eraoftheheart

NHK「こころの時代〜宗教・人生〜」の文字起こしです

2022/12/11 被爆者とともに40年歩んで

村田未知子:被爆者団体の相談員

『村田(以下「村」という):深堀さんですか、東友会の村田です。すいません、昨日お電話いただいたようで失礼しました。ご無沙汰してます、あの先生病名なんておっしゃってます?皮膚がんとおっしゃってたそれで、深堀さんは被爆、今現在、医療特別手当受けてらっしゃいますよね。そうするとその皮膚がん出しといた方がいいですね。あの今、膀胱がんの方、落ち着いてらっしゃる、経過観察の方、よかった。もう膀胱がんの方は落ち着いていれば、更新しなくてもいいしで、皮膚がんの方だけで行くということで、 うん、でも久々に深堀さんの声聞いて、私は安心』

ナレーター(以下「ナ」という):東京で、被爆者団体の相談員を務める、村田美智子さん、40年間、原爆が人間にもたらす被害を見つめてきました。

『深:あのがんはがんんでもよ、医療性って言ってね、お医者さんの治療が経過観察必要ないよって言うと、ダメになっちゃう場合が多いんですよ。はい、その時はまたお電話いただければ、はい、こちらこそお大事に。はい、どうも、どうしてこうやって次々がんが出てくるんでしょうね被爆者って。鼻の横に皮膚がんだってこの方、ご主人もがんでご主人のお手伝いもしたんですけどね』

ナ:東京で生きてきた被爆者たちの知られざる物語、彼らを間近で支え続けた女性が語ります。そこには苦しみから立ち上がり、誰かと手を携えようとする人間の姿がありました。
 77年前、日本に投下された2つの原爆、辛うじて生き延びた被爆者も過酷な人生を強いられました。戦後、大勢の被爆者が広島、長崎から東京に移り住みました。
 ここ「東友会」は、東京の被爆者たちの相談を無料で受け付ける団体です。持ち込まれる相談は、年に1万3,000から4,000件、東京都からの委託を受け、原爆症の申請や医療や介護の手続きを手伝っています。
 東友会は1958年、東京の被爆者により結成。今も役員のほとんどは被爆者です。
 被爆者として国が認定した証の手帳、認定には証人や証拠が必要で、東京にいると手続きは容易ではありません。東京で被爆者が互いに助け合うために、東友会は作られました。現在、東京在住の被爆者はおよそ4,400人、平均年齢はおよそ84歳となりました。
 東友会一のベテラン相談員が今年勤続40年になる、村田美智子さん。この日、相談を受けていた被爆者の病気が原爆症として国に認定されました。

『取材者:認定まではどのくらいかかるんですか?
村:早い人で4ヶ月、この人なんかは却下されたので、申請いつかな?最初に申請したの6月ですね、こういう風な書類を出しましたよということで、書類全部コピーをつけて、年代的にもあんまりそういうのが得意じゃない人たちが多くて、だから、お手伝いをしてくっていうことですね』

ナ:村田さんたちがこれまで相談に乗った被爆者の記録は、カルテと呼ばれるファイルに収められています。その数、およそ5,000人分。本人と遺族の許諾が得られたカルテの一部を見せてもらいました。

『取材者:いつ頃からカルテはお作りなんですか?
村:80年代から90年代で作ったと思います。これは1番古いものですけれども、 お名前と、それから、手帳番号とか、生年月日とか、それから本人の家族関係ですね。これ消してありますけど、当時は聞ける方は聞いてしたということ。原爆症の認定を取る時には、どこで被爆して、どういう風に逃げたかということを聞いて、それで、その後、広島のこれは郊外の地図ですけど、どう逃げていったかっていうなことをちゃんと聞き取って作ったんだと思います。
取材者:95年9月20日に村田さんがお作りになった。
村:この方は日本名と韓国のお名前と2つもっている。だんだん記憶が蘇ってきました。奥さんもいらして、金さんだけ置いて、みんなあの韓国に引き上げて、金さん1人残されたっておっしゃってましたね。死亡届もありました、急性白血病でなくなってますね金さん。平成17年、急性白血病。 とにかく、あの約束したことが実行できないって言うんですか。いついつ何時に来てというのはなかなかうまくいかなかったですね、それは、やっぱりお疲れだったのかなという風に、とにかくいつも疲れる、疲れるとおっしゃったんすけど、もうそれは覚えてます。 
 この方は、私のことは全部話していいよっていうことで、ご本人からは承諾を受けている方です、自死した方。高校の先生だった方で、死亡診断書は、「縊死」と書かれています。ご自分で命を絶たれたという。
 1番この方のすごいのは、「路上に溢れ、川岸に向かって移動していく人、遺体がこう両拳を固く握りしめていた」とか、「水を求めていた」とかってことを書かれている後に、家族4人の生活だとあるけど、ご長男とご長女の方の健康、将来のことがとっても不安、特に長女の方が不安だっていう風に書いてありますね。

