦しんでいるとかね。こういう話はもうまあいたたまれんですね。
 それでそういう社会を変えるためにどういう努力をしたらいいのか、もうこれはね、それは100年、200年、300年、500年、だって人間変わって代が変わるでしょう。また1から同じ過ちを繰り返すんですよ。だから先程の「無量寿」というね、そういう発想が生まれてくる根拠は、すいうところにあるんだと思いますね。
 だから、私は社会科学的な変革のその可能性については期待していますよ。それは期待するだけではなく自分もそういう努力をしていかなくちゃいけないと思う。しかし、それが実現するのは宗教的な信念のこの支えがないとその持続はできないと。それは私一代ではなくて次の世代にもそれは持続してもらわないと困る。そうでないと人間の業の、悪業の深さだけが持続されてね、それを克服するための知恵が寸断されるようではね、それはもう解決は先へ先へ伸びるだけですよ。
 つまり、「本願念仏」というか宗教が理想としているというか、宗教の教えが一番大事なのは、世代を超えてそれが持続されるということですね。ですから、浄土教というものが浄土というものを立てて次の代へその救済への願望を持続させていくというね、そういうこと

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NHK「100分de名著」ブックス 歎異抄 仏にわが身をゆだねよ

NHKこころの時代~宗教・人生~ 歎異抄にであう 無宗教からの扉 (NHKシリーズ)

2022/7/17 歎異抄にであう シリーズ 無宗教からの扉(4) 「他力をえらぶ」

阿満利麿:宗教学者 明治学院大学名誉教授
ききて(ディレクター):鎌倉英也、池座雅之 

ナレーター(以下「ナ」という):「歎異抄」は700年前の鎌倉時代に書かれた仏教の古典です。そこに貫かれているのは、自力の力「自力」による悟りではなく、阿弥陀仏の本願の力によって悟りを手にしようという他力の思想。
 法然が唱え、親鸞らが受け継いできたその教えを正しく伝えようと親鸞の門弟となった唯円が書き留めました。
 他力の思想の中心にあるのは、阿弥陀仏の名前を称える「念仏」。「歎異抄」には現在の私達が抱くイメージとは、異なる念仏のあり方がつづられています。

『念仏をするたびに罪が滅ぶという考えは私たちが信じる念仏とは異なります。
 私、親鸞は父母の追善供養のために念仏を申したことは一度もありません』

 なぜ、このような言葉が「歎異抄」に書かれているのか。宗教学者の阿満利麿さんは、法然親鸞の説いた本願念仏の思想を中心に据えながら日本人の宗教意識について研究してきました。

阿満(以下「阿」という):父母の孝養(供養)のために念仏をしないというのは一見我々の常識を逆なでするような言い方だけれども、逆に我々の常識が持っている危うさを教えている。
 宗教というのは死者の世話をすることだとどうもなりがちで、生きている自分を問うという契機がどうも薄くなっている。

ナ:シリーズ「歎異抄にであう 無宗教からの扉」。第4回の今日は、本願念仏の核心にある「他力」とは何かをひもとき、他力を通じてみえてくる日本の宗教的風土について考えていきます。

ナ:「歎異抄」を貫く「他力」の思想、その「他力」について詳しく説かれているのが第十六条です。

『万事につけて浄土へ生まれるためには、すべて利口ぶらずにただ我を忘れて阿弥陀仏のご恩の深長であることを常に思い出すのがよいのです。そうすれば念仏も自然に口をついて出てくるようになるでしょう。これが阿弥陀仏のおのずからのはたらきです。
 私があれこれと考えたり按配しないこと。それを「おのずから」と申すのです。それがとりもなおさず他力ということです』

---(1分程録画データが破損しているため記載できない)----

阿:普通の暮らしの中で「他力」というのはあんまり評判のいい言葉じゃございませんね。学校のテストなんかでですね、あんまり勉強もせずに適当にやりながら結果だけは欲しくてですねちょっと神様にお願いするとか。つまり、他力本願というのはどうも専ら他人をあてにする、ずるいとかですね、なんか丸投げであるとかそういうふうな意味であんまりいい意味には使われておりません。
 しかし、それはこの「他力」という言葉は仏教の言葉なんですね。仏教の言葉である「他力」がだんだんとまあいわば変質してですね、今のような使われ方に至ったということだと思います。「他力」という言葉はですね、中国にインドから仏教が入ってきた時に中国の人達が工夫した言葉ですね。

ナ:今からおよそ2,500年前、ゴータマ・ブッダを開祖としインドで生まれた仏教。世俗を離れて出家し修行を重ねることで人間が苦しみから抜け出す、悟りを開こうとするものでした。
 ブッダの死からおよそ500年が過ぎた紀元前後、その仏教の中から、出家者のみならず人々が遍く救われる道を説く新たな教え、「大乗仏教」が興ってきます。大乗とは「すべての人々が乗れる大きな乗り物」という意味。この教えは中国に伝わり発展してゆきました。
 6世紀に活躍した中国の僧、曇鸞。彼は厳しい修行を重ねて自力で悟りを得ようとする道ではなく阿弥陀仏の本願の力、すなわち「他力」によって誰もが悟りを手にできる道を示します。これがやがて「歎異抄」でも説かれる浄土仏教の礎となりました。

阿:曇鸞という人は6世紀の前半に活躍をした高僧、偉いお坊さんで親鸞の「鸞」というのはこの曇鸞の「鸞」から来てるわけですけれども、その曇鸞さんはですね、当時の中国社会で普通に使われている「他力」という言葉に注目をされて、ちょうどその中国に入ってきた仏教の中で阿弥陀仏を中心とする新しい仏教ですね、その新しい仏教を仏教の中で位置づけるためにこの「他力」とか「自力」とかいう言葉を使われ始めたんですね。ですから、「他力」という言葉はこの仏教では当初から阿弥陀仏の本願の力という意味を鮮明に持っているわけです。
 曇鸞がそれまでの部協を全部「自力」というふうに一括して新しい仏教を阿弥陀仏の信仰に基づく仏教を「他力」というふうに読んだ根本の理由はですね、全ての人が同じようにその仏教の実践ができるとは限らないというそういう問題があったわけですね。
 で、私は「他力」の仏教が誰のための仏教かということを考える時にですね、面白い現象に気が付いたんです。というのは、日本にその浄土仏教を初めて詳細に紹介したのは源信僧都であります。で、源信僧都の「往生要集」というものが、日本の浄土仏教の原点みたいなものでありますけど。その源信さんはですね、自分のことを「頑魯(がんろ)」というふうに言ってるんですね。「頑」というのは、かたくなで自分の考えを変えない頑固のあの「頑」ですね。「魯」というのは、愚かなという意味です。
 で、この源信さんというのは、比叡山の教団で始まって以来というくらい優秀な人だったんです。極めて優秀な人がね、自分のことを頑魯とこう言うんですよ。それから更に200年後、この源信さんから200年後に浄土宗というものを開かれた法然さん。法然上人もですね
比叡山の中ではまれに見る秀才と言われたわけですが、法然さんも自分のことを何と呼んでいるかというと愚癡の法然坊と、こう言うんですよ。愚癡っていうのは「愚」っていうのは愚かですね。「癡」っていうのも愚かという意味の「癡」ですけれども。そして、法然さんのお弟子になった親鸞さんもですね、自分のことを最後は愚禿と言うでしょ。愚かにっていう字を書きますね。
 そうするとね、この浄土仏教を選択をした大先達達がね、皆自分のことを愚かだと言ってるというのは、これは重大な鍵だと思いますね。まあ変な言い方ですが、「阿呆が分かった賢い人達」だと私は思うんですね。関西弁でいう「阿呆」つまり愚か。自己の愚かさというものに気が付くのにこんなに賢い人達が努力をしたっていうか。それは何を意味してるかというと、愚かという人間のために阿弥陀仏の本願はあると。つまり「他力」の仏教というのは、自分が愚かな存在だというふうに認識した人にとって意味のある仏教だということだと思うんですね。
 ですから、自分を愚かだと思うことができないと「他力」の仏教は遠いことになると思いますね。私共はやっぱり自分のものの考え方に執着してますよ。その自分のものの考え方を基準にしていろいろ判断をしている。そうするとお互いに自分の世界、自分は世界をこう見てるということでつきあうわけですから、衝突するのは当たり前になってくると思いますね、それが愚かということの根本的な意味ですから。
 そうなると源信法然上人や親鸞さんたちと私達とある意味では愚かさにおいては同じなんですね。私達は真理というものが何であるのかは中々分からない、何が本当であるかは分からない。問いを発することはできるけれども、その問いの答えを見出すことはできないという、そういう悲しい一面を持ってるわけでありますけれども、心の底ではやっぱりどこかで真理というものに近づきたいとか、本当でありたいというそういう気持ちがどこかでやっぱり流れているんですね。そういう願望に答える道として「念仏」というものが生まれてきているわけですね。
 ですから、「他力」の仏教というのは今申し上げましたように阿弥陀仏の本願力を意味するわけですね。この他なる力、他、自分と違う別の力。これは阿弥陀仏の本願の力のことである。そうすると「他力」の仏教を選択するということのためには、今申したように自己の中の愚かさの自覚というものがどうしても必要になってくる。

ナ:浄土仏教の教えが息づく「歎異抄」。「他力」という言葉はその冒頭序文に早くも現れます。「他力の宗旨を乱ることなかれ」、そこには法然親鸞が説く「他力」の教えをゆがめて解釈し、混乱させることがないようにと戒める唯円の願いが込められています。
 唯円は更に第三条で「他力」とは対照的な立場にある人のことを「自力作善の人」と呼び、「他力」の意味を伝えようとしています。

