eraoftheheart

NHK「こころの時代〜宗教・人生〜」の文字起こしです

2022/8/28 生きる根をみつめて

小松由佳:フォトグラファー

亀川芳樹ディレクター:ききて

 

ナレーター(以下「ナ」という):成田空港出発ロビー、大きな荷物を背負い子供を連れた女性、フォトグラファーの小松由佳さんです。2013年から内戦で難民となったシリアの人々を撮り続けています。
 この日、トルコ南部へ取材に向かいました。小松さんの夫はシリア人のラドワンさん、ラドワンさんもまた内戦で国を離れた1人です。旅に連れて行くのは2人の間に生まれた息子達。
 小松さんが撮り続けているのは、戦乱によってそれまで暮らしてきた土地を離れざるをえなかった人達。彼らが新たな土地に根を下ろし、懸命に暮らしを取り戻そうとする姿です。その姿を通して小松さんは人間が生きていく根っこにあるものは何なのか見つめ続けてきました。
 そんな小松さんはかつてヒマラヤやカラコルム山脈など数々の山に挑んだクライマー、日本人女性として初めてパキスタンのK2に登頂という偉業も成し遂げました。ですが、ある出来事を境に山を下り、麓に暮らす人々の暮らしを見つめる旅を始めます。草原や砂漠など過酷な土地で生きる人々の姿を写真に写しました。
 小松さんは山で何を体験したのか?なぜ人々の生きる姿を記録し続けるのか?小松由佳さんの歩みを辿ります。

 

亀川(以下「亀」という):どうですか今日は、サーメル君とサラーム君は。

小松(以下「小」という):はい保育園に行きました。

 

亀:そうですか。

 山ね、色んな山に上って今八王子でシリア人の夫と暮らして。

 

小:はい。

 

亀:子供を抱えて写真を撮っておられるわけじゃないですか。
 まず、小松さんのその幼い頃のお話聞きたいんですけど、どういう環境でお育ちになったんでしょう。

 

小:生まれは秋田県秋田市で周囲には田んぼがずっと広がっている農村で、祖父母は米農家だったんです。これが私の原風景で田んぼの畦道に私が座って向こうで祖父母が田んぼに立ってる。その向こうに山が青く見えてたっていうのが私の1番最初の記憶なんですよ。
 で、やっぱりそのころから山がとにかく美しいっていうのは思っていて、すごく山に憧れがあったんですけどあの山の向こう側を見てみたいという気持ちだったんですよね。山の頂に立ったら何が見えるんだろう。その向こうにある世界を見たいなと思って、それが山登りをしたいという最初の気持ちでしたね。

 

亀:やっぱりそのころはその自分の暮らしている世界が、やっぱ世界の全てだったってどういう感じですかね。

 

小:そうですね、まあすごく狭い世界には生きていて、だから小さい頃から田んぼで家族が働いてる姿を見て育った。田んぼがやっぱり子供のころの私にとっては世界の全てのような、はい、記憶ですね。
 祖父がやっぱり田んぼの仕事に生きた人だったので田んぼで働く姿を通して生きることを教えてくれたように思うんですよ。ご飯を食べる時も米粒は百姓の涙だと、1粒も残すなって教えられて育ったし、田んぼの畦道でよくソフトおにぎりを食べた記憶があるんですけど、おにぎりをコロンって田んぼに落としてしまったんですよね。ベシャーンって水の中に落ちるわけですよ。それをこう、祖父はそれを絞っておにぎり食べたりして、やっぱりその米を作るっていうことの厳しさとか、誇りとか喜びっていうのをすごく教えてくれた祖父がいたんですよね。
 そういう中でやっぱり人間が風土に生きるっていうことを小さい頃から感じ取ったように思いますよね。

 

ナ:山への憧れから高校で山岳部に入った小松さん、大学は東海大学に進学しました。4年生の時には山岳部主将としてヒマラヤ初登頂を果たします。

 

