eraoftheheart

NHK「こころの時代〜宗教・人生〜」の文字起こしです

2022/10/2 ”希望”の居場所を求めて-信愛塾の42年(再放送、初回放送:2020/7/26)

竹川真理子:信愛塾センター長 

ナレーター(以下「ナ」という):横浜市南区中村町。学校の授業を終えた子供達が次々と集まってくる場所があります。来るのはみな外国籍か外国にルーツがある子供達です。信愛塾、勉強を学ぶだけでなく、さまざまな生活上の悩みも相談できる場です。
 センター長を務める竹川真理子さんは、およそ40年にわたり、ここで子供達を迎え入れ、その一人一人と向き合ってきました。
 
竹川(以下「竹」という):学校が終わった後、もうそのまま、ランドセルのままパッと来ます。今、コロナ禍の中で学校も休校状態だったんですけれども、6月から少しずつ分散授業も始まりまして、そのまま学校が終わった後、宿題を持ってやってくるんですけれども、学校に行きたいんだけれども、行けない子供達もいますし、あと不登校の子供達もおりますし、本当にいろんな子供達がいて、もう自分が来たいとき、私がいる時に来て、勉強はあまりしませんけれども、好きなことをして、絵を描いたり、本を読んだりしています。
 
ナ:子供達が最初に苦しむのは言葉の壁。日本に来たばかりで、日本語が不自由な子供達もいます。子供がわからず、不安な毎日を過ごす子供の力になろうと、信愛塾では日本語を教え、日本語で出される宿題の手伝いもしてきました。そのような学習活動を支えているのは多くのボランティアたちです。頼りになるのは小学校を退職したベテランの先生たち。毎週子供達の宿題を見たり、日本語を教えたりしています。
  
ナ:日本語の学習と共に竹川さんは、子供達がそれぞれの祖国の言葉、母語を知ることを大切にしてきました。
 幼くして母国を離れ、日本語はもちろん自分の国の言葉を学べなかった子供もいます。竹川さんは母語が子供達のアイデンティティを支える大きな力になると考えてきました。

竹:やはり言葉というのは、ツールとしての言葉はもちろん大切なんですけれども、精神面での中心軸に母語があるというのはすごくやはり安定する。これって、子供を見ていると分かるんです。自分自身のアイデンティティについてなかなか「自分は何者なのかな」というのがよく自分自身でもわからない。自分はなんでここに、日本にいるのかな。留学生でもないし、好きで来たわけでもないし、なぜここにいるのかなって、すごい考える。自分自身の存在そのものをみんな考える時期って必ずあるんです。
 小さい子は小さい子なりに悩むし、やはり大事なのはその母語、それが中国語であれ、タガログ語であれ、インドネシア語、英語でも何でもいいんですけども、中心軸にきちっとそれがある子供というのは、自分の気持ちを言語化できるので、これってとても大きなことだと私は思います。
 
ナ:信愛塾では学習支援の他にも続けてきた活動があります、子供食堂。なかには外国人労働者として働く親の収入が安定しないため十分な食事も取れず、学校給食が頼りという子供達もいます。コロナ禍で休校や半日授業が続き、学校給食がなくなると、竹川さんは子供食堂の回数を増やしてきました。この日は近くに住む友人の長島さんが腕を振った手作り弁当。料理や食材の提供をしたり、寄付をして信愛塾を支える人達もいます。
 
竹:ムスリムの子供も食べられるように、ヒンズーの子供も食べられるように、除去食になってて、それを彼女が考えてくださってるのでとても助かっています。
 
竹:本来ならば、夕方やっていた子供食堂なんですけれども、昼の時間帯で、ここで提供して、ちょっとみんなでおしゃべりしながら、指導員さんもお喋りしながら、子供もおしゃべりしながら、窓を開けてちょっとやってみようというふうにした。それが3ヶ月ぐらい前の話なんです。本来私はお食事って楽しくみんなで食卓を囲んでというイメージも、今でもありますけども、ちょっと何か切ないなと思ったのは、お食事、朝昼晩、お家にいると、朝昼晩3食食べる中で孤食の子もいたんです、一人で食べる子。
 
ナ:この日子供食堂には母親もやってきました。収入を得るため、昼も夜も働かなければならず、子供と一緒に食事できない親が少なくありません。
 フィリピンからやってきたヴィラヌエラ・ラヴェリアさん。久しぶりに仕事が早く終わり、子供と一緒に食べられる貴重な時間を持てました。
  