『自らの努力によって善を積み行う人は阿弥陀仏の本願をたのむことがなく、したがって、阿弥陀仏の本願の対象になる人ではないからです』

阿:法然から親鸞が学んだ「他力」の教えというものを更に唯円が聞いて、しかし、唯円の仲間達がその「他力」の宗旨、教え「他力」の本来の意味というものを誤解するようになってくると。そのことについて唯円がいろいろ心を痛めて、以下「歎異抄」という形でその問題を書き上げていくということでありますから、「歎異抄」自体が「他力の宗旨を乱ることなかれ」というその一点でまとまられていると。だから積極的に言えば、この「歎異抄」を読めばですね、「他力」の教えというのはどういうことかということが分かるように書かれているはずだと思うんですね。

池:あの、第三条でも「他力」という言葉が出てきて、その場合には「自力作善」という言葉と対比して「他力」という言葉が出てきたと思いますけれども。非常にこう今日その「自力」ということ、自分の力で何かをしていくということが非常に言われているような社会であると思いますけれども。

阿:またその点が一番多くの人が躊躇するっていうか引っ掛かるというか。なぜ「自力作善」がだめなのか、自分で努力をするっていうことは否定されるのかということについて中々納得しがたいということが出てくると思うんですが。
 「自力」、「他力」というのは仏教という土俵の中の言葉ですね。一般の世俗社会の中で、いつも他人に丸投げして生きていきましょう、なんてことを主張しているわけじゃないわけです。
 ですから、「自力」、「他力」、ここの第三条で言えば、「自力作善」の人は戒律を守ると、あるいは、いろいろな仏教で悪と言われてることはしないと、ものの命を取らないとかうそをつかないとかいろいろあります。そういうことをいつも守り続けると、そういうことですね。戒律を守るということは大変なことですね。座禅1つにしてもですね、その自分の精神を集中させて自分の意識に波が立たないようにするというのはこれは大変なことですよ。ずっとそういう意味で意識の集中にエネルギーを注ぎ続けるっていうことができるかというと、それは中々できませんよ。
 そういう自分の「自力」を尽くしてその「真理」に近づこうという、そういうことを試みていっぺん挫折しないと阿弥陀仏の本願というものが用意されてるということのこの意味が分からないと思うんですね。色んな行をして、どの行も自分は実践し、果せないというそういう悲しみがあって初めて阿弥陀仏の本願というものに目が向いていくわけですね。
 ですから、私達がなぜ「他力」でないと駄目なのかというのは、ひとえに自分がどういう存在であるのか、つまり、行が実践できるかどうかということもさることながら、もうちょっと言うと、行が実践できない理由を尋ねていくというやり方で自分の本質を見ていくというそういうプロセスが必要になると思うんですね。そういう自分の中に自分でも分からない闇を抱えているというそういう不安定さというか、そういうふうにして自分の本質にだんだん気が付いてくると。そうすると阿弥陀仏の本願という「他力」がぐっとこう近くなるということがあるんじゃないでしょうか。

池:つまりその、言わずもがなかもしれませんけども、「他力」という言葉が他人任せ、他人に任せるとかっていうことでは全くないということですね。

阿:そうですね。仏教という宗教は、人間が未完成だっていうかあらゆる因縁果というか因と縁と果の流れの全体を見る智慧がないと。そういうその思いから阿弥陀仏の物語というのが生まれてきてですね、この世で最高の智慧を手にすることが難しかったら、死んでから後、死後の世界にそれを設けてみようではないかと。
 で、浄土という言葉はですね、あるいは極楽浄土という言葉は世間ではどういうふうに言われているかというと、相当その快楽の場であるかのような印象が流れておりますけど、本来の仏教で極楽とか浄土というのは仏道修行の邪魔が一切ない場所、それが浄土あるいは極楽なんですね。この現世ではつまり肉体を持っている間では煩悩がいろいろ騒いでですね中々その実現が難しい。
 だから、いっぺんその肉体を離れて、つまり死んだ後ですね、その理想的な仏になるための環境が整っているそういうところに行って、そこで仏になろうではないかというふうになってきてですね。浄土とか極楽というのは仏になるための最高の環境が整った場所とそういう意味なんですね。

鎌倉(以下「鎌」という):その先生がおっしゃっている「仏(ぶつ)」という言葉ですが、「仏(ほとけ)」という読み方もございますよね。

阿:それはね、仏教ではインドの言葉のブッダの音を中国語で感じに写すとあの仏になったわけですね。だからブッダというのは覚者、悟った人です。仏教の真理を体得した人、それが仏(ぶつ)なんですね。
 ところが日本に入ってきますとね、「仏(ほとけ)」という訓が生まれてくるんです。で、なぜその死者を仏というようになったのかということの直接的な背景は中々難しいですが、1つは浄土仏教が広まっていく中で念仏をしていた死者が浄土に生まれて仏(ぶつ)になるんだと。だから死は仏になるということとイコールだというふうなことがだんだんと念仏をしない人にも当てはめるようになって死者を仏(ほとけ)という一般的な言い方が生まれてきたのかもしれませんね。
 特にこれは親鸞が強調してきたことですけれども、仏になる、究極の悟りを手にするための道が「念仏」なんですね。だから念仏するたびに仏になりつつあるわけです。その仏はなんのために存在するかといったら人々を助けるためですね。人々に慈悲を行使するために仏になる。だからもっと言えば、浄土に行くのは自分の快楽のためではなくって、あらゆる存在を救うためというそれが目標ですね。その肉体を捨てるまででもですね、仏になるための道を歩んでいるということの意味があると。それが本願念仏の大事な点なんです。あくまでも生きてる間に役に立つんです。生きてる間に役に立たなくて、死んでからだったらこれはもうどうしようもないです、生きてる間の仏教なんですから。
 ただ、その仏道の完成は肉体を離れた時であるけれども、そこへ至る道筋を歩んでいる、念仏の道は仏道そのものであって。
 ですから、その煩悩を持ったままで、つまり煩悩を全部克服した上でというじゃなくて、煩悩を持ったままで、つまり今の自分のありのままで、しかし、究極的な安心に至る道がそれが念仏というものなんだと。
 ところがどうでしょうかね、世間ではお念仏される場合はですよ、大体追善供養の場ではないですか。死者の追善供養のためにお念仏がなされている。なぜ、私共がいつの間にか死者のための追善供養に念仏をするというふうなことになってきているのかというと、これは私の言う自然宗教のなせるところですね。
 自然宗教というのは、いつの間にか知らないうちに身に付いている宗教意識であります。その宗教意識というものはしばしば年中行事の形を取っていたりですね、あるいは、例えば先祖供養であるとかそういう形で伝わってきているんですね。

ナ:自然宗教とは、人々が地域や家庭において、いつの間にか自然と身に付けてきた宗教意識のこと。教えを説く教祖が存在し、人々がその教義が示す道を選び取って信仰する宗教、いわゆる「創唱宗教」とは異なる宗教心を指します。
 日本では昔から先祖を敬う「祖霊信仰」が受け継がれてきました。「念仏」もまた、そうした自然宗教と結び付き、死者の鎮魂や慰霊のために広く行われてきました。
 「歎異抄」には、阿弥陀仏の本願に基づく念仏とは異なる念仏が人々の間に広まっていたことを示す記述があります。第五条、そこに登場するのは念仏が亡くなった祖先の供養のためのものではないと語る親鸞の言葉です。

『私親鸞は、父母の追善供養のためと思って一度でも念仏を申したことはありません。そのわけは、一切の人々はすべて輪廻の世界を流転する間に、父となり母となり兄弟姉妹となってきたのであり、どなたであっても次に浄土に生まれて仏となったとき救うことができるからです』