小:私は東海大学に入学したいというよりも東海大学山岳部に入部したくて大学に入ったんですよね。
 ところが山岳部の門をたたくとなんと女人禁制で、女子部員は入部禁止だったんですよね。やる気があるのでやっぱりトレーニングもしっかりしてきたし、これからもしたいし入部させて下さいというふうに言い張って、ただやっぱり上の先輩達からはこうやめろって言われたんですよね。で、もう私はこう態度で示すしかないと思い、男性の1.5倍はトレーニングをして、はい時間をかけて態度で示すしかないと思いましたね。
 標高6,300メートルの山であれが初めてのヒマラヤでしたね。砂漠を歩いてラクダやロバに荷物を載せて山の上に行くと氷河があって、そしてこう山があって。1番記憶に残っているのは山頂に立った時に山々しか見えなかったんですよ。地球上にはこんなに山があるんだと、それに純粋に驚きましたし、で、ほとんどが未踏峰だって聞いたんですね。で、こんなに人が登ってない山がある。地球ってまだまだ私達の知らない領域がこんなにあるんだと感動しましたね。
 大学時代にも本当に山にこう熱中して、まさにこう、日々の生活を山に懸けてたんです。多い時は年間260日ぐらい山に入っていて、その当時はですね、登る過程でも山頂に立つことでもなくて山に行くとそこにいることが喜びだったんですよ。生きてると感じられる実感がどこよりもある世界が山だったんです。やっぱりこう自分が1番時間をかけられる時に、経験を積んでいる時はとにかく山に向かいたいと思ってたんですよね。
 だから就職をしては今までのその自分が山に費やしてきたその経験がもったいないと思いまして。いや全く就職の2文字は頭になかったですね。やっぱり山に登り続けなければと思ってました。もうとにかくやりたいことをやろうと、私はもうヒマラヤを20代はもう登ろうと決めてましたね。

 

亀:それ不安はなかったんですか、将来に対する不安は。

 

小:全くないですね。あの、というよりも、なぜ皆卒業したらすぐ就職するんだろうと思ってたんですよ。その時やりたいことややれることがあればそこに向かっていっていいんじゃないかと思ってました。

 

ナ:2005年、小松さんは世界最高峰エベレストへの遠征隊に参加します。目の当たりにしたのは山の頂に立つことを競う様々な登山者の姿でした。

 

小:エベレストの時は正直初めての8,000m峰なので山頂に登れたらラッキーだと。でもとにかく経験を積みたい。よりこう高い標高まで経験を積みたいと思ってました。

 ところがそこで見えてきたのは、チームとしていかに登るかというよりも、ものすごく個人主義の世界だったんですよ。自分が上に登りたいっていう。
 やっぱりエベレストというのはこう世界最高峰ゆえに色んな登山家が登りに来るんですよね。色んな目的を持った人達。中にはやはりその名誉のために登る人達もいたし。色んな目的のもとに人が集まっていて、そこでやっぱりその人間の俗的な部分もものすごく目にすることがあったんですよね。
 登山ってやっぱりものすごく人間のエゴが出るし、でもエゴっていうのは裏返すと生存する力そのものでもあるんです。むしろやっぱりそういう強い感情がなければああいうヒマラヤの世界は登れないと思うんですけども。やっぱりものすごくドロドロした世界もあるわけですよね。人間同士のあのエゴのこうむき出しの世界とか。

 エベレストで見たのはやっぱりその人間の欲望みたいなもので、私はちょっとそこに違和感を正直感じてしまったんですよね。

 

ナ:小松さんは高度に順応できず頂上アタック隊には選ばれなかった。

 

小:エベレストのアタック隊から外された時に1人でベースキャンプまで戻らなければいけなかったシーンがあって、吹雪の中を1人下らされたんですよ。その時にあまりに吹雪が強くなってきてベースキャンプに戻れず、途中のキャンプで1泊しなければいけなかったんですね。その時にチベットの村の方から来たヤク飼いのおじいさんのテントで1泊させてもらったんです。
 そのテントは本当に小さいテントで穴がいっぱい開いていて風邪や雪が吹き込んでくるんですが、そこの中央でおじいさんが焚火をたいて暖めているわけですよね。言葉も全然通じないんですけれども何時間も一緒に座って。
 で、おじいさんはお茶を作って出してくれたり、その時のおじいさんの顔の皺がすごく美しかったことを覚えているんですよね。で私はやっぱりそのエベレストの山頂、こう華々しいああいう世界ではなくて、やっぱり人間のこういう営みが私にとって胸を打つものなんだな、ということをその時気づいたんですよね。

 

ナ:翌年、小松さんは「世界一危険な山」と呼ばれるカラコルム山脈、K2に挑戦。そこで人生を変える経験をしました。相棒は大学山岳部の後輩、青木達哉さん。小松さんは日本人女性として初めて、青木さんは史上最年少での登頂を果たします。
 しかし、その下山時2人は深刻な危機に見舞われます。すっかり日が暮れてしまった8,200m地点。酸素ボンベも尽き、進退窮まった2人は点とも張らず絶壁にロープで体を結び朝が来るのを待ちました。

 

