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NHK「こころの時代〜宗教・人生〜」の文字起こしです

2022/7/31 こころの時代~宗教・人生~ 「私のガリラヤを生きる」

長澤正隆:カトリックさいたま教区 終身助祭

取材協力:北関東医療相談
     カトリックさいたま教区 常総教会
     反貧困ネットワークぐんま

 

長澤(以下「長」という):聖書の中のイエスガリラヤを巡る旅、あれによく似ている。イエスも生活困窮した人達の間をずっと回って病気を癒していた。私にとってみればガリラヤっていうのは、貧しく苦しんでいる人のところがガリラヤだ。

 

ナレーター(以下「ナ」という):茨城県常総市にあるカトリック教会、ミサに集うのは日本に暮らす外国人たちです。ここに毎週やってくる日本人がいます。長澤正隆さん、外国からやってきた人たちのために設立された教会で司祭を補佐する助祭を務めています。
『長(ミサの説教):教会は2,000年前から多文化共生、多様性の時代を常に過ぎてきています。ですから、教会には貧しい人もお金のある人も共にここに来てイエスを賛美します。見てください、この多様性、アメリカの人がいて、フィリピンの人がいて、日本人の人がいて、スリランカの人がいて、これこそが教会の持っている良さです。』
 集まる人の国籍はフィリピンやベトナム、南米など様々、その多くは茨城、栃木、群馬などで製造業や農業に携わっています。
 もともとサラリーマンだった長澤さんは、聖職者になる以前から生活に困窮する外国人の支援を40年に渡って続けてきました。
『長(ミサの説教):栃木市に住んでいるフィリピン人の女性、3階から落ちて肺に怪我をしていると伺っています。どうか1日も早く治り、私達と出会い、早く治るように導いてください。』
 長澤さんは、聖書に登場するガリラヤという名の地で虐げられた人達のために生きたイエスの姿を道標にしています。

 

長:私は北関東といわれているところに住み始めてもう40年近くなるんですけれども、ガリラヤって巡礼に行くような地域ですけれどもガリラヤっていうのはむしろここじゃないかって思い始めたわけです。
 私がよく使うガリラヤというのはイスラエルの一地方を指していて、首都エルサレムから離れた昔は辺境の地で、いろんな国の人達がそこに入り込んでいる移住者の世界ですね。そこに生活困窮したような人達がたくさん住んでいた。貧困と病気と悩ましい色んな問題を抱えた人達が聖書には多かったと言われている。そういった人達の中にイエスは回ってあげて病気を癒してあげたり、食料を分けてあげたり、そういうことをやるわけですね。外国人の困った人達がたくさんいるこの北関東全域がガリラヤに見えてきますよね。私達はその地域の中で困ってる人達を支えている、それを私達は行って、一年中、あっち行ってこっち行って、健康診断やって、病気の人を癒す、もしくは治す、そういう作業をしている。これが1つのイエスのやっていたやり方に近いのかなと思います。

 

ナ:戦後の日本が、高度経済成長を遂げると共に工業地帯が広がった北関東、大企業の下請工場などが集まり多くの外国人が労働者としてやってきました。この地域を中心に長澤さんが四半世紀に渡り続けてきた外国人のための医療相談会があります。長澤さんはNPO北関東医療相談会の事務局長を務めています。ボランティアの通訳や医師、看護師、弁護士達の力を借り、毎年3,4回程のペースで開催しています。
 この日、群馬県太田市の会場には関東一円からおよそ70人の外国人が訪れました。多くは在留資格のない非正規滞在者と呼ばれる人達、国民健康保険に入れないため病気や怪我の時でも病院を受診することが困難です。働くことや病院にかかることができない人達のために長澤さん達が奔走して集めた寄付や助成金から生活費と交通費の支給が行われました。
 相談会には直ちに治療が必要な症状を訴える人もやってきます。長澤さん達は治療費を肩代わりしたり、無料で診察してくれる病院を探して同行したりする活動を続けています。

 