ナ:自らの被爆が子供に影響を及ぼすのではないかという不安、そしてやむことのない体調不良と被爆との関連が病院で軽視されることへの憤りが綴られていました。

『村:60年余りどういう思いで、結局ずっと原爆を引きずって生きてこられた方なんだと思いますよ。なんか、この人の書いてある中にあった、川の中でお母さんが子供をこうだき抱かえて一緒に流されているけれども、そのお母さんの姿がね忘れられないとかね。あとやっぱり子供が大の字になってね浮いてる中にお母さんがこう覆いかぶさっていたとか。
 次は小林さんですね、この方はご存命でいらっしゃいます。広島の1.6キロで被爆されてます。原爆被害者調査っていうのをやった時に、小林さんが書かれていた言葉がすごく気になりまして。建物の中にお母さんが残っているのに、自分は逃げざるを得なかったと、「あなた逃げなさい」、お母さんはお経を唱え始めたと、心の中で、「お母さんごめんなさい、親不幸を許してください」、何度も何度も手を合わせて逃げた、この辛さは一生忘れることができないっていう風に、その方が書かれてたの。その言葉が今も覚えてるぐらいに印象に残っていて、家族を見捨てた思い、見捨てたという事実っていうのは、どんなに辛いのかなって私は想像できませんから。 だけど、その「ごめんお母さん、ごめんなさい、親不幸を許してください」って逃げたその辛さは忘れられないってその書かれて、その後も滅多に話してくださらないんですけどね、わからないですけど、そういう事実があったということで、私はそのご本人がかこの体験集に書かれたったここの一部を淡々と読むだけですから、 どんな気持ちだったんでしょうね、想像できないです。1番家族の幸せな時間、幸せな時の朝、悪魔に襲われてるものですよね』

ナ:1945年8月5日、小林さんは広島に帰省、両親に産んだばかりの孫の顔を見せた翌朝被爆しました。

『村:これちょっとこれすごい、小林さんが書かれてる娘が、生後1ヶ月余りで被爆しました。幸せにも健康に過ごし過ごしていますので、結婚する時、被爆していないということで結婚させ、 被爆した事実を隠して。だから、ここの証言集にもN子って書いてあるのはそういうことですね。被爆してるってわかると結婚できないっていうのが多かったですから、やっぱりそういうことで、お母さんとしては、被爆してないってことでなさったんだと思います。
 これはちょっと貴重な証言だと思います。こういう話はたくさん聞いてますから、だから、このカルテが宝なんですよね。人類に、皆さんに見ていたただかなきゃいけない。

ナ:被爆者の記録が宝だという村田さん実は東京生まれの東京育ちです。広島や長崎に縁もゆかりもない家庭で成長した村田さん、被爆者の存在を知った最初のきっかけはある授業でした。

村:小学校6年生の最後の社会科の授業なんですけど、担任の先生が戦争を知ってる世代 だったんですね。それで「アサヒグラフ」の、1952年にちょうど終戦のあと、プレスコードが解けたのを見せてくださって、教壇に本当に仁王立ちって言うんでしょうね、こう立って。それで、すごいあの時の先生の目は忘れられないんだけど、人間が人間にこういうことをしたのを、あなたたちは忘れないでください、で、その小学校6年生の時に、その浦沢先生っておっしゃるんだけど、浦沢先生がおっしゃったんです。それがずっと何かこう残っていて、1枚の写真がずっと残っていて。

取材者:その「アサヒグラフ」にはどんな写真が載っていたんですか。

村:小さな薬瓶みたいなのが置いてあって、髪の毛がちりちりになった顔がちょうどおからのようになった女性の写真、その写真がずっと記憶に残っていて、それを東友会に行って、この写真だって言えるぐらい覚えていて、先生が人間が人間にこういうことをしたっていうのは、こういうことをおっしゃったんだなっていうのが、その時わかったっていう感じ。

ナ:高校を出て、病院の事務の仕事をしていた村田さん。31歳の時、病院のカルテに詳しいならと、友人のつてでスカウトされた先が東友会でした。入ってすぐ、今も忘れられない1本の電話を取りました。

村:当時、12月まで私の前に事務局をやってた方がいて、その方が8月6日、9日は広島、長崎に行かれたんですね。で、私1人で事務所に座ってて、電話がかかってきて、電話を取ったんですね。で、相談したいことがあるっておっしゃられて、どちら様ですかって聞いたんです。そしたら、名前を名乗らないと相談を受けてくれないんですかって女性でした。未だに、それはここの私の中に鉛になってるんですね、あの人、それで電話切られちゃったんです。あの時、相談受けていれば何かできたんじゃないか。あの人に対して、私は相談員としての立場をね、全く果たすことができなかったっていう、それは、今でもここにずっと鉛みたいに残ってる。

