eraoftheheart

NHK「こころの時代〜宗教・人生〜」の文字起こしです

2022/9/4 「今互いに抱き合うこと-コロナ禍に読む聖書」(再放送、初回放送:2020/7/12)

奥田知志:東八幡キリスト教会牧師、NPO法人抱樸理事長

ナレーター(以下「ナ」という):日本列島を襲った新型コロナウイルス。感染の危険は人々の生活や経済、そして心の内にも大きな影を落としています。
 北九州市にある東八幡キリスト教会。廊下に張り出した大きな軒が特徴のこの建物には、さまざまな困難を抱えた人が集い、共に生きる場所であるようにとの願いが込められています。毎週日曜日に行われる礼拝は、感染対策を徹底しながら続けられてきました。自宅にいても礼拝に参加できるインターネットでの配信も行ってきました。
 今、コロナ禍に不安を覚える人にとって、教会で語られる聖書の言葉がこれまで以上に重い意味をもって受け取られています。
 この教会の牧師奥田智史さんは、牧師を務める一方、困窮者の支援を続けてきました今、厳しい現実を生きる手がかりを求めて改めて聖書に向き合っています。
 
『奥田(以下「奥」という)(礼拝にて):マスクと手洗いを徹底していくということは、我々日常においては最低限のことかもしれません。でも少々ね、もう手洗いもノイローゼになってきてますよね。なんとなくどこまで洗えばいいんでしょうか、みたいなね。トイレへ行くでしょう。用を足すでしょう。蛇口ひねって手を洗うでしょう。それで手を洗った最後に、あ、これで綺麗になったと思って蛇口を閉めるでしょう。ふっと気が付くんですね。この蛇口綺麗やろうかと思いますよね。そうして、もう一回蛇口をひねって、水出して、石鹸で洗って、先に蛇口を洗って閉めますわな。トイレからそのまま出てきた日が懐かしい日々でございますよ、本当に。
 コロナも恐いけども、こういうなんというかな、心が病みだしている、私たちの中の。大丈夫か俺たち。コロナにうつらないということも大事だし、うつったとしてもそれを何とか乗り越える医療の力も大事だし、でも一方で、コロナウイルスにうつってなくても、私たちはもう半分病人になっているんじゃないか。どっかで何か恐れながら、どっかで他人を疑いながら、どっかでマスクしていない人を非常識だ。あいつが犯人かもしれないという。現代は手を洗うということである意味関係を断ち切るというメンタリティに今繋がろうとしてしまっている、分断の社会になろうとしている。実はですね聖書を見てるとイエスの時代もそういう分断があったわけです。』

ナ:奥田さんが引用したのは、聖書の福音書に記された奇跡の物語です。イエスが五つのパンと二匹の魚で五千人以上の人々を満たしたという奇跡。しかし、それを聞きつけた律法学者たちはイエスの行為を批難します。
 
奥:こう書いていますね。
 パリサイ人と、ある律法学者達とが、エルサレムからきて、イエスのもとに集まった。
そして弟子達のうちに不浄な手、すなわち洗わない手でパンを食べている者があるのを見た。もともと、パリサイ人をはじめユダヤ人はみな昔の人の言い伝えをかたく守って念入りに手を洗ってからでないと食事をしない。
 そこで、パリサイ人と律法学者達とは、イエスに尋ねた、「なぜ、あなたの弟子たちは、昔の人の言い伝えに従って歩まないで、不浄な手でパンを食べるのですか」。
それから、イエスは再び群衆を呼び寄せて言われた、「あなたがたはみんな、わたしの言うことを聞いて悟るがよい。すべて外から人の中にはいって人をけがしうるものはない。かえって、人の中から出てくるものが人をけがすのである」
 
 当時の手洗いは衛生上の問題ではなくて、汚れた者たちとレッテルを貼られた社会的排除された人たちとの縁切りというものを示していた。これに対して、イエスは、あるいはイエスの弟子たちは拒否したんだと思うんです。そんな手洗いやったら俺たちは絶対せん。そんな手洗いやったら俺達は絶対せん。そんな人を分断し、人を自分とは違う、あいつらはダメな人間だ。あいつらは汚れた人間だ。あいつらは罪人だ。そんなふうにやっていくための手洗いだったら、そんな手洗いだったら俺は絶対せんと。
 お前ら外から汚れが入ってくると思ってるやろう。コロナウイルスは外から入ってきて、お前達の体を蝕む。それはそうなんだ。でもね本当に恐いのは内側から出てくるものがお前達を汚すんだと、イエスは言い返すんですよね。そう読めば、私達がウィルスで病んでいるんじゃなくて、ウィルスじゃないもともと持っているもので、私達がいま病み始めてる。病気になろうとしているということは、このイエスの文脈でよくわかると思うんです。ちょっと気をつけたほうがいいんじゃないか。
 
ナ:コロナ禍の今、改めて聖書の言葉に向き合う中で、奥田さんは、人間とはどのような存在なのか。その根本を問い直してきました。
 
奥:私は今回の出来事に関しては、病気そのものの問題とか病気から来る不安ですよね。感染するんじゃないか、もしくは感染させてしまうんじゃないか。やっぱり同時に今までの暮らしぶりとか、生活の仕方が、この頃の言い方でいうと「新しい生活様式」とか「ニューノーマル」という言葉が出てきていますけども、新しいものに行かざるを得ないという状況になったけども、私は今回はですねちょっと立ち止まって、じゃ今まで何だったのか、ということをやっぱり考える機会にもなったと思うんですね。
 例えば、最初の頃にトイレットペーパーがなくなって皆大騒ぎになったわけですよ。なんか我先にというと、なんか懐かしいですよね。七十年代頭ぐらいにオイルショックでみんながトイレットペーパー買い占めていったのと同じ風景が、なんともう50年後ぐらいにまたなったわけでしょう。あれは一体なんだったのかと。結局自分しかいない世界ですよね。ともかく自分さえよければいいという。
 あれはね世の中からトイレットペーパーが消えたんじゃなくて、私たちの中に本来ある助ける人の関係、つまり「他者性」というものが失われた。他者という存在がないと本来生きていけないのに、自分のトイレットペーパーだけを確保するという。他者性の欠落というものがトイレットペーパー騒動。けど、これってね結局非人間化していくんですね、どんどんと。人間でなくなっていくわけですよ。人間とは何かというと、一人で生きていけないということだ。これはね『創世記』においても、人類の誕生は最後なんでしょう。
 