小:これは今考えるとやっぱり生と死の境の1つの大きな決断でしたよね。どっちにしてもリスクは高いわけです。下り続けたとしてももうかなり判断力が限界に来てるので体力も限界なのでもしかしたらこう滑り落ちて滑落するかもしれない。一方でビバークをしても疲労凍死する可能性もあるわけです。ビバーク地点を作って座った時にパートナーの青木が「もしかしてこれで死にませんよね」って言ったんです。で、私もチラッと実は不安に思ってたんですが、その時私はリーダーだったので不安を絶対に後輩に見せてはいけないなと思ったんです。だから、そんなことはもう絶対ないと、絶対に生きて帰れるんだから大丈夫だと。自分自身にもその言葉を向けて、もうとにかく信じることしかできないんですよね。すぐにうつらうつらし2人とも寝てしまいました。
 よく寒い所で寝たら死ぬぞってビンタするような映像ありますけど、人は寝るんですね。ただ、標高が高くて酸素が薄いし、吸ってた酸素ボンベも全部ないので息苦しいんです。ビバークした8,200mは酸素量が地上の3分の1しかない場所で、とにかく息苦しくて目が覚めるんですよね。ハアハアハアなってるのに気付いて目が覚めて苦しくて。で、隣の青木を見ると、青木が生きてるかというのを確認するわけですよね、肩を叩いて。
 どれだけ時間が経ったかものすごく顔が熱くなったんですよね、ある段階で。何だろうと思って目を開けたらまだ辺りが真っ暗なのに紫色の雲海が下に広がっていてそこから正に太陽が昇ってくるところだったんです。その太陽の光が自分達の方に差し込んでいて、その光が顔にものすごく熱く感じたわけです。それを感じた時に、もしかして死んでしまったんじゃないかと一瞬思ったんです。それぐらい荘厳な光の感覚だったんですよね。正に夜ぢゅう暗い中で寒い中で生と死の境に立った夜があって、そして朝の太陽の光に自分達の存在また感じ取った、そうした瞬間でしたね。
 段々と自分達が生きてるんだということを感じると涙がどんどん溢れてきて、この世界に生きて帰りたいとそれを強く思いましたね。
 そうした中で生きて帰ってきた時に、実はただ生きてるということがものすごく特別なことを感じたんです。何か人間は特別なことをしたり何か記録を残さなくても、実はただここに存在してるっていうことがそれだけでものすごく特別なんだと。色んな巡り合わせの中で生かされてるということなんだということをものすごく体で感じたんですよね、K2から帰ってきた時に。
 それ以来、厳しい登山をすることで生きる実感を感じたりしなくても、既に自分の周りに開けてる世界の中で同じものを感じ取れるようになっていったということがありました。
 そして、自分が山を登ることで求めていた、つまりその生きている実感や生きることそのものは、実はその山の麓の人々の暮らしの中にあったんだということに気付かされるようになって段々と視点が山の上ではなくて麓に移っていったんですよね。



ナ:山の頂にではなく人々の暮らしの中に生きることの本質を見つめたいと思うようになった小松さん。モンゴル、イラン、イラク、イエメンなど草原や砂漠といった過酷な環境で生きる人々の大地を旅し始めました。

小:その、人はなぜ便利ではない土地に住み続けるのか。言葉を替えると、人間は厳しさの中にどんな豊かさを見出して生きようとするのか、それをずっと知りたかったように思うんです。
 そしてそれは、私の祖父母がきっとそういう暮らしをしてたんですよね。米農家ってやっぱりものすごく厳しい仕事で、夏の暑さや冬の寒い時は出稼ぎに出たりとかして。そして雪解け水の冷たい中で田植えをしたりずっと田んぼに立ち続けて、そして得られる収入は僅かじゃないですか。そういう暮らしの中で私も生まれ育って、そうした暮らしに生きる人の豊かさをもっと私は知りたく思ったんですよね。
 厳しい自然の中で人間がどう生きてる生きてるかを知りたかったので、私にとっての過酷な自然を目指したんですね。その自然が私にとっては草原と砂漠だったんです。

 

亀:旅した時っていうのは、それは、もうカメラは持ってたんですか。

 

小:はい。
 最初はまずは自分がそうした世界を知りたくて感じたくて行きました。カメラは記録する目的だけです。
 ただそうした世界に触れる上で、こういう世界があるんだということを表現していきたくなって、段々とフォトグラファーを目指すようになりました。
 自分が出会った世界の豊かさや営みをやっぱり共有したいなと思ったんですね。結局自分が出会って感じて終わるだけじゃなくて、それを1つの価値として残したいなと思いました。

亀:今、「共有したい」と仰ったんですけど、「記録する」と「共有する」ってちょっと違うじゃないですか。共有したいっていうのはなぜ?
 共有って要するに発表するっていうか人に見せるということですよね。そのお気持ちはなぜそれを人に伝えたいと思ったんですか。

 

小:根源的な問いですね。やっぱり人間が生きているそういう姿、生きるということの本質を私なりに理解したことを伝えたい。で、生きているということの何か温かい側面をたくさんの人に共感してもらいたいようなそんな思いがありますね。

 

ナ:旅を始めて半年、行き着いたのが中東のシリアでした。

 

