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NHK「こころの時代〜宗教・人生〜」の文字起こしです

2022/8/14 こころの時代~宗教・人生~ 私の戦後70年「今、あの日々を思う」(再放送、初回放送:2015/10/11)

堀文子:日本画家(2019年逝去)
浅井靖子:ききて

ナレーター(以下「ナ」という):  日本画家堀文子さん。今年97歳を迎えました。
堀: これね、私の大好きな草なんです。ミシマというんです。
ナ: 今年の春、神戸の美術館で堀さんの展覧会が開かれました。描いてきたのは、いのちの世界。「一所不住・旅」と題された展覧会には、5万人を越える人々が訪れました。「一所不住」は、堀さんが作った言葉です。
 画家としておよそ80年。住まいを変えながら、また世界を旅しながら、その時々の自分に安住せず、絶えず新たな美を追究した歩みを表しています。およそ130点の作品が、時代を追って紹介されました。
 旅の始まりは、1939年。美術学校の学生だった時に描いた自画像です。日中戦争が始まり、国家総動員法が制定された時代の作品です。自由は命懸けのこと。戦中から戦後にかけて、堀さんは師弟関係に縛られた伝統的な日本画壇とは一線を画し、革新的な日本画を模索していました。
 時流をよそに、脱俗を夢見て、私は一処不住の旅を続けてきた。創造とは、自分の血肉の中から湧き出るもの。西洋を放浪し、その国々の美を見て平面の中にその奥にあるものまで含めて描く東洋の表現に気付いた。
 絶えることなく、一木一草に流れるいのちの響きは、私に生き物の掟を教えた。大地を見つめる顔は敗北ではなく、その痩せた姿にも解脱の風格があった。その顔いっぱいの種は次のいのちを宿し充実していた。
 展覧会の会場に飾られた最新作は、去年描いた冬枯れの萩の姿。95歳の堀さんが、自宅の庭の枯れた萩の枝に命の痕跡を見つめた作品です。戦後70年の夏、堀さんを神奈川県大磯の自宅にお訪ねしました。
 
浅井(以下「浅」という):あの先生は、「一処不住」って、一つのところには長くは住まない。
堀:住まない、そうですね。やっぱり私は、感覚、目の職人なもんですからね、ものが慣れてくると、ものを見なくなるんです、知っていると、だからなるべく知らない方がいいのでなるべく家も変えた方がいいんです。 やっぱりキツネでも、野生動物は巣を知られると危険なので、絶えず巣を変えますからね。私も野生動物のようなもので巣を変えるんです。 
浅: 今はこの一間(ひとま)を中心にお過ごしでいらっしゃいますね。
堀:そうでございますね。でもやっぱり庭の自然は自力で生きていますからね。どんな雑草でもね自分の力で死ぬまで生きていますのでね、それを見ることが私の今の刺激です。
 今日はね、もうドクダミが終わりましてね、それでカンゾウが昨日咲きましたけど、もう蕾でございますから。自然は誰の力を借りずにね、自分の出番を間違えずにちゃんと咲きます。私はね、今寝るだけでございましてね、夜中にいろんな夢を見ます。ですからね、今までの百年近い人生の夢を見る中で、一番多く出てくるのが幼い日の夢ですね。ですから如何に子供がこの世に初めて生まれた時に、この世を見て驚いた時の印象が如何に強かったかがわかりますね。何の概念もなしに、この世を見たんですからね。その印象の強さが今死にかかっている私の夢枕に立ちますね。不思議ですね。

ナ:堀さんが生まれたのは1918年。第一次世界大戦終結した年でした。生家は、皇居や政治の中心にほど近い東京麹町平河町(こうじまちひらかわちよう)。旗本屋敷の名残が残る街に育ちました。姉2人が続いた後に、一家待望の長男が誕生。堀さんはその次ぎに生まれた三女でした。母は明治生まれには珍しい高等女学校で学んだ人でした。父は、中央大学西洋史を教える歴史学者、子供には黙って本物を見せるという人でした。中秋の名月を見るためにわざわざ江ノ島まで行こうと言い出す父に、姉妹たちは逃げだし、一人お供をしたのが堀さんだったと言います。