長:どこに行っても生活困窮している外国の人達に出会うし、健康保険もない、何もない外国人の人達だということです。見捨てられたような人達に出会う。しかも皆判で押したように全くひどい生活、これじゃどんなことがあっても行かなきゃならない。
 病気の他に経済的にもままならない、お金もないのに、おまけに住むところもままならない、いわゆる人生の中の三重苦みたいな状態になる人の痛み、何か1つだけでも、きちっと取ってあげることができればいいなと思った時に、一番重要なのは健康じゃないかと。改めて思ってこだわるのは、病気で命を無くすのは気の毒だと、保険が無ければ自分達が担保して命を長らえさせる、というのが1つの使命という風に思っています。

 

ナ:長澤さんは日頃埼玉を拠点に支援活動を続けています。関東全域にアクセスしやすいこの場所に事務所を構えました。団体の名称は「友達」を意味する「AMIGOS(アミーゴス)」、同じ地で共に生きる仲間という思いを込めました。
 長澤さん達は医療だけでなく食料の支援も行っています。食費や交通費もままらない困窮者およそ100世帯に月に1回食料や生活必需品を発送しています。発送の指揮を執るのは妻の和子さん、看護師として働きながら、長澤さんの活動を支えてきました。
 『和子さん:私なんて定年退職をした後はもう少し何か気が楽かなんて思いもあったんですけど、何かきちんと働いていた常勤で生活をしていた時とは遥かにブラック企業みたいな(笑)。でもやっぱり生活困窮されている人というのは、休みなく貧しいわけですからね、余裕ができたから少しのんびりしようとか、そんなことにはならない、なれないという思いがありますね。』

 長澤さん達が休みなく働かざるを得ない背景には、外国人が置かれている日本社会の厳しさがあります。この日、相談に訪れたのはイラン出身のサファリさん。重いうつ病を患ったため弁護士を通じて長澤さんの下へやってきました。サファリさんは53歳、30年前イランを離れ日本にやって来ました。母国での自由を奪われる辛い体験がその理由だったと語ります。サファリさんは1991年に観光ビザで来日。当時の日本は労働力が不足し多くの外国人が押し寄せていました。サファリさんもまた、建設現場で働きました。空前のバブル景気に沸いた1980年代後半、日本では労働力を確保しようと就業資格のない外国人を雇う現場もありました。ビザが切れた後もサファリさんは働き続けました。
 しかし、1990年代に入りバブル経済が崩壊。非正規滞在者の雇用を厳罰化する入管法の改定を受け、不法就労に対する取り締まりが厳しくなります。来日してから19年間、建設現場で働いていたサファリさんは2010年に逮捕されました。そして東京品川にある入管、出入国在留管理局の施設に収容、母国に帰れないとして帰国を拒むと茨城県牛久市の週洋書に移されるなど収容期間は延べ4年半に渡りました。収容中に重いうつ病を患ったサファリさんは、仮放免という制度によって一時的に拘束を解かれました。しかし、仮放免で外に出られたとしても就労は禁止されているため収入は得られません。更に、健康保険に入れないため医療費は10割負担になります。母国に帰れば、命の危険があるとして難民申請をしています。しかし、日本の難民認定率は1%未満、申請が10年を過ぎてもなお、認められていません。いつ入管に再収容されるかわからない仮放免の状態が続き、先が見えない不安を抱えています。
 日本人以外の永住資格のある外国人に準用される生活保護は、サファリさんのような外国人は対象外とされています。このような制度のあり方によって苦しむ外国人の相談が後を絶ちません。

 

長:働いてはいけない。働くな、国民健康保険もあげないよ、果たして生きていけんのかなと、こっちが逆に疑問になるような人もたくさんいます。こういった人達が結局相談に来るわけです。今ある生活を守れなくしていってどんどん「小さく」されていく。貧しい人達が作られていく、どんどん構造的に小さくされていく。国の政策で小さいところに押し込められて病気になっている人を作っている。そういうのはやっぱり私はおかしいと思う。一人一人を共に生きるものとして助ける、私が癒してあげようではなくて、共に生きるものとして生きていこうと励ますということになると思います、それが北関東医療相談会の今までやってきたことです。