阿:第五条はですね、「親鸞は父母の孝養のためとて」、つまり父母の追善供養のためにですね「一返にても念仏まうしたることいまださふらはず」と。こういう激しいある意味では激しい言葉で始まっていますね。
 つまり、本願念仏は父母の孝養のために念仏しないんです。これをどういうふうに考えたらいいのかですね。我々は親しい人が亡くなったら親しい人についての思いを大事にすると。それは宗教を持っていようがいまいが人間である限り皆大体持つものですよ。
 ですから、ちょっと宗教のような気がするけれども、私は人情だと、美しい人情だと言っていいと思いますね。その亡くなった方のことをいろいろ思って手をあわしたりされるのを別にそれは不思議なことじゃないです。
 日本にはある時期からですね、人は死ぬとですね33年間、その子孫から供養をおまつりを受けてですね、33年経つと経つとようやくその死の穢れが拭われて「ご先祖」という清らかな、しかも個性を持ったその村全体の清らかな魂になると、先祖になると。こういうふうな考え方がありまして、そのご先祖は時には、地域の神様になったりですね、あるいはまた、孫子になって生まれ変わってくるとかいうふうにも言われていました。
 ですから、こういう日本の自然宗教が生み出した、人間は死んだらご先祖になるんだというそういう道と、浄土仏教が教えた「人はその念仏によって死後仏になるんだ」というものが微妙に1つに交わりあってまじわり合って人々の中で受け止められてきていると。
 ですから、死者のために念仏をするというのは、念仏は確かに仏教の言葉であるけれども、その死者にたむけて念仏をするということは、これは仏教ではなくて自然宗教のしからしむるところなんですね。そういうところから宗教というのはどうも死者の世話をすることだとかですねいうふうなことにどうもなりがちで、死者の世話をすることは宗教行為だと。生きているその自分を問うというそういう契機がどうも薄くなっているように思うんですね。
 で、私は大事なことはですね、親鸞がその両親のためにいっぺんも念仏をしなかったっという理由がその後に書いてあるんですね。「一切の有情はみなもて世々生々の父母兄弟なり」、これはあの大きな考え方だと思いますね。自分はそういう追善供養のためにいっぺんも念仏しないと、それは一見冷たそうに見えるけれども、実は「一切の有情はみなもて世々生々の父母兄弟」だという、そういうなんか大きな生命の流れの中で見ているわけですね。 私共は一回だけ人間として生まれてきてもう死ねば無になるという、そういうことではなくて、インド以来仏教徒達はですね、長い長い時間軸と空間軸の中でこの大きな姓名の流れがあって、そういう大きなつながりの輪の中では、全て生まれ、死に、生まれ、死にしてきている人はどこかで父や母の関係になっているのではないかと。
 ということは、特定の、今の父母だけが、父母というのはちょっとやっぱり視野が狭すぎるのではないか。つまり、命あるものは長いスパンで見ると父母兄弟になると、その父母兄弟のためにどうこうということではなくて、その世々生々の父母兄弟が全部仏になるということが大事なことであって、肉親の追善供養を熱心にするというのは、やっぱりその人の身内の問題じゃないですか。そこからヒューマニズム全体にまで広がるようなこの可能性があるかですね。
 ですから、父母のその孝養のために念仏をしないというのは、一見我々の常識を逆なでするような言い方だけれども、、逆に我々の常識が持ってる危うさということを教えていると思うんですね。
 ですから本願念仏を選びますとね、1つはその死者の鎮魂慰霊のため死者の追善供養のために普通はお念仏というのは使われているんだなということは以前よりもはっきりするようになってくる、それが1つです。それから2つ目はですね、同じ念仏であっても、滅罪の念仏、滅罪を目指す念仏があるということにも気が付く。これは第十四条を見るとですね、「歎異抄」の第十四条を見ると、それは非常に面白い形で表現されています。

『念仏を一回称えるだけで未来に久しく受けなければならない苦しみの原因となる重罪を消滅させることができると信ずべきだ、という考え方があります。この考え方は滅罪の効能を信じて念仏するという立場です。念仏者たちも殺生をはじめとする十悪や父を殺すなど五悪と呼ばれる罪を犯した人は、日頃念仏をすることはなくとも臨終に際して初めて先達に出遭い、その教えにしたがって一回の念仏をするだけで「八十億劫」の罪を滅し、十回念仏すればその十倍の罪を滅して往生ができる、と言っています。これはとても私たちが信じる念仏には及びません。
 念仏をするたびに罪が滅ぶであろうと信じること自体、すでに自分の力でわが罪を消して浄土に生まれようとつとめることではありませんか。阿弥陀仏の摂取不捨の誓願をたのむ身となれば、どのような不思議なことが生じて罪業を犯し、念仏を申さずに死んでしまうことになっても、たちまちに浄土へ生まれることができるのです』

阿:一声の念仏で極めて重い罪が滅ぶんだとこういう受け止め方ですね。こういう滅罪を目指す念仏というものにはいくつか問題がある。
 1つはですね、罪を滅ぼす、滅する、ゼロにするということですね。これはですね、罪というのは自分と別個にあるということを前提にしているような考え方ですね。自分にたくさん罪がついていてその罪をこの滅ぼすことができると。ですから、その自分にくっついた罪を全部滅ぼしてゼロにしてしまうと、自分は本体清浄、清らかな存在だというふうなことが恐らく背景にあるんだと思いますね。
 しかし、本願念仏ではですね、私から罪悪を取り除くなんてことは考えようがないというのが本願念仏の立場なんですね。私が煩悩であって、大事なことはその煩悩の私がそのままで摂取不捨されるというのが本願念仏の教えなわけですね。
 それからもう1つ、滅罪の念仏の問題というのは、犯した罪をあがなうというんだけども、そういうこと本当にできるのかと。あたかもわが身の罪悪のすべてがもう分かっていてですね、それを一つ一つ消去できるという思い込みがどうもこういう滅罪の念仏にあるんではないか。私達は自分のこの罪悪の全てなんかを知る智慧なんかどこにもなくてですね、自分の心の奥底に深い闇を持っていると。それがその本願念仏の人間認識ですね。
 お念仏をすることによって、自分が清らかな存在になるんだと思う人もいるかもしれない。しかし、自分は自分の力で自分の罪を滅ぼすなんてことはありえない、自分が罪そのものなんだから。
 ですから、私はそういう念仏に滅罪の利益を認めるという考え方は要するに念仏を手段視してるわけですね。自分の利害を解決するための手段に念仏を使うと、これは本願念仏とは真向からやっぱり違ってくる。

池:やはり念仏は手段ではないっていうお話が非常に本質的なとこなのかなというふうに思いまして、私達無宗教的な宗教意識から見ると何か念仏を称えるであるとか神様にお祈りをする、仏様にお祈りをするというような、何かお祈りをしたらお返しがあるというか何か利益があるというふうに思って神仏に祈っていたなということを自覚させられまして。

阿:無私の祈りってよく言われるけれども、私を無くした祈りですね、そういう祈りは確かに美しいけれども、多くの場合私達はやっぱりギブアンドテイクでお祈りをしたら何かお返しがあるんじゃないかというそういう期待がある。
 つまり、神仏にこれだけお願いをしたと、こういうお返しがあってしかるべきではないかと、こういうふうにどうもなりがち。しかし、それで安心感が得られるのかどうかということから見るとですね、生涯そういうことを繰り返していかざるをえない。
 つまり、手段としての手段としての念仏は、その本人の自我の要求をクリアにはするかもしれないけれども、自分の業の報いへのその苦しい面と真正面から向かう力を与えるかどうかというとちょっとそこはよう分かりませんねそこは。
 ですから、何か宗教を信ずると幸福になれるというのは嘘であって、不幸も見えてくるというのが宗教ですよ。幸福と不幸を対等に見ることができるようになるということは、宗教の一番大きな功徳ですね。そういうある意味では、現実の客観化と言っていいと思いますけれども、そういう現実の客観化が前よりは進むと、そこに余裕とか判断のゆとりというものが生じてきて、それがまあ「他力」を選択した結果生まれてくる安心と言っていいように思いますけれども。

ナ:阿弥陀仏の本願に基づく念仏を選んだ人々は、互いにどのような関係を結ぶのか、そのことを示しているのが「歎異抄」第六条です。

『専修念仏の同朋方が、自分の弟子だ、人の弟子だと言い争っているようですが思いもよらない事態であります。親鸞には弟子というべき人は1人もおりません。
 そのわけは、自分の力によって人に念仏させることができるとしたらその人を弟子と呼ぶこともできるでしょう。しかし、専修念仏においては、人はもっぱら阿弥陀仏の御うながしをこうむることによって念仏するのでありますから、その人をわが弟子ということはまことに尊大な言い分と言わねばなりません』

阿:「親鸞は弟子一人ももたずさふらふ」と、「私には弟子という人は一人もいらっしゃいません」とこういうふうにはっきり言ってるわけですね。これはですね、「他力」の選択で一番はっきりする、その何ていうのか宗教的指導者の在り方の問題ですね。
 なぜ親鸞がですね、「弟子一人ももたない」とこういうふうに言ったのか、親鸞のこの手紙の中に残っている門弟と考えられる人は39人ほどいらっしゃって、その39人のそれぞれに100人近いまた信者がいて、だから親鸞には間接的には4,000人か5,000人かの信者がいらしたんでしょう。その門弟達に対して、自分は自分にとっては弟子は一人もいないとこういうふうにはっきり言ったと。
 その理由として、親鸞が「歎異抄」の中で挙げているのは、その信心というのは如来よりたまわるものであると。だから、その信心は私があなたに与えたんではなくて、如来からあなたが賜られたものだと。私も如来から賜ったし、あなたも如来から賜れたんだと。これは「歎異抄」の結びの中で、親鸞が若い時のことを思い出して話した例として出ていますね。法然上人のもとにあった時に親鸞が、「私の信心と法然上人の信心は同じです」とこう言ったら他の高弟達がひどく反対をしたと。その時に、法然上人が「自分の信心も親鸞の信心も同じだ」と、理由は「いずれも信心は如来よりたまわったものだ」というふうに法然上人お答えになっている。
 私は「信心は如来よりたまわる」というのは、とても美しいよく分かるように一見思います。しかしどうですか、どうしてたまわるんですか?お一人お一人如来からたまわる、どうするんですか?空中に向かってると口の中に入ってくるんですか?そうじゃなくて信心は如来より念仏によってたまわるんですよ。念仏によるというのは一番大事な行為ですね。念仏によって如来の心が我々に伝わってくる、つまり称名。称名によって、つまり称名をするということあ阿弥陀仏が私の中ではたらくことですね。私の中ではたらくということは私の中に阿弥陀のまことの心は伝わるということです。
 だから、私の中にまことの心、信心というものは存在するようになるんです。でそうなると、「親鸞は弟子一人ももたずさふらふ」というのは、当たり前のことになりますね。
 しかし、多くの宗教集団ではですね、その宗教の指導者という者が絶対的な力を持っていて、その指導者から何らかの形でこの教えというものを伝えられることでその人が信心を持つようになると、そういう考え方になりがちだと思うんですね。
 だから大事なことは、名号は阿弥陀仏がつくって我々に与えたものだというこの一点をはっきりさせることですね。これが揺らぐと「わが弟子、人の弟子」というこういう争論が起こってくる。しかもやっかいなことに、この「歎異抄」でこの第六条が記されるようになった背景には、いわゆる「善鸞事件」というものがどうも関係しているように思うんですね。

