eraoftheheart

NHK「こころの時代〜宗教・人生〜」の文字起こしです

2022/9/11 かわいい民藝 救いの美

2022/9/11 かわいい民藝 救いの美

太田浩史:大福寺住職

太田(以下「太」という):素朴なものは民藝なんですよ。人々を圧倒するような美ではなくて安心できる美なんです。単に物に限らず人間との出会いだろうが何だろうが、よくよく感じてみればこれは救いじゃないだろうかということは随分ある。

ナレーター(以下「ナ」という):富山県南西部南砺市にそのユニークなお寺はあります。大福寺、目を引くのは入口にある大きな山門です。

太:普通お寺の山門というのはいろんな装飾がついているんですよ、彫刻があったり、でもこれは一切何もないですね。その分中のキャパシティが大きいんですよ。どうぞお入りください。
 いろんなものを置いて、資料館とかそんなんじゃなくて、みんなでくつろげる場所にしてるつもりなんです。

ナ:築150年のこの門は農家から譲り受けたもの。そこには数々の民芸品が並んでいます。
 民藝とは名もない作り手達が普段の生活に使う道具として作り出したもの。陶器や織物、宗教の儀式で使う祭具、農作業に使う道具など世界各地から集めた民藝品は1,000点以上にものぼります。

太:この部屋は”かわいい民藝”という、民藝を通して”かわいい”ってどういうことかを考えてもらいたいと思ったんですね。
 これ(蓋)はねイランかな、かわいいでしょ。これが何かというとね、ミツバチがここを通るんですよ、この向こうが巣になってて蓋なの、それでいっぱい重ねてあって一種のアートになってるわけよ。どれもね同じように鳥の絵が描いてあるんだけれども、一つ一つは人間の手が入ってるから微妙に違うの。蜂はねその微妙な違いをちゃんと覚えてて、間違いなくここに戻ってくる。
 これ(お皿)なんかねアフガニスタンかな。これ(お皿に描かれている生き物の絵)哺乳類なのか昆虫なのかよく分からない、どうでもいいの。
 今イランとかアフガンっていったらすごく殺伐とした感じがあるけど、大の男がこういう絵を描くの、こういうもの見てるとね、これを描いてるやつは信頼できると思う。
 (お皿に描かれた人)顔にね個性がないの、みんななんか同じ顔してるの。大事なのは心の在り方というかね、だからみんな丸い線で覆われて角ばったとこはどこにもない、穏やかだね。だからやっぱりそういう穏やかなものに憧れてきたんだよね、人類は。
 僕はこのかわいいというものの大本の心というのは、もうちょっと根源的なもんだと思う。この北陸にはね、富山弁といってもいいかな、「あ~らかわいや」っていう言葉があるのよ。で、「あ~らかわいや」っていうのはね、ちょうど子供が辛い目に遭ってる時に母親がねできたら代わってあげたいというような気持ちの時が「あ~らかわいや」と。
 本当はこの”かわいい”というのは慈しみの心なんですよ。だから、かわいらしさというものから入っても、ずっとその奥があって、その奥はすごく大きな仏でいえば慈悲というし、あるいは、神の愛とかそういうとこまで実は僕らは無意識の内につながっていけるようなものを持ってる。それが”かわいい”ということじゃないかと思うんです。
 

 

太:そろいでなくていいね?

太田さんの妻、奈々代さん(以下「奈」という):はい、いいです。

ナ:民藝品は使われてこそ生きる。太田さんは日々の生活の中で使っています。

『太:これ(お皿)小鹿田(焼)ね大分県ですけども。飛び鉋、トタンの端っこみたいな金具でろくろを回して滑らすの、そしたらこういう模様ができるの。
 これ(お皿)はね僕が高校生の時に買ったんだ。この片口、だんだんこのしっとり感が増してくるんですよ。やっぱりこういう焼き物は使えば使うほど力が出てくるの。この焼き物が持ってる命がねだんだん強くなってくる。私達が使って育てていくんですよ。
取材者(以下「取」という):育てていく?
太:育てていく。
取:これ、あえて蓋を替えてる?
奈:蓋が無かったんです、見つからなかったの。
太:あるはずなんだけど。
奈:何て言ってたっけ?
太:エッグベーカー
奈:ちょっとしたことでもお皿で華やかにしてくれるんで
太:僕らの生活を盛り上げてくれるのね。
取:なんか壊しちゃうかもっていう緊張とかないんですか?
太:ゆうべ壊したよな。
奈:昨日は派手にやりましたけど。
太:それをこんなふうに金で継いで使うとまた味わい深いもんですよ。美術の世界だと傷物になったという感じ。そうじゃなくて、民藝の物は大体それが逆にその物の魅力が輝いていくようなドラマがあるわけです』