ナ:奥田さんが示したのは、旧約聖書の冒頭『創世記』に描かれている人間の姿です。
 
奥:最初に「光あれ」から始まって、光ができたり、大地ができたり、太陽と月ができたり、あるいは草が生え、実のなる木ができ、そして海には魚が登場し、獣が登場し、あらゆるものが整った最後に人間が生まれ、そして人間にすべてを従わせよう。「支配せよ」ということを神がいうんだけども、あれは何を意味したかというと、それだけ前にいろんなものが作られて、やっとこさ人間は生きていける相対的なもんなんだと。前に造られたものが全部揃ってないと、人間なんてポンと一人最初に「光あれ」と同時に、「はい、人間あれ」と言われたら、何食べるの、というとこから始まって、どこに住むのから始まって、何もできない。その人間が最後にしか生まれなかった、最後にしか登場できなかったのは、あらゆるものが人間を守っているという。
 なんかいかにも最後に支配者が登場して、神の全権委任がされて「従わせよ」とか「支配せよ」という。そういう言葉に見えるんだけども、僕は違うと思うんですね。今回のコロナの状況を見てると、人間って全然そんな存在じゃないということがはっきりしたわけですよ。
 つまり例えばですね、ステイホームといくら言っても、そんなの世界中の人が本気でステイホームしたら生きていけないですよ誰も。だってステイホームできる人は、ステイホームする、できる人はステイホームすることでうつさないしうつらないということが確保できるけども、その間も、例えばアウトホームで医療従事者たちはみんな働いてくれてたわけでしょう。あるいはいくらスーパーには週2日にしましょうとか、3日にしましょう。毎日買い物に行くのは止めましょう、と言ってもですね、スーパーやってる人は毎日働いてたわけでしょう。そして家でずっと過ごしたら、いつもよりたくさんゴミが出るわけですよね。その生活ゴミなんかを毎日収集に来てくれてる人たちがいたわけでしょう。これらすべての人はステイホームができなかった。アウトホームで働いてた人たちがいるが故に、ステイホームの人たちが守られていたという、そういう関係に過ぎない。
 人間というのは、そういう相対的な関係に過ぎない。これはまさにステイホームだけでもダメなんだという現実、つまり私がステイホームしたら、じゃ私の命が守られるかと言ったら、そうではなかったという現実を示しているわけですよ。お前一人で生きてる気持ちになるなよ、と。お前一人で生きていないんだよって。みんながいてお前がいるんだ。魚がいて、鳥がいて、獣がいて、木があって、果物があって、そういうものが全部揃って君の存在が守られているんだ、ということですよね。
 
ナ:6月上旬、自粛要請が長期化する中で、奥田さんが説いたのは、やり場のない気持ちを吐き出せる存在があることの大切さでした。
 
『奥(礼拝にて):多くの人たちが愚痴も言えず弱音も吐けず、みんなどっかで我慢してる。人には吐き出す時が私は必要なんだと思う。特に現在のような思い掛けず、しかも「なぜ私が」という問いに答えのないまま、苦難が突如として訪れた。こういうコロナ禍の時代においては多くの人がムカムカしながら、そわそわしながら、びくびくしてる。それをどうするのか。イエスはこういった、「あなた方が祈るときは、自分の部屋に入り、戸に鍵をかけて、戸を閉じて隠れたところにお出でになるあなたの父に祈りなさい。すると隠れたことを見ておられるあなたの父は報いて下さいであろう」。
 これは「偽善者のように、人前で格好良く祈るな、謙虚で祈れ」ということをいっているだけではないと思います。それはね、みんなの前では祈れないような本当の気持ち。すなわち心の中にあるムカムカをそのまま祈ったらいいんだ。怒りややるせなさ、恨みや愚痴、それを正直に祈ったらいいんだ。その日はね、大通りで祈らなくてもいい。この世界は弱さを受容しない、弱さを共有しない、弱さを否定する。「あの人愚痴ばっかり言っている」、そんなふうに言われちゃう。だから戸に鍵を閉めてね、こう祈りなさい。「神様、くそったれ!何してくれてんねぇ!なんで俺がこんな目に遭わないかんねぇ!神様、くそったれ!あんた神だろう、俺を救え!」』
 