取材者:その電話を受けた時っていうのは、おいくつだったんですか。

村:私は31です

取材者:それは何年何月のことでしたか

村:1982年の8月6日です

取材者:じゃあ、8月6日の本当直後ですね。
村:だから、そういう日だから、電話をかけてくる方いるんですよ。必ず9日と6日とか9日 、8月6日、9日に向かう7月の末ぐらいから、あの当時は具合が悪くなるって電話が随分あって、そういう中のお1人だったかもしれませんけれども。

ナ:村田さんが記してきた業務日誌、忘れ難い被爆者との出会いが詰まっています。 東京で孤立していた被爆者が仲間と出会い、共に立ち上がる姿も目にします。
 戦後被爆者たちはなぜ広島、長崎から遠く離れた東京へとやってきたのか、原爆で家族を見失いやむを得ず、都会に出た人、東京ならば職を得られると考えた人、 そこには様々な事情がありました。

村:私が相談を受けた方でとても印象的なのは、台東区に住んでいた吉本さんって方ですけれども、東京に来たら隠れられるでしょっておっしゃってたのね、人の中に隠れるっていうことだと思います。だからそういうことで、被爆者ってことを隠して生きていけるという風に思われたと思いますし。それから就職とかね、学校へ入学するっていうので、来た方がほとんどだと思いますけど、そういう孤独な思いでこられた方もいらっしゃった。広島、長崎から逃げたかったっていう、駒江市に住んでいた中上さんなんて方も亡くなる時まで、色々ご相談受けましたけど、彼なんかもそうでしたね。

取材者:何から逃げようとしているんですか。

村:原爆から原爆の被害からですよね。台東区の方は、自分の体に原爆の被害が出てくるのが恐ろしかったと思いますし。

取材者:そういった広島と長崎でこう辛い経験されてた方たちは、東京にこう暮らしていると、もうそういうこう辛い過去から逃げることができていたんでしょうか。

村:できないから、会を作ったんだと思います。東友会の相談事業がなぜ重要かっていうのは、被爆者同士の相互の理解じゃないとね、解決できない、それは手当てをおお手伝いするとかっていうことではなくて、やっぱり心の問題のフォローですよね。
 広島、長崎のことをね、ここなら何話してもいいって場がなかったんだと思います。まだ差別がいっぱいありましたし、私が来た頃は結婚反対されたとか、お子さんの結婚が壊されたとか、そんなようなのも結構ありましたから。
 東友会の前身だった原爆被災者の会っていうのがあったんですけれども、封筒に原爆の会ってことが書いてあると、外に印刷してありますとね、もうそれが被爆者の会から連絡が来るっていうことで、あなた被爆者でしょっていうことがわかってしまうと、それでもう差別を受けるという不安を持ってらっしゃった方たちが多かったんだと思います。
 私が来てからも、調布の会が原爆っていう字を入れて書いて、調布の友の会で調友会って名前があるのに調布市原爆被爆者の会かな封筒で送ったら、それで私どもの方に大変抗議が来て、隣の人が落ちてた封筒を拾ってくれて、なんかその時の目つきがね、なんかはっきり被爆者なのかって聞いてくれればいいのに聞かない、あの目つきがねとっても嫌だったし、その後、娘さんへの縁談が一切来なくなったっていう話がありましたね。
 私たち相談員は、あの地域で制度の説明に伺うことがあるんですけど、そこの会に足のご不自由な女性だったと思いますけれども、初めて被爆者の会に出てきたという方が、近所に広島から送ってきたジャガイモを、広島から送ってきたんじゃなかったかな、とにかく、ジャガイモを配られたそうなんです。そしたら、そのジャガイモが、みんな捨てられていた。で、今日は初めてその話、昭和30年代の話だって、(女性が話をしてくれた)豊島のその総会自身は昭和50年代だったと思うんですけども、20年ぐらいずっと心の中に誰にも言えなかったことが、今日初めてここだから言えますって言って、そしたら聞いてる皆さんもすごくわかってるんですよね、それに、その両方の姿見てて、私も涙が出るような思いをしましたし。

ナ:東京で被爆者であることを隠して生きてきた中上賢治さんという男性のカルテです。
家庭を持つこともなく1人で生きてきました。中上さんが村田さんを写した写真、寄る辺のない人生を送った中上さんが、その最後に人間の温もりを求めた思いが込められていました。