堀:三宅坂というところがございますね。外堀がありますでしょう。あそこの近くで遊んでいたんです。あそこへ下りてはいけないと厳しく躾けられておりました。お堀に落っこっちゃうから。
浅:あの界隈ですと、政治の中心でもあった場所で。
堀:私、国会議事堂ができる時に、ちょうど私の近くにね、石を積まれて、工作の人が入っていましたから、「あそこへ行っちゃいけない」って厳しく言われて、10年ぐらいかかりましたね。だから議事堂が建つのを知っているんです。なんという江戸人ですね、百年近く前の思い出です。
 私、小さい時にね、自分がどこにいるかということが気になったんですね、ここと同じでね。そうすると、「麹町平河町というところだ」というのね。だから麹町平河町というところの場所なんだなと思っていると、「東京」ということをいうから、「東京ってどこ?」というと、「何言っているの。ここが東京なんですよ」という。そうすると、何だか神奈川県とかというのと、また何だかおかしくなってきて、それである時、私の叔父がドイツに行ったんです。そうしたら、ドイツという国もあるらしいというので、だんだん空間が広がっていったことの驚きは克明に覚えておりますね。ああやってわかっていくんですね。猫の子が自分の居場所がわかるようにぐるぐる回って見ているのと同じでね、ほんとですね。「日本というものがある」ということをそこで知るわけなんです。で、「外国というものもあるらしい」という。だからだんだん空間が広がっていくのをビックリしたのを、もの凄い驚きを思い出しますね。変な子でした。
浅:ここにいらっしゃるのが堀さんでいらっしゃいますね?
堀:これ私ですね。私の兄ですね。だから私の姉ですけどね、私の弟を抱いているんです。サルスベリの木にね、縄を掛けて、そこでブランコしたりしていました。父親が庭風に庭を造るのが嫌いでね。自然と同じようにしておいたもんですから鬱蒼としておりました。それから草花を植えると叱られるの。昔の庭園はね、そんな花物なんて植えてないんです。大木で、できるだけ花の咲かない木を植えていましたね。松だとか桧だとか、泰山木の木が一本だけございましたね。真っ白い花ですから許したんでしょうね。

ナ:大正から昭和へ、堀さんは日本を揺るがした数々の出来事を体験しています。変わっていく日本の姿を見つめていました。1923年9月の関東大震災は、平河町の自宅で経験しています。