奥:今日、コロナ禍状況において、本当にやり場のない、なぜこんなことになったんだろうかと。たった3、4ヶ月前までは、まさかこんなことになるとは思ってなかった店が次々に倒産して行っているわけですよ。その状況の中でやはりみんなむかついているんじゃないか。やっぱりその吐き出し口ですよね、その吐き出し口に教会がなってるか。教会に来るにはちょっと襟を正して「神様感謝します」と言わないと入れないという教会もあっていいですよ。うちは違うんですね、吐きに来たみたいなね。なんかあっちこっちに何か路地裏みたいにゲーゲー吐いた跡が残ってるような教会になりたいと思うし、牧師自身もどっか吐いている。それはお酒飲んで吐いているだけじゃなくって、本当くそったれ!と思うわけですよね。
 教会というところは何か牧師さんが答えを与えないかんというふうにみんな思ってるかもしれないし、そういう牧師に対する期待があるだろうし、多くの牧師がそれにちゃんと答えていらっしゃると思うんだけど、僕、無理なんで。一緒に悩むことしか出来ないし、「大変やったね」しか言わないし、「どうするかは一緒に考えましょう」しか言わないし、「ここに来たらもう安心です」にはならないし、もっというとここに来ていろんな人に出会うと新たな問いが生まれたりするし。だけども、やっぱり一緒に悩んでいくとか、一緒に吐いたものをちゃんと引き受けていくとか、そういうことの方が答えを与えるということよりかはよっぽど僕は大事なんじゃないかな。宗教ってそれでいいんじゃないかなという気がしますよね。だからキリスト教の今までの、例えば「救いの概念・救済の観念」と言ったら、大体2つだったんですよね。
 1つは、何かというと、「直接的な救済」ですね。例えば食べれない人にイエスが奇跡を起こして、パンを配ったとかね。そういう病気を治したとか、問題解決―ストレートな問題解決ですね―のイメージが1つ。
 もう1つは、「贖罪論」と言って、人間の犯した罪を神が贖ったという。イエスの十字架が贖いの死だったんだと。私の代わりにイエス罰を受けた。それが十字架だったんだ。これは贖罪論ですね、罪を贖うキリスト。この2つが来たんですよ。
 これどっちも僕から見たら問題解決型なんですよ。罪という問題を解決するか。例えば食べれないとか、貧しいとか、病気だとかという問題を解決。どっちも問題解決型なんですね。
 でも長いことかかって、キリスト教はもう1つの救いのイメージを忘れたんですね、忘れてきちゃった。それは何の救いかというと、「インマヌエル」という言葉に象徴される救いなんですね。「インマヌエル」というのはどういう言葉かというと、「神様が一緒にいる」というだけの言葉なんですね。「神われらと共にいます」と訳されていますけども。神様が一緒にいるよ、という。これはね問題解決型の概念じゃなくって、「関係の概念」なんですね。病気が治ろうが治るまいが、あるいは罪が赦されるとか赦されないとかじゃなくって、とにもかくにも、「くそったれ!」と言って、あなたが神をも恨んでたとしても、「なんでお前は俺を助けへんのや」と、筋違いの文句を神に訴えている。その場面においても神様は共にいる。これがね、実は聖書の順番からいうと、1番最初に出てくる救いのイメージなんですね。『マタイ』の一章に出てくる。神が共にいてくださる。救いのイメージなんですね。『マタイ』の一章に出てくる、「神が共にいてくださる」という。
 この救いのイメージを、私はキリスト教会も長く忘れてきたんじゃないかと。だから「インマヌエル」というイメージを、今日教会はこういう苦難の時代の中にあって、どこまでそれをこう体現できるか。そういうことを考えると、感染リスクは一方でありつつも、どうつながるかとか、どう出会うかということが、やっぱり教会にとって非常に大事。孤立させない、孤立がやっぱり罪なんです、そういう意味でいうたらね。

ボランティア(炊き出しで):今ね、今日はちょっと雨なんでテントを立てますのでちょっと時間かかっています、ごめんなさいね。濡れないところで待っていてください。
 
ナ:奥田さんたちが30年以上続けている炊き出しです。新型コロナウィルスによる影響は、人々の暮らしを直撃。仕事や住まいを失う人、孤立を余儀なくされる人も増えています。今、炊き出しでは感染対策のため予め用意したお弁当を手渡すことしかできません。それでもお弁当一つ一つに手書きのメッセージを添えて、一人ではないという気持ちを伝えています。
 奥田さんの脳裏に浮かぶのは、リーマンショックの後、困窮し助けを求められないまま自ら命を絶っていった人々の姿です。その悲劇を繰り返すわけにはいかないというのが、この活動を続けている原点です。
 
奥:今はコロナのことがあるんで、お弁当配るだけですね。いつもは一緒にここで食べて、その後星空カフェと言って、みんなでお茶飲んだりとか、まぁうちの炊き出しは基本的にはお弁当配る炊き出し者と一緒にいる炊き出しなんで、それが今できない状況になっているので苦しいですよね。
 
ナ:人は一人では生きられない。これまで以上に分断や孤立が深まろうとする今だからこそ支え合う場が必要だと、奥田さんは考えています。
 30年前、野宿をする一人一人と向き合うことから始まった奥田さんたちの活動。これまで3,000人以上が路上生活を抜け出しました。その活動は地域で暮らす子供やお年寄りの支援、更には亡くなった後の葬儀にまで広がっています。その中心にあるのは「抱樸(ほうぼく)」という理念です。
 
奥:「抱樸」というのはですね、「樸(ぼく)を抱く」という。その「樸」というのは、木偏の「樸」なんですね。これは原木とか、新木という山から切り出された原木を、もう条件付けないで、そのまま抱き留めようという。
 人間って弱っていくと、とても苦しいとこに行くと、「助けて」ってなかなか言えないんですよね。「なんであんた、もっと早く相談に来なかったの」って、言いたいこといっぱいあるけども、相談に来ない人がいちばん困ってるんですね。そうなると、夜のああいうパトロールとか、炊き出しのように我々が出かけていって、そこで出会って、もう四の五の条件つけない、そのまま抱き留める。
 さらに「抱樸」というのは、原木とか、新木ですから、それをそのままこう、例えば肌で受け止めるというのは、やっぱりささくれ立っていたり、いろんなトゲがあったりとか、多少傷つけますよ、と。でも抱きしめた時に傷つくし、相手方もですねやっぱりその時にさまざまな違和感持ったりするんだけども、でも人と人との出会いというのは、やっぱりそういう傷を含むんだという。その中でも特に印象深かったのは何人かいて、松井さんというね、もう亡くなりましたけども、松井建史さんという。これはプロフェッショナルにも出てきた人ですけどね。
 