竹:コロナの時は、それこそ外国籍のお母様方のお仕事が、派遣切りといってなくなっていく方も、お仕事もう来月から来なくていいですよと、言われたり、あるいはフルタイムで働いていた方が半分になったりとか、時間削られて、そうするとやはりお給料も半分になったり。コロナ禍の中、「お仕事が1日2時間に減っちゃった」というお家も何人かあるものですから。
 特に信愛塾に来られる保護者の方というのは、いっぱい問題を抱えながら、悩みながら、本当に私がお渡しした名刺を握り締めて、くしゃくしゃになった名刺を握り締めて来られる方もいらっしゃるし、もう電話で「今、行ってもいいですか?」とかね、「話を聞いてください」とか言われる方もいらっしゃるので、本当にその場その場で即対応をできるようにするんですけれども。
 
ナ:子供の心と体を支える基盤は家庭。竹川さんたちはそれぞれの家が抱える事情にも目を配り続けています。この日は、子供食堂に来た男の子の母親、ラヴェリアさんを訪ねました。ラヴェリアさんは、最近夫と別れ、ビルなどの清掃の仕事で生計を立てています。余裕のない生活で、一時的にフィリピンの実家に預けていた長女も再び呼び戻そうとしていました。

竹:家庭訪問はもうとても大切なことだと私は位置づけているので、お家の中を見て、それからちょっと中に入って、「じゃ、たけちゃん先生と一緒にジュース飲もうよ」とか、お菓子とか、ジュースとか持っていくので。で、そのとき、冷蔵庫の中に、「じゃこのジュースとかミルク入れておくね」と言って、開けたとき、冷蔵庫の中に本当に何もなかったりとかね、それをやはりかなり何軒か今まで見た経験があるので。
 ある時フィリピンのお母様が本当に食べるものなくて、子供も給食はあるけれども、中学に入ったばかりで、中学って給食ありません。お弁当作っていかなければいけない。そのお弁当も作れなくて、子供がなんとか百円ショップでパン買ったりしてたんですけども、その時に初めてそのことを知って、「じゃ、お米の支援できますから、お米持って帰って」。子供が5キロだったかな大きな重いお米を持って帰ったんです。
 お母様はとっても喜ばれて、バケツにザーッとお米を入れて、5キロだか、ほんのこれぐらいあったんですけれども、電話でね、お母さんはフィリピンの方だったんですけども、「たけちゃん先生、バケツの中に手を真っ直ぐにしてグッと入れて、温かいんだよ」ってお母さんおっしゃったんです。で、だんだんそのズーッと、10センチぐらいあったのかな、温かいのが10センチぐらい、温かい温かい。でもそのお米が少しずつ減っていって、もう爪の所までしかなくなってきて、なんだか全然温かくなくてね、冷たくなってきた。それはやはりお米もないし、子供にお弁当も作れないし、それから心も冷たくなってきた。「本当にお米って温かいんだけど冷たいんだね」と言われて、で、もうその時私、あ、お米って温かいけど冷たいというのを、私もちょっと経験してみなければいけないと思って、お家に帰って米びつの中に手をグッと入れたら、たくさん温かいです、本当に温かい。でもそれがだんだん食べて食べて食べていく中で少しになってきたときに、もう何もないですから、それはやはりお腹も空くし、心も満たされていないし、そういう気持ちというのは経験した方でないとわからない。だから私は本当にこんな思いを子供にさせちゃいけないし、やはりせめてお米ぐらい、プラス缶詰があればもっといいんだけれども、それは常に準備を怠らないようにしようと心に決めた瞬間だったので、「お米というのは本当に温かいけど冷たい」というのが教えられた時だったので。
 
ナ:信愛塾は、1978年横浜の中華街の傍に生まれました。そこは当時中国人をはじめ朝鮮半島にルーツを持つ在日コリアンの人達がたくさん暮らしている場所でした。日本に生まれ育った子供を支援するため、在日コリアンの教会が母体となり、信愛塾は聖書の一節にある「信じること、愛すること」を塾の名前にし、活動を始めたのです。
 竹川さんは当時、公衆衛生に関わる国の研究所に勤務する公務員でした。クリスチャンの竹川さんは、教会関係者からの依頼を受け、信愛塾を初めて訪ねました。
 