ナ:善鸞とは親鸞の息子のこと、彼は自らを「慈信坊善鸞」と名乗りました。関東での布教を終えた親鸞は60代で京都に戻りますが、残された門弟達の間で教えを巡って様々な誤解が生じました。その誤解を正すため親鸞が関東に派遣したのが自分の息子である善鸞でした。
 ところが善鸞は「自分は親鸞の息子だから他の門弟達が教えられなかったことを夜中にただ一人おしえてもらった」などと吹聴して回るようになります。親鸞は「念仏者を惑わし嘘をつくとは悲しいこと」と歎く書状をしたため親子の縁を切る「義絶」を言い渡しました。

阿:ある時期、この慈信がですね、北関東の門弟達のところへ姿を現すんですね。そして何を言い出したかというと、自分は親鸞の子だということをもちろん言いますよ。で、京都でですね親鸞から夜中にひそかに特別の教えを自分は授かっているんだと、こういうことを言いだす。
 それから、その北関東の親鸞の門弟達の集団というか集まりを率いている有力な人達を鎌倉幕府に何らかの好日をつけて訴えてですね、その指導者の地位から引きずり下ろそうというようなこともやっていると。そういうことは全部親鸞の方に伝わってくるんですね。
 そこで親鸞は、このもう親子の縁を切ると、慈信は自分の子供ではありませんと、それを門弟達にも同じく手紙で知らせてですね、いわゆる善鸞と絶縁をするということが起こった。これは親鸞84歳の頃だと言われて言われておりますけど。
 で、こういうことがあってですね、ますます関東の念仏者達の間で誰がリーダーになるか、あの人は誰の弟子であるのか、といったようなことが一段と問題になっていたということが恐らくこの背景に考えらえれるんだと思いますね。
 ですから「親鸞は弟子一人ももたずさふらふ」というのは、これは本願念仏に対するあつい確信がないと中々言えないことですし、また弟子に見える人もですね、「いや、親鸞聖人は自分にとっては大事な人だけどあの方は先生ではありません」と言い切れるかどうかですね。
 しかし、面白いことにですね、「歎異抄」全体でそういう親鸞は「弟子一人ももたずさふらふ」と言いながら、「よき人」は大事だと、こう言ってるんですよ。で、親鸞自身もですね自分にとっては法然上人が「よき人」であると、法然上人のおかげで自分は本願念仏を手にできたんだと。「よき人」は大事だということを繰り返し繰り返し言うんですね。
 で、それと「親鸞は弟子一人ももたずさふらふ」とどうなってるんだと。私はそんな難しいことじゃないと思うんですね。「よき人」」というのはですね、求める人が「よき人」であるかどうかを決めるんですよ。求める立場から決めていく、初めから「よき人」は決まってるんじゃないんですよ。自分の求める気持ちにぴたっと応じた教えを説明してくれた人がその人にとっては「よき人」なんですね。だから、「よき人」は求める人で違うと思います。
 ところが、多くの宗教集団における指導者は、最初から「よき人」としてもう君臨してるわけですね。そういう宗教集団の指導者の在り方を難しい言葉で「カリスマ」というような言葉で言いますけれども、本願念仏においては「カリスマ」は成立しないんです。「よき人」は存在する。しかし、それは求める人が決めることであって、「よき人」は最初から君臨するわけではないんですね。
 特にね、この「親鸞は弟子一人ももたずさふらふ」という言葉の重さが感じられるのは、やはり日本ではですね、霊力があると信じられた人に対する信頼が絶大なんですね。ですから、神に等しい霊力を持つ指導者とその人にその人の教えにつき従う、まあいわば羊のごときおとなしき信者の群れ、この二極分化が非常に激しいんですね。

鎌:あの今先生がおっしゃいました中に「よき人」という表現がございました。親鸞聖人が、私が選んで法然さんが「よき人」、この人の言うことを私は聞いて今こうなってるんですよ、っていうふうに言ってましたが、そういう関係であっても問答というのは非常に重要であることでしょうか。

阿:大事な問答というのは、やっぱり徹底的になされるんですよね。この親鸞という人は法然上人のもとを訪ねるまでに100日かかってます。法然上人のもとへ訪ねてやっぱり100日かかってるんです。それで初めて門弟になるんですね。
 ですから、法然上人に対しては、恐らくもうありとあらゆることを聞いたんだと思いますね、そこには何の遠慮もなく。そうでなかったら心底の納得というのは起こらないと思います。
 だから、その法然上人の人格に対するこの敬意の念ということと親鸞が知りたいと思う気持ちとはそれは両立すると思いますね。やっぱり親鸞は自分の持っている問題を全部ぶつける、その過程の中で自分に目覚めてきてその中で初めて本願念仏の意味が了解できるようになったということだと思いますね。
 問答で大事なのは、問う人間なんですよね。問う人間がどんな答えをもらうにせよですね、本人が徐々に徐々に気付いていくということだと思いますね。何か答えを待ってるという姿勢では宗教的な疑義というのは解決しませんよ。それはなんか霊力ある人の言うことを聞いてそれで満足するというそちらの方へ行ってしまいますね。大事なことはやっぱり自分の疑問が解けるまでは徹底してやっぱり聞くということでしょう。聞く過程で自分が目覚めていくわけですね。だから仏教では、広く仏教では、やっぱり「聞く」ということはとても大事にされる。「聞く」というのは自分が目覚めていくことなんですよね。

鎌:今、先生のお話聞いてまして思いましたのは、やはりその、阿弥陀仏の本願っていいますか、阿弥陀仏っていうものの本願の前では、罪の軽重であったりですね、あるいはその賢かったり愚かであったりっていうそういう差ではなくて全部その前では平等だって認識っていうのが非常に強くはたらいているというふうに考えてよろしいでしょうか。

阿:その通りだと思います。ですから、人間の平等というのはむしろ人権の段階で言うこともできますけれども、やはり宗教的原理に根ざすということは一番大事なことだと思いますね。やっぱりお互いがこの同朋であって、お互い平等で、平等であるということはお互いに大事な問題をお互いが議論して解決していかなくてはならんということですね。誰かに解決して、解決を期待するということはありえなくて、やっぱり自分のない智慧を絞ってでも一緒に仲間と共に問題を解決していくと、そういう姿勢が大事なんだけど、実はそれが日本の社会で一番欠けてるんですよ。

池:今回やっぱりあの、私もその、無宗教的な宗教意識の中で生きてきて、その自然宗教が地域共同体を維持するためのある種の装置で、それは日本人はある種非常に大切にしてきたと思うんですけれども、そういうこう自然宗教だったり地域共同体が非常にもう、ここ何十年かに渡って崩れ続けていっているという、そういう現実は先生どんなふうにお感じになってるかと。

阿:私は自然宗教の中でももう、自然宗教の全体のその構図が崩れてきた現代ですね、その自然宗教のまあ遺産である言葉だけを使って自分の死生観を組み立てるということはやはりもう力がやっぱりなくなっていくんじゃないかという気がしますね。
 要するに、地域共同体というものが存続しうる条件があって自然宗教が成立すると。1つの共同体の中で人々がお互いに思いやりを持って助け合いながら生きていこうというそういう1つの仕組みの1つの部品として「先祖」という観念があったんだと思いますね。
 今多くの場合、自分の死後、自分の肉親が自分の追善供養をしてくれる人がどれだけいますか。多くの人々はそれぞれバラバラの人生を歩んでいるじゃありませんか。それでましてや自分の子孫がですね、自分を供養してくれるというふうな保証はどこにもないですね。ましてや子供のいない人達はどうしたらいいんですかと。しかも住む場所もこれだけ人の移動の激しい場所はもうなくて故郷はそれこそ遠くにありて思うしかないわけでしょう。外国からも日本に来ている、日本からも外国に行くと。そういう激しい移動の時代にですね、そのある一定の地域の安定を前提にした自然宗教というのは、もう成立しないですよ。
 だから自然宗教ではもう安心は得られない時代だと言ってもいいと思う。だからこそ、というと妙ですが、創唱宗教の検討ということは必要になってくる。しかし、創唱宗教自体も大きな変化を受けてきている。ですから僕達がそれぞれ自分の本当の心のよりどころを探そうとするには、本当簡単なことじゃありませんよ。大変な苦しみの時代だと思いますね。
 今の日本社会、世界中から言ったら、この近代化と呼ばれてもう久しくなったそういう社会が次の社会に生まれ変わっていくためにどれだけの時間がかかるかですね。その時の心の支えが何であるのか、少なくとも私は紀元前後ぐらいに生まれた大乗仏教というのはそういう時代を見越してつくられているから大乗仏教の最も核となる部分を手にしながら次の時代をつくって、次の新しい宗教思想を生み出していくと、そういうなんか長いスパンで考えていかないと。
 だからまあ私で言えば、13世紀の法然親鸞の仏教の最も中核的な部分を握ったうえで次の世代を期待すると。その創唱宗教の本質的な部分を握ってですね、新しい社会をつくっていく、種まきの仕事をしていくと言うしかないんじゃないか、というふうに思いますね。

歎異抄 (ちくま学芸文庫)

歎異抄 (岩波文庫)