ナ:奥田さんが20年近く前に出会い、亡くなるまで関わり続けた松井建史さんです。
 
奥:彼はもう6、7年、ここらで野宿をしてて、あんまり人と群れるタイプじゃなくって、私たちがここらに現れると、どこからともなく出てくるという。そこでお弁当渡して、「まっちゃん、元気?」という話をするんですけどね。この人は本当に皆から愛された人ですし、弱さも持ってた人ですね。やっとのことで自立するんですけども、その自立の時に、「もうそろそろ路上卒業して、一人暮らし始めたらどうなんですか」という話をしたらね、「俺はまだ大丈夫だ。もういよいよになったらね、ヨボヨボになったら助けてくれ」とおっしゃるんで、「まっちゃん、それでは遅い」と。「ヨボヨボになって、いよいよになって助けてたら遅い。それはあなたにとって遅いんじゃなくって、周りの人にとって遅い」と。
 つまり「あなたが元気のうちに自立することで、あなたは誰かのお世話ができる。誰かを支える側に回れる。だから元気のうちに自立して他の人を支えないと手遅れになる」という話をしたら、「俺でも役に立つかな」って、後日ね、松井さんがやってきて「俺でも誰かの役に立つかな」という話をして、そして自立に向かうんですね。
 現に松井さんはその後ですね、今うちのスタッフになって、とっても頑張っている青年がいるんですけどね。その青年が、彼はやっぱり高校時代から悩み多き男で、家に来てからもいろんな悩みを抱えていたんですね。けどね、なんか「あいついないな」と思ったら、まっちゃん家で昼寝してるんですね。よくそんな場面に出くわしました。決して掃除が整っている部屋でも何でもないんだけども、彼が若い、まだあの頃二20歳ぐらいかな、彼がまっちゃんとこへ訪ねて行ってお世話するつもりでいくのかもしれないけども、結果的にはそのまっちゃんちで昼寝して帰ってくるんですね。
 あの2人の関係というのは、見ているとどっちが助けてるんだか、どっちが助けられてるんだか、もうわかんない。しかもまっちゃんみたいな人が、彼に生きづらさを抱えていた、当時生きづらさを抱えていた彼の居場所になってるというのを見た時に、あ、すごいなって。神様というのは、この世の価値観からいうと、松井さんというのは何年も野宿をして、特にお酒の問題を抱えてたから。大体会っているときはいつもへべれけ状態で。だけど、ちゃんとまっちゃんが役割を果たしていくんですよね。そういうのを見ていると、本当に素敵だなと。
 
ナ:長い歳月の中では、お酒の問題から、松井さんが周囲とトラブルを起こしたことがありました。器物損壊で逮捕・起訴された際には、奥田さんは裁判に証人として出廷、服役中も手紙を送るなど関わり続けました。
 

(手紙の内容):ずいぶんと寒い日が続きます。お体のほう大丈夫ですか。私はまっちゃんと一緒に生きていこうと思います、どうぞ覚悟をお決め下さい。奥田知志
 
奥:裁判はね、情状証人で私が出て、「私としては釈放された後は、お酒の治療をやっぱりやってほしいというふうに思っているんです」と言ったらね、裁判長も「わかりました」と。「お酒の治療を受けるという条件で、つまりお酒をやめるという条件で奥田さんが引き受けると。そういう記録を残していいですか」とおっしゃるので、僕はちょっと考えてね、「いや、裁判長違います」と。「私が言っているのは、そんなことではありません」と言ったら、「引き受けないんですか」というから、「いや、引き受けますよ」と言って。「我々が、抱樸が言いたいのは、まっちゃんを引き受けるよ。だから飲まないでね、と言っているだけで、飲まなかったら引き受けると言っているんじゃないんです。引き受けるから、だからまっちゃん飲まないでね、と言っているんです。これは全然違うんだ」という話をしたら、裁判長が聞いていて、「あっ、、、」って、こう一瞬「そうか」と。「今の言葉を記録して下さい」と言ってくれたんですよ。
 終わってからその日釈放にならないから、終わってから、チームの連中がね、「あのやり取りが抱樸とは何かということを一言で表していた。つまり飲まないという条件をクリアしたら、引き受けるんじゃなくって、引き受けるから飲まないでねと。これが抱樸だ、ということを、あの場面で言い表していた」ということを言ってくれて。
 本気で人を愛そうと思ったら、本気でその人のことに関わろうと思ったら、多少リスクは伴うし、傷つくんですよね。だからそれが嫌で今の社会は、「それは自己責任だ」とか、「あなたが頑張らなかったからだ」と言って、結果的には身捨てるんですよね。我々はそう言わない。それ自己責任もあるかもしれないし、たまたま歩んできた道がすごく過酷な人生の出会いを繰り返された方かもしれないし、まあそれはさておき、まずは出会うと。そのまま引き受けるというのが抱樸という。
 松井さんは、その後地域で10年ぐらい暮らされて、最期には抱樸館に入った。お酒はその後、私との約束で「1年間は断酒しなさい」と。見事に守ったんです、この人。僕意地悪だからね、出張に行くと行き先でお酒買ってはまっちゃんのとこに届けに行くんですよ。だからその1年間、まっちゃんのテレビの上には、酒瓶が並んでいて、行くたびに僕は蓋が開いていないかどうかをチェックするわけ。 開いていないな、飲んでいないなと。1年経った後に、「解禁」と言って飲み始めて、それからは彼は大きく酒で逮捕されるような事態にはならないで、最後まで行くんですね。