竹:「ボランティアで数学と英語を教えてくれる人がいないから手伝って欲しい」というふうに言われたので、数学と英語を教えるのは別にいいから、「その程度の時間なら夜取れるのでいいよ、教えましょう」ということで。
 研究所の中で顕微鏡とか、覗いているいろんな細胞とか、そういう毎日、ほとんど毎日だったし、で、駅に細かい時刻表がいっぱいありますね。あれが顕微鏡の中の丸に見えてきて、あ、こんなふうな、こんなふうに仕事してちゃダメだなと思ったし、自分が本当にやりたい仕事を、仕事というかね、仕事ではないかもしれないけど、やりたいことをやりたい。もっとこの子達のことも知りたいな。で、自分自身のことも知って欲しいなという、それはすごくあった。もっとあなたのことをもっと知りたいから。でもそれは一方的なことなので、やっぱりそうしていくためには自分のことも知ってもらわないといけないので、彼とか彼女たちが語り始めると、それを聞いて、「私はこう思う」とか、「私はこうだった」とか伝えていく。でもそんなこと、子供、高校生とか大学生ではないですしね、私も。そんなこと言ったら馬鹿にされるんじゃないかなとか、すごくどうしようかな、それは迷いました。でもどちらかとるんだったらやっぱり信愛塾での実践をもうちょっと深めたいな。もうちょっと自分自身の中でわからないことを分かりたいし、知りたいし、やりたいなと思った。それはすごくあったので。

ナ:信愛塾に通い始めた竹川さんは、やがて塾がどのような人々の思いによって誕生したのか、深く知っていきます。心を動かされた竹川さんは、研究所を辞め、信愛塾に専念することを決意しました。
 
竹:当時、在日外国籍の人たちには、就学通知というのがきてなくて、つまり小学校に入る前に就学受健診があるんですけども、その通知、どこの小学校に行くんだよという通知が行政から来るんですけれども、それが外国籍の子供達には来ないという事実がありました。
 それでそれをご存じないコリアンのお母さんが絶対自分の息子には絶対来る。隣の坊やには同じ保育園に行っている坊やにきているのに、自分の子供に来ないわけはない。「絶対来る」というふうにおっしゃって待っていらっしゃったんですけども、来なくて、でおかしい、もう隣の坊やはランドセルも買ったのに、自分の子供にランドセルを買ったのはいいけれども、どこの小学校に入学させていいのかわからない。で、困られて悩まれて、で、たまたま彼女がクリスチャン、とても熱心なクリスチャンの方だったので、教会の牧師に相談なさったんですね。でその時、相談を受けた牧師さんが、外国人に対してそういうのが来ないのはおかしいし、教育委員会に聞いてみるということで、で、教育委員会に質問をしていくわけですね。その時にやはり小学校の先生とか、あるいは在日大韓横浜教会の信者さんの方々が、「なんか外国籍の子供に対するそれって差別じゃないですか」というふうにみなさん思われて、で、教育委員会の方に質問をみなさんで質問状を出していかれた。
 その時の子供を守るという保護者のみなさんの強い思いの中から出来上がったのが当時の信愛塾という。

ナ: 子を思う1人の在日コリアンの母の訴えから始まった信愛塾の活動は、さまざまな外国人への差別に疑問を感ずる人々にもその輪を広げ積み重ねられていきました。現在に至るまで竹川さんの活動を支え、食料などの寄付の整理や経理の仕事をしてきた大石文雄さんもその1人です。竹川さんと信愛塾で出会った頃は横浜市の職員でした。
 
大石:その当時の日本社会の中で、在日外国人というと、ほとんど在日コリアンで自分は市の職員を受けた時に、募集要項の中に「日本国籍を有する者」と書いてあった。日本人は受けれるけど、日本人じゃないと受けれない。それなんかおかしいというふうに思って、思い起こせば小学校の時にも、中学の時にも、クラスに在日の友だちっていたし、その子達がどんなことを考えているのか、というようなことを、今までほとんど想像すらしなかったんですね。そういうふうな中で初めて在日コリアンのこと、関わりを自分の中で考えるようになって、僕は初めて信愛塾に来たんですね。で、信愛塾で竹川さんがこういう実践活動やっているというのを知りました。
 支援というのはいつも上から目線で困った人を助けてあげるんだというふうな物事の、なんか善意でやってあげてるみたいな、でもそうじゃない。全然そうじゃない。差別をなくす、共に生きるということは、同じ視線でもって対等に生きていく。困った時はお互い様だし、助けてもらう時もあるし、助けてあげる時もあるし、僕らが出来ることをやってくということだと思うんですけど。
 