 

ナ:長澤さんが外国人を支援するようになったのは28歳の時でした、社会の隅に追いやられる小さき人々と関わり続ける人生、その原点となったのは少年時代でした。
 長澤さんは1954年、炭鉱産業で賑わった北海道美唄に生まれました。

 

長:美唄の炭鉱の待ちは北海道でも有数の古い炭鉱で父親は炭鉱に勤めているわけではなくて市場に勤めていた。母と子供達4人が生活していました。

 

ナ:炭鉱の町でささやかに暮らす家族を支えたのはキリスト教の信仰でした。父親のルーツは山形県。明治時代に北海道に移り住みました。しかし、事業に失敗、貧しさに喘いでいたとき、農場の仕事を紹介し救ってくれたのがカトリックの修道士でした。一家はキリスト教を信仰するようになります。長澤さんは敬虔なクリスチャンだった両親の下で育ちました。

 

長:私はそんなに出来がよくなくて勉強もそんなにできるわけじゃない。教会に行って1人で何かやっている方が好きだったみたいですね。1人で歩いて教会まで片道10kmくらいの道を行ったり来たりしていた、そういう少年です、ちょっと変わっているかなと思います。

 炭住街の中には炭鉱労働者の住む長屋と職員さんと言われている労働者じゃない事務職の方達が生活する場所とはっきり区分けされている、そういうところなんです。炭住街の子供と職員さんが住むところの親は一緒の学校行くのを嫌だと言ったり、そういう階層の元々のしっかりとした構造的な差別があったと思います。ただ子供にとっては分け隔てなく遊ばせてもらった記憶があります。ただ、ある日、5月の連休の日に遊びに行ったら「今日はお前とは一緒に遊べないんだよ」と言われて、子供ながらに「なんで」という話で、「いや、今日はメーデーだからね労働者のお祭りなんだよ、だから町の子とは遊んじゃいけない」と同級生に言われて、石を投げられて子供ながらに千を引かれて傷ついていくわけです。それってなんなんだろうとすごいショックだった。これが私のこういう問題の意識づけの最初なのかなと思ったりもしました。

 

ナ:長澤さんが少年時代を過ごした美唄の町に変化が訪れたのは1960年代のことでした。国は石炭から石油にエネルギー政策を転換、炭鉱が次々と閉山されていきます。炭鉱での仕事を無くし、生活の糧を失った人々は困窮していきました。

 

長:自分の父親は最後、新聞屋(販売店)をやっていたので、私が大学2年か3年の頃かな、集金に行くわけですよ。段々斜陽産業になっていって、新聞代すら払うことができない家とかありますね、もう半年以上払っていないとか。おばあさんと中学2年か3年の子がいる家でテレビ1台しかなくて他に何もない、外国人労働者の今の家によく似ている。行って「すいません、お金ください」と言っても「今、お金ない」、「わかりました、また来ます」と帰って、「こうだった、ああだった」と話をすると、「いいんだよ、そういう家は追い詰めちゃだめ、新聞で困らせることがないようにしないといけない」と、でもそうこうしている内に中学生の子が、おばあさんの首を絞めて捕まっちゃった、貧しさのあまりなのかなんなのかわからないけれど自分のおばあさんの首を絞めて捕まって少年院に行かされて、だから父も「追い詰めちゃだめ」って言ったのは、そういう関係、環境にある人を、その程度のことで請求して問題を起こさせてはいけないという配慮だったのかと思います。決して困っている人達に対して冷たくはなかった。だから私達もそういう感覚は育ったのだという風に思います。

 

ナ:子供達の学費のために働き詰めだった父親のもと、地元北海道の酪農学園大学へ進んだ長澤さん。卒業後は埼玉県にある食肉加工会社に就職しました。

 