字幕:松井さんは2年前、突然の交通事故に遭い亡くなった。
 
奥:やっぱこの生身の関係というのは、出会った責任というのはやっぱりあるんですよね。抱樸はそういうことは大事にしてきたし、うちの活動を一言で言えば何かというと、「一人にしない」という支援。これは亡くなった後も徹底して、我々はやってきた。だから1年に1回、この会堂で今まで出会って亡くなった人の全体の追悼会というのをやるんですよ。名前が白い幕に墨の字で名前を書いて、垂れ幕のように垂らすんだけども、一面では収まらないぐらい両横に広がるぐらい名前が連なってますね。そこで縁の人がみんな来て、そうですね、 100人、150人ぐらい集まるかな、そこでみんなが写真を見ながら思い出話したりという。そこまで、、、だからもう…何か困窮者支援団体じゃないのね、抱樸というのは。なんか共同体というか、大きな家族。
 
ナ:教会の向かいにある自立支援住宅「抱樸館」。ここは路上生活を経験した人の自立を手助けしたり、高齢で一人暮らしが難しくなった人を支える施設です。心身を回復し、つながりを取り戻すための場所となっています。

『奥(松田さんとの食事の場面で):「第一声のさ、私は生きててよかった」って、あの一言でみんなもう…後ろの先生みんな泣いてた、あの一言で。生きていていいのかなと思っている人ばっかりなんよ。学校の先生の中にもそんなこと考えてる人いるんよ。それが別府さんがさ、野宿を乗り越えて「私は生きていて良かった」と一言いったら、それ本物の言葉。あれには、僕、正直勝てん。』
  
ナ:ホームレスなど、厳しい状況を経験した人には、その人にしか見えない世界がある。奥田さんはその言葉や経験を分かち合うことが社会を豊かにすると考えてきました。
 
奥:地域社会というのは、まぁ一定温かいんです。みんなで助け合おうとしているし、それは全くないことではないんですね。「あの人困ってるね。じゃみんなで助けようね」、そこまでは行くんですけども、それが一定の度合いを超えると「あの人困っている人ですね」から「あの人、困った人だよね」と言い出すと排除に変わるんですね。「困ってる人」と「困った人」は全然違うんですね。
 「あの人困った人だよね」と言ったら、「出ていってもらいましょう」になる。そういうふうなことでホームレスの排除とか、あるいはそれの支援施設を住民反対、住民反対運動で作らせないとか、全国でも救護施設が建たないとか、そういう排除が非常に進んでた時代だったんですね。ですから私はこの事件(2016年7月26日、相模原障害者施設殺傷事件のこと)起こったときに、なんかそういういろんなところで起こっているものの、ある意味究極の行き着く先の事件として、これが起こったんではないか、というふうに思っているんです。
 
ナ:4年前、障害者を「生きる意味のない命」だとして殺傷した事件。この事件には、私たちの社会が持つ価値観が隠れているのではないか。奥田さんは、犯行を行った青年と接見しました。