ナ:竹川さんや大石さんが活動を始めた頃、巷では外国人登録のため義務づけられていた指紋押捺を拒否する運動が高まりを見せていました。そんな中、信愛塾に通っていた14歳の在日コリアンの少女が1人指紋押捺拒否に立ち上がると、信愛塾ではみんなで支援する活動も続けました。毎日そのような場に身を置くうち、竹川さんは日本に生まれ育ちながら出自や国籍の違いだけで差別や偏見にさらされる子供達の心の奥底に触れていきます。
 
竹: 本当に自分自身の無知というか、知らなさを恥ずかしいなと思ったし、子供達はそういう中で生きてきたんだというのを知っていく中で、私に出来ること何かないのかなと思って、それは考えましたね。自分が在日であるがゆえに悩んでいる子供がたくさんいて、「通称名」と「本名」とを使い分けながら信愛塾にいるときは本名で言って、信愛塾から出ると本当に通称名に戻るといった、そういう子供達もいましたし、あまりよく知らない中で、関わっていく中で、これって何なの。自分の出自をあっけらかんと言えない。自分の出自、おじいちゃんおばあちゃんのことも言えない。これはおかしい。「あなたのこと、なんて呼べばいいの?」というふうに言った記憶があるんです。その時に名前を、本名を言ってくれるんですけれども、でも「それはこの中だけ、信愛塾の中だけ。でも外に出たら通称名で」と言われてちょっとショックだった。
 「どうしても自分が日本人っぽく見て欲しかったから、部活は剣道やったんだ」というふうに言っていた子供もいたし、それはちょっと衝撃だったので、日本人っぽく見られたい。自分が在日コリアンだということをいうと、友だちがいなくなるんじゃないかとか、ちょっと怖いという中で隠していく。名前も隠して、やっぱり出自も隠して、剣道も二段までいって頑張った子なんですけども。でも「剣道をやることによって日本人らしく見られるからいいだろう、先生」とかと言われて、ちょっとそれは私は何かそれを言われたときは辛い。「そうじゃないんじゃない」ということはいうんですけども、なかなか説得力を持たない言葉だったから、いかに説得力を持つ言葉を私が発することができるようになるか。それを私はもっともっと経験積んでいかなければいけないなと思ったし、それはやはりもっと多くの子供達のヒストリーも知って、保護者の方の気持ちも知って、もっと知らなければいけないと思ったので、やっぱりいつも原点に帰るというのは、そういう意味ですね。もっと知らなければいけない。本当はもっと隠れた言いたいことがもっとある。
 