堀: 私はね、満5歳の時に、関東大震災がそこの家で起こったんです。そしてその時に、私はその頃まだ日本国中が着物の時代でね、子供でも男の子でもみんな着物で、草履を履いておりました。下駄を履いて、喧嘩をするにも。それなのに私は、舶来品の家から洋服を買って貰ってね、その日の朝から洋服を着ていたんです。それに靴を履いているところに大地震が起きたんです。それからね、庭中があの小さな池がございましたけどね、池が何だか火山のように立ち上がって、水がビュッ!と立ち上がって、金魚や鯉が庭に投げ出されてばんばん大変な騒ぎになった。そこへもってきて、姉とか大人たちが裸足で転げ回っているの、立てないから、地震で揺れているから。それで私は靴を履いているから、「いいや」と思ってね。威張って、後からゆっくり出て行くの、覚えています。母は台所にいました。お昼時分でね、私は、「お母様!」と言ってね、飛んで行ったの。母が虚ろな目をして、私の方なんか見てないの。何だか私を、「あぁ、おまえさん」と言わないの。いつもの母に頼もしくないの。ですからその時に私は、母と雖もこれはただ事でないんだなというのがわかったのを覚えている。それで誰にも頼れないんだなというのがわかったのを覚えています。
 今でも鮮明にね、夢にも現れてきますけどね。泰山木の木に大きな太い幹を、枝の所を雌のカマキリのお腹の大きいカマキリが、こういうふうにしながらジッとこっちを三角の顔で見ながらゆっくりと上がって行くの。あんなのが目に焼き付いていますね。人間はこんなに狼狽えているのに、何でカマキリは偉いだろうと思った強い印象が忘れられないですね。ですから子供は観察しているんですよ。侮っちゃいけませんね、五歳までの子供を。カマキリの顔まで覚えています。お腹の大きい緑色のカマキリがね、こうしながらゆっくりゆっくりと木を上って行くの。何でそんなこと思い出すんでしょう。人間がこんなに狼狽えているのを、カマキリは平気なんだなという印象が強かったんだと思います。
 父は歴史学者でしたから、インテリの最たる人でね。私はあれほどインテリというものの厳しい姿勢を見たことのないような人でした。その人が、「日本は危ないぞ」と言って、私たちを躾けていたんです。ということは、「どうも陸軍の動きが危ないと、怪しいと。陸軍は世界のことを知らないからね、調子に乗っていて、今に何をするかわからない、非常に危険だよ、日本の未来は」って。「学校で教わる歴史はみんな間違ったことを教えている」というんです。家で躾の通りにしていると価値観が、3つ4つに分かれるわけ。やっぱり歴史の本を書き替えられに行きましたから。
浅:と言いますと?
堀:例えば、南朝とか北朝とか言ってね。「北朝が悪くて、南朝が良いとかね。そうじゃなくて、後醍醐天皇も悪い、バカだったんだ」なんて言うんですよ、父がね。「楠木正成なんかがどのくらい困ったかね。この本を見てみろ」なんて、群書類従なんて出すの。ですから私は、もう天性矛盾の中から生まれているんです。その通りにやっぱり国家がだんだんに戦争に傾いていきました。それでそれまでは麹町の平河町ですから永田町小学校というところへ通っているんです、庶民の学校ですね。隣が宮家なんです。閑院宮、それから下の方に伏見宮とか、宮邸があって、毎日天皇がまさに皇子でいらっしゃった時に、東宮御所から宮城へお通いになる時、永田町小学校の前をお通りになるんです。それでね、それまではお辞儀をしていたんですけど、朝来たら警察が「小学校の1階から外を覗いちゃいけない」という御触れが出るの。どんどんどんどん警察が絞めてきましたね。
浅:見ちゃいけないというのはどういう意味ですか?
堀: つまりそういう親しんじゃいけないわけです宮廷と、神なんだから。周辺には大使館が並んでいるんです。その頃世界を牛耳っていたのは英国でしたから、英国大使館に勤めている人の息子なんて、学校中が英雄のように騒いでね。中国の公使館の人なんか奴隷の如くに扱っていましたからね、いけませんね。中国は大使館でなく、公使館なんです。それで中国の人をバカにして、みんなが「チャンコロ」とかなんとか言って、酷いことしているんです。ですからそれに対して、私は一心に日本の罪を背負ったような気になっている子供でした。関東大震災の時なんか、「朝鮮の人が井戸に毒を投げた」とか言ってね。町内の連中が見つけ次第殺したりしたんです、朝鮮の人々を。酷いことをしたんですよ、日本人は。ですから国際紛争なんて、そういうところから起きていくんですね。

ナ:1931年、堀さんが、府立第五高等女学校に入学した年、満州事変が起きます。関東軍は自ら起こした鉄道の爆破事件を口実に、武力で旧満州中国東北部への進出を強めます。翌年には満州国が建国。その頃不況が長期化する中、農村の疲弊が深刻さを増していました。国は、農民たちを開拓団の一員として続々と満州に送り込んでいきました。
 堀さん、17歳の時、二二六事件が起こります。自宅のすぐ側を兵士たちが取り囲みました。同じ年、ドイツで開催されたベルリン・オリンピックに、日本はそれまでで最多の選手団を送り込みます。人々は選手たちの活躍に熱狂していました。