村:中上さん自身は、当時お小さかった3歳か、そのぐらいのお年だったと思うんです。中上賢治さんとおっしゃいましたけど。お母さんにかばってもらって、それでご本人はそんなに怪我がなかったようですけれども、お母さんがこうこの顔とか辺りにやけどをされて、女性としてはね、大変なひどい被害を受けられたようなんです。それで、お父さんは出征中で戻ってこられて、ところが、戦争から帰ってきた夫は、その姿のお母さんをご覧なって、別の女性のところに走ってしまう。で、お母さんの中の中には赤ちゃんがいたらしいんですけれどもね、お母さんを妊娠させてるわけですね。
 お母さんは、あんな人の子なんか産みたくないっておっしゃって、冷たい水に浸かって、流産した、で、出血が止まらなかったみたいですね。そのまま出血が止まらないで亡くなったって、それは20歳になった時に、初めてお母さんのお姉さんから聞かされて、それで、人生を全部彼はもうリセットしちゃったんですね。全てを捨てて、おばさんの家のお金を盗んで東京へ出てきて、ずっと1人で暮らしてた。
 その中上さんのことを面倒見たおばさん、お母さんのお姉さんとも話したり、難しいですねっておっしゃってました。同じ年頃の同級生かなんかのご自分のお子さんもいらっしゃるんですけど、いとこ同士だし、全く同じものを買ってあげても、やっぱり自分は大事にされてないと思っちゃうんだよねっていう。当時3歳だったらね、あるいはお母さん違うってのもご存じで、大きくなったのかもしれませんけど、1人でずっと生きてきた方でした。
 病室に私がガーベラの花を買って持ってったら、あなたが病室に入ってくるところ写真に撮るって、突然カメラ出して写真撮って、写真撮ってもいいかって言って、なんでって言ったら、人生で花もらうの初めてだから、だから疑似恋愛みたいな感じになってたのかもしれませんけど、多分、女性からお見舞いを受けるとか花をもらうってのは初めてだったのかもしれませんね。

ナ:生まれて、初めて人から花をもらった中上さん。死後、遺品の中に収められていた写真が村田さんに託されました。
 村田さんが相談に乗った被爆者の中には、被爆して亡くなった家族を思うあまり罪を犯すことになった男性もいました。

村:その方はちょっと今、あの老人ホームに入ってるんでちょっとお名前を伏せさせていただきますけれども、あの昔、 被爆者援護法ができた時に特別葬祭給付金という制度がありまして、あの身内で亡くなったか方がいる被爆者手帳を持ってる方には、国債でいわゆる葬祭料みたいなもの、葬儀代みたいなものを出されたんですね。(相談のために)東友会に来た方が色々調べたら戸籍がなかったと、服役までしてるんですよ。で、私びっくりしたんですけど、その頃から弁護士さんともお付き合いあって、服役して戸籍がない方っているんですかって、いますっておっしゃってたので、びっくりしたんですけど。
 その方はやっぱり広島で妹さんと2人で逃げてきて、で、親御さんがどこかわからないんだけど、要は戸籍がない、妹さんは火傷してる、で、その先生、近所にいたお医者さんが、 その妹さんがどんどん具合悪くなるんでその見せていただいたら、そこで多分白血病みたいな状態になって亡くなっちゃうんですね。で、お兄ちゃんがたった1人だけ手を引いて連れて逃げた妹が死んじゃうわけですよ。私、多分男の人って優しいから、 特に妹だったらとっても大事にするんだと思うんですね。他の人たちの話も来てそう思うんですけど、私たち女性が思わないよりも思うより、もっと大事にしてらっしゃるお兄ちゃんいっぱい知ってますけど。
 ところがそのお医者さんが誰にも断りなく、その妹さんの遺体をあの当時のABCC(アメリカが設置した原爆調査機関)に持ってっちゃって解剖させちゃったんですね。で、それで彼としてみれば、自分の妹の体が切り刻まれたっていう思いがあって、そのお医者さんを刺しちゃった。それで彼は少年院に、当時少年院があったか、そういう施設に入れられて、そこで大きくなっていって、で、犯罪にも手を染めるようになって、服役までするという。
 福祉事務所の人から連絡があって、被爆者だっておっしゃってるけれども、あの相談に乗ってもらえないかっていうことがありまして、それで色々調べたら、その福祉事務所の人がこの人戸籍がないんですよっておっしゃるんですね。だから多分、お父さん、お母さんと一緒の戸籍が抹消されてしまったのかわかりませんけど。で、戸籍を取るということから、 家庭裁判所に行って、初めて福祉事務所の人と一緒になってお手伝いをして、戸籍を取って。


ナ:原爆は被爆者だけでなくその家族をも苦しめました。日誌には被爆者と結婚したある女性がたどった人生が記されています。

村:突然尋ねてこられて、小柄な女性でした。もう顔ももちろん覚えてませんけど、ドアのとこに立ってらして、「どうぞ」って申し上げたら、「私被爆者じゃないんですよ」って言って入ってこられたんですけどね。で、当時は女性相談員3人だけでしたので、色々話していって、うちの主人は被爆した被爆したけど、私がちょうど生まれた頃に亡くなられたっていうのがわかって、じゃああなたがこんなに大きくなる、当時から大きかったですけど、そんな時間が経ったのね、なんていうこう世間話をしてたんですけど、突然お話をして、実は結婚したら(夫が)ひどい貧血で倒れて、再生不良性貧血だって言われたって、当時の病名です。 昭和26年、1950年ぐらいのことですから。
 そしたら、あの当時はまだ輸血というのがなくて、血を買って輸血しなければダメなんですね。それで、その血を買うためには、被爆者が当時医療費の助成ってのはありませんから、入院の治療の医療費も負担しなきゃいけない、その血液を買うお金も負担しなきゃいけないっていう状態になるわけですね。で、その結婚したての若い女性が、それだけのお金を
用意して、ご自分の生活を守っていくっていうことができなかったんだと思うんですけど、
私そんなお金とってもなかったのよねっておっしゃって、何したと思う?私ね、街角に立ったのよっておっしゃったの。で、その私どういう顔して聞いてたかなって今でも思うんですけれども、半年ぐらいねその街角に立ってお金を作って、そのお金で被爆者の方の輸血するお金をね、買ったという方でしたね。ここは女性だから言えたし、こんなこと初めて、そういうお話がね他にもあったっていう、被爆者以外でもあったという風に聞いてますけど、たまたま私がそういうその話を聞く立場にいたということは、一体なんなんだろうなって、あの時考えたことがありますね。