ナ:子供達との出会いを、歳月とともに重ねていく中で、竹川さんは子供達から心の奥にしまい込んだ悲しみや苦しみの伝え方は一人一人違うことを教えられていきます。
 
竹:フィリピン人の坊や、時々この信愛塾のドアの前を往ったり来たりする子。兄弟がいたので、ちょっと声をかけてみようかなと思ったら、「学校へ行っていない」というふうに、彼は言ったもんですから、年齢的には小学校3年生と1年生だったので、もう早く学校に入れた方がいいなと思って、それでいろいろ理由を聞いたり、お母さんと会ってお話聞いたりしていく。
 そうすると、お母様が病院で産んで、そのままの状態で出生届を出していなかった。お父さんもお母さんもオーバーステイなので、多分摘発を恐れて届を出さなかったと思うんですけれども。そういう理由もあったんですけどね。お母さん、とても本当にいい方で優しい方なんですよ。子供に対する愛情もいっぱいおありだし、本当になかなか活発な方なんですけれども、でもやっぱり夜、本当はオーバーステイの人たちってお仕事出来ないんですけども、夜のお仕事していたので、昼間ずっと寝てるわけです。そうすると、子供の面倒を見られないので、どうしても小学校3年生のお兄ちゃんが下の子たちの面倒を見て、手を引いてここに来て。ぜひこの子2人たちを小学校に入れたいなと思って、それなりに動いてくださった校長先生とか、本当に感謝しているんですけれども。
 でもそこから先が本当に大変で学校に入ったのはいいんですけれども、小学校3年生に入れられて、いきなり「あいうえお」も、わからない子供だったのですごい苦労して、やはり小学校3年生のクラスにいきなり入れられていく中でついていけないから、本当に不登校になっていって、せっかくね「ランドセルをもらった」「ランドセルだ」と、それは2か月ぐらいしか続かなかった。言葉の問題が大きかったです、あの当時はね。
 小学校3年生って結構難しいんですよ。もう「九九」も終わっていますし、でも「あいうえお」ちょっと書けなかったりとかね、ちょっとバカにされたりとか、思っていることをうまく表現できない、伝えることができない。だから人から、友達から、友達というかいろんな人から、「なんだこの子は」とか、「日本語喋れないんだ」とか、「悪そう」とか、「バカ」とか、「クソバカシネ」とかって言われちゃうと、それはしっかり覚えている。私にも「クソバカシネ」「クソババ」とかよく言っていましたし、やっぱりでも彼の心の中は荒れて荒れて、本当に荒れ狂う中で万引きとか悪いこともしていくんですけれども。
 でもすごく印象に残っているのは、来てすぐ荒れているわけですね、心が。だから荒いわけです。顔も怖い顔してるし、だから「あなたの今心の中教えて、どんな感じ、心の中どんなのかしら」というふうに言った時に、コピー機があるんですけども蹴っ飛ばしました。リース終わってないし、コピー機はちょっと困るなと思って、「じゃ、バケツあなたにあげるから、このバケツ叩いていいから」と、言った途端、近所の公園に行って、そのバケツの中に泥とか木切れとか石とか、全部入れて、このフロアーにばらまいたんです。で結構ばらまいたので、その時やはり「あなたの気持ちね、この床と同じ、汚い。バラバラね。気持ち、本当にあなたの気持ち、泥でいっぱい。ドロドロ、バラバラ」と言ったら、もう本当にもう目の大きな子供だったんですけど、本当に泣いて、大粒の涙を流して。
 
ナ:学校が終わると、信愛塾に居場所を求めてやってきたデニス君。およそ2年が過ぎた頃、信愛塾を離れる日がやってきました。両親が入国管理局に不法滞在として摘発され、フィリピンに強制送還されることになったのです。日本に生まれ、祖国を知らぬデニス君も親に連れられ、日本を去ることになりました。 
竹:やっぱり強制送還されていった子供との別れというのは、1番本当にダメなんです。自分自身の力がなくて、本当に在留資格が取れなかった、というのもあるし、お母さんお父さんも絶対子供は連れて帰ると言われると、もうそれは仕方がない。
 彼は残念なことに強制送還されていくんですけれども、本当に最後別れるときに、入国管理局のドアのところで最後お別れしたんですけれども、絵を描いてくれまして、当時彼のヒアリングをした入国管理局の職員さんの絵を描くんですね。帽子かぶって、こう入管の制服を着た方の名前までも覚えているんですけども、その人の似顔絵を描いて「これ、渡しておいて」というんですね、彼が。入管でご馳走になったんです。ご馳走って大したご馳走じゃない。コロッケとお味噌汁とご飯と野菜がちょっと。「美味しかった」というんです。普段あまりねそういったものは食べてなかった。レトルトとかラーメンとかを食べていた子だったので。だから入管の職員さんと彼とのほんのちょっとした1日ぐらいだったと思うんですけども、交流が彼にとってすごく印象的だったから、紙にね、A4のコピー用紙だったんですけどね、描いていて、本当にそこのドアのところでバイバイ。その時に「必ず私、会いに行くから待っててね。その時はねタガログ語でお話ししようね」って、指切りげんまんして彼は帰っていったんですけれども。
 
ナ:フィリピンのルソン島にあるアンヘレス。デニス君が新たな生活を始めた場所です。半年ほど過ぎた後、竹川さんは約束通りデニス君に会いに行きました。

竹:日本では日本語で苦労して、フィリピンに帰れば帰ったでタガログ語で苦労して、話すことはある程度できます。お父さんお母さんから耳から入ってくる言葉がありますからね。でもやはり書いたり読んだりすることができない。もう小学校4年生になってましたから、すごく日本から帰ってきたということで、当時学校の中でいじめられて、自分の母国に帰ってからも結構苦労しているなというのが。
 「寂しくなったらね月とか星見てね。月とか北斗七星とか、お月様って1個しかないからあなたが寂しかったら月見てよ。フィリピンにいても中国にいても日本にいても、世界に1つしかない月見れば絶対思い出すから、大丈夫大丈夫」とかと言って、そうやって強制送還されていく時にお別れしたりしたんですけれども。
 