長:食肉加工は、日本の産業の中で低賃金で有名なところです。食肉加工はそうでもないんだけど食肉の方はかなり色んな階層の人達が働いているっていうのはよく分かります。それなりに地域では、非差別のような人がいたという風に思えます。

 

ナ:長澤さんは会社で労働組合を組織し、労働条件の改善やサラ金に追われている人の支援に取り組むようになりました。一方、幼い頃からクリスチャンとして育った長澤さんは近くの教会にも通い続けていました。25歳の時、同じ協会で知り合った看護師の和子さんと結婚。それを機に、教会のあった群馬県に移り住みます。
 長澤さんは教会で多くの外国人と出会うようになります。製造業が盛んだった群馬県に出稼ぎでやって来た人達でした。彼らと触れ合う中で、外国人が労働現場で強いられている過酷な現実を知ります。

 

長:イラン人の屋根から落っこちて足の骨が砕けちゃっているけど放置されてしまった人の話も、インド人火傷もそうだし、インド人の方は廃材解体業に勤めていて重油の入っていたドラム缶が爆発して全身に燃えた油を被って大火傷を負った。75%くらい皮膚が爛れてしまって、もう即死に近いだろうと言われていた。

 

ナ:長澤さんは教会で出会う外国人の労災や賃金未払などの相談に乗るようになりました。そんなある日、本格的に支援活動を目指すきっかけとなった出来事が起こりました。貧しさに喘ぐ祖国の家族に仕送りするため、フィリピンから出稼ぎに来ていた40代の男性の死でした。

 

長:フィリピン人の方が病院に入院したと癌のようだと。手術の日だと言われてそれから3日経ったのでもう顔くらい見られるかなと思って行ってみたら、「先ほど亡くなりました」と、もう開けたときはだめだったみたい、だからもう何もしないで縫い合わせて荼毘に付してこのまま帰すと、ショックというよりもどうしてここまでほっとくのかなということの方がショックでしたね。1人で死んでいく、誰にも看取られることもなく、誰も関らないで亡くなっていくというのはあの時は私にはショックでしたね。家族のために日本に来て仕送りしていたと聞いていたので、最期くらい家族と会ってから旅立ちたかっただろうなと、そもそも命はそんなに無造作にするもんじゃないだろうになと思っていて。だからその前に帰してあげることが、病院に連れて行ってあげるという作業ができなかったものか、ということが沸々と湧くんですよね。それが私にとっては本当に、そこのところが辛いですね。

 

ナ:フィリピン人男性の死から2年後、長澤さんは資金集めに奔走し仲間と共に外国人の命を守るための「医療相談会」を始めることを決意しました。当時、自らを問うようにして繰り返し読んだ聖書の1節があります。イエスが苦難の中にある人とどう関るべきかを説いた「善いサマリア人」のたとえ。旅の途中強盗に襲われ瀕死の重傷を負ったユダヤ人を同じユダヤ人の祭司や神殿に使える者達が見て見ぬふりをして通り過ぎる中、ユダヤ人に差別されていたサマリア人だけが介抱して救った、という話です。その最後はサマリア人を差別し嫌っていたユダヤ人である律法の専門家に向かってイエスが語った言葉で閉じられます、
”行ってあなたも同じようにしなさい”。

 

長:自分が嫌いな相手、その嫌いな相手が倒れていたら病院に行って治療してあげる。今考えてみると「そんなことできないんじゃない?」って思うんだけども、それをイエス様は「やりなさい」と。痛い所をつかれるな思うんだけども、それは私達のいつの間にか理念になっていって、単純に善きサマリア人である必要があると思ったのはこの事業をやっていて何人も出会うわけですね。重要なのは薬代をどうするか、治療費をどうするか、そのお金は誰が出すんだ、この課題にぶつかった時に私達の力だけではもう無理だと、私達はともすると疲れちゃうとやめちゃうんですね、あの同じですね。しかし、ずっと続けることの大切さっていうのは信仰にも似ていて、宗教者の中でもこう続けて祈り続ける、祈り続けるという言葉に代表されるように、こういう貧しい人達と対峙する時にはどうしても疲れちゃうし、時々諦めちゃう時もある。だけど諦めてもいいから関わり続ける。それが丁度重なっていくんですね信仰の問題と、自分が何をやろうとしているのか少しずつ気づかされていく、変化していくわけですね。