取材者:戦後ですね、原爆被害者の被爆者の方たちには、十分な援護が整備されていたんでしょうか。

村:されていたら、被爆者団体はできなかったと思います。皆さんそれでは不満だから団体を作ったんだと思いますし、原爆被爆者はもういろんな集まりの中で、1番先に被爆者が要求したことは、亡くなった方への償いだったんですね。自分たちの体のことももちろんですけど、だって、軍人さんが亡くなったら、遺族年金出てるわけでしょ。それはずっと遺族会って大きい団体、戦死した方たちを。ところが、あの一般市民の方たちには何1つ出てないわけですよ。それは、東京空襲も原爆も同じですよね。同じ命じゃないか、なぜ同じ命なのにっていう思いが、ずっと被爆者の方にはあったと思います。
 それから、放射能で壊された自分たちの体をなんとかしてほしいって思い。それで、運動してきて、暗黒の12年って言われてますけど、12年間は何の制度もなかった。だから、土地や家を売って、医療費に充てたっていうことをおっしゃってた昭島の被爆者の方もいらっしゃいましたし、そういう思いでお金のある方はね。それで、医療費を出せたと思いますけど、さっきの女性のような、あの方のような事例もあったんだろうと思うんですね。

ナ:村田さんは、今年71歳になります。引退はまだ考えていません。生涯をかけて、被爆者と共に歩もうとしている村田さん。
 彼らを一人ぼっちにはしない、そう決心するきっかけとなったある被爆者との出会いがありました。

村:今日ここに写真持ってきたのが、織田さんっていう方が、やっぱり1番私は印象に残ってまして、あの遺言まで私宛に書いていただいて、写真も全部なくなる前に、私のとこにいただいて。神楽坂ってご存じですよね。新宿のここで仲居さんをしていた方、広島で1.3キロだったかな。織田さんは(被爆したのは)確か舟入本町1.3キロですね。被爆されてるんですけど、お母さんも広島にいて、織田さん自身はあの大正8年生まれですから、当時ご結婚される方も決まっていらしたらしいんですね。
 ところが、その方は戦死されてしまって、1人残されたようです。で、あの被爆した時に、ご自分もお母さんも広島にいらしたんだけど、それぞれ職場にいらして、結局お母さんの遺骨がわからなかった。広島には、寺町ってところがありますけれども、そこにあの色々遺骨なんかが運ばれてるところがあるから、あなた行ってみなさいって言われていって、そのたくさんこう遺体が燃えてる中の骨のようなものを当時カンカンって言うんですけど、こう缶詰開けたの、缶に入れてもらって、それを郷里に持って帰ってお墓に入れた。
 その後、東京に行けばなんとか生きられるんじゃないかって、東京に出てこられて、ずっと仲居さんをされていたって方ですね。

取材者:原爆でお母様を亡くして、もう身売りがないわけですか

村:1人ですね。この方については全く身寄りがなかったです。弁護士さんに紹介して調べていただきましたけど。もしよろしかったら、写真写してあげて、喜ぶと思うから。これ、お見せしましたっけ?こういう写真ですよね、女優さんみたい。