ナ:フィリピンに再び来ることを約束した竹川さん。以来足かけ10年にわたって何度も足を運んできました。青年となったデニス君は貧しい生活の中で安く手に入れた食材を自分で調理し、町で売る仕事をしています。「貧しい人ほど美味しい料理を作れる。喜んで買ってもらえるものを頑張って作るからね」そう語っていたデニス君。「僕はもう大丈夫。心配しなくていいよ」それが3年前に訪ねた時の別れ際の言葉でした。デニス君のように強制送還で信愛塾を去った多くの子供達。竹川さんは、彼らのその後にも目を配っています。
 
竹:不法滞在という中で強制送還された家族も何家族かいるんですけども、でも強制送還されたからそれで「さようなら」ということではないと私は思っているので、私も訪ねて行って、学校行っているのかなとかね、ご飯ちゃんと食べているのかな、余計なことまで心配して連絡を取り合いながらやっているものですから、どんどん広がっていって、もう2回目、会えない子ももちろんいるんですけれども、でも本当に子供は子供なりに内在する力ってものすごく持っているので子供達、それを生かしながら、その国でみんな生きているのかなというふうに今思ってはいるんですけども。
 内在する力ってものすごいある。パワーを秘めている子供達って、そういう存在だと私は思っているので、その子供達の内在する力をやはり大人の私たちが発芽させ、花を開いてもらえるようにお水をあげて。

ナ:祖国へ帰らず、日本に留まって自分の人生を切り開こうとする子供達もいます。彼らが成長し信愛塾で学ぶことがなくなっても、竹川さんは連絡を取り続けています。
 
竹:明け方3時28分にラインが入って、それで何事かなと思ったら、「食料品もらいに行っていいですか」というラインだった。「いいよ」と。
 
ナ:この日やってきたのは、フィリピン人と韓国人を両親に持つ19歳の青年。高校を今年卒業して一人暮らしを始め、美容師を目指しています。信愛塾に通っていた6歳の頃から14年間、竹川さんは自らの夢を実現しようとする彼の相談にのり、生活を支援してきました。

ナ:信愛塾から巣立ち、今では竹川さんが頼りにする相談相手になった青年もいます。台湾生まれ、日本育ちの陳永延(チンヨンエン)さん。水道のメンテナンスをする仕事の合間を縫い、しばしば竹川さんに会いにきます。
 
竹:サッカー部の練習試合があったの。私、顧問じゃないんだけど、裏の顧問として、私の記念です。あの子たちが全員ほとんどここに来てた子たちなんです。
 
陳:ここでだから勉強していた人間が、ここにいるメンバーのほとんどなんです。全員が、ほとんど。ここで勉強していました。中学生の受験勉強のときにはここでしたね。最初はお菓子を食いに来てました。で、徐々に「勉強もしろ」と言われて勉強もするようになった。やっぱりわからないことがあれば聞く相手がいる。聞ける相手がいる。家だと両親に聞いたところで、僕はまず日本語で勉強教えてもらったじゃないですか、学校で。でも北京語では教えてもらってないじゃないですか。だからその温度差なんですよね。北京語でいくら説明されても理解に苦しむんですよ、子供は。教えてもらっているのは日本語で勉強を学んでいるから、北京語でいくら教えられても入ってこない、頭に。やっぱり家で教えてもらったらば、頭に入らなかった。全然わからなかった。やる気がないとかじゃなくて、本当にわからない。

竹:本当にあの子には私は泣かされました、本当に。もう最初は煙たがられて、「 クソバカシネ」って何回も何回も言われて。兄弟4人、本当に大変な近所でも評判の、学校でも評判の兄弟だったんですけどね。たまたま本当にいろんな場面で私も怒りますし、子供達もわぁーっと怒ってくるし、でもそういうことを何度か何度か経験していく中で、やはり信頼関係もできてきて、彼にとっての信愛塾もやはり居心地の良い、中学の時にねあの子が言った言葉の中で忘れられないのは、「中学の時ってね、パラダイスだったんだよ」「本当にあなたパラダイスの意味わかってるの?」といったことがあるんですけども、本当に楽しくて。でも悪さもいっぱいしてね、すごいいろんなことを悪さしていく中で、「またかまたか」とか言って。
 だから私はその彼の背負ってきたものってすごく大きいし、中学へ行って、高校へ行ってという、そういう人生をちょっと歩み辛い子だったので、付かず離れず彼の後にいて、今何してるかなとか、お仕事しているかなとか、仕事をしたときはまたスタートだし、スタートはいつでも切れる。そのスタートは今助走期間かもしれないから、その助走期間に力を蓄えて助走している。一歩ハードルを越えて行ってくれれば、また次のスタートが待っているし、言葉はキツイし、汚い言葉も使えますし、でもあの子は本当に心がね、本当に心が綺麗。心が綺麗というか、まったく純粋というか、もうまっすぐな部分がある子なので、「長生きしろ」ということを、私にいうので、「そんな歳とってないわ」とかいうんですけども。でもなんか心配してくれて、電話切るときは「ババ、長生きしろよ」とかね。それはちょっと別に。
 