NHK「100分de名著」ブックス 歎異抄 仏にわが身をゆだねよ

2022/6/19 歎異抄にであう シリーズ 無宗教からの扉(3) 「歎異抄に出会う」

阿満利麿:宗教学者 明治学院大学名誉教授
ききて(ディレクター):鎌倉英也、池座雅之 

ナレーター(以下「ナ」という):「歎異抄」は700年前の鎌倉時代に書かれた仏教の古典です。そこに貫かれているのは「本願念仏」の思想。阿弥陀仏が仏になる前、人々を救うために立てた願い、「本願」に基づく念仏を称えるだけで全ての人が救われるというものです。
 法然によって称えられたその教えは、親鸞らによって受け継がれました。「歎異抄」はその親鸞の言葉を門弟となった唯円という人物が、正しく伝えようと書き留めた書です。
 その第三条には、「歎異抄」で最も知られた一節があります。

『善人なをもて往生をとぐ、いはんや悪人をや』

 「善人ですら往生をとげるのですから、ましてや悪人が往生を果たすことは言うまでもありません」
 高校の教科書にも乗っているこの一節、皆さんどのように理解しているでしょうか。

『街頭での一般の方①:いや~正直、ちょっとあんまり納得はできない。「地獄に行け」ってわけではないんですけど、悪人はやっぱり悪いことをした人とか犯罪を犯してしまった人のことを悪人というのかなとは思ってるんですけど。
②:みんな最後は極楽浄土に行けるっていう意味ですよね。その方が安心、ほっとします。差別なく見捨てることなく、そういう教えがあるってことは。
③:善人とか悪人とか関係なし、みんな行けちゃう?となると悪人が増えちゃうって漢字ですか。でも100%善人かと言われたらそうじゃないときもあるかもしれないので、なんかすごい、自分はダメなんだって気を落とさなくていいのかなって。
④:時代が変わりますと私達の縛られている善人悪人を区別するものは時代を超えていつも一緒だと限らない。自分で絶えず問い返していくしかない。
⑤:ほんとに善人の人なんかいないじゃないですか。やっぱりなんか心にね、悪いことしたなって思ったりするようなこともみんなあるから。そういう人をみんな悪人としたらほとんどの人は悪人でしょ、そんな仏さんみたいな人いないんだから』

 シリーズ「歎異抄にであう 無宗教からの扉」、第3回の今日は、悪人とはどのような人のことか、そしてなぜ悪人が救われるのかひもといてゆきます。

阿満(以下「阿」という):今日は歎異抄の中でも最も有名な、第三条というものを取り上げます。『善人なをもて往生をとぐ、いはんや悪人をや』という有名な言葉のある章でありますけれども、問題はですね、この時の「善人」とか「悪人」という言葉の意味が私達の常識の意味とは全く異なるんですね。
 我々の常識で言いますと、救われる人はあるとしたらそれはよい人なんですね。しかし、この「歎異抄」では、まず救われるのは「悪人」だと言うんですよね。「善人」は二の次みたいなもんですよ。これはどうしてなのか。
 これは「善人」と「悪人」の考え方を決めている基準がですね、我々の常識と異なっているということなので、そこをちゃんと理解するということは大事だと思いますね。
 『善人なをもて往生をとぐ、いはんや悪人をや』と。「善人ですら往生をとげる、つまり、阿弥陀仏の国に生まれるんだと。ましてや悪人が生まれないわけがないだろう」と、こういう言葉ですね。
 『しかるを世のひとつねにいはく』と、世間では「悪人なを往生す、いかにいはんや善人をやと」、悪人が救われるんだからもう善人が救われるのは当たり前のことだと、こういうふうに世間では言うと。
 『この条、一旦そのいはれあるににたれども』それはもっともなように聞こえるけれども、『本願他力の意趣にそむけり』と。阿弥陀仏の本願、そういう他力の仏教の考え方から言うとですね、その趣旨に反すると。こういうふうに始まるわけですね。

法然上人は、「善人でさえも往生を果たすのです。ましてや悪人が往生を果たすことは言うまでもありません」とおっしゃいました。
 しかしながら世間では、「悪人が往生するのだからましてや善人が往生するのは当たり前のことではないか」というのです。
 このことは一応は理屈が通っているように見えますが、阿弥陀仏の本願の趣旨に背くことにほかなりません。
 そのわけは、自らの努力によって善を積み行う人は阿弥陀仏の本願をたのむことがなく、したがって、阿弥陀仏の本願の対象になる人ではないからです。しかし、このような人々も自らの努力によって仏になることが不可能だと自覚してひとえに阿弥陀仏の本願をたのむようになると往生を果たすことができるのです』

阿:我々の常識では「善人」と「悪人」があればですね、「善人」がよいに決まってるんですね。で、その基準は何かというと大体、法律か道徳かを基準にしている。法律に反した人は「悪人」である。あるいは道徳的に悪いことをした人。
 しかし、ここで言われている「善人」というのは、仏教の土俵の中での「善人」、「悪人」の問題であって、仏教でいう普通の「善人」というのは、戒律を守る、あるいは、瞑想、座禅なんかもちゃんと立派にできる、そして、お勉強をしてですね、智慧を磨くこともできると、こういう人が「善人」なんですね。
 それに対して「悪人」というのは、まるで修行ができない、戒律を守るといっても何一つ守れない。そういう自分の力で仏教の教えを実践できない人ですね。そういう人間を「悪人」とこう言っている。
 ですから、世間で言うそういう「善人」、「悪人」が基準ではなくて、自分がその悟りの世界、自分が仏になるというそういうその目標の前で無力感を感じてしまう。つまり自分が、仏になる手だてがないというふうに思ってしまう人間のことを「悪人」と。
 そういうその「悪人」のために阿弥陀仏の本願というのが生まれたんだということが言いたいわけですね。

池座(以下「池」という):これあの「善人なをもて往生をとぐ、いはんや悪人をや」
というのは、私なんかも受験の時とかなどに歴史で学んだような記憶があるんですけども、その時にいわゆる「煩悩の深い悪人こそが救われるんだ」と、「煩悩の深い悪人」と言われた時には、道徳的な意味での「悪人」かなっていうふうに理解してきたんですけども。

阿:今、とてもいい言葉を使われた。煩悩の深い人間ってそう解説してあったわけですよね。そのね、煩悩が深いっていうのは実は第3章の中でもですね、
『煩悩具足のわれらはいづれの行にても生死をはなるることをあるべからざるをあはれみたまひて願ををこしたまふ』
 その「煩悩具足のわれら」という言葉をそこで使ってる。つまり「悪人」という言葉を理解する時にそのままでは理解が難しいから「煩悩具足のわれら」という言葉に一度換えてみたらどうかという工夫がなされてるんですね。

ナ:「煩悩具足のわれら」、「悪人」とはどのような存在なのか知る上でカギとなるこの言葉は「歎異抄」第三条の後半に出てきます。
『煩悩に縛られた私達はどのような修行を実践しても迷いの世界から離れて自由になることができないのですが、その私達を憐れんで阿弥陀仏誓願を起こされたのです。つまり、阿弥陀仏の根本の願いは、私共悪人を成仏させる点にあるのですから他力をたのむ悪人こそが、正真正銘浄土に生まれて必ず仏となる種の持ち主なのです。
 それゆえに法然上人は、「善人でさえ往生するのです、ましてや悪人が往生することは言うまでもありません」とおっしゃったのです』

阿:この「煩悩具足のわれら」という時の「煩悩」というのは「煩」という字は「身を苦しめる」とこう言われています。「悩」という字は「心を悩ます」。
 つまり体と心と両方を悩ます、苦しめる。それは具足してるということは、それはもう体にピタッとついていてですねそれをそれから逃れることはできない、という意味合いが具足ということでしょう。
 ですから身を苦しめ心を悩ます、そういう精神のはたらきなしに我々は暮らすことはできないと。我々の暮らしはいつでも身を苦しめる一面、心を悩ます一面を絶えず伴っていると。
 もう少し突っ込んで言うとですね、その煩悩というのは世間では普通よく欲望というふうに誤解されます、誤解されるというかそういうふうに理解されています。除夜の鐘というのがあって、お正月が近づくと煩悩百八つあると、除夜の鐘は百八つ突くというふうなことを言って、煩悩は一つ一つ勘定ができるかのようにこうイメージされますけれども、私が見るところ煩悩というのは自分中心に欲望が行使されるというか欲望が使われるような状況を煩悩と言っている。
 つまり自分がその欲望を使って自分のためになるように絶えず計らってるようなこの精神状態のことを煩悩とこう言ってるんだと思いますね。で、煩悩が働くと困るのは他の人なんですよ。つまり、みんなお互いに煩悩をはたらかしてこう接触するわけですから、そこで人を傷つけたり、それから自分も傷つけられたり苦しみが生まれるというふうなことで煩悩的状態っていうのはどちらかというと苦しみを生む土壌だというふうに考えていいと思うんですね。
 ですから、他者との摩擦が生じてもですね、その摩擦の原因が自分の中にある欲望の使い方にあると、あるいは、自分の自己主張の中にあるというふうにはなかなか考えが至らない。私達は自分のエゴのはたらきということについて、なかなか如実にそれを見るっていうことはないですね。つまり、自分で自分の顔は見ることはできないというのと同じでいつも見るのは他人の顔ばっかりですよ、自分で自分の顔は見えないと。自分がどういう人間であるかっていうのは大体見えにくいですね。人間の目は外へ向かって付いていて内に向いてないんですよね。
 私共の自我というのは満腹をしていても次の食材を手にしておきたいというようなことも起こるし、それから他者との関係においても何か優劣を定めないことには落ち着かないと。自分の存在を何か誇示できるような場がないとですね、なかなか暮らしの中で安定が得られないという、そういう性格がどうしてもあるものですから他者との関係では優劣というようなことを競う。それは己を安定させるためだというようなこともあると思いますね。
 だからエゴというのは人間にとっては不可欠だけれどもエゴは予想以上にエゴを主張したがると、そこが一番苦しいとこでしょう。その予想以上にエゴが働くことに、それはちょっとおかしいぞといってストップをかける力が我々にあればいいんだけど、それがないんですよ残念だけど。