ナ:食事中に親しくしている門徒の方が亡くなったという電話が入りました。

太:亡くなったらすぐに行って、お顔を拝見して、それからお経を一回あげるんですよ。
 あっという間にお坊さんになる。

ナ:浄土真宗のお寺に生まれた太田さんは、10代の頃から先代住職の父と共に法事にも立ち会いました。しかし当初は寺を継ぐことに抵抗がありました。
 太田さんは1955年、大福寺の長男として生まれました。

太:お寺の息子ってずっと言われ続けてきたから、何か違うんだよね。同級生のクラスの中でもなんか違ってるんですよね。それはたぶんね、お寺に生まれたってことが大きいかもしれない。みんなからね、人が死んだら儲かる商売だって言われて、それが一種のコンプレックスになったことありますね。
 中学校の時に2泊3日の合宿に行ったんです。そしたら集中豪雨で道が全部崩れ落ちて2週間以上閉じ込められたことがあるんです。自分らこれ生きて帰れないんじゃないかというような気分になっていたころ、そういう中で一人の女性(同級生)に一目ぼれをしたというか、それが今から思えば「二」との出会いなんですよ。つまり、相手と自分とか、「生」と「死」とかいろんなものを二つに分けてどれかにこだわるという。その「二」というものを感じた途端に全てが整わなくなるんですよ、バランスが崩れるわけ。
 自分の中には2つ願望があったんですよ。みんなと同じになりたいという願望とそれから自分の個性の中で独立した人間になりたいという、これ矛盾してるんですよね、うまくつじつまが合わないんですよ。非常に落ち込みまして引きこもりみたいになったんです。
 バット持っていろんなものぶち壊す、おやじの大切にしていた物とか、あれてあれて、自分がいかに情けないことやってるかって分かるわけよ。分かるけどもどうしようもないの。ガラスを50何枚も割った時は寒い風が吹いてくるし、自分の心の中にも吹いてくるし。

ナ:父親の利雄さんはそんな太田さんを叱りもせず、ありのまま受け止める人でした。ある日、届け物を理由にして利雄さんは自分が親しくしていた人のもとに行くよう太田さんにすすめます。それはこの地に民藝運動を根付くきっかけを作った僧侶でした。

太:吉田龍象という人のところに行ったんですよ。「これ父から言われて届けに来ました」で渡して帰ろうとしたら、「ちょっと待て」と言われてね、後ろから声かけられて、ここにわざわざ来たからには儂に聞きたいことがあって来たんだろう、何べんも聞かれるんですね。「ありません、ありません」と抵抗してたんですが、とうとうポロっとある一言が出たんです。
 「何をやっても面白くない時はどうしたらいいんですか」って。そしたらいきなりあの人がね、僕の上へ飛び乗ってね、むちゃな話やけど首絞めるの。「よう言うてくれたな」、「そんなら儂の方から問うぞ」、「もし面白いもんが見つかった時はお前はどうしてくれるんじゃ」、その問いは意表をつかれましたよ。その時に襖ちらっと目に入ったんですよ。その襖になんと4体の観音様が描いてあるの。いやあそれがね、何とも自由でね、輝いてるよね、美しいし、もうほれぼれとしたんですね。「あれは何ですか?」って聞いたんですよ。「(襖の)裏へ回れ」って言われて裏を見せてくれたんですね。

ナ:そこに書かれていたのは、「宿業者是本能則感應道交」という言葉。人の身の上に降りかかる乗り越え難い不条理な出来事、しかし、その中にこそ救いの道がある。

太:宿業っていうのは自分の自由にならない、やっかいな矛盾に満ちた不条理なものかもしれません。でも実はそれが本能だという、この場合の本能というのは、本来の救済という意味もあるんですよ。