取材者:おしゃれですね。もうちょっと見せてもらえますか

村:これの方がいいでしょほら、写真館でこういう写真を撮って。こういうのをね、みんなね、自分の気に入ったのをね、私んとこに送って、東友会宛に送ってきてくださって。こういう写真とかですね。本当にいつも元気そうに見せてましたけど、寂しげな方でしたね。 
 広島の昭和60年の時かな、広島で毎年追悼式典の時の東京都の遺族代表になって行かれたんですね。その時、私ご一緒したんですけど、その方の写真撮ったのはこれ最後の写真ですけど、病院のベッドの上でお見舞いに行った時の写真ですね。この時、プレドニンっていう副腎皮質ホルモンのお薬飲んでいて、顔がムーンフェイスって言うんですけど、丸くなっちゃう状況ですね。
 両足不自由になってからもいつもタクシーで東友会に月に2回かなぐらい来るんです、新宿からまた来ちゃったよって入ってきてね、30分ぐらいお喋りして、お菓子必ず持ってくるんで、ここは受け取れないのっていうと「捨ててあったの拾ってきたの」とかって、それでお茶出して、色々お喋りをして、色んな人生のお話とか色々しましたけど、屈託のない話も多かったですけど、結局ベッドから落ちて歩けなくなったんで、福祉の方に言われて、特別養護老人ホームに入るんですね。それから、3ヶ月でしたかね、確か、拒食症みたいになって亡くなりました。
 いろんな話するんですよ、こういう世界にいたからね、私だってモテたのよだけどね、原爆ってことがわかるとね、みんな男の人は逃げてっていう風におっしゃってましたね。素敵な方だったし、きっぷも良かったし、きっとモテたと思います。だから、被爆してなければ、違う人生がきっとそのあるいはね、婚約してた方が亡くならなければ、違う人生があったし、お母さんが生きてらっしゃれば、違う人生があったのかもしれませんけど、この人は最後、老人ホームで拒食症みたいになって亡くなりました。老人ホームに入ってからも、毎日のように電話かけてきましてね、で、テレホンカードがないからチャリンチャリント入れながら、切れるとねまた、かかってくるんですね、お金がなくなって切れちゃうんですよ。またかけてくるっていうようなことでね本当にいろんなお話しました、大好きでした。

取材者:ずっと独身だったんですか?

村:結局そうですね、結婚はしてないですね。色々いたけれどとおっしゃってたけど、相当モててたと思いますけど、そういう世界ですから。
 で、この方については最後に、「村田さん私を独り人ぼっちにしないでね」っていう風におっしゃったのがずっと残っていて、独りぼっちにしないでねっていう、だから多分ね、あの、ずっと広島のあの日から結局1人で生きてこられたんですよね、被爆者のお友達も1人いましたけれども、ずっと1人だったと思うんですね。

ナ:織田さんは、1999年、79歳で亡くなりました。遺骨を引き取ったのは、村田さんでした。一人ぼっちにしないでという願い。村田さんは、その後それに答える行動に出ます。
 山本英典さん、東友会の副会長を務めた長崎の被爆者です。被爆者が共に入れる墓を作ろうとしていました。

村:山本には妻がいましたけど子供がいない。自分のお墓を作るんだったらば、誰でも入れるお墓を作りたいというふうに彼は考えて、お墓を共同墓地にするという思いになったみたいなんですね。

ナ:村田さんは、2009年、山本さんの養子となりました。 山本さんが立てた共同の墓の名義を継ぐためです。墓は山本さん亡き後、村田さんが守っています。
 10月、被爆者や家族が集まり、 追悼の集いが開かれました。東京で身寄りがなく、家族の墓がない人でも入ることのできるお墓です。

『村:今日はここに原爆被害者の墓の前で故人を偲ぶ集い2022というので皆さんにお集まりをいただきました。ありがとうございます。皆さん簡単にお差し支えのない方、自己紹介をお願いします。
参加者①:広島被爆の立川から参りました熊田と申します。
参加者②:長崎で被爆しました岡田早苗です。弟はこちらのお世話になっておりますので毎年お参りさせていただいてます、ありがとうございます。
参加者③:私は広島で被爆いたしました東條明子と申します。練馬から参りました。
参加者④:広島で被爆いたしました。安居院と申します。色々とお世話さまでございます。
参加者⑤:私は広島の暁部隊で船舶補充隊で被爆しました比治山の下ですけどね。そういうことでなんとかここまで生き延びました。
村:石井さんおいくつになられたんだっけ。
参加者⑤:96歳になりました。
村:あと90代の方がまだいらっしゃいますよね』
ナ:今この墓に葬られているのは58人。「独りぼっちにしないで」と願った織田アヤさんも仲間たちとここに眠ります。

村:織田アヤさんはここです。ここに織田さんお名前を刻ませていただきました。お喋りしてんじゃないですか。いっぱいお喋り好きな人が入ってるから、
 これが父ですね、山本英典、去年の8月8日。

取材者:村田さんご自身はお墓入るとしたらどちらに

村:ここに入りますけど。妹がね、うちの墓ある、私で終わるんですようちのお墓。だからそっちに入れって言うんですけど、死んだ後のことはあの人がやるだろうからわかりませんけど、私はここに入れてねって言ってるんですけどね。向こう行って寂しくないじゃないですか、いっぱいいるから皆さん。

ナ:この日、親子共々村田さんに相談をしたという人がやってきました。綿平敬三さん、母親と広島で被爆。今、東友会の理事を務めています
 かつて、原爆症の認定基準の改善を求めて、国を訴え認められました。

綿平:実はね、私の宝にしてて、これいつも持って歩いてるんです、(原爆症)認定のね、記念。厚労省の方に裁判が終わった後行くんですよね。

ナ:戦後国に対し被爆者自身が立ち上がり、今ある医療の手当てなどの様々な権利の多くをつかみ取ってきました。東友会、村田さんは、被爆に苦しみながら立ち上がる人々を支援してきました。