小:特に砂漠は私にとっては荒野のイメージがあり、なぜそんな厳しい大地にわざわざ住んでるんだろう、それを知りたかったんです。
 シリアというのは8割が砂漠の国なんです。ただ特にシリア中部のパルミラという町が砂漠のオアシスとして有名で、その周辺にはたくさんの遊牧民がいるということで知られてたんですよね。
 それでパルミラに行ってパルミラの絨毯屋さんなどで郊外に住んでいる遊牧民を知りませんかって訪ね歩いたりなどして、そしたら町からちょっと出ればテントがいろいろ見えるから、すぐ近くにいるよって教えてもらってそれで自分で歩きながら探したんです。
 その時に、ラクダの群れを連れている男性を見かけて声をかけたんです。

 

ナ:小松さんが出会ったのはアブドュルラティーフという遊牧民。3世代が一緒に暮らす総勢60人程の大家族でした。

 

小:アブドュルラティーフ一家の生活は、まずラクダの放牧が彼らの暮らしの生業で、朝早く起きて砂漠に行ってラクダの放牧を1日かけてするんですね。
 シリアでは1人が1つの仕事をしているというケースは珍しくて、家族でたくさんの仕事を受け持ちながら、それを季節ごとに回しているというスタイルが一般的だったんです。
 私は砂漠というのが不毛な大地だと思ってたんです。荒野だと思っていて、そこにはほとんど命も存在しないし指揮もないと思ってたんです。
 ただ、彼らと一緒に砂漠を歩いてラクダの放牧を見せてもらったら実は全く逆で、ものすごく命が実はあふれていて、夜になると色んな穴からハリネズミとかちっちゃいネズミとか虫がいっぱい出てくるんですよ。
 そして四季も豊かで、冬になると一気に雨が降り、1日2日で大地が緑色に変わったりするんです。草が一気に2~3センチ伸びたりしてそうした変化があって。やっぱりその砂漠という土地が知れば知るほどものすごく豊かな大地なんだということがわかったんですよね。
 それ以上に実は感動したのが地図上には砂漠としか書かれてない土地ですけど、アブドュルラティーフ一家は、砂漠に代々名前を付けて識別してきていたことなんです。砂粒の色や大きさや形、そこに生える草の種類などで砂漠を見分けてそれを伝えてきていた。
 本当に砂漠という大地に生きる知恵なんだなと思いました。そして彼らにとって砂漠というのが、閉ざされた世界ではなくてむしろ彼らを違う世界につなげてくれる、違うオアシスに自分達を誘ってくれる開かれた道なんだ、こうした話を聞きました。
 そうした暮らしをしている彼らの、1番の豊かな時間とされているものが「ラーハ」という時間なんです。これは直訳すると「ゆとり」とか「休息」と呼ばれる時間なんですけど、友達と集っておしゃべりをしたり家族と団欒をしたり、また昼寝をしたりこういう時間なんですよね、要はのんびりする時間。この時間をどれだけ持てるかどうかが豊かな人生かどうかって言われるんです。まさにアブドュルラティーフ一家の生活もラーハの時間がものすごく大事にされていて、とにかくゆったり皆生きていました。
 ある時コーヒーに招かれたことがあったんです。それでまあ1時間ぐらいあれば飲んでかえってこれるかなと思い向かったわけなんですけど。テントに着いて1時間ほど経っても全然コーヒーが出てこないんですよ。私は日本でやっぱり分刻みの生活をしていたので、しびれを切らしてしまって、「あの、いつコーヒーは出てくるんですか」と聞いてしまったんですね。そしたらその時点で「ああ、そうだった」と、「じゃ買ってくる」と言って、その時点で砂漠のテントからバイクに乗って町に豆を買いに行ったわけです。で帰ってきたと思って見たら、今度その豆がまだ青いんですよ。豆を煎るために焚火をたかなきゃいけないわけですよね。その焚火をたくための薪を今度みんなで集めに行って、集めて火をたき、それから豆を煎って、砕いて、お湯を沸かして入れて、最後にコーヒーが出てくるまで結局3時間くらいかかったんですよね。
 その経験から私は感じたことがあって、つまりは彼らはコーヒーを飲みに来なさいと言うけれど、コーヒーを飲む、そのことが目的じゃないんですよね。大事なのは過程なんですよね。コーヒーを飲むまでのその時間を共に共有すること、ゆったりとした時間の流れに身を置くということが大事なんです。大事な家族や友人達と共に今を生きているということを共に味わうこと、これがラーハの豊かな時間なんですね。

 

ナ:今聞いてて思ったのはですね、なんかこう今僕日本に生きててですよ、なんか生きてるって感じるのは何かを成し遂げた時とかね、達成した時とかにだけ感じるわけですよ、それと大違いだなと思って。