ナ:観音の絵と文字を書いたのは版画家の棟方志功でした。棟方は戦時中に南砺の寺に疎開して仏教の思想の深さを知ります。以来、人生の転機となったこの地で数々の作品を彫っていきました。

太:棟方志功は生まれつき目が不自由だった。お医者さんからもうすぐ失明するなんて言われて、これはあなたが持って生まれた運命だからこれはどうしようもねえんだちゅうわけだね。それはもう絵描きさんにとってはとても耐え難いことなんで。その時に宿業というものと向き合わざるをえなかったんだろうと思うんですよね。宿業以外にお前の居場所はないじゃないかと、それ以外にあなたという存在はないじゃないかというそういう呼びかけですよね。
 そしたらこれまでずっとその失明の運命なんていうようなことに強いねわだかまりみたいなものを持っておられた棟方先生がそこで感動して叫んで転げ回ったっちゅう、やった~やった~これだ~っていう。バケツの中に墨入れて太い筆がないもんで束ねて箒みたいにして書いた。

ナ:父利雄さんもまた棟方と親しく交わり仏教の教えに通じる民藝の心を大切にした僧侶でした。太田さんは父に連れられて棟方に出会います。その出会いは太田さんにとって仏教の道へと進む後押しとなりました。

太:棟方志功さんはねものすごい度の強い眼鏡でこうやって私をこうやって見てね、「ああ~しょうなの」っていうわけだね。「あんたが太田しゃんの息子しゃんなの」、左の手をがばっと取ってね「しょれはよかったね」っていうの。おやじの息子として生まれたことが「しょれはよかったね」ちゅうて何と比較してよかったとかそういうことじゃないんですよ。まさに宿業なのよ。私のそういうオリジナルそのものを押さえてよかったというわけだ。よかったということは尊いってことだよね、うん。
 だからあれで本当に自分はなんかね自由になれた感じがするんですよ。あれが僕にとっては「不二の門」だな。

ナ:「不二」とは何か。太田さんは大福寺の山門を「不二門」と名付けています。

太:蜘蛛の巣がはってますけども、これが不二の門。私達は大体物事を2つに分けて、あれかこれと言って迷うんですよ。だからそういう迷いが起こる以前の状態ですね、だからそこへ帰ればいいわけだね。私達の心が帰って行くためには、不二の門をくぐらなければいけない。

ナ:門に掲げられたこの「不二門」の文字は父の利雄さんが亡くなる直前に書いたものでした。利雄さんは物事を単純に2つに分けて区別するのではない、「不二」の生き方を歩もうとした人でした。その原点は戦争体験にあります。
 陸軍士官学校の航空科で学んでいた利雄さんは、特攻隊として次々と友人が出撃していく中で生と死という2つのはざまで揺れ苦しみました。

太:父親は家に帰ってくるんだけども、しばらくは死ぬことばかり考えてるわけです。そういう中で結核になって、おう当時不治の病ですからね。もうそれ、不思議なことにその死ぬことばっかり考えてた人間が今度は死ぬことが恐ろしくなるのね。言ってみりゃ「二」との出会いなんですよ。

ナ:そんあ恐れと苦しみの中で利雄さんを救ったのは、「民藝」との出会いでした。
 民藝とは思想家であった柳宗悦が生み出した言葉です。柳宗悦は生活のために作る実用品の中に本当の美しさを見出す「民藝運動」をこの南砺に伝え根付かせた一人です。利雄さんはそうした活動が広がる中でいつの時代も変わることなく人々に脈々と受け継がれてきた民藝の力に惹かれていきました。

太:父親は戦争が終わって、全てが訳が分からなくなったという強烈な断絶を感じてるわけです。民藝運動の先輩方というのは、戦前と戦後を股にかけて言うことがちっとも変わってないわけです。戦争が終わってこれからはデモクラシーだからとかいうのは一切ないんですよ。そういう意味でのブレないということがやっぱり信頼感とか安心感につながりますよね。
 民藝というのは本当は人との出会いなんです。「生」とか「死」という二元対立した矛盾ですよね。そういうものからいつの間にか解放されてた。だから父親にとっては民藝の道というものの出会いというのは救済だったんでしょうね。