 

ナ:長澤さんは次から次へと際限なく続く外国人支援に取り組みながら、クリスチャンとしての信仰の深い意味を探ろうとしました。医療相談会を進めて9年、教区の司教から聖職者になる道を誘われます。49歳でサラリーマンを退職し3年後助祭になりました。しかし、その使命感から徐々に自身を追い込んでいきました。日中教会関係の仕事を終えると夜は外国人の支援、それが終わった深夜には聖書の勉強に取り組みました。睡眠が2,3時間という生活が続き、3年後うつ病を発症しました。

 

長:自殺願望が出るんですよ、1日1回夕方日の暮れた頃に、3時半頃から5時くらいまで1時間ちょっと、あれが一番つらいですね。その時は家の中に閉じこもって電気を消して時が過ぎるのを待つ。私は電車に飛び込みたくなっちゃう、だから電車の近くに行かなかった。それが1ヶ月半くらい、40日続いたんですかね。

ナ:暗闇に閉ざされた日々が続いたある夜、夢の中で長澤さんは自分に向かってこう語りかけるイエスと出会いました、”私についてくることがどういうことかおまえに教えてやろう”

 

長:「私についてくることがどういうことかおまえに教えてやろう」、それぐらい大変なことなんだということをもしかすると言っているのかなと、もしかするとそういう風に仰っているのかもしれない。私はうつになったとき、自分が病気になって大変だったわけですよね。で自分の病気のことで苦しむ。それは小さくされていく自分も感じているわけですよ、だから私は自分が痛い思いをして初めて人の痛みに近づいたということを教えられたような気がするんですね。

 

ナ:イエスの教えを実践していくことの厳しさと共に、長澤さんの心に湧き上がってきたのは、どんな困難があってもイエスが傍らにいるという実感でした。

 

長:やっぱり人間弱いからね、何でもすぐ躓いちゃうから。躓いても何してももう一回やっていくということがことが大切だっていう。なぜって聞いたら、私の隣には私達の神がいる。だから安心して一緒に歩きなさいって、ということだと

 

ナ:1人のフィリピン人男性の死から始まった医療相談会。群馬の相談会場には次第に他県からも相談者がやって来るようになりました。それに導かれるように会場を栃木、埼玉、東京、茨城、千葉へと広げ、「動く病院」として走り続けてきました。相談会を重ねること63回、それは公的な支援を受けられず、日本社会が目を閉ざしてきた人達から「命の尊さ」を学ぶ歩みでした。

 

長:フィリピンの男性の方が亡くなって、医療相談会スタートして2年くらい経った時に、こういう人がいたら次は亡くなる前に帰そう。すい臓がんの女性がいて、一生懸命やってフィリピンに帰したんです。この人も結局フィリピンに帰ってから2週間後で亡くなったのかな。家族のコメントがフィリピン領事館通じて来たんですよ。帰って2週間の間、娘とも会って、家族とも十分時間とって、感謝します」と言われて、私はとっても嬉しかった、本当に。ああ良かったなって、生きてる内にね家族に会って、20年娘に会ってなくてせいちょうした娘に会って、お互いに別れを告げて天に行ったんだと思うと、これが私の幸せだと思いましたね。ああ、こういうことをやることも命を守ることなんだって、今になって改めて実感としてこう思います。だから、命を粗末にするような今の制度についてはやっぱり声を出して守っていかなくちゃいけない。どんなに小さくされていって制度を削られてって、もう機械的に削られていく、日本の行政によって削られていくことによって命が削られていく、それに対して宗教をしているものとしてはね、人間の理屈だけじゃないんですよね。神から貰った命をそんなに削らなくたっていいじゃないか、何の権利があって削るんだ、って言いたいですよね。それが私のやっていることだと思う。