 

小:そうなんです、人生の価値が違うんです。
 日本だと何か目標を立ててそこに向かっていく過程だったり、何かを達成したりすることが人生の価値とされますよね、努力をし続けなければいけない。でもシリアの社会ではむしろこう既にあるものを味わい尽くすというか、それが生きている豊かさなんですよね。

 

ナ:この時砂漠を案内し、砂漠の暮らしの豊かさを教えてくれたのが、一家の12男後に夫となるラドワンさんでした。
 砂漠に生きる人々に惹かれた小松さんは、それから毎年シリアを訪れるようになりました。
 そんなシリアが激動に見舞われます。2010年から始まったアラブ世界の民主化運動、シリアでも反政府運動が起きやがて内戦に突入。砂漠の暮らしを撮るために首都ダマスカスに滞在していた小松さんの目の前でも爆弾テロが起きました。
 アブドュルラティーフ一家も混乱に巻き込まれていきます。6男のサーメルがある日突然警察に逮捕されたのです。反政府デモに参加していたという容疑でした。
 この写真は兄の逮捕聞いた瞬間のラドワンさんを小松さんが撮った1枚です。

 

小:これはちょうど、こう、その友人と会っていた時にある電話があって、パルミラで兄のサーメルが今逮捕されたという知らせを受けたんですね。その瞬間を撮った1枚なんです。その時、あまりのショックでもう寝転んで天井をず~っと見て数時間言葉を発することができなかったんです。
 シリアでは一度逮捕されるともう戻ってこない可能性の方が高いんですね。拷問を受けて生死がもう分からなくなってしまう。この時、2012年の5月に逮捕されたサーメルも今10年が経ちますが全く行方が知れない状態なんです。
 その時の苦悩、この瞬間を私は写真に撮りました。で、これを撮った時に私の中に初めて、内戦状態となっていくそのシリアが迫ってきたんですね。そしてこの写真を撮ったことで私はこう、人々がどのようにかつての生活を失って難民となっていくのか、これをテーマとして撮っていこうと決めましたね。私にとっても忘れられない1枚ですね。

 

亀:それはもう反射的に撮ったんですか。

 

小:いえ、少し撮るのを悩んだんですよね。こういう状態の時に撮るべきかなと思ったんです。でも撮らなければいけない瞬間なんじゃないかと思ったんです。こうやってこう、人に出会ってお話を聞かせてもらって、そして激動の中にある時代をやっぱり切り取りたいと思った時に、これは自分にとってもすごく大事な瞬間だと思ったんです。

 

ナ:この時兵役についていたラドワンさんは、政府軍の兵士として市民に銃を向けなければならない立場にありました。

 

小:シリアで民主化運動が始まるわけです。その民主化運動を政府が弾圧をして多くの死者が生まれると、市民が銃を持って対抗するようになり、シリア全土で武力衝突が起きていきます。そして市民を弾圧したのが政府軍なんです。つまり、ラドワンは上官の命令次第で市民を弾圧しなければいけない立場に置かれていったんです。
 彼としてはただ義務で行かなければいけなかった兵役だったんですが、内戦が始まっていく中で彼は加害者になっていかざるをえなかったんですね。それにラドワンはものすごく思い悩むようになります。
 そこでシリアで何を経験したかというのを彼は今でも語らないんですよ。語れない経験をしたんですよね。彼は一生話さない話さないんじゃないですかね。ものすごく心に傷を負ったように感じます。
 結局夜中に大声を出したり、パニック状態になっちゃったりした時期があったんですよ。彼はやっぱり人に語れない経験をしたんだなっていうことだと思うんです。それは語れないということを時間をかけて見つめていきたいなと思うんですね。

 

ナ:危機の中、絆を深めていった2人は2013年結婚します。しかし当初、ラドワンさんの父、ガーセムさんは結婚に反対していたといいます。

 

小:夫のお父さんから言われたんですけど、シリアで結婚っていうのは1対1の関係性じゃないんだと、結婚は私とあなたの関係じゃなくて背後に家族や社会があると。人間は年を取れば必ず自分の文化に立ち返ることがある、その時に違うルーツの人同士が結婚するとお互いに難しいよっていう話をしてくれたことがあったんです。
 そもそも個人の幸福のために一人一人は生きてるんじゃなくて、みんな家族の幸福のために存在して生きてるんだと。結婚というのも同じで、私とあなたが幸せになるために結婚があるんじゃなくて、家族の絆を深めて家族を大きくしていくための結婚なんだと。
 だから、私と夫の結婚は難しいし反対だよとすごく言われたんです。

 