堀:  それで私を育てたのは、乱世だと思っています。ものを見る目がちゃんとするようになったのは。1つの世論に動かされない人間になりましたね。世論に刃向かうということは不可能に近いです、興奮状態になると。その時にやっぱり好きなのはスポーツと、それからつまりふしだらな女とか男のスキャンダルが大好きになりますね。ちょっと似ているじゃないですか、今。熱狂的でしょう、スポーツに。オリンピックなんていうと、何十兆もかけても平気だなんて言い始めちゃうでしょう。恐いですね。
浅:日本が戦争への道をこう大きく舵を取っていった一つのきっかけになったのが、二二六事件という。
堀:  二二六事件も経験しております。私の家から半径500メートルの中で起きたんですから。やっぱりただ事でないぞと、これはね。新聞にも載っていないし。だからどうも歴史の変わり目なんかの大事件かも知れないから、この目で私は確かめなければと思ったんですね。やっぱりそういう癖がありますね、私には。
 私が朝ね、平河町の家からね、私の学校は新宿にございまして、三宅坂から電車に乗って新宿へ行くんですけどね、三宅坂へ行こうと思っても、街がバリケードでね、軍が、兵隊が全部角口に立っていましてね、バリケードで道が開けてないんです。それで私ね、学校へ行ってから、「今朝おかしくなかった」というと、「全然おかしくない」と言うの。みんなお住まいが郊外なんですよ。中野とか、東中野とか。ですから帰って来ましたら、四谷見附からこっちは通れないの。軍が支配していて。私は反軍思想でね、怒っていたもんですから、「何故そう用もない人を止めるんですか」って言ってやろうなんて思っていた。そうしたら「どこへ行く!」と銃剣をここ(首)まで突き付けられたらね、わなわな震えて。私は、武器とかね突き付けられたら、人間は何にも抵抗できないというのをあの時覚えましたね。こんな子供によ、銃剣で「どこへ行く!」って言われた時に震えちゃって返事もできない。「家、家、家」なんて。ですからやっぱり武器を持ったらそれに抵抗はできないですね。武器を突き付けられたら。その時わかりましたね。
浅:その二二六事件の最後までをつぶさにご覧になったわけですね。
堀:見ました。父と私と姉妹が一人ぐらい居たかしら。前の日なんか軍がいよいよ明日から戦闘を始めるから畳という畳を永田町の方面の窓の下に積んで、「そこに潜め」と言われましたよ。もう逃げることもできなかったんです。ですから命を避けてね、やっぱり自分を死ぬか生きるかという思いをするのは、あの時が一番ですね。
ナ:2ヶ月後、堀さんは女子美術専門学校日本画部に入学します。当時西洋の絵は印刷物でしか目にすることができないものでした。本物を直に見て学びたい。それが堀さんが日本画を選んだ理由でした。翌年日中戦争が始まり、政府は国家のために奉仕する国民精神総動員運動を推進。帝国憲法に反するとの声もある中で、国家総動員法を制定して、労働や物資、言論などを統制できる体制を作っていきました。

堀:軍が支配して、学校という学校を軍が支配していくんですけどね。女子美術なんていうのは、誰も支配しないの。それが最後には支配されました。教頭が一人ひとり呼んで、「あなたは何のために絵を描くのか」と言うの。「何のため」ってね、「誰のために」というか、「私のために描く」、「違う。それは危険思想だ」という、「天皇陛下のために描くんだと言え!」と言うの。そんなのあなたはバカって思うでしょう、それほどね支配したんです。恐いですね。ですから「天皇陛下万歳!」みたいにね。国中のものを天皇のために命を惜しまないというふうにさせていくわけ。冗談じゃないですよ。「私、天皇陛下のために描くんじゃなくて、冗談じゃないよ」なんて言うものなら大変な騒ぎです。そんなことになるんですよ、道を間違うと、今だってまたなりますよ。
浅:堀さんが、絵の道を選ばれたのは?
堀:私は戦争に関係したくなかったので美に近づいたんです。美だけは利用のしようがないでしょう、衣食住なんの役にも立たないものなんだから。役に立たないものだから選んだんです。何をやったって上手ければ戦争に利用されます。
浅:その時代は?
堀:その時代は、そうなんです。人殺しの片棒を担がなければならない。ですけどね、美だけは人殺しに関係ないから、ないでしょう、美なんて役に立たないんだから。役に立たないものなんかね、本当に蛇蝎のごとく嫌われて、誰も世話してくれないですから。

ナ:1940年、女子美術専門学校を卒業した堀さんは、家を出て経済的に自力する道を求めます。しかし当時は未曾有の就職難。美術学校を出た人は、教師になる以外働き口はありませんでした。年若い人たちに指図をする仕事は自分を堕落させると考えた堀さんは、東京帝国大学農学部で作物の記録係の職を見つけました。

堀:その前に、私ね、芋虫の幼虫の絵を描かされていたの。だから私が世の中で一番嫌いなのは、芋虫と毛虫なのね。そいつの細かい絵を描かされ、あれは標本にならないんです、柔らかいから、乾かないから。それでこんな嫌なもの描いてね。だけど私これに耐えられないような人間ならろくなものになれないだろうと思ってね、泣きながらやりました。やっぱりこのくらいのことに耐えなくて、どうして一生が送れるだろうと思って。ですから芋虫の絵を描いていた時もあります。でも農学部の方が作物教室だからいいと思って喜んで行ったんです。何という教授でいらっしゃったかしらね、胃の悪い先生でいらっしゃって、「堀さん堀さん」なんて言ってね、「そば屋へ行ってください」とか言って。私は恥ずかしいのね、学生の中を歩くのが。女が男の中にいるというのは恥ずかしかったんですよね。そんなのにお蕎麦なんか持ってね、本郷の道路を渡るあの恥ずかしかったこと。女は大学へ入れなかったんです。ですから私は科学者になりたかったけど、やっぱり不利だから止めたんです。だから一番不利な絵描きになったんです。ですから麦だとか、いろんなお蕎麦とか、そういうものの作物の絵を描けばいいんですから、発芽とかね。
浅:それは面白いもので?
堀:ええ。それが私が自然を見る目を養う基礎になりましたね。とにかくできたものじゃなくて、種からどういうことになって生命が生まれるのかというのを克明に見たことは良かったと思いますね。