村:私、申し訳ないんだけど、綿平さんよりもお母さんの印象の方がずっと強いのよ。かっこいい女性でね凛んとしてて。だから、職業なんかもおっしゃらなかったから、聞いてなるほど、料亭の女将さんみたいなね、すごい素敵な女性でね、私ああいうタイプの方好きなのよ。

綿平:女将と言ってもね、ちょうど私が生まれてすぐもう被爆に遭って。

村:いや、本当に凛としてる素敵な人でしたよ。

綿平:(母と2人で)被爆したところは広島駅前です。私はまだ3歳になってない時ですかね、そんな感じで被爆に遭いました。

取材者:綿平さんは、戦後ずっとお母様と一緒にいたんですか。

綿平:いえいえいえ、私はもう母親とはずっと一緒に生活してません。ずっと親戚に預けられながら、なおかつ高校の時は、自分1人でもう生活しなきゃいけないっていう状態、(母は)職業として料亭にいたんですけど、それが被爆のためになくなって、生活に、路頭に迷っちゃったんですね。

村:それ以降、一度も一緒には暮らしてらっしゃらない。

綿平:だから、母親とはとにかく電話もないですから。手紙だとか、時々会いに行っても、本当に数十分の顔合わせです。それからちょうど小学校時代の時に学校から帰る時に立ち寄って、母親の顔を見て、そのまま帰ると。

取材者:お母様は被爆について何かおっしゃってましたか。

綿平:語らないんですよ。ただ、母親としては、再婚という話がちょこちょこあったようですけど、やはり私を連れて再婚としてはできないということで、とにかく、私を別居になってでもなんとか頑張って、お互いに生きようというだけの話で、被爆としての話は、母親からは具体的に何も聞かない。

ナ:晩年の母からの手紙です。子供を養うため、一人働き、生涯離れ離れだった母、息子に初めて広島での被爆体験を明かしていました。そして、被爆者として差別された苦しみも。

綿平:やはり、最後にはきちっと伝えていかなきゃいけないっていうことだったんですよね。細かく文章的には、その被爆でどうだああだってことは書き残していますけど、自分が今までどうしても一緒に生活できなかった後悔っていうかね、これが書き続ってあったと思うんですけど、あの手紙にはね。
 被爆に遭ってこういう状態で、家族が共に一緒に生活できなかった、その辛さをわかってくれということだけですね。その手紙だけは私も大切にしてるんですけど。

ナ:「敬三も苦労させました。被爆のために苦労が続く。涙が出て書けない」
 31歳で東友会に入り、以来40年被爆者に寄り添ってきた村田さん。同僚とともに、今でも年に1万3,000を超える相談に乗り続けています。

取材者:辞めたいと思ったことはありますか。

村:やめたいと思ったことあったかもしれませんね。なんの時だろう、ないかも、ありましたね。
 相談を受けた人との意思疎通がうまくいかなくて、私がやる、その方から聞いたこ とで、私が対応しなきゃいけない相談と、本当にその方が言いたかった、望んだことと食い違っていて、で、それのために申請っていうか期日がありますから、その期日を逃してしまったということがありまして。で、ものすごく責任を感じてしたら、その方にお詫びしたんですけど、口も聞いてくれなくて。その時は当時の事務局長が入ってくれて、対応してもらって戻ったんですけれども、非常にそういうその時はもうこういうことをしたら、東友会に迷惑かけるから(やめたい)という風に、その時の事務局長に申し上げたことがありましたね。そしたら言われたんですよ、いいな、あなたは それで被爆と関係なくなるんだ、いいなって言われて、それでやめられませんでした。
 そうなんですよね、考えてみて、私はいつでも戻れますけど。被爆者の人は戻れない、やめられないですよね。

取材者:いつでも辞められるのに、どうしてこの仕事に携わり続けるんですか。

村:どうしてでしょう。多分、被爆者の人が、被爆者が好きだから。だって、被爆者の人言いませんよ。ホワイトハウスの上に原爆を落とせって、「そしたらわかるだろう」って言いませんよ。もう自分たちの被害はこれで最後にしてくれって、みんな言います、そういうこと言ってた人もいるんですけどね、本当にいいの聞くと黙っちゃって、何回か聞くと、 やっぱりダメだよってみんなおっしゃる。人間らしい人たちだと私は思います。
 そういう人たちと一緒に生きられるって誇りじゃないですか。第一、私たちの世代しかいないじゃないですか、私より私たちより50年今生まれた子供たちがそれはできないじゃないですか。だから、そういう時代に生まれた人間としてのその1人として、たまたまこういうい立場を与えていただいたという思いで今はおります。
 だから、やっぱり核兵器をなくすってことは、第1の被爆者の願いですし。私もそう思うし、あの方たちが訴えてることはちゃんと聞いてほしい。

取材者:なぜ、核兵器被害だけは許してはいけないと思いますか?