ナ:その後シリアでは内戦が激化、死者は40万人を超え、国民の2人に1人が家を失い難民となりました。「今世紀最悪の人道危機」と言われています。
 小松さんは難民として異国で生きるシリアの人々の姿を撮り始めました。向かったのはヨルダン北部にあるザータリ難民キャンプでした。

 

小:当時10万人くらいのシリア難民が逃れていたこのキャンプに行ったんですね。そこで逃れてきたばかりのいろんな難民の家族を取材したんですけれども、ある家族がテントに暮らすフセイン一家という家族ですね。この家族との出会いがものすごく難民とは何なのかということを考えさせられる出会いでしたね。
 この家族は逃れてきて3ヶ月程経っていたところだったでしょうかね。結局難民キャンプというのは、難民が逃れてきて避難できるように色んな物資が整っているわけですね。電気やガス、水道があって、また食料が配布される。安全で生きるための最低限のものがある。ただ、そうした中でもこの家族のお父さんがシリアに帰るという決断をして帰ったということがあったんです。彼らだけではなくて、多くの難民達が難民キャンプの生活を続けられない、ここにはもういられないということで、戦地のシリアに帰っていくという決断をしていたんです。
 彼らが語るのは、ここには生活がないんだと言うんですね。私にとっては空爆の可能性もないし、銃弾も飛び交わない、安全があって食べ物も配布されるそうした生活だと思ってたんですが、彼らに出会って感じたのは、やっぱり人間の生活というのはどんなに安全であってもやっぱり生きるための自由がない。それはやっぱり生活とは呼べないんだということだったんですね。
 具体的に聞いたのは、シリアにいた頃は家の隣に小さな畑があって僅かな食べ物を育てて自分が好きな時間に庭に出て野菜を収穫したり水をあげたり、ひなたぼっこをしたり昼寝をしたり、そうした自分の行動を自分で判断する自由があったと。でも、難民キャンプのテントの生活ではそうした生活の自由がないんだと。ただテントに毎日座り続けておしゃべりをするだけの生活。結局こう何を食べるのか何をするのか、どこに住むのかどこに移動するのか、そうした日々の選択ができること、そうした選択の積み重ねで自分の人生が成り立っている。この実感が命の意義、人間の命の尊厳なのではないかなと。彼らの話を聞いて思いました。

 

ナ:砂漠の豊かさを教えてくれた夫の家族、アブドュルラティーフ一家もトルコ南部の都市へ難民として逃れることになりました。

小:アブドュルラティーフ一家は、シリアでは砂漠で100頭のラクダを飼って放牧をしてましたが、今トルコ南部のオスマニエという高原の町で羊と山羊と牛を飼って生活しています。やっぱりシリアのパルミラで彼らがそうやって生きてきたように放牧業で根を生やしていきたいというふうに考えてるんですね。

 

亀:それはご一家がトルコに行って、どれぐらい経ってからそういうことを始められたんですか。

 

小:2016年にアブドュルラティーフ一家のほとんどがトルコに入ってきて、羊、山羊、牛を飼い始めたのが大体2018年頃からですね。それまではもう転々としましたね。
 トルコとシリアの国境の町にいて雇われる工場の仕事をしたりトルコ人の会社で働いてみたり、色んな小さな商店を経営したりとか。ただ結局、いろいろ上手くいかなくて、最後に落ち着いたのがやはり放牧業でしたね。放牧業だったら知識がまずあると、そしてシリアから家畜を買うことができるんです。
 やっぱり人間ってこう、自分が今までやってきた持ち得てるものの中からつなげて、それをこう先の日々にこうつなげていきたいと思うんですかね。

 

亀:トルコに移ったアブドュルラティーフご一家も小松さん撮っておられるじゃないですか。撮っていく中でやっぱり表情というのは変わっていきましたか。

 

小:はい、変わってきてますね。あの、2つの側面があると思うんです。それは少しずつトルコに根を生やしてきたんだという安堵感とそしてもう1つは、やっぱり常に余裕なく働き続けなければいけない疲れ、両方を感じ取ってますね。
 やっぱりガーセムを取材して、彼は私にあまり言葉として語ることがなかったんですけれども、ある時こう言ってくれたことがあったんです。「この年になって」彼86歳だったんですけども、「この年になって、60年以上かけて築いてきたものの全てを失ってしまった」と。それは今考えると、もう自分の手で短期間では生みなせないものばかりだった、すごくそれが悲しいと。
 ガーセムはやっぱり多くを語ろうとしなかったんですけども、語らなかったということが彼の言葉だったんだなと思うんです。ガーセムはトルコに来てからはずっと家の屋上で焚火をたいて、焚火の火を見ながらシリアの砂漠でラクダの放牧をしたり焚火をしたそういう思い出をずっと懐かしんでたらしいんですよね。やはりこう、体は難民としてトルコに来ても、心は故郷のパルミラを離れることがなかったんです。
 ただ、こうも言ってたんです、「故郷に帰りたいですか」と聞いたら、「もう故郷はなくなってしまったよ」って言ってたんです。彼らの故郷、パルミラ空爆を受けて市街地のほとんどが破壊されてもう住民がほとんどいないんです。そうなるとそこは本当の故郷じゃなくなったという感覚なんですよね。
 結局彼らにとっての故郷は、土地そのものじゃないんだと感じたんです。彼らにとっての故郷っていうのは、人のコミュニティなんですよね。シリア人にとっての故郷は、土地じゃなくて人なんだと感じるエピソードでしたね。