ナ:堀さんは、作物の記録画を描く一方、新美術人協会の公募展への出品を続けます。会を結成した福田豊四郎たちは、師匠と弟子という関係がものをいう画壇のあり方を批判。自立した一人一人が、自分自身の絵を描くことを志していました。絵の素材や構図も、伝統的な日本画にとらわれない実験的で斬新な表現を模索、熱気に溢れていました。しかし戦局が厳しさを増す中で、若い男性たちは次々と出征。作品を発表する展覧会や画材の流通は統制され、時局に適う題材が求められるようになっていきました。

堀:どこから探してきたの。あらぁ嫌だ嫌だ。へぇ、こんなの描いているんですね。やっぱり題材として面白いでしょう。女だし、働いている女だし、それから、へぇ驚きました。

ナ:堀さんは、同じ新美術人協会に所属する画家柴田安子さんと共に落下傘工場を取材。工場を題材にした3枚の絵を描いています。

堀:男はみんな軍に使われました。私だってね、やっぱりあんまり反抗していたらね、絵の具も買えなかったんですから、紙も。そうなんです。画家という範疇から剥奪されちゃう。絵の具も買えないの。そういうふうになるんですよ。一朝ことあると。恐ろしいことですね。画家でないとね、軍の色んな機具を作る女工さんにさせられるので、やっぱり少しは協力したようにしなければならないので、私は落下傘は女の人で絵になるなと思ったから落下傘工場を選んだんです。確かに面白いでした。だって題材がね、戦場じゃないんですから。布と紐と女工さんですからね。女工さんの群像が描けるじゃないですか。だからそれは一生懸命に描きました。
浅:働いている女が絵になるというのはどういうお気持ちでいらっしゃったんですか?
堀:やっぱり群像が描きたかったから、人間の。だけど落下傘を作っているんだから、あんまり罪深くないじゃないですか、罪深くないですね。やっぱり飛行機だとか、あの弾丸を作っている工場なんか行かないですよ。
 私は戦争反対者でしたから危なかったですから。ただ治安維持法というのが作られましてね、犯罪者になるんです。すぐ投獄されたんです。そこで死んでしまうわけです。私も最後まで、集まる人は戦争反対していました。その中の誰となし一人一人いなくなりましたね。だから満州かなんかへやられた、飛ばされたと思いますね。それから密告者がいるなということも感じました。何だか用もない奴がいつもいるの。にやにやしたようなのがね。そういう人がやっぱり軍からいろんな集団に配置されていますね。「隣組」なんて密告集団ですよ。そういうふうに思いました。
浅:そういうことを経験されているからこそ、今、この時代に積極的に発言なさりたいという。
堀:非常に危ない危険な今状態で、今なら国民が競って反対すればいいんですから。しかし女とマスコミがしっかりしていれば防げると思ったけど、今両方が危なくなっているの。女が綺麗になりたい。美味しいものが食いたい。それから若返りたいとか、子供っぽく声を張り上げて、アナウンサーまでヒーヒー声で聞こえないです。成熟した大人の声じゃないですか。敬語がなくなるし。ですから日本が非常に危険な瀬戸際にいるように思えてしょうがないです。
 国家なり権力に反抗するには、相当の勇気と知恵が要りますね。やっぱり下手すれば牢獄に繋がれるんですから、何するかわからないですよ国家が野心を持つと。私だって赤いシャツを着ているだけでね、捕まりそうになりましたもの。反戦の奴がいるということになる。
浅:赤いシャツがですか?
堀:私は赤いものが好きだったりしてね。そういうことを自分の好きなことをやっていましたから。そういう軍国主義に反対するようなカーキ色かなんかでないといけないんです。ただそれでさえも拒否して軍に捕まるのだけは御免被ると思っていたから。軍に捕まらないための知恵は働いていました。
浅:堀さんが、自由が狭められていく時代によく山に行かれて。
堀:山歩きをしておりましたね。自然があったから。やっぱり山の中で何日も過ごすのが大好きでしたね。ただ私は天性考えてみると、母親が信州の人でしたからね、山国にいたんですね、何百年か。それが私のDNAが私の中に騒ぐんじゃないでしょうか。関東は山が見えないからね、飢えていたんです。ですから私の初期の絵には全部猫の絵でも何でも山が描いてあるの、一番後ろに山があるの。そうすると落ち着くんですね。だから人間には先祖からの血の中にDNAで好きな風景やなんか残っているんじゃないでしょうか。やっぱり自然が救ったと思うんですけどね。
 私八ヶ岳に狂いましたね、一時ね。大好きでしたね。だからあそこで蜂蜜屋になろうかなんて思っていたことがあるくらい。だってね、戦争になってきましたからね。生き抜くことは。文化を伝えるのは女だなと思ったから。男は全部殺されちゃうしね。ですから女が蜂蜜屋かなんかになってここで生き残るべきだなんて決心していた時があります。