陳:今と昔とでは、「180度本当に変わったな」とみんなに言われます。僕自身が「人のことちょっと考えられるようになったんだね」とか、あの人がやっていることを見て、僕自身が成長させられるというのが一番ですね。
 こんなクソな金にもならねえ仕事誰がやります、普通。誰もやらないですよね。みんな欲があってさ、金稼ぎたいし、僕だって欲だらけだし。なのにかかわらずね、要はオーバーステイだった子供達、そのご家族。子供がいるから、でも子供には価値があるからという考えでその保証人になったりとかさ、すごいことやってるというのはわかってるんですよ。
 だからそういうの見て、すごいな、って。だからそれを見て僕自身成長させられている。助けてもらっている、もらってないとかじゃなくて、学びを得ている、というのが事実の方が正しいと思う。
 
竹:子供がたくさん、もう何百人というか、もう千人以上かな、とは思うんですけれども、つながっている子供達が結構多いので、当時の子供達が本当にズーッと付かず離れずいてくれて。だから陳君たちもその子たちなので、すごく時々顔を出してくれるので嬉しいですね。
 陳君に関しては、もう死ぬまでのお付き合いになるなと思いもあるので、向こうもねお父さんもお母さんもそうおっしゃってくださるので凄く私はあの子の存在大きい。何かあったらあの子に相談できるんですよ。その相談に彼はきちっと返してくれる。私が「ちょっとこれ教えて」ちょっと助け舟出して、彼に「ちょっと助けて」と言ったら、そうしたら来てくれて、「こうだよ」とちっちゃな声でみんなに聞こえないように言ってくれて『あ、そういうことだったんだ』というふうに。だから本当にお互い様というか、そういう関係。でもやっぱり助けてもらってるし、お互い様。だから本当にできる部分はやるし、やっぱり一緒にやってきたものだと伝え合えるというか、ピンポンができるんですよ。あ、あん時そうだった、こん時そうだった。で、悩んだ、怒られた、泣いた。私に言われた、無視した、というそういう歴史があるじゃない。その歴史をも過去のものとして、本当に越えてきたという連帯感というふうに私は思うんですけれども。人間と人間とのその関わりというのは、簡単に言えるものではないので、でもやはりここまで私が来れたのは、子供達の出会いのおかげなのかなというふうに思ってるので、その出会いがなければ多分ここには座ってないし、その出会いの中で私自身が子供達から学んでいったし、大きく成長できた。
 
ナ:子供達と互いに支え合い、およそ40年。そんな日々の中で、竹川さんが常に原点としているのは「信愛塾」という名前です。在日コリアンが集う教会の活動から始まった「信愛塾」の名前は、『新約聖書』コリントの信徒への手紙からとられています。
 
『愛は忍耐強い。愛は情け深い。すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える。
 信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。』
 