ナ:太田さんは民藝に教えられてきたことを学生時代から続けている弓道の中でも見出してきました。寺の境内の真ん中に作った弓道場、そこで妻の奈々代さんと仲間と共に今でも週に一度弓を弾きます。自らに言い聞かせているのは、テクニックや力に頼って矢を放たないこと。

弓道の仲間:いつも教えていただいて、上手にできないので毎回アドバイスいただいて
太:あのね、上手くそと下手くそがいる。上手くそより下手くその方が有利だよ。
弓道の仲間:なんでですか?
太:自分に頼らないから。それだけ素直になりやすいから下手くその方が、上手くそは中々素直になれない、自分で解決しようとするから』

太:自然な働きを邪魔するような技術があるんですよね、自分でそういうものを勝手に作って、だから、下手くそになりたいですよね。自分の力とかプライドとかそういうものに頼らない分いいわけです。技術とか色んなものに頼ってると、”直観”される寸前にそれが出て台無しにしちゃうの。それは物作りに全部現れてるじゃないですか。
 私の中では弓と民藝と浄土真宗の教えというものは別のものじゃないんです。全くこんなもの(お茶碗)何の変哲もない、だから、美しいものが宿るとしか言いようがない。こっちから追いかけると逃げる、お前みたいな傲慢なやつには捕まらないぞっていって逃げる。やっぱりちょっとでも作為を出したり、そうするとその美というものはすっと消えてしまうんですよ。しかし、そこに自分の心の持ちようというんですかね、そういうものが態度が決まると、今度はその美というものは喜んで宿ってくれるわけです。喜べば集まる。

ナ:南砺で民藝運動が育まれた背景にはこの地に根付いた仏教の思想があります。南砺は室町時代蓮如の布教活動によって浄土真宗が盛んになった地域です。
 浄土真宗が説くのが、仏のはたらきに一切を委ねて生きる「他力」の教え。民藝運動を進めていた柳宗悦は、この他力の思想こそが、民藝の美を生み出しているものだと考えました。
 柳は南砺の寺で代表作「美の法門」を書き上げます。

『とりわけ名もない工人達が数多く作る民藝品が、必然に救われるその原理がつきとめられねばならない。多くは無学な平凡な人達の仕事であるから、若し、そこに美しさがあるとすると、個人の力から湧き出たものではなく、何かかかる人を超えた力が背后に働いて作品を美しくさせていると考えねばなるまい』

太:昔で言えば「国見」と言いますけども山の上へ登って見渡せるぐらいのエリアで考えているんですけど、そこに住んでいる人達というのは何らかのつながりがあるのね。気候を共有していますよね。方言が同じ、料理も同じ。いろんなものも共有してる。そこで自然環境と歴史、先祖からの営み、精神文化。そういうものが混然一体となってひとつの力を生み出すわけです、これを土徳というわけですわ。だから、この自分達はそんなこと意識しなくてもやることなすことがその土徳によって力を与えられ、かつ、また支えられているわけです。だからそこで作られる手仕事もやはり土徳を帯びている。そういうものの上でその人の個性が表れているわけですよ。

ナ:土徳とは、その土地の風土が持つ目に見えない力、柳宗悦が名付けた言葉です。その土徳の力にひかれるようにして今でも南砺にやって来る人達がいます。太田さんはそうした人達とも交流し民藝の味わいを伝えてきました。
 この日訪ねたのは、25年前に韓国からやって来たキムキョントクさんの工房。太田さんが手に携えてくるのは世界各地の名もなき作り手達の民藝品です。

『太:こういうの(お皿)どう思います?
 キム:かわいい感じしますね。優しい、力強い。
 太:これ(お皿)はねエクアドル、土器です。こんなのをしばらく手元に置いておいて。
 キム:ああ、ありがとうございます。よかった、本当に。見て勉強します。』

ナ:キムさんは太田さんが持ち込む民藝品をヒントにして様々な作品作りに挑戦しています。

『太:あれ最近作ってるの?
 キム:前に作ったんですけど、今新しく制作しようか考えてるんですよ。これ(急須)李朝白磁にある形ですよね。ほとんどが李朝を元にして制作してます。
 太:中にはこっちからこういう角度つけたやつもあるね。
 キム:ありますよ。もう様々ないろんなものが。昔の人達のすごいセンスそれを真似てる感じですよ、まだまだ勉強しないと。新羅を見ながら吸収して李朝を見ながらいろんなことを吸収しながら勉強しないと。
 太:これいい試みだと思います。
 キム:ありがとうございます。』