奥:彼が拘置所に入れられてるんで、手紙を出して、ある方の仲介でですね、会いたいということで言ったら、向こうもOKだということだったんで会いに行ったんです。
 実は会ってみたら、面会室に入って来る彼は、もう非常に礼儀正しくって、私が九州から来ているということも知ってましたから、「今日は遠いところから申し訳ございません」とおっしゃってましたね。そして接見が始まったんですが、彼はやっぱり同じようなことを言ってるんですね、その場でも。「障害者は意味のない命だ」という話とかね、「障害者は不幸を生み出すことしか出来ない」、「周りの人を不幸にしている」とかですね。あるいはこんなことも言ってましたね、「移動と排泄と食事が出来なくなったら、もはや人間ではないと。周りに迷惑をかけているに過ぎない存在だ。それは生きる意味がないんだと。だから役に立たない人間は死ね」と。まあ、そういうことなのか?というふうに改めて聞くとですね、「全くそうだ」というふうにおっしゃる。
 僕は最後に、「じゃ最後の質問なんだけども、君はあの事件の直前、意味のある命だったのか。あるいは役に立つ人間だったのか?」という、そのことを聞いたら、彼はふっとちょっと考えて、「僕はあまり役に立たない人間だった」ということを最後にいうんですね。私はその言葉を聞いて、「あ、そうか」と。この事件というのは、彼が何かジャッジメントになっていて、彼が判決を下して、こっちは意味ある人、こっちは意味のない人、こっちは役に立つ人、役に立たない人。それは何か神様のようにね、彼がそれを裁き、意味のない、役に立たない側にいた人たちを次々に殺したという。「お前は神にでもなったつもりか」というふうに取られがちなんだけども、そうでなくって、それだけじゃなくって、彼自身が実は分断線ですね、役に立つ、立たないの分断線というのは、彼が勝手に引いたって、みんながいうんだけども、僕はね、この世の中にはすでにあったんじゃないかなと、その分断線は。ここからこっちは生きていい命。ここからこっちは生きてはいけない命。これからこっちは役に立っている人。こっちは迷惑をかけている人。この分断ラインというのがあって、彼はその分断ラインの上を生きていたんじゃないか。
 彼が言った「生きる意味のある命」とか、「意味のない命」という、あの言葉は、私は時代の言葉そのものなんじゃないかと。この時代や社会がこの間20年、30年語ってきたその言葉そのものを、実は彼が語ったんじゃないか。もっというと、その価値観の中で自分自身の存在に脅えながら、存在意義、あるかないか。そのことに脅えながら生きてる。彼も時代の子なんじゃないか。こういうことをいうことによって、彼自身がやったことの責任を曖昧にするということを言いたいわけじゃない。彼がやったことは、彼が責任を取るべきだし、でも彼の発想とか、思いとか、自分は役に立つか立たないかというところで揺れてる人間の現実というのは、僕は彼だけの問題か?という。
 あの事件があった後にですね、うちの教会に80代半ば、今もう半ばになりましたけどね、お母さんがいて、もうおばあちゃんですけどね、ある時事件の何ヶ月後かな、訪ねてこられたんですよ。「奥田先生、ちょっと話聞いて」って言って。「それでどうしたの」と言ったら、実は彼女が、今から40年ぐらい前に、当時20歳、24歳だったかな、私がここの教会に赴任する前の話なんで、そのお嬢さんがピアノの先生でね、バイクに乗ってピアノ教室に通う、ピアノ教師ですから、行く時に、無免許無保険の車にはねられて、もう大事故になっちゃったんですね。なんとか生き延びるんだけども、残念ながら脳に大きな損傷が残って、もうほとんどものを記憶する力とか、考える力というのは、脳のその障害の中で失われていくんです。
 そのお母さんが、その事件の後来られて、「あの事件は私は許せないと。あの犯人は、言っていることは全く間違っていると。つまり障害者は不幸を作り出すことしか出来ない。障害者は家族を不幸にしてる。彼はそう言って、だから障害者を殺すというんだけども、あれは嘘だ。私はず〜っと娘の介護をしながら生きてきたけども、この娘が私を不幸にしたなんてこと一度も思ったことがない。私は娘によって不幸にされたとは思ってない。事故に遭ったことは不幸だったけども、でも娘が私を不幸にしているなんて思ってない。あの犯人は嘘をついている」と言って、わぁーっと泣いたんですよ。僕も一緒になって泣きながらね、「本当にそうだな」って。「あいつ嘘ばっかりだな」と言って、「お母さんも言ってやれや、あの人に」というような話をしたんですよ。 いっときね母親がわぁっと泣いて、泣き止んで、一呼吸ついて、次こうおっしゃったんですね。「でもね、奥田先生」って言ってね、「私ね不幸じゃなかったけど、この30数年間、とっても大変だったの」と言い出したんですよ。「とっても大変だった。あの娘と一緒に生きていく。もう何もできなくなってしまったような娘と一緒に生きていくというのはとっても大変だった。でも不幸じゃないの」と、また繰り返したんですよ。
 植松君がね、一番間違ったのは、意味のある命と意味のない命。その根拠にした人に迷惑をかけているとかかけていないという、言い方だけども、彼はそれを「不幸を作り出している」と言ったんですね。「障害者は不幸を作り出してる」。でもこのお母さんは、「大変と不幸は違う」というわけですよ。人が絆を結ぶと、大変ですよ、正直。私もまっちゃんも含めてね。私のこの30何年、私だけじゃないですよ。私の連れ合いもそうだし、周りのうちのスタッフも教会の人もそれは大変ですよ。でもね、不幸じゃない。面白かったですね。  まっちゃんと出会って楽しかったし、まっちゃんと出会って大変だったけども、掛けがえのない体験ですね。植松君、残念ながら「大変なことは不幸だ」と言い切ってしまった。そこが最も彼の間違ったとこで、「違うで植松君、大変やけど面白いってことあるで。大変やけど、生きていてよかったと言える日があるよ。大変だけどあなたと出会って、僕は本当に幸せだったと言える。僕はお葬式の度に、この会堂で牧師さんとしてそれを宣言するわけですよ。このおじさん本当に大変だったけども、この人と出会って僕幸せでした」とみんないうわけですよ。大変と不幸は全然違うのに。
 僕はね大変な社会を作るべきだと思いますよ。もっと大変した方がいい、みんなで。もっと大変な社会を作って、もっと絆を結んで、もっといろんな人のためにみんながお互いに傷ついて、大変な大変な社会に共生する社会、共に生きる社会というのは、すごく大変なんだけども、滅茶苦茶独りぼっち籠ってるよりか、独りぼっちステイホームしているよりか、よっぽど楽しくって面白くってエキサイティングで、明日はどんな事件が起こるかなと思いながら、明日を迎えるみたいなね。でもね、僕はやっぱりもう一度改めていうと、それって不幸じゃなありませんから。それって不幸とは言いませんから。植松君、そこ間違ったんだ。あなた、わかってないんだ。不幸ってそんなもんじゃない。大変だけど、幸福だと言える人生は山のようにある。
 
ナ:奥田さんが長く考え続けてきたのが、「みんなにとって自分の居場所、ホームとは何か?」という問いです。
 
『奥(礼拝にて):さぁ皆さん、ステイホームをしてきた私たちだけども、それって「ステイハウス」だったんじゃないですか。家という建物の中に閉じこもって、私たちは感染を恐れてなんとか生き延びようとした。それはそれで正しい。人にもうつさないし、自分にもうつらない、ということをやった。けど、それって正確にいうと「ステイハウス」なんじゃないんですか。本当にそこがホームになっていたか。人と人とのつながりの場所。人を心配し、人から心配される場所。そこに私たちはちゃんと籠もっていたのか。あるいは物理的にステイハウスで済ましてきたのか。今日はそんなお話です。
 さて私はそれでライフワークとしてユダの話を取り上げたいんですね。ユダは皆さんご存知の通り、イエスを裏切った張本人なんです。先ほど聖書を読んでいただきました。銀貨30枚でイエスを売るんですね。それがきっかけになってイエスは死刑になっていく。それが十字架の処刑だったわけです。裏切り者、罪人、許されざる者、それがキリスト教に限らず、ユダの印象であります。』
 