竹:信じあい、そしてまた愛し合いながら希望を持ってみんなで生きていくという。私の中でこれはすごく自分自身の生き方の問題にも関わってくるというか、こういう生き方をしてみたいなとかね、こういうふうに生きてみたい。私も人を憎む時だってあるし、いろんな意味で、嫌な人、嫌いな人あるし、でもやっぱりどこかでそうは言ってもね、やっぱりなぜそんなことをしたのという、必ず意味があるわけだから、その意味を知りたい、というのは出てくるから、もしかすると、それが信じるということなのかもしれない。
 ここの名前を決める時に、信愛塾じゃなくてね、相談センターという、サポートセンターにしようかという話もあったんですけども、サポートではない。「信愛塾」はお互い信じ合う、そして愛し合う中で出来上がっていったもの。ただ聖書の中にコリントの聖句があるんですけども、その中では「希望」という言葉もあるんですね。子供が「信じ合う、愛し合うというのは、信愛塾なんだけど、じゃ希望という言葉がないから信愛希望塾なの」とかといったんですけども、でもそうじゃなくって、「やっぱり信愛塾に来てる子供達、あなた方が希望の本当に塊というかね、本当に希望の人たち、子供達だからやっぱり信愛塾の中のあなた方が希望なのよ」ということを本当に私にとっては神様みたいに、子供の神様みたいな子たちがいっぱいいるので、神様がこんなにたくさんいていいのかなとかね、私たちの希望はやっぱり子供達だと思います。人と人をつなぐ架け橋になるし、だからこそ子供にはそういう架け橋にもなってほしいし、それを受け止めてくれる子供達に、今まで私たちが長い間、たかだか42年の年月なんですけれども、創り出してきたものを託そうする。その中に希望のあなたたちがいるの。こんな素晴らしいことないじゃない、と思っているんですけれども。
 
ナ:信愛塾には、今、竹川さんが未来を託す若い世代もスタッフとして加わっています。今年24歳になる王遠偉さん。埼玉県のメーカーに勤める王さんは、毎週土曜日休みになると信愛塾にやってきます。
 この日は信愛塾に生活相談したいと電話をかけてきた中国人の親と面談の日を決めました。
 
竹:日本語全くしゃべれないお家なので、そういうときに王君が全部やってくれるので、すごく中国語にはやっぱり私はうちかてません。
 
ナ:王さんは信愛塾のOBです。13歳で来日し、日本語がわからず不安だった王さんは、ここを居場所として育ちました。
 
王:ここが自分と同じような境遇の人たちがいて、最初は本当に不安だったのが、一気にそれが消えたような感じで、まぁ楽しかった。恩返しみたいなもんで、毎週来ているんですよね。やっぱり中学・高校・大学もそうですけど、助けてもらったんで自分も少し力になりたいな。
 
竹:中学からこっちから育ってきているので、ここで子供が何を必要としているのか。何をやりたいのかというのを、すぐ彼の中ではわかるので、そういうお兄さん、お姉さんたちが側にいて「頑張って」というだけでも、子供はやっぱり嬉しくなっちゃうし、ちょっと頑張ってみようという気持ちにもなって来るので心強い存在です。
 
王:  心強い存在、そうなればいいけどね。
 
ナ:自分の居場所を求めて信愛塾のスタッフになった日本人の青年もいます。福島周さん。きっかけは広告代理店で働いていた時、体験した東日本大震災でした。
 
福島(以下「福」という):震災が起きた時に、広告の仕事ばっかりずーっとやってて、ポスターだったりとか、ロゴマーク作ったりだとか、そういうことをしてても、被災者の何の力にもなれないなということを凄い実感して、すごい無力感みたいなのを覚えて、具体的に知ったのが信愛塾だった。単に勉強を教えて相談聞いて、「じゃどこの行政へ行ってくださいね」とか、それで終わらない。

ナ:信愛塾のロゴマーク。福島さんは悩んだ末、子供と大人が対等に並び、互いに寄り添い合う姿を表現しました。
 
福:「信愛塾のロゴマーク、これになりました」と出したら、子供達が「おぉ~」みたいなことをなんとなく言ってくれたのかなという。自分の居場所なんだな。自分にとっての居場所になっているというのはすごい。

ナ:子供だけでなく、さまざまな思いを抱えた大人たちも訪れ、自分でいられる空間。みんなが「信愛塾」という場を共有しています。
 
竹:やはり信愛塾という場が子供にとっての居場所であると同時に、私にとっての居場所でもあったのかな。やっぱり居場所ってねすごく大事。とても本当に生きていく上で、とても大切な場なんだ。そういう場が天から降ってきたというかね、私に与えられたということは、やはりなんか本当にちょっと外国人であれ、日本人であれ、住みやすいというか、「私は私なのよ」ということをあっけらかんと表現できるような場所というか、社会というか、大きくいうと社会なんですけども、それを作っていきたいなと思って。私自身がそれは問われる。本当に試されるというか、いつもこう試されてはいるんですけども、この歳になってもまだやっぱり進化していきたいなって、もっと知りたいなというのはいつも感じています。

 

中型聖書 - 新共同訳NI53