村:未来永劫続くかもしれない不安を残すでしょう。だから、さっき申し上げたけど、自分は被爆者手帳を取らないって、子供たちにも話してないって方、そのお子さんは仮にがんになっても、放射線の影響だとは思わないですよね。広島、長崎で親御さんが被爆されてることが原因だとは思わない。
 でも、その方の親御さんがお手帳を持ってるってことがわかってしまったら、もしかしたら、じゃあ自分の今度生まれてくる自分の子供たちは、自分の孫たちはという風に未来永劫不安を残してしまうかもしれない、そういう兵器ですよね。
 被爆者は悪魔の兵器だとか、人類とは共存できない兵器だとかって言い方してますけど、まさにでも兵器そのものがそうだっていう言い方もあると思うんですけど、やっぱり放射線というものは、やっぱ特別なものだっていう風に、私は皆さんの話を聞いてて思いますね。 心までめちゃくちゃにされてんですもんね、皆さん。体、暮らし、心の被害っていう風に。 特に記憶のある世代の方たちっていうのは、何らかの形でその原爆で殺された人たちの姿を見てらっしゃるわけだから、何もできなかったって思いもあるでしょうし、どうなんでしょうね。ただ、私が感じてるのはさっき申し上げたけど、辛い、苦しい、悲しいだけでは、人間は生きられないけど、じゃあなんで生きてるって言ったら。やっぱり何か希望があるから、その希望の1つが、私は核兵器廃絶だと思ったり、 被爆者のことを考えてくださってる方たちがいたり、話を聞いてくださる方がいたり、若い学生さんたちが自分の話を聞きに来てくれたって、とても元気になった方もいますしね、そういうことじゃないでしょうかね。あの人、さっき言ったあの、織田さんのように、独りぼっちにしないでっていうのは、そういう意味合いもあるのかもしれませんし、やっぱり、人間の繋がりっていうのが救いになってるんじゃないでしょうかね。

ナ:人間のつながりは、次の世代にも受け継がれようとしていました。田﨑豊子さん、広島で被爆した母を持つ被爆2世です。
 田﨑さんの母、愛子さん。生前、原爆症認定の改善を求め国を提訴、体調が優れない中で信念を貫きました。

『村:お母様がね、点滴をされてそれで厚生労働省の門前に来て、ビラを配ってらっしゃったんだって、こう人がどんどん入ってくるところで、1人1人ね目を見てねしっかりと。
田﨑:出し方があるですって。出しとくと向こうもスっと避けちゃうと人がいるからサっと出すんです。そうしたら取ってくれる』

ナ:田﨑さんは、亡き母の志を継ぎ、東京の被爆2世の会の代表となりました。親の被爆体験の継承や、核兵器廃絶を掲げた活動を村田さんは応援しています。

『取材者:田﨑さんは、お母様のお気持ちをこう継いで活動していこうって思ったきっかけが何かあったんですか。
田﨑:やはり母を亡くした思いが強かったと思いますね。でも、「これだけじゃいかん
、やっぱりやり残したことがあるのよね」ってやっぱり言われると、まあ、その前から
あの感じていたことはないことはありませんし。
村:そうですよね。NPT(核兵器拡散防止条約)でニューヨークに行かれた時も、英語で証言なさったんでしょ。お母さんのことを伝えてくださったのよね。
田﨑:本人が行きたかったと思います。本人が行きたかったんだろうなと思って、遺影を思って行きましたけど』

取材者:村田さんは、そのご苦労された被爆者の方たちと出会うと可哀そうだなっていう風に同情するんですか。

取材者:同情できるということは、自分の立場が上だってことですよね、同情しませんね。 私は被爆者から教えていただいてるので、弟子ですから。同情はしない、 一緒に後ろをついて歩かせていただいてるっていうとこかな、あるいは、並んで歩いて。
 そうだと思います。同情できるっていうのは、自分の立場が安定してたり、上だったりするからできるんであって。それも一緒に生きてる1つかもしれないけど、同情はしてませんね、被爆者に対しては1人もしてません。もし、被爆者の方が仲間だと思ってくだされば、これ以上の喜びはありません。

取材者:教えてもらっても、どんなことを教えてもらう、

村:さっき申し上げたことです。他の人間としては、起こしていけないような被害を知る唯一の人たち、 その人たちの1番近くにいるいられる人間として教えてもらって、あの日あの時だけのことではなくて、その後の人生、それから今どう生きようとしてるか、これからどう生きようとしてるか、それも含めて、人間って素敵だなって思う時いっぱいありますよ、被爆者といると。本当にそう思います。
 それは多分私たちのような仕事をしている人たちは、みんな思ってらっしゃるんじゃないかしら。とても大変な被害を受けた形、一緒に歩いてるような相談員の方たちとかはそうだと思いますよ。とっても、人間って素敵だなって思うんです。どんなにさっき申し上げたように、どんなに辛くても、もう一生懸命立ち上がろうとしてたり。

ナ:戦後様々な事情で広島、長崎を離れ、東京で生きてきた被爆者。そして、彼らに寄り添う人、忘れてはいけないことを知る人は、すぐ隣にいるのかもしれません。

 

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