ナ:堀さん、27歳の時、日本が敗戦。一家が暮らしていた平河町の家は空襲で跡形もなく焼かれました。父からの教えで戦争に批判的だった兄は中国で戦死。堀さんのもっとも良き理解者だった弟も学徒出陣、満足な治療を受けられぬまま病気で亡くなりました。共に美を追究した仲間も志半ばのまま戻っては来ませんでした。堀さんは東京青山にバラックを建て、生活を始めます。男手を失った一家の家計は、堀さんが本の装丁や挿絵の仕事をしながら支えることになりました。特に子供のための絵本を描く仕事に、堀さんは力を注ぎます。食べていくための仕事の一方で、戦後新しく始まった公募展への出品に取り組みました。
 泥水をかきまわし、その混沌のなかから顔を出すようにして、いつも私の絵は生まれてきた。人は必ずその絵の意図や説明を聞きたがるが、私の作品には主張も意図もない。「こうなってしまった」と答えるしかない。

堀:私、もう死ななくていい日がきたというあの喜びはないですね。天皇の「忍び難きを忍び」という、あれでどれだけ喜んだかわかりません。もう毎日死ぬかも知れないという毎日でしたから。侵略なんですから、平和な人民を殺して歩いたんですよ。私の兄もそこへいって戦死しました。可哀想にどこで戦死してどんな思いで死んで逝ったのか、もう今思えてしょうがないです、辛くて。もう兄に申し訳なくて。だけど戦争が終わってみると、みんな「反対した」って言うんですよ。その時黙っていた癖に。
浅:この頃先生、どんなお気持ちで描いていらっしゃったか覚えていらっしゃいますか?
堀: 私は絵が売れるなんて思っていないし、私のそういう態度でそんな売る絵なんか描けると思っていないから、印刷物がここまで発達した時代に大衆と結び付くのは印刷物だと思って、いろんな雑誌やなんかに印刷物でカットやなんか描かして貰って、命を繋いでいました。でもよく描けましたね、花だの鳥だのなんてカットを描いて新聞に使って貰ったりしていた。大衆の中で生きるためには印刷物しかないじゃないですか、やっぱり絵を売るなんていうことは、画商さんが大体逃げますから、私を。誰かの有名な人の弟子でもない絵描きなんか相手にされない。そんなもの描いていたってしょうがないじゃない。だから金持ちのお慰めになるだけじゃない。そして金持ちだってね、私の絵がほんとに好きじゃなくってお蔵にしまっちゃうんでしょう、大衆と結び付かないじゃない、そんなの堕落するに決まっているから。私ね、印刷物として生きていこうと思って稼ぎまくったんです。
浅:堀さんは、子供向けの絵本だといっても、
堀:子供におもねるようなことはしません。ランドセル下げてね、四月の入学のあれなんて、ああいう子供を堕落させるようなことは加担しませんでした。子供は最高のものを見せなければいけないと思っているから、一心不乱に描きましたね。
浅:絵本っていうのは子供が初めて出会う絵ですね。
堀:その時にね、やっぱり最高の美を見せないとダメになるんです、その子は。最初に見たものによって堕落していきますからね。
浅:戦後子供のための絵を描きながら、朝鮮学校の教科書の挿絵を、先生お描きになっていたという。
堀:ええ。私、朝鮮の人を酷いことしたなんて申し訳なくて。朝鮮の人と大変親友になってね、そこの教科書を描くました。そうでしたそうでした。その朝鮮の方を大事にしていたのは確かです。だけどそれで私の絵を教科書で使うとかというお話のあったのを覚えていますけど、何を書いたか覚えていないです。