池:私なんかがこう仏教というのをイメージした時に、まず何かこう煩悩っていう欲望みたいなものがあって、何かこうそれをなくしていけるような道というかそういうものを修行していくのが仏教なのかなというなんか1つイメージのようなものがあったんですけれども、そういうあり方とは全く違うっていうことで、、、

阿:仏教というのは煩悩をなくすために修行すると、修行して自分の煩悩をコントロールするんだとそういうイメージを持っておられる方結構いらっしゃると思うんですね。実はこの法然上人の出現の意味というのはそこにあるんです。

ナ:「歎異抄」は親鸞が門弟唯円に語った言葉を書き留めた書です。その中には親鸞が師と仰ぐ法然上人から聞いた言葉をそのまま唯円に伝えている文章があります。それは「仰せ候ひき」、親鸞が「法然上人はこのようにおっしゃいました」と伝えている部分です。
 法然は当時仏教の最高学府だった比叡山で長年修行しました。しかし、どれだけ修行を重ねても人間の煩悩を消し去ることはできないと思い至り、「本願念仏」の思想にたどり着きます。

阿:どんなに修行しても煩悩をコントロールすることはできないと、ましてや煩悩をなくすなんてことはできないと、そのことに法然は気付いてですね、それでそういう煩悩をコントロールできない、そういう人間が救われる仏教はないのかと、あるいは煩悩のままでこの救われていく仏教がないのかと、それを自分はここに新たに提示するんだと。
 普通の人が抱いてる仏教のイメージを法然は全部捨ててるわけですね。その理由は、我々は煩悩をコントロールもましてや煩悩を捨てるなんてことはできないというそういう断念というか見定めがあったということですね。
 「歎異抄」の中にはね、第一条を思い出して頂きたいんですが、第一条にはですね、阿弥陀仏の本願の前には、「老少善悪の人をえらばれず」と書いてあるんですよ、「善人」、「悪人」ですね。そういうことは一切問わないとこう書いてあるわけですね。なぜ善悪にこだわらずに阿弥陀仏の本願がはたらくというそういう阿弥陀仏の本願という救済原理の普遍性をですね冒頭で打ち出しておきながら、この第三条にくると「善人」と「悪人」を区別して「悪人」が大事で「善人」は二の次だとこういう善悪にこだわった議論がなされてますね。
 これはどういうことかというね、この法然上人という方はその人その人に応じた弾力的な説法をなさった方でありますけれども、普通の人にその本願念仏を説く時にはですね、念仏が大事だということをお説きになると同時にですね、できるだけよいことをしたほうがいいですよというふうな説き方をしてる。できるだけよいことをして阿弥陀様にも喜んでもうらおうではないかと、こういうふうな趣旨のことを説いておられたというんですね。
 それはちょっとおかしいんじゃないかと。念仏だけ説けばいいのにですね、なんでそういうちょっとした善、よいことをするようにというふうなことをあえておっしゃていたのか。そこにはそれなりの意味があってですね、念仏を実践しながらよいことをしようと努力してるような人がですね、いずれよいことをしようとしても、よいことをしきれない自分に気が付くということを前提にしておられるんですね。
 この小さな罪も犯さないようにとこういうふうに教えられて、そして自分も実際小さな罪を犯さないように努力してもですね、我々はそういう小さな罪ですら犯さずには生きておれないわけですよね。そういう人は簡単に善を実現することができないといういわば大きな壁ですね、壁というもににぶつかることを法然上人は期待しておられたということなんですね。
 で、私はね、この法然上人がそういう念仏とともに善悪のことをおっしゃったということの背景には、当時13世紀の人々の中でですね「悪人」という言葉を聞くだけでもうすぐピーンと自分のことだと分かる人がたくさんいたということですよ。これはね今の我々と全然違うんですね。ということは、武士っていうのがいたわけです、武士の仕事は人を殺すわけでしょう。そしてまた、一般の民衆の中にも生き物を殺して、つまり漁師とか猟ですね。そういう生き物を殺してそれを売って生活をするという人達もいたし、そして女性の場合には身を売るという非常に悲しいことで生活をする遊女という人達もいた。ですから法然上人のお弟子には遊女はいますよ。それから大泥棒がいますよ、武士と大泥棒と遊女、これは法然上人の一番、その法然上人を慕った人達ですね。
 そういう意味で「悪人」という言葉が13世紀ではすぐに分かる、そういう暮らしがあったということですね。それに比べるとどうも現代は「悪人」というのはあいつのことであって自分のことではないという風潮は圧倒的に強いですから、こういう説明回りくどしい、ちょっと説明せざるをえないということだと思いますけれども。

鎌倉(以下「鎌」という):法然上人のですね、主に武士を相手にしたような、例えばその、自分にとっての悪の意識が強い人間達、その時に多分彼らの感情としては仏教的な悪っていうことを最初から理解してるんではなくて、なんか自己基準の中での悪、つまり道徳的あるいは法的かもしれませんが、そういった悪っていう感情から入口として入っていくっていうことになると思うんですけれども。それはあれですかね、その悪っていう段階を経て、その仏教的な悪、いわゆる煩悩に支配された人間達というレベルに入っていくっていうことになるわけでしょうか。

阿:そうですね。例えば熊谷次郎直実のね、この発心の様子を見てみますとね、熊谷次郎直実は人を殺してきたから自分は「悪人」であるとこう思ってるわけです。

ナ:鎌倉武士の一人、熊谷次郎直実。一の谷の合戦で平家の若武者平敦盛を討ち取るなど坂東一の武者としてその名を轟かせました。
 しかし、自分の息子ほどの若者の命を奪ったことや領地争いに敗れたことで世の無常を感じ、出家。法然上人のもとを訪れ本願念仏の教えと出遭ってからは「蓮生法師」と名乗り熱心に念仏を称えるようになります。

熊谷寺の住職:蓮生さんが自分で彫られた仏像です。お顔が幾分出家されてすぐに彫られた自刻像よりは柔和な柔らかなお顔になっております』

 右手に持った蓮のつぼみは自分のみならず周囲の人々と共に極楽への往生を願った象徴と伝えられています。

阿:熊谷次郎直実、法然上人に会って教えを聞く時に熊谷次郎直実はどう間違ったか腰の小刀を出してですね、ゴシゴシ研ぎだしたというんですよ。周囲の人が慌てたわけですね。これひょっとしたら熊谷次郎は何をするかわからん人間だから法然上人をこれで刺すんじゃないかと。
 ところがですね法然上人は、お前がどのような悪を犯していたにせよ阿弥陀仏の本願はお前を救われるんだと、称名さえすればいいんだということも教えたんですね。それを聞いて熊谷次郎はさめざめと泣いてですね、それで改めてこの小刀を出して、実は法然上人からはですね、お前は相当悪いことをしてきたと、人を殺してきたんだから、だからお前が救われるためには手や足の一本ぐらい切ってここへ差し出せとそう言われると思ってたというんですね。だから痛くないように自分はこう研いでいたというんですね。
 ところが、手足を切るなんてことは一切問わない、そんなことする必要もない。お前がいかなる悪業を犯してきたかも問わないと。ただあなたが阿弥陀仏の本願を信じて念仏さえすればあなたは浄土に生まれるんだと、こういう話を聞かされてですね、もう、その予想してしていたのとまるっきり違う世界に入って熊谷次郎直実はさめざめと泣いたと、こういう伝承があるんですね。
 ですから、最初は「悪人」だと聞いても大体その道徳的悪、あるいは、宗教的に人を殺した人間は地獄に行くとかですね、そういうふうに聞いているそういう悪の自覚なんでしょうね。そういう善悪の基準とはまるで違うところに阿弥陀仏の本願があるということで熊谷次郎は感激したと。
 ですから、先程の法然上人が善悪を人に教えたというのは、その善悪を乗り越える次の段階があるということを示すためであったということだと思いますね。

鎌:法然さんも親鸞さんもですね、また「歎異抄」全体もそうですが、自分が「凡夫」であり煩悩にとらわれているわれらであるという、その自覚を非常に強く促しているという、それと同時にですね、自覚がない「悪人」、自覚のない「凡夫」、これもその救いの対象になるというふうに考えてよろしいんでしょうか。

阿:その通りです。実はね、阿弥陀仏の救済原理というのは「無量寿経」という経典の中の第十八願という18番目に書かれてるんですね。阿弥陀仏の名を呼ぶものはどんな人間であっても必ず浄土に迎えて仏にすると。こういうふうに書いてあるんですけど、ただし書きがあるんですね。ただし、その五逆とか十悪とかというそういう大罪を犯した人間は除くと書いてあるんです。
 ところがですね法然さん、驚くべきことは法然さんは、それ無視するんですよ。「十悪、五逆を除く」という除外規定を無視するんです。それは阿弥陀仏の対象、救済の対象には五逆も十悪も含まれてるに決まってるじゃないですかと。
 ですから、どんな「悪人」であっても、また逆に仏教とは何の縁も持ってない関係のないような人でも救われるということなんですね。

ナ:「歎異抄」が説く「悪人」とは誰か、それを読み説くキーワードが第十三条にあります。「宿業」という言葉です。
 人間が考える善悪という行為はどのように引き起こされるのでしょうか。