キム:太田住職はいつもこう、例えばこう、韓国人だから韓国のものを作った方がいいとかそういうことなく、それはそれとしてもっと自由に、私が自由に私が自由に飛ぼうとする時にもっと自由に飛ばせるような、キムさんこんなこともあるよ、こんなこともあるよ、これをしたらどうだ、ああしたらどうだ、いろんなことが私が素直に、素直に受け入れるような言い方であり、いろんなことが、いやほんとにありがとうございます。

ナ:キムさんもまた若い頃陶芸家として自らが進む道に悩んでいました。
 若くして韓国の陶芸界で頭角を現したキムさんは自分が作りたいものではなく、売れる作品を求める周囲に抵抗を感じていました。


『キムさんの妻:ここ(壁の落書きを指して)、ここも「ゼイタクだ」、これコミンっていうのは悩み、「悩みも贅沢だ」って書いてある。子供達の落書きもそのまま残ってる。
キム:好きなもの描いてみていうて、そしたら一生懸命描いてるの。だから大人になっても好きなことを一生懸命描けばいいんだって、評価ではなく自分が好きな絵を描き続ければいいんだって。
 いつもこんな感じですよ。戸を開けてパアーっ、見てここで』

ナ:仕事の在り方に悩んでいた頃訪ねたのが妻となる真由美さんの実家、富山の南砺でした。

キム:8年間ずっと探してたような気がしますよ。富山に来て自分が好きな場所ず〜っと、来た瞬間うわって、キムさんここですよいらっしゃいって。

ナ:キムさんはここ南砺で陶芸家として再出発しようと決意します。

『キム:気持ちいいですよ。これたんぽぽ見たりとか、たんぽぽとかこうやって見たりしたらなんかかわいいんですけど、よく見るとこれもすごいんですよ、この一つ一つが。今ちょうど飛ぶときなんですけど、なんかうま~いことできてるもんですよ、やっぱ。なんかうま~いことできてる、本当に。このなんかこう、ほらほらちゃんと飛べるようにそんな仕組みになっているこれが。で、それがとても美しくない?作ろうとして作るんではなく一生懸命生きる姿、生きる姿が美しさになる。別に誰かに見せることもなく誰かに喜ばせる、何のあれもなくただ生きる、ひたすら生きる、その生きる姿が美しくなる。
 とっても柔らかいものがどうやってこんな固い地面を広げていくんだろうって考えると、いやその力は一体何だろうって。キムさん生きるってこうゆうことですよって、それが伝わる。私もその花のような作品を作りたい。それを陶芸にどっかに表現できないかなって。
 だから自然が私の先生であり、勉強の場でありますよ。もうそのまんまやもん、うん、そのまま』

ナ:太田さんは、土徳とは閉じられたその土地だけのものではなく、外から来る人達によって更に育まれ開かれていくものだと考えています。

太:沖縄の読谷村というのがあって、みんなで共同窯を作って始めると、いろんな所からいろんな人が入ってくるわけです。渋谷で遊んでいたような子がいたとか、あるいは元米軍かもしれないけど。そういう人達が入ることによって沖縄の特色が失われるかと思いきや逆に深まっていくんだね。その人達は沖縄らしいものを作るよりもむしろ自分らしいものを作ってると思うんですよ、その自分らしいものを素直に作っていくところに土徳が働いてその土地らしいものになっていく。
 そこの土地に敬意を払って、そしてその敬意の中で自分達の持ってる文化もまたそこの土地に貢献するようにもってってですね。そしてお互いが敬意で結ばれて支え合っていくこyとになれば、それはね、新たなもっとより力強い土徳が生まれるはずです。