 

ナ:小松さんが心掛けているのは、難民となった人々が新たな環境で根を張り生きていく姿を長い時間をかけて記録すること。

 

小:私は2015年からトルコのシリア難民を取材してるんですが、毎年同じ家族を取材しています。いくつかの家族がいて彼らの生活を毎年記録することで、生活がどう変わっていってるのか、彼らの心情がどう変化してるのかというのが、すごくよくわかるんですね。
 そうした毎年の取材をする一家の1つがカーセムアウラージの家族なんです。この一家をなぜ取材してるかというと、たくさんの難民の家族と会うんです。その中でもやっぱり、難民として生きるっていうことがどういうことかということをすごく見せてくれる家族がいるんですね。
 このカーセムアウラージは、シリアのイドリブ県の出身なんですが、2016年に空爆を受けて家が倒壊して、で、お母さんは片足を失って、当時5歳だった息子も爆弾の破片が当たって亡くなって。で、お父さんも手に障害を負ってトルコに来た家族なんですよね。
 で、当時の父親の仕事は路上を早朝や深夜に歩いてビンや缶、段ボールなどを集めてそれを売るという仕事をしていてものすごく過酷なんですよね。過酷なんだけれども一家の生活を見つめると厳しいだけではない、人間のしなやかさとか優しさとか、やっぱり今日を信じる力みたいなものがすごくあって、私自身がやっぱりすごくそこにいろんなものを学んでるんですよね。
 私が難民を撮ってるのは彼らが難民だからではないです。彼らが厳しい状態にあるとか、そういうことで撮ってるんではなくて、彼らがこの先どこに向かうのか。もっと先を言うと、内戦前に満たされた生活を送っていた、シリアの人々の姿を知っているからこそ、再び彼らがそこに帰っていくまでを見つめて記録したいと思うんです。そうしたものをカーセムアウラージの家族というのを感じさせてくれるものがあるんですよね。

 2021年の4月に取材に行った時撮ったんですけども、ちょうどコロナ禍で、トルコもコロナの流行がものすごくてロックダウンが行われてたんですね。で、ちょうど土日はロックダウンで人の家に行くことができない、そうしたその人が来たりしない期間を利用して、壁塗りを家族がしてたんです。で、やっぱりこれこそがこう何ていうか、家族の絆の中で生活をこう家族として深めていく、そういう時間であるように思われたんですよね。一家総出で片足をなくしてしまったお母さんも義足をつけて、またお父さんのカーセムも動かない左手をかばいながら、手が届かない所は息子がこう塗ってくれたり。また、当時生まれたばかりの赤ちゃんを長女のアイーシャちゃんがあやしたりしながら、家族がそれぞれの役割を持ち寄って、快適な暮らしのために壁塗りをしてたんです。
 そうした姿、ほんとにささやかな光景ではあるんだけど、やっぱり彼らがこう前に向かって生きようとしてる、そういう姿であるように感じられたんですよね。

 

ナ:八王子の小松さんの家を訪ねました。シリアで暮らすことができなくなったラドワンさんは、2013年、結婚を機に日本にやって来ました。彼もまた新たな土地で生きることを選んだのです。
 9年の間に2人には家族ができました。長男のサーメルくん、次男のサラームくん。
 この日は、近所で暮らす親戚のムハンマドさんが遊びに来ていました。彼もシリアを離れざるをえなかった1人です。
 ラドワンさんにとって、縁もゆかりもない日本で暮らすのは、苦労の連続だったといいます。

 