『善心が生まれるのも、また悪事が思われたり行われるのも共に「宿業」がはたらくためなのです。
 親鸞聖人は常に、「卯(うさぎ)の毛、羊の毛のさきにあるちりほどの微細な罪も宿業でないものはないと知らなくてはならない」とおおせせでした』

阿:「宿」というのは昔のという意味ですね、で、「業」は行為、昔の行為。つまり私達は、今ある私達は昔の私の様々な行為の結果の積み重ねとしてこの私があるわけですね。こういう今の私というもののあり方を考える時に、昔の行為から今の自分を照らしてみると。こういう見方が仏教にはあって、それをこの「業」という行為ですね、行為の連鎖の中で人間を見るというそういう考え方でありますけれども。
 この第十三条で大事なことはですね、私共は、今の私っていうのはですね、無数の過去の行為の結果として存在してるわけですね。その、しかし残念ながら、その過去の行為の全てを私は知る智慧がないわけです。自分がどういうことを過去にして今の自分があるのか、言葉としては過去の私が今の自分をつくってるんだろうけれども、その過去がどういうふうにして今の私につながってるかということを見通す智慧がですね、ないわけですね。
 仏教はですね、この物事の原因には2つあるという立場です。それは直接的な原因、これが因の、原因の因ですね、直接的な原因。それに対して直接的な原因がはたらく、そういうきっかけを与えるもの、間接的原因ですね、それを縁というんですね。縁があって初めてその因がはたらいて結果を生むと。
 そういう意味ではこの我々は因と縁とその結果ですね。結果というものの膨大な組み合わせの中で、まあ私の人生があると。いつも私はそういう「因・縁・果の大海」の中に大きな海の中に浮かんでいるのが私だとこういうふうに言うんですけれども。
 しかし、この「因・縁・果の大海」の中に浮かんでるがゆえに私共にはどうしても自分の力で解決のできない苦しみとか不安というものが生まれてくる。だって因果関係が自分の都合のいいところだけは分かるけれども、それ以外見えないわけですから。まあいわば、自分中心という色眼鏡ですね。色眼鏡で世界のあり方、人生のあり方を見てるから、他のものは見えないということなんでしょうね。私共はそういう色眼鏡なしには生きていられないですよ。私達が生きてるということは色眼鏡を掛けて生きるということですね。色眼鏡は外せないですよ。
 「煩悩具足のわれら」というのは、具足という言葉が示してるように外せない。ですから、我々はそれぞれいろんな色眼鏡を掛けて生きてるんだけど、そのいろいろな色眼鏡があるということが分かるということが大事なことなんですね。外せないけどもお互いがそういう眼鏡を掛け合って暮らしてるんだという、そういう理解が大事だということをまずは認めようということが出発点だと思いますね。

鎌:「宿業」という言葉っていうのは世間一般では、例えば、あの人は業が深いからこうなったとかですね、それからあるいは何といいますか、前世の報い的な酷い言葉では「業病」なんて言葉もありますが。

阿:この「宿業論」で大事なことは、他者のことをあげつらうために「宿業論」を使うのは、仏教ではあまりいいとは言えませんね。つまり「宿業論」は何のためにあるかと、己を知るためなんですよ。自分がどういう人間であるかということを理解する時に自分の過去を振り返ってみると。
 そこで「宿業」を感じるということはとても大事なことで、「宿業」を感じて自分の「宿業」の感じ方が、いかに自己中心的であるかということが分かった時に、その自己中心的な存在を新しい展開ができるためには何が必要かということを知るための、このいわば基盤の役割を果たしていると。だから、他者を糾弾するための言葉ではないわけですね。
 ですから、「業病」なんて言葉は自分に対して使うのならいざ知らずですよ、しかし、それでもおかしなことだと思います。ですから「宿業」という言葉が非常に誤解されやすいのは、己の存在が何であるかということを知るための道具だということを棚に上げているということだと思うんですね。

鎌:つまりそうしますと、他者に対して「業病」という概念をこちら側の色眼から見て当てはめるということは基本的に違うということで。

阿:違う、間違いですね。間違いだと思います。
 ですから、「煩悩具足」と言うけれども、その煩悩を滅ぼすことができないっていうのは、この「宿業」という言葉から言うと、「因・縁・果」の全てを知る智慧が見出すことができないという意味でもあるわけですね。
 そしてもう一つは、その膨大な「因・縁・果」の流れの中で、自分の分かるところだけを切り取って理解する。この近代以降のことになりますけど、私を私たらしめてるそういう「因・縁・果」の流れのですね全部を知ることは、一部しか知ることはできないという我々のあり方について特に深い関心を持った作家の1人に夏目漱石というのがいますよ。夏目漱石の仕事はほとんどその一点に絞られていると思いますね。

ナ:日本近代を代表する作家、夏目漱石。小説「こころ」の中に「悪人」について書かれた一節があります。登場人物の先生が主人公の青年に語った言葉です。
『それから君は今、君の親戚なぞの中にこれといって悪い人間はいないようだといいましたね。しかし、悪い人間という一種の人間が世の中にあると君は思っているんですか、そんな鋳型に入れたような悪人は世の中にあるはずがありませんよ。平生はみんな善人なんです、少なくともみんな普通の人間なんです。それがいざという間際に急に悪人に変るんだから恐ろしいのです』

阿:世の中には「善人」という人が、突然「悪人」に変わるということがあるから恐ろしいんだと。その、なぜ「善人」が突然「悪人」に変わるかというと、善悪をそれぞれの色眼鏡で決めてるわけですから色眼鏡それ自体が限界があるわけです。
 つまり、「宿業」がどういうふうにはたらくかということは、あらかじめ予想もできない。そういうことがその自分の色眼鏡が正しいという立場に立つから、いつでもそういう「善人」が「悪人」に変わるというそういう現実を見て驚かざるをえないということになるわけですし。
 で、私は漱石の言葉で面白いのは、どんな人間もですね自分の心の中に二辺平行している三角形を持ってると。そういうこともってるんですね。二辺が平行してたら三角形になるわけがないでしょう。しかし、本人は三角形だと思ってると。こういうわけですね。
 つまり、そういう矛盾したこの心のあり方が我々の心の意識の底にはずっと誰にでもあるというわけですね。それはこの「因・縁・果」のその流れの一部しか知らないということを現代風の言葉で無意識の、我々には無意識、自分でもその正体は分からない、無意識を背負ってるとそういう言い方で表してるんだと思いますね。
 ですから、近代になってからこの精神分析とかいうふうな学問が発達したりして人間の通常の意識の底にですね、我々が自分でも知らない自分を持っているんだ、という言い方をするようになりましたが、それはこの「宿業」ということの心理学的な表現といいますか、だと思っていいと思うんですね。

ナ:人間は自分では認識できない「宿業」の中で生きている。そのことを象徴的に伝える親鸞唯円の問答が第十三条の中にあります。

『またある時、「唯円よ、あなたは私の言うことを信じるか」と親鸞聖人がお尋ねになったので、私は「確かに」とお答えしましたところ、聖人は重ねて「では、これから私が言うことも間違いなくそのとおりにするだろうね」とおっしゃるので、「謹んで承知しました」と申し上げました。すると聖人は「たとえばのことだが、人を千人殺してもらいたい。そうすればあなたの往生は定まることになるのだが」とおっしゃいました。「私は聖人の仰せではありますが我が身の器量を思いますに、一人の人間でさえ殺すこともできません」と答えました。すると聖人は「では、どうして先程は私の言うことに背かないと言ったのですか」とおっしゃいました。
 「唯円よこれで分かるであろう。何事も自分の意志で決めることができると言うのであれば、大事な往生のために千人を殺せと言うのだから、すぐさま殺人に取りかかることもできるはずだ。しかし、あなたはできないと言う。それはあなたには、一人の人さえも殺す「業縁」がないからなのです。自分の心がよくて人を殺さないのではありません。反対に人を害しないでおこうと決めていても「業縁」がはたらけば、百人でも千人でも殺すことになるのです」とおっしゃたのは、私たちがややもすれば、救済はあくまでも阿弥陀仏の本願の力による、ということを忘れて自分たちの心がよければ往生のためになり、悪いことは往生のためにならないと思いがちであることを指摘されるためだったのです』

阿:大事なことは次の言葉ですね、「わが心の善くて殺さぬにはあらず」、あなたの心が立派だから人を殺さないということではないんだぞと。
 また、ですから、「また害せじと思うとも」、その人を殺したりしようとは思わないと思っていても、「百人千人を殺すこともあるべし」と。思いもかけず百人千人を殺すこともあるんだぞと。
 「と仰せの候いしは」、そういうふうに親鸞がおっしゃたのは、我々放っておくとですね、自分の心がよいのは、自分の心がよいから、よい人間だからとこう思っていると。悪いことは自分の心の中に悪いことをする心があるからだと。こういうふうにつまり、善悪は自分が使い分けることができるんだと、こういうふうに思ってるという、その考えにとらわれているのであって、ですから、この我々は自分の中に自由意志っていうか自分で物事を決めることができる力があるんだとこういうふうに普通考えています。また実際、それがなかったら我々の暮らしは成り立たんわけですから。
 しかし、この根本的には、我々は過去の自分の行為、それから自分の行為に関わったあらゆる人々の行為の影響の中で暮らしてるという事実があるわけですね。その事実を片方で認識しながらその人間に許されているその主体性っていうかいうものをどういうふうに開発していくかということを考えるべきであって、最初からその人にはもう1から100までの自由があるんだと、その人の心次第だというふうなことはやっぱりちょっとおかしなことですね。
 で、そういう業に縛られた中で我々はどういうふうに自分が主体的な生き方を貫いていくかということ、それが人間の問題なんですね。それが実はこの三条に、あるいはこの十三条にそういうことをヒントとしてあるわけですね。
 で、「歎異抄」は面白い本でね、妙な対応関係があるんです。「歎異抄」はこの親鸞の言葉を唯円がとどめたという前半と、その親鸞から聞いた言葉とは異なる、まあ唯円からすれば間違った考え方が後半に説かれているわけですね、紹介されている。そこにね、妙な対応関係があるんですね。
 第一条をよく理解するためには、第十一条を見てみると、一条の裏が記されてる。同じようにこの第三条の、この悪人こそ救われるという問題を考える時には十三条から見てみると、その悪人こそ救われるということの意味が一段とはっきりするというそういう構造があるんですね。