『南砺のトマト農家の方:親戚づきあいでこっちの方に来ることがあって、来るたんびに「ああ何ていいとこやな」っていうのは毎回感じてて、あ、ここで農業したいなっていう気持ちになって、この土徳だったりというのを農作物を通して伝えたい
 自動車メーカーデザイナーの方:デザイナーなんでチャラチャラしてるじゃないですか。己が己がってやってきたんですけど、土徳って他力本願じゃないですけど自分が出したんじゃなくて、環境がそれをさせていただいた、そういう思想が結構はまって。「分かんない」って言えないですよね企業の中では、この場は言っていいじゃないですか。
 自動車メーカー新規事業担当の方:分かったって言っても自分では割り切れてないから、ずっとモヤモヤしちゃいますもんね。中々割り切れないものってありますよね。
 取材者:自分の自宅にこんなにたくさん人がしょっちゅう集まるって大変じゃないですiか?
 光徳寺住職の方:大変です。だけども多分ね、それは僕小さい頃からこんな調子やったんで、多分ね、多分僕の大変さよりも嫁の大変さの方が大変だと思います。絶えず人が来てる家やったんで僕も若い時近寄れなかったんですから。いっつも宴会してる、いっつも飲んでる、下手すると昼間ごろから飲み始めて次の火の昼間まで飲んでる人いると思うよ、ねえ。
 南砺のトマト農家の方:光徳寺で出た落ち葉は僕のとこで使わしてもらってます。で、出来たトマトがこちらです。
 自動車メーカーデザイナーの方:ああ上手い!濃い、濃い』

太:ここから先は民藝とは趣が違うんですけど。

ナ:民藝とともに力を注いで太田さんが人々に伝えようとしていることがあります。

太:いわゆる戦争中に出版された出版物ですね。

ナ:太田さんは富山の住職達と協力して戦時下の人々の生活を伝える展示会を準備していました。

太:(出版物を手に取って)昭和19年の11月だから、「一同可憐な膝小僧を並べておのが部屋前の廊下の雑巾がけである、娘美しく働いて」、こういうことを書けば売れたんだよね。
 あるいはこういうふうにその当時の新聞をスクラップしてた人がいるの。

ナ:この10年間で集められたのは、門徒の方や地元の人達の家で眠っていた身近なものです。

太:これは少女雑誌の付録なんですけど、すごろくです。いろんないいことやってると、最後日本軍が敵の、まあ多分これ南京だろうけど、そこを占領できる。だからいいことっていうのは、最初は皇居遥拝、千人針、勤労奉仕、軍用動物の愛護とか国旗掲揚、いいことするとね、飛行機で一気にここまで飛べるとか何とかしながら最後は上がり、まあ南京陥落で。こういうので遊んだわけ。そういうふうに遊んで軍国少女を養成しようと。当時少女雑誌っていうのは強烈なものがあるよね。

『太:これ何だかわかる?
 取材者:一輪挿し?
 太:一輪挿しとかね、中にお酒入れておかんして飲めばいいような感じだけども。実はこれ、この先に信管があって導火線が出ていたの、こん中火薬が入ってて爆発するんですよ。これが四式陶製手榴弾。鉄がないもんだから全国の陶器の産地にこれを作らしたんですよ。これは多分有田焼かなと思う。だからそういう上質な土を利用してこれを何十万個と作ったんですよ。こんなものを職人さんが喜んで作ったと思いますか?まあ、痛ましいね』