ナ:イエスの弟子の一人、イスカリオテのユダ。銀貨30枚と引き換えにイエスを裏切り、その後自ら命を絶ったとされる人物です。
 
奥:残念ながら聖書では、ユダは自殺して死んでおしまいなんですよ。その後どうなったかというのがないので、まぁ非常にそれこそ恣意的な勝手なことなんですけども、ユダのその後というのを、私は聖書的な創造というか、創作ですね、奥田による福音書というたら本当に怒られちゃうんだけども、そういうのを敢えていうんですね、説教の中で。
 死の直前にですね、ユダは自分を、いわば裏切りに引っ張り込んだ祭司や律法学者のところに行って、まあ銀貨を渡した人たちですよね、イエスを裏切る対価を出した人たちのところに行って、「私は罪のない人の血を流すようなことをして罪を犯した」と言うんですよ。「私は罪のない人の血を流す」、イエス・キリストのことを言っているんですね。「罪のない人の血を流すようなことをして罪を犯した」ということを悔い改めるんですよね、反省するわけですよ。そうしたら、祭司や律法学者達が、「それは我々の知ったことか」と。「自分で始末するがよい」。新共同訳聖書は、「それはお前の問題だ」というんですね、自己責任なんです。「それはお前の問題だ、自業自得だ、知らん」。周りの人は言った。「それはお前の問題だ、自分でなんとかしろ」って。これを言われたときに、人間は死んでいくんですね。キリスト教は多くこの長い歴史の中で、いわばユダを反面教師にして、「ユダみたいにはならないでおきましょう。ユダみたいな人間にはならないとおきましょう」というふうに、多分みんな教えてきたと思うんですね。
 それは困るんですよ。僕はいつユダになってもおかしくない人間だと、どっかで思っているからですね。
 
取材者:奥田さん自身が?
 
奥:はい。私もそんな完璧な人間でもなんでもない。いつも揺れ動いている中で生きてきたわけですよね。ユダと自分の違いなんていうものは、はっきり証明できない。ユダにならないという保証は何もない。ユダが死んで地獄に下っていくわけですよね、黄泉の国に下がっていく。そうしてイエスが地上では十字架にかけられてる。槍で刺され、釘で打たれ、ボロボロになったイエスが見えているわけですよ。ユダは、私が裏切った結果イエスがあんな目に遭っていると。「イエス様ごめんなさい」と言いながら、黄泉の国へと下っていくわけですよ。もう地上からは、イエスを釘打つ音がカーンカーンと全地に響いているわけ。そしてイエスがそのたんびに「ウッ!」と呻いている、その声がユダにも届くわけですよ。たまんない、自分のせいでそんなことになっているんだから。「イエス様、ごめんなさい!」とユダは言いながら下っていくんだけども、そのときにね、『ルカによる福音書』の中に書かれている、イエスの最後の十字架の言葉がユダに届く、「父よ、彼らを赦したまえ。彼らは何をしているのか分からずにいるのです」。「父よ、彼らを赦したまえ。彼らは何をしているのか分からずにいるのです」という言葉を、殺されながらのイエスが、殺している人たちのことを祈るんですね。その言葉が黄泉に下っていくユダにも届いただろうと、僕は想像するわけです。その時にユダは気が付くわけですよ。「そうか、俺の最大のミスは、イエスを裏切って失敗したと思ったその日に、イエスを殺した人達のところに行って、反省の弁を述べたんですけども、もし自分を殺している人のことさえ祈っている。『彼らは何をしているのか分からない。彼らを赦してください』と、祈ってくれるところに、もし自分が戻ってたら俺は多分死んでなかった。俺は多分生きることができただろう」というふうに、ユダはその時、気がついただろうと。
 人間ってやっぱ気を付けていないと、すぐに分断していくわけですね。だからユダだけ「しょうがないよね。あいつはイエスを裏切ったんだから、地獄でどんな苦しみを受けてもそれは自業自得でしょう、我々の知ったことかと、自分で始末するがよい、それはお前の問題だ」と、みんな言い切るかもしれないけども、イエスは絶対言わない、そんなことは。イエスは、「それはお前の問題だ、と言いながらも、でも俺がお前の問題の結果、すなわちその裁きは俺が受けるから、絶対お前を一人にしないから。ユダよ一緒に帰ろうと言って、帰っていく」。抱樸ですよ。まさにイエスは抱樸なんです。イエスは僕がどんだけとげとげしくっても、どんだけ私がささくれ立ってても、イエスはユダを抱えたように、今日も私のことを抱きかかえてる。そして私の結果、彼は傷ついてるんですね。
 イエスに抱かれて、こっちも傷つく、と言ったら変だけど、イエスに抱かれると、それはきついですよ。今まで気にしてなかったようなことが気になり出したりとか、自分が問われたりとか、お前それでいいのか?とか、やっぱりこれはイエスと出会った結果ですよね。だから人間は辛くて苦しいというのは、まさにその通りで、でもそうでないとやっぱりダメなんじゃないですかね。イエスと出会ったことで「他者のために苦しむ」という意味がわかったり、イエスと出会ったことで「自分の不完全さがより見えたりする」わけだから、それってしんどいですね、自分の不完全さを見つめるというのは。だけどそれは大事なんじゃないかなと思いますね。
 
ナ:新型コロナによる経済危機を前に、奥田さんが緊急で立ち上げたプロジェクトがあります。仕事や住まいを失った人に安心して再出発するための住まいを提供しようというものです。
 
『奥(オンライン会議にて)):全国で100カ所、150箇所のアパート、これが実はこの写真は北九州ですでに今回のクラウドファンディングの中でですね設定したワンルームマンションです。22㎡ほどある。
 