小:夫は日本に来て2年ほどは引きこもりになり、ノイローゼ状態が続きましたね。やはりシリアと日本の人生の価値の違い。それから孤独感ですね、シリアでは大家族で暮らして、毎日友人とも顔を合わせていた、深いコミュニティの絆に生きていた。そうしたものが全くない状態で、やっぱり孤独感にかなり苦しんだようですね。
 仕事は働けるようになってからは日本の会社を転々としまして、結局20社ぐらいやってほとんどもう続かずすぐやめていった形でしたね。で、ある時は品川の方まで毎朝始発に乗って通って、内装工の仕事をやった時期もあったんですけど、結局始発で行って終電で帰ってくるような生活で、それを続けているうちにもうすっかり元気がなくなってしまって。「内戦下のシリアで政府軍にいた頃の方がまだよかった」と「この日本の生活は戦争そのものだ」とそうした話をしてました。
 当初はいかに日本人的な暮らしができるか、日本社会に馴染んで、日本の会社で働けるかというのを私も彼も意識してたんですが、段々とどうやらそれは無理らしいということが分かってきたんですね。
 そして、じゃあどうすればいいのかと考えた時に出会ったのが、今私達が住んでる東京都八王子市のモスクのコミュニティだったんです。モスクはイスラムの祈りの場であり、イスラムコミュニティの核となる施設で、そこに行けば同じルーツを持った人々がいて、そしてみんな同じような経験をしてきてたんですよね。夫と同じように日本に来て苦労していた、そうした人達と出会ったことで彼は段々精神的に安定していったんですよね。
 結局、いかに日本社会に慣れるかよりも同じルーツの人達といかに出会って、いかにその自分が感じる苦しみを共有できるか、それが大きかったようなんですよね。
 よく結婚当初は喧嘩しまして、「あなた何もしてないじゃない」って私も言ってたんですけど、子供が生まれてからは家事育児もノータッチだし、収入をたくさん稼ぐわけでもないので、かなり衝突もして夫にいろんなことを私も求めようとしたんですけど、でも気が付けば、それは日本人的な価値観なんだということも思ったんですよね。
 やっぱり彼はシリアというルーツで生まれて育って、日本に来たとしても彼のルーツというのを書き換えることはやっぱりできないと思うんですよね。彼にとって大切なのはやっぱりその、経済的価値とかキャリアじゃなくて、いかに時間と心の余裕を大切に生きるかなんですよ。ラーハを実行しているんだなということが分かってきたんですよね。それがやっぱり彼らしい在り方なんだということを段々私も理解しましたね。
 彼が大切にしてるものを私もリスペクトしたうえで一緒にいられたらいいなと思います。ですので彼には家事育児を負担してもらうとかたくさん収入を得るとかそういったことではなくて、彼がシリア人としてできることをできる範囲で一緒にできたらいいなと、私もゆったり考えてます。

 

亀:ラドワンさんとの間に生まれたお子さんをサーメルと名付けましたよね、それはなぜですか?

 

小:2012年に民主化運動に参加して夫のお兄さんのサーメルが逮捕されて、その後行方不明になりました。夫の家族はみんなサーメルが生きていて、いつか帰ってくるというのを信じてるんですが、その思いを込めて長男が生まれる時に、夫がサーメルと付けたいということでサーメルと名付けました。
 サーメルというのはアラビア語で「夜の中の光」という意味なんです。シリアがいつか平和になりますようにという祈り、そして兄のサーメルがきっと生きてますようにという希望、それを込めて名付けた名前です。
 次男の名前はサラームです。サラームは「平和」という意味なんです、シリアの平和を祈って名付けた名前です。
 サーメルもサラームも2人の名前の由来は平和なんです。いつか子供達が成長して大きくなった時にシリアの状況が今よりもずっと安定して、そしてこう、かつてのシリアがそうだったように人々の笑顔が絶えない、そうした土地であればいいなと思います。
 今年の5月で世界の難民数が1億人を超えて、今地球上の80人に1人が難民になってますよね。そういう時代だからこそ、難民となった人々がどういった苦労の中で生きて、何を求めてるのか、そうしたその難民の抱えているものを理解することでこの時代についても考えていけるのかなと。そうしたきっかけを私は写真活動によって作っていけたらいいなって思います。

 

ナ:難民となった人々の生きる姿を見つめたい。小松さんは毎年のように現地に通い、撮影を続けています。
 旅には必ず2人の子供を連れていきます。

 

小:なぜ子供を連れて行くのかというと、母親として子供を見なければいけないという理由もあるんですけども、やはり子供達はシリアというルーツを受け継いでる子供達なので、今シリアという国に帰れない分、シリア難民との交流を通して自分達のルーツを感じ取ってほしい、そういう思いがあるんです。
 やがてやっぱり子供も大きくなって、私の取材についてこなくなる時が来ると思うんですが、そうした時はやはりこう思い返してほしいなと思いますね。彼らの財産になっていけばいいなと思います。
 私はシリアの人々がやっぱり内戦前にすごく豊かで、満たされた暮らしをしてきたっていうのを見てきたから、またいつか時間を超えてそこに戻っていくんだろうなっていうのを願ってるし、そう信じてるんですね。その過程をやっぱり見つめたいし、それを撮って表現したいなと思うんです。

 

人間の土地へ

オリーブの丘へ続くシリアの小道で: ふるさとを失った難民たちの日々