池:あの、今おっしゃっていた、善悪は自分が決められると信じているっていうことというのが、非常にちょっと心に響くというものがありまして本当に人間のあり方っていうことを考えさせられるなというふうに思ったんですけれども。

阿:私はね、「歎異抄」の第三条では「悪人」とか「煩悩具足」のわれらとか「宿業」とかこういう言葉で盛んに我々のこの存在の根本的な製薬ということを教えるんですけど、私は現在の言葉でそれ言えると思うんですね。それ何かというと、私の言葉で言うと「思い込み」だと思うんですよ。私どもはね、あらゆる局面で思い込みで暮らしているように思うんですね。で、この人は思い込みの中で生きているというそういう事実を知るということ。
 ですから、自分がどういう人間であってどうしても私の言葉で言えば、大きな物語というものがないと生きてはいけないということに気付く、その気付きのためには自分がどういう人間であるかというそういう認識が不可欠だと思いますね。
 ですから、この「歎異抄」の第三条の悪人の問題というのは、ある意味では、極論を私達に突きつけてですね、「お前はいかなる人間か」ということを示そうとしている、教えようとしているということだと思うんですね。
 で、私の好きな作家にその武田泰淳というのがいますけど、武田泰淳にこの「ひかりごけ」という小説がありましてね。この「ひかりごけ」という小説も、極論を我々に突きつけているんだと思いますね。これは武田泰淳が北海道を旅行した時に知った、実際にあった自見を、まあ使っている小説だと言われていますけど。

ナ:武田泰淳の小説「ひかりごけ」。戦時中、物資の輸送船が北海道沖で遭難し、船長以下7人の乗組員が無人島に漂着します。次々と餓死していく船員達。生き残った者はその肉を食べて命をつなぎ、最後は船長一人が生き延びます。
 小説では、「人肉を食べた人間の首の後ろには、ひかりごけに似た光の輪が現れる」という言い伝えが象徴的に描かれます。

鎌:あの、最後の本当にクライマックスのシーンなんですが、人の肉を食った者がひかりごけが光るようにですね、光の輪が後ろに出てくるんだと。それであの、船長は自分の後ろにそういった光が、光の輪があるということは自分で言うわけですけれども、集まった人間達ですねそこに、つまり、裁判で裁く側になった人間達が、全てその光の輪を背景に背負っていたっていうのが、武田泰淳の最後の文章になっています。
 それぞれ気付かないうちに人を食い、あるいは、人の痛みみたいなものをですね、知らず知らずに人を傷つけたりですね、そういったことを誰しもがやってるじゃないかっていうことの暗喩ではないかというふうに僕は思ったんですが、それはいかがでしょうか?

阿:そのとおりだと思いますね。全員の首の後ろに光の輪がついているということは、全員人肉を食ったっていうことですね。
 私が面白いと思うのは、「ひかりごけ」で武田が言おうとしたことはですね、人肉を食らうということはこれは極論ですよ、我々普通の暮らしではありえないことですね。あえてしかし、そういうことを全面に立てて、あの船長は人肉を、しかも仲間の肉を食って生き延びたんだと。こういうおぞましいそういうことを素材にしてるという。それは何を言おうとしているのかというと、私は船長の行為、土壇場で人の、仲間の肉を食わざるをえなかったっていう彼の行為はですね、人間のむごさとか、恥ずかしさとか、あるいは悲しさっていいますかね、そういうもののシンボルだと思うんですね。
 で、この人は生きるには、しかし、そういうむごいこと、恥ずかしいこと、悲しいことをね、互いにやらざる、やらずして生きていくことはできませんよ。つまり、その人肉を、人間の肉を食うということは、考えられないけれども、しかし、武田の言わんとしていることは人肉を食らうという極論によってですね、人は誰でも、むごいこと、恥ずかしいこと、悲しいことなしには生きていけない存在なんだと。そういうことを我々に伝えようとしているんですね。

ナ:悪人であることから逃れられない私達は、どのようい生きていけばよいのでしょうか。その手がかりとなる言葉が、第十三条の後半に登場します。

『善心が生まれるのも、また、悪事が思われたり行われるのも共に「宿業」がはたらくためなのです。ですから、よいことも悪いことも業の結果に任せてひとえに阿弥陀仏の本願をたのむことが他力ということでありましょう』

阿:「よきこともあしきことも業報」、業の報い、自分の行った行為が招く結果ですね。「業報にさしまかせて」、さしまかす、さしというのは強調する言葉ですね。まかせる、「業報」にまかせる。自分の行為が生み出してきた結果に、この、従ってですね、「ひへに本願をたのみまいらす」、自分は本願をたのむと。「業報」に揺り動かされないと。
 私はこの「業報にさしまかす」というそういう生き方がとても大事なヒントだと思いますね。つまり、第三条で「悪人」とは何かということを説明したと、十三条も使って「悪人」というものを説明した。そういう「悪人」である人間が「悪人」に要は押し潰されずにね、生きていくにはどうしたらいいかという。普通だったら「悪人」はもう阿弥陀仏の本願をたのむしかなくてですね、何かこのくらい人生を送るかのようなイメージになってしまうけれども、しかし、「業報にさしまかす」ということはあるぞということをこう言うわけですね。
 で、なぜ「業報にさしまかす」というふうな生き方に明るさがあるのかというと、それはですね、念仏を彼がするからですよ。念仏をするということは私が仏になる道、つまり完全なる智慧というものが身に付くような世界に向かって、歩んでいるということなんですね。
 ですから、「業報」、その私が過去に犯した行為によって今私がどのような状態になるか、そのいかんに関らず私は仏になる道を歩んでいるという確信があるがためにですね、その悪業に負けずに生きていくことができると。
 その「煩悩具足」とか「宿業」とかそういうマイナスのイメージの強い言葉の中でですね、そういうものに確かに束縛される一面はあるけれども、しかし、それはそれとして、つまり、それは「業報にさしまかせて」ということですね。「業報にさしまかせて」、しかし、その仏、称名という行為によって仏道を歩んでいるというそういう確信がその人に解放感をもたらすと、そこが大事な点なんですね。
 で、私はそのことをもっと端的に述べている言葉があってですね、この近代の最初の日本の宗教哲学者という清沢満之の言葉にですね、世間では「人事を尽くして天命を待つ」とこういうふうに言うと、「人事を尽くして天命を待つ」と。しかし、私は本願念仏に出会ったことによってですね、「天命に安んじて人事を尽くす」とこういう生き方をとるんだと。「天命に安んじて人事を尽くす」と、これは先程言った「業報にさしまかせる」という言葉を新しい言葉で言い直したことだと思いますね。
 ですから、これだけの人事を尽くしたんだからあとは天命を待つ、というよりはですね、その人事がいいかげんであっても、最初からもう天命に任してあるんだからどんな人事であったってね、それはそれでまあ納得できるわけですね。
 まあ私はこういうことでですね、「悪人」という言葉を煩悩具足のわれらとか、あるいは宿業的存在、業縁に縛られた存在、更に私の言葉で言えば、思い込み。そういうその言葉によって、つまり悪人的なあり方ということが、人間の事実だということを教えてるということですね。もうこれは、我々が見ることがなかっただけの話で、これは否定のしようがない人間の事実である。その事実にどんなふうに向き合うのかというところに、まあ大きな物語の役割があって、この「歎異抄」に即して言えば、そこに阿弥陀仏の本願というもののこの役割があるんだと思うんですね。
 で、それぞれの人間がどういう「業報」を抱えて生きているか、それはもうほんと千差万別でしょうね。で、私自身もそういう自分の中で生涯振り返って見た時に自分の人生はなんであったのか思うような連続ですよ。しかし、念仏とであえたということだけは確かですね。
 で、そのことは、そういう自分の道徳的破綻とか、いろいろな問題ということに耐えるっていうか、つまりそのことを以前よりは客観的に見ることができる、そういう余裕が生まれてくるということだと思いますね。

『煩悩に縛られた私たちはどのような修行を実践しても、迷いの世界から離れて自由になることができないのですが、その私たちを憐れんで阿弥陀仏誓願を起こされたのです。
 つまり、阿弥陀仏の根本の願いは、私ども悪人を成仏させる点にあるのですから他力をたのむ悪人こそが、正真正銘浄土に生まれて必ず仏になる種の持ち主なのです。
 それゆえに法然上人は、「善人でさえ往生するのです。ましてや悪人が往生することは言うまでもありません」とおっしゃったのです』

歎異抄 (ちくま学芸文庫)

歎異抄 (岩波文庫)

NHK「100分de名著」ブックス 歎異抄 仏にわが身をゆだねよ