ナ:NPOが空き家を借り上げて整備。支援者をつけて提供しようという試みです。
 
奥:これは家財道具入っている。まぁベッドとか、テレビなんかの設置も終わっています。
 
ナ:全国のNPOと連携してのプロジェクト。背景には各地に広がる深刻な実態があります。
 
千葉のNPO:新規相談者というのは大体市川市の場合、40件程度であったものが、ひと月に400件という数字を記録しております。徐々にですね、不安定な居住といいましょうかね、ネットカフェとか、会社の寮の人から自分名義で契約をしているアパートに入っている人もこのコロナの影響で生活ができなくなってきつつあるというのが見ております。
 
北海道のNPO:今まではどちらかというと本州に働きに行っていた。今、行けない。どちらかというと受け入れがないというところで、本州にも行けずに北海道の田舎でいうと、なかなか仕事もなく、逆に田舎ゆえに地域のつながりが強すぎて、そこで相談しづらくて孤立する。
 
ナ:クラウドファンデングで7月末までに1億円を集めようという計画。多くの人に少しずつ関わってもらうことで、共に次の社会を作っていきたいとの思いが込められています。
 
奥:これはコロナ緊急対策でやっているんですが、私はやっぱりコロナの後の社会をどう作るのかということを考える時が来ていると思うんですね。今コロナで噴出したさまざまなものに絆創膏を貼っていくということも大事なんだけども、例えば臨時給付金とか、そういうのも大事なんだけども、じゃあ結局喉元過ぎればで同じ構造がまた残っていくと。また結局寮付きの就労に入っていく。そうすると、また景気の変動とともに、家も仕事も全部失う。そういうふうに次のポストコロナ社会をどう創造するのかというのと、家にジッとしているだけじゃ人の命は助からないから、やっぱり家からできることを考えましょうということ。この二つのことを今呼びかけているとこですね。
 けど、たくさんの方が、もうすでに応募、応えてくださったんで、このクラウドファンデング立ち上げた直後にですね、まだ特別給付金が配られる前ですよ、国会で特別給付金10万円配りますということが、やっと決まった頃の話ですね。今から1ヶ月ぐらい前の話。このことをネットで皆さんに呼び掛け、クラウドファンデングが始まったんですね。そうしたらですね、うちの事務所に、事務所というか、教会なんですが、教会に白い封筒を持った男性が、60代の男性、60代くらいですね、現れましてね、ニュースを見ていたら、全国民に10万円配ると国が決めたと。自分は今家もあるし、年金もあるし、暮らしには困ってない。コロナになったからといって、なんか急に収入がなくなったわけではないと。だからいずれ来る10万円なんだけども、早いほうがいいだろうからと言って、奥田さんにこれ託すからと言ってね、もう10万円持ってきた人がいるんですね、この場に。私はそういう人間の姿を見て、やっぱり「貧すれば鈍する」というけども、必ずしもそうではなくって、こういう困窮というか、貧する、あるいは苦しみ、苦難の時代は人は考えるし、貧すれば出会う。貧すれば考える。この苦難の中で人間は出会い始めるし、そして動き始めるというのを、現に今見てて、まだまだこの日本の社会というのは捨てたもんじゃない。
 聖書の『ヨハネによる福音書』というところに、“光はやみの中に輝いている、そしてやみはこれに勝たなかった”(ヨハネによる福音書一章五節)という言葉があるんですね。普通皆さん、「絶望」と「希望」の関係というのは、絶望のトンネルを抜けたら、希望が広がる。あるいは明けない夜はない。夜が明けたら朝が来る、という。「絶望の先に希望がある」と、普通考えるじゃないですか。でも聖書はそう言っていないんですね。「光は闇の中に輝いている」つまり闇が通り過ぎたら、光がいつか来るから、まぁ冬来たらば春遠からじ、なんですよね。そういう感覚でみんな過ごしているんだけども、そうじゃないと。実は、冬の真っ只中に、もうすでに春は始まっている、ということを聖書は言いたいわけですよね。つまり闇の中に光が輝いている。だから闇が通り過ぎたら、光が来るんじゃなくて、もう既に光は始まってる。希望は始まっているということを、聖書は、『ヨハネによる福音書』に書いた。しかも最終的に「闇は光には勝てない」と宣言しているわけですね。
 私はこれだけ不安が大きくなった時代で、コロナのことでみんなが、来年どうなるだろう、とか、今年の冬どうなるだろう、という、非常に不安の中に、あるいは絶望の中にいて、いつまで我慢したら夜明けがくるんだろう、というふうにみんな考えているけども、もう少しちょっと心を研ぎ澄まして、もう少し落ち着いて、今、周りを見たら、希望のかけらみたいなものがもう始まっているんじゃないか。
 あれだけ孤立が進んでいた社会なのに、いざステイホームと言われたら、やっぱりみんな寂しくなって、インターネットでなんか何とか繋がろうとか、家で踊ろうとか言い出した。そういう中で人恋しいという思いが出始めたとか、私はなんかいろんなことがいま始まりつつあるというふうに思うんです。だからこの「闇の中に光がすでにある」と、聖書は言っていますよ、と。私たちは今もうそれを探そう。この闇の中に光を探そうという気持ちで日々を過ごした方がいいと。我慢する時期じゃなくって、なんか宝探しをするような気持ちを持とうという、一方で。そんなふうな感じが、私はしていますね。

 

ユダよ、帰れ

「助けて」と言える国へ――人と社会をつなぐ (集英社新書)

伴走型支援: 新しい支援と社会のカタチ

すべては神様が創られた

「逃げおくれた」伴走者 分断された社会で人とつながる