 

ナ:日本国憲法によれば、”すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利”を保証されています。一方、命を守るセーフティーネットとしての生活保護は在留外国人の場合、永住者などにしか準用されません。そこから零れ落ちる人は120万人を超えています。 母国に帰れない人の高齢化や経済状況の悪化によって外国人の健康は増々脅かされ深刻になっていると長澤さんは感じています。入管の前に在留資格を求めて延々と続く外国人の列、長澤さんは1人のベトナム人青年に付き添っていました。6年前、技能実習生として来日したクインさん、技能実習ビザからコロナ禍で国が特例として出した短期滞在90日のビザに切り替えた後に、命に関る腎臓の病気が発覚しました。健康保険が使えないため、クインさんは既に300万円近くを借金し、治療に関る費用を支払い続けてきました。
 長澤さんはこの日、健康保険が適用される在留資格を執ることができないか入管に掛け合いました。4時間に及んだ交渉、しかし、健康保険が適用される在留資格を得る見込みは立ちませんでした。長澤さんは助成金の申請や市民からの寄付を募り、治療費を可能な限り受け持つことにしました。

 

長:(医療相談会を始めて)まるまる25年過ぎたところですよね、変わってないですね、ますます深刻になる人達が集まってきている。本人は自助、自分では何もできない、自助はできません、公助になると在留資格がないから何も手助けできません。あるのは共助だけ、こういう状態を私達はそれこそ見逃してはならない。国が困ってる人を見て見ぬふりをしていた時に、やはり声をかけていかないといけない、訴えていかなくちゃいけない。声に出せない人の代わりに声を出す、訴える、こういう作業がやっぱり必要ではないかと思います。

 

ナ:人々の罪を背負い十字架にかけられたイエス。その死後、イエスが葬られたところを訪ねた人達は、そこに座っている白い衣をまとった天使に出会います。天使は言いました「あの方は復活なさってここにはおられない。あの方はあなた方より先にガリラヤへ行かれる。かねて言われた通りそこでお目にかかれる」

『長(ミサの説教):今日であったスリランカ人の家族、仮放免の4人家族の生活が破綻しないよう導いてください。』

 

長:復活されたイエスは一番最初にどこに行ったかというと、エルサレムのような都会ではない、王様になったわけでもない。貧しい人達のところに行って共に生きようとした、そこが大切なことではないか。
 私にとってみればガリラヤで貧しい人達のために支援ができるのは、大変な人達だけども関っていることですごい安心なんですね。
 私、時折イメージが出てきて、自分が土地を耕している毎日コツコツと、でも振り向いたらたくさん耕されているように見える。自分の心を作っていく、作り上げていくことができている。もちろん足りないところがいっぱいあるし、いくつになっても変わらないところもいっぱいあるし、だけどもそこことだけではなくて、貧しい人達と共にこう生きている、その人と共に生きていくことで私自身の心が耕されていくんではないかと。自分が関わってる人と共に生きていて喜んでいる、私が喜んでいる、彼も喜んでいる。まあ今風に言えば「Win-Win」って言うんですかね。まあ、私も喜んで、彼も喜んで、私も泣いて、彼も泣く。そういう関係が私が続いていける関係なのかな。
 今はできないけども、明日何かできることがあるかもしれない、という考え方でずっと関ってる。明日がだめだったら明後日にかけてみよう。ずっとこの連続でした、だからそれで私の神に頼む心も耕されて出来上がっていってるような気がするんですね。時折、説教、こんなこと言っていいのかな、よく分かんないけど、説教台で説教するでしょ、そうするとね、この辺にねイエスが出てきてね、ポンと出てきてね、2人で話すんですね。それは他の人には見えない、それがほんとに楽しみ。突然、「うん?」って、共にいるイエスと共に貧しい人のところに行って、イエスだって今日できなかったことを私の責任にはしないし、「俺が悪かった」とも言わない。だから明日また2人で頑張りましょうね、という結論かな。

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