 太:父親を含めて無数の戦争体験を聞いてるんです。母親も富山の大空襲の経験者で。火の中を神通川に飛び込んだ経験があります。いろんな人聞きましたよ。
 一人のこのお寺の役人さんだったんですけども、私が月忌参りに行ったら、その人はちょっと体がもう病気で出てこれないはずだったのに、のこのこと這い出してきて仏間に座ったんです。で、私がお経をあげて終わるとね、「若はん」言うて、私はまだ若はんだったんですけど、今まで誰にも言うたことがない、で、それをちょっと仏さんの前で言わしてもろていいかというわけ。何だか分かんないからいいですよって。
 そしたら、座ったままですけど直立不動になりましてね、チャッとかって、まあ敬礼をしてね、で、その人は「〇〇曹長、、、」自分は曹長だったんですね、「昭和何年、南京城近郊のある村において、女、子供、年寄り全村民127名を機関銃にて殺害いたしました、以上」、後はその、うん、阿弥陀さんに対してね「申し訳ありませんでした」とかってね。それでまあ、帰っていきましたよ。それから1週間で亡くなりましたね。
 やっぱりそういう体験をね、やっぱり自分の中でしまったまま、終わりたくなかったんだね。その人は殺したくて殺したんじゃないんですよ、上官の命令ですよ。だけど、やっぱりず~っと、あの命令を実行しなくて済む方法はあったんじゃないかちゅうことを一生涯考えてた、うん。でもそれは答えが出なかったけど、仏壇に向かって「申し訳ありませんでした」と。そういう例がねいくつもあるんです、私はね、もう山ほどある。
 そうすると、そういうことを聞かされた私は、それをまた何らかの形で誰かに伝える責任がある。一番いいのは実物ですよ。僕はどうしても物にこだわるんで実物を置いて、何を感じるかはその人の問題で、でもね、見れば必ずどこかに残る。いつか何か感じるはずだということで。
 「宿業是本能則是感応道交」、そのことがとても大事ですね。この宿業というもんがあって初めて、ある意味では本当の悲しみみたいなもんが出てくるんで。で、正直さも出てくるんで。曹長がこうして阿弥陀さんの前でね、自分が体験した事実を阿弥陀様に報告してる、それはね、自分だけでは抱えきれない不条理なんですよ。でもそれをね、見事に阿弥陀さんは無言で包み込んでる。だからそれはね、なんかこう解決したんじゃないんです。解決したんじゃなくて、まあ抱き締めたんですね。だから、あの曹長は抱き締められたわけです。

ナ:苦しみや悲しみは消えなくても、ありのままの姿で自然のままに生きていけばいい。他力の教えは民藝の精神と深く結び付き、今も南砺の土地に息づいています。
 南砺で暮らす韓国人の陶芸家、キムさんの工房。この日は、太田さんの提案でキムさんが作った白磁と共に太田さんのおよそ400年前の李朝白磁を並べてみました。

『太:違和感なく収まってますね。時代を超えて一緒になってる。
 キム:あ~なんかうれしいですよね。なんか不思議。自分が目で見てるんですけど不思議。一体どういうことなんだろう。
 太:だから古いものと新しいものを僕らどうしても分けて見るんですよね。こういうとこへ来るとね時間を超えて一緒になるよね。同じ血が流れてるんだ。
 キム:それ間違いないですよね。
 太:うん、間違いない。
 キム:ほんとに昔のままのものもいかに近づけるかそれもやってみたい。そこで自分でまた心がどう動くか何を感じるか。常に自分の心がどう感じるか、何をしたら豊かになるのか、それを試すというか確認してみたい。
 太:もう色が、白磁の色が変わってきたね。
 キム:ええ
 太:夕方の色になってきた。
 キム:ああ
 太:どんどん変わっていく、見え方も変わっていく』

太:ある意味では人間以上に生きてるんですかね。物が動かない分、周りの動きを受けているような感じ、静物と動物。自然の変化の中にああいう品物を置くと、静物じゃなくて動物になるわけですよね。動物として生き生きと躍動してるのをまあ私達は見たわけです。こういうのを静と動が不二という。
 単なる物だというのは私達の傲慢ですよ。物も生きてる。そしたら私達が息を引き取る時に生き物が、生きてる人間が物になっちゃったなんて思うかもしれないけど、あるいは、お骨になったら物だと思うかもしれないけども、いや物は生きてんですよ。そういう命の連続ですよね。
 だから、キムさんはあの空間を作り上げたわけですね。もといい材料欲しいとか、あるのにとか、そういうこと考えずに目の前のものを大切に生かして、実はすてきな空間を作り上げることができる。それやっぱりね、いろんな材料の中にちゃんと救いがあるわけですよね。そういう救いと救いをうまく連結して、そうすると全体が救いの空間になる。
 ちょうどね、私が私らこういうものを見ると、例えば民藝なんかでも救いの象徴だと見るんですよ、違うんです、救いそのものなんです。だから、私達の身の回りに無限の救いがあるわけです。だから救いに勝る美なんてないんですから、究極の美を見ているわけです。
 したがって民藝には、どれよりどれが上とかそういうものはないわけです。そういうものとの出会いというとかね、山ほどあるわけです、周り中に。単に物に限らず人間との出会いだろうが何だろうが。まあよくよく、よくよく感じてみればこれは救いじゃないだろうかということは随分あるわけ。

 

別冊NHK100分de名著 集中講義 大乗仏教 こうしてブッダの教えは変容した