ナ:教科書は終戦後日本に残らざるを得なかった朝鮮半島出身の人たちが、子供のために自分たちの学校を作ろうとする運動の中で生まれたものでした。堀さんはその教科書の挿絵を引き受けていました。
 堀さんが1958年に描いた作品「連峰」。今年の夏この絵の下からこれまで知られていなかった作品が見つかりました。人々が海辺で集うこの絵。切り紙細工のような手法で、様々な人間の姿が描かれています。「わたくしたちの憲法」は、1947年に施行された新しい憲法を、子供たちにもわかるよう噛み砕いた言葉で表したものでした。堀さんはこの文の挿絵を担当。国民が主権者となって二度と戦争の悲劇を繰り返さないという憲法の精神を、同じ切り紙細工の手法で描いています。

堀:憲法が制定された平和憲法で、戦争しないという宣言をしたということには感動しましたね。それでそれをね、有斐閣かな、どこかから私に絵本を作ると言って、私に挿絵を担当しろと言ってきたの、私感動したんですね。だけど憲法は人間の問題ですから、人間をどう表現するかというのに、ああいう形をとったんじゃないかしら。人間のリアリズムの人間なんて描いたってダメじゃないですか。ですからましていわんや男が背広を着ている絵なんて描いたってなんの意味もないでしょ。だからやっぱり切り紙で作る。基本的な一筆書きみたいな人間の形を作ったのは覚えています。私は多分興奮状態だったと思いますね。ああ、素晴らしいことになったんだと。

ナ:1961年、堀さん、43歳の時、初めて海外へ3年間の旅をします。エジプトからギリシャ、イタリア、フランス、アメリカ、メキシコと、文明の跡を辿りながらその土地と人間とを見つめる日々を過ごしました。「昔の絵はもう描けない。私はいつも己と一騎打ちをしています。」
 「大磯の高麓山の麓で始めた山暮らしは、長年の都市生活者の自分を脱皮させ、自然の中に生かされている本来の人間に変貌させてくれた。」
 「山に住み、草木と呼吸を合わせながら日々を送っていると、万物流転の定めが、素直に我が身にしみるのである。」
 「収穫量など頓着なしに赤い罌粟を好きなだけ咲かせている村人の心の豊かさ。風景は思想だという思いが体の底から突き上げてきたあの日の衝撃。」
 「標高5,000メートルのガレ場を好むこの花の毅然とした生き方。寄り掛からず、媚びず、たった一人で己を律する姿勢に、私は共感した。」
 戦後70年夏、堀さんは、大磯の自宅で大きな選択を迫られた日本を見つめていました。

堀:物事が崩れ始めると、ガラガラガラガラと崩れちゃいますよ。ですから崩れない前に騒がないとダメですね、今騒がないとね。日本、また何するかわからないです。というような気がしてしかたがないです。
浅:それは堀さんご自身のご体験の中から、かつてご覧になって?
堀:そうですね。やっぱりね、あんなバカな無謀の戦争を日本人がするはずがなかったのに、やっぱり日露戦争でちょっと勝ったのが、あれではしゃいだんじゃないでしょうか。あれから日本が間違い始めたような気がするんです。まあそれは私は学者じゃないからわかりませんけど、私の感覚ではね。そうすると今戦争の地獄を忘れちゃって、なんとなしに今の政府がもう一度勢いのある日本を取り戻したいと思っているような気がしてね。いちいちいちいち「自衛隊を派遣したい」とか言い始めているじゃありませんか、憲法を変えようとかね。非常に危険だと思っております。あの憲法を守り通して戦争を放棄した国として生きるべきだと思いますね。どんなに軽蔑されてもいいから人の命で戦っちゃいけませんね。
 
ナ:堀さんが、この夏描いた作品が完成しました。

 

99歳、ひとりを生きる。ケタ外れの好奇心で (単行本)

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堀文子画文集 命といふもの (サライ・ブックス)

堀文子の言葉 ひとりで生きる (「生きる言葉